近代法理の変容8(社会防衛と人権擁護2)

浅野内匠頭の殿中での刃傷行為が仮に乱心した結果とされていても、それは故意にルール破った=幕府の掟破りをしたのではない・・その結果、お家取りつぶしを免れる可能性があると言うだけで、個人責任を全く取らないことまでは予定されていません。
この点は私の推測ですので、タマタマ自宅にある牧英正・藤原明久編著「日本法制史」227pを見てみると、公事方御定書では乱心の場合も殺人は死刑が原則ですが、被害者の宥免願いが考慮され(今でいう示談解決)、また連座・縁坐責任が免除されると書いてあります。
浅野内匠頭でいえば、犯人である彼自身が処刑(切腹を命じ)されても連座・縁坐・・累が及ばない可能性があったと言うことです。
意思能力のないものは責任能力がないから犯罪不成立と言う観念的なルール・・西欧で半可通的に発達した近代刑法の「理念」に従うと行為者も誰も責任を取らなくて良いことになって不都合ですから、我が国の江戸時代に成立していた刑事法制の方が合理的でした。
明治以降西欧の近代?法原理を導入した結果、俗にいう気違い・狂人・意思能力のない場合、すべて無罪放免→誰も責任を取らないで放置して来たのですが、これでは社会の安全が保てません。
政治責任者は相手・原因者が、悪意でやったか・気違いだったかは別として兎も角、(意思に関係のない天災であれ何であれ、)一定の被害から社会を守る必要があります。
為政者にとって、意思に基づくか天災によるかに関わらず結果としての国民の安全確保が最重要課題です。
マスコミ・文化人は、西洋伝来の意思主義にこだわるから、天災が起きてもこれに今後どのように対応するかの議論よりは、何でも人災に結びつけ・責任者探しに走りたがります。
個人責任主義の思想に毒されているので、何でも誰か個人の責任にしないと前に進まないと思っているのです。
日本政府・民族の分裂弱体化を狙うアメリカの置き土産に合致し、その後を狙う中韓両国の思惑に合致するからでしょう。
近代法の仕組みも同じで、何かあると無理に意思責任主義にこじつけるために雇用主や上司の監督責任にしていますが、(未成年者の起こした不法行為事件について親の責任を問うために、判例も親の監督責任を(擬制)認定していますが、実はその基準は恣意的です・・夜遊びを知らなかったと言っては親の監督責任を問い、知っていて何度も注意しても聞かないので困っていたと言うと、知っていながら注意するばかりでそれ以上何もしないで放置していた責任を問うなど、不良息子が外で何かした場合、親が結果的になんやかやと責任を問われる印象です。
責任感のある親の方が、こんな息子では知らない都会に追い出すと(そこで何をしても離れたところにいる親には責任がなく)やって行けなくなって世間に迷惑をかけるのではないかと心配して手元に置くと、却って監督責任を問われてしまうしくみです。
秋葉原事件で言えばもしも親と同居していれば、親は大変な社会非難を受けたでしょう・・どちらが良いか分りませんが、この大きな違いは個人の意思責任に還元して監督責任と言うフィクションを用いているところによると思われます。
こんな無茶苦茶なこじつけ裁判結果・・兎も角親に責任を問う結果になっても親が不服を言わないのは、監督責任と言う意思主義以前に「子供の行為は、親が責任を取るべき」と言う国民精神・・意思責任ではないと言う暗黙の合意があるからです。
交通事故があると、運転手のハンドル操作のミスや子供の飛び出しに気づくのが遅かったことに会社・経営者がどう言う監督責任があるか意味不明です・・。
裁判では、充分な教育が足りなかったと言うフィクションや、・・飲酒運転事件では、運転開始時のチェック体制が緩かったとか・・何でも責任を負わせる理由は付けられます。
このように何でも個人意思に責任を求める考え方や論理が、素朴な国民感情に合致していない・・あちこちで無理が来ています。
西洋近代の誤った個人の意思責任論にこだわる結果、交通事故が起きたり子供がいじめっ子になったりすると会社や親の監督責任と言う図式を作り上げてフィクション化しているのですが、国民はこのフィクション自体を納得して受入れているのではなく、古来からの団体責任思想を受入れているので、その基準をはみ出していない限り不満を言わない・・別の日本の法理で納得していることになります。

マスコミの情報操作8とネット発達1

日本のマスコミ界は何かあると如何にして日本を不利な状況に追い込むかに熱を上げている状況が続いています・・。
イスラム国?テロが起きると、日本国民の被害を待ってましたとばかりに安倍総理の軍国主義化とどう言う関係があるか不明ですが兎も角軍国主義化が原因だと批判し、中東訪問をあげつらい、国論の分裂を誘おうとしました。
これではテロ組織の思うつぼですから・・マスコミによる荒唐無稽な主張の御陰で後藤氏はテロ組織や左翼との連係プレーのために敢えて危険地帯へ行ったのかとネット上ではあらぬ疑いをかけられて迷惑を受けたと思われます・・。
マスコミの日本批判・・アジアや世界で孤立すると言う判で押したような主張が成功していたのは、これまでいつも中韓や米国がその後追い発言をしてくれたのでうまく行っていましたが、今回はテロを共通の敵にする米中が応援しないことから失敗してすぐに収まりました。
米中の応援がないとすぐにポシャってしまうマスコミ界の現実・・いつもトラの威を借りて来たことが今回も分りましたが、それでも口惜しいのか「言論の自由を保障すべきだ」という擁護論が出ていますが、何時も一定方向ばかりですから批判されるのです。
日本は中国のように政府による弾圧はなく、顧客・個々の国民が判断する国ですから、正しい主張ならば米中韓の応援がないと分ると直ぐに主張を引っ込めないで維持すれば良いことです。
マスコミの政権批判報道が支持されないで収まると・・後藤さんに対するネットでの個人批判も収まりました。
角度をつける主張がはびこると、反作用として逆の角度をつける主張もはびこります。
極左が勢いを持てば、必ず極右も出て来ます。
民族を冒瀆する主張・行為が日常的になれば、民族の尊厳保持の主張が生まれて来るのは当たり前の力学です。
左翼系マスコミは世界中で右翼台頭を危険だとしょっ中大騒ぎしていますが、その前に自分たちが外国人流入促進その他根拠のない反国民主義の主張を繰り返している点を隠しています。
バルカン半島であれ現在の中東の紛争であれ、民族や宗教が混在していることが良い結果にならないことは歴史が証明しているところです。
マスコミ界は総じて、大資本の手先として?頻りに低賃金労働力の移入促進へ論陣を張っていて、これを嫌がる人に対して偏狭・右翼だと言うレッテル張りをして外国人の導入を強要しています。
強要だけしておいて外国人が不良行為をしてその被害を受ける国民が増えても大企業が知らぬ存ぜぬの状態です。
いじめっ子が嫌がる弱者に既成事実で強要していても一定時間経過で、弱者・いじめられっ子が遂に反抗するようになると「暴力は行けない」と逆批判するのと同じで、黙って我慢している国民が耐え切れなくなって、排外意見を言い出すとヘイトスピーチは卑怯だと逆に批判し始める狡さです。
在日批判が強くなったのは、韓国による不当な圧迫を受けていると思う国民が増えて来た背景・力学を無視しては理解出来ません。
集団自衛権推進→後藤さんの人質事件へ結びつける荒唐無稽なマスコミ主張に対して、左翼マスコミと後藤氏の出来レースじゃないか?と言う憶測が広がってしまったのですが、荒唐無稽な左翼・マスコミの主張が立ち消えになると後藤氏に対する個人批判がすぐに消えたのは、上記のとおり反作用の関係があるからです。

一方で、中韓等に不都合な事実がまるでマスメデイアでは報道されず独立系のネット報道によるしか、情報が入って来ないのですが、これは日本のマスコミ界が米中韓に浸透・支配されていることによるとは限りません。
2014年12月18日「国際運動の功罪1」以下に書いたように、国際マスコミ界では相互交流名目で相互に人材派遣しているので、その国に関する不利益情報に関しては派遣されている出向社員のチェックにかかっていると思われます。
当然のことながら、中国政府発表報道・・統計その他のインチキ性を書くとなれば、新華社派遣の記者が反対するので、書けない・・遠慮してしまうと言うことではないでしょうか?
韓国報道も同様です。
日本人は逆に自国不利益情報を積極的に出す役割になっているのが、上記連載に書いているようにおかしな現象ですが・・よその国では自国に不利なことを率先して報道する気風がありません。
日本人の謙虚な体質がそうさせているのか、それとも愛国心の足りない人材ばかりが就職しているからか、その辺はよく分りません。

マスコミの情報操作8と「知る権利」の矛盾3

吉田調書事件は虚偽性の問題に焦点を当てれば、・・これは朝日新聞だけの問題かもしれません。
こで重要なのは、朝日新聞が国民に伝えるために、非公開情報をルールを犯して?まで吉田調書を取得したにも拘らず、この情報を国民に開示しないで抱え込んだままで、噓か本当かの検証を許さない発表をしていた・・不当な権威・政治力(第4の権力?)を保とうとしていたことです。
吉田調書事件では、マスコミ界はこぞって政府による特定秘密指定が許されないと主張しながら、朝日による情報秘匿自体を全く問題にしていないことが重要です。
マスコミが政府秘密を(国民のために?)取得したときに、これを取捨選択・情報操作することが許される前提で朝日の報道が虚偽か否かだけを議論していたことになります。
マスコミも民間であって国民個々人と同じ立場だから、得た情報を取捨選択するのは勝手だと言う意見があるかも知れませんが、そう言うならば、報道の自由とか情報取得源秘匿の権利性の主張、消費税の特別扱いその他在特会批判に曝されているのと同様の各種特権主張を返上すべきです。
この後で職業選択の自由その他の自由権があることと、これらを「業」とするには相応の規制(各種業法や各種資格制限)が世界的に許容されている問題を書いて行きますが、個人が偶発的に得た情報を思いつきで何かの話題のついでに知り合い等に言うのとマスコミが「業」として計画的に大量拡散する場合と同様に考えることは出来ません。
吉田調書事件では、虚偽報道か否かばかりにマスコミが焦点を当てていますが、国民のためにと称して政府秘密を取得しておきながら、取得した情報を全面開示しないこと・・マスコミ界が取捨選択する権利があるかのような運用がマスコミ界全体で許容されて来たことが、どうなの?と言うことが「知る権利」の関係では重要であり、この点は朝日に限らず全マスコミ界共通の問題です。
ここで書いているのは、朝日が虚偽報道したか否かだけはなく、仮に虚偽でなくとも1つの事件・現象があれば、ABCD〜X等何種類かの解釈余地のある場合が大多数です。
これまでの問題の取り上げ方によれば、もしも吉田調書の報道が虚偽性がなく数種類の解釈を許す余地があってその内の1つであれば、裁量の範囲内であって社会問題にならなかったことになります。
解釈が分かれる場合だけではなく、はっきりしている事実でもマスコミが報道しない方が良いと考えれば報道しないことも許される・・でっち上げでさえなければ、取捨選択する行為が当然のように認められていたことが前提になります。
虚偽でさえなければ報道しようとしまいとどんな脚色でも許されていたのが、(第三者委員会個人意見で紹介されているように、朝日新聞だけが林彪の死亡事実を報道しなかった)これまでのマスコミ界であり、だからこそ第4の権力と言われていたのです。
こレマでのマスコミ界の慣行によれば、国民がナマの事実・資料を知るチャンスもないまま、マスコミ界だけが資料を握ってが国民を好きな方へ解釈して世論誘導していても、何らの問題がなかったことになります。
こうした身勝手な行動・・日常が行き着いた結果、誰も検証出来ないことを良いことにして、虚偽報道にまで枠をはみ出したとみるべきでしょう。
国民は原資料の公開を受けて、自分でABCDどの解釈〜あるいはXYZ等の独自解釈が正しいか判断したい・・これこそが「知る権利」の保障であり、マスコミによる好き勝手な解釈や取捨選択した結果の一方的に流される情報を「知る権利」ではありません。
マスコミや文化人が「国民の知る権利」を守れと言いながら、マスコミだけの「知る権利」にすり替えていないかをここでは問題にしています。
政府は国民の信託を受けていますが、マスコミは国民の信託を受けていません。
マスコミやマスコミから応援されている文化人?がこぞって、政府が秘密指定するのは許さない・・マスコミは「全てを知る権利がある」と言いながら、マスコミが得た情報について取捨選択して公開しないことを前提にするのでは、国民の信託を全く受けていないマスコミが、政府に代わって情報操作権があると言う主張をしていることになります。
これでは民主主義の原理に反していませんか?
「マスコミの知る権利」ではなく「国民の知る権利」を主張する以上は、入手した情報全てそのまま・・加工しないで且つ(政治的思惑で発表時期をずらさずに)即時に公開すべきです。
国民の信託を受けている政府には取捨選択権がないが、マスコミには取捨選択権があるとするならば、その根拠を明らかにすべきでしょう。
国家交渉に臨むにあたっての事前の内部決断等の機密を、どの段階で国民公開=交渉相手に筒抜けになってしまって良いかは、交渉関係者の判断の方が合理的ですが、(まして政府は国民の信託を受けています)信託を受けていないマスコミの方が国益に関してより合理的判断が出来ると言うならば根拠を示すべきでしょう。
「国民には公開しないがマスコミだけ知る権利がある」と言うのでは、国民が知らされない機密情報をNHKや朝日新聞等に駐在していると言われる中韓等の駐在員、またはそのシンパに先に知らせる権利を保障するようなことになりませんか?

第三者委員会の役割8(個別意見3)

第三者委員会は国民の本来の期待(昨日書いたように合理的期待と言えないかも知れませんが・・)をはぐらかすための役割を見事に果たした・・国民の期待に反して社内手続を延々と記載していて筋違いの検証をしていたに過ぎませんから、(低レベル?)フラストレーション解消に殆ど役立っていません。
公式見解だけでは、このフラストレーションが収まらないのが分っていて、今回は昨日紹介したように異例の委員個人の補足意見発表があったのが、新機軸と言え・ある程度評価出来ます。
こんな形式調査とりまとめでは国民が納得しないと言う強い個人意見があって、委員会見解読者を冷静合理的国民を前提とする法律家としては、これ以上踏み込んだ意見は書けないので、「どうしても・・」と言うならば、個人意見を別に書いたらどうですかと言う流れがあったのでしょうか。
岡本委員個人意見にあるように「角度をつける」から朝日のような大失態になるのですが、そうなると「朝日の角度はどう言う角度か」と言う疑問が起きます。
角度の傾向については、北岡委員の個人意見が参考になります。
林彪事件を例に書いていますが、中国に不利なことは、(朝日の押し進める立場を主張するためには、)事実を隠蔽する(逆から言えば中国有利にするためには虚偽報道もすると姿勢と紙一重です)ことを朝日新聞が明白に正当化していることが北岡意見書で明らかにされています。
ここまで来れば、報道機関と言えるのか疑問です。
北岡委員の個人意見よりますと、元々朝日新聞は自己主張正当化のために既に取材しているので存在している事実でも否定し続けることが正しいとする社内教育をしていることになります。
社の方針に合致しないときには「あることをない」と報道することの正当化が行なわれて来たとすれば、裏返しに存在しないことでも社の方針貫徹のためには「存在する」と報道する勇み足に繋がるのは紙一重・・暗黙のうちの奨励しているようなものです。
委員会見解では吉田調書報道の虚偽性が分った後の対応が悪かったと強調していて何故虚偽意見に(裏付け取材しないで)あっさり乗ったかを書いていませんが、委員会の事実認定経過だけを見ても、朝日の社内対応は「国民に如何に対応するか、どの程度で誤摩化すことが可能か」の対処方針の検討に努力して来たことばかりが伝わって来ますが、「真実を追究しよう」とする姿勢が殆ど伝わって来ません。
原発吉田調書事件では、産経が入手するまで(どうせ非公開だから、誰も具体的反論が出来ないだろうと言う読みで?)社内では誰も調書自体を読もうともせずにいたことを、2015-1-6「マスコミの情報操作6(「報道と人権委員会」朝日新聞吉田調書1)」に書きました。
報道の使命は権力に屈せずに真実を報道するところにあって、そのためにこそ報道の自由が尊重されるのですが、朝日新聞は、真実報道の使命を捨て置いて真実よりは自己主張=「角度」を貫徹するためにどう利用するかの関心・・政治団体同様の役割になっている・・報道の自由と言う名で権利濫用しているような印象です。
朝日新聞の検証委員の岡本氏の個人意見で明らかにされた「角度をつける」社風・体質こそ恐るべしです。
「角度」万能になると、恣意的虚偽・誇大報道の連続発生は当然の帰結であり、たまたま国益に大きく絡んだ結果国民の反発によって裏付け調査する人が出て来て事実誤認が判明したのですが、こう言うことが可能なのは、偶然判明した大事件だけです。
国民的関心を集めない雑多な報道では、やらせに類する虚偽報道体質・・この周辺の虚偽とまで言えないまでも、どちらでも言えることは出来るだけ角度をつけて一定方向への誘導する目的報道が蔓延していると見るべきでしょう。
これがマスコミによる情報操作の危険性です。
元々「角度をつける」特定方向に向けた報道をしたい意欲が先にあったので、(でっち上げとは知らなかったとしても)十分な裏付け取材する必要もないし、(裏付け取材すると虚偽性が分りそうなので、敢えてしなかった?)社内で多角的検討もしないで待ってましたとばかりに、飛びついたのだろうと穿った見方をする人が多くなります。
「角度」はどのようにして決まって行ったかこそ、検証するべき重要テーマだったのではないでしょうか?
慰安婦報道や吉田調書事件で世論が知りたがっているのは、植村氏など特定個人に責任があるかどうかではありません。
マスコミ界全体の角度付け傾向に対して、どのように国民が不満表明して良いか分らないために、目に見える個人が攻撃対象になっているに過ぎない面があります・・。
マスコミ界は個人問題に矮小化・・スケープゴート化すれば、当面の火の粉を振り払えるメリットがあります。
右翼が・・暴発してくれて刑事事件化してくれれば、暴力は許されないと言う大キャンペインで(在特会で言えばヘイトスピーチ批判にすり替えた批判が盛んです)世論批判を逆転させられるので、それで問題収束が図れると期待していたのでしょうが、意外に暴発しない・・右翼と言っても跳ねっ返りは少なくなりましたので待ち切れなくなって、植村記者からの民事訴訟提起・大々的記者会見となったと思われます。
いずれにせよ焦点を個人攻撃にずらして行くのが、マスコミ界の戦略のように見えます。

植村記者問題8(挺身隊表記とキーセン経歴不記載)

植村記者問題に戻ります。
挺身隊問題は1月17日に書いたので、今回はキーセン経歴の不記載問題です。
キーセン学校生であった事実を伏せた点について、
この点「さほど重要な事実ではないと考え、特に触れることなく」書かなかったと植村記者は言い「見解」も肯定するかのような記載です。
(正当化まではしていませんが・・)
以下のとおり、キーセンと言えば日本でも(依頼者がしょっ中キーセン旅行の話をしていたので全く遊ばない私でも知っていましたから・・)キーセン旅行はかなり流行していて韓国で(慰安婦取材→風俗系・売春関連の)取材活動していた彼が、キーセン学校と売春婦との重大な関連を知らなかったことはあり得ないと思われます。
(知り尽くしているからこそ記事にしなかったのではないか→でっち上げの疑いが問題にされているのです)
以下ウイキペデイアからの引用です。
キーセン制度は古くからありますが、植村記者の書いた1991年ころの状況は以下のとおりです。

大韓民国の妓生・キーセン[編集]
韓国軍慰安婦[編集]
「韓国軍慰安婦」および「在韓米軍慰安婦問題」を参照
大韓民国の成立後に朝鮮戦争が勃発し、戦火で焼き尽くされた国土の復興には莫大な費用が必要になった。朴正煕大統領は、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約で獲得した資金を元に復興を進め、在韓米軍を新たな復興への資金源として見出した。当時、駐留米軍に対する風俗店は、朝鮮語でヤクザと呼ばれる非合法の犯罪組織が関与しており、莫大な金額が地下に流出していた。これを一斉に摘発し、新たな国営の娼館制度を代わりに据え、外貨獲得を行った。これが便宜的に国営妓生と呼ばれる制度であり、更なる外貨獲得を目指して、一時はベトナム戦争時など海外にも派遣された。
「キーセン観光」[編集]
日本が復興し、海外旅行が再開されると、日本からの観光客に対しても、国営妓生が使われた。1990年代まで、キーセン旅行と呼ばれるほど韓国旅行が風俗旅行と同等の意味を持っていたのはこのためである。 交通公社や近畿日本ツーリストの旅行では、羽田発二泊三日で35,000円位、「妓生」と見合いの後、夕食が終わるとホテルに「妓生」が来た。夜の街に出たり、部屋で駄弁ったりして、翌朝まで一緒にいて、30,000円を要求された。
夜の町に一人で出ると、屈強な男性(人は警察官という)が尾行してきた。おかげで、安心して横町の屋台などで、ソウルの夜が楽しめた。生きたまま刻んだタコを食べたり、直ぐにできるオーダーメイドのシャツを買ったりして、ホテルに戻ってベッドに入るとボーイがドアをノックして来た。「お一人ですか?お寂しくないですか?」ドアーの上の回転窓には、当時日本ではやったジーンズのジャンパーなど羽織った2人位の女性がボーイの後ろで、壁に体を寄せて控えている。
深夜2時過ぎまで、何度もボーイのノックがあった。ボーイにも歩合が入るようであった。業者は、「妓生」とは言わず、「姫様」と呼んでいた。」

強制連行があったかどうかが厳しく争われている最中の日本で、名乗り出た女性が、キーセン(日本で言えば売春婦?)であったか否かは、決定的重要性を持っていたことは明らかです。
素人でもキーセン旅行を知らない人がいないほどキーセンの存在が有名だった当時の日本で、慰安婦専門取材記者として?わざわざ呼び寄せられた(韓国に何回も行っているはずの)植村記者が、韓国売春業界の実態を知らない・・関連性を知らない筈がないと理解するのが普通です。
気にしなかったと言う単純な説明のままでは、信用する人は少ないのではないでしょうか?
そこから不自然過ぎる・・キーセンの経歴を記事にすると強制連行された慰安婦ではなくなってしまうので、記事から故意に割愛したと推測されているのでしょう。
慰安婦強制の有無が大問題になっている最中に、強制を連想させる方向では書かなくても良い「挺身隊」と書いたり、「連行」と書き過ぎているのに慰安婦強制の有無に不利な事情になるとうっかり書かなかったことになるのでは、1方向に偏り過ぎているので、故意的方向付け=でっち上げと評価・批判されている原因ではないでしょうか。

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