司法権の限界3(証拠による事実認定)

政治決定の場合、情報源・判断資料が何かを開示する義務がありませんし、国民もAと言う政治家を選んだ理由を説明する義務がないどころか、誰を選んだかも秘密に出来ます。
司法権は国民から政治決定の委託を受けていない専門家と言う位置づけですから、専門的判断である以上は判断根拠を示す義務があります。
しかも根拠とする事実は、証拠によって認定された事実に限られます。
刑事訴訟法
第四十四条  裁判には、理由を附しなければならない。
第三百十七条  事実の認定は、証拠による。
第三百十八条  証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。
第三百三十五条  有罪の言渡をするには、罪となるべき事実、証拠の標目及び法令の適用を示さなければならない。

民事訴訟法
(判決書)
第二百五十三条  判決書には、次に掲げる事項を記載しなければならない。
一  主文
二  事実
三  理由
以下省略
2  事実の記載においては、請求を明らかにし、かつ、主文が正当であることを示すのに必要な主張を摘示しなければならない。
(自由心証主義)
第二百四十七条  裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する。

「自由心証主義」と聞くと自由自在のような印象を受けますが、証拠評価について自由な心証によると言うだけで、(法律論としては「法定証拠主義」でないと言うだけで「事実の認定は証拠による」義務があるので)証拠のないことを認定することは許されていません。
上記のとおり、判決するには、訴訟手続で厳格に管理された「証拠によらないといけない」のですから、証拠調べしていない・・裁判官が個人的に知っていることや感じたこと・・心象風景を判断根拠に持ち込むのは、ルール違反になります。
訴訟に出た証拠からそのような事実認定が合理的であるかの基準には、経験則が用いられ当事者が不満の場合には上訴審でチェックを受け・・社会的影響力のある事案では、学者や世間の批評対象になります。
昨日紹介した日経の意見によれば、社内で証拠を吟味したところ、証拠からは決定理由となる事実を導けない・・・・だから証拠以外の心象風景を根拠にしたのではないか?と言う遠回しの評価意見になったと思われます。
訴訟手続の技術論を離れて司法権と政治の関係に戻りますと、司法権の優越性と言われることがありますが、国民心象・民意・・心象風景を理解し実現する政治判断能力ではなく、法の解釈・精神がどこにあるか・事実が法に合致しているかの最終認定能力・権限でしかありません。
憲法上は、国会が国権の最高機関ですし、実質的にも妥当です。
法の解釈を司法手続内でしか覆せないので、最終決定権者のように見えるだけです。
それがいつの間にか、拡大されて法そのものを創造出来るかのような振る舞いを始めようとしているように見えるのが、現在社会と言えるでしょうか?
古来から南都6宗に始まり叡山のゴリ押し、弓削の道鏡や宦官等の側近・・近代では軍部が戦後では農協や総評・日教組・医師会などが政治に口を挟むなど、特定分野が強くなると政治に容喙したくなり勝ちですが、司法権もその一事例を加えるようなことにならないように司法に関わる人々は自戒する必要があります。
どんな分野も突き詰めれば政治の影響を受けるので、古くは衆生済度を目指す宗教界が影響力を持ちました・・戦争の危機時には軍人の発言力が増すし、経済危機には経済関係者・・オリンピックが近づけばその関係者のニュ−スがにぎわいます・・台風が近づけば気象ニュースとそれぞれ変わって行きますが、特別なことがなくても衆生済度は永遠のテーマですので、今ではこの役割を担う弁護士会が「人権擁護」(平和・難民)を主張する限りいつでも主役を張れると言うところでしょうか?
何事でも熱心になるとツイ、政治に口出ししたくなりますが、政治を後援するのは別として政治決定そのものに参加出来るのは、昨日書いたように選挙手続を経て民意代表として公認された人だけです。
古くは一定組織で昇進を重ねた人は、多くの支持を受けているので間違いがないと思われてきましたが、中国のように内部ネゴ(付け届けや足の引っ張りあい)のうまい人がはびこるマイナスもあるので、結局は多数の民意による選挙・・テスト社会になったのです。
中には感性が発達していて選挙を経ないでも民意吸収能力の高い人もいるでしょうが、自己満足の場合が多いので、選挙の洗礼を受けた人だけを有資格者とする現在の制度が合理的です。
評論家や弁のたつ人が選挙に出て落ちるのは,選挙制度は自己主張をおしつける人ではなく民意吸収能力(御用聞き能力)のテストである本質からすれば当然です。
自分らの気持ちを代弁して主張を通す能力のある人に託すのが合理的ですから、一定の説得力・・弁論能力が要求されますが、先ずは良く聞いてくれる人が第1の要件です。
政治決定をする・・濫用的動きをしている裁判官がいるとした場合、ソモソモ「憲法や法と良心のみに従う」べき憲法違反ですし、(「良心」とは何かについて後に書きます)法創造する前提としての価値判断をどうやって形成するのか、どうやって民意を吸収したのかが問題です。
民意吸収能力差を基準にすると秀才はむしろ一般人よりも劣っている場合が多いのですから無理があります。
27日に紹介した日経の記事では、心象風景の認定」が基礎にあるようだと書いているように私には読めますし、本件仮処分決定は正にそうではなかったかの疑問(決定書をまだ読んでないので疑問でしかありません)を抱いて書いています。
(証拠によらない認定をすると、当事者に対する不意打ちになって反証を出すチャンスすら与えないことになり不公正な裁判になってしまいます。)
古来から南都6宗に始まり叡山のゴリ押し、弓削の道鏡や宦官等の側近・・近代では軍部が戦後では農協や総評・日教組・医師会などが政治に口を挟むなど、特定分野が強くなると政治に容喙するようになり勝ちですが、司法権もその一事例を加えるようなことにならないように司法に関わる人々は自戒する必要があります。
どんな分野も突き詰めれば政治の影響を受けるので、古くは衆生済度を目指す宗教界が影響力を持ちました・・戦争の危機時には軍人の発言力が増すし、経済危機には経済関係者・・オリンピックが近づけばその関係者のニュ−スがにぎわい、台風が近づけば気象ニュースとそれぞれ変わって行きます。
特別なことがなくても衆生済度は永遠のテーマですので、今ではこの役割を担う弁護士会が「人権擁護」(平和・難民救済)を主張する限りいつでも主役を張れると言うところでしょうか?
つい、政治に口出ししたくなりますが、政治を後援するのは別として政治決定そのものに参加出来るのは、昨日書いたように選挙手続を経て民意代表として公認された人だけです。
古くは一定組織で昇進を重ねた人は、多くの支持を受けているので間違いがないと思われてきましたが、中国のように内部ネゴ(付け届けや足の引っ張りあい)のうまい人がはびこるマイナスもあるので、結局は多数の民意による選挙・・テスト社会になったのです。
中には感性が発達していて選挙を経ないでも民意吸収能力の高い人もいるでしょうが、自己満足の場合が多いので、選挙の洗礼を受けた人だけを有資格者とするのが合理的です。
評論家や弁のたつ人が選挙に出て落ちるのは,選挙制度は自己主張をおしつける人ではなく民意吸収能力(御用聞き能力)のテストである本質を理解していないからです。
政治決定をする・・濫用的動きをしている裁判官がいるとした場合、ソモソモ「憲法や法と良心のみに従う」べき憲法違反ですし、(「良心」とは何かについて後に書きます)法創造する前提としての価値判断をどうやって形成するのか、どうやって民意を吸収したのかが問題です。
政治決定する正統性の根拠が、民意吸収能力差であるとした場合、秀才はむしろ一般人よりも劣っている場合が多いのですから選挙を経た公認資格がないだけではなく、実質的にも無理があります。
27日に紹介した日経の記事では、心象風景の認定」が基礎にあるようだと書いているように私には読めますし、本件仮処分決定は正にそうではなかったかの疑問(決定書をまだ読んでないので疑問でしかありません)を抱いて書いています。
(証拠によらない認定をすると、当事者に対する不意打ちになって反証を出すチャンスすら与えないことになり不公正な裁判になってしまいます。)

原発被害想定基準8(人災と事故被害3)

今になると民主党政権が世界の科学基準を無視して、何のために(立ち退き強制する範囲を広げ過ぎる)無茶に厳しい基準を決めたのか謎です。
この非常識に厳しい基準設定によって多くの原発被害者?が生じていることが明らかです。
仮に政府の決めた許容放射能許容基準が子供の場合には合理的であるとした場合でも、1ミリシーベルト基準超でどの程度の身体被害を想定したかの検証も必要です。
例えば1ミリシーベルト越えで20年後に足の先がかゆくなる程度か、虫歯になり易いのか、内蔵がどうなるのか、生命の危険があるかなどによって避難程度が変わってきます。
足がかゆくなったり虫歯になり易い程度ならば、自宅を棄てて遠くへ避難したい人はいないでしょう。
数十年後にもしかして命に別状があるとしても、60〜70歳を越えた人にとってはどうせその頃には何らかの病気で死ぬので、その間住み慣れた自宅で好きな仕事していた方が良いと言う人の方が多いでしょう。
「1ミリの場合と2ミリシーベルトの被曝の場合の違い、「2ミリシーベルト超では何年後にこの程度の病気や障害になります」「1ミリシーベルト超では何年後にこの程度の症状」とその違いを開示すれば、「じゃあ1ミリシーベルトの地域まで逃げるか」と人それぞれに避難すべき距離の判断も出来ます。
これまで書いて来たように(私の理解によれば)元々放射能被害があるかどうかすら分っていないのに被害を過大に強調するために過大な規制をしたから、5年経過後の今でも合理的基準がどうであるか発表出来ないないままになっていると想定されます。
まして放射能被曝蓄積・・数十年後の放射能蓄積は中高年齢者には、関係がない・・ある程度生活にマイナスがあるにしても避難するマイナスの方が大き過ぎなかったかの検証が必須です。
昨日書いたように、(原爆そのものの直截被害は明らかですが・・)広島,長崎のデータを見る限り、その後の放射能被曝の実害が未だにはっきりしていません。
福島の場合、現地に残して来た牛は現地の草を食べて水をのみ・・マスコミ宣伝どおりとすれば、内部被曝も激しい筈ですが、今になって生き証人?として検査しても内部被曝がどうやら解消している・・蓄積する一方ではないらしいことが分ってきました。
https://motion-gallery.net/projects/hibaku-ushi
2015年9月現在、旧警戒区域の中には700頭あまりの被ばく牛が生きています。伝染する口蹄疫とは違い、近寄っても何の影響もありません。現在は国 は、殺処分に応じない農家に対し、圏外には持ち出さない、出荷させない、繁殖はさせないという条件で生かすことをやっと容認しました。研究者の手によっ て、被ばくした牛であっても3か月間から半年間、きれいな水と汚染されていない餌を食べ続けることで、体内の放射性物質(セシウム)は95%以上排出さ れ、その肉は国の安全基準である100ベクレル/kgを大きく下回ることがデータとして検証されました。・・」

この点はマスコミにとっては面白くない事実なので、無視のようです。
100歩譲って、かりに放射能汚染の実害があるとした場合を考えてみましょう。
たとえば、80歳の人が、このまま放置するともしかすると20年後には半身不随になるかもしれないと医学的に分って場合でも・・今手術すると死亡確率が6〜7割と言う場合に、今から命がけの手術する人がいるでしょうか?
まして放射能被曝の実害がまるで分っていないのに7〜8〜90台の高齢者や重病人等いつ死ぬか不明の病人まで、強制避難させたのは「暴挙」としか良いようのない失政です。
茨城と福島県境界付近居住の私の学生時代の趣味のクラブの後輩からの通信によると、透析をしていたらしいですが、こう言う患者にとって透析すべき病院が避難してしまうなど、避難生活によるマイナスの方が大きい印象です。
民主党政権が事前予測するには時間がなかったとかいろんな事情があるしょうが、5年経過した今では客観的調査が可能ですから、本当は避難の必要がなかった人が何人でその内何人が避難したために死亡したのかなどデータ化・・検証作業するべきです。
「被害想定は過大であればあるほど良い」と言う(規制される方の権利を無視する)偏った人権派の主張が、今回被害想定を過大にすると規制による被害を受ける立場が一般国民に広がったことによって冷静に見る必要が意識されるようになった筈です。
原発被害を強調したい現地住民が、その結果自分自身が規制を受ける方に回る皮肉・・に目覚めたでしょう。
自分さえ良ければ良いと言う戦後はびこった「自己中心の」矛盾が明らかになったのが原発被害想定です。

被害想定基準4

1000回に一回崖から落ちたり、エベレスト滑降スキーで命を失う人がいるとしても、その程度のリスクならばと、冒険を選ぶ人もいます。
個人プレーとはちがう地域安全は個人の勝手とは言えませんが、これを民意を吸収した政治で決めるべきか司法が決めるべきかのテーマです。
世上原発事故が起きると重大事故になるから司法が決めると言う印象が流布していますが、重大事故に対する規制も又巨大なマイナス効果を持ち、判断要素が複雑に絡まりあっているのですから、単線思考に優れた学校秀才・エリートよりは多様な民意吸収や複雑系判断に優れた政治家が決めるべきです。
何よりも国民主権・・民意重視の近代社会の価値観にもあっています。
その地域の人たちが自由意思で決めることであって、その地域外の人がとやかく言うのは本来間違っています。
地域内の少数派が地域外の中央から派遣される国の機関である(民意を受けた政治の支配下にない)裁判所に是非の決定を求めようとしているのが原発停止の仮処分です。
ところで被害想定→規制基準はいつも過大になる傾向があります。
ソモソモ各種規制・・被害想定自体が政治的(運動家の運動によって)決められて来た経緯があり、科学で決まったものではありません。
この辺はフッ素化合物の事件をやった経験でも、2月ころに環境大臣発言問題に関して書きました。
個別化学品等の危険騒動は、対象になる被害業界の声が小さい・・単体の製品業界はマスコミの袋だたき・合唱の対象になるととても太刀打ち出来ませんから・・非合理に厳しい基準になって行く傾向がありました。
自主規制でさえも行き過ぎと言うか、いわゆる賞味期限切れ食品等廃棄の行き過ぎ・・食品や自然そのものは抗議の声を挙げられませんが、万物に神宿る日本人の精神からすれば許されることではない・・あまりにも資源の無駄遣いをすれば環境のしっぺ返しを受けるでしょう・・賞味期限切れ商品を集めて後進国へ寄付する動きすら報道されています・・がこの弊害の現れです。
これまで安全基準は規制される方の声が小さいことを良いことにして「厳しければ厳しい程良い・・はっきりしない場合は多めの基準にする」と言うマスコミの主張がありました。
何事も一定の規制をすれば必ず反対側に規制される側がありますが、この思想は相手方・過剰規制によって発展阻害される方を敢えて見ない偏ったものだったのです。
人権?運動家の多くは、高速道路反対、飛行場反対・・各種操業(ゴミ処分場・工場・葬儀場・ビル建設、高層マンション反対・・環7や環8あるいは圏央道や外郭環状線反対その他大方(今や身の回りになくてはならないほど日常便利に利用していること全て反対でした)反対などに始まって、電子レンジ、防犯カメラ、パソコンの電磁波・・最近では電気自動車は低音だから歩行者には危険だと言う主張もあります・・新しいものが出るとすぐに◯◯が危険と言って反対するなどを見ると・・発展しそうな事柄には何でも反対する傾向で一貫しています。
そもそも新しいことが普及するのに反対するのを共通理念・・高度化便利化にすべて反対して来た流れを見ると、産業規制が強ければ強いほど良い・規制が強くて結果的にその産業がなくなれば最高の成果になるのでしょうか?
安全基準は厳しければ厳しい程よいというマスコミ・文化人の誘導が強く・おかしいなと思っても黙っていた国民が多かったのですが、マスコミもさすがに世論(産業を敵視運動は国民自身の職場でもありますので)の一定の支持を受ける(今の民主党支持率は10%以下でしょう)には、企業活動が存続出来る限度と言う縛りがありました。
露骨に国民の職場がなくなっても良いとまで言うのでは、文字どおり外国の回し者か?と疑われてもっと支持率がもっと下がりますので、日本産業壊滅目的を隠して名目上「環境保護」に頼り、その基準を非常識に挙げる努力に特化してきたように思えます。
反日運動家の拠り所はこうして(素人には分らないから専門家に任せろと言う)憲法違反とか、環境基準と言う(学会の通説からはなれた)偏った学者の総動員に振り向けられて来たように見えます。
民意よりは訳の分らない権威を振りかざして黙らせる手法の採用です。
革新系は議員その他支持者に東大卒とかなんとか高学歴者、医師弁護士や文化人?等を重宝する傾向が強いのは、こうした現れです。
朝鮮族ではヤンパン思想の名残で、今でも相手が先ずソウル大卒と自己紹介すると格の劣る学歴の人は人は反論出来なくなる図式が知られていますが、韓国流儀が日本でも通用すると信じ込んでいる様子です。
東大卒も憲法学者も元最高裁判事も作家も一杯いるのに,その中の少数の学者や元判事が一人でも数人でも革新系有利に発言するとその道のプロみんなが主張しているようなマスコミ報道が普通です。
1億以上の人口の中で僅か1000〜2000人が反対デモすると、市民の声を無視するなと言う主張も同じです。
サイレンとマジョリテイーについてこの後で書くつもりですが、マスコミは騒ぐ人の意見に対して何十万倍もの価値を認める傾向があります。

被害想定基準3

マスコミや日弁連「自由と正義」3月号の原発被害特集を見ると地元被害が如何に大きいかを強調して何十年経ってもまだ復興出来ていない・・こんなに被害が大きい・如何に原発被害が大きいかを(原発被害なのか過剰避難命令による被害なのかの検証姿勢がなく)自作自演して(それどころか自主避難者も救済すべきと損害を拡大させて)行く印象が見えます。
高台移転を言っていた古人の業績ばかり強調し、最近これを無視していた咎めが出たかのような報道が圧倒的です。
しかし高台が安全なことを知りながら危険な筈の海岸沿い居住を大多数現地人が何故選択していたかの合理的検証を全くしていません。
これは1000〜800年に1回くらいの被害ならば、そのとき逃げればいい・・ある程度の人が運悪く逃げ損なっても統計的に大した損害ではないと言う庶民多数の自発的に選んで来た智恵ではないでしょうか?
ちなみに「市」とは、5万人以上が基本要件です。
ウイキペデイアでは以下のとおりです。

市・町・村の条件[編集]
市は以下の要件を満たさなければならない(8条第1項)。
人口5万人以上。ただし1965年(昭和40年)以降は、市町村の合併の特例に関する法律(平成16年法律第59号の新法では第7条)の規定が適用されれば3万人以上。

昨日紹介したとおり、陸前高田市等特殊被害最大地域でも被害者は人口比11%あまりでしかなく、その次に被害の大きい22市町村では、100人前後の被害とすれば、人口5〜10万人平均として500〜1000分の1しか被害者がいません。
要するに殆どの人が助かっている・・逃げるのに成功していたと言うことです。
殆どの人が助かっていると言うことは、彼らが津波に逆らって勝ったのではなく逃げる判断・ルートさえ適切であれば助かったとおおよそ推定出来るでしょう。
そうとすれば、広報活動や水門を閉じる仕事などをしていて逃げ後れる人を減らす計画や病気等で逃げられなかった人を今後どうするか程度の議論でいいのです。
海抜5〜10メートル前後の大規模人口集中地は全国至る所にあって、工場や商店街も高台しか設置できないとなれば日本列島では生活が成り立ちません。
自然に逆らう巨大堤防を作っても限界がある・そんなことに頼るよりも早く逃げた人は皆助かっている現実を何故報道しないのでしょうか?
早く逃げる・逃げられる設備造り・・ここに防災活動の原点・眼目をおくべきです・・。
イザと言うときに逃げられない病人・高齢者・・病院・老人施設等は高台に作っても日常元々自分で買い物や仕事などしていないから、高台に設置しても実害が少ないし抵抗が少ないでしょうが、日々仕事する漁業施設・仕事場は海辺直近にないと不便です。
これを無視して「高台で魚介類の水揚げ作業しましょう」と言っても無理があり,仮にこれを法で強制すれば生産現場に近いからこそ成り立っている各種漁業系産業が(競争力を失って)壊滅します。
その他近代産業は物流を含めて大量の水を必要としているので,(世界中で内陸国が発展出来ないのはこのせいです)海岸から隔離するマスコミ宣伝によれば各種産業はほぼ壊滅です。
被害の大きい陸前高田市の景色を見れば、近くに小高い丘や山がない地域では徒歩で逃げるのに無理があったことが分ります。
日本中の大都会は全て海岸沿いの平坦地ですから、高台移転論は現実的でないことが分ります。
大都会では、何十万人も一斉に逃げるのは無理があるので、身近な高層の避難場所を中心に準備すべきでしょうし少人数地域では先ず逃げる準備中心であるべきでしょう。
小集落裏の岡へ逃げるのに便利なように至る所に石段を作るとか、ある程度の距離の場合、クルマ等移動手段が発展する一方ですから、(自動運転化技術の進化によって高齢者・弱者も簡単に使える時代がもうすぐ来るでしょう)から、海岸線に平行する道路が多い現状から普段使わなくても海岸から、内陸に向かう道の増設、地震発生と同時に水平移動よりは、上下移動方向優先に信号を切り替えるなどのソフトの工夫・・によって人口の少ない地方都市の場合大方助かるのではないでしょうか?
津波に逆らう巨大堤防を作っても維持コストが膨大で、しかもその間邪魔になるだけで有効利用する方法もありませんが、高台に移動する道路を多めに作っておいても堤防と違って邪魔になりません・・地域の人にとって日常生活が便利になるだけです。
ところで古代から津波被害を知っている地元民の多くが、この教訓を守らずに何故高台移転しなかったかを「バカにしないで」その身になって考えて見ましょう。
最大でも1000年×365日に1回でしかも人口の10分の1しか犠牲にならないとすれば、自分がある日、被害を受ける確率は言わば365万分の1の確率ですし、人口の500分の1の被害ならば、約1800万分の1の確率でしかないのですから、毎日遠くから海岸の漁港まで通っていられるか?と言うことではないでしょうか?
高齢になれば住み慣れた自宅が良いし、80〜90歳になって逃げられなくとも、どうせいつか死ぬし・・「そのときはそのとき・・」と言う達観した考えの人も一杯いるしょう。
私自身に置き換えれば「もう十分に生きたし焦ることはない、日々便利な方が良い」と言う判断に傾きそうです。
今後は高齢者やリタイヤーした人の中で、集団生活するようになった人中心に高台移転・・老人ホーム病院などを作れば良いと言うことではないでしょうか?
まだ命の惜しい人でも、海岸にしか病院や老人ホームがないと自分の意志で高台を選べないことになります。
何万日に1回のリスクよりは毎日海の近くで潮の香を嗅ぎたい人は、本人の意思に任せるべきです。
保育所や小学校などは毎日の通学送迎があるので利便性を考えて居住地付近・・便利な海沿いに作っても、その代わり、避難マニュアルや避難用バスなど充実させれば済むことです。
学校や保育園など被害は、避難判断次第であったことが分っています。
こうしたいろんな選択肢があるのにマスコミが全くこれに触れないで、「大変、大変だ」と騒ぐばかりで結果的に地域の人が元どおりに住む意欲をなくす方向ばかり煽り続けるのは、地域社会の破壊破壊効果があります。

仮処分制度と領域設定3(主張立証責任1)

仮処分は、本案訴訟のように重厚な審理(証人尋問などの手続がありません・・)をせずに早く決める必要があるのは、給与の仮払い等金銭支払などでは理解可能ですし、迅速性の必要からすぐに効力が出るようにする意味があります。
喩えば、養育料や離婚紛争時の生活費を「仮に払え」としないと4〜5年裁判の決着がつくまで払わなくて良いとなると,裁判後で4〜5年分まとめて払ってもらっても子供の養育・成長について、取り返しのつかない結果になります。
このように金銭支払の仮処分は貰う方が弱い立場でしかも長期間・・数年も裁判の決着がつくのを待っていられない緊急性もあります。
原発のような国家的規模の設備運営について本裁判をせずに効力が出る・・「仮り」に・・と安直に決める緊急性があるかどうかの判断が重要ですが、これが裁判官の裁量でどちらでも出来る現行システムに問題がないかの議論が必要でしょう。
原発事故が起きると大被害が出るから「仮に」決める必要があるとも言えるし、また1000年に一回の大地震災害がいつ来るか分らないから一日も早く停止する必要があるとも言えるし、逆にいつか分らないのだから本裁判をする期間を待てないほど急ぐ必要がないとも言えます。
一般的考え方・・日本中の海岸付近のその他の居住区域が危険だからと言ってすぐに立ち退くようなことをしていませんし、学校や鉄道・橋梁などの耐震補強について、時間がかかっても順にやって行けば良い・・緊急性があるから補修を済まさない限り使っては行けないと言う運用ではなかったと思います。
緊急停止を命じる必要性の判断です。
一旦停止を命ずる「仮の」処分が出ると小さな裁判所では、事実上別の裁判長による判断が出るまでには数年〜5〜6年もかかる仕組みですから、原発関連企業や労働者はその間どこかへ移転したり再就職するしないし、地域経済はどうなるかなど利益衡量すべき事柄が山積しています。
普通の産業の場合,食堂でもホテルでも5年も営業停止していると・・しかも待っていれば必ず裁判が逆転出来て再稼働出来る保障もないし顧客・労働者・仕入れ先流失など産業基盤喪失で廃業の危機に見舞われます。
福島原発事故では、私に言わせれば不要な広い範囲の居住禁止・・避難命令が出たので、今になって「元に戻っても良い」と言われても戻る人が少なくなって困っています。
日本中どこかの過疎地で仮処分申請が際限なく出て来ると(反原発派は今回の仮処分に勢いを得て全国全原発に対する一斉申請を仕掛けるでしょう)いつどこで新たな仮処分が出るか分らない・・仮に100件のうち一件でも出る可能性があるとなれば、業界や地元に経済にとっても予想不能な巨大リスクになります。
言わば合法的ゲリラ社会になります。
下請けや納入業者だって、いつ断られる分らないのでは不安ですから別の仕事があれば受注したくないでしょう。
これを受けて仮処分決定の翌日には、電力関連の株価が急落しました。
原発事故の可能性によるリスクよりは、仮処分リスクの方が大きいと言う市場の反応です。
事故が近いうちにあれば電力会社にとって、致命的損害ですから稼働停止仮処分は本来株価上昇になる筈です・・。
すなわち(民意と言えるかどうかは見方によるしょうが)市場判断は、本案訴訟を待てないほど事故の危機が切迫しているとは見ていない・不要な仮処分をしたと見ていると言うことです。
昭和4〜50年代の川鉄公害訴訟などに参加勧誘されて来たときの例を書いてきましたが、仮に一件でも高炉停止の仮処分が認められたらその企業にとっては死活問題ですから、日本の製鉄業界はリスク回避のために海外に逃げる選択をしていたと思われます。
製鉄でうまく行けばその他の重要産業・・業界も次々と標的にされて同じ運命に見舞われていた筈ですから、合法的ゲリラ・仮処分を仕掛けるメリット・・反日勢力にとっては日本産業を足下から崩壊させるための重要なツールであったことが分ります。
ソモソモ交通事故の発生リスクであれ、何であれ、100%の安全性など証明出来ないのは普通ですから、規制委員会の議論では、「はっきりしない」と言うだけで、停止を命じるとすれば不遜です。
・・この論理で言えば、言い過ぎかも知れませんが「クルマ使用も事故発生の確率が皆無とは証明出来ない・・自宅内の階段も転ぶ危険がないとは言えない」となって、ありとあらゆる事柄が停止対象や損害賠償責任の対象になって行きます。
日本国内では、医療行為もミスの可能性がある以上は禁止すべき・・子供を生むことすら危険性があるとなりますから、その内「お前が生きていること自体がリスク」と認定される時代が来るのか?となって、リスク責任を負わない国へ逃げ出すしかありません。
損害が起きてからの賠償ならば、それを賠償と言うか国家補償・保険と言うかは別として「みんなで負担しましょう」と言う事自体、合理的です。
東北地震被害も人災だと誰かを責めるのではなく、(反原発派が原発をスケープゴートにしているキライがあります)起きた悲惨な結果をみんなで分かち合うことは良いことです。
以前予防接種や学校事故に関して賠償責任と言うと先生が萎縮するし、医師等に過失がなければワクチンで大きな障害を負っても何の補償もないのでは可哀相だから、余程の重過失ない限りみんなで分担する補償に切りかえるべき・・誰が悪いと無理に認定をする必要がない補償に切り替えるべきだと書いたことがあります。
訴訟社会は誰かを悪者にするしかない、社会分裂向けのシステムです。

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