日弁連が、実態無視で「窮乏を極め」と一方的言いっ放しで自己満足している(のか、その後の変化で意見を修正したのか 修正の動き中かが、ネット検索では不明ですが)のを見ると昭和40年代に流行った全学連のタテカンの延長みたいなイメージで「一人よがり」のイメージしか一般に与えないように思えますが・・。
もしかして、全共闘世代の生き残りに憧れている人たちが、日弁連の政治関連分野の委員会を牛耳っているのかもしれません。
すべて、この世の中に格差のない関係がない・・病人と健常人の違いもなければ、20歳〜40歳〜60歳の体力差もない、身長体重の差もない、足の早い人と遅い人との差もない・・究極の無格差社会など論理的に想定不可能です。
人間に限らず動植物どころか富士山のように秀麗な山もあれば、奇岩怪石・風光明媚な場所や目を背けたくなる様な景色や、レアアースもあればただの土塊もあるなどすべてに違いがあります。
何事にもいろんな品質差があるのを認めながら、それによって生じる格差(特に人間に限って)をどうするかが人類の知恵の出しどころでしょう。
商品の場合、品質差が5%しかなくとも精密部品ではゼロと100の利用価値差が生じることが多いですが、人間の場合そうは行きません。
5%の能力差が80〜100%の差にならないように、(足が弱くて展望台に登れない人がエレベータのおかげで展望台に登れるように)機械その他で弱点を補充するのが人間社会の知恵です。
格差社会反対と唱えていれば何かの解決に資するものではないし、枕詞に格差社会という流行語さえ使えば主張が正しいかのように振るまって合理的議論が止まってしまうような形式に持ち込むのは合理的対話や対策阻害・社会の停滞を招く論法です。
革新系に多い、憲法9条を守れとか平和主義・戦争反対論も同じで「戦争反対」と叫んでいれば平和を守れるものではないし、犯罪撲滅といえば犯罪がなくなるわけでないことは、中高校生でもわかる論理ですが、いい大人になってもわからない人もいます・・・これこそが能力格差社会の象徴でしょうか?
特定秘密保護法案や共謀罪法案をきっかけに?「近代法の法理を守れ」とか、「護憲」からいつの間にか「立憲主義」という新たな観念論の宣伝が広がり始めました。
一つには「国民大多数の反対を押し切って・」という常套文句が自民党政権の総選挙連続圧勝によって成り立たなくなったので得票数多数でもレベルの低い庶民の票にすぎない、「本当のありがたい価値観を教えてやる」必要が出てきたので、憲法違反主張が出てきたのですが、肝心の「憲法改悪」の動きが出てきてその支持者が着実に増えて来たので、憲法違反とか、憲法を守れというだけではまにあわなくなってきた・・「憲法を守れ」では頼りなくなってきた(はっきり言えないが憲法改正阻止が必要になった)からでしょうか?
このような標語が法律家内でさえも特定集団以外に支持が拡がらないらしく、1〜2ヶ月ほど前に判例時報の臨時増刊号として「法曹実務にとっての近代立憲主義」という本を送ってきました。
(タダでなく定価が着いています)
立憲主義運動にピンとこない法律実務家が多いので、教育が必要というイメージです。
(私も理解の遅れているグループです)
9条を守る会等の護憲運動系の弁護士によると「最近お金にならない委員会や集会に若者が集まらない」という嘆き節が聞かれますが・思想・意見が合わない若手が多くなったからではないでしょうか?
上記本の最後の方に立憲主義の流れの素描があり、「知識階級」が立憲主義を正面から言わなかったのは、以下のような歴史的経緯によるようです。
同書262pによると
「戦後立憲民主主義という言葉が消え、それは『民主主議』で代用されてきた。・・終戦後・・民主主義は万能薬のようになった。知識階級で影響力を強めたマルクス主義が、民主集中制や前衛党独裁を許容する『民主』を好み、ブルジョア的代議制と親和的な『立憲』を嫌った面もあろう・・」
なんとなく「知識階級」にとっては、ソ連の隆盛な時には、「立憲主義」の重要性などとても言えた状況ではなかったイメージが伝わってきます。
そもそもソ連や中国では憲法がどういう扱いになっていたのでしょうか?
中国現憲法についてのウイキペデイアの解説です。
現行82年憲法においては、75年憲法や78年憲法と異なり、憲法の具体的条項の中に「共産党」という言葉は登場せず、それが登場するのは、前文においてのみである[27]。憲法は一方で、前文第13段および第5条第4項において、すべての国家機関、武装力、各政党、各社会団体、各企業・事業組織は憲法および法律を順守しなければならない、と規定している。中国の憲法学者の多くは、この「各政党」の中には当然、共産党も含まれると解釈しており、一見、共産党は憲法体制の枠内にあるかのようである[27]。しかし他方、憲法前文に、「4つの基本原則」が規定されており、しかもこの原則の中核が「共産党の指導」の堅持であるがゆえに、共産党は、実質的に超憲法的存在となっている
http://www.lec-jp.com/h-bunka/item/v4/wtr/china.htmlによれば以下の通りです。
中国の国家制度の憲法的枠組み
弁護士 森川伸吾
中国においては天賦人権思想は否定されているが、これも「独裁の客体には権利を認めない」という思想と理論的に整合するものである。
・・人民民主独裁の「民主」と対応して、中国においては「民主集中制」が採用されている。・・・中国においては「反体制活動をする自由」は否定されているため、中国でいう「民主」は「多数決原理により意思決定を行なう」点に重点がおかれたものになっている。
中国においては権力分立制は民主集中制に矛盾する制度として否定されている。このように、中国における「民主」の概念は、市民の高度の政治的自由及び権力分立制を前提とした西側諸国における「自由主義的民主」の概念とは異なるものであり、「社会主義的民主」と呼ばれている。米中間で「民主」についての議論がかみ合わないのも、このような「民主」概念の差違に一因がある。
政党制度に関し、憲法前文においては中国共産党の政治面での指導的地位が明記されている。 共産党は政治に対する支配的影響力を事実上有するが国家機関ではなく、法的な意味での国家権力を行使するものではない。なお、共産党以外にも「民主党派」と呼ばれる八つの政党があるが、これらは「共産党の指導を受け入れて共産党に協力する」という存在であり、共産党と対立するものではない。
ところで、1999年憲法改正においては「社会主義法治国家」という概念が強調された。これは「人治」から「法治」への流れを憲法上確認するものである。但し、この「法治」は,国家は国家権力が定めた法に従って統治されるという概念であり,国家権力を制限する「法」の存在を認める「法の支配」の概念とは別のものである。また、法の制定主体である国家権力は共産党により指導される存在である。したがって、この「法治」と「党治」(共産党による支配)は両立する概念である。
上記の通り憲法があっても共産党が超法規的になんでも出来る仕組みのようです・党規律委員会が警察の上位機関として好き勝手に拉致していける・これが外から見て日常的に独裁/恐怖政治が簡単に実行されているように見える根源でしょう。
ソ連もいわゆるスターリン憲法が制定されていましたが、大同小異だったのでしょうか?
このように見ていくと日本の立憲主義とは共産党万能の中国型をいうのか、西欧型をいうのかの定義から入っていく必要がありそうです。
この本で初めて知ったのですが、それまで革新系の弁護士は何かというと憲法違反を主張する総本山みたいに思っていましたが、それは政府批判の方便として利用していただけであって本気の憲法重視論ではなかったようです。
どんな立派なことを憲法に書いていてもその上位の共産党がなんでも出来るのでは、憲法がないに等しいでしょう。
テロリストがテロの現場まで行く途中、交通信号やルールを守っているのと同じです。
原水禁反対、公害反対と運動しながら、中ソの公害や原水爆実験・軍事威嚇には何も言わない二重基準が不思議だと常々思っていたのですが、自分たちが政権を取れば言論弾圧や公害垂れ流しの批判を許さない予定だったからでしょうか。