生活保護受給者増2(感謝する心3)

本来受給出来る人・権利要求を控えていた人の権利主張(これは正しいことですが・・)が急増すると、これにつられて境界付近の人まで要求するようになります。
どんな分野でも裾野になれば、該当人口が何倍にもなりますから、受給者が急増して、財源が足りなくなります。
企業の有給休暇・育児休暇制度も創設当初はみんなが要求しない前提で法制度が成り立っている・・もしも100%取得する前提ならば、有給休暇・育児休暇制度も期間を半分クライから始めないと企業がやって行けなかったでしょう。
もしも全員に強制的に休ませる・100%取得前提ならば、企業の抵抗が強くて国会を通過しなかったでしょうが、どうせみんな要求しない・・よほど必要な人だけしか遠慮して請求しない・・当面2〜3割程度しか消化しないだろうと言う(その代わり翌年持ち越し制度が整備されています)擦り合わせで国会を通過したと思われます。
育児休暇その他新たに権利を認める新制度は、そう言う見込みで徐々に取得率を上げて行く・・企業も適応力をつける仕組みで成り立っています。
法律には小さく生んで大きく育てる方針を書いていませんので,条文に書いている「権利」だからと言うことでイキナリ利用拡大運動に火がつくと、殆どの企業で人員やりくりが出来なくなって大変なことになるでしょう。
保育園の待機児童が問題になっているのも、女性の労働力化政策=保育園利用誘導政策が予想外に進んだ結果です。
いろんな法制度の内、処罰を含む規制法は処罰があるのでこのようなファジーな制度には出来ませんので、施行後2〜3年まではこの規制、何年からこの規制と段階的規制値を書きますが、権利要求制度は、権利要求しないのは各人の勝手で処罰がない・・・該当国民がいきなり100%要求しないことを前提にしている制度があります。
予想外に要求者が急増すると企業経営が成り立たないし、社会保障制度は予算が追いつきません。
そこで昨日書いたように、予算増額が間に合わない・・国民理解が得らないときには、保障率を下げるしかなくなります。
給与を一旦引き上げると経営が苦しくなっても簡単に引き下げることが出来ない・・下方硬直性があるのと同様で、保護基準を引き下げるのは抵抗があって困難なので認定調査を厳しくする方向になって来たように見えますが、これが窓際作戦と言うものでこれがまた人権団体から批判されています。
国会(もしかして授権されている政省令がある場合それを含めて)で基準引き下げの改正がされるまでは、その間は権利ですから、・・窓口規制強化はおかしいと言うことで、この何年か前から生活保護受給権の権利主張をさせる弁護士活動が活発になっています。
窓口規制強化とは、不正受給防止策強化のことですが、これが行き過ぎて本来受給資格のある人まで受けられないようになるのでは確かに問題です。
兄妹子供の収入が調査されるかの質問があって、そんなことには調査権がないので応じる義務がないなどのアドバイスがネット上で多いようです。
形式論理で行けばそうかも知れませんが、こういう質問回答ばかりがネットで盛んになっている現状・・はびこって来ると税負担する国民が納得出来ないでしょう。
いくら息子が金持ちでも実際に食べさせてくれない以上は、その親の面倒を政府が見るしかありませんが、その代わり政府が一定収入を条件に息子に対して法定支給分の求償をする制度設計にすべきです。

生活保護法
(昭和二十五年五月四日法律第百四十四号)

(保護の補足性)
第四条  保護は、生活に困窮する者が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる。
2  民法 (明治二十九年法律第八十九号)に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助は、すべてこの法律による保護に優先して行われるものとする。
3  前二項の規定は、急迫した事由がある場合に、必要な保護を行うことを妨げるものではない。

設計当初は、息子がいるのに生活保護請求するのは、恥ずかしいと言う人を前提に設計されていた・・恥を忍んで申し込んで来る以上、余程困っているのだろうと言う前提で息子の所得調査する必要がなかったので、自主申告で良かったでしょうし、役所から子供に連絡が行けば余程困っていない限り親の生活保護を「お願いします」とは言わなかったでしょう。
今になると息子の所在調査すること自体に、「どう言う権利で調査したのだ」プライバシー侵害主張から始まり、「私に払えと強制出来るのですか?」と逆質問して来る始末から、福祉事務所も困っています。

大手企業役員の息子がいても生活保護請求する時代か来れば、子供らの所得証明を提出させるか調査権を付与(法律改正)すべきだと言う世論になって来るでしょう。
今の制度では息子らの所得証明を要求しないのは国民意思が息子の生活水準を問題にしないと言う意味ではなく、資力のある子供いる人が請求することを予定していなかっただけです。
実際に高市早苗氏が問題にしたお笑い芸人(年収5000万だったか?)に対して批判が殺到したのを見ても、国民意思がどこにあるか・・法が家族の無資力を明記していないとしても、こう言う場合の請求は濫用だと国民が思っていることが明らかです。
今の生活保護権利要求援助運動は、真に困っている人が、自粛すべきではない」と言う域に限定している限度で正しい運動ですが、これを超えて来ると、国民意思に反した、単なる法網をくぐる運動の評価を受けるようになります。
権利要求応援活動が激しくなるに連れて、在日の生活保護受給率の高さなどを批判する上記高市早苗氏の批判のようなカウンター勢力が成長して行きます。
不満のはけ口としてどうして良いか分らないためか、在日特権批判や滅多にない不正受給を探し出して批判するカウンター勢力の方式は、実は有効ではありません・・。
制度矛盾に目を向ける起爆剤の役割にはなりましたが・・。
不満の根源は自分が平均以上の生活しながら親兄弟の面倒を他人(税金)費用を出させようとする図々しい点にあるのですから、これまで自制(子供らが親を見る気がありませんと言えば、それで良いのか)に委ねていた周辺関係者の資力要件を乗せるかどうか国民的議論の俎上に載せて正面から議論すべきです。
この本質を論じないで、弱い者イジメのように一握りの在日の不正をあげつらっても解決になりません。

高齢化と社会保険の赤字3(感謝する心1)

我が国では何かありがたいことがあったり成功すると、何となく神様に感謝する気持ちになる人が多いと思いますが、(今ではそんな古い人はいない・・私のような高齢者だけかな?)古来から、やおよろずの神々が空間に満ちあふれていて、神と民族の一体感・・渾然一体で来たので、「御陰さまで・・」と言う民族共同体全体に対する感謝の気持ちと繋がっています。
感謝精神の有無・程度は、何か良いことがあったときに「望外の幸せ」「有り難いこと」と受け止めるか、当然の権利と(冷静に?)受け止めるかの日頃の心構えの違いかも知れません。
以前、権利と恩恵の関係を書いたことがありますが、特定個人から(将来のための先行投資的場合を除いて純粋な)無償サービスを受けるのは100%・拠出者の善意恩恵によることを疑う人はいないでしょう。
ところが組織からの贈与・恩恵になるとルールで決まった以上は、「貰う権利がある」と言う気持ちになる人が出て来ますが、組織構成員全体からの善意や助け合い意識によるものである本質は同じです。
拠出者と目の前で配布している人が別になっていて距離がある場合、ややこしくなるようです。
目の前の担当者を基準にする人は、救援物資が届くとお前に貰っているのではない・・「受け取るのは俺の権利だ」と言う意識が強くなるし、背後にいる多くの人の善意を気にする人は「有り難い」と伏し拝んで受け取る気持ちになるでしょう。
生活保護費の受給や障害者に年金を支給する、高額医療を無償にするなどは法(国会)で決めた以上は、受給資格者にとっては権利です。
この権利は、生活保護担当役人による「お気持ち」で戴くのではなく、もっと上位者(国言えば国会、個人事業で言えばオーナーなどトップ)の決めたことによるのですから、末端担当者に対しては、(路上生活者が「俺はオーナーからただで食って行けば良い」と言われているんだ」と言うのは、権利主張であることは間違いないでしょう。
この場合もオーナーの無償の好意に寄りかかっている大もとは変わりませんので、主人の気持ちが変わればおしまいです。
生活保護等は、国家意思として国会で決めた限度で公務員がこれに従う義務があり、国民は受給資格に該当する限度で(上記例で言えば店員に対するのと同様の)公務員に「請求する権利」があります。
ただし、これを権利と言うのは技術的なものであって、100円のものを売った場合100円の代金請求権があると言う天賦不可譲的な?権利とは、本質が違っています。
生活保護の不正受給批判が高まったことによって、最近窓口規制が厳しくなって来ていると言われます。
他方、本来受給資格があるのに恥ずかしいから・・人の世話になりたくないと受給申請しない人を掘り起こして「権利」だからと生活保護受給申請を応援するかのような動きも目立ってきました。
権利を知らずに眠っている人を掘り起こして救済するのも弁護士の重要な職務と言えばそのとおりですが、権利の成り立ちの違いを違いとして理解した上で権利要求する精神が必要です。
話が飛びますが、図書館に週刊誌も新聞もあるから国民みんなが図書館で無料で読めば良いと言う運動をして、徒歩圏内に図書館設置運動をした場合、出版業界が成り立たずひいては著作者も食べて行けないので知的活動が衰退します。
保険制度も元は・・病院へのアクセスが悪いその他の時代の設計ですから、(保険制度が出来た頃には都市集中が進んでいませんでした)余程のことがないと病院まで行かない前提で設計されていたのですが、人口の都市集中が進み、町中の徒歩圏内に多数のクリニックが出来るなどアクセスが良くなって、健康意識も挙った結果、受診率が挙り、自分で食事を工夫するなどして直せばいい程度の軽い体調不良まで何でも暇つぶしに?病院に行くようになると保険制度の設計で収支計算してしていた前提基礎が狂ってきます。
(クルマや火災保険や生命保険でも、事故発生率を統計的に計算して保険料率を決めて行くものです)
大病院受診は紹介がないと割増料金を取れるようにするなど利用率を減らすように工夫するなど制度設計を見直す必要が出て来ます。

健康寿命と自立可能年齢3

マスコミが健康寿命の紹介だけではなく非自立期間の計算期間だけ紹介すれば良いかと言うと、そうでもありません。
非自立期間の算定は、生まれつきの難病等で医療や介護の必要な障害者(10〜20台で亡くなるまでの全期間)等もカウントし、4〜50台の数週間単位の入院期間などをカウントしているので、高齢化してからの・・一般に関心のある人生最後の要介護期間とは大きくズレてしまいます。
国民が素朴に本当に知りたい人生最後の要介護期間の統計ならば簡単に出ます。
全国自治体ごとに毎月のように新規介護認定していますので、仮に60歳以上の人だけ集計(調査する気になれば)をすれば、ほぼリアルタイムに60歳以降の介護開始平均年齢・・母数の人口比何%かが分ります。
しかも交通事故による臨時入院と違い、高齢化によって要介護2以上になっていた人が介護1に逆戻りすることは滅多にないでしょうから精度が高いでしょう。
介護2では、ある程度自分で出来るのであまり気になりませんが、(ある程度手伝いしてもらうのではなく)70歳代の人は自分でトイレに行けなくなる平均値はいつころかを知りたい人が多いので、介護3〜4段階ごとで何歳で何%と言うように統計化して,これをマスコミが発表してくれれば分るようになります。
敢えて?これをやらずに生まれつきの身障者まで含めて自立期間を算定していると自立期間のトータル期間が、大幅に低年齢化してしまうので、高齢者の知りたいニーズにあっていません。
次に健康概念で集計すると、女性のように健康に関心が高くなればなるほど不健康と答える人が増える結果(厚労省のPDFの解説にも女性は20台で不健康と回答する率が男性よりが高いと書いています),健康寿命経過後の期間と高齢化による自立不可能期間の差が大幅に長くなります・・。
以上複合の結果、健康寿命が男71、19歳と言う結果になっているらしいのですが,これは高齢化による要介護開始年齢との関連がかなり遠くなっていることが分ります。
要介護になる開始時期とは全く関係がないと言うのではなく、高齢化した後の要介護に関する正確な統計データがあるのですから,下の世話までなるのがいつかを知りたい・・これをイメージして議論したいならば、政府発表の中から、要介護情報だけをマスコミが取り出して報道すべきです。
マスコミがこれを怠り、大幅にファジーな概念である健康寿命をあたかも寝たきり開始と直結しているかのように政府発表に合わせて大宣伝するのは、単なる不正確・怠慢報道を通り越した非中立報道の意図が感じられます。
マスコミが健康寿命の定義が自立期間とは違うことを親切に紹介しないで、「寿命が伸びるのは目出たいが健康で長生きしたいもの」と言う意見を付して、「健康寿命と平均寿命の差がこんなにある」とキャンペインを張るのは国民を特定方向へ誘導しようとする意図(報道の中立性違反)の疑いがあります。
昨日紹介した各社の見出しを見れば、マスコミが一般国民の注意を引きたい方向性は老後の自立可能期間にあるのが明白です。
定義の方は厚労省の書くとおり「 健康寿命とは、健康上の問題がなく日常生活を普通に送れる状態を指す。」と噓を書いていませんが、国民に関心のある「高齢化後の自立期間とは違う」・・ズレている点を紹介していません。
この違いを紹介しないまま、昨日紹介したネット記事の一部を再引用しますと、「そのゴールは、人間が自立して人間らしい生活を送れるという意味で、平均寿命ではなく健康寿命の …」と言う人生最後の自立期間のテーマに誘導しています。
これを平成28年1月17日にクリックしてみると以下のとおりです。

http://diamond.jp/articles/-/60223
「男性71.19歳、女性74.21歳。
「健康寿命」を伸ばすにはどうすればいいか」
厚生労働省の発表(10月1日)によると、2013年のわが国の健康寿命は、男性が71.19歳(対2010年比+0.78歳)、女性が74.21歳(同+0.59歳)に伸びたそうだ。
健康寿命とは、健康上の問題がなく日常生活を普通に送れる状態を指す。健康寿命と平均寿命の差は、男性で9.02年、女性で12.40年あるが、この期間は介護など人の手助けが必要となる可能性が高いということだ。わが国は高齢化については世界の先頭を走る課題先進国だが、そのゴールは、人間が自立して人間らしい生活を送れるという意味で、平均寿命ではなく健康寿命の延伸にあると考える。いくら平均寿命が伸びても、晩年は寝たきりという社会を、私たちは望んでいるのだろうか。」

上記引用のとおり、「人の手助けがいる可能性が高いと言うことだ」と可能性でしかない逃げ道を書いていますが、(20台でお化粧のノリが悪くなって不健康と自覚している女性と寝たきりになるまでの期間にはもの凄い期間・・ハバがあるのに、この点に触れないで一足飛びに)「いくら平均寿命が伸びても、晩年は寝たきりという社会を、私たちは望んでいるのだろうか。」と繋いでいて、全体の論調は如何にも「健康寿命終了後→寝たきり直結」・・高齢者の最も知りたい方向へイメージ操作しています。
寝たきり期間を如何に減らすかのテーマで意見を書く以上は、健康期間の紹介ではなく、厚労省PDF中にある筈の年令別要介護度2〜3〜4開始時期がいつかを紹介してこのデータに基づいて論じるべきしょう。
介護認定の年齢別データが仮にないならば、「ムード的発表では、国民が不安を持つだけだ」と厚労省調査を批判するのがマスコミの役割ではないでしょうか?
マスコミの多くが故意に?引用を間違えていた結果、健康寿命終了=寝たきりのことかと私が誤解していた・・私自身の言い訳・マスコミへの責任転嫁です。

貧困連鎖論 批判3(不適合者最小化)

男性社会への2流人材としての参入論・・保育園充実論は、子育て行為の否定的価値・・専業主婦否定論と共に、家庭内の女性の存在など意味がない・・そう言う時間が少ない方が良いという否定的価値が背景にあるので、余計少子化が進むと思われます。
ただし、私は、人口が減ることは良いことだと言う意見をこのコラムでは書いてきました。
国民のための政治=国民一人あたりの生活水準向上が目的であるべきですから、低賃金労働力を入れて生産総量を上げても一人当たり生活水準が結果的に下がってしまう(文化摩擦などが起きて2世以降大変なことになって、負債を子孫に残すことになる)のでは何にもなりません。
少子高齢化は大量生産汎用品生産に向けて人材が大量に必要な時代が終わったのだから、これに適した人材に絞り込んで行く必要がある。
この絞り込みに合致しない汎用品向け人材が落ちこぼれて今困っているのです。
少子化進行は、みかんを摘果するような女性の賢明な選択であるから、妨害しない方が良いと言うのが私の持論で何回も書いてきました。
一定の過渡期を経れば人口が均衡するのですから、高度成長・汎用品時代に稼いだ蓄積のある「資金が潤沢な今のうちに少子化を進めて数十年で均衡状態が来るのは良いこと」だと年来主張していますが、仮に政府が少子化を本気で何とか食い止めたいならば生まれたばかりの赤ちゃんの面倒を見るのを無駄なことのように宣伝するのをやめた方が良いでしょう。
根強い専業主婦非難や保育園充実論は、一見女性のためのようでありながら、大多数の女性を男性の下働き中心のパート勤務に追いやる・・女性の聖域である子育て軽視論が基礎にあります。
ホンの数%でもエリート女性が弁護士や政治家などになって来るでしょうが、それでもまだ女性の弁護士・政治家その他分野では男性に比べて立場が弱い・・補助的立場になっているのが普通です。
摘果論で言えば、最下層の女性はパートで働いて社会不適合を起こす次世代を出来るだけ生まない方が良いと言う長期展望に基づく政策かも知れませんが・・。
人間能力の総量が一定とした場合、男・競争社会で男性より優秀とした場合、女性的資質がその分劣っている人が多くなるので、不向きな子育てしない方が良いかも知れません。
子育てが女性の転職であり、男性が叶わない主役であり無限の包容力が生まれて来る基礎でもあります。
これを無駄なこととして外で男性の単純労働のまねごと・・下働きかパート勤務で・・働けと言うのが今のマスコミを覆う価値観ですが、これはフェミニストの主張としても本末転倒です。
フェミニストは女性の得意とする分野を男性が尊重すべきと価値観教育に力点を置くべきです。
女性の包容力を活かした懐の深い社会にすべきと言う意見に戻ります。
不器用なら不器用なりに、何か良い点があると言う点を素通りして、日本教育・経済学界では、唯物史観に染まっているせいか?・・経済状態に関係づける研究が大好きなように見えます。
曰く、貧困所帯から東大入学が少ない・・ひいては社長は貧困層から出ないと言う主張に発展するのかな?・・変な統計調査を基礎にして学者が長年議論しています。
日本の場合、親の経済比較より必要なのは親の学歴・能力(素質)と次世代の比較ではないでしょうか?
知育偏重・単一の価値基準で行く限り、偏差値その他のテストで表示される能力差による待遇格差は、憲法の認める平等の範囲内です。
憲法にあるからどうかと言う以前に、今のところ能力差による差別を否定出来る公正な論理が見つかりません。
これまで書いて来たように能力差を知育能力差の単線によらずに複々線化して能力差を見るべきだと言うくらいですが、それでもそれぞれの分野で最後は差が付きます。
どうしても残る格差ついては、摘果論に従って、少子化・出産を絞って行き、出来るだけ不適合人材の数を最小化して行くべきですし、それでも残る人に対しては、思いやりでカバーして行くしかないと言うのが今のところ私の結論です。
貧困層出身か富裕層出身かの基準で議論するのは、9x9の出来ない子には補助金では、どうにもならないことですから、出身階層別に社会の地位・待遇を決めて行く社会にすべきと言う意見の基礎に繋がり易くなります。
既に女性や身障者の地位向上等のためのクオーター制度の主張にその萌芽がみられます。
女性の場合、同じ日本人の母親が父親よりも基礎的能力・素質が劣っていると考えられないのに・・リーダーに女性が少ないのは、社会構造による格差が十分想定されます。
(男勝りの女性がもっといるようにも思えるのに、ジェンダー意識の結果能力が発揮し難い社会になっている)
社会構造や意識に問題がある場合には、是正のためには、過渡期政策としての優遇の合理性があり得るでしょう。
女性が社会経験を積む過程を早めるためには、クオーター制度に一定の合理性があるとしても、これの拡大として「貧困の連鎖」と言う観念論で一定期間優遇したら一定期間で何とかなるものではありません。
中卒段階で9x9が出来ない・・貧困の連鎖は、DNA連鎖の結果であって素質連鎖によるものですから、無理に一定数の権利・・合格枠などを認めてもどうにもならないでしょう。

差異化社会4と多様な生き方3

従来型画一生産での国際競争においても、女性の視点が必要ですから、日本文化伝承が必要と言う立場でも、女性が一定数参加して頂くのは合理的です。
ですから、女性がみんながみんな従来型大量生産に参加させるために保育園など拡大するのに反対ということと、女性が一定数従来型生産方式へ参加したり、その一端である既存体制である指導者・・政治家や企業役員等への進出などへの参加を否定しているものではありません。
欧米あるいは中国的価値観バカリではなく(米中や西欧等の価値観は基礎が同じであることを年末に連載してきました)日本的価値観・・細やかなものを作って行く人や、変ったものを大事にする価値観が社会全体の主流になるほどの人数がいらないとしても、これを大事にする女性や好事家をバカにしない・・光を当てる必要性を書いています。
・・補助金や生活保護を拡充する即物的対策ではストレスをなくせない・むしろ彼らが誰も大して利用してなくとも、大事にしている気持ち・・やっていることを尊敬する心・・誇りを持たせる社会のゆとりの必要性を書いているだけです。
このゆとりが結果的に多様な文化を生み、次世代に光るものを日本から発信して行く種になるし、格差意識・ストレスを緩める効果があると思われます。
日本文化継承にこだわると、国家衰亡の道か?と言うとそうではありません。
明治維新以降バブル崩壊までは、外来の大量生産に向けた文化の取り入れは急務でしたが、今になるとむしろ基礎になる細かな作業を厭わない・幼児などを大事にする精神文化がなお生き残って来たこそが重要になっています。
細かな末端道具類を作る技術や行儀作法・結果を賞讃する社会では、いろんなものが生まれて来る・・これを愛でる文化は結果的に・・多様な価値観が賞讃される社会になり易いのです。
変なものを珍重する文化・・多数・少数の比較で言えば少数者の作品を大事にする文化であり・これが古代からの弱者・敗者を大事にして行く合議制の基礎です。
陶磁器でも中国や朝鮮半島では、型に決まったもの以外は相手にされないが、日本では変わった形が生まれると珍重され高く売れる・・この結果超高級品は日本に輸出される習慣が、何世紀も続いてきた結果、良いものは日本にしかない状態になっています。
日本では、織部焼きなどの変形ものが珍重され傑作が残ってきました。
「ひょうげもの」を珍重する文化と俳諧や、落語や川柳・狂歌・落首が生まれる土壌には、共通性があると思われます。
今の酷い中国をしらない2〜30年前に、漢文程度の知識しかなく中国文化に憧れていたときに、台湾の故宮博物院に行き3〜4日家族で通ったことがありましたが、清王朝の傑作と言っても象牙を精密に彫刻したり、石造りの桃ノ木などバカリで、作品が田舎臭・・泥臭さには、驚いた記憶があります。
中韓では儒教の影響で、からだを動かす労働を卑しむ価値観・・手を組んでいる身分が尊ばれる傾向が強い点が、下積みの物造りに優秀な人材が行かない・・勤勉に働く意欲を阻害していると言われます。
これがポスト産業資本主義への移行に赤信号がともっていると言われる所以です。
イタリアも「ママン」の影響力の強い社会であることが知られていて、だからこそ大量生産競争では負けて来たものの、高級車その他職人芸の技術が伝承されていると言われています。
そのイタリア料理では、黙々と働く日本人が誰もやりたがらない下働きばかり押しつけられている間に、いつの間にか日本人シェフがイタリア料理を支えるようになっていると言われているのもてを動かす作業「下積み仕事」をいやがらない・バカにしない国民性を表しています。
多様な生き方を認める社会に方向転換して行くとすれば、日本は最も適応性のある社会だと思っています。
ポスト産業資本主義社会が差異化社会であり、選別から落ちこぼれる人が輩出する絶望社会化が始まっていると言うのも1つの意見ですが、逆に多様な生き方を認める必要に迫られる社会だとすれば,これまで画一社会で息苦しく感じていた多くの人が解放される可能性を持つ社会でもある訳です。
現場系の親が、親は自分が駄目だった?分・・「子供だけは何とか高校くらい出してやりたい」と無理に高校に入れたがる親が一杯います。
自分が子供の頃に勉強がイヤだったのに、子供なら大丈夫と決めつけるのが不思議ですが・・・。

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