煽りが政治を左右する社会3(強訴〜一揆〜デモ2)

もっと遡れば、白河法皇を悩ませていた強訴・「神の声」「神威」を嵩にきた強訴が、今の「民衆の声を無視するな!」というデモの起源でしょうか?
(「民主主義」という標語自体「近現在の政治的神話」に過ぎないことを01/22/04「中世から近世へ(国家権力の強化)2」に書きました)
強訴に関するウイキペデアイアの記事です。

特に「南都北嶺」と並び称された南都興福寺と比叡山延暦寺は強訴の常連で、興福寺は春日大社の神木(春日神木)、延暦寺は日吉大社の神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出た。
神木を使う前者を「榊振り」、神輿を使う後者を「神輿振り」とも呼び[3]、神輿振りは1095年の強訴が最初とされる[4]。白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」という言葉を残しているが、これは延暦寺の強訴を嘆いての事である。
興福寺の榊振りの場合は、まず訴訟の宣言として、神木を本殿から移殿へ移し(御遷座)、訴えが聞き入れられれば本殿へ戻し(御帰座)、聞き入れられなければ興福寺前の金堂に移し、それでもまだ聞き入れられない場合は神木を先頭にして京に向かって大行進を始め、木津で一旦駐留し(御進発)、それでもまだ聞き入れられないなら宇治平等院まで北上し、それでもだめな場合にいよいよ入洛する、という手順だった[5]。
強訴の理由は寺社の荘園を国司が侵害したり、競合する寺社が今までより優遇措置を得ることなどである。朝廷は、強訴を押さえるため、武士の武力を重用した。これは、新興勢力の武士が、仏罰や神威を恐れなかったためである。これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。
寺社の強訴は平安時代から室町時代ごろまで盛んだったが、その後寺社権門の衰退と共に廃れていった。

これも要求を聞き入れるばかりで僧兵や首謀者が処刑されなかったから、無責任な強訴がはびこったのです。
武士の台頭・・平忠盛が武力制圧が知られていますが、それ以来武士を使うようになって強訴が下火〜なくなっています。
ウイキペデイアの忠盛によると以下の通りです。

天仁元年(1108年)、忠盛は13歳で左衛門少尉となり、天永2年(1111年)には検非違使を兼帯して、京の治安維持に従事した。天永4年(1113年)には盗賊の夏焼大夫を追捕した功で従五位下に叙される(『長秋記』3月14日条)。同年の永久の強訴では父とともに宇治に出動して興福寺の大衆の入京を阻止している。

平安時代の強訴を見ると当時の知的階層をバックにした「神の意志」の無理強い・・昭和40年代初頭の大学をバックにした全共闘の民意?を標榜する「強訴」に似ています。
江戸時代末期に薩長が流行らせた根拠のない攘夷思想・・・・囃し立てる「エエじゃないか運動」など・より近くは「昔軍部今総評」と言われた戦後の風潮もその1種です。
日露戦争が終わってみると戦争による国力疲弊と目標喪失による国内困難を抱え込んだ上にアメリカに対して「戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。」・と紹介されているように国際孤立に突き進む起点になった点が重要です。
他のアジア諸国と違った発展をしてきた日本が、幕末以降欧米から好意的に見られて文化的にはフランスのジャポニズムブームになったように、順調に成長してきた近代日本の転換点でした。
日本はこの時に欧米並みの植民地支配の仲間入りせずに、ロシア撃退による本来の防衛目的達成で満足すべきでした。
(あるいは参入するにしても現在の協調融資方式で仲間を増やして儲けとリスクを分け合う方法があったのです。)
それができなかったのは内部矛盾激化と国民の血を無駄にするな!と煽るメデイアの存在が大きかったことがわかります。
政治家はエセ学者やメデイアの弱腰批判に追いまくられて、当時の実態を前提にすれば、最大の成果をあげた日露講和条約締結であったのに、非合理な不満に煽られて内閣総辞職に追い込まれてしまいました。
日比谷公園焼き討ち事件に関するウイキペデイアの記事からです。

全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれたのである。その内容は、「閣僚と元老を全て処分し、講和条約を破棄してロシアとの戦争継続を求める」という過激なものであった。
この事件の後、大正政変やシーメンス事件に際して起こった民衆騒擾は、政府指導層に民衆の力を思い知らせるとともに、大正デモクラシーの推進力にもなった。

このような感情に訴える煽りの結果・・「せっかく国民の地を流して得た利権を得た満州へアメリカの参入を許すな!」と遠慮会釈なく進出→独占支配に突き進むしかなくなったのですから、この方向性の誤りは言論界にこそあって政治家の責任ではありません。
どのような善政を敷いていても競争社会の敗者はいつもいるし、日頃むしゃくしゃしている下層階層(強訴に駆り出された僧兵もその時代のあぶれ者です)に、暴れ回るのが正義であるかのようにメデイアが煽りかければ「この機会に・・・」と打ちこわしや暴動の動きに付和雷同する傾向があります。
昭和40年初めの学生騒動も同じで、若者が現状不満で暴れるのは正しい意思表示だとメデイアが煽ったので思慮の浅い若者がこの洗脳に乗せられていただけでした。
当時「造反有理」その他毛沢東語録がメデイアを通じて盛んに流布されていました。
ウイキペデイアによると以下の通りです。

文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年[1]から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた社会的騒乱である。
ウイキペデイアによる全共闘世代は以下の通りです。
全共闘世代(ぜんきょうとうせだい)とは、1965年から1972年までの、全共闘運動・安保闘争とベトナム戦争の時期に大学時代を送った世代である

上記を見ると文化大革命を理想の運動のように讃えていたメデイアの意図的操作に、浅慮の若者がまともに煽られてしまったと感じる人が多いでしょう。
文化大革命に関するウイキペデイアの引用の続きです

当時の朝日新聞等の立ち位置です。
当時は海外メディアが殆ど閉め出された中、朝日新聞社など一部の親中派メディアは、中華人民共和国国内に残る事が出来た。朝日新聞は、当時の広岡知男社長自らが、顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載したが、そこには文化大革命の悲惨な実態は全く伝えられないままであるだけでなく、むしろ礼賛する内容であった。
しかし、その後文化大革命の悲惨な実態が明るみに出ると、これらの親中派メディアを除いて全否定的な評価が支配的となった。それまで毛沢東や文化大革命を無条件に礼賛し、論壇や学会を主導してきた安藤彦太郎、新島淳良、菊地昌典、秋岡家栄、菅沼正久、藤村俊郎、西園寺公一らの論者に対し、その責任を問う形で批判が集中している[19]。批判された者はほとんどの場合沈黙を守り、文革終結後も大学教授などの社会的地位を保ち続けた。

今も当時の論客が何らの責任も取らずにいて今でも当時を懐かしむ高齢世代ではカリスマ的人気を保っている様子ですが、朝日新聞や左翼文化人に煽られるままに学生運動にのめり込んで、一生を棒に振った若者・今の高齢者らこそ哀れです。

メデイアと学者の煽り3(日露戦争2)

ここで講和条約交渉で過大な要求を煽り、日比谷焼き討ち事件の大元になった帝大7博士は元々早期日露開戦を求める過激意見書を発表していました(東京朝日新聞に全文掲載されたのでまとまって残っているようですので、これを見ておきましょう。
講和条約反対論は時局演説や新聞での片言隻句の引用程度でしょうから、まとまった引用文献が見当たりませんが、街頭演説となればその過激発言ぶりはこの意見書から推して知るべきです。
意見書とはいうものの学者の論文とはとても言えない・・長いですが、そのレベルが分かる程度に一部引用して紹介しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%9A%E5%A3%AB%E6%84%8F%E8%A6%8B%E6%9B%B8

七博士意見書(しちはくしいけんしょ)とは、日露戦争開戦直前の1903年(明治36年)6月10日付で当時の内閣総理大臣桂太郎・外務大臣小村壽太郎らに提出された意見書。

およそ天下のこと、一成一敗間髪を入れずよく機に乗ずれば、禍【わざわい】を転じて福となし、機を逸すれば幸い転じて禍となす。
外交のこととくに然りとなす。しかるに顧みて七八年来、極東における事実を察すれば往々にしてこの機を逸せるものあり。
遼東還付のさい、その不割譲の条件を留保せざりし?は、これ実に最必要の機を逸せるものにして、今日の満州問題を惹起する原因といわざるべからず。
のちドイツが膠州湾を租借するや、薄弱なる海軍力?をもって長日月を費やし、もって我が極東に臨む彼の艦隊や顧みて後継の軍力ありしにあらず。進んで依拠すべき地盤ありしにあらず。
渺々として万里に懸軍するの有様なりしをもってこの機に乗じ、掲ぐるに正義をもってし、臨むに実力をもってせば、たとえ彼裕大な欲望を有するも、何をもってかこの正義とこの強力に抵抗することを得んや。
当時もしドイツをして膠州湾に手を下すあたわずんば、露国もまた容易に旅順大連の租借を要求することあたわざりしや明らかなり。
然るに我邦逡巡なす所なく、遂に彼らをしてその欲望を逞しうするを得せしめたるは、実に浩嘆の至りにたえず。
機を逸するの結果また大ならずや。
・・・・・・・・・・
このときに当り空しく歳月を経過して、条約の不履行を不問にふし、若しくは姑息の政策により一時を彌縫せんとするがごとき終わらば、実に千載の機会を逸し、国家の生存を危うくするものとなすべからず。
噫、我邦既に一度遼東の還付に好機を逸し、再びこれを北清事件に逸す。
豈にさらにこの覆轍を踏んで失策を重ぬべけんや。既往は追うべからず。ただこれを東隅に失うも、これを桑楡に収むるの策を講ぜざるべからず。
特に注意を要すべきは、極東の形勢漸く危急迫り、既往の如く幾回も機会を逸するの余裕を存せず。
今日の機会を失えば、遂に日清韓をして再び頭を上ぐるの機なからしむるに至るべきこと是なり。
今日は実に是千載一遇の好機にして、しかも最後の好機たるを自覚せざるべからず。
この機を失いもって万世の患を遺すことあらば、現時の国民は何をもってかその祖宗に答え、また何をもってか後世子孫に対することを得ん。
今や露国は次第にその勢力を満州に扶植し、鉄道の貫通と城壁砲台の建設等により、漸くその基礎を堅くし、殊に海上においては盛んに艦隊の勢力を集注し、海に陸に強勢を陪蕩しもって我邦を威圧せんとすること最近の報告の証明するところなり。
ゆえに一日を遷延すれば、一日の危急を加う。
しかれども独り喜ぶ、刻下我が軍力は彼と比較してなお些少の勝算?あることを。
しかれども、この好望を継続し得べきは僅々一歳内外を出ざるべし(もしそれその軍機の詳細は多年の研究の結果これを熟知するも事機密に属するをもってここにこれを略す)。
この時に当りて等閑機を失わば、実にこれ千秋の患を遺すものと問わざるべからず。
今や露国は実に我と拮抗し得べき成算あるに非ず。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼れ地歩を満州に占むれば、次に朝鮮に臨むこと火をみるが如く朝鮮すでにその勢力に服すれば、次に臨まんとする所問わずして明らかなり。
ゆえに曰く。今日満州問題を解決せざれば朝鮮空しかるべく、朝鮮空しければ日本の防禦は得て望むべからず。我邦上下人士が今日において自らその地位を自覚し、姑息の策を捨てて根底的に満州問題を解決せざるべからざる所以まさにここに存す。
今や我邦なお成算あり。これ実に天の時を得たるものなり。しこうして、彼れなおいまだ確固たる根拠を極東に完成せず。
地の利全く我にあり。しこうして、四千有余万の同胞は皆密に露国の行為を憎む。これ豈人の和を得たるものに非ずや。
しかるに、この際決する所なくんば、これ天の時を失い地の利を棄て人の和に背くものにして、地下祖宗の遺稟を危うくし、万世子孫の幸福を喪うものといわざるを得ず。
あるいは曰く。外交の事は慎重を要す。英米の態度これを研究せざるべからず。独仏の意向これを探知せざるべからずと。
まことにその如し。しかれども諸国の態度は大体においてすでに明らかなり。独仏の我に左袒せざるは明亮にして、また露国のためにその戦列に加わわざるもまた瞭然たり。
なんとなれば日英同盟の結果として、露国とともに日本を敵とすることは同時に英国を敵とする決心を要するものにして、彼らは満州のためにこの決心をなさざるべければなり。
米国の如きはその目的満州の開放にあり。満州にして開放せらるればその地主権者の清国たると露国たるとを問わず単に通商上の利益を失わざるをもって足れりとす。ゆえに極東の安全清国の保全を目的とせる外交においてこの国を最後の侶伴となさんと欲するは自らの行動の自由を束縛するものに外ならず。ゆえに米国の決心を待ちて強硬の態度をとらんと欲するは適切の手段に非ず。
これを要するに、吾人はゆえなくして漫りに開戦を主張するものには非ず。また吾人の言議の的中して後世より預言者たるの名誉を得るはかえって国家のために嘆ずべしとするものなり。
噫、我邦人は千載の好機の失うべからざることを注意せざるべからず。
姑息の策に甘んじて曠日彌久するの弊は結局自屈の運命をまつものに外ならず。ゆえに曰く。今日の時機において最後の決心をもってこの大問題を解決せよと。

長すぎるので途中割愛しましたが、(関心のある方は冒頭の引用先に入って全文お読みください)これが学者の論文と言えるものでしょうか?
単なる政治アジテート・檄文にすぎません。
南原繁氏の論文・ナチスや日本の全体主義批判を内務省がチェックしたものの純粋な論文であって、政治アジテート性がないので発禁処分等の問題にしなかったことを紹介したことがありますが、その時も書きましたがひどく難解な論文です。
この部分をもう一度引用しておきましょう。
https://kotobank.jp/word/国家と宗教-65224

「国家と宗教」南原繁著。 1942年刊。「ヨーロッパ精神史の研究」という副題がついているとおり,ギリシア思想から始って危機神学にいたるまでのヨーロッパの思想や理念を論じたものであって,きわめて高い学問的価値をもつものとされている。だが本書の意義はいま一つ別のところにある。これは実は国家神道を背景とした当時の祭政一致思想や超国家主義に対して抗議し,対決しようとしたものである。これが発売禁止とならなかったのは,アカデミックな著作であったためといわれている。

戦前どころか戦時中にナチスや日本の全体主義批判を公にしても、純粋な学問の自由は十分尊重されていたことがわかります。

思想「弾圧」3と野党の役割

一時期「日本人とユダヤ人」という著作で1世を風靡した山本七平氏の知恵75のエッセンスと言う以下のコラムに戦前戦後野党の体質を書いているのが見当たりました。
https://books.google.co.jp/books?id=J_omDwAAQBAJ&pg=PA50-IA2&l

五〇  「統帥権干犯ルーツ」と言う部分の最後に以下の通り書いています。

それから昭和期においては2党政治だったから相手をやっつけるためなら何でもいい、そこらに転がっているあらゆる理屈を総動員すると言うこの日本の野党精神、反対のためならどんな屁理屈でも持ち出す。現在の政府がやっている事にはなんでも反対、これが政友会のやった事である。だから社会党はなんでも反対だと言われるのは買いかぶりであって、日本の野党は昔から何でも反対でその方針に独創性も何もないのだ。

野党(議会の少数です)が政権を揺るがし得たのは、民主主義・メデイアの大規模な応援があってのことです。
野党の地球で辞任に追い込まれたのがなぜ「権力による弾圧」になるのでしょうか?
今の野党が政府政策に何でも反対し妨害に精出すのは、外国のスパイが入っているのでないか・・と疑問を呈する人が多いですが、これが政友会の時代から日本野党のレベルであるとすれば一概に中韓の代弁勢力とは言えないでしょう。
この辺はジャーナリストも同様で日露講和条約に憤慨した日比谷焼打事件で紹介し、その後の天皇機関説で政府責任・・合理的根拠なく民衆を煽り政府批判さえすれば良いと言う姿勢で一貫していました。
これでは国家のより良い発展を目指すためにある思想表現の自由の乱用ですし、民主政治に必要な言論機関とは言えません。
日本は古代からボトムアップ・合議制社会ですから、政治決定前に多くの意見集約を経ています。
合理的意見集約過程で多数の支持を受けられなかった極論をいう人材(異端)がメデイアに不満をたれ込む・メデイアはその極論が正義かのように民意を煽ると、極論は単純論理が多いので庶民扇動向き・・扇動マシーンの役割りを果たしてきたように見えます。
極論あるいは実現性がないので審議会等で支持を得られなかった少数意見を取り上げて国民扇動マシーンになっているのが野党に限らず・と言うより野党とメデイアは一体化しているといった方がいいかもしれませんが・・日本のメデイアの伝統的役割です。
戦後の天皇機関説事件の紹介では、メデイアの果たした役割がメデイア界に都合が悪いためにか?ネットその他でも全く出てきませんが、天皇機関説事件の先がけであった上海「新生」報道事件で日本ジャーナリズムの動きを考察した論文が2008年に出ています。
東京朝日新聞記事と中国の報道機関「申報」との記事比較によれば、朝日新聞は言論の自由を守る視点がなく「如何に中国政府を屈服させたか」「日本の言い分を中国政府に飲ませたか」に力点を置いている状態・ひいては天皇機関説事件でも大方の新聞は天皇機関説批判一辺倒であったことが紹介されています。
思想「弾圧?」に果たしたメデイアの役割の続きです。

https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/media/public/200803/yo.pdf

楊韜
4ー3「新生事件」と「天皇機関説」との関係
・・・自由主義的な新聞や雑誌は何かの影におびえたように、美濃部の「天皇機関説」を擁護するものはなく、完全に回避的な態度を取り、かすかに残された言論の自由は跡形もなく消えていったと、その後の日本のジャーナリズムの変化を指摘している(前坂195)。無論当時日本のメディアのすべてが美濃部批判へ走ったわけではない。
『他山の石』で論陣を張り続けた桐生悠々など、少数でありながら美濃部達吉を擁護する声もあった。しかし、やがて日中戦争の長期化や太平洋戦争の突入とともに、日本のジャーナリズムは完全に死に体の時期へと向かって行ったのである。

5 結び
本稿は、1935年の「新生事件」に関する日中両国の動きに関し、主に両国における報道という視点から考察を行った。
中国紙『申報』と日本紙『東京朝日新聞』における記事を分析することにより、天皇の尊厳を守り、「強い」日本政府を日本国民に印象づけようとする『東京朝日新聞』と、中国国民の反日感情に沿った路線を取った『申報』の報道姿勢の違いについて具体的な叙述を行った。
・・・中国政府は、国民党の独裁統制を維持するために日本の圧力を借り、国内の言論自由や報道出版に対する統制を強化させた。一方、日本政府は「新生事件」を利用し「天皇機関説」事件と関連付け、国内での国体明徴運動を推進した。両国の政治状況の違いは、直接、両国の新聞紙面における報道姿勢の違いとして反映されたのである。
「無論、当時日本のメディアのすべてが美濃部批判へ走ったわけではない。・・桐生悠々など、少数でありながら美濃部達吉を擁護する声もあった。」

と書いていますが、例外事例として、大手中小地方紙を問わず擁護したメデイアの例を挙げられず全国的に知られた有名人でない個人が私的に書いていたコラム程度しか例がない点(・・個人頒布の域を出ない意見を大手も地方紙も取り上げなかったように見えます)を注視すべきです。
大手〜地方紙等のメデイア揃って民主主義死滅方向への軍部の片棒を担いで煽っていたことを言外に明白に示しています。
今の森加計問題もそうですが、国会質疑が世論を動かし政府対応が必要になるには、メデイアによる大規模なキャンペインが必要です。
メデイアが、天皇機関説批判に回っている中で、一人軍部を恐れず応援していた桐生氏関するウイキペデイアの記述です。

桐生 悠々(きりゅう ゆうゆう、1873年5月20日[1] – 1941年9月10日)は、石川県出身のジャーナリスト、評論家。本名は政次(まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論(広い意味でのファシズム批判)をくりひろげ、特に信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」は、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘したことで知られる。
・・・12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は…空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破した[22][23]。この言説は陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人で構成された信州郷軍同志会が信濃毎日新聞の不買運動を展開したため、悠々は同9月に再び信濃毎日の退社を強いられた[24][25]。
以後の悠々はその死に至るまでの8年間を愛知県東春日井郡守山町(現在の名古屋市守山区)にて「名古屋読書会」の主宰者として過ごした。彼自身が紹介したいと考えた洋書を翻訳しその抄訳を会誌で頒布するという仕組みであり、悠々の言論活動は『他山の石』と題された会誌の巻頭言およびコラム「緩急車」に限られることとなった。

軍の面子丸つぶれの論説を書いても不買運動で辞職を迫られたくらいで特別な迫害を受けず、辞職した後は怖いもの知らずで、あとの余生は個人主催の「他山の石」などで「天皇機関説」をただ一人?擁護していたことになります。「当時日本のメディアのすべてが美濃部批判へ走ったわけではない。」と言うことは、大部分・大手メデイアが率先して煽っていたことを言外に「明言」していますが、メデイアの応援で食っている文化人はこの辺の研究をしないしメデイア界は絶対に報道しないでしょう。
上記のように遠慮がちであっても、メデイアの痛い所を衝く論文が出たのは中国系研究者・氏名・経歴による研究分野からの想像だけですが・・だからこそ、可能であったのではないでしょうか?

左翼系文化人の伸張3

一見?民主的組織である筈の弁護士会も含めてサイレントマジョリテイーのテーマですが、これも書きかけで中断していますがその内再開するつもりです。
委員会組織で下部から決議を積み上げて行く方法は一見民主的ですが、実は誰も本音の意見を出せない仕組みになっていることをこの後で書いて行きます。
アメリカ型民主化政策を投票箱民主主義と揶揄しますが、秘密投票以外に国民の本音はわかりません。
選挙その他なんらの裏付けもないマスメデイアが威力を持つのは、周到にイメージ刷り込みすれば民意がそれに影響を受ける・・選挙に影響するのでマスメデイアが煽り立てれば、それが民意であるかのような倒錯した決めつけが起き、世論調査に影響を与える・・トキにメデイアが一方に偏った報道をすると弊害が大きくなります。
メデイアの暗示にかかりやすい難点があるとしても投票民主主義の有効性を否定するのは間違いです。
問題点はメデイアが政治動向に大きな影響力を持つにも関わらず・・中立性の要請だけでは中立の基準が難しくてこの基準では事実上効力がない上に、公務員と違って民間なので外国勢力の影響遮断に関する規制がない・・フリーパスになっている現状をどうするかでしょう。
日本の戦後経済政策は実体経済を知らないマルクス経済学者に任せられないので、東大法学部卒が主流を占める元大蔵省官僚が担っていたこと・・在野?経済現場が現実経済を何とかして来たのです。
審議会では、マスコミで大事にされている錚々たるマルクス経済学者の意見を拝聴しながら、官僚が実態に合わせて修正して来たのが我が国の歴史でした。
錚々たる大蔵・財務官僚の多くが、東大経済学部卒ではなく、法学部卒が中枢を占めて日本の現実経済運営をやってきた不思議の源泉がここにあります。
アメリカのでっち上げそのママの意見をさも偉そうに説教して来るエリートに対して常識的な庶民が「難しいことは私らにはよく分りません・・」といなして来たのと同じ扱いです。
共産主義者は組織中枢に対する浸透作戦・・ドンドン仲間を昇進させて行く戦略にしている・・党派性のない人はそう言うことをしないから・・のがうまいから一旦経済学部を牛耳るとその後は思想の自由→学問の自由→「大学自治を侵すな!」のフレーズで独占支配を維持できる仕組みです。
報道界も同様に表現の自由→知る権利→報道の自由を守れの大合唱で一旦組織内(共産主義者の好む「細胞」として)浸透して、これを牛耳ればガン細胞のようになっていきます。
今の北朝鮮と韓国経済はどちらが良いかは一目瞭然ですが、南北の政治闘争では北が南の政権中枢や政治家への浸透作戦では圧倒的優勢と言われています。
(韓国は内部に北朝鮮系がうようよしていてどうにもならない状態になっていると言う噂です・・)
国連などの多数派工作で中韓が頑張って、反日的強引な決定がでることが多いのと同じです。
専制主義の長い歴史を持つ社会では、王朝内の「足の引っ張りあい・・多数派工作」が死命を制するので、この種の競争が得意です。
韓国と北朝鮮の競争では、未だに専制体制の北の方がそう言う人材が現役ですから、有利な結果になっているのでしょう。
中国とアメリカの関係でいえば、一方が汚職もサイバーテロ〜知財盗用も汚職もできないが相手)中露はやり放題となるとヤラレテしまいますので、こういう相手に自分だけルールを守っているとやられてしまうのではないかとで欧米が怒り始めたところです。
韓国の慰安婦デマ運動の反論していると日本まで同じレベルの争いになるから・・と黙っていると大変なことになってしまいましたが、・強盗相手に抵抗してこちらが勝つ場合まで抵抗すると同類になってしまうから、無抵抗がいいと説教されているような関係です。
相手が拳銃や包丁で向かってくるのにこちらが人命尊重といって素手で向かうようなもので、戦後の人権思想はどこか狂っています。
犯罪には遠慮なく警察も腕力で向かうべきです。
蛇の道は蛇と言いいますが、犯人がスピード違反で逃げているのに警察が制限スピードでしか追いかけられないというのはおかしいのでパトカーには例外がありますが、相手が法の例外を尽くして暗躍しているときにこのテロ犯の情報蒐集する方はまどろっこしい法手続きを経てからしか追いかけることできないのでは、おいかけっ子になりません。
比喩的に言えば、中韓やロシアのスパイ・テロ組織が好き勝手に他人の屋敷を横切って縦横無尽に移動するのに追いかける方は違法なことが出来ないので合法的に屋敷の外を迂回して追いかけるしかないという変な時代です。
(パトカーのような例外がありません)
時代映画のように特定資格者に限り緊急時には天下御免で他人の屋敷を突っ切り縦横に活躍できる権限付与が必要でしょう。
「プライバシーはどうなる」という非難が普通ですが、すでにテロリストがプライバシーを犯しているのですから「犯罪人は黙認だが警察関係ならば許せない」という基本思想自体がおかしいように思います。
学問・思想・報道の自由論に戻しますと、日本ではアメリカは民主主義国家なのに・・と、マッカ−シズムを批判的にみる報道・文献が多いのはこの結果です。
当時マッカーシズムは、濡れ衣だと言う批判が強かったのですが、昨日紹介したヴエノナ文書の公開によって、当時米英の諜報機関は暗号解読によってスパイ網・・証拠をつかんでいたが、暗号解読の事実を知られたくないためにソ連崩壊時まで暗号が読めないふりをしてきた事実がわかりました。
とは言っても今の違法収集証拠排除の理論からいえば、暗号解読自体が通信の秘密違反で違法でしょうから、何の証拠もないということになるのでしょう。
CIAの秘密情報を持ち出してロシアに亡命しているスノードン文書や昨今世間を騒がせているパナマ文書も同じです。
メデイアは自分の都合の良いことにならば、収集方法の違法性を不問にする不思議なルールです。
サンフランシスコ講和条約・独立後はアメリカの影響が縮小するばかり・・結果的に大学やマスコミは学問の自由を旗印に左翼系再生産の牙城になって行きましたが、これはアメリカにとっても悪いことではありませんでした。
アメリカの基本は米ソ冷戦以来自由主義陣営に日本を協力させることですが、日本が強くなり過ぎるのは困る点は譲れない1線です。
「ジャパンアズナンバーワン」と言われるようになるとイキナリに中韓を唆して日本叩きするようになったのはその1例です。
現在中韓の反日行動はアメリカの唆しに始まるもので、アメリカの行動基準は中国が強くなり過ぎると今度は日本の味方になる・・自国に対する挑戦者をいつも叩きたいと言う自己中心基準の国です。
16年8月25〜6日頃に書いたように絶対に仕返しされない前提で原爆人体実験その他最大限残虐なことをして来たことから、左翼系が強くて(核兵器アレルギーその他)再軍備のブレーキになる・・日本の発展になりそうなことには「何でも反対する」勢力は利用価値があるので、CIA中心にこれを温存してきたことも、左翼系伸張の基礎になっています。

左翼系文化人の伸張2(ポポロ事件)

16年9月4日に書き始めていた「占領政策と左翼系文化人の伸張1」以来アメリカ政府に対するコミンテルンやユダヤの影響に逸れていましたが、日本の文化人が何故左翼系中心になったかのテーマに戻ります。
左翼系文化人はニッポン民族批判にはアメリカ基準・・言論の自由や人権が・・と騒ぐのですが、国際政治になるとイキナリ旧ソ連や中韓の応援します。
高度技術漏洩防止の必要性や、防衛の必要性になるとイキナリアメリカ軍が使っていた軍国主義国家論が復活すると言うスローガンが出回ります・この二重基準の基礎にはルーズベルトの二重基準・反共国家の指導者でありながら容共体質・によって占領政治が始まったことにあります。
今のトランプ大統領が、個人的にはプーチンや中国の独裁政治・自国中心主義の身勝手な政治に対する賛美する資質を隠していませんが、その分ロシアゲートなどで国民批判を受けて反中・反ロシア政策をとるしかないねじれ現象担っているのと似ています。
アメリカ占領政策初期の政策にはルーズベルトのスターリン贔屓の影響でコミンテルン・今の言葉で言えば「グローバル化」の貫徹)とアメリカ民族主義の本音が混在していたことになります。
以下はルーズベルトと共産主義の関係に関する記事です。
http://ameblo.jp/rekishinavi/entry-11586757334.htmlの引用です。
「ヴエノナ文書とは第二次世界大戦前後の時期にアメリカ政府内部に多数のソ連のスパイが潜入 してことを暴いた文書で、アメリカの情報公開法に基づいて開示されたのですが、江崎氏が研究すればするほど、ルーズヴェルトはソ連やCHINA共産党と通 じていたことが明らかになってきたそうです。」
上記研究の信頼性は分りませんが、(意見には当然反論があり得ます)アメリカ本国では(ルーズベルト死亡後彼が政権に引き入れていた共産主義信奉者の影響が大き過ぎることに懸念が生じ)その後周知のとおりマッカーシー旋風で共産主義者が政権中枢から一掃されますが、それほどまで政権中枢にコミンテルンの細胞?が浸透していたことが分ります。
日本では独立後占領支配権力・・公式にはアメリカは反共陣営筆頭です・・が縮小して行く過程で、左翼系文化人は一旦勢力を張った大学やマスコミでの支配勢力維持のために、アメリカの持ち込んだ思想表現の自由・・これを拡大した大学の自治?をそのまま主張して民族系学者の復帰・浸透を許しませんでした。
大学研究機関、マスコミ界では共産系思想家はそのままとなり、却って自由主義系学者は後ろ盾がなくなり共産主義思想が大学等研究機関での支配勢力になって行く原因になりました。
現在でもNHKの「偏った」報道に対する批判に対して、「報道の自由」と言う偏った?意見で反論しているのがその代表的現れ方で、戦後ずっとこのやり方で学問の自由、大学の自治などで聖域化してやってきました。
この代表的事件がいわゆるポポロ事件でした。
ウイキペデイアからの引用です。
ポポロ劇団は1952年2月20日、東京大学本郷キャンパス法文経25番教室で松川事件をテーマとした演劇『何時(いつ)の日にか』(農民作家・藤田晋助の戯曲、1952年1月発表[1])の上演を行なった。これは大学の許可を得たものであった。上演中に、観客の中に本富士警察署の私服警官4名がいるのを学生が発見し、3名の身柄を拘束して警察手帳を奪い、謝罪文を書かせ、学生らが暴行を加えた。奪った警察手帳は東京大学の決議によって警察に返還されたが、警察手帳のメモから少なくとも1950年7月以降から警察が東大内を張込・尾行をして学生の思想動向等の調査を行っていたことが判明した。私服警官に暴行を加えた2人が暴力行為等処罰ニ関スル法律により起訴された。
最高裁判所大法廷は昭和38年5月22日、原審を破棄し、審理を東京地方裁判所に差戻した。理由として
「大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味すると解される。大学の施設と学生は、これらの自由と自治の効果として、施設が大学当局によつて自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められるのである」。
しかし、
「本件集会は、真に学問的な研究と発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動であり、かつ公開の集会またはこれに準じるものであつて、大学の学問の自由と自治は、これを享有しないといわなければならない。したがって、本件の集会に警察官が立ち入ったことは、大学の学問の自由と自治を犯すものではない」。

上記の通り事件としては公開の集会だから警官の立ち入りが違法でないとされたものの、前提としての大学自治が保証される判決でしたので、大学側の要請がない限り犯罪行為があっても警察が踏み込めないかのような行き過ぎ・・聖域化が始まり、教授吊るし上げ等のやり放題・以後荒れる大学が生まれる素地になっていきました。
民放の場合には顧客による選別・市場選択権がありますが、国営放送の場合一方的中韓政府主張代弁報道ばかりされたのでは、国民は溜まりません。
この批判不満が漸く進出して来たのが昨今ですが、マスコミ界は報道の自由論で一歩も引きません。
この種の意見は、日弁連の政治運動に対する批判に対しても「弁護士会自治」と言う理論で批判を寄せ付けないのと軌を一にしています。
私が大学を出た頃には経済学と言えば、近代経済学派系よりはマルクス経済学派系の方がマスコミで大事にされていて、隆盛な印象を持つ時代でした。
歴史・・漫画その他一般的ストーリーでも唯物史観が幅を利かしていました。
マルクス経済学者である美濃部氏が共産党から出て都知事を何期かやったのは、その直後頃でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki
革新統一による知事として知られ、政党では日本社会党と日本共産党を支持基盤とする革新知事として1967年(昭和42年)から1979年(昭和54年)の12年間(3期)に渡り、東京都知事を務めた。
どちらの経済論理が正しかったかはソ連の破綻、何千万の餓死者を出していた中国の失敗をみれば明らかですが、間違っていた共産主義理論が、学問組織内では逆に圧倒的優勢だった・・現在もこれが続いていることに学問の自由とは何か?と言う歴史の真理があります。
「◯◯の自由」とは「一旦支配権を握った方が半永久的に専制支配を続ける自由」と読み替えることが可能です。
何回も例に出していますが、大学自治会がどこからも介入を受けない結果、過激派の拠点になっていて、大学自治会のほぼ100%が、一般学生と関係のない政治組織になっていることを想起してみれば分ります。
自治と言うものは活動家が独走を始めると構成員総意を反映しなくなっても是正方法がなくなるリスクが多い・・・実はくせ者です。
スターリンの恐怖政治は、民主的選出方法による筈の共産主義国家で起きたものです。
司法試験受験科目であった政治学言論では、共産主義国家は自由主義国家ではないが、が、民主的選任方法があるから民主主義国家であると言う分類を習いました。
何となく詭弁っポイ説明でしたが、今や北朝鮮や中国等の共産主義国家が民の声を充分に吸い上げている国であると思っている人は皆無に近いでしょう。
こんな詭弁を信じ込んでいまだに中国の肩を持って活動しているのが革新系野党です。

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