律令制では日本の自然発生的集落を漢字の村にする・・中国の邑の制度を取り入れなかったようですが、邑は訓読みでムラとなりますが、元々は原始的氏族共同体だったようですが、次第に家父長的支配関係〜専制支配構造を有するものになっていったので、700年頃の邑は日本の原始的ムラ社会(原始共同体)と実態が合わないので採用しなかったのでしょう。
この辺は郡県制のうち官僚支配の明確な「県」の制度を採用しなかったのと同様でしょう。
中国戦国時代の改革派商鞅(公孫鞅)の故事では彼が賜った領地を商邑と読んだ記憶です。
商鞅に関するウイキペデイアの記事からです
公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる
漢字邑に関するウイキペデイアです
漢字の邑は区画や囲壁をあらわす「囗(くにがまえ)」にひざまずいた人をあらわす「巴(卩)」をあわせた会意文字で、この全体を略した部首が「阝(おおざと)」である。邑の社会は同姓の一族による氏族共同体で大抵は土塁よりなる囲壁をめぐらし、周囲に氏族民共有の耕作地が展開した。 [1] [2]
やがて大邑が小邑を従えるようになり、また邑どうしを結ぶネットワーク状の社会が形成されるようになる。またその中から特定の大邑の君主は殷や周の様に王および天子を称して諸々の大邑を従え、邑社会に盟主として臨むようになる。ここで殷王や周王の権威に服した大邑の君主が「諸侯」、王や諸侯の君臨する大邑が「國(コク)」である。
戦国時代の領域国家の時代から秦漢帝国の統一王朝の時期に出現した県、郷、聚、亭と称せられるものは邑の発展によって規模や性格が分化して成立したものである。こうした邑の後身の都市的集住地のなかでも県の雅称として邑を用いることが多くなっていく。[1] 領域国家への発展とは邑の氏族共同体の解体による家父長的支配の台頭であった。
まさに日本列島の原始的集落発展段階の中国版ですが、古代集落の原型が漢字の作りからして「膝まずく」上下関係から始まっているのには驚かされます。
日本の縄文時代集落のあり方から見ると支配者がいてそれに膝まづく上下関係から始まったとは到底想像できません。
東京大空襲後に母方実家/郷里で私が育った集落は「字〇〇」という地名でしたが、まさに明治新政府が合成した村の中に取り込まれた里でした。
その字では「東」と「西」」という2集落(各8〜10戸前後)に分かれていてその境目に幅1メートル足らずの小川がありその水源地付近にお寺が一つありました。
江戸時代に各集落に戸籍役場代わり(宗門人別帳)や、埋葬管理(衛生感の発達)のお寺が各地に設けられ(集落の寄り合い場所になるなど公的機能を果たしてきました)たのに合わせて、維持可能なように集落の統合が行われたようです。
現在、いくつかの市町村共同上下水道事業や共同消防組合等の走りです。
わたしが幼児〜学童期に育った集落「字」では東西2集落が、お寺を村の寄り合いの場として、10人程度の大人が集まり入会地の管理や道路普請〜水路の石垣の手入れ等の手はずを決めていましたし、女性は女性で観音講という夫人の集まり..茶話会の場葬儀やお寺の年中行事その他の共同化事業により、江戸200年余りでだいぶ一体化が進んでいたようですが、それでも「東ら」と「西ら」という区別意識が(幼心に残るほど)濃厚でした。
こういう「字」が数十個集まっているのが、明治以降に出来上がった「村」のイメージで、私の育った村は水田地帯の真ん中にあって正方形に近かったので子供心の記憶(自転車で走り回った記憶)では村の端から端まで3〜4キロ前後でしたので、1里四方→まさに日本古代の「さと」の規模でした。
近隣の村や町も皆似たような広がりのある地形でした
それぞれの村や町に一つの小学校、中学校があり、明治の学校制度創設に合わせてこれを維持するに必要な経済力・いわば学区ごとに最小単位を設けた(江戸時代の集落のままでは小学校すら作れません)イメージです。
小中学校では運動会等の行事が行われるので、自然に纏まり・共同体意識が仕上がる仕組みでした。
私は中学卒業と同時にその村を出たのですが、直後に昭和30年代の町村合併があり、近隣が一つの町になりました。
このように日本の行政上の地方単位は古代から大きくなる一方で、その代わり内部に旧単位が大字小字などとして残っていきます・・昨年秋香取神宮に詣でましたが、平成の大合併で佐原市と香取町が合併して由緒正しい?香取市になっていました。
平成以降の大合併では大字というより明治にできた村の元単位を残す何々地区という呼称が多いようです。
20年ほど前に仙台の泉区役所に行ったことがありますが、元は泉市か泉町で合併により区になったようでした。
政令指定都市では正規に区制を布けますが、その他の市では〇〇地区と称するようです。
弁護士になったばかりの頃の境界争い事件では当時、区長さんの家には古い地図があるという主張が多かったのですが、当時区長ってなんだろう?と思いながら聴いたものでしたが、明治の中央集権化政策で問答無用的に行政単位として江戸時代までの小さなむら( 〇〇の庄?)を統合して村を設置して事実上従来からのムラ組織が破壊されても自治組織として「区」を名乗ることが多かった・・今の町内会や自治会の始まり?という論文が出ています。