原発問再稼働(司法の限界)7

福井地裁が違憲無効と判断したのならばマスコミに大きく出ますので、マスコミ報道に一切現われてないことから違憲判断したのではないことが明らかです。
規制委の設定基準が間違っていると言う理由ではなく、規制委が自ら設定した基準に当該原発が適合していないのに、適合していると言うミス判断をしていると言う認定が次に考えられます。
仮に適合性の事実認定をした結果であれば、これは裁判所の権限ですから、裁判所の判断自体を批判するのは的外れになります。
規制委が基準・ルール造りとその当てはめ権限の双方を兼任になっているところに、社会の受け取り方・規制委が決めた基準を司法が否定する権利があるのかと言う・・「規制委の判断を尊重すべき」と言うミスリード?による世論が形成され易いのかも知れません。
ルールを作った人がそのルールに一番詳しいのですが、それと具体的当てはめ能力とは違います。
ルールを作った人が、野球やテニス等の現場・・スポーツの審判を出来る訳がないと言えば分りよいでしょうか?
芸術家・創作する人と、と目利き・評論家とは別です。
ですから、古くから(人権問題以前に、我が国でも鎌倉時代から訴訟は別建てでした)国会(法製造者)と裁判所が別になっています。
事故直後の興奮状態で厳し過ぎる基準を作ってしまい、今になってみると「無茶すぎたかな」と反省して適合条件の当てはめ認定を緩めると自分の作ったルール違反になってしまいます。
ルールが時代に合わなくなれば、ルール自体を改正するしかありません。
今回の再稼働申請が、規制委員会が作った安全基準に適合していないのに、「適合する」と言う間違った判定をしている場合文字どおり一般の行政訴訟のテーマになります。
一般に行政組織の当てはめには一定の裁量権がありますが、裁量権を逸脱した場合、司法がその誤りを是正する権限があります。
もしもその理由による仮処分決定であるならば、地裁の不適合判断自体が誤りかどうかは上級審(や本案判決)で是正されるだけのことであって、司法が介入すること自体何ら問題がないでしょう。
いろんな行政過程において行なわれる許可申請が却下された場合に、不服のある申請人が不許可処分取り消しを求められるのと裏表の関係です。
今回の福井地裁の申し立ては再稼働許可決定取り消し訴訟を本案とする仮処分であったと思われます。
そうとすれば、決定自体を冷静に受け止めて・・政治問題化して大騒ぎするのはマスコミの行き過ぎです・・普通の裁判同様に上訴するなどして行くしかないことになります。
基準の妥当性ではなく、実際の設計や工事が基準に適合しているかどうかの技術問題に過ぎないのであれば、その結果が重大であろうとも、危険が大きい場合放置できません。
国威を賭けたリニアーモーターカーであれ宇宙ロケットであれ、新幹線や飛行機でも、危険な技術ミスが見つかってそれが危険であれば打ち上げ延期・走行・飛行中止するしかないのは当然です。
危険かどうか・・基準には一定の幅があるので、許容範囲の誤差かどうかの判断は微妙になります。
劣化部品を使っていて、あるいは設計どおりの工事をしていない・・手抜き工事の危険があっても、原発だけ稼働し続けるべきだと言う国民総意はあり得ないでしょう。
本当に技術ミスがあるかどうか・・あるいは許された誤差の範囲内かどうかは人が裁く以上判断ミスがあり得るので、上訴して(本件は仮処分と報道されていますので、本案訴訟で)再判断を仰ぐことになっていますから、それによるしかありません。
高裁(または本案訴訟)の判断待ちしていると時間がかかり過ぎるのは、一般のどんな事件でも同じですから原発に限った話ではありません。
だから2審があっても一審判断(や仮処分)がそれなりに重視され、意味があるのです。

日弁連と政治7(弁護士自治破壊リスク4)

日弁連や単位会が裁判所(権力)の自己抑制を良いことにして、政府のお墨付きがあるかのように振る舞うのは間違いです。
政府権力は弁護士会に自治権があるから何をしても良いと言うのではなく、自治権がなくてもマスコミにむやみに干渉しません・家庭に法律は滅多に入りませんし・いろんな場面で謙抑的行動するのが権力と言うものです。
これを逆用して際限なく・自制心なく特定勢力に偏った政治活動をするようになって来ると、少数意見弁護士には不満がたまってきます。
少数意見だから無視すれば良いと言うスタンスで、しかも強制加入のために脱退する自由がない・・一種の独裁政権にとらわれている国民のような関係です。
独裁政治がイヤなら国民は国外逃亡すれば良いと言われても、仕事を棄てて海外逃亡すれば生活苦が待っているので、国外逃亡出来る人は滅多にいませんし、弁護士も弁護士会の政治意見とあわないならばやめたら良いだろうと言われても、イキナリ別の仕事で食って行ける人は滅多にいません。
独裁政権が専断政治を続けると、海外逃亡よりは政権打倒運動が起きて来るように、弁護士内部から弁護士自治はいらないとは言わないまでも・・分派活動が出て来るリスクがないかの心配をしています。
町内会で言えば、会長や役員が暴走すれば会費を払わなくなるでしょうが、会費の強制徴収方式はこのような暴走を阻止し難い性質を持っている点が、制度的弱点です。
2015-2-6「マスコミの役割・・情報紹介業3」で民放と違いNHKの場合、強制徴収権があるのでブレーキが利き難いと書いたのと同じ現象です。
そもそも強制徴収制度・強制加入制度が何故あるかと言えば、戦後イキナリ弁護士自治制度・・権力の干渉を許さない制度を創設しても強制加入性にしないと分裂を繰り返して組織を維持出来なくなる可能性がある・・一種の補助的制度だったと思われます。
アラブの春以降書いてきましたが、民主主義と言い、言論の自由があればうまく行くとは限らない・・新興国では国民レベル・能力に応じて民主化して行く必要があると何回も書いてきました。
チトーやリークアンユーその他大政治家があってまとまって来た国々がいくらもあるのです。
自治を守るための会費強制徴収権が、(不満な人が会費を払わない・・抵抗する権利を封じていることから・・脱退による対外的分派行動を起こせない面では、組織維持にはいいことですが・)逆に会内民主主義・一体感を阻害してしまうリスクになりかねません。
民主主義とは多数決で良いのだから多数派が何に金を使おうと勝手だと言う意見もあるでしょうが、究極の自由な意見開陳権はイザとなれば脱退の自由があってこそ保障されるものです。 
どんな組織でも、あまり脱退が簡単ですと離合集散ばかりではやって行けないので一定の絞りが必要ですが、要はどの程度の絞りが妥当かと言う問題になってきます。
(世の中の組織で・・夫婦でさえ離婚権があります・・完全否定は弁護士会くらいではないでしょうか?)
政党の場合、脱退は法的には自由としても、選挙資金上の不利を乗り越えなければならない・・(政党交付金の比重が上がっているので基準日をにらんだ年末の分裂・新党結成が普通になっています・・外に、国民の支持を受けない脱退は次の選挙で落ちてしまう洗礼が待っているので簡単には脱退・分派行動が出来ません。
この点株式会社の場合、お金目的で集まっただけの組織ですから、企業経営方針が気に入らなければ、上場企業の場合、自己保有株式を市場で売り払えば良いし、譲渡禁止会社の場合でも、会社に対して適正価格での買い取り請求を出来ます。

会社法(平成十七年七月二十六日法律第八十六号)

(反対株主の株式買取請求)
第116条 次の各号に掲げる場合には、反対株主は、株式会社に対し、自己の有する当該各号に定める株式を公正な価格で買い取ることを請求することができる。
一 その発行する全部の株式の内容として第107条第1項第1号に掲げる事項についての定めを設ける定款の変更をする場合 全部の株式
二 ある種類の株式の内容として第108条第1項第4号又は第7号に掲げる事項についての定めを設ける定款の変更をする場合 第111条第2項各号に規定する株式
三 以下省略

非政治組織と政治7(労組)

加入脱退自由の結果、組織率低下が進んでいる日教組の事例を昨日紹介しましたが、その結果、健全な組合に労働者が流れる訳ではありません。
企業別組合の場合、一般的には市場競争する相手がない・・一種の独占状態ですから、加入しない・脱退した労働者には、本来労働者の権利を守るべき労働組合の受け皿が存在しないことになってしまいます。
日教組のように加入率が2割しかない組合が企業内で権力を振るっている場合、8割の労働者には守ってくれる組合がないことになります・ここまで来れば第二組合が生まれて来れば別ですが・・。
日本人は明からさまな対立を好まないので、組合活動に参加しなかったり、加入しないと言う不参加、意思を示す程度が普通で、対立する第二組合結成まで進むことは滅多にないでしょう。
国鉄民営化時の国労や動労は別でしたが・・一般企業の場合は単に加入しないだけです。
大学自治会などは、一握りの活動家が牛耳っているのが普通ですが、第二学生自治会が生まれる訳ではなく、事実上不参加でも自治会費を学費と一緒に徴収されていると思われます。
これでは、大多数の学生が自治会運営を経験出来ないまま卒業して行くことになり、社会の損失です。
以上のように加入脱退の自由があるだけで、他の選択肢がない場合、サボったり逃げれられる消極的自由があるだけですから、組織が何をやっても良い根拠にはなりません。
その結果自由権が消極的に侵害されるだけではなく、本来守られるべき労働権その他を守ってくれる組織がないままに置かれる不利益が生じます。
個人では対等に労使交渉出来ないから、組合結成が必要とされている(・・これこそが労働分野の基本思想です)のに、肝腎の具体的労働条件に関する労使交渉してくれる組合・後ろ盾がないまま・・個人が無防備で放置されている労働者比率が上がってしまいます。
ですから(政治意見のあわない)イヤなら組合に入らなければ良いだろうと言うだけでは、本当は問題が大きいのです。
新華社の報道がイヤなら、読まなければ良いと言われても中国人は自由に読める新聞がないのと同じです。
労組の組織率低下によって、政治背景と関係のない純粋な労働条件を巡る労働者保護・・本来の労使交渉や不当な解雇を争うバックアップ組織がないことから、結果的に大多数の労働者は組織的保護(バックアップ)のない状態に置かれてきました。
組織加入率の低下は、実は組織加入者にとっても利用価値が乏しくなっていることの表面化と言えますので、組織の純粋化を図れる(意識の低い人は出て行ってくれて結構)と強がりを言っている場合ではありません。
従来型不当労働行為を基本とする地労委・中労委等の手続に始まり、訴訟的には地位保全の仮処分に始まる手続は、政治闘争を理由にする国労等大組織のバックアップによる大型事件向きではあるでしょうが、個人的な争いのバックアップに不適合を起こしています。
今になるといつ国鉄民営化されたかすら忘れてしまうほど期間が経過している(1985年ころのことです)と思いますが、国鉄民営化に伴う不当解雇訴訟は、最近漸く結果が出始めたところと思います。
以下は2015年3月29日現在のネット情報です。

「最高裁で「解雇撤回・JR復帰」判決を! 10万筆署名運動にご協力を 国鉄分割・民営化に反対し、1047名解雇撤回闘争を支援する全国運動
発行日: 2014年10月 6日 第2651号
週刊『前進』08頁(2651号03面01)(2014/10/06)

従来の団体交渉による紛争方式は個別労使紛争・・パワハラ・イジメ・保育や介護と仕事の両立に苦しむ人、その他の個人的事件処理向きシステムではありませんし、労組幹部も政治背景がない揉めごとには、慣れていないこともあって親身に応援して来なかったと思われます。

近代法理の変容7

共謀罪法案反対論者は、近代刑法の原理・法理違反と主張していることを紹介しましたが、現在は近代ではなく現在の法理に変容しつつあると書いている内に話題が横へそれていましたが、元に戻します。
2014/12/04「近代法理の変容6(故意・過失から業界標準へ)」の続きになります。
現在進行中の民法改正の方向性では、過失責任主義から行為時の標準取引基準に変容する予定になっています。
即ち意思責任主義が変容しつつあって民法もこれにあわせて改正しようとする動きになっています。
これは法律が変わることによって社会意識が変わるのではなく、社会意識変化にあわせて法も変わって行くべきことを表しています。
例えば医療事故で言えば、当時の医学水準でどうだったかが問われるのが前世紀以来普通になっていて、担当医の内心を探求して過失や故意を議論しても始まりません・・。
民法改正の動きは、こうした前世紀以来続いて来た社会変化の実態追認・・現在化のための改正でしかありません。
既存法理が社会を規定するのではなく、社会がその社会に応じた法理を生み育てて行くものです。
既存法理に当てはめて考え、固執する人は社会の変化を無視したい勢力となります。
刑法分野でも重大結果を引き起こしたのに意思責任を問えない場合でも、結果が重大な事件に限って医療観察法が制定されていることは09/08/06「保安処分13と心神喪失者等医療観察法8(入院通プログラムの重要性)」等で連載して紹介しました。
この法律によって医療とは言うものの、行為者・危険な人に対する事実上の社会隔離が進んでいます。
この医療観察法による強制医療は医療とは言うものの、重大結果に限るところが、結果責任を問うような仕組みになっていることや再犯の恐れの条項もあるので、本質的に医療と相容れないと言う批判・・、弁護士会や法学者からこの法律制定時に(・・近代刑法の確立した原理に反すると言う)厳しい批判が出ていました。
当時医療観察法は社会防衛思想・保安処分の焼き直しだと言う批判だったと思いますし、私も当時同じ懸念を持っていましたが、いま考えると社会防衛思想の行き過ぎで人権侵害になるかどうかこそが問題であって、人権侵害にさえならなければ良いのであって、その兼ね合いを考えながらの社会防衛自体は必要です。
車は危険ですが、ブレーキ等安全装置や運転の仕方次第で有用な道具になっているのと同じです。
共謀罪制定反対論・・文化人の拠りどころにする近代刑法の法理によれば、殺人事件を次々と起こしても精神疾患等で行為時に意思能力がない以上は無罪だからとして、その都度釈放・・野放しで良いのか?と言う社会の現実がありました。
犬は人間同様の能力がないから咬んでも仕方がないと言わないで、咬まないように躾したり放し飼いにしないなどの相応のルールが生まれています。
意思責任主義を近代法の基本と言う意見が多いですが、我が国では忠臣蔵で有名な浅野内匠頭による松の廊下の刃傷事件が元禄14年3月14日(1701年4月21日)ですから、フランス革命よりも約100年近く前でも、取り調べに際して「乱心致したのだな!」と助けるために問いただす場面が有名です。
吉祥寺の放火事件・・八百屋お七の場面も同じです。
ただし我が国では以前から繰り返し書いているように、庶民の実情からいろんな制度が発達して来た社会ですから、西欧のようにペルシャやローマから文字や言葉までラテン語を輸入して成り立っていた・・観念論から発達したものではありません。
昨日紹介したような社会実態を無視した観念論・反日暴動を引き起こした石原氏が悪い・・テロ行為より総理発言の方が悪いと言う・・観念論を振り回して有り難がっているのは、社会実態をみる脳力のない左翼・文化人だけではないでしょうか?

マスコミの情報操作7と「知る権利」の矛盾2

元々虚偽解釈か否かは、調書自体を公開すれば国民がそれを自分で読んで判断し、簡単に勝負がつくことです。
我々司法界では、判例を引用するときには、自己の解釈が正しいことを裏付けるために、その判例の原文を読めるように出典を明示するのが基本ルールです。
肝腎の吉田調書を公開しないで、自己解釈の正当性を主張していた朝日のやり方は、科学発表で言えば実験経過を公開しないで、自己主張が正しいと主張しているようなもの(天下の秀才を採用している筈の)でした。
国民に公開しても国民は無知蒙昧で文書の理解力がない・知らしむべからず式思想を前提とする・・自分が超越した高みにあると言う図式展開でした。
あまりの独善性・・開き直りに業を煮やした政府が公開決定して討論材料にしたに過ぎませんから、政府の調書公開決定に追い込んだのは、「怪我の功名」と言えば言えます。
「見解」が皮肉を利かして書いたのかも知れませんが、朝日の功績として賞讃するようなものではありません。
吉田調書事件については既に連載しましたので、それの蒸し返しではなく、ここでは「国民の知る権利」に関心があって既に紹介した事例を利用するのが便利なのでこれを参考にして書いています。
この虚偽性の問題が生じた結果、朝日が最後まで公開しなかった理由・・国民が知る必要があると思ってルールを破ってまで取得したにも拘らず、「何故国民に公開しなかったのか?」自分は知る権利があるが、「国民に知らしむべからず」と言うマスコミの独善性・・根源の問題性が明らかになってしまいました。
誰もまだ言っていないと思いますが、私はそう言う関心で昨日からこのコラムを書いています。
マスコミ・文化人左翼の言う政府の秘密指定は許せない・・「知る権利」があると言う主張の結果するところは、「政府には情報の取捨選択権を認めるべきではなく、(国民」とは言うものの国民はヒマがないので結果的に)マスコミが「国民の代表?として全部知る権利がある」と言う前提になります。
吉田調書事件で問題になっていたのは、虚偽か否かだけであって、取捨選択行為の是非ではありません。
取捨選択の是非だけでならば、社会問題にならずに終わっていたことになります。
政府が情報の取捨選択することが許されず全部出した場合、マスコミが取得した情報を国民に自動的に全部公開するならば、「国民の知る権利を守れ」と言う主張は一貫します。
※・・国民が全て知る権利があるかの議論とは別ですが、主張としては一貫すると言うだけでの意見です。
マスコミが情報を出す際に、虚偽以外は自由裁量でスキなように取捨選択して要約する権利・自社主張に合致しない情報を秘匿する権利・マスコミが選択した時期に選択した情報だけ国民に教えるのが正しいと言うとすれば、「マスコミが政府の取捨選択権を取り上げてマスコミが代わってこれを果たすべきだ」と言う主張とほぼ同じ効果を狙っていることになります。
マスコミの主張する「国民の知る権利」とは、マスコミだけが知る権利があって国民には取捨選択した結果だけを教えてあげると言うことになりますが、これでは政府が取捨選択して都合のいい結果を発表している役割を、自分に権限委譲しろと言っているのと同じです。
官僚機構の権威・支配力の源泉は情報を握っていることにあると言う意見が大方(支配的意見)ですが、マスコミも情報アクセスが一般国民よりも有利であって、これを自社の誘導したい方向へ自由に操作していたから第4の権力などと言われる(・・政治学者によってはこれを素晴らしいことのように書いてます・・)ようになって行ったのです。
国民から何らの信託をも受けていないマスコミが、第4でも第5でも権力を実質的に保有し、(中国歴史で言えば宦官が権力を握ったような関係です)僭称すること自体国民主権に反することだと言う自覚がないように見えます。
国民の知る権利とマスコミの知る権利をイコールにするためには、マスコミが取得した情報は一切の加工しないで即時に発信する必要があります。
マスコミの判断で取捨選択したり加工し政治的効果を狙って発表時期を操作することを許すのでは、政府が取捨選択する権限をマスコミが代わって独占する権限があると主張していることになってしまいます。
国民の信託を受けている政府が秘密にするか否かの取捨選択するのがいけない・反民主的であり、国民の信託を受けていないマスコミが取捨選択する方が何故民主的だと言えるかの説明がほしいところです。

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