民法改正に要する期間

GHQによる農業国家化の強制→都市住民復活に対する疑問もあった?上に、短期間での大改正でしたので時間をかけて多くの意見を聞く必要性を感じず?嫡出非嫡出子の差別が合理的という判断になったのでしょうか?
1年余りの期間が如何に短かったかについて、以下民法制定過程や最近の改正に要した期間と比較しておきます。
17年成立した民法中債権法改正案審議は、以下のとおり審議会で公式テーマになって(そこまで行くにはその前に学会や実務界での議論を経ています)からでさえ、約10年もの歳月を要しています。
http://www.kokusen.go.jp/wko/pdf/wko-201903_14.pdf

明治政府が民法を制定するに当たって参考にしたドイツ・フランス・イギリスを含むヨーロッパなどの先進国では、近年、民法改正の検討が進められています。例えば、ドイツは2000年に民法を改正しています。こうした状況のなかで、日本でも2009年10月から、法務省法制審議会において民法(債権法)の改正について検討が進められました。審議結果を踏まえて2015年3月に民法の一部を改正する法律が閣議決定され、2017年5月に成立したという事情があります。

しかも実際に施行されるのは19年からです。
もっと前の元々の民法を作るのにどれだけの期間がかかったかを見ておきましょう。
このコラムで06/04/03「民法制定当時の事情(民法典論争1)」や刑事法制制定過程のシリーズで明治維新以降の法制定過程を紹介しましたが、民放制定に要した期間だけ見るにはあちこちの引用が必要なので、他人様の文章の引用です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

日本政府法制顧問のフランス人法学家ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらが、1879年から1886年ごろまでに起草した日本の民法草案のひとつ。1890年に公布された旧民法(明治23年法律第28号及び第98号、財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編・人事編全1762条)のうち、「財産編」と「財産取得編」の原案
現行の民法(明治29年4月27日法律第89号、明治31年法律第9号)が施行された。

明治23年民法・・ボワソナード民法(これが旧民法と言われるものです)は約11年かかってようやく成立にこぎつけたものですが、一回も施行されないまま現行民法が約10年かかかって明治29〜31年に成立しその後施行されます。
以上見てきた通り、国民生活の根幹をなす民法の成案作りには約10年はかかるのが普通でしょう。
これを戦後混乱期にわずか1年余りで法律になったにしては内容がよくできているのではないでしょうか?
先に書いたようにもともとこのように改革すべきという意見の積み重ねが実務界であったからだと思います。
この種の意見は、戦後農地改革のシリーズでも(戦前から耕地整理の必要性や地主による搾取構造改革案が先行していた)書いたことがあります。
敗戦前の家督相続の場合、非嫡出子どころか長男以外ゼロ相続でしたから、これを半分でももらえるようにしたのはかなりの前進だったという意見もあったのでしょうか。
明治の民法がなぜ家の制度を骨格にしたかといえば、当時の産業構造がなお勤労収入による人がごく少なかったことによるでしょう。
明治2〜30年頃の民法制定当時の関係者は、武士の時代〜徳川時代だけでも約260年間も続いた家を基準した収入構造・大名や武士層は家禄収入基本で生きてきた時代の人が多かったでしょう。
明治維新から2〜30年経っても八幡製鐵などの近代工場で働く人は人口全体の例外だったでしょうし、明治30年で30歳の人は明治元年生まれ、その人たちの多くは、幕藩体制下の生き方しか知らない親に教育されて育った人たちです。
まして親世代が4〜50歳の人であれば家庭内の会話・・幕藩体制下の価値観そのものだったでしょう。
家に縛られている時代の名残の強い意識・生活習慣が色濃く残っていたから家の制度を骨格に据えたものと思われます。
小説の描写なので事実かどうか不明ですが、日経新聞小説でサントリー創業者の伝記風物語の連載を愛読しましたが、そこには当時の家族・親族関係が描写されています。
ウイキペデイアで見ると鳥井信治郎氏は明治12年生まれですから、同氏の青少年期の描写はちょうど民法制定作業開始から明治31年制定までと歩調を合わせた当時の社会状況を描写していたことになります。
戦後民法改正時(昭和22年)の社会状況と言えるかどうか不明ですが、私が育って物心ついた頃(昭和24〜5年前後頃)生活していた地方(地方の意識変化が1〜2世代程度ズレている?)の原風景と小説の描写はそれほど変わっていません。
その頃(昭和20年代中葉?私の小学生1〜2年?)の記憶ですが、明治20年頃(小学校制度が全国に行き渡った程度?)とは違い一定率の高校進学があったでしょうが(私には高校大学の区別もわからない年令でした)進学しない人もいます。
私の10歳くらい上の世代(農家次男坊以下)は新制中学卒業後小僧さんとして都会の商家などに住み込み奉公に出る習慣・盆暮れに農村地帯に帰ってくるのを見て育ちました。
就職と言わずに「奉公に出る」という表現が耳に残っているので、地方ではまだそういう意識だったのでしょう。
ちなみに明治30年生まれの人が昭和22年にようやく50歳ですから、その当時の周りの意識はそんなものでした。
鳥井氏の育った頃とは進学率・・当時は小学校普及段階?・・が大幅に違いますので小僧に出る比率が低くなっていたが、(進学率上昇が遅れる地方では)まだそう言うライフスタイルが残っていたというべきでしょうか?
未成年婚姻の場合に同意を要する父母として、戦前民法では「家にある父母」と限定していたように、明治30年代の民法制定時には核家族が例外であったから判断基準が家の内外(今の言葉で言えば生計の同一性)が重要指標でしたが、戦後高度成長後の我が国では核家族化が急速に進み、且つ相続財産の大部分が、先祖伝来の継承資産ではなく、夫婦恊働働によって形成した資産が中心になっています。
2019年7月7日の日経朝刊1ページには、農業票のテーマで「1960年には1175万人いた農業人口が、80年には3分の1の412万人、2018年には145万人」と出ています。
しかも担い手は65歳以上中心です。

融通むげとご都合的原理主義1

我が国・・・中絶で言えば水子供養するなど、個人のこころの領域で処理することであり、これをしないことを理由に公的不利益どころか、宗教的社会的不利益も受けません。
あちこちのお地蔵さんを大事にするかどうかもそれぞれの気持ち次第です。
これを画一的国家強制が好きな民族の場合、胎児はすでに生命体である→殺人の一種という論理構成して犯罪という方向性に持っていく流儀です。
クジラは魚類ではない→捕獲を許さないという変な論理になると欧米の考え方のご都合主義がわかると思いますが、妊娠等は神の領域であるのにこれを人為的に変更するのは許さないというのは時代遅れなので(異宗教に強制できないので)生命侵害という法論理化に成功している例です。
日本の場合、子供は「天からの授かりもの」大事にすべきという感謝の念があり、古代から子供や小さな生き物すべてをとても大事にする社会でしたが、一方で動物を食用にすることを許さないという価値観がありません。
仏教導入で不殺生の戒律が入っても、鳥類や魚類は除外でしたし、イノシシを山クジラと称して肉を食わせる店があったり、般若湯と称して僧侶が飲酒したり、自由奔放というかルールに対して柔軟でした。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/9316に広重の有名な名所江戸百景 びくにはし雪中(せっちゅう)」絵の説明が出ています。

この絵でまず目に飛び込んでくるのは、左に掲げられた「山くじら」(②)の大きな看板です。山くじらは、猪(いのしし)の肉、別の名は牡丹(ぼたん)肉。この店は牡丹鍋で人気の「尾張屋」さんといわれています。当時、表向きは食べられていなかった獣肉ですが、実は「薬喰(くすりぐ)い」と称し、滋養をつけるという名目で肉を食べる人々もいました。他に鹿肉(紅葉肉)、馬肉(桜肉)も食べられていたとか。

草花も生き物ですし、毎日庭で生き物として手入れすると草花もこちらの気持ちに応じて生き生きとするものですが、季節がくればまとめて引き抜いて、次の季節の草花に植え替えるのを厭いません。
生命があるからと日々大事にしている気持ちと引き抜く気持ちが矛盾しない(とはいえ、一日延ばししたい、心情に苦しみますが・・)のが不思議です。(私だけかな?)
日々の食卓を賑わすものは肉類に限らず全て元は生命体です。
このように、一定の矛盾を融通無碍(生命尊重は例外を許さない絶対論理ではない)に受け入れていくのが日本人の特殊性と言うべきではなく、全ての摂理ではないのでしょうか?
キリスト教の神学(ドグマ・原理主義)→その流れをくむ西洋流の法論理は硬直的すぎて生き物のあるべき原理としてどこか無理があるよう思われます。
韓国では徴用工や慰安婦問題を人権侵害だから消滅時効がないといい、個人の人権侵害被害を国家間で決めるの許されないという論理を進歩系?日本学者もメデイアも全く批判しません。
しかし強制労働や慰安婦強制は重大な人権侵害であるから時効がないという論理は、もっと重大な生命侵害・殺人罪強姦罪等に時効を認める韓国を含めた世界中の法体系と矛盾しています。
要するにご都合主義的人権屋の原理主義です。
国家間約束は国家が守るべきであり、韓国裁判所も韓国国家機関の一部である以上国家間約束を守る義務があるはずです。
国家内でお互いに独立性を尊重するのは国家内部の権力分配の論理であって国外に対して国家権力として不統一権力行使をする論理ではありません。
条約精神に抵触する国内法令があれば、それを改正する義務があります。
憲法に違反するかどうかは国内統治の原理であり、これに違反すれば、国内法だけで処理できる場合は純粋な違憲無効かどうかの判断で良いでしょうが、対外効果の生じる条約の場合、関係者の政治責任の問題であって国際協定の有効性を国内最高規範である憲法違反かどうかで論じることは許されません。
対等な主権国家間の協定・条約の解釈は、国際司法裁判所その他中立国の仲裁等によるべきでしょう。
比喩的な例をあげれば、外国人に危害を食えないようにするという条約を結んでおきながら、「外国人を殺せ」という国内法を温存したままにしておいて、この法律があるので外国人殺害犯を処罰できないというのでは条約違反です。
慰安婦合意をしながら、公共空間に慰安婦像設置を許可するのは矛盾ですから、自治体の勝手ではなく自治体が条約を守るように公園等の利用関連法令改正(自治体は法令の範囲での自治があるにすぎません)するのは国家義務です。
日本自治体の権限は以下の通りです。

憲法
第九十二条 地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
第九十四条 地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。

個人で言えば契約しておきながら「家内が承知しないので」と契約履行しないことが許されるか!といえば分かり良いでしょうか。
家庭内で奥さんの発言権が強い・・女性尊重で立派かどうかの問題ではなく(軍部がいうことを聞かないとか、野党が承知しないとか)発言力が強いならその承諾を得てから契約署名すべきことであって、署名した後に契約不履行の口実に使うのはルール違反です。
TPPで言えば農民等貿易協定によって不利益を受ける分野との地道な対話の上で対外交渉すべきで条約を締結してから「国内で納得を得られないから条約を守らない」というのではまともな交渉相手・一人前とみなされなくなるというべきでしょう。
政権が変われば前政権の約束不履行が許されるかの問題では、ロシア革命後新政府ソ連がこの口実を使ったままほっかむりをしてきましたが、ソ連崩壊後、後継の現ロシア共和国が旧ソ連時代の債務履行をしない限り国際社会復帰できないことから、ついにその約束を履行しました。
このように政権が革命的に変わろうと国際社会の信用を重視する限り、過去の国家間約束を守るべきが国際法理です。
https://www.afpbb.com/articles/-/3122795

ロシア、旧ソ連時代の対外債務を完済へ
2017年3月26日 18:03 発信地:モスクワ/ロシア [ ロシア・CIS ロシア ]
1991年のソ連崩壊後、ロシアは対外債務700億ドル(約7兆8000億円)の履行責任を負ってきた。債務の大半は「ペレストロイカ(改革)」で民主化が推進された85~91年に生じ、その履行は90年代に財政の圧迫要因となった。ロシアは壊滅的な経済問題に直面し、98年にはデフォルト(債務不履行)に陥った。ただ、2000年代初めから石油収入が安定したおかげで、06年にはパリクラブ(Paris Club、主要債権国会議)の主要17か国への債務を返済した。

身分2・婚姻離婚の自由1

明治憲法では婚姻は習俗に委ねる趣旨で何も触れていませんでしたが、現憲法では婚姻は両性の合意のみによって成立すると明記して、国家意思や神の意志を問題にしないことと・契約法の原理が色濃く入っています。
憲法

第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
○2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

日本人からみれば結婚する当人たちの意思によるのは当たり前すぎて意味不明ですが、GHQの起草(特に人権部分の原案はユダヤ人女性が中心的に練り上げた記憶です)にかかる憲法ですから、国家や神・宗教の関与を明確に否定しておきたかったのではないでしょうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/

ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon, 1923年10月25日 – 2012年12月30日)は、アメリカ合衆国の舞台芸術監督、フェミニスト。ウィーン生まれでユダヤ系ウクライナ人(ロシア統治時代)の父母を持ち、少女時代に日本で育った。1946年の日本国憲法制定に関わった人物として知られており、このうち2012年まで存命した唯一の人物であった。
22歳で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、GHQ憲法草案制定会議のメンバーとして日本国憲法の人権条項作成に関与した。
日本では日本国憲法第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)草案を執筆した事実が1990年代になって知られ、著名となった。

ちなみに戦後改正される前の親族相続編旧規定(明治民法)でも男30歳、女25歳までは原則父母の同意が必要でしたが、30歳未満でも同意があれ婚姻(近親婚、重婚など婚姻禁止要件に当たらない限り)届けるだけ=許可制ではない・・婚姻の効力がありました。
いわゆる自由婚姻制度でした。(旧772条)
(ネットに旧規定が出ていないので引用できないのが、残念ですが自宅にある戦前の六法全書を見て書いています)
ですから、禁止要件(例えば親子や兄弟間婚姻届)に当たれば、今でも受け付けられませんので、新憲法の規定によって何も変わっていないのです。
いかに日本の法習慣に対する無教養な人が憲法草案に関与していたかが分かる一端です。
憲法に合わせて変更した戦後の婚姻法関係は親の同意を得る年齢が下がった程度です。
現行民法
第七百三十一条 男は、十八歳に、女は、十六歳にならなければ、婚姻をすることができない。
(未成年者の婚姻についての父母の同意)
第七百三十七条 未成年の子が婚姻をするには、父母の同意を得なければならない。

成年=20歳ですから、戦前に比べて10年早く親の同意がいらなくなったことになりますが、この変化は新憲法の精神によるというよりは、核家族化〜郷里の中高校卒業後就職列車に乗って都会に出る時代・・いつまでも親元にいる時代ではなくなった変化を反映したものでしょう。
憲法は骨格を決めるだけでこれを具体的に決めるのは法レベルですが、・・結婚、離婚等は合意を基本とするものの、婚姻や離婚養子縁組等を含む親子親族関係を決める基礎法である民法では、財産法一般の法原理である行為能力による制限・親の法定代理権などのいろんな原理が及ばない点などで別の法体系になっています。
そもそも代理権制度自体考えられない分野です。
日本では仲人が立って事実上結納の儀式日その他交渉ごとを進めますが、それは首脳会談前の官僚による事前すり合わせ同様の準備行為でしかなく、最後の決断は古来からずっと当事者が最終決断してきたものです。
ただし西洋ではオペラの知識ですので真偽不明ですが、領主に初夜権があったようで日本とは大分違う印象です。
また財産法では、合意を守らない相手に対する強制執行=国家権力行使による権利実現が用意されていますが、婚姻に関しては約束違反があっても損害賠償請求できても、婚姻関係を直接強制することはできません。
婚姻年齢は行為能力を基準とする成年年齢と関係なく、しかも男女別になっています。
離婚は、契約法の原理で言えば契約の解除に当たりますが、親族法では協議離婚を認めるものの合意できない時には一般の契約のように一方からの解除の意思表示によって解除の効力が生じません。
財産法関係では解約事由があれば一方的解除の場合相手が納得していないのですから、解除による効果・・アパートの引き渡し等の原状回復を求めるには、結局裁判するしかない点は似ていますが、財産法関係では、裁判所は過去の解除の意思表示が有効かどうかを判定するだけであって、裁判所が契約解除を命じる仕組みではありません。
離婚の場合は、一方の出した離婚宣言が有効かどうかを判定する裁判ではなく、一方からの訴えによって裁判所が離婚すべきかどうかを決める仕組みです。
結婚、離婚子供の出産等々の生命誕生に関する分野は元は神(日本では神々)の領域であり、人間が勝手に変更できない・カトリックでは離婚も中絶も認めないと日本に伝わっているのはこのせいです。
西欧の近代化とは、神が決めていた仕組みを裁判所が決めるように切り替えることであり、他方オカルト国家傾向の強いアメリカなどで、今でも中絶・同性愛反対などの運動が根強いのは、このせいです。
今日のネットニュースでもアメリカでLGBTの決起集会みたいなものがあったと出ていますが、日本でそう言う運動が少ないのは、遅れているからでなく元々差別したい人がいない・好きにしたら・・と言う社会だからでしょう。
msn ニュース
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2019/07/01 18:03
NYで15万人パレード=原点の暴動から50年-LGBT運動

日本人の気持ちでは同性愛でも中絶でも離婚でもそんなに抵抗感がないのは、(自分はそんな気がないけども)それぞれの考え・・神の領域のような気がするが、いろんな神様がいるのでそれぞれの神の意見でいいのでないかという価値観が基本にあるからです。

日本で身分制度があったか?3

のちに平安朝の位階制を紹介しますが、箱根駅伝のシード権同様で、有能な人材が2〜3世代続かないとトップになれないし(信長や信玄、謙信の例を昨日書きました)無能者も一台限りで次の世代が有能であれば上級貴族にカンバックできるが、2〜3世代無能者が続くと下級貴族に落ちていく緩やかな仕組みでした。
徳川家だけでなく大名家・・島津家の場合、大久保や西郷など下級武士でも能力さえあれば重要役目に登用できるだけでなく、島津家の名門上級武士層自身も、自分より身分が低くても能力のあるものの意見には素直に従う価値観がもともとあってこそ下級武士が活躍できたのでしょう。
こういう価値意識は毛利その他の諸大名家でも同様でした。
徳川政権で言えば旗本でさえなかった勝海舟が才能によって取り立てられて幕府側最重要人物として徳川政権最後の大交渉の立役者になりました。
・・江戸城無血開城の講和会議は、官軍の事実上トップ西郷とのトップ?会談で取り決めたものでした。
江戸城攻防戦になれば、江戸が火の海になり多数被害が出るほか、今後長年にわたっての掃討戦など続けていた場合・・列強の迫る国家危急存亡の時に内戦に明け暮れていたのでは、対外交渉力の弱体化が必至だったでしょう。
無血開城であったことから徳川慶喜の処刑もなかったのですが、江戸城総攻撃となれば、新政府になっても構わないと持っていた人でも忠節を尽くすためには、徹底抗戦するしかなかったでしょう。
江戸城落城後もいろんな城の攻防戦が起きたでしょうから、長岡城や会津だけの攻防戦では済まなかったかったはずです。
戦後処理が仮に数年後に終わっても、元幕臣や抵抗した大名家からの人材登用(官僚機構の承継・活用に成功するかが新政権の成否にとって死活的重要です)ができなかったとすれば、明治維新後の日本の目覚ましい興隆が難しかったことになります。
その上長期戦になると残党狩りなどの結果、同一民族間の怨恨を残すのが普通ですから、(最近ようやく会津と長州の和解ができたというニュースを何年か前に見た記憶ですが・・これが会津のみでなく、広範囲で戦っていれば大変なことでした。
そこにチャンスとばかりに欧米が介入すれば、国家存亡の危機・瀬戸際でしたが、これを避けるために史上全く経験のない、無血開城という大胆な決着した両雄が、いずれも武士層の中では最下層出身であったことが象徴的です。
日本社会構造の柔軟性が、下級武士主導による明治維新→その後の近代化が成功した所以でしょう。
身分にとらわれない人材登用が幕末にいきなり柔軟になったのではなく、古代からの伝統によるところが大きいと思われますが・・一応幕末時点で比較してみましょう。
西郷や大久保、長州の高杉や大村益次郎その他は誰もが知っていますが、(もちろん彼らは代表選手であって、その下に続く大量の次世代層があってこそ明治藩閥政治を確立できたし、民間の近代産業興隆に成功したのです)幕府側でも同様で家柄にこだわらない人材登用が進んでいました。
科学部門では伊能忠敬のように商人が隠居してから天文学の専門家として日本地図作成したのが知られているように、いろんな分野での人材登用が進んでいた・・身分による縛りがない社会でした。
(その前提として庶民が美術、音楽を楽しみ、俳諧、蘭学その他関心あるもの全て身分に関係なく楽しみ、勉強できる下地があったことになります・和算で有名な関孝和に至っては生年月日さえはっきりしない程度の出自です)
江戸時代の身分とは、現在企業内の重役や部課長などの職制上の差程度の意識ではなかったでしょうか?
だからこれを西洋生まれの用語である「身分」と翻訳するのは誤訳でないかという気がします。
身分とは 言わば、生まれによる社会的地位・結局は職業が決まるということでしょうが、今でも中小企業の事業承継はほとんどが世襲です。
世襲だからこそ、相続税の特例が必要になっているのが現実です。
韓国の財閥世襲が知られていますが、日本の大企業でも創業後数世代では多くが世襲でやってきて一定期間経過でオーナー一族が徐々に経営から手を引いて行くのが普通の姿です。
サントリーでもトヨタでも、最近問題になった出光でもみな同じです。
奈良〜平安時代の身分制というか位階制度を見て行くと、親の功労によって次の世代にシード権がある程度・次世代が三位以上に登れないと次の子供(すなわち孫世代)はシード権を失う仕組みです。
企業オーナー一族が承継しても失敗すれば終わりになるのと同じではないでしょうか?
平安時代を王朝時代・貴族政治の時代と習ってきましたが、例えば三位以上が公卿に列せられるといいますが、最上級貴族の子弟であっても先ずは従五位下の叙爵から始まり、補職した職務遂行能力に応じて順次昇進して三位以上になるのであって、生まれた時からの三位はいません。
たまたま10月29日の日経新聞文化欄連載中の本郷和人氏の解説によれば、三位以上に昇進できた上級〜中級貴族の子供が成人して「ういこうぶり(初冠)」すると従5位下に叙爵されて官位が始まり、これに合わせた官職も付与されます。
同記事によれば「ういこうぶり」の時期は(一定しないものの)10代前半と記載されています)
この職務遂行能力・人望等によって官職が変わっていく、これに応じて必要な位階を付与するのが合理的であり、実際にそのように行われてきたようです。
菅原道眞の祖父菅原清公に関するウイキペデイアからです。

清公が右京大夫の官職にあった際、嵯峨天皇に京職大夫の相当位を問われ、正五位相当であると答えたところ、直ちに京職大夫の相当位が従四位に改められた

江戸時代にも30日に紹介したように田沼意次が役職昇進に応じて最後は大名(旗本ではイクラ有能でも側用人止まり・・老中になれなかったので)になったように職務に見合うように家禄を引きあげたりしたことが知られています。
このようにデビュー・叙爵と同時に補職されるので、与えられた官職で実際にどのように仕事ができるかの評価?によって昇進していくのですから、今の幹部候補生の就職と同じです。
われわれ法律家の世界で言えば、判事補や判事や検事の官名 がつくのと補職(「〇〇裁判所判事や〇〇検察庁検事に補する辞令」は同時です。
補職による職務実績評価によって、部総括とか支部長や地裁所長等に昇進していくのです。
実際に仕事させないとその人の職務能力や人格的総合力がわからないからです。

中韓大卒就職難(大卒過剰)3

中韓大卒就職難(大卒過剰)3

ちなみに日本の進学率推移は以下の通りで、長期間かけて現在の6割前後の進学率に達したものです。

http://www.mukogawa-u.ac.jp/~kyoken/data/13.pdf

これを韓国や中国が超短期間に先進国並みに引き上げたのですが、高級労務がいきなり増える訳がないでしょう。

https://spc.jst.go.jp/education/basicdata/05/02.html

高等教育機関への進学率では、2011年、日本が51.0%、中国が26.9%となっている。 

https://spc.jst.go.jp/education/basicdata/image/basic25_02.gif

以下は、韓国を含めた国際比較ですが大学といってもそのレベルはいろいろです。

アメリカの場合、コミュニテイカレッジとかいって、日本で言えば、コミュニテイーセンターの何とか教室レベルルも大卒資格とも言われています。

http://honkawa2.sakura.ne.jp/3928.html


大学に行って見て誰もが幹部になれるという願望が幻想に過ぎないと分かれば、学歴(身分の言い換え?)によるのではなく自分の能力に応じてグレーカラーでも就職すれば良いと思うのが日本人ですが、中韓の人には、そういう選択肢(価値観)がないようです。
現実を直視できない・・メンツがあって願望を捨てきれない国民性がなぜ牢固なのかですが、長年に亘って身分差別に苦しんできた格差の大きさに比例して意識への埋め込みが深くて方向転換ができないで苦しむようになったというべきでしょう。





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