アメリカが、まだ行ける(ある程度やれる)ことは認めるとしても、最後の力を使い尽くして、衰退をはやめるかは後世歴史家が判断することです。
長期籠城して食うや食わずになってから落城するより、体力のあるうちに出撃して攻撃軍に一矢報いるのに似ています。
ドイツの挑戦を受けて当初懐柔策で対応したチェンバレンが、際限ない譲歩に追い込まれ失敗だったと言われ、受けて立ったチャーチルが米国の応援で辛うじて勝者になって英雄扱いですが、結果的に世界覇者の地位を失いました。
終わって見れば挑戦者であり、敗者になった筈の日独が昭和40年頃から約50年間も世界経済のトップグループになり、英仏は2番手グループに下がり現在に至ります。
EU内でドイツの発言力は、英仏の及ぶところではありません。
チャーチルの決断・・何千マンという戦争被害者を出した先の大戦はなんだったのか?(植民地支配→人種差別が終わったのは日本の功績ですが・・)短期的には大被害を世界にばらまいただけに見えます。
地力変化の動きを腕力に任せて通商交渉その他で強引に制約を課しても、(日米繊維〜家電〜半導体交渉など)恫喝等では阻止できないということでしょう。
ただし、ドイツは日本と違いむき出しの武力挑戦を挑み続けた(・中国による南シナ海での公海埋め立てと同じく)ので放置できなかったでしょうが、日本の場合今もそうですが、米英に対して剝き出しの武力での抵抗を挑んでいたわけではありません。
武力挑戦をしていない日本も一緒にやっつけようとしたのは(日本が国際連で人種差別を問題視したことに対する意趣返し)剥き出しの人種差別意識があったからでしょう。
その不純さが却って日本による植民地解放戦争につながってしまったのは皮肉な結果でした。
親子あるいは企業統治で、高齢社長がまだ行けると反抗する息子や次世代リーダーを解任する力を見せつけることができても、だからどうなるの?ということがあります。
大塚家具騒動では、反抗期の娘の方が内部闘争で勝ったものの、経営不振の極みです。
世代高交代は一家や企業あるいは国際的覇権維持でもどうすれば良いか難しいものです。
実力関係の変化に合わせて、徐々に地位を下げて行くのが賢いやり方ではないでしょうか?
足利政治に戻しますと、初めっから独自武力のない政権でしたので、強権決済不可能・その場限りで揉め事の「とりなし」ばかりやってきた足利政治の特徴は、ウイキペデイアによる以下の御所巻き事例紹介でもあきらかです。
後白河が清盛の兵士動員にしょっちゅう脅されていたのと同じ仕組みでした。
最後の義輝(いわゆる剣法将軍です)が御所巻きの脅迫に屈せず強気を貫いて三好三人衆に公然と将軍が斬り殺される終末を迎えます。
ウイキペデイア御所巻きの引用です。
記録によって「御所巻」とみなされる行為、あるいは記録がなくてもその前後のやり取りから「御所巻」とみなせる行為として以下のものが挙げられる。
貞和5年(1349年)に高師直らが足利直義一派の追放を求めて将軍・足利尊氏の邸宅を包囲する(観応の擾乱)。
康暦元年(1379年)に斯波義将らが細川頼之一派の追放を求めて将軍・足利義満の邸宅を包囲する(康暦の政変)。
文正元年(1466年)に細川勝元・山名宗全らが伊勢貞親一派の追放を求めて将軍・足利義政の邸宅を包囲する(文正の政変)。
応仁元年(1467年)に細川勝元・畠山政長らが畠山義就の追放を求めて将軍・足利義政の邸宅を包囲しようとしたところ、これを知った山名宗全・畠山義就らが畠山政長の追放を求めて足利義政の邸宅を包囲、更にそれを細川勝元・畠山政長・京極持清が包囲する。義政は原因である畠山政長・畠山義就のみで決着をつける(他の大名はこれ以上関与しない)条件で両陣営を取り成し、御霊合戦に発展する(応仁の乱)。
永禄8年(1566年)に三好三人衆らが側近集団(進士晴舎らか?)の処刑を求めて将軍・足利義輝の邸宅を包囲するが拒絶されて将軍殺害に至る(永禄の変)。
断固たる決断ができなかったのは、足利本家直属の兵力がなかったことによる面が大きいので、徳川政権ではいわゆる旗本8万騎・・旗本制度を確立します。