第三者委員会の役割6(個別意見1)

ただし、第三者委員会の中には法律家的手堅いばかりの見解発表に飽き足らない人がいたらしく、個人意見も併記されているのでそこに法律家以外のある程度の本音が出ています。
(法律家に議論を主導してもらうのは、・・余計なことを言わないので経営者・渦中の企業には重宝な存在ですが、それでは国民の本当に知りたいことがうやむやになる・・時間稼ぎじゃないかと言う批判が起きて来るでしょう。)
以下見解中の個人意見部分抜粋です。
15 個別意見
(1) 岡本委員 記事に「角度」をつけ過ぎるな
我々の今回の検証作業に対して、朝日新聞社はまことに誠実に対応した。新しい方向へ レールが敷かれた時の朝日の実行力と効率には並々ならぬものがある。しかしレールが敷 かれていない時には、いかなる指摘を受けても自己正当化を続ける。その保守性にも並々 ならぬものがある。
吉田清治証言を使い続けた責任は重い。しかし、同様に国際的に大きなインパクトを与 えたのは、1992年1月11日の「慰安所 軍関与示す資料」と題して6本の見出しを つけたセンセーショナルなトップ記事だ。数日後の日韓首脳会談にぶつけたこの報道は、 結果としてその後の韓国側の対日非難を一挙に誘うことになった。(同記事の問題点については本報告書をお読みいただきたい)。
当委員会のヒアリングを含め、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞 いた。「事実を伝えるだけでは報道にならない、朝日新聞としての方向性をつけて、初め て見出しがつく」と。事実だけでは記事にならないという認識に驚いた。
だから、出来事には朝日新聞の方向性に沿うように「角度」がつけられて報道される。 慰安婦問題だけではない。原発、防衛・日米安保、集団的自衛権、秘密保護、増税、等々。 方向性に合わせるためにはつまみ食いも行われる。(例えば、福島第一原発吉田調書の 報道のように)。なんの問題もない事案でも、あたかも大問題であるように書かれたりも する。(例えば、私が担当した案件なので偶々記憶しているのだが、かつてインド洋に派 遣された自衛艦が外国港に寄港した際、建造した造船会社の技術者が契約どおり船の修理 に赴いた。至極あたりまえのことだ。それを、朝日は1面トップに「派遣自衛艦修理に民 間人」と白抜き見出しを打ち、「政府が、戦闘支援中の自衛隊に民間協力をさせる戦後初のケースとなった」とやった。読者はたじろぐ)。」

(2)北岡委員
現代におけるジャーナリズムの責任
今回の従軍慰安婦報道問題の発端は、まず、粗雑な事実の把握である。
吉田証言が怪しいということは、よく読めば分かることである。従軍慰安婦と挺身 隊との混同も、両者が概念として違うことは千田氏の著書においてすら明らかだし、 支度金等の額も全然違うから、ありえない間違いである。こうした初歩的な誤りを犯 し、しかもそれを長く訂正しなかった責任は大きい。
類似したケースはいわゆる「百人切り」問題である。戦争中の兵士が、勝手に行動 できるのか、「審判」のいないゲームが可能なのか、少し考えれば疑わしい話なのに、 そのまま報道され、相当広く信じられてしまった。

第二の問題は、キャンペーン体質の過剰である。新聞が正しいと信じる目的のため に、その方向で論陣をはることは、一概に否定はできない。従軍慰安婦問題を取り上 げて、国民に知らしめたことは、それなりに評価できる。
しかしそれも程度問題である。1971年9月に中国の林彪副主席が失脚したとき、 世界のメディアの中で朝日新聞だけが林彪健在と言い続けた。そして半年後に、林彪 の失脚は分かっていたが、日中関係の改善に有害なので報道しなかったと述べた。同 様のおごりと独善が、今回の従軍慰安婦報道についても感じられる。
第三に指摘したいのは、物事をもっぱら政府対人民の図式で考える傾向である。
権力に対する監視は、メディアのもっとも重大な役割である。しかし権力は制約すればよいというものではない。権力の行使をがんじがらめにすれば、緊急事態におけ る対応も不十分となる恐れがある。また政府をあまり批判すると、対立する他国を利 して、国民が不利益を受けることもある。権力批判だけでは困るのである
第四に指摘したいのは、過剰な正義の追求である。
従軍慰安婦問題において、朝日は「被害者に寄り添う」ことを重視してきた。これ は重要な点である。
しかし、被害者によりそい、徹底的な正義の実現を主張するだけでは不十分である。 現在の日本国民の大部分は戦後生まれであって、こうした問題に直接責任を負うべき 立場にない。日本に対する過剰な批判は、彼らの反発を招くことになる。またこうし た言説は韓国の期待を膨らませた。その結果、韓国大統領が、世界の首脳に対し、日 本の非を鳴らすという、異例の行動に出ることとなった。それは、さらに日本の一部 の反発を招き、反韓、嫌韓の言説の横行を招いた。こうした偏狭なナショナリズムの 台頭も、日韓の和解の困難化も、春秋の筆法を以てすれば、朝日新聞の慰安婦報道が もたらしたものである。
かつてベルサイユ条約の過酷な対独賠償要求がナチスの台頭をもたらしたように、 過剰な正義の追求は、ときに危険である。正義の追求と同時に、日韓の歴史和解を視 野にいれたバランスのとれたアプローチが必要だった。
第五に、現実的な解決策の提示の欠如である。 アジア女性基金に対して当初取られた否定的な態度は残念なものだった。 日韓基本条約によって、個人補償については解決済みであり、それ以後の個人補償については、韓国政府が対応すべきだというのが日本の立場である。この立場と、人道的見地を両立させるために、政府はアジア女性基金という民間と政府が共同で取り 組む形をとり、国家責任ならぬ公的責任を取ることとしたのである。公的責任という のは、必ずしも悪い方式ではない。ドイツのシーメンス等もこの形であった。これを 否定したことは、韓国の強硬派を勇気づけ、ますます和解を困難にしたのである。
なお、国家補償が最善であるという立場には、疑問もある。すべてを国家の責任に すると、その間で違法行為に従事し、不当な利益を得ていたブローカー等の責任が見 逃されることにつながらないだろうか。
第六は論点のすりかえである。
今年8月5日の報道で朝日新聞は強制連行の証拠はなかったが、慰安婦に対する強制はあり、彼女たちが悲惨な目にあったことが本質だと述べた。それには同感である。 しかし、第1次安倍内閣当時、安倍首相が強制連行はなかったと言う立場を示したとき、これを強く批判したのは朝日新聞ではなかったか。今の立場と、安倍首相が首相として公的に発言した立場、そして河野談話継承という立場とどこが違うのだろうか。
朝日新聞にはこの種の言い抜け、すり替えが少なくない。 たとえば憲法9条について、改正論者の多数は、憲法9条1項の戦争放棄は支持するが、2項の戦力不保持は改正すべきだという人である。朝日新聞は、繰り返しこ うした人々に、「戦争を放棄した9条を改正しようとしている」とレッテルを張って きた。9条2項改正論を、9条全体の改正論と誇張してきたのである。要するに、自らの主張のために、他者の言説を歪曲ないし貶める傾向である。 安倍内閣の安全保障政策についても、世界中で戦争ができるようにする、という趣旨のレッテルが張られている。人命の価値がきわめて高く、財政状況がきわめて悪い 日本で、戦争を好んでするリーダーがいるはずがない。これも他を歪曲する例である。 これらは、議論の仕方として不適切であるのみならず、国論を分裂させ、中道でコンセンサスが出来ることを阻む結果になっていないだろうか。」

植村記者問題6(組織内行動の責任)

第三者委員会見解に引用されている植村記者の書いた記事(記事そのものコピーは資料に出ていません)内容は以下のとおりです。
※要約すると不正確となるので、昨日から煩をかえりみずに「見解」記載のまま引用しています。
以下にあるように見解指摘事実だけみても、「でっち上げ・ねつ造」と評価されるかどうか別としても一定方向へ向けた意図的な不正確記事を書いた印象を受けます。
即ち、単なるミスとしては、強制性を印象づける効果を狙った方向への不正確記載(強制を印象づける方向へは「連行」と書き過ぎていて、連行に矛盾するキーセン関係は書き漏れ?ている・その他問題になっている挺身隊記載など)ですから、意図的→ねつ造と言う主張も成り立つような気がします。
名誉毀損になるかどうかは表現次第ですから、書き過ぎになるかどうかは損害賠償請求された著者がどのような表現をしていたかにもよるでしょうが、「見解」の認定事実によると読者を欺く意図がかなり濃厚な印象をうけます。
記者がソウルから送信したものを本社で文字構成したとすれば、(彼の送信文章全文から編集部で取捨選択して記事にしているとすれば・・)裁判では記者自身がこの記事全部に関与していたか構成・完成まで関与していたかについても、問題になるでしょう。
最後まで関与していなくとも署名入記事にした以上は、彼の責任ではないかと言う別の議論もあり得ます。
以下は第三者委員会「見解」(植村記者関係)の一部引用です。

イ 吉田証言に関する記事以外の状況
a 名乗り出た慰安婦に関する1991年8月11日付記事
1991年8月11日、朝刊(大阪本社版)社会面(27面)に「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」、「思い出すと今も涙」、「韓国の団体聞き取り」 の見出しのもとに、「従軍慰安婦だった女性の録音テープを聞く尹代表(右)ら= 10日、ソウル市で植村隆写す」と説明された写真の付された記事が掲載された。
同記事は、当時大阪社会部に所属していた植村のソウル市からの署名入り記事 で、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を 強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していること がわかり」、同女性の聞き取り作業を行った挺対協が録音したテープを朝日新聞記者に公開したとして、「女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた」などその内容を紹介するものである。植村は、上記(1) イのとおり、韓国での取材経験から、朝鮮で女性が慰安婦とされた経緯について、 「強制連行」されたという話は聞いていなかった。

b 名乗り出た慰安婦に関する1991年12月25日付記事 金氏を含む元慰安婦、元軍人・軍属やその遺族らは、1991年12月6日、日本政府に対し、戦後補償を求める訴訟を東京地裁に提起した。 1991年12月25日、朝刊(5面)に「かえらぬ青春 恨の半生」、「日本政府を提訴した元従軍慰安婦・金学順さん」、「ウソは許せない 私が生き証人」、 「関与の事実を認めて謝罪を」の見出しのもとに、「弁護士に対して、慰安所での 体験を語る金学順さん=11月25日、ソウル市内で」との説明のある金氏の写真が付された記事が掲載された。
植村は、金氏への面会取材は、写真が撮影された1991年11月25日の一 度だけであり、その際の弁護団による聞き取りの要旨にも金氏がキーセン学校に 通っていたことについては記載がなかったが、上記記事作成時点においては、訴状に記載があったことなどから了知していたという。しかし、植村は、キーセン 学校へ通ったからといって必ず慰安婦になるとは限らず、キーセン学校に通っていたことはさほど重要な事実ではないと考え、特に触れることなく聞き取りの内容をそのまま記載したと言う。」

「見解」要約文書では、以下のとおり記載されています。

「植村は、記事で取り上げる女性は「だまされた」事例であることをテープ聴取により明確に理解していたにもかかわらず、同記事の前文に、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場 に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人が ソウル市内に生存していることがわかり」と記載した。これは、事実は本人が女子挺身隊 の名で連行されたのではないのに、「女子挺身隊」と「連行」という言葉の持つ一般的なイ メージから、強制的に連行されたという印象を与えるもので、安易かつ不用意な記載であ り、読者の誤解を招くものである。」
以下は見解全文からの引用です。

「なお、1991年8月15日付ハンギョレ新聞等は、金氏がキーセン学校の出身であり、 養父に中国まで連れて行かれたことを報道していた。1991年12月25日付記事が掲 載されたのは、既に元慰安婦などによる日本政府を相手取った訴訟が提起されていた時期 であり、その訴状には本人がキーセン学校に通っていたことが記載されていたことから、 植村も上記記事作成時点までにこれを知っていた。キーセン学校に通っていたからといっ て、金氏が自ら進んで慰安婦になったとか、だまされて慰安婦にされても仕方がなかった とはいえないが、この記事が慰安婦となった経緯に触れていながらキーセン学校のことを 書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。」

上記によれば、「『女子挺(てい)身隊』の名で戦場に連行され、・・・」とあるように「連行」と言う文言が使われているうえに、昨日紹介した一連の記事の日付と比較して頂ければ分るように、植村記事の掲載された1991年夏から年末にかけては朝日新聞がまだ吉田証言(軍による慰安婦狩り)が正しい前提で、政府による謝罪を繰り返し求めている最中だったことが分ります。
植村記事は、吉田証言が事実であるかのように大々的に朝日が報道していた最中に(これを補強する効果を狙った)現地報道記事だったことになります。
詐欺や恐喝グループで言えば、先行者が強迫や欺罔行為をした後でこの情を知っている紳士然とした人が次にやって来て先行者による強迫や欺罔によって畏怖や誤信させられた状態を利用して取引をしても全体として、恐喝や詐欺になるのが一般的法解釈です。
植村記者は朝日の社員ですから、一連の演出効果を期待する作為の一員に入っているとみるのが普通であって彼が「自分は関係ない」とは言えないでしょう。

国際運動の功罪2

アメリカ人としては内情がよく分らないので、アジア事情は日本の代表的新聞である朝日の派遣した人材に委ねていただけでしょうが、トンだところで知らぬ間に日本の怒りを買っていることになっています。
中国その他の国で自国派遣者が国際機関で要職を占めれば、陰に陽に自国有利に計らうのが普通ですから、国際機関での要職獲得競争が行なわれています。
日本のNHKや朝日その他マスコミ界に中国韓国系の人材が深く食い込んでいると言われるのはこの目的によるものです。
本来ならば世界のオピニオンリーダー的なニューヨークタイムズのアジア問題主幹・主筆の地位を日本人が獲得すれば出身国にとって有利なことですが、日本の場合コレが逆に作用している感じです。
国際組織が特定の国に関して批判的意見を書くには、余程の裏付け資料を用意する外に政治的配慮・勇気がいりますが、対象国の利益代表の派遣官僚・派遣社員が自国や自社に不利なことに承諾してくれれば同意のもとに書くので気が楽ですし、まして自分で「自国批判ならおスキなようにどうぞ」とフリーパスなるのが普通です。
国連やニューヨークタイムズに限らず、どんな組織でも、自国や出身会社・派閥に不利な意見を言わない前提ですから、(官僚機構も出向制度があるのは出身省の省益を守るためにあると言えますし、企業が買収先に役員派遣するのは自社の意向反映のためです)日本関係は日本からの出向者の意見で書いておけば問題が起きないと思ってフリーパスになっているのが普通です。
これを良いことにして国内世論誘導のために、国際機関でこう言う批判がある・国際孤立すると派遣している企業や機関・組織が、自作自演をして来たのが、ここ数十年の官庁やマスコミ界でした。
日本の国力を背景に折角国際進出できるようになった各種人材が、(日本に善かれと思ってやっているのでしょうが、外見上)反日言動?精出しているように見えます。
彼らの行動は、・・我田引水しない公平な人材として日本人に対する長期的評価に繋がる良い面もありますが・・結果的に自国批判に精出す不思議な国の印象を与えているでしょう。
とは言え、彼らが長期的評価信頼を得ることを目的にして日本批判に精出していると言うよりは、自説補強のためならば、日本に対する信用毀損など一切気にしないでように見えます。
日弁連の委員会ニュース(12月1日号)を見ていると、国連人権委員会に出張して在特会の朝鮮人学校に対する街宣活動のビデオを持参して上映するなど生々しい報告をしてヘイトスピーチ問題を精力的に訴えた結果、国連人権委員の強い関心を呼び大成功?したかのような報告が掲載されています。
その他いろんな面で自国のマイナス点を強調して国際機関から勧告や厳しい質問を受けるように努力したことが手柄?として報告されるようです。
このように我が国の弱点・マイナス点を海外発信して日本批判の運動に精出す事例は枚挙に遑がないほどですが、ここ数十年来どころか戦後ずっと、特定立場の主張を国内で有利にするために国際機関を利用する方法がはやっていました。
我々素人は、国際機関でこう言う批判を受けていると言われると「そうか・・国際的にも批判されているのか・・。」と素朴に思ってしまうところがあります。
しかし、自説の正当性をきちんと国内で主張せずに、国際機関の威を借りる・・・トラの威を借るような意見は、それ自体が眉唾・おかしいと思うべきです。
正しいことは諄々と説けば黙って聞いてもらえる社会ですし、大声で泣き叫ぶ人は、自分に理がないこと知っている場合が殆どです。
財務省で言えば、増税路線の自説の正しくないことを自覚しているからこそ、箔付けが必要になって内外の経済学者に自説にあう意見をマスコミ寄稿させたり、IMFに派遣した官僚にIMFの名で対日意見を言わせて世論操作し、増税延期が決まると格付け会社に格下げさせたりしたくなるのでしょう。
しかしマスコミに登場する識者の意見は、権力のある裸の王様に従っているだけであることが、財務省の威力の及ばない市場が増税延期→格下げに対して全く反応しないどころか、逆反応していることからその虚構性が明らかになっています。
社会的意見は経済のようにはっきりした市場競争がないので、増税の可否のように直ぐに結果が出ないので、国際ブランドを利用すると大きな効き目があります。
国連その他外国で積極的に自説を展開した自作自演の結果を持って、国際機関でこのような厳しい意見があると言ってこれを錦の御旗にして主張する論者は、自分の意見が正しくない・・日本で受入れられていない意見だと自覚していることになるのでしょうか?
日本のマスコミは自国批判を海外で積極的に行なう希有な存在ですから、このマスコミさえ抱き込めば日本が悪逆非道の国と言う国際世論造りが簡単になります。
中韓にとっては自国が直接日本批判を発信しても信用され難いでしょうが、日本のマスコミや日本の人権団体に如何に日本が酷い国かを発信してもらった方が簡単に信用される利点があるので、対日非難を展開するには、日本マスコミ界や言論界への浸透にお金を使うのが効率的です。
実際に我が国政治家が外国で慰安婦問題等に反論しても「でも、お国の新聞やマスコミも認めているのではないですか?」と反論されてしまう例が多いと言います。

証拠法則と科学技術8(共謀罪の客観化)

客観証拠の重要性について書いている内に話題がそれましたが、共謀罪に戻ります。
内心の意思は外形行為が伴わない限り誰も分らない・・今の科学技術を持ってしても分らない点は同じですから、共謀罪においても内心の意思を処罰するのではなく、内心の意思が外部に出たときで、しかも第三者と共謀したときだけを犯罪化するものです。
即ち自分の意思を外部表示するだけではなく、さらに「共謀」と言う2者以上の人の間での意思の発露・・・条約文言で言えば「相談する」→「表示行為」を求めることにしています。
共謀するには内心の意思だけではなく、必ず外部に現れた意思「表示行為」が必須です。
共謀罪は、共謀と言う単語から内心の意思を処罰するかのような印象を受けますが、表示行為を実行行為としたのですから、内心の意思プラス外形行為を成立要件とする近代刑法の仕組み・・証拠法則は残されています。
共謀の実行行為が要請されている点では近代法の原理の枠内ですが、殺人や強盗の実行行為ではなく準備段階を越えて更にその前段階の共謀と言う意思表示・内心の意思に最近接している行為を実行行為にしている点が人権重視派の危険感を呼んでいるのでしょう。
近代法成立の頃には録音装置もメールもなく、防犯写真もないので、意思表示したか、しないかについて客観証拠がなく、関係者の証言だけですから(呪いの札が出たとか・・)これを根拠に刑事処罰するのは危険でした。
噓でも「恐れながら・・」と誰かが訴え出るとそれを証拠に陰謀(謀反)罪で政敵を処罰出来たのが古代からの歴史経験です。
そこで近代法では、実行行為に着手することが犯罪構成要件になったことを紹介してきましたが、ある行為の直前直後の周辺的行動記録がアバウトな時代には、意思を認定するべき前後の客観証拠が決定的に不足していました。
犯罪者は、暗闇とか人気のないところで犯行に及ぶことが多いのは、犯行直前直後の周辺行動を知られたくないと言う合理的行動ですが、このことから分るように密行性が犯罪の特徴です・・。
共謀罪は、「共謀」と言う実行行為が要求されますが、窃盗や暴力等の実行行為に比べて共謀行為には派手な立ち回りや動きがなく、従来型自然的観察では把握し難い行為です。
この意味では共謀罪は新型犯罪ですが、その分簡単には立件出来る筈がないことも書いてきましたが、仮に客観証拠のない共謀だけでの立件があれば、このときこそ弁護士が果敢に戦って行けば良いのです。
ただし今では、意思の表示行為は録音だけではなく、◯◯集会案内やメール交信その他外形的証拠を残すことが多いので、かなり証拠が客観化しています。
現在では訴訟実務が客観証拠を重視するようになって来ていることと科学技術の発展もあって、共謀を示す外形行為がないと簡単に有罪認定出来ないと思われますし、逮捕状自体が容易に出ないでしょう。
従来の外形行為・・現実に暴力を振るった場合の立証と比較すると、暗闇や人気のない場所での暴力行使や誘拐行為・・通りかかった目撃者がいても、半年〜1年〜数年経過後・・その人の瞬間的・印象的証言による人違いの危険性が高いのに比べて、メールや録音その他データによる意思表示の立証の方が、むしろ客観性が高まってえん罪の危険が少ないように思えます。
ただし、えん罪を防ぐには、昨日まで書いたように捜査機関による録音記録の改ざん(切り貼り)やメール等の事後編集の危険性チェックが重要になるように思われます。
共謀罪の証拠は目撃証言のような曖昧な記憶に頼るのではなく、録音の場合声紋鑑定その他客観証拠科学技術の勝負になって来るので、(改ざんさえなければ)却ってえん罪が減るような気がします。
その意思表現がどの程度であれば特定犯罪の共謀にあたるかの解釈の争いは残りますが、それは今後実務で集積して行くべきことです。
共謀罪は意思表示行為することが「要件」ですから、その立証には勢い客観証拠に頼らざる得なくなるでしょう。
その経験で刑事訴訟手続全体が客観証拠で勝負する原則になって行く先がけとなって、犯罪認定の合理化が期待出来ますし、無関係な人を犯人仕立ててしまうえん罪リスクが減ることは確かです。
ただし、これも証拠法則をどのように運用するか、共謀法成立にあわせてどのように改正して行くか実務家の能力次第でもあります。

 証拠法則と科学技術6(自白→弁明権へ)

自白するようになってからの録画を見ても、多くの被疑者は、「済みません反省しました・・刑事さんさんどう言えば良いのですか?」聞いて刑事から、教えられたとおりの供述をすらすら始めるのが普通ですから、その段階の録画をいくら見ても不思議な点がある筈がありません。
自白に転じた被疑者は、従来から「検事調べに行ったらこういうのだぞ!」違ったことを言うと俺がおこられ、勾留が長引いてしまうからドジするなよ!」と担当刑事に言い含められて検事の前に連れて行かれるのが普通でした。
この段階が刑事調べ室に入ってからの録画録音に早まるだけで他方、刑事弁護人の労力が圧倒的に多くなります。
録画録音が開示されているのに大したことがないだろうと弁護人が目を通さないで弁護をやっていれば、職務怠慢・懲戒リスクに見舞われます。
えん罪防止のために、全てに神経を研ぎすまして弁護するには、あまりにも種々雑多で(約1ヶ月かけてみないと見切れないような)膨大な資料を提示されると却って有効な弁護活動が出来なくなる逆張り効果にならないか心配です。
捜査期間は半年以上かけて大勢のチームが内偵して資料を読み込んでから立件逮捕するのですが、弁護側は逮捕されてから頼まれるので、そもそも事件概要すら把握するのに時間がかかります。
それから段ボール箱トラック1台分もあるような証拠を開示されて半年前後にわたる質問のやり取りの録画を開示されて「勝手に見て下さい」と言われても、半年分見るのに半年かかる(録画や録音は飛ばし読み出来ません)理屈です。
勾留期間20日間内に一人、二人の弁護人が選任されても、勾留されている場所への面会するための往復数時間をとられること(・・面会しての本人との打ち合わせでも本人が手持ち資料を持っていないので、本人の記憶による口頭だけの説明になるので大変です)などとても太刀打ち出来ません。
資料の写しが手に入ってからでも本人が見れば自分が作ったものなので、何ページに書いてあったかを忘れていてもあちこちパラパラとめくって探せますが、ガラス・格子越しないので、こちらが言われた部分をめくって探しながらの打ちあわせでは効率がすごく悪いのです。
裁判になってからも公判準備期日までに膨大な時間が必要ですが、警察や検察のように大勢の専従ではなく、弁護人はいろんな事件を平行して受任していないと事務所維持出来ないので、かかり切りになる時間が少な過ぎます。
取り調べ可視化議論は、自白の重要性を変える努力ではなく、自白の重要性をそのままにして今も時代遅れの?議論が進んでいると言えるでしょう。
・・もしかして可視化した以上は、信用性が高まる・・お墨付きになって、もっと自白を重視する運用になるのが心配です。
必要なことは自白に頼らない客観証拠に関する科学進歩・収集管理・証拠の改ざんを防ぐためにの管理合理化の議論ではないでしょうか?
12月6日にニューヨーク市警の例を書きましたが、今後有罪認定するには客観証拠に限り、被告人の供述は有利に使うときだけ採用すると言う逆の運用に変えて行く努力が必要です。
実際に我が国でも行政処罰では、この運用でやっていて、非処分者が言い分を聞いて欲しいときだけ弁明出来る仕組みです。
スピード違反等による免許停止その他の行政処分は、弁明したい人だけ来てくださいと言う告知・聴聞制度になっていることを知っている方が多いでしょう。

行政手続法
(平成五年十一月十二日法律第八十八号)

第三章 不利益処分
  第一節 通則(第十二条―第十四条)
  第二節 聴聞(第十五条―第二十八条)
  第三節 弁明の機会の付与(第二十九条―第三十一条)

条文は長いので省略しますが、身近に経験した方も多いし、目次だけ見ても制度骨子が分るでしょう。
弁明の機会の付与」とあるように、「チャンスを与えます」と言うだけで、自認行為を必要とはしていません。
今後自白は弁明する権利だけにして、有罪認定証拠に使わない・・使っては行けないようにした方が合理的です。

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