江戸時代産業構造の変化3(GDP指標1)

昨日見たように大阪市場に出回る金額比率では1711年にコメ100対綿製品18だったのが、1804年以降100対105の関係に逆転しています。
しかも主力製品である縞木綿等が統計から抜けているというのです。
他の商品も同率変化かどうかまでは分かりませんが、綿に関しては大幅な比率変化です。
1800年代に入ると、(工業制手工業の発達によって)大口取引は大阪市場を通さない直接取引が一般化していったとも一般に解説されていますので、コメの経済比重は大幅低下していたことが明らかです。
今では、食品でさえもコンビニその他大手スーパーの食品工場化によって農産物や魚介類も公設市場経由はなく、大手の場合契約農家から直接仕入れが普通になっていますが、こうなってきたのはまだ数十年のことです。
魚貝類も同様です。
小池都知事就任以来、築地市場移転問題が一般の注目を浴びましたが、実はこの数十年で魚介類や、農産物の市場離れが激しく市場に頼る率が急激に減少しています。
(今でも市場経由で仕入れている業者は個人経営のレストランをちょっと大きくした程度で全国展開規模の企業で築地や太田市場購入を基本にしている企業は皆無に近いのではないでしょうか?)
千葉市中心部で見ると青果物や魚などの商店は、ほぼ壊滅状態です。
数十年前には、各地域には数店舗以上経営する個人的商売(地元スーパーや飲食店の成功者など)がありましたが、昭和末頃から平成に入った頃から大手に負けてあるいは吸収されて、地元地盤の百貨店やスーパーなど事業体の多くが姿を消しました。
領内から集めた年貢米換金の場合、今のような食品工場化=大規模購入先がないので、領内消費地の大部分を占める自分の城下町での換金だけでは外貨(幕府発行の貨幣)を稼げないので余剰分を従来通り大名は大阪市場で換金するしかなかったのでしょう。
戦国時代が終わると大名領国の一円支配確立・・農村地域内での自給自足分プラスアルファを残して徴税する関係上・領内の大規模米取引が原則として成立しません。
大大名であればあるほど、大規模に集まった米の換金には京大阪江戸三都での大消費地へ輸出するしかないのですが、そのためには直接個別大名が直接販路を求めて輸送するのは無理があるので自然発生的に大阪のコメ市場が成立したものでしょう。
江戸時代中期以降藩政改革の一環として、特産品開発→専売制は広がりますが、もともとコメを大名が年貢として取り立てた結果、(今の金曜市場で年金資金が大口運用者になっているような現象?)コメの出荷者として大名・旗本等の領主が大口市場参加者になったことから、結果的にコメの専売制度の基礎になっていたようなものです。
大阪市場に消費者(例えば江戸の町民が)が直接参加できないので、問屋が大量買い付けして各地の二次問屋〜三次問屋〜小売に分散していく・・結果的に問屋資本蓄積が発達し、問屋資本が、家内制手工業を組織化するまでの過渡期があったのです。
現在でも公設の魚市場や青果物では、セリ参加資格のある仲買人がセリを通じてまとめ買いして、その仲買人から各個人商店が買って帰る仕組みです。
このように家内制手工業を組織化したのが問屋資本でしたが、すぐにこれが直取引拡大によって問屋資本から離れて行きます。
家内制手工業の初期イメージは、今は姿を消しましたが、私の高校時代以降・・昭和3〜40年台に一般的であった家庭内内職が十数人規模の雇い人利用規模に変わった程度の光景でしょうか?
家内制手工業がさらに成長して工場制手工業に脱皮していくといわゆる産業資本家が勃興し、問屋資本による家内制手工業が淘汰されていきます。
これに比例して工業製品の直接取引が始まり、大阪市場を経由しなくなってきたのが天保の改革頃の経済状況でした。
製鉄や車造船テレビみんなそうですが、工業製品は市場での競りによる取引ではなく相対取引が原則です。
以上のように綿製品等の主要製品が大阪市場離れを起こしていたにも関わらず、大阪市場だけで見てもコメの比率が綿製品にくらべて大幅低下していたことがわかります。
徳川政権樹立当時コメ収益を基本(実は当時もコメだけを基準にしたのではないので厳密には複雑・・コメを基準値とした換算であったと思われます)として、幕府や大名家の格式・経済力差・軍役基準を決めていた物差しでは、1800年頃には対応できない時代が来ていたのです。
まして約100年前の1600年代初期との比較データが出ていませんが、幕府草創期に決めた石高との比較では、まるで基準になっていなかったと思われます。
9月4日に唐津藩の石高が表6万石に対して実高25万石と紹介しましたが、幕藩体制確立時の当初格付けは意味をなさなくなっていたことがわかるでしょう。
「鉄は国家なり」とか建艦競争の時代には「造船力」で国力を測る時代がありましたが今は違います。
200年前の大企業が200年間リーデングカンパニーであり続けているか・・仮にリーデイングカンパニーであり続けているとした場合、主力商品入れ変えに成功しているからこそ生き残っているのでしょう。
江戸時代270年間に主力商品産業が入れ替わっていたのです。
最近では旧来型GDP数値にこだわるのは意味がないのではないか?という印象を持つ人が増えていると思いますが・・。
そういうメデイアの意見を見かけませんが・・。
いわゆる失われた20年論では、GDPの上昇率が低いという主張ですが、個人の生き方で言えば、収入や売り上げ前年比なん%増で嬉しいのは青壮年期のことで、一定以上の年齢や年収になれば、これ以上売り上げ増や新店舗展開のために長時間働くよりは、この辺でスピードを緩めたいと考え若い頃の行動パターンを修正するのは不合理ではありません。
(個人で見れば、ある日救急車で運ばれるまで猛烈社員を続けるのは愚の骨頂です)
国家や社会も生き物?としては同様で、一定の高原状態に達すれば現状維持するのが合理的であり、ゴムが伸びきっている状態で際限のない成長を目指してある日突然ゴムが切れるような事態・・急激な国家破綻を招くより合理的です。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊への道4(秀才の限界5)

寛政の改革や天保の改革はいずれも儒教が目標とする聖人・・帝王の自己抑制・・質素倹約奢侈禁止中心で、新たな進歩の芽を規制したことが特徴です。
もっとも定信は人足寄場を作るなど一定の新規改革をしていますし、忠邦も前将軍家斉の濫費政治を徹底排除・・濫費に加担してきた閣老粛清をするなど清新政治を目指しています。
(後記庄内藩国替え騒動の時にミズノの責任を問うために登場禁止処分した老中に対する復讐だったとすれば却って恨みを買い政敵を作ります)
日本ではこういう粛清はもっとも嫌われます・・迫ってきた国防の危機対処のために国防の基礎体力増強のために、江戸大阪周辺の旗本や譜代の入り組んだ小領地を上知(と言っても取り上げっ放しではなく遠隔地との交換です)させ・・一円支配復活による幕府軍事力強化策などしていますが、こういう利害の絡んだ国内政治は人望のない場合強硬策のみでは上手くいかないものです・・。
この後で庄内藩に対する順次領地交換命令に対する地元民による反対運動を紹介しますが、同じ石高同士の交換でも実高の違いが大きいので、損をする藩が出てくる上に藩札の処理で損をする人や大名貸の取りはぐれリスクから領民も反対する・・まして幕閣に顔の効くものがうまい汁を吸える疑いまで生じると・・為政者の信用が欠かせません。
水野の場合には庄内藩騒動で裏で工作していた点を暴かれて信用失墜したばかりでしたので、人望的に無理な政策だったのでしょう。
ここでは、大方の方向性を直感的に表現したものです。
寛政〜天保の改革を見ると、なんとなく漢の王莽による儒教信奉の理念重視の新規政策が空回りに終わって、短期政権に終わったのと似た印象を受けます。
帝王は自分が奢侈に走り怠惰では困る点は今も同じ・健康のために車に乗らず自分の足を使うのも生き方の一つですが、国民が、電話やITを駆使して手間を惜しむ?便利になるのを規制する必要はありません。
朱子学エリートが紀元前の儒学を基礎にした教科書?通りの理想?実現のために政治を支配すると寛政や天保の改革?のような時代錯誤になり幕府崩壊を早めたことになります。
ちなみに徳川政権中期以降幕府に限らず各大名家も産業構造変化・・農業収入に頼る限界による財政難を克服するために各大名家では競って藩政改革・・に走ります。
藩政改革は、商業社会化に応じた前向き改革が中心・・主として特産品の産出努力に精出して相応の成功を収めていますが、幕府・定信や水野の改革は質素倹約中心でしたので方向を誤ったと言うべきでしょう。
ちなみに定信が幕政に乗り出すに当たって成功体験として喧伝されているのは、天明の飢饉に際して備荒米を放出した善政ですが、当時の経済矛盾・・産業構造変化に対応するための改革をしないと体制が持たない危機発生の原因は、貨幣経済の発達と農業依存の財政収入体制の矛盾関係にあったのですから、備荒米放出程度の実績では5〜6周回遅れの古代的政治・儒教でいう帝王学・質素倹約の儒教道徳を実践して自慢していただけのことです。
西洋列強が押し寄せてきている危急存亡のときに時代遅れの改悪?ばかりしていたので、幕府がどんどん信用をなくしていったことになります。
幕府要人は奥州白河藩主や会津やあるいは彦根など、経済変化の主流から外れた地域の経営しか知らない経営者(大名)が中心であったことが、時代逆行の安政の大獄を生み時代についていけなくなった大きな原因でしょう。
韓国文政権の最低賃金引き上げ策の頭でっかち性をどこかで書きましたが、定信や忠邦は上地令や公定賃金などで失敗ばかりである点も似ています。
親会社の改革が失敗ばかりで子会社(各大名家)の改革ばかり上手くいっている大企業の最後のようなものです。
各大名家は、9月2日に書いたように関ヶ原後、領地内の生産高アップに努力して約100年間で耕地面積を倍増していたと言われていますが、100年経過後は米の生産高競争では無理が出てきたので、新規収入源確保のために特産品創出にしのぎを削るようになっていました。
例えば水野忠邦の出身地唐津藩では表高6万石に対して、実高25万石あったと言われています。
唐津藩に関するウイキペデイア解説の一部です。

・・・・入れ替わりで土井利益が7万石で入り、利益から4代目の土井利里のとき、下総国古河藩へ移封となる。代わって水野忠任が三河国岡崎藩より移されて6万石で入った。1771年、水野忠任が科した農民への増税を契機に、虹の松原一揆が起こり、農民は無血で、増税を撤回させるに至った。忠任から4代目の水野忠邦のとき、遠江国浜松藩へ移封される。忠邦は、天保の改革を行なったことで有名である。

水野忠邦に関するウイキペデイアの引用です。

寛政6年(1794年)6月23日、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。長兄の芳丸が早世したため、文化2年(1805年)に唐津藩の世子となり、2年後の同4年(1807年)に第11代将軍・徳川家斉と世子・家慶に御目見する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。
文化9年(1812年)に父・忠光が隠居したため、家督を相続する。
忠邦は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、文化13年(1816年)に奏者番となる。
忠邦は奏者番以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた。この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。また唐津藩から一部天領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、天領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれている。

上記の通り唐津藩は表高6万石に対して実高25万3000石ですから、この間のGDP伸び率の大きさがわかるでしょう。
同時期の転封先浜松藩の表石高は、ウイキペデイアによれば以下の通りです。

肥前唐津藩から水野忠邦が6万石で入る。忠邦は天保5年(1834年)に老中となったことから1万石の加増を受けて7万石(7万453石とも)の大名となる。しかし天保の改革に失敗したことから弘化2年(1845年)9月に2万石を減封され、さらに家督を子の水野忠精に譲って強制的に隠居の上、蟄居に処された。11月に忠精は出羽山形藩に移封となる。

浜松は同じく表向き6万石ですから唐津とは石高では同格転封ですが、実高15万三千石ですから、伸び率が唐津に比べてかなり低かったことがわかります。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊の道3(秀才の限界4)

メデイアの基本論調は過疎地の集落消滅を困ったものだ・・山奥の散在した生活が理想というかのような主張です。
山奥や海辺の集落は、一定の社会状況下でそこに住むのがその人にとって合理的だったから始まったに過ぎないように思えますが・・。
平安京に人口が集中して都会になり、鎌倉に人が集まり、応仁の乱で京に住んでいると食えなくなれば食える地方に分散し、大名による地方支配が確立すれば城下町が出来たように、江戸時代といえども庶民、豪商を問わず人口の離合集散は産業構造の変化に適応していると見るのが合理的です。
「地方はいいぞ!」「地方に戻れ」と合唱するよりは、都市型産業が隆盛になれば、それに適応させる職業訓練・政策誘導が合理的です。
定信の時代には今ほど明白ではありませんが、元禄文化〜吉宗を経て1700年代末以降は産業構造ではコメ余りが始まり、農業生産力を競う時代から利便性やサービス化・文化力を競う時代に入っていたのです。
奢侈禁止という古代国家価値観で新しい文化・浮世絵〜錦絵〜歌舞伎〜意匠を凝らす都市文化を禁止弾圧し、都市住民を地方へ戻せという政策を本当に採用すれば無謀すぎるというか、狂気沙汰に近かったでしょう。
定信は教養の塊のような人物だったので「小売価格の統制や公定賃金を定め」ればそうなると思って実施するのもエリートらしい頭の構造です。
せっかく家柄に恵まれていても、秀才が政治をするのは間違いの元・・政治とエリートとは、相性が良くないのです。
過去の文物理解力が高い点が秀才の要件であって、創造力が高くて秀才になっている人は滅多にいません・・・エリート意識の強い人・・秀才が新規産業を興すには不向きです。
ウイキペデイアによれば、天保の改革は以下の通り僅か2年で忠邦が失脚しています。

天保12年(1841年)に大御所家斉が薨去し、水野忠邦は林・水野忠篤・美濃部ら西丸派や大奥に対する粛清を行い人材を刷新し、農本思想を基本とした天保の改革が開始される。同年5月15日に将軍徳川家慶は享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。改革は江戸町奉行の遠山景元・矢部定謙を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止される。なお、大奥については姉小路ら数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外とされた。
遠山・矢部両名は厳格な統制に対して上申書を提出し、見直しを進言するが、水野は奢侈禁止を徹底し、同年に矢部が失脚すると後任の町奉行には忠邦腹心の目付鳥居耀蔵[2]が着任する。鳥居は物価高騰の沈静化を図るため、問屋仲間の解散や店頭・小売価格の統制や公定賃金を定め、没落旗本や御家人向けに低利貸付や累積貸付金の棄捐(返済免除)、貨幣改鋳をおこなった。これら一連の政策は流通経済の混乱を招いて、不況が蔓延することとなった。
天保の改革はこうした失敗に見舞われたものの、水野は代官出自の勘定方を登用した幕府財政基盤の確立に着手しており、天保14年には人返令が実施されたほか、新田開発・水運航路の開発を目的とした下総国の印旛沼開拓や幕領改革、上知令を開始する。印旛沼開発は改革以前から調査が行われており、庄内藩や西丸派の失脚した林忠英が藩主である貝淵藩ら4藩主に対して御手伝普請が命じられ、鳥居も勘定奉行として携わり、開拓事業が開始される。また、幕府直轄領に対して同一基準で検地を実施し、上知令を実施して幕領の一円支配を目指した[3]。
上知令の実施は大名・旗本や領民双方からの強い反対があり、老中土井利位や紀州徳川家からも反対意見が噴出したため中止され、天保14年閏9月14日に水野は老中職を罷免されて失脚し、諸改革は中止された[4]。

寛政〜水野改革は全般的に素人の思いつき的施策だったように見えます。
寛政の改革で失敗したのにその後も引き続き質素倹約とか貨幣改鋳にこだわる改革政治がなぜ続いたのでしょうか?
一つには田沼意次のように下賤の身から上がったものではなかった・・定信は吉宗の孫ですから飛びぬけの貴種、役職を退いても幕閣内の地位は揺るぎません。
役職によって上に立てたのではなく、無役の時から吉宗の直系孫として城内で行き合えば、どんな大大名も権勢を振るう老中も一歩下がってお見送りしなければならない、尊貴の身分です。
老中首座をおりても思想影響力は隠然たるものものがありました。
例えば貨幣の金含有率の水増しは古代から「悪貨は良貨を駆逐する」と言われる古典的悪政でしたから、儒学秀才系にとってはこの進行をなんとか食い止めようという悲壮な使命感を持っていたからではないでしょうか?
現在の財務官僚系列が財政赤字解消にこだわるのと同じ使命感によるようです。
寛政〜天保の改革は素人の思いつき的改革に過ぎず却って幕府財政をガタガタにした原因に見えるのですが、今になっても何故これらを3大改革の2例と歴史で教えるのか不明です。
健全財政論を信奉する財務省系官僚機構(・EU官僚もおなじですが)にとっては、「質素倹約論は子供みたい!などと言われたら困るからでしょうか?
吉宗の享保の改革は質素倹約の他にいろんな制度改革が行われ、蘭学奨励などで学問研究が活発化した外、現在に至る官僚制度や訴訟制度が確立するなどの功績があります。
学問の自由化によって奔放な活躍をした平賀源内も出ましたし、浮世絵・錦絵その他百花繚乱時代のタネを蒔いたものでした。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊の道2(秀才の限界3)

定信や水野忠邦の政治はいわば時の流れに棹さす・・反動政治ですから、これを歴史家が何故改革というのか不思議です。
定信は気に入らない学問を禁止したりすること自体、広く多くの意見を元に前向きに活性化しようとする気持ちがなかったことがわかります。
吉宗が自分の知らない意見を求めて目安箱を設置して広く意見を求めたのとは大違いです。
農業生産に頼る経済構造ではなくなりつつあったから、江戸等の大都市に人が集まってきた・・地方では食えないから集まっているということは、江戸大阪等の大都市の方が食える道(職)があるという嗅覚によるのですから・これを地方に返すと言っても無茶な政治です。
「農は国家の大本なり」という漢文を高校時代に読んだことがありますが、漁労採集の生活から農耕社会に移行した移行期の思想・・文字ができるかどうかの超古代思想(先秦諸子百家時代でも古すぎる思想として重視されなかった農家思想)としては理解可能ですが、こういう超古代思想を学んで江戸時代後半期に超古代社会に戻そうとする(現実無視の)理想?政治実現に奔走したから、教養重視の)学者にとって理想的政治家像になっているのでしょうか?
徳川政権草創時には、大名その他の経済力基準を米の収穫力・・何万石とか何俵何人扶持などと表現して軍役その他の基準にしていましたし、徳川政権発足後各大名も一円支配を利用して各領地内での水田稲作拡大(新田開発)に務め1600年〜1700年頃までも大多数の大名家では耕作地をほぼ倍増させていたとどこかで読んだ記憶です。
房総半島ではこの間ほとんど生産増がなかったことを何回書いてきましたが、これは大多数が旗本領に細分化されていたために、いわゆる一円支配がなかったことによると思われます。
新田開発には前提として水路整備のインフラ工事先行が必須ですが、千葉県では旗本の知行地が細分化されていたので、(一つの集落全部ではなく共有?・・極端な場合、一つの水田を複数の旗本が領有するような事例が紹介されているように)領主側にインフラ投資資金力もなければ意欲もなかった・現状維持政策に終始していたことによるでしょう。
このために(旗本規模での新田開発は無理があるので)幕府の公共工事として椿海と言われた干潟(現在の旭市)干拓事業や印旛沼干拓事業など推進していますが、その都度失敗しています。
吉宗がこれの延長上で直轄地での新田開発・米の増産に励みましたが、その頃には米の増産による武家の収入増政策は限界に達していたので、増産すれば相場下落に苦しみ、「米将軍」と揶揄されたのです。
食料不足は生命の危機ですから絶対的不足社会(エンゲル係数重視)では増産が重要政策ですが、(戦後物不足時代には作れば儲かる時代だったので、設備投資資金さえあれば儲かる時代でした)必要を満たすようになれば、増産だけでは価格下落するだけ・大阪堂島で米相場が必要になった所以です。
今ではコメも豚肉鶏肉野菜類も全て銘柄にならないと売れないし、洋服も洋服でさえあれば売れる時代ではありません。
ブランド化が必須になってきます。
元禄以降では、飲食店も食べ物さえ供給すればいいのではなく、味の良さ、しつらえのよさ、(1800年代に入りますが)笠森お仙のような客呼び版画などが流行るようになります。
性産業でさえ高級娼婦になるには深い教養教育して、付加価値をつける必要が出ていました。
次々と都会に人が集まるのは相応の需要があるからですから、それに見合ったインフラを整え、産業を興す必要性に思い至らず元の農村に戻れという定信の政策は、改革と言えるでしょうか・・無策すぎませんか?
今の日本経済を見ればわかるように人口の9割を農業に従事させるのは無理がありますし、コンピューター化について行けない人もいますが、そういう人救済のためにコンピューター化禁止するよりは、IT化適応教育訓練する方が合理的です。
大手メデイアは過疎化を悪しきものとして、しょっちゅうUターンを奨励し、ある小都市が最も幸福度が高いとか住みやすさ日本1などと4〜5年に一回の割で報道しては、Uターンした若者を英雄のように報道します。
過疎地の集落消滅を困ったものだという一方的な視点で報道しています。

江戸時代3大改革と幕藩体制崩壊への道1(秀才の限界2)

Jul 24, 2019「社会変化→秀才の限界 1」以来横道にそれましたが、日本社会はしょっちゅう社会も権力構造も変わっていて適応力が問われる社会で、中国や朝鮮のように千年も2千年も同じ思想行動様式で続く社会ではありません。
停滞社会の中国や朝鮮では紀元前の孔孟の教えを忠実に学び如何に精緻な理屈を繰り広げていてもそれで間に合ったのでしょう。
それでも約300年毎に大洪水が起きたような農民流亡化によって王朝崩壊を繰り返しているのですが、その後また同じスタイルの王朝が繰り返され進歩=変化がないのは驚くばかりです。
殷の紂王の妲己、夏の桀王・末喜に始まり呉越の戦いの西施〜玄宗の楊貴妃まで美姫寵愛や奢侈(これも紂王の酒池肉林に始まりいつも同じパターン)に走ったから国が滅びた・というお定まりの批判でことを済ますからでしょう。
実際の原因は毎回そんな単純なものではない筈ですが、儒学では古代思想のママ現実当てはめをしないでことを済まそうとするからこうなるのでしょう。
江戸時代の改革の必要性と対応力の差に戻します。
停滞社会の中国や朝鮮では紀元前の孔孟の教えを忠実に学び精緻な理屈を繰り広げていてもそれで間に合ったのでしょうが、(それでも約300年毎の大洪水が起きたような農民流亡化によって王朝崩壊を繰り返してきました)昨日まで見てきたように絶え間なく社会変化のある日本の場合古代思考の学習では解決出来るはずがありません。
各大名家は、藩政改革・貨幣経済発達とコメ生産に頼る経済システムの無理を正すために特産品奨励(=コメ以外の商品生産を工夫する改革)に励んだ西国大名系の改革が相応に成功していたのに対し、幕府はあくまで朱子学思考・・質素倹約・貨幣改鋳禁止・古代的思考の繰り返しに終始していたので幕末頃のは大きな差がついたのではないか?というのが私の関心です。
要するに産業構造を改を(リストラクチャリングして時代遅れの部門を縮小して新規需要のアリそうな分野に人材資源を回)して時代即応の商品生産拡大する視点が欠けていたか希薄であったということでしょう。
ちなみに上杉鷹山の改革成功は、定信〜水野らと違って生産拡大路線である点は西国大名と同じでしたが、旧来型農業生産向上策による成功でしたが、中部以西の西日本では貨幣経済化に対する構造変化能力(元禄時代にすでに赤穂藩では塩の生産商品化成功していたことが忠臣蔵で知られます)が求められていました。
これに気がついて構造改革に努力・成功していたかどうかで幕末にかけての経済力や人材教育レベルが違っていったのです。
徳川時代の三大改革・・・享保・寛政、天保改革に関するウイキペデイアによれば以下の通りです。

享保の改革(きょうほうのかいかく)は、江戸時代中期に第8代将軍徳川吉宗によって主導された幕政改革。名称は吉宗が将軍位を継いだ時の年号である享保に由来する[1]。開始に関しては享保元年(1716年)で一致しているが、終わりに関しては享保20年(1735年)や延享2年(1745年)とするなど複数説がある。
主としては幕府財政の再建が目的であったが、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡る。江戸時代後期には享保の改革に倣って、寛政の改革や天保の改革が行われ、これら3つを指して「江戸時代の三大改革」と呼ぶのが史学上の慣例となっている。

https://www.ndl.go.jp/nichiran/s1/s1_3.html

蘭学の芽生えは8代将軍徳川吉宗の時代である。彼は、殖産興業、国産化奨励の方針から海外の物産に関心を示し、馬匹改良のため享保10年(1725)など数回オランダ船により西洋馬を輸入、ドイツ生まれの馬術師ケイズルを招いて洋式馬術、馬医学を学ばせた。また、享保5年(1720)禁書令を緩和してキリスト教に関係のない書物の輸入を認め、元文5年(1740)ころから青木昆陽、野呂元丈にオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入にも積極的であった。

先例に捉われない大改革によって、平賀源内のような奔放な人材が次々と出現できたし、結果的に合理化思考になれて、明治近代化に必要な人材の準備ができたのです。
吉宗の出自・・生まれつきの宮廷教育を受けなかったプラス面が出たのでしょう。
次の寛政の改革です。

寛政の改革(かんせいのかいかく)は、江戸時代に松平定信が老中在任期間中の1787年から1793年に主導して行われた幕政改革である。享保の改革、天保の改革とあわせて三大改革と並称される。
定信は緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指した。また、一連の改革は田沼が推進した重商主義政策とは異なる。蘭学の否定や身分制度改定も並行して行われた。だが、人足寄場の設置など新規の政策も多く試みられた。
改革は6年余りに及ぶが、役人だけでなく庶民にまで倹約を強要したことや、極端な思想統制令により、経済・文化は停滞したこと、さらに「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などにより、財政の安定化においても、独占市場の解消においてもさほどの成果をあげることはなかった。その一方で、農民層が江戸幕府の存立を脅かす存在へと拡大していく弊害があったとも指摘されている。結果として、将軍家斉とその実父徳川治済の定信への信頼の低下や幕閣内での対立、庶民の反発によって定信は失脚することになった。
寛政異学の禁
柴野栗山や西山拙斎らの提言で、朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止した。この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものであったが、諸藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が次第に一般化していった。
処士横議の禁
在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止した。海防学者の林子平などが処罰された。さらに贅沢品を取り締まる倹約の徹底、公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、出版統制により洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰された。
旧里帰農令
当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙った。1790年に出され、強制力はなかった[1]

吉宗の改革は文字通り社会の変化に対応するための大掃除リニューアル・・革新的なものでしたが、定信〜水野忠邦になると社会構造の変化を否定し、新たに生まれtきた戯作その他都市文化を禁止し、人口の都市集中の動きを農村へ戻そうとするなど、社会構造変化を元に戻そうとする努力中心です。

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