マニュアル化5(功罪?2)

すでにマニュアル化されていることを詰め込みはイヤだと言って学ばずに、自己流ぎをゼロから考えるより、現に流通しているマニュアルをまずマスターし、その上でそれが合理的か、あるいはその先・マニュアル改訂版を考えるのに頭を使う方が効率的です。
創作の最たるものとされる美術でも、幕末西洋の遠近法を知るとすぐにこれを取り入れたり、先輩の開発した新たな技法を真似たりして自分のものにしていくのが普通です。
もっと前から水墨画でもみな同じです。
作家でも文体その他先輩の技法を学んで表現するものではないでしょうか?
例えばファミレスや、コンビニ等で新人採用したときに自分で考えて、職務にふさわしい衣服にし、接客しろと突き放す(自主性尊重?)よりは、ユニホームを支給し接客や調理マニュアルを作り、最低基準を守らせる方が(採用にあたってセンスの有無その他総合力を見る必要もなく)合理的ですし、田舎から出てきた子供でもすぐ対応できて底上げが容易です。
マニュアルをマスターして日々間違いないように接客し、さらに工夫できる人だけが工夫に精出す社会にすれば最低水準が上がります。
学校制度も元はそういう意図で制度化したものだったでしょう。
世に「識者の意見」という熟語があるように、もしも同じ思考力のあるもの同士の議論であれば、多様な事例を知っているものの意見の方が多様な事例を踏まえて考えることができる分有利です。
専門分化の少ない時代には、まずは経験豊富な長老の意見が重視されたのでしょう。
弁護士会や自治体の会議で、経験のない事態が起きた場合に、先進自治体や他の弁護士会で同様事例がないかを調査して先例を参考に自分たちがどうするかを議論するのが普通です。
まずは先人の到達した結果を学ぶこと・その上で、なぜそういう原理(数学のサイン・コサインや掛け算の九九)ができたかを自分で考えることでしょう。
まずは・・と問答無用で身につけるべき先人の知恵が多くなりすぎて、高校生くらいまではある程度知識詰め込み教育(中心・・というだけである程度自分で考えないと知識すらも入ってきません)になっているのは仕方がないと思われます。
孔孟の教えの丸暗記、李白・杜甫等の漢詩や、「見わたせば山もと霞む水無瀬川・・」「山のあなたの空遠く・・」、「まだあげそめし前髪の・・」「汚れちまった悲しみに・・」・「遠田のかわず天に聞ゆ・・」等々は、どうやって詩になるかまで考えなくとも、若い時にはまずは心に染み込むまで読み込んでおくのが肝要です。

雨あがりの水田の中を抜けての久留里城に行ったときカエルの合唱を聞くと、水田地帯で育った子供の頃の情景がまざまざと思い出されるなど中高年化してから役に立ちます。
今は高校や大学卒業後さらに専門教育を受ける・自動車修理工や福祉関連作業、電子産業関係、理髪、看護師などなど各種学校花盛りですが、そこでも大卒でも素人である以上は、先ずはマニュアル本を一々見なくても手足が動くように訓練することが先決です。
寿命が伸びて大人(一人前)になるのが遅くなった分、先人の知恵の詰め込み時間が長くなってもバランスとしておかしくありません。
あるいは、多くの青年が詰め込みで終わってそれ以上のことがなくとも、独創力を発揮できる人は滅多にない・マニュアルマスターできれば、並みの職人隣、そこまで行かない人が大多数であるからこそ凡人というのであり、凡人の凡人たる所以ですから異とするのは足りないでしょう。
マニュアル・・先人の考え出した名人上手の作業手順(各種機械の修理その他)を意味不明のままでも訓練して体で習得し、そのまま手順良く行える・・既存知識を習得しているだけ・・ちょっとした機械修理をできる人材の裾野を広げるのは有意義です。
名人まで行かない修理専門学校卒程度のレベル・・多くの人が自動車修理工・理美容師、家電製品修理工や、理学療養士などになれる・・車その他大量供給製品普及の足腰になるのです。
料理も同じで、特殊名人の料理店が一軒しかないよりも、個性がなくとも名人の作ったレシピやマニュアル利用で大量出店してくれる方が、多くの人がソコソコの美味しい料理を味わえます。
家庭の主婦が何も学ばないで独自色?の夕食を作るより有名ホテル等のレシピやレトルトフードを組み合わせたほうが短時間で一定水準の夕飯を作れて幸福です。
どこの修行も修行したことがなく独自工夫で高級レストランの料理以上のものをいきなり創作できるひとは何十万に一人いるかいないかですから、まずは超一流レストランで修行し自分のものにできるようになっただけでもかなりの能力者・・高級技術者レベルでしょう。
そこまで修行しなくとも一定の中級料理人レベルで作れそうなマニュアル本、さらにはちょっと器用な主婦レベルでも作れる簡略マニュアル本が普及するようになれば、草の根の食生活レベルの底上げになります。
複雑な料理がマニュアル化によって一般料理店でも大量供給できると、素材需要が広がるので一般食料品店・・素人でも素材入手容易になる社会分業が発達します。

マニュアル化4(功罪?)

高齢化社会の問題は、緊急事態下(出先で地震等の災害にあったときに)で備え置かれている器具の操作説明をとっさに理解し、操作するのは無理がある点です。
高齢化すると過去の知識・人名などとっさに出ないことが多くなりすが、そのときマニュアル表示みれば良いと言っても一定の応用力が必要です。
若い人でも初めて見て応用するのと、9割方身についていてちょっとだけ確認しながら操作するのとではスピードや正確性が大きく違います。
このために各種組織では緊急訓練を年に一定回数してある程度身につけて置くようにルール化しているのです。
高齢者は、出先に備えられている器具について訓練を受けたこともなく、触ったこともないので、手順通りにボタンを押していくのが苦手で(しかも文字が小さ過ぎます)エラーばかりで多分複雑操作開始に行き着けないでしょう。
話題が横にそれましたが、熟練者の手際の良さや法律専門家がいろんな場合を学会で論じて定説になっている場合、それを公開共有しようというのが、昭和末・・15年間ほどで急速に進んだ明文化やマニュアル化社会の方向性でした。
刑法なども、傷害罪や窃盗や業務上横領など懲役10年以下と書いてるだけで、事案によって傷害の場合罰金で済むこともあれば、懲役何年というのもあるし、殺人罪では、死刑から執行猶予まで幅広く、どの程度の殺人行為が死刑になり無期懲役や懲役7年〜5年になったり執行猶予になるかなど全く書いていません。

刑法
第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
二百四条 人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
(傷害致死)
第二百五条 身体を傷害し、よって人を死亡させた者は、三年以上の有期懲役に処する。
第二百三十五条 他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
第二百四十六条 人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。

専門家だけが知っている「量刑相場」で決めるのが主流でしたが、裁判員裁判制度が始まると止む無く?「量刑相場」を裁判員に文データ開示するようになっています。
こうなってくると罪刑法定主義・あらかじめ「何をしたらどういう罪になる」かを国民に公開しておく制度趣旨から言って、どういう傷害や窃盗〜殺人の場合にどういう刑罰を受けるかの幅を公開しておくのが合理的です。
比喩的に言えば従来1条だけで終わっていた条文を場合ごとに切り分けた法律にして、裁判員になったときだけ知るのではなく、国民が知りたいと思えば誰でもいつでもアクセスできるように改正するのがあるべき姿でしょう。
マニュアル社会に戻しますと、法令やマニュアルを公開しても普段用のないときは知らなくとも良い・・いざという時に誰でもそのマニュルを見ればある程度分かるようにしていくのは法令に関しては民主的であり個人生活としても合理的です。
地図の知識も今は不要です。
知らないところへ行く時も最寄駅を知らなくとも、自宅を出る前に検索すればすぐに行けますし、最寄駅についてからスマホ等で目的のビルを検索すれば間に合う時代です。
東京駅から大手町にかけての地下街は、そこで働く人は別として私のように時々用があって東西線に乗り換えたたり、パレスホテル等へ行く程度の人にとっては、表示板の番号に従って歩いていれば着くので迷路のような通路を地図的に頭に入る余地がありません。
自宅から目的駅までの料金をあらかじめ知らなくとも、スイカ/パスモ等で乗り換え駅も通過していけるので前もって小銭等の準備もいりません。
日常生活で言えば、日常的に用がないのものを買い集めて自宅の蔵に保管しておくのではなく必要なときに買いに行けば良い時代がきたように、知識もパソコンに預けておけばいい時代です。
昭和の終わりから平成のはじめ頃にかけて、レックだったか司法試験受験予備校が隆盛を誇る時代に突入していたことから、修習生を預かる会員と意見交換会を設けると、「最近の修習生は予備校でマニュアル特訓で合格してくるので、何か課題を与えると『どの参考書に書いてあるのか?』と聞いてくる修習生が増えた・・「自分で考えようとしない」という不満をしょっちゅう聞いていた記憶です。
日弁連の司法修習委員会でも同様の意見が出ることが多く、「今の若者は・・」論の一種という感想で黙って聞いていることが多かったものです。

中世の紛争解決基準・元祖マニュアル化3

昨日紹介した刑事訴訟法のルールを見ると、開示を請求する以上は求める証拠別に特定して請求される側の検察が合理的対応できるようにすべきは当然の筋道ですから、事実上行われてきた暗黙のルールを明文化しただけのようです。
平成二十九年成立して20年6月施行される債権法大改正の多くも、判例通説等で運用されてきた運用実務を明文化するのが大方で、その他少しですが、学説判例等が分かれていて未解決部分であった部分をどちらかの学説で決めたり、こういう問題があるので・・・と意識されていても裁判等になっていない問題点・・例えば長期低金利下で、年5%の法定金利は時代にそぐわない(金利変動に対応できるようにする)など新規規定するした・この必要性は低金利が始まった時点で私のこのコラムでも書きましたが、基準金利が機動的変わる関係で、銀行の場合複雑な計算が可能ですが、個々人の貸し借りや損害賠償請求でこれを法で取り入れる場合、対応可能(例えば何年も返してくれないので5年くらいして訴訟するときにこの間に何回金利がかわったか・その都度変わった金利で計算するのか?)私のパソコン処理能力では想定自体不明でしたので問題提起していただけでした。
これが「識者の検討で合理化されて条文になっていますので、関心のある方はネット検索してみてください。
我々専門家でも、細かすぎる(技術的すぎる)のと高齢化のせいで読んで理解してもすぐに忘れるし、事件受任のときに見直せばばいいというスタンスになります。
法務省の解説です。
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji06_001070000.html

平成29年5月26日,民法の一部を改正する法律(平成29年法律第44号)が成立しました(同年6月2日公布)。
民法のうち債権関係の規定(契約等)は,明治29年(1896年)に民法が制定された後,約120年間ほとんど改正がされていませんでした。今回の改正は,民法のうち債権関係の規定について,取引社会を支える最も基本的な法的基礎である契約に関する規定を中心に,社会・経済の変化への対応を図るための見直しを行うとともに,民法を国民一般に分かりやすいものとする観点から実務で通用している基本的なルールを適切に明文化することとしたものです。
今回の改正は,一部の規定を除き,平成32年(2020年)4月1日から施行されます(詳細は以下の「民法の一部を改正する法律の施行期日」の項目をご覧ください。)。

上記の通り、「実務で通用している基本的なルールを適切に明文化することとした」というので、比喩的に言えば、1条で済ましていたルールをいろんな場合に分けてプロの間で議論し、判例等で集積していたものを、明文化・具体化したことになります。
個別事情に合わせていろんな場合を明文化すれば条文数が膨大になりますが、民法中の一部改正なので全体条文を動かせないので、元の条文に枝番をつける形になっています。
生活の基本法となる民法と違って、現場変化の激しい会社法が商法中の一部であったときには、株式の問題や会計原則や企業統治関係の思想などがしょっちゅう変わるので枝番だらけでしたが、平成十六年頃に、商法から会社法を抜き出して独立の「会社法」にしたときに会社法だけで、約千箇条に及ぶ大規模法典になりました。
このように物ごとは常識に委ねないでどんどん細かくなる一方・・ルールも細くなる一方・日常的生活場面で鍛えられる程度の常識で間に合わない・・・専門化が進んでいます。
食品でも単に炭水化物やビタミン等の栄養素を羅列するのではなくアレルギー関連表示を普通にしているように、表示基準も微細化している・うちは品質に自信があるというだけではルール違反になる時代です。
道路利用なども、車利用になると交通法規が必要になったように、宗教論として善人かどうか、道徳教育だけでは解決できなくなっているのが現在社会です。
千差万別というように物事はその道に分入れば分け入るほど、いろんな事例に応じた応用があるものです。
これが従来専門家の領域として、あるいは担当者がよく考えて決めたことを部外者・素人は口出ししないという暗黙了解で社会が動いてきました。

暗黙知で動くのは各分野で複雑化した現在では無理がありますから、(いろんな施設に備え置かれている救急救命装置の使用法など)誰でもわかるようにマニュアル化しておく時代です。

利害調整基準明確化・御成敗式目1〜武家諸法度

御成敗式目に関するウイキペデイアの引用です。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、鎌倉時代に、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武士政権のための法令(式目)である。貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)制定。貞永式目(じょうえいしきもく)ともいう。ただし貞永式目という名称は後世に付けられた呼称で、御成敗式目の名称が正式である。また、関東御成敗式目、関東武家式目などの異称もある。
沿革[編集]
鎌倉幕府成立時には成文法が存在しておらず、律令法・公家法には拠らず、武士の成立以来の武士の実践道徳を「道理」として道理・先例に基づく裁判をしてきたとされる。もっとも、鎌倉幕府初期の政所や問注所を運営していたのは、京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者であったために、鎌倉幕府が蓄積してきた法慣習が律令法・公家法と全く無関係に成立していた訳ではなかった。
承久の乱(1221・稲垣注)以後、幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人・公家などの荘園領主・現地住民との法的な揉めごとが増加するようになった。また、幕府成立から半世紀近くたったことで、膨大な先例・法慣習が形成され、煩雑化してきた点も挙げられる。

関東御成敗式目は、それまで武家内の規律を定める法令がなかったものの事実上武家支配が広がったので、これを明文化した初めてのものらしいです。
源平物語では義経が頼朝の許可なく朝廷から叙任されたことを問責されて義経の悲劇が始まるのですが、これは武家内の常識?礼儀にとどまるもので、法令化されたものではありません。
幕府成立後も朝廷法(律令法)が基本的に通用している西国と武家法が基本的に通用している東国方面に分かれる二頭政治が行われている時代が続きますが、承久の乱(1221)によって西国へも地頭派遣するようになり全国的に武家法が浸透するようになります。
全国区化していくと武家法の内容が慣習によるだけでは、(地域差もあるし)全国基準がはっきりしない・・問注所の裁決基準を明瞭化する必要に迫られた・約4〜50年経過で事例集積が進んだので明文化する準備ができたこととの両面によるでしょう。
徳川家が1615年禁中並公家諸法度と武家諸法度をを公布したのは、戦国時代を経て武家と公家の二本立ての境界不明の法制度から、徳川家の定める法度(法)が武家と公家双方規制する「法」制定を宣言した事になります。
大坂夏の陣直後の制定ですから、高齢化していた家康は急いだのでしょう。
その後、後水尾天皇が勝手に高僧に紫衣着用を許したことで秀忠と後水尾天皇の確執になったことが有名ですが、沢庵など高僧が朝廷側の論理で幕府に反論した為に処罰されるなど実力装置を備えた武家に叶わず(・この点は清盛の実力行使以来実証済みでした)結果的に朝廷が屈服します。
ちなみに紫衣事件は(1629年)家光時代ですが、秀忠存命中(1632年死亡)の事件で抗争の主役は秀忠と後水尾天皇でした。
赤恥をかいた・・後水尾天皇の退位宣言騒ぎに発展し・・和子の娘女一ノ宮に譲位・・女帝は結婚できない不文律の結果、徳川氏を外戚とする天皇出現不可能となり、他の皇族男子がその次の天皇と決まる・・藤原氏以来の伝統である実力者が外戚になり影響力を行使する方法を徳川家が断念する結果になり、以後幕末の公武合体論まで天皇家と徳川家の婚姻はなくなります。
後水尾天皇側・・貴族流策略の勝ちとも言えますが、徳川家は開き直って外祖父によって事実上次期天皇に影響を及ぼす→天皇権威尊重の必要を求めず、実力で天皇家行動を支配する関係が露骨になって幕末に至ります。
もともと徳川家の定める法(法度)が天皇家の定めより上位(法度に違反した天皇の宣旨勅許が全て無効)になるようにした以上は、徳川家が外戚になって天皇の行動に事実上の影響力を及ぼす必要を認めなくなっていたということです。
これが江戸中期の非理法権天の法理→「道理に合わなくとも実力に裏付けられた法には叶わない」・・誕生・「悪法も法なり」で良いのか!という幕末倒幕思想にもにつながるようです。
紫衣事件に関するウイキペデイアの解説です。

幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったという事を意味している[1]。

いわば観念の世界ではまだ朝廷の権威(いわば有職故実の総本山程度のブランド力)があるとしても、実定法の世界では武家政権の定めた禁中並公家諸法度が朝廷の先例や決定より上位になる宣言でした。

オーナーと管理者の分配4(利害調整能力1)

平治の乱以降の政治は、清盛の意向によるしかない・・武士の力なしに何も決められなくなった事実が明らかにされました。
こうなれば従来貴族層有利な裁定が多かったと思って不満に思っていた武士団の期待が高まります。
ところが清盛はいきなりの政権奪取だったのでこの辺の準備がなかったか?気が付かなかった結果か不明ですが、先ずは平家一門の官位昇進中心で「平家にあらずんば人にあらず」とまで揶揄されるほど身贔屓が露骨すぎたようです。
信西が身内の栄達に邁進した結果、院政派と天皇派の争いを超越した公卿社会共通の怨嗟の的になった教訓を活かさなかったのでしょう。
その上に、平家以外にも少しは気配りしたとしても官位斡旋くらいしかなかったので、官位昇進など関係ない地方武士団の失望を買ったでしょう。
頼朝はこの点を教訓にした結果か?天下を掌握してからも自分の官位昇進を全く受け付けない・・官位返上まではしないまでも朝廷の権威無視?のまま・のちに鎌倉殿と言われるまで左(すけ)殿と言われています。
ちなみに、三条殿とか鳥羽殿とかいうのは外部からの呼称であり、鎌倉殿と言うのは、鎌倉以外から見た表現・・朝廷周辺の外部からの文章表記のことで、鎌倉幕府内・・特に政子が鎌倉殿と言うはずがないので、一般には死亡まで「すけ」殿が普通であったでしょう。
ちなみに佐殿とは頼朝が子供の(11〜2歳)頃平治の乱で義朝が賊軍になるまでのホンのわずかの間に任じられていた官名・・右兵衛権佐のままということです。
清盛に戻しますと、官位斡旋に関しては源頼政の不満を吸収するために四位から三位(殿上人)に引き上げたことが知られていますので、源三位頼政に関するウイキペデイアによると以下の通りです。

のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな
『平家物語』 巻第四 「鵺」
という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたという。
史実でもこの頼政の従三位昇進は相当破格の扱いで、九条兼実が日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記しているほどである。清盛が頼政を信頼し、永年の忠実に報いたことになる。この時74歳であった。
翌治承3年(1179年)11月、出家して家督を嫡男の仲綱に譲った。

もともと平氏は源氏に比べて、地元密着性が低かったのかな?
(平将門の乱は平氏同士の調整能力不足で起きたものでしたし、頼朝挙兵に馳せ参じたた千葉氏も平氏でしたが、相馬御厨の管理権争いで平家が当てにならなかった)
その代わり宮廷多数派工作に慣れていたので天皇家同士、藤原氏同士の争いにうまく適応できた面もあったでしょう。
保元平治の争いは、上皇と天皇の二大勢力の他に旧来勢力というか、公卿旧勢力不満の三つ巴でした。
平家物語を読むと源氏はいかにも坂東武者そのままで垢抜けないイメージですが、源氏は摂関家の下で武士の分際を弁えて忠実に振る舞ってきた・・各地荘園で地方の揉め事を処理する経験を積み実務能力に長ける→その分京での公卿相手の複雑交渉不慣れだったでしょう。
(伊勢)平氏の場合、忠盛の時からジワジワと貴族社会に足を踏み入れていた・その分叩かれ嫌がらせされましたが、複雑な争いが始まると過去に公卿社会に揉まれた経験が生きてきます。
源氏は摂関家の良き忠犬としての役割に特化してきたし、たまたま当時不祥事が続き小さくなっている状態で波乱の時期に遭遇しました。
ウイキペデイアの記事引用です

源為義(みなもと の ためよし)は、平安時代末期の武将。祖父は源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。源頼朝・源義経らの祖父。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。

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