スターリング地域のポンドリンク制を今のユーロ相場に喩えると、為替相場を利用した貿易競争力の側面で言えば、(為替切り下げ競争は今でも事実上行われています)リンク制は統一為替制と効果は同じです。
現在のユーロに喩えれば、リンク制・統一為替制はその構成国のどの経済に合わせるかに、構成国の損得がかかってきます。
変動相場制下の現在では、ユーロ相場は欧州諸国の言わば平均的能力で相場が決まるので、ギリシャ等南欧弱小国にとっては実力以上に相場が高いことになるし、ドイツ等強者にとっては実力以上に低い相場になるので、交易上有利になって大儲けする国と割高な為替相場によって損をする国に分かれます。
これに対して変動相場制以前の固定相場制の時代には、人為的に基準を決められるので、最も経済力の弱くなった国の基準に合わせれば、そのグループ構成国全部が実力以上の安い相場になるので、全構成国が為替上有利になります。
スターリング地域はこの中で最も経済的に弱りつつあって相場が弱含みで進んでいたイギリスポンドをいきなり2分の1に切り下げた上で、全構成国がこれにリンクしてしまいました。
為替相場をあげても良い筈の勢いのある大英帝国の自治領諸国・新興国まで一緒に半値に切り下げられてしまったのです。
スターリング地域設定・為替相場のリンク制創設によって、英連邦諸国は当時の為替切り下げ競争上・・貿易競争上有利な立場を獲得しました。
(ユーロ圏の独仏等と同じ立場です)
ユーロも最も弱い南欧諸国の経済実力でユーロ相場が決まっていれば、どこも落ちこぼれが起きずみんなが交易上有利になっていたでしょう。
実際はユーロに対する期待感で実力平均値以上に相場が上がってしまったので、南欧弱小諸国は余計苦しくなったと言えます。
スターリング地域に話題を戻しますと、他方でポンド防衛のためにポンドのイギリス支配領域外との両替を、1940年の為替管理令の改正で許可制にしたことから、排他的経済地域としてのスターリング地域が法的に生まれます。
(社会科の歴史で習うブロック経済化の法制度上の誕生ですが、かっちりした制度になるまで1931年から約10年かかっています)
この結果、域内貿易はポンドで決済し、域内の貿易収支はロンドンでのボンド預金の振替作業をする機能になっていったようです。
(世界の金融街シティーの誕生の背景か?・・ロンドンに外貨両替を集中させるためには外為の自由化・・金融取引のセンター機能の強化が必須でした。)
この結果(1931年以降徐々に進んだ制度ですが・・・)自治領諸国が域外との貿易で得た資金は、すべてイギリスでポンドに両替され、そのポンドをドル等との交換に回すので、域内諸国の域外に対する貿易黒字分だけイギリスに滞留するので、イギリスのポンドの相場が下げ止まり・安定しました。
イギリスは、自国の経済力に合わせてポンドを仕方なしに最低限切り下げたので切り下げても赤字基調は変わりませんでしたが、(自国の貿易黒字によってポンド相場を維持したのではなく、)スターリング地域全体の総売上をロンドンのイングランド銀行へポンド預金にさせることによって、スターリング地域全体の貿易収支黒字分だけポンドが滞留するので、ポンド相場を維持出来るようになりました。