ソ連による満州侵入・シベリア連行に関するウイキペディア等の解説です。
いきなりの侵入による混乱時にどれだけ殺され、どの程度連行されたのか、シベリアで何十万あるいは百万以上殺されたのかすら日本では未だに分かっていない・・満州で家族が襲われた時に抵抗して殺された人が何人いたのかすらわからない・・日本側の悲惨な実態がわかります。
中国残留孤児の多くは満州での孤児ですが、逃避行で親とはぐれたというニュースしか出ませんが、(大火災水害等の急激な惨事の場合、外出していたなどで親子連絡が取れなくなることありますが、戦争が終わってからの命がけの日本引き上げ時にkどもや乳児を手放して迷子にしてしまうなどは考えられない・・大量の乳幼児が親とはぐれることなどありえません)そんなのはあっても万に一つもあるかないかで、どちらかと言えばソ連の悪行を表面化したくないマスメデイアの勝手な造語の疑いがあります。
中国残留孤児問題はソ連軍が両親を殺したり拉致していったあとで残された乳幼児を現地中国人が面倒を見たのが99%だっと思われます。
本格的に戦った日米・日中戦争の戦死者よりも、不可侵条約を締結していて戦う相手として想定していなかったソ連軍に殺されたり家財を強奪されたり強姦等の被害を受けた方が多いとは言えないまでも、アメリカに降伏した状態に乗じて戦国時代の野盗のように敗者・民族に襲いかかってきた状態です。
ソ連の恐るべき点は、軍人だけでなく一般人まで略奪強姦殺人連行等の対象になった点です。
シベリア収容所の状況は悲惨過酷さを極めたことがいろんな書物に出ていますが、9月16日(昨日の)日経新聞・毎週土曜日連載の「かたわらにいた人」の中に、収容所の過酷な状態を自分を動物のように「「生きる」という1点に純粋化するしか生き残れなかった精神状況がそれとなく紹介されています。
このような残虐非道なことがなぜ臆面もなく行い得たかの背景から見て行きましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99#.E7.8A.A0.E7.89.B2.E8.80.85.E6.95.B0
背景
ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人に過酷な強制労働が課せられたが、これは労働力不足を補う側面もあった[3]。スターリン体制下の1930年代以降は強制収容所(ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56%が死亡した[4]。
スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談でウィンストン・チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた[5][6]。ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された[7]。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている[8]。これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった[9]。
抑留の決定
スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した[12]。8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。
占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。
日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。また、この時抑留された捕虜の証言によると、ソ連兵はダモイ(帰れるぞ)と叫び捕虜を貨車に乗せたという。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。
一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[17]。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[18]。
シベリアの連行による犠牲者数
ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[36]。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという[37]。
日本の厚生労働省は2017年現在でも、ロシア連邦などから提供された資料を基に、旧ソ連や満州で死亡して新たに判明した日本人の氏名などの名簿更新を続けている[38]。
まともに戦った挙句のドイツ人捕虜6万人の内生き残ったのはわずか5000人というのですから、日露戦争で負けた屈辱感のある日本人に対する残酷な仕打ち・・生存率も推して知るべきでしょう。
ドイツの場合正規軍捕虜だったので数字がはっきりしているのですが、日本の場合満州にいた開拓団その他企業社員含めての大混乱中の連行なので母数の数字自体が分かっていないのが難点・・それほどのひどい状態であったとも言えます。
ただ占守島守備隊の軍人は戦いに勝っていたのに本国からの停戦命令で降伏したに過ぎない状態で捕虜となったので(戦いで死んだのか捕虜になってから殺されたのか分からないような混乱がない)軍人数がきっちり分かっているはずです。
占守島の戦いを9月12日のコラムで紹介したとおり屈強の若者2万5000名が捕虜として引き渡され、シベリア収容所到着時には五千人しか生き残っていなかった例を類推すれば大方の比率がわかります。
貨車に載せれられて移動しただけで途中2万人も死ぬだろうか?
地獄のような暴行殺戮行為がしょっちゅう行われていたと見るべきでしょう。
まして満州から連行されたのは屈強な青年ばかりではありません。
15日に日書いた通り、ロシアの進出/膨張欲は領土プラス異民族支配欲が基本原理ですから、侵略に成功すれば日頃ひどい圧迫している人民にも新たな敗者に対する一時的支配者の地位・・「どのような過酷な支配もできる夢」を分け与えることで戦意向上の原動力にして来たのでしょう。
少数民族や移民排斥運動が激しいのは、どこの国でも最下層に多い・あるいは家庭内暴力に怯えている子がいじめっ子になり易いのはこの原理を物語っています。