貧困連鎖論批判5

この後で紹介する日経新聞連載の平成27年12月29日「貧困連鎖論」に関する論文第3段落によれば、学校外で3時間勉強している貧困層の子の方が、学校外で全く勉強しない豊かな層の子供よりも成績が悪いと出ています。
(昨日まで書いて来たとおり、お金の問題ではなく遺伝子・素質の結果であれば当たり前の結果です)
上記の紹介の後で、貧困の連鎖を食い止めるために貧困層の子に対する底上げ教育が必要と結論付けているのですが、飛躍がある・・どこか論理がおかしくないですか?
中学生になっても9x9が出来ないのは、貧困の結果ではなく遺伝的素質の結果ではないかと言う視点・・実証研究が抜けています。
無理ヤリに格差拡大と貧困連鎖を結びつけたい印象です。
たとえば、魯鈍レベル・・中学の授業について行けなかった親が、親の七光りで富裕層に入っていないのは社会のあり方としてむしろ健全です。
現在の能力主義社会が正しいとした場合、社会正義のために必要な研究は、能力があるのに貧困層になってしまう歪んだ社会構造の連鎖になっていないかの吟味であって、中学の授業について行けないレベルの親の子(次世代)が似たような結果になるのは、貧困が原因とは言い切れません。
貧困層の子がまた貧困層になる「貧困の連鎖」と言うスローガンだけで、どうなるものでもありません。
フランスのテロによって、移民受け入れの問題点がクローズアップされていますが、仏独等の難民の場合は、例えば母国で有していた医師や弁護士資格を生かせなくてタクシー運転手や現場労働になっている・・しかも着替えすらマトモニ持たないで来たので、僅かの稼ぎを先ずそうした補充に資金が使われてしまい、貧困からの生活開始ですし、2世教育もままならない現実が指摘されます。
その上、2世は、言葉の壁で苦労するなどハンデイがあるので、普通に学校へ行ってるだけはついて行けません。
家庭でフォローすべきですが、親は低賃金労働・・一般的に労働時間が長く、家庭教育する時間が少ないのが普通です。
移民2世の社会不適合は、まさに素質と直結しない貧困の連鎖を含みますから、公的資金を使ってフォローすべきですし、すれば一定の浮揚効果がありますが、日本人同士では、(親が医師・弁護資格あるのにタクシー運転手等をしていると言う家庭はあり得ませんし・)そう言う問題はありません。
元々9x9が出来ない親世代の場合、課外学習資金等を補助してもあまり効果がないことは明らかです。
日本のように移民でも風俗(売春目的)などで入って来たり現場労働で入って来た移民2世の場合、日本語さえ教えれば成績上位に行く子供が大量にいるとは思えません。
1昨日日本のフェミニストの例で書きましたが、何でも外国の事例を引いて来て、受け売りすれば研究発表になる・・「日本でもこうすべきだ」と言う時代は疾うに終わっています。
最近の学者は外国の発表による・・「横書きを縦にしたから正しい」・・「ドイツ語の原文を読んでくれ自分の説の方が正しい」と正面切っては言いませんが、仏独等での移民2世の貧困の連鎖研究に触発されたのか?日本の実情を無視した義論をしているように見えます。
能力がないのに世襲や家柄やコネによって、支配的地位・・富裕層につくのは不正義であり、能力がなければ、富裕層になれないのは現在社会の正義の基準です。
平等主義が徹底すればするほどその結果→貧困層=能力競争に負けた人と言う関係が確立して行きます。
能力競争に負けた親・貧困層になった人の子が、富裕層の子に比べて能力競争で負ける確率が高くなるのは普通に想定されています。
難民等特殊事情を除いて日本人だけの問題とすれば、「貧困の連鎖をなくせ」と言う概括的主張は、能力競争をやめろと言うに等しいでしょう。
もしも能力主義の主張を展開するならば、偏差値基準での単線競争だけではなく、出来るだけ多様な世界を作って行くとしても・・・スポーツ芸術、将棋それぞれの分野に入った以上は、その世界の基準の能力競争に徹する・・どの世界にも能力競争があるのは仕方のないことです。
俗世の競争を嫌って宗教界に入ってもその中での競争がある・・どの世界にはいってもその中で競争があります。
モノゴトは徹底し過ぎると良くない結果になる・・平等主義(能力主義)の価値観修正が必要でないか?と言う提案なら私も同感ですから,どのように修正するかの意見なら傾聴に値いします。
私なりに「摘果論・少子化の推進による汎用人材の縮小」+「知育偏重社会を是正していろんな人材の生き易い社会」→「どの分野にも適合できない・・不器用な人も包み込む文化が必要」ではないかと1月9日ころから書いて来たところですが、能力による差別・平等論を前提にしたまま、貧困の連鎖を防ぐために、補助金を増加し、枠を広げろと言う論説には・・?となります。

貧困連鎖論 批判3(不適合者最小化)

男性社会への2流人材としての参入論・・保育園充実論は、子育て行為の否定的価値・・専業主婦否定論と共に、家庭内の女性の存在など意味がない・・そう言う時間が少ない方が良いという否定的価値が背景にあるので、余計少子化が進むと思われます。
ただし、私は、人口が減ることは良いことだと言う意見をこのコラムでは書いてきました。
国民のための政治=国民一人あたりの生活水準向上が目的であるべきですから、低賃金労働力を入れて生産総量を上げても一人当たり生活水準が結果的に下がってしまう(文化摩擦などが起きて2世以降大変なことになって、負債を子孫に残すことになる)のでは何にもなりません。
少子高齢化は大量生産汎用品生産に向けて人材が大量に必要な時代が終わったのだから、これに適した人材に絞り込んで行く必要がある。
この絞り込みに合致しない汎用品向け人材が落ちこぼれて今困っているのです。
少子化進行は、みかんを摘果するような女性の賢明な選択であるから、妨害しない方が良いと言うのが私の持論で何回も書いてきました。
一定の過渡期を経れば人口が均衡するのですから、高度成長・汎用品時代に稼いだ蓄積のある「資金が潤沢な今のうちに少子化を進めて数十年で均衡状態が来るのは良いこと」だと年来主張していますが、仮に政府が少子化を本気で何とか食い止めたいならば生まれたばかりの赤ちゃんの面倒を見るのを無駄なことのように宣伝するのをやめた方が良いでしょう。
根強い専業主婦非難や保育園充実論は、一見女性のためのようでありながら、大多数の女性を男性の下働き中心のパート勤務に追いやる・・女性の聖域である子育て軽視論が基礎にあります。
ホンの数%でもエリート女性が弁護士や政治家などになって来るでしょうが、それでもまだ女性の弁護士・政治家その他分野では男性に比べて立場が弱い・・補助的立場になっているのが普通です。
摘果論で言えば、最下層の女性はパートで働いて社会不適合を起こす次世代を出来るだけ生まない方が良いと言う長期展望に基づく政策かも知れませんが・・。
人間能力の総量が一定とした場合、男・競争社会で男性より優秀とした場合、女性的資質がその分劣っている人が多くなるので、不向きな子育てしない方が良いかも知れません。
子育てが女性の転職であり、男性が叶わない主役であり無限の包容力が生まれて来る基礎でもあります。
これを無駄なこととして外で男性の単純労働のまねごと・・下働きかパート勤務で・・働けと言うのが今のマスコミを覆う価値観ですが、これはフェミニストの主張としても本末転倒です。
フェミニストは女性の得意とする分野を男性が尊重すべきと価値観教育に力点を置くべきです。
女性の包容力を活かした懐の深い社会にすべきと言う意見に戻ります。
不器用なら不器用なりに、何か良い点があると言う点を素通りして、日本教育・経済学界では、唯物史観に染まっているせいか?・・経済状態に関係づける研究が大好きなように見えます。
曰く、貧困所帯から東大入学が少ない・・ひいては社長は貧困層から出ないと言う主張に発展するのかな?・・変な統計調査を基礎にして学者が長年議論しています。
日本の場合、親の経済比較より必要なのは親の学歴・能力(素質)と次世代の比較ではないでしょうか?
知育偏重・単一の価値基準で行く限り、偏差値その他のテストで表示される能力差による待遇格差は、憲法の認める平等の範囲内です。
憲法にあるからどうかと言う以前に、今のところ能力差による差別を否定出来る公正な論理が見つかりません。
これまで書いて来たように能力差を知育能力差の単線によらずに複々線化して能力差を見るべきだと言うくらいですが、それでもそれぞれの分野で最後は差が付きます。
どうしても残る格差ついては、摘果論に従って、少子化・出産を絞って行き、出来るだけ不適合人材の数を最小化して行くべきですし、それでも残る人に対しては、思いやりでカバーして行くしかないと言うのが今のところ私の結論です。
貧困層出身か富裕層出身かの基準で議論するのは、9x9の出来ない子には補助金では、どうにもならないことですから、出身階層別に社会の地位・待遇を決めて行く社会にすべきと言う意見の基礎に繋がり易くなります。
既に女性や身障者の地位向上等のためのクオーター制度の主張にその萌芽がみられます。
女性の場合、同じ日本人の母親が父親よりも基礎的能力・素質が劣っていると考えられないのに・・リーダーに女性が少ないのは、社会構造による格差が十分想定されます。
(男勝りの女性がもっといるようにも思えるのに、ジェンダー意識の結果能力が発揮し難い社会になっている)
社会構造や意識に問題がある場合には、是正のためには、過渡期政策としての優遇の合理性があり得るでしょう。
女性が社会経験を積む過程を早めるためには、クオーター制度に一定の合理性があるとしても、これの拡大として「貧困の連鎖」と言う観念論で一定期間優遇したら一定期間で何とかなるものではありません。
中卒段階で9x9が出来ない・・貧困の連鎖は、DNA連鎖の結果であって素質連鎖によるものですから、無理に一定数の権利・・合格枠などを認めてもどうにもならないでしょう。

差異化社会6と多様な生き方5

親は「子供のため」と言うのでしょうが、悪く言えば奴隷労働にマンツーマンの監視がつくような悪循環です。
マンツーマン教育が効力を発揮するのは,浅田真央や羽生弓弦君のようなスケート選手あるいは音楽教育その他、全て一定レベル以上の飛び抜けて優秀な生徒の場合です。
平均授業について行けない子は、その分野に向いていないことが多いのですから、目一杯の訓練を受けるのは苦痛を倍加するだけです。
私自身の例で言うと、いろんな能力が生まれつき低いことは子供のころから十二分知っていましたので、不向きなことを人の2倍練習しても意味がない・・苦痛になるだけであると痛感しています。
たまたま日経朝刊には1月1日から小倉桂の「私の履歴書」が始まっています。
小倉桂の1月6〜7日の記載にも出て来ますが、個人教育・特訓は却って苦痛だけです・・彼の場合素質があったのに気が付かずに遊んでいただけですから、この特訓の成果が後に出て来たようですが、元々の素質のない子供の場合地獄の特訓で終わるのが普通です。
私の子供の頃には普通科中心ではなく、農業高や商業高校などが一定の評価を受けていたような記憶ですが、いつの間にか普通高校全盛時代になってしまいました。
この数十年各種専門学校が発達していますが、いずれも高卒を対象にしています・・社会全体のレベルアップの必要性も分りますが、高卒程度のレベルに専門性をつける程度が適当なレベルの子供もいるでしょうし、中卒程度が限界の子供を放置してぐれさせるよりは、そのレベルに応じた専門教育を施せばある程度何とかなるレベルの子供もいるでしょう・・。
どんなに勉強させても、知育方面での基礎能力がなくてついて行けない中学を出ても9x9が出来ない子供もいるのですから、高卒に限定せずにそれぞれのレベルに応じて少しでも現場作業レベルを上げるための訓練設備が必要です。
私が知っている事例では、授業だとサボってばかりいる子が、アルバイトやペンキ屋や鳶職・中古車修理見習いなどならば、よく働く子が一杯います。
私が弁護士業務上で見て来た少年事件や私自身の経験によると、人には向き不向きがあるのですから、能力方向に合わないことを強制しない方が良いのが第1の印象です。
これ以上勉強したくない子を夜遅くまで予備校へ行かせても、(親はこれだけあなたにお金をかけているのに・・と恩を着せても)子供が可愛いそうです。
子供は自分の向き不向きを子供自身が小さいころから一番良く知っています。
親は子供がちょっと音楽やスポーツが出来ると直ぐに一流プロになるかも!と夢を抱きますが、(これ自体親のありがたいところですが・・)子供自身は練習仲間との実力差を良く知っていて、自分の限界も良く知っています。
運動に限らず子供自身が同級生に比べて自分がどの程度よく出来ないか・・塾に行っても友人より出来るようにならないことも良く知っているのです。
親は、塾へ行きさえすれば友人より良く出来るようなると期待しているの(かな?出来るだけのことはしてやったと言うアリバイ証明意識もあるように見えます)ですが、結果は行かないときと変わりません。
子供自身は、クラスメイトより出来ない結果をそのまま受入れる能力があって、別の道に進めば能力が低ければ低いなりに生活の場が決まるのですが、親がありのまま受入れられないからややこしいことになっているように見える事件が結構あります。
私自身いろんな分野で人並みの能力を持ち合わせていないことを子供のころから良く知っているのですが、もしもこれを是正するために◯◯に行かせられて特訓を受けた場合を考えると、その時間は苦痛であっただけで何の役にも立たなかったに違いありません。
タマタマ戦後で、みんな食べるのに忙しい時代だったので周りにそんな余裕が無かったので放っといてくれたので助かりましたが・・。
自分に合わないスポーツの特訓でなく、勉強だっていやな子が強制されるのは、イヤなことに違いないし教育成果としては多分何の効果も生まないで、逆に子供のやりたいことをやらせない・・虐待効果を生み出しているように思えます。
これに対する不適合の限界・・反抗が、不良行為誘発の大きな原因になっているように見えました。
言わば、子供が自分の能力限界を悟っているのに親が覚っていない・悟りたくないミスマッチを放置するのは問題です。

差異化社会5と多様な生き方4

思うに,本来知育基準向きの才能ではなかった・・結果的に途中から縁を切って、その他の道で活躍して来た人でも、どこか学校教育的価値観が最高で自分はタマタマ野球・サッカーでで何とかなっているけど・・などと自分を本心では駄目な人間だと思い込まされて来たからではないでしょうか?
洗脳されてしまった内心の価値観が子供が生まれると子供に対する期待になって、何とか挽回して欲しいと言う欲求に駆り立てるのかも知れません。
子供がいやがると「お父さんの頃には中卒でも今は親方をやっているけれども、これからは「高校も出ないで将来どうするの!」と説得し続けるので、子供は仕方なしに、進学?に同意するのですが、向いていないことはどうにもなりません。
お父さんはトビの親方などやっていて自分なりに満足しているし、お父さんが自分の子供の頃にイヤな授業が終わると嬉々として遊んでいたことも経験しています。
「子供がいやがっているのに・・」うっかり口を挟むと「だからあんたみたいになっているのよ・・」「これからは高校くらい出ていないでどうするのよ!」と噛み付かれるのが落ちですから、黙ってみているしかないようです。
これからの社会では、現場系でも一定の機器操作が必須で高卒〜短大卒程度のレベルが必要なのと、子供の能力(素質)が高度化しているかは別問題ですから、これからの社会のあり方に関する母親の心配・見通しが正しいとしても、我が子の能力(素質)無視で要求している点に無理があります。
企業で言えば、高度機器導入によってその操作能力、あるいは海外展開によって英会話能力必須となって、社員教育をしてもついて行けない人材が出るのは仕方のないことです。 
企業の場合勧奨退職や子会社への転籍などで選別して企業の必要とする人材に純化して行けますが、国家や家庭の場合、国民を振り落とす訳に行きません。
そこで社会保障の充実策となるのですが、振り落としてしまった人を生活保護・経済支援だけと言うのでは・ストレス社会になってしまい、社会の安定が保てませんし、国民も不幸です。
世上中間層からの脱落の増加・・中間層縮小を問題視している意見が多いですが、問題視して格差拡大とか非正規雇用拡大批判・・社会不満を煽るだけで解決出来ません。
社会が高度化して来ると最下層職務の底上げがあるように中間層職務も徐々に高度化して行きます。
そうなると職務の高度化について行けない・・中間層内の最下層から順に就いて行けない層の脱落が始まるのは当然のことです。
従来中間層に厚みがあったのは、特にホワイトカラーでは勤務評定基準がはっきりせずに職務内容に農業社会同様の緩やかなハバがあったからです。
中間管理職でもボヤーッとしていると課長クラス間競争に負けてしまう時代が来たので、比喩的に言えば昔は課長クラスの能力差が1センチしかなかったとすれば、今は10センチも上下差が出て来る・・勢い能力差がはっきりして来た時代です。
最下層と言うか現場系に戻りますと,従来中卒程度で出来た仕事が高卒程度のレベルがないとやって行けない時代が来ています。
家電量販店に行けば商品知識の豊富さに驚きますし、コンビニ店員でも商品配置を聞かれれば直ぐ応答し、各種機器利用に戸惑っていると直ぐに手伝ってくれます。
ただボヤーッと店番していた昔とは格段の違いです。
・・今世間を騒がせているマンション杭打ち工事・・東京駅の建て替え工事で言えば、元の東京駅の基礎は「松の杭」を人力で打ち込んでいた程度だったのが、今は、住居用のマンションでさえ、コンピューター処理でグラフや地耐力計算をしながらやる仕事になっていることが分ります。
昔から「土方」と言う言葉があるように、体力仕事だった基礎工事でさえこれですから、多くの母親が子供の高学歴化に必死になるのは分りますが、知能指数◯◯程度の場合必死に尻を叩いて勉強させても勉強時間さえ増やせば能力が上がる訳ではないので、子供がいじけるだけです。
中学で9x9の掛け算が出来なかった子供が無理に底辺高校に入れられても高校に行くとなおさら授業について行けないので、早く現場労働見習いなどで自分の能力に応じたことをしたいのに、嫌々高校へ通っている・・そのうち不良になって行くパターンです。
こう言う場合,授業が分らないなら予備校へ・さらにはマンツーマン塾へ行かせてやれば良いと言うのでは、子供にとっては地獄です。
学校の授業だけでも苦痛で、早く放課後になるのを楽しみにしているのに、帰ると塾に行け・・集団授業ならまだ息を抜けますが、お金をかけてあげるからマンツーマンで頑張りなさいと言うのでは、息を抜けません・・.

米中の親和性と日本文化の隔絶5

戦後70年も敗戦国日本が一言も反論出来ずに来たので、表の世界(日本でも公式なマスコミや教育界などで・・)ではアメリカの対日悪宣伝が行き渡っていました。
マスコミや文化人の発言を見て、韓国が自信を持って慰安婦攻勢をし掛けたのですが、民族の誇りを傷つけられて防衛意識に目覚めた日本人が猛然と反撃に出ると、韓国の告げ口外交は空回りに終わりました。
世界中に行き渡っているアニメなどを通じて日本的価値観が浸透していることや、世界に進出している個々の日本人を通じて生身の人間の人柄を肌で知っている人が増えているので、日本人の言う方が信用性が高い・・韓国人や中国人の方を信用出来ると言う国は、世界でも皆無に近いでしょう。
「マスコミや教育界さえ押さえれば勝負あり」と言うアメリカ(ユダヤ?)式支配は短期的には効果がありますが、長期的には意味がないことが(長期信用を重んじる日本人の価値観からすれば当たり前ですが・・)最近明らかになってきました。
今では70年間くらいでは、簡単に実体験(韓国のように国を挙げて噓を言う民族は別にして、その他多数の日本統治経験のある諸国での体験)が風化しない・・人の寿命が延びたことも大きな影響があったでしょう。
日本社会は縄文の昔から数百年〜千年単位後の子孫の繁栄を願うものですから、噓をついて短期間誤摩化すと却って子孫が損をすることを知っています。
何回も引用していますが、平家物語の宗盛の演説・・以下の一節・アンダーライン部分が日本人の価値観です。
「・・平家は福原の故里に着いて、大臣殿、然るべき侍老少数百人召して宣けるは、「積善の余慶家に尽き、積悪の余怏身に及ぶが故に、神明にも放たれ奉り、君にも捨てられ参らせて、・・・」
マスコミ支配さえすれば良いと言うのは、ある会議中に自己の意見に対する異論封じをするのに睨みを利かせるのを、大規模にしたに過ぎない・・正論を力で押さえつけるのは時間の経過で無理が出る点は同じです。
企業広告も同様で、いくら派手にやっても、製品(飲食店で言えば、味が悪ければリピーターが来ない)が良くなければ、一定期間で空振りに終わります。
特定民族に対する悪宣伝は、製品のように、製品の良しアシが消費者に直ぐに分り難い・・日本人を直接知らない遠くの国民に対して「日本人はそんなに悪いか」と言う印象を与えるのは簡単で、製品にあたる日本人と接触が少ないので一旦与えられた悪印象の払拭に時間がかかるだけのことです。
マスコミ宣伝に頼る・・実質価値と違った宣伝・・これを噓と言います・・を重視するのは、自然環境を破壊し尽くし、環境が悪くなりあるいは噓がバレて居心地が悪くなれば土地を棄てて移動すれば良い・・いくらでも環境破壊し、噓を言い、短期間良い思いをすれば良いと言う民族移動を前提とする価値観社会カラでて来る思考行動形態です。
民族移動ではないPM2.5の悪化で首都移転論が出ている北京だけの簡単な移転でも実際には大変な作業です・・。
これに比べても個人が逃げ出せば良いだけ・・居住地を変えられる・・国を持たないユダヤ人がマスコミ宣伝に頼る度合いが高いのは、むべなるかな・・と言うところです。
いつでも逃げられるように民族移動の自由を強調しているのは彼らですし、(今回の難民大量発生によって、この虚構性が揺らぎ始めました・・どこの人でも、他人と1つ屋根の下での暮らしたい人はいないし、これが本来正しいのですがこれをうっかり言うと「極右」と言うレッテルを貼られてしまう始末です)その分、世界中で信用され難い民族になっていますが・・それなりの理由があるのです。
今は地球規模で記録が残るので、環境破壊や噓がバレてから地球規模で移動しても、元の土地で悪いことをしたのが知られてしまうことになりました。
ところで、安倍政権は、価値観共有外交と言っていますが、民主的手続や人権重視と言う季題以降のメッキ部分では欧米と日本は共通であり、中韓では未だしの感がありますが、本質的同質性では米中の同質性には叶いません。
日本の場合、西洋が人権と言い出す前の古代から、全てのものを大切にする社会・・・口の聞けない動物や植物の気持ちまで大切にする社会でやってきました。
西洋や中国では、相手が弱ければどんな酷いことをしても良いのが原則で、思いついた分野だけ動物愛護(捕鯨反対運動の激しさなど)とか人権と大きな声で主張する社会の底(教養・人間理解)の浅さにうんざりしているのが日本人です。
日本異質論を、ガラパゴス化などと折に触れて批判的報道し、世界で孤立すると頻りにマスコミが煽りますが、日本の価値観が世界のどこよりも豊かで進んでいるので周回遅れの粗野な生活習慣に同質化したくないのは当然です・・。
その結果、孤立しているように見えるのは仕方がないことですが、結果的に米中韓の方が親近感で繋がっていることには、いつも気をつける必要性を書いています。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC