非武装論と受益者3

東南アジア諸国は日本同様の基本的価値観・・伝統的に軍事力などなくてもどこも強盗のように侵略して来ないと言う安全意識で古来からやって来ました。
(日本の価値観ルーツは、東南アジア島嶼国?)
この無防備な心・・隙に付け込んで・・オオカミのような西欧列強がドンドン進出して植民地化・・(アメリカ大陸の原住民も同様です)隷属化に成功して来たのです。
日本軍進出によって西欧侵略国を撃退して独立を勝ち取った後は、再び平和の回復によって、日本同様に軍事力の必要性を意識していなかったのです。
これには、アメリカの経済力・・軍事力の裏付け・・パックスアメリカーナの恩恵によっていたのですが、アメリカの軍事力低下によって、西欧に代わる中国のどん欲な行動が始まったことによって、道義・・ルールを守るには、一定の軍事抑止力が必要と言う意識に再度目覚めたのです。
日本の軍事的補完・・直接的軍事力だけではなく軍事関連技術運用能力などの教育・訓練などの幅広い協力が必須化しています。
周辺国の期待・・周辺国への情報提供やシステム運用能力の指導を含めた日本の協力関係強化を阻止したい・・道義を無視して腕力で横車を押したいのが中国であり、その意を受けた日本文化人?マスコミ勢力です。
侵略阻止に必要な戦力は相手国の軍事力を凌駕する必要はありません・・一定の抵抗力があることが侵略側の戦意を喪失させる・・自分の受ける一定のダメージの大きさを測って行動抑止するからです。
例えば女性だと抵抗されない前提に安易にかっぱらいする人が増えますが、相手の男が自分より1〜2割腕っ節が弱い程度だと、戦うとリスクが大きいので(闘争時間が長くなるとその間に通りがかりの人が警察を呼ぶなどのリスクを含めて)簡単にかっ払いをしません。
国際紛争も同じで、あっという間に勝負がついてしまうと国際的な仲裁や介入をするヒマが亡くなり、既成事実を前提の交渉になりますが、こう着状態があるとその間に国際的仲裁交渉が始まってしまいます。
ロシアがクリミヤを電撃的に併合したのは、国際社会が介入する暇をなくした大成功例です。
戦国時代に戦国大名が領域の最先端地域に小さな砦を構えて死守していたのは、少しでも時間を稼ぐことに意味があったからです。
窃盗や強盗被害に限らず全て悪いことをする方は、如何に時間を少なくするかが最重要関心とされている所以です。
野生動物でも同じですが、自分が相手より2〜3割強い程度では戦いを挑めません・・相手が死ぬまで戦い自分も7〜8割の損傷を受けると,その他無傷のもっと弱い相手からの攻撃に負けてしまう・片足だけでも傷を受けると、翌日から獲物をとることが出来なくなるからです。
(ライオンで言えば、喧嘩に勝って相手を倒しても自分の足をけがするとびっこを引いてシマウマを追いかけることは出来ません・直ぐに飢え死にします)
第一次世界大戦で死力を尽くして戦った結果、折角勝った英仏が世界の覇者から転落してしまいました。
要するに中国のように対外膨張目的・・侵略目的の武力でなければ、自衛のためならば、抑止力程度の戦力で良いのです。
だから或る程度の抵抗力強化で良いから、フィリッピン等は軍事力強化に乗り出したのです。
このように「イザとなれば、一定の抵抗スルゾ!」と言う気概や準備があれば相手に無茶なことをされないと考えるのが普通で、「何も抵抗しません」と前もって公言していると却って紛争を誘発してしまうことが多いのです。
最近流行の家庭内暴力事件を見ると、大人しい女性の方が、相手の暴力を常習化させることが多いように見えるのも根は同じです。
慰安婦騒動が大事件になったのも、これまで日本は言われるままに受入れて来て全く反論しなかったので、韓国に甘く見られた結果と見るのが普通の解釈です。
中国やロシアが良い気になって武力を背景に強引に出るようになったのは(中国による太平洋2分論をオバマが会談時に面と向かって言われても黙って聞いているなど)オバマが断固とした姿勢を示さないからこうなったと言う1面(いつも書くように政治は複雑な要素の総合ですからイチガイに言えません・・)があります。

司法権の限界4(謙抑性1)

大学入試はテストによるしかない・・しかもテストにもルールがある・問題を予め教えたり、個人的耳打ち情報や裏金・コネで特定生徒の合格を決めたらいけないように、裁判も訴訟手続に出た資料以外の材料を判断材料にするのがいけないのが基本です。
野球や相撲でも大方ルールがあり、裁判には勿論ルールがある・・これを決めているのが訴訟法です。
訴訟手続を踏んで出されていない心象風景を判断材料にするのはルール違反です・・野球で言えば、ピッチャーの投げた球を打つのであって、別の人が投げた球を打ってもホームランやヒットにカウントされませんし、料理コンペでは同じ具材条件で競うものであって、こっそり別の調味料を加えるのはルール違反です。
ましてや政治決定の優劣を最終審査する権利は司法にはありません。
料理審査員が政治に口出ししているようなものです。
料理やスポーツ等の審査員が政治意見を言っても国家意思にはならず影響力程度のことですが、司法が判決で政治を持ち込むと国家意思の最終決定・・権力行使になるので、性質が違ってきます。
司法権の限界を越える=越権行為をする裁判官は一部の不心得者に限定されるとしても、仮に裁判官全体の一部の人でも自分の個人的主張を通すために裁判形式を利用すると、国家権力・強制力として効力が生じるので大変な影響力があります。
医師の独断による安楽死実行は、規範的効力がなく逆に規範により処罰される犯罪行為としてのインパクトでしかない・・被害者は個々人だけですが、国家意思としての司法決定は全国民の行動規範・・法の解釈となるので影響が大きくなります。
民間や行政組織は組織的決定を経ないで外部発表するのはルール違反ですが、司法・・裁判官は単独(多くは単独事件ですし、合議体でも対等者間ではなく経験10年以上の格差のある先輩後輩の3人でしかないことをMarch 12, 201「個人責任と組織の関係3(仮処分制度の領域1)」のコラムで紹介しました)で国家意思として強制力を持つところが大違いです。
医師は病気を治すのが本業ですが、人の生死に関連しているうちに生死を左右出来る権利があるかのように振る舞うようになると怖いものです。
医師の個人信念で安楽死をさせている事件が時々殺人罪のニュースになりますが、医師は生死の場に多く関わっているだけであって、生死を決める優越的判断権を有している訳ではありません。
テーマがズレますので簡潔に法的整理すれば、「自死」に関してどう言う場合に自己決定権を認めるべきかその援助を容認するかの国民合意形成分野です。
刑法
(自殺関与及び同意殺人)
第二百二条  人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。
国民合意がないのに、特定医師あるいは医師会が勝手に国民意思を決めて実行する権利はありません。
このように一定の力を持つと限界をはみ出す人が生じ易くなります。
武道家がグレて違法行為に走ってしまうのに対抗する姿三四郎の映画や、チャンバラ映画のようなものです。
27日に紹介した日経新聞の「春秋の筆法?」によれば、大津地裁の仮処分決定は「国民の心象風景を認定しているように見える」ようですが、司法権には国民意思を認定して法をどのように創造すべきかを決める権利がなく、既存の法に該当するかどうかを「訴訟手続によって得た証拠を「自由心証」で評価した事実認定権限しかありません。
訴訟手続によらない心象形成・・独断決定は禁止されています。
とは言っても条文自体の解釈・・学問的甲論乙駁も定説もない分野では、裁判官の個人信条が反映され易くなる危険があります。
名古屋だったか三重県だったかで友人の子供を預かった間に起きた事故で、損害賠償を認めた事例が世間を騒がせました。
名古屋高裁の妻や長男夫婦の介護責任を認定した事件のように司法判断がおかしい・・司法権がそう言うことまで決めていいのかの疑問を持つ人が多いでしょう。
国民的議論がまだ熟していない段階で、司法が勇気を持って?率先判断を示すと「法」を創造することになります。
憲法上司法の最終決定が国の最終決定となることから、国は司法の決定に従わねばならない・・これを是正する方法がない分・・その分司法には自己規制・・謙抑性と言われています・・が要請されます。
憲法が司法に法解釈の最終決定権を与えた・最終決定機関と言うとはこれが誤っていても是正する手段が用意されていないことになりますから、その代わりに内在原理として自己規制・謙抑性が要請される原理ですが、最近これが狂っていないか、社会的に疑問をもたれる判例が時々出ます。
社会のあり方に関して国民議論が熟していない上に法の基準がない場合には、司法が率先して基準・法を定立しようとするのはおこがましい・・国民主権原理に反しています。

原発被害想定基準9(過大想定=人災の背景)

規制→特定産業従事者だけの損害ではなく、生活禁止の制限を受ける地域住民も被害を受ける→巨額原油輸入のコスト負担する国民一般・・ひいては原子力産業消滅(東芝苦境の遠因にもなっていると思われます)→将来の国防不安を兼ねます。
過大規制による被害・・原発に頼る地域経済の壊滅や広域避難命令による生活破壊が、一般(地域)住民〜周辺県→国民一般に直接目に見えるように拡大されたことによって、被害推定が大きければ大っkきい程よいと言う安易な基準ではなく、公平・合理的に決める必要があると分ってきたと思われます。
それまではフッ素規制で書いたように各種規制は、特定業者の損害だけだったので、一般国民は自分に関係のない他人事ごと・・厳しければ厳しい程自分にはよいことだと他者への配慮を欠いた安易・無責任に考えて来たに過ぎません。
一種のいじめられっ子探し同様で、国民の方はいじめっ子の権力を握った「自分がマスコミの標的にさえされなければ良い」と言う自己中心思想にならされてしまい、一方的洪水報道がのさばってしまったと思われます。
マスコミによる国民教育効果の恐ろしさです。
マスコミ・・週刊誌は次々と苛める対象を見つけると集中砲火を浴びせる・・原発事故と慰安婦騒動が世界規模になったところで・・国民全部がいじめられっ子になったところで、限界を露呈したように思われます。
ただし、被害想定基準設定はマスコミの影響を受けたとは言え,当時の国民の信任を受けた政治が決めたもの→「自己中心・・・社会全般への影響を無視することが良いことだ」と無責任思想を煽る政権を選んだ結果ですから、国民の自己責任でもあります。
マスコミと思想的一体化している民主党政権の場合、沖縄普天間基地問題迷走の原因を作った「少なくとも県外へ」と言う一方の立場だけの主張・・あるいはヤンバダムの中止決定と継続への方針転換など見れば分るように、全ての分野で多様な利害を有する当事者の存在を視野に一切入れていなかったことが分ります。
被害があれば「可哀相」と言う視点ばかりで加害者に対する過大請求・・必要以上の苦痛を与える運動になっていた基礎です。
事業仕分け時に公開された議論の粗雑さを見れば分かりますが、多様な意見を吸収する気持ちがない・一種のつるし上げ政治で、党が決めた一方の立場だけ推進し、矛盾調整努力を始めから問題にしないのが民主党政権でした。
利害調整の必要性を無視した一方的主張・・全体的政策整合性を無視する・・その場限りの政策が基本で収拾がつかなくなったことが直ぐに判明しましたが・・利害調整を一切しない政治家って、そもそも政治と言えるのかの疑問があります。
元々専制権力とはそう言うもので、専制権力の意向による不利益を受ける方は完全無視し、天安門事件を見れば分るように抵抗すれば戦車で踏みつぶして平然としているような政体です。
天安門事件は国際的評判が悪かったので、最近では戦車出動をやめて・・秘密警察の活用・香港まで出向いて本土へ連れ去るなど思想統制に精出しています。
民主党政権は、政権党になった以上は全国の統治をする必要がある・ある県で都合の良いことを言っておいて、他方の県で矛盾主張するような使い分けは許されません。
民主党は利害調整の重要性に重きを置いていない政党・・一方の主張だけで政治をすることが政権担当してすぐに国民に分りました。
その象徴的事件として諫早の水門開閉に関する無責任な対応を紹介しておきます。
諫早の水門を巡る2つの矛盾する裁判所の判断が両立するようになったのも、民主党政権が従来の政府意見を変えるならば、(政権が変わっても組織として連続性があります)従来の支援者に対する十分な説明をして和解に持ち込むべきであったし、裁判所判断に従うならば、上告して最高裁の判断を求めるしかなかった筈です。
控訴しない→形式的には裁判所の判断を尊重する振りをしながら,結果的に最高裁の判断を避けた姑息なやり方が収拾のつかない矛盾状態にしてしまったのです。
政治と言うものは、利害対立・・矛盾関係を止揚してより良い解決を目指す努力をするべきものですが、民主党は「これを一切しない・・する能力がないと言うのでは失礼かも知れません。
実は能力はある・・バカなのではなく、意図的に日本民族が国際進歩に伍して行くの妨害し、内部的には一方的主張することによって、民族内対立を煽る・・一体感破壊目的で運動している高等戦術だと解した方が合理的な感じです。
水門を「開けろ」と言う判決と「開けるな」と言う両立出来ない現実がどうなるかですが、この矛盾の結果、国は開けることも閉めることもできません・・他方で「◯◯するまで一日いくらの賠償金を払え」と言う付随命令(間接強制)がついているので、地元対立と国の賠償金支払だけが続く変な解決?を目指していたことが分ります。
これでは地元対立を半永久的に放置する・・煽りっぱなしになって、諫早の干拓事業をどのように解決するべきかの国民的展望がたちません。
対立を止揚した解決ならば地元の対立も収まり「雨降って地固まる」平和な社会になりますが、対立を煽りっぱなし・・日々賠償金をとられっぱなしでは・却ってしこりが長引きます。
乱暴な改革は良くない・・漸進的改革が日本民族の世界に誇る智恵ですが、それと矛盾した意見を煽るだけ煽って、相手の傷口に延々と塩を刷り込むような状態を固定するのとはちがいます。

被害想定基準4

1000回に一回崖から落ちたり、エベレスト滑降スキーで命を失う人がいるとしても、その程度のリスクならばと、冒険を選ぶ人もいます。
個人プレーとはちがう地域安全は個人の勝手とは言えませんが、これを民意を吸収した政治で決めるべきか司法が決めるべきかのテーマです。
世上原発事故が起きると重大事故になるから司法が決めると言う印象が流布していますが、重大事故に対する規制も又巨大なマイナス効果を持ち、判断要素が複雑に絡まりあっているのですから、単線思考に優れた学校秀才・エリートよりは多様な民意吸収や複雑系判断に優れた政治家が決めるべきです。
何よりも国民主権・・民意重視の近代社会の価値観にもあっています。
その地域の人たちが自由意思で決めることであって、その地域外の人がとやかく言うのは本来間違っています。
地域内の少数派が地域外の中央から派遣される国の機関である(民意を受けた政治の支配下にない)裁判所に是非の決定を求めようとしているのが原発停止の仮処分です。
ところで被害想定→規制基準はいつも過大になる傾向があります。
ソモソモ各種規制・・被害想定自体が政治的(運動家の運動によって)決められて来た経緯があり、科学で決まったものではありません。
この辺はフッ素化合物の事件をやった経験でも、2月ころに環境大臣発言問題に関して書きました。
個別化学品等の危険騒動は、対象になる被害業界の声が小さい・・単体の製品業界はマスコミの袋だたき・合唱の対象になるととても太刀打ち出来ませんから・・非合理に厳しい基準になって行く傾向がありました。
自主規制でさえも行き過ぎと言うか、いわゆる賞味期限切れ食品等廃棄の行き過ぎ・・食品や自然そのものは抗議の声を挙げられませんが、万物に神宿る日本人の精神からすれば許されることではない・・あまりにも資源の無駄遣いをすれば環境のしっぺ返しを受けるでしょう・・賞味期限切れ商品を集めて後進国へ寄付する動きすら報道されています・・がこの弊害の現れです。
これまで安全基準は規制される方の声が小さいことを良いことにして「厳しければ厳しい程良い・・はっきりしない場合は多めの基準にする」と言うマスコミの主張がありました。
何事も一定の規制をすれば必ず反対側に規制される側がありますが、この思想は相手方・過剰規制によって発展阻害される方を敢えて見ない偏ったものだったのです。
人権?運動家の多くは、高速道路反対、飛行場反対・・各種操業(ゴミ処分場・工場・葬儀場・ビル建設、高層マンション反対・・環7や環8あるいは圏央道や外郭環状線反対その他大方(今や身の回りになくてはならないほど日常便利に利用していること全て反対でした)反対などに始まって、電子レンジ、防犯カメラ、パソコンの電磁波・・最近では電気自動車は低音だから歩行者には危険だと言う主張もあります・・新しいものが出るとすぐに◯◯が危険と言って反対するなどを見ると・・発展しそうな事柄には何でも反対する傾向で一貫しています。
そもそも新しいことが普及するのに反対するのを共通理念・・高度化便利化にすべて反対して来た流れを見ると、産業規制が強ければ強いほど良い・規制が強くて結果的にその産業がなくなれば最高の成果になるのでしょうか?
安全基準は厳しければ厳しい程よいというマスコミ・文化人の誘導が強く・おかしいなと思っても黙っていた国民が多かったのですが、マスコミもさすがに世論(産業を敵視運動は国民自身の職場でもありますので)の一定の支持を受ける(今の民主党支持率は10%以下でしょう)には、企業活動が存続出来る限度と言う縛りがありました。
露骨に国民の職場がなくなっても良いとまで言うのでは、文字どおり外国の回し者か?と疑われてもっと支持率がもっと下がりますので、日本産業壊滅目的を隠して名目上「環境保護」に頼り、その基準を非常識に挙げる努力に特化してきたように思えます。
反日運動家の拠り所はこうして(素人には分らないから専門家に任せろと言う)憲法違反とか、環境基準と言う(学会の通説からはなれた)偏った学者の総動員に振り向けられて来たように見えます。
民意よりは訳の分らない権威を振りかざして黙らせる手法の採用です。
革新系は議員その他支持者に東大卒とかなんとか高学歴者、医師弁護士や文化人?等を重宝する傾向が強いのは、こうした現れです。
朝鮮族ではヤンパン思想の名残で、今でも相手が先ずソウル大卒と自己紹介すると格の劣る学歴の人は人は反論出来なくなる図式が知られていますが、韓国流儀が日本でも通用すると信じ込んでいる様子です。
東大卒も憲法学者も元最高裁判事も作家も一杯いるのに,その中の少数の学者や元判事が一人でも数人でも革新系有利に発言するとその道のプロみんなが主張しているようなマスコミ報道が普通です。
1億以上の人口の中で僅か1000〜2000人が反対デモすると、市民の声を無視するなと言う主張も同じです。
サイレンとマジョリテイーについてこの後で書くつもりですが、マスコミは騒ぐ人の意見に対して何十万倍もの価値を認める傾向があります。

非武装論と受益者1

自衛権がない・・憲法に書いてあるから内容の是非を問わない・・護憲派の集団自衛権論争も内容の是非よりは憲法違反かどうかだけをテーマにしています。
非武装しかないと主張しながら、そのとおりすると民族自立はどうするのかと言う議論には応じない・・。
兎も角(内容の議論など応じる必要がない・・)立憲国家である以上は憲法に従うべきだと言うだけです。
「憲法に書いているとおりだと良くない結果になる」と言うならば、「憲法改正を提案したら良いでしょう」そこで「国民判定を待ち、勝負しましょう」と言うならば普通の議論ですが、彼らは憲法改正を論じること自体に反対しています。
この意味で護憲派と言うのでしょうが、改正論を議論すること自体が憲法違反のような勢いです。
護憲勢力が、「憲法9条を守れ」と主張し運動していますが、例えば日弁連などが憲法を守る義務あることと改正自体に反対することは別・・どう言う憲法が良いかの意見や運動は、純粋な政治運動になるのではないでしょうか?
政治活動ならば、非武装のママでしかも相互防衛条約がなくて一国だけで防衛出来るのかなどの当否を正面から議論すべきです。
相互防衛条約を結べば相互に応援しあうのは当然のことになります。
非武装論者と護憲勢力が概ね一致しているので、内容の議論に入ると「憲法に書いている以上は守るべき」で議論する必要がないという循環論ですから,普通の人が聞いていると頭がおかしくなりそうで「偉い人の言うことはよく分らない」と言う形で(日本人は相手をバカにしません)議論から遠ざかります。
非武装論者はこれが狙いで論破したつもりでしょうが、国民の多くは納得していないので、選挙になるとおかしな議論をしている方の支持が少ない結果になります。
憲法改正の当否に関する運動は、革命騒動を見れば分るように国家の基本を変えるかどうかの尖鋭な政治そのものですから、これに反対するのは憲法遵守義務と関係のない政治主張です。
日弁連が直截9条を守る会を運営していないのは、「弁護士会が政治活動すべきではない」と言う縛りに関する配慮でしょうが、地方単位会では9条を守る会に堂々と便宜を図って会館を利用した集会などが行なわれている印象→何気なく見ている印象しかなく、正確に見れば、単位会これらの文書配布に関係しないよう・・関係者が勝手に会員のメーボックスに投函しているので、事務員が持ち帰っているだけでかもしれず、会としては慎重に区別しているのかも知れないと言う意味です。
非武装論者は「憲法改正絶対阻止」と言う立場で改正論を議論すること自体に反対ですから、要は外国支配を受けても非武装論の貫徹をすべしと言う立場を護憲運動と言い換えているに過ぎないことが分ります。
護憲=国民は憲法を守りましょうと言う運動は、正に立憲主義の元にある弁護士会の正当な運動ですが、護憲に名をカリテ憲法改正反対運動をするのは純粋な政治活動です。
米ソ対立時の非武装論は、一方に加担しない・紛争に巻き込まれない消極的効果がありましたが、(全て本来の中立などあり得ない・・苛めているときに黙って見ている・・意見を言わないこと自体が強い方の味方であると言う意見を大分前に書いてきました・・)アメリカ支配下にありながらアメリカの応援をしないこと自体が、アメリカの敵方の消極的支援になります。
それでも他人間の戦争・紛争に巻き込まれるのはイヤと言うのは、(個人で考えれば分らないが友人が殴られているときに傍観しているようなこと(・・そんな自分勝手で世間に通用するかの問題意識が必要ですが、)一応の説得力があり戦争に懲り懲りした民意にもあっていました。
米ソ対立がなくなった後・・他人間・・アメリカとどこかの争いではなく、日本が当事者である日中、日韓の対立になっても「巻き込まれるのはイヤ!・非武装論貫徹論」は?どう言う意味があるのでしょうか?
日本国益を守ることに加担しない=日本人がにっぽんと外国との争いに中立であることなど論理的にあり得ません。
自分と友人との争いに自分が中立だと言っているようなもので、・・右手で戦っているときに左手は、中立と言うような意見で、言わば狂人の論理です。
日本人でありながら,相手に何をされても抵抗するな!と言うのは、外敵を利する行為ですから、あいつは簡単だと言う気持ちにさせる・・外敵誘致するための政治運動になります。
2者・隣国と一触即発状態で争っているときに一方だけ非武装のママが良い・・「軍備増強して戦争に備えることを許さない」・・と言う国是ってあり得るでしょうか?
戦略的にここは引いた方が良いから、外交交渉で・・と言うこともありますが、選択肢ではなく、頭から「どんな条件でも言うことを聞きます:」と決めている国がどこにあるかと言うことです。
戦前で言えば一方の国は無制限に海軍力を増強出来て日本だけ軍備生産を増強禁止されているような片手落ちの競争条件が正しいと主張している関係です。
民事事件で言えば一方だけ弁護士相談を禁じるべきだと言う意見は、どちらの利益のために主張しているのかと言う明白な事実です。
戦略的に・・弁護士相談したがその上で「ここは弁護士を表に出さない方が良い」言う選択は勿論ありますが・・相談自体をしてはいけないという意見を批判しています。
あるいは武士が喧嘩相手から呼び出されて村はずれの場所に行けば、斬りあいになることが予想されるときに一方にだけ刀を持って行くのを禁じる・・丸腰で行かざるを得ない不公平な条件です。
これは法律論ではなく、特定勢力に有利にするための単なる政治運動であり、極めて尖鋭な政治運動そのものです。
政治運動でしかないのに、法律論のように見せかけて憲法学者が如何にも国民よりも優越的識見があるかのように声明を出す事自体がおこがましい・・ここでも政治論を法律論にすり替える誤摩化し・・僭称する図式が見られます。

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