条約成立後の専門家の役割3

昔から酒席等で冗談まじりに誘いをかけて見込みのありそうな反応を見た上で、別にこっそり会って謀議に引き込むのが普通のやり方ですから、逆から言えば、古代から酒席の冗談程度では検挙されなかったことが分ります。
まして今時「恐れながら・・」とイキナリ誰かが訴え出るだけ・・供述調書だけでは、有罪に出来ない・・検挙も出来ない時代です。
現在中国のように有罪かどうか別としていつの間にかどこか連れ去ってしまうやり方(最高首脳部の一人であった周永康については未だにその消息さえ不明・・APEC直前書類送検発表があったともいわれていますが、その程度です)は先進国では不可能・司法機関の発する令状がないと検挙すら出来ない点・・司法インフラの整っている国と整わない国の違いを区別しないでごちゃ混ぜにした議論です。
公害で言えば、公害防止装置のある工場に対しても、公害防止装置のない企業に対するのと同じように操業停止を求めているような議論と言えるでしょうか?
ですから、マスコミや文化人と称する人達の「心配で冗談も言えない」と言う宣伝は、古代からの実際の運用等にすら反していますし、(秘密警察が横行していたソ連や中国のように司法外の拘束が優越するような国とは違い、)三権分立が確立した現在日本の社会インフラにあわない議論です。
共謀罪処罰法が出来ても実際に運用する捜査機関側の方では、すぐにはどう言う証拠をどうやって収集するか(11月16日から書いているように、そもそもどう言う状態を「犯意」とするかの定義すらも試行錯誤中でしょう)試行錯誤が続くと思います。
法律や条約が成立した以上は、「犯意」の決め方や共謀認定の客観性を担保するにはどう言う証拠がいるかなど、この方面で厳格な運用を求めるなど法手続において人権擁護のために努力して行くのが法律実務家の使命です。
企業トップが無茶なテーマを打ち上げると、出来る訳がないと反対するよりもトップが決めた以上技術者がその実現に死に物狂いで邁進する・・こういうことでやり抜いた企業や人材だけが躍進して来たのです。
日経新聞で1ヶ月ほど前に連載していた植田紳爾氏の「私の履歴書」・・宝塚劇場の「ベルバラ」などの演出を手がけて来た人の文章にも、そう言う場面が一杯出てきます。
彼に限らずこれまで「私の履歴書」を連載した人の多くが、絶対出来そうもないトップの命令や環境に食らいついて行って、何とか成し遂げた人が多いのです。
そこまで成功しないまでも、上司の命令に出来る訳ないだろうとしょっ中不平ばかり言って努力しない従業員って、会社の役に立ちますか?
日弁連が政治が決めるまでに参考意見として一定の意見を述べるのは専門家集団としての職務ですが、国会で決まってしまえば、これを受入れてフォローする・・問題点があるとしたら、そのマイナス面を最小限にする・・人権擁護のために苦心し、法の適正な執行にエネルギーを注ぐことが社会の一員としての責務ではないでしょうか。
政治運動したい人は同好の士を募って別集団を立ち上げてやればいいことで、日弁連の名で行なう必要がありません。
政治意見実現のために結集した団体ではないのに、会の執行部が委託されていない政治活動をするのは、反対者まで代表しているような誇張主張になります。
私は10月19日に書いたように、元々刑事弁護の専門家ではないので共謀罪の是非は良く分っていない・・どうでも良いことですが、日弁連が政治に入れ込み過ぎていないかの心配でここまで書いてきました。
共謀罪処罰法を制定する立法事実がないと日弁連が主張しているので、そうかな?と思ってこれまで縷々書いて来ました。
立法事実があるかどうか、即ち法制定必要性の有無は、まさに政治・世論が決めることではないでしょうか?
私は共謀罪制定によってえん罪が増えるのは(本当にえん罪が増えるならば)困ると言う意見では、日弁連と同じですが、これまで私見を書いてきましたが、この道のプロではないのでそれ以上はよく分らないので、元々は制定自体に反対でも賛成でもありません。
しかし、自分の意見と仮に同じとしても、日弁連や単位会が会の名で政治活動することは反対です。
組織に頼りたいならば、それぞれが自分の意見に合う集団を作って独自に活動するべきです。
大阪の橋下市長が、在特会会長との10月20日ニコニコ動画での対談において(言い分があるならば、街頭運動しないで)「選挙に出て主張しろ」と変な主張をしていましたが、私は彼のように政治家以外の民間人による政治運動をやるなと主張しているのではありません。

条約成立後の専門家の役割1

組織暴力団でさえなければ、(偶発的に集団化した場合・・または一旦解散して別組織にした場合や、本体そのままで別組織を立ち上げた場合などまだ組織暴力団の指定を受けていない状態)犯行計画が分って証拠まであっても、やられるまで放置すればいいと言う時代・・国民意識ではなくなっています。
暴力団だけではなく一般人でも、犯行グループをネット募集するようになった場合に、これが予め分っても彼らが誘拐や殺人を実行するまで放置しておいて良いという社会意識ではないでしょう。
共謀罪の立法化は組織暴力団・テロ集団ではなくとも、第三者と計画した段階に至れば、処罰が必要と言う世界全体の総意が成立した・これは政治決着であって法律家がどうのこうの言うのは範囲外の分野です。
どの集団階層の利益擁護であろうとも、利害集団のために運動するのは、その時点で政治運動分野です。
ですから、法律家である日弁連が組織暴力団をかばっているのではない・・個人犯罪まで処罰するのはおかしいと言う意見だとしても、こうした犯罪予備軍のために何故運動するのか理解不能です。
そんなバラバラの予備軍(予備軍の人はいまは幸せな恋人同士・・またはまだ恋人がいない状態ですから、自分が将来ストーカーになると予想はしないでしょうから、(この段階の人に聞いたらほぼ大多数がストーカーなんて悪いことだと言うでしょう)大した応援団になる筈がありません。
あるかないか分らない支持母体を当てにして熱心に反対運動しているとはとても思えません。
だから、バックの抽象的な人権擁護のために活動していると言うのでしょうが・・。
人権擁護の心配ならば近代刑法の理念に反すると言う抽象論ではなく、どう言う場合に侵害のリスクがあるかを具体的に主張すべきではないでしょうか?
共謀罪が法制化された場合の人権侵害が心配ならば、・・しかし、共謀罪制定は国際条約上避けられないとすれば、法律家は犯罪化の前倒しの必要性にあわせて、共謀の概念定義の緻密化や証拠法則の充実等を提案して行くべきです。
車は危険だとしても、社会に反対しないでガードレールを作れ、信号機を整備しろ、歩車道の区別をしろなど言うのと同じ方式で良いのではないでしょうか?
いわゆる公害企業も同じです。
石油製品生産に反対するのではなく、公害防止技術の発展を期すれば良いことです。
10月30日にちょっと書いたテロ組織「イスラム国」を支持するのかどうかの問題に戻します。
私自身もこれまで何回か書いていますが、西欧が中東やアフリカ地域で現地諸部族の居住地域に関係なく・・と言うよりお互いに反目するように民族を分断する形で勝手に引いた国境線を変更すべきと言う動き自体は当然だと思っています。
欧米が植民地支配に便利なように作った秩序否定の主張を支持したい気持ち・・日本で言えば戦後秩序の否定)とは別に、彼らテロ組織が支配下に入った少数民族を奴隷化すると言う宣言等を見ると、西欧の植民地支配の悪い点を拡大しようとしているようですから、これを支持したいと思う人が少ないのではないでしょうか?
仮にテロ組織「イスラム国」を全面的支持している人がいてもそれはそれで個人の勝手ですが、今この時点で、日本国がアメリカを中心とした世界秩序に反抗することが得策かは別問題です。
中国やロシアも国内異民族による激しい抵抗問題を抱えているので、反テロの動き自体は世界の強国に限らず、独立運動を抱えるインドネシアやフィリッピン、タイあるいはミャンマー等多くの国の一致した動きですから、日本がこの条約の履行を渋ることは、これら多くの国を敵に回すことになります。
国際条約に適合する国内法成立に反対していて、国際的に意見を通しきれるか・・日本が国際政治で孤立しないかのせめぎ合いが国際政治問題であって、日弁連はそう言う政治を決めるための集団ではないので、その判断は政治が決めるべきです。

証拠収集反対論4(防犯カメラ3)

防犯カメラは、事件があっても捜査機関に開示するだけであって、一般公開が予定されていません。
公道の場合は捜査機関の設置ですから、一般公開されることは元々あり得ません。
こうして見ると肖像権やプライバシー権侵害の危険と言っても、捜査情報収集必要性との兼ね合い・・社会安全のために国民が自己情報をどこまで提供すべきかの問題に絞られて来ることが分ります。
言わば(一般の人が見るのは構わないとまでは言わないけれども・・)捜査機関が見るときだけ、肖像権が問題にしている実質をどのように評価するかではないでしょうか?
防犯カメラはベネッセ情報漏洩事件でも分るように、情報持ち出し防止のためのセキュリテイー対策上、あるいは食品衛生管理上多くの企業内で設置されている筈です。
毒物等混入事件が起きると、末端商品番号等から、特定工場での製造品・ある時間帯に絞られるとその流通過程に誰が関与したかを調べるために先ずは社内調査として防犯カメラ等や出入記録・ファイル等へのアクセス記録などのチェックが始まります。
このように現在社会では、商品や人の動きやパソコン等へのアクセス記録等が時々刻々に記録されていることが、犯罪等が起きたときにその後付け調査を(刑事のカン・・思い込みに頼るのではなく)客観化し、犯行時刻の特定やその時間帯に出入した人の特定などを容易にしています。
こうした記録化の一環として防犯カメラや電子記録があるのです。
元々防犯カメラは一般公開される性質のものではなく、店内や路上で殺人事件等があったときに犯行の状況や犯人割り出しのための社内調査や捜査機関に対してだけ再現協力するものです。
スーパー店内や公道歩行中の写真の場合、捜査に利用されることに対して犯人が文句言う権利があると主張する人はいないでしょうから、そのときに近くを歩いていた(事件無関係の)通行者が自分の写真を一緒に見られるのがイヤだ反対する人が実際に幾人いるかがポイントです。
何方かと言えば嫌と言う人でも、反対運動までしてイヤだと言う気持ちがあるかと言えば、更にその比率が減るでしょう。
仮に百人に一人いたとしても、その程度の反対がある程度で防犯カメラの写真を刑事事件の証拠にしてはいけない・・許されないとすべきかどうか、犯罪が起きたときの犯人特定のために利用することとその人のプライバシーや肖像権保護との比較考量・・政治で法基準を決める問題です。
写真ではなくとも、事件現場に居合わせた人を例にすると、捜査機関から質問されれば普通の市民であれば快く協力して自分の見たときの状況説明したり、そのとき偶然撮影した写真等の提供に応じるのではないでしょうか?
トイレや自宅内のくつろいだ場所などとは違い、公道を歩くときのプライバシー性はかなり低いと言うべきです。
公共の福祉のためにどこまでプライバシーを制限して行くかは、比較考量→まさに政治が考えて法制化して行くべき問題で法律家の分野ではありません。
法律家はプライバシーや肖像権問題もあるからその点を考慮して決めて下さいと意見を言う立場がありますが、その均衡点を決めるのは政治→法律です。
憲法で保障されている各種基本的人権も公共の福祉のためには制約を受けるのは憲法上の常識でそれに対する反対論を聞きません。
プライバシー権・肖像権などは言わば新参の基本的人権でその内容〜外延もはっきりしていない状態のために我々弁護士もプライバシーとか肖像権と言われるとよく分らないことから、つい尻込みしてしまいます。
尻込みしているのは、肖像権が他の基本的人権より強力だからではなく、むしろまだ弱い権利で境界がよく分っていないことが原因になっているに過ぎず、他の人権よりも強力と言う意味ではありません。
世間の人も新しい概念なので自分がむやみに反対すると「時代遅れ」と言われないかと言う程度であって、冷静に考えれば表現の自由・理由もなく逮捕拘留されない権利や拷問を受けないことなどの伝統的人権とは「格」・重みが本質的に違うことが分る筈です。
その上で公共の福祉との兼ね合いで、どこまで知らぬ間に写真をとられているのを我慢すべきかの政治判断・・それによる法制定判断です。
国民意識がどの辺にあるかが決め手ですが、捜査協力のためとは言え、身体拘束されることまではイヤだと言う人が多いでしょうが、数時間程度の事情聴取なら協力しても良いと言う人が多いのではないでしょうか?
スーパーやコンビニへ行ったときや道路を歩いているときの防犯カメラの写真を警察に見られる程度のことならば、自分に何の手間ひまもかからないので、反対したい人が100人中一人、2人程度か、あるいは半分以上の人がイヤだと思うかは政治家・・国会の判断です。
犯罪を犯した人が見られるのはイヤなのは誰でも分りますが、犯人の意向ではなく、一般の人がそんなに多く反対しているかどうかの問題です。

証拠収集反対論3(防犯カメラ2)

銀行強盗が減ったから、あるいは新宿歌舞伎町の監視カメラ設置の結果、一般企業や家庭あいての強盗や住宅街での暴力行為が増えたと言わんばかりの論法ですが、その統計があるのかとなりますが、その統計に言及していません。
社会全体の犯罪が減っているとは言えない(統計的誤差が出る筈がないのですから、当然の結果です)と言う荒削りの論理を前提にして、全体の犯罪が減っているとは言えないから防犯カメラ設置がないところに犯行場所が移動しただけと言う推論を前提にした結論を導き出しています。
そんな推論に推論を重ねないでも、銀行強盗ならば銀行強盗ばかりの変化を比較して防犯カメラの設置した場所と設置していない場所の比較をすれば統計的差が簡単に出ます。
あるいは犯罪多発場所では、設置前と設置後の比較でも良いでしょう。
そもそも新宿歌舞伎町その他風俗系繁華街での犯罪やプラットホームでの突き落としなどは、酔っぱらった勢いでちょっと肩が触れた程度で喧嘩になったり・・その町や場所特有の犯罪であって、住宅街で起きる犯罪と性質が違います。
スーパー等での万引き被害が、防犯カメラのない住宅街に移動することは論理的にあり得ないでしょう。
昨日書いたように統計を見るなば、業種別とか犯罪種別の増減を見ないと意味のないことになります。
こうした論理飛躍のある推定論を前提にした意見によって、風俗系繁華街で起きていた犯罪が住宅街に押し出しているかの肝腎の統計がないのに、一見統計に基づく客観的意見であるかのような装いで学者の論文として発表されてまかり通っているようです。
仮に犯罪抑止力がない・駅ホーム等での突発的暴力行為など・・としても、犯罪があったときに防犯カメラの巻き戻しで犯人がすぐに特定出来るようになっています。
被害者・社会にとっては不幸にして被害にあった場合、せめてもの救いとして犯人検挙が重要関心事=価値ですから、迅速な検挙率の向上それだけでも大きな存在意義があります。
私の理解では、防犯カメラに対する反対論は昨日から書いているとおり疑問だらけですが、(私は学者ではないのでその道のプロに専門的批判はお任せします)仮に犯行現場が、カメラのないところに移動しているだけと言う学者の意見どおりとした場合でも、自分だけ助かれば良いのかと言う価値観・論理も直ちには同意出来ません。
そんなことを言い出したら、自宅の鍵をかけても日本全体の「こそ泥」が減る訳ではないから、自宅の戸締まり・カギを取り付けるのをやめろと言っているような意見です。
ただし、正確には肖像権侵害があるかどうかの比例考量ですから、誰にも迷惑をかけていない戸締まりとは意味が違いますので、これは後で書いて行きます。
確かに戸締まり奨励よりは、こそ泥をしたくなるような人物を社会から減らす・・ゼロにする方が良いに決まっていますが・・。
どんな理想社会が出来ても「こそ泥」や空き巣、かっ払い等に走る人をゼロに出来ないのが自明のことですから、被害が起きないように留守番を頼み、戸締まりしたりSECOMと契約したり、不幸にして犯罪に巻き込まれれば直ぐ証拠付け出来るように防犯カメラを設置したりするのが世界常識になっているのではないでしょうか?
この辺は非武装平和論者の意見と自衛(戸締まり)必要論との意見相違とも似ていて、学問や法律論ではなく政治論です。
この種の意見・意識を見ると、国家の戸締まり不要論である非武装平和論者が秘密保護法や共謀法に反対している共通土壌のように見えます。
自分の子供を送り迎えしていれば、自分の子が誘拐されないで助かるかも知れないが、送り迎え出来ない人の子供が誘拐されてしまうじゃないか!そんな身勝手なことが良いのかと言うような論法です。
こういうことを主張する学者を弁護士会などで重宝して講演を依頼しているようです。
彼らの論法では、自宅に鍵をかけるのは身勝手なことになりますし、SECOMも何もいりません。
自宅の鍵は人に迷惑をかけないから、プライバシーや肖像権を侵害する監視カメラと同列には言えないと言う論理もあるでしょう・・。
元々プライバシー性の低い公道やスーパー店内での肖像権が問題になっているのですが、歌舞伎町などで歩いているところを撮影されていても一般公開されることがないママ・・原則一定期間経過で消去されてしまうものです。

共謀概念の蓄積(練馬事件)3

共謀共同正犯理論が出て来た頃にも、反対論者は「近代刑法の理念→実行行為した場合に限り罰する理念」に違反すると言うのが主たる理由で大論争していたと記憶しています。
私の学生時代にはこの論争真っ盛りのころで、共謀共同正犯推進論者の先生が熱弁をふるって講義していたのを懐かしく思い出すだけで、詳しい内容は覚えていません。
先生が折角頑張っていても私のような凡学生にとっては、そんな程度の理解でしたが、先生は若者に熱意を伝えれば良いのです。
近代刑法の精神に反するかどうかは別として、親分が殺人行為を末端組員に命令して殺人行為をさせた場合、親分が実行行為に全く関与しなくとも、命令した親分の方が悪いに決まっています。
これを実際に殺人行為をした末端組員よりも重く処罰出来ないとすれば、近代刑法の精神が間違っているか、近代刑法の精神の解釈がおかしいことになるでしょう。
また個人責任主義に反すると言っても、近代法が家族一族連帯責任主義から個人責任主義に転換したのは、一族どころか中韓の歴史で知られているようにいわゆる九族に及ぶ責任追及のやり方は非合理ですし、果てしない報復合戦になるからです。
この学習から戦争に勝っても負けた相手を非難しないとする、智恵が西洋で生まれていたのですが、(明治維新でも同じです)第二次大戦に限ってアメリカはこの智恵を放棄してナチスが悪いとか日本の軍国主義が悪いと一方的な価値観を押し付けたことが戦後秩序が不安定化している原因です。
犯罪に何の関係を持っていなくても、一族や九族を処罰する前近代思想の復活ではなく、実際に犯罪行為を「共謀」した主犯格だけ処罰するためのものですから、共謀罪は近代法の個人責任主義精神に反するのではなく、逆に合理化したと評価すべきです。
日本を除く先進民主主義国では近代刑法の精神に反すると言う議論・・反対論もなく共謀罪がすんなり制定成立しているのですから、「近代刑法の精神」を我が国の学者が間違って理解して来たのかも知れません。
殺人行為等を実行した末端組員よりも命令した親分を重く処罰しないと社会秩序が保てませんから、「近代刑法の精神に反する」と言う形式的反対論は実務の世界では次第に力を失って行きました。
その結果以下に紹介する最高裁(大法廷)判例で決着ががつき、(いまでも反対している学者がいると思いますが・・)以来実務ではこれを批判する人は皆無と言ってもいい状態で、事例集積が進んでいます。
半世紀以上にわたる共謀概念の絞り込みを下地にして今度は殺人行為等実行前でも、命令したことや計画が分って証拠があれば、実際に犯罪被害が起きる前に検挙して被害発生を未然に抑止しようとするのが共謀罪新設の目的です。
サリン事件や自爆テロ等の実行あるまで、計画が分っても検挙出来ないで見ているしかないのでは間に合わないと言う現在的理由です。
今回、共謀罪新設に対する「近代刑法の精神に反する」と言う主張は、昭和33年最高裁大法廷判決で決着し半世紀以上にわたって実務界でも受入れられて来た決着済みの論争を蒸し返しているような気がします。
ここで念のために共謀共同正犯に関する指導的最高裁(大法廷)判例を紹介しておきます。
以下はウイキペデイアからの引用です。

練馬事件(最高裁1958年(昭和33年)5月28日大法廷判決)
「共謀共同正犯が成立するためには、2人以上の者が、特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となって互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よって犯罪を実行した事実が認められなければならない。
他人の行為をいわば自己の手段として犯罪を行ったという意味において、その間刑責の成立に差異が生じると解すべき理由はない。」

この練馬事件に発する判例理論は次のように整理できる。 まず、共同正犯の成立要件は次のとおりである。
共謀
共謀に基づく実行行為
そして、一部の者しか実行行為に出なかった場合が共謀共同正犯であり、その成否には共謀の成否が決定的に重要となる。
ここでいう共謀の内容は、①犯罪を共同して遂行する合意(これのみを「共謀」と呼ぶ用語法もある。)と②正犯意思(自己の犯罪として行う意思)に分けることが可能である。謀議行為は特に①の認定のための重要な間接事実ではあるが、必ずしもその認定が必要なわけではない。①に関しては、犯罪事実の相互認識だとか意思の連絡といった表現もなされるが、これらの関係は必ずしも明らかではない。
狭義の共犯との区別のために特に重要なのは②である(したがって、正犯と共犯の区別における判例の立場は主観説であると評されることが多い。)が、その間接事実としては、実行行為者との関係、動機、意欲、具体的加担行為ないし役割、犯跡隠蔽行為、分け前分与その他の事情が考慮されており、結論において実質的客観説との違いはないとも言われる。なお、近時は正犯意思という言葉(ないしそれに類する言葉)を使わずに説明する裁判例も登場しており、今後の動向が注目される。

スワット事件(最高裁第一小法廷2003年(平成15年)5月1日決定) – 共謀には黙示的意思連絡があれば足りると認めた。
ドラム缶不法投棄事件(最高裁第三小法廷2007年(平成19年)11月14日決定) – 未必の故意による共謀共同正犯を認めた。

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