天災と国民性1

日本には(幸い)資源輸出による(不労所得)収入がないのですが、その代わりに日本は近代産業製品で貿易赤字になっても何十年も食えるほどの有り余る貯蓄・・海外投資(資産)による収益(今のところ元本の食いつぶしまで進んでいません)の送金があります。
都市住民は地代や家賃収入に頼れる近郊農家ではないものの、巨額退職金や保有株式あるいは民間保険会社との契約による年金等の積立金等々で労働収入がなくなっても食いつなげるようになっている状態が我が国です。
東北大震災と同時に起きた原発事故による原燃料入増加によって、海外からの送金に頼るヒマもなく単年度では国際収支が大幅赤字になりそうな雰囲気になってきました。
(昨年11月と12月では経常収支までが、赤字になったと報道されています)
「家貧しゅうして孝子あらわる」と昔から逆説的に言われますが、日本は資源輸入に食われる分・・あるいは震災等の天災が多いことからしょっ中国富が損なわれる状況にあることから、受ける損害分補填のために輸入が増える関係で、その分だけ近代産業で多く黒字を稼いでも円高にならないので、その分国民の近代職場が多く確保出来る恵まれた国であったことになります。
為替相場が各種産業の国際競争力を規定するとすれば、資源輸入国あるいは天災の多い国であることは、働くのが好きな日本人としては、恵まれた条件であって、有り難いことです。
天災とは言え、日本の天災は恵まれた重要資源の一種でもあります。
日本の天災・・もっとも多い台風で言えば、「激しかれとは祈らぬものを
・・」一過性・・一夜明ければ台風一過の晴天が普通です。
東北大震災〜津波と言っても、時間にすれば数時間のことでした。
こう言う天災のしょっ中来る国では、天災に乗じて略奪や悪辣なことをすると数時間後には元の平和に戻るので、緊急時に共同体のために骨を折らなかった人は台風一過後村八分になり兼ねません。
こうした経験が何千年何万年もあったのでイザ危機が来ると、誰も逃げるどころか後のために命を棄てても共同体のために頑張る気風・文化が定着して来たのです。
台風一過・あるいは地震が終われば、明くる日には綺麗な水が流れて来るし、1〜2ヶ月もすれば緑したたる草木の新芽が出てきます。
戦後の焼け野が原で、「国破れて山河あり城春にして草木深し・・」を実感した世代は今や70代以上になりました。
このような風土では一旦台風や地震で家が壊れても水に流されても、再興する希望がわいて来るし、勤勉な風土になります。
これに対してアフガンその他世界各地に多くある荒野の風景を見ると、天災は一過性どころか千年万年単位で定着している・・このためにこれが一時的な「天災」という意識さえ起きないほど長期化していることが分ります。
中央アジア、アフリカ、オーストラリア大陸(アメリカ合衆国も荒れ果てた大地が中殆どです)その他荒れ果てたあちこちの大地を見ると、現状そのものが日本の恵まれた状態に比較すると終わりのない天災に居座られている・・天災が恒常化した状態です。
他所の国では知っている限りの過去から未来永劫に続く気候風土ですので、日本のように(一時的な)天災と意識して数万年前の風景に復興する気力が沸いて来ない・・復興に努力するよりは故郷を棄てて民族移動する方がマシ・・残った人間はまじめに働くよりは山賊でもした方がマシという気分になるでしょう。
シベリヤや砂漠その他荒野等の気候風土とは、長期継続する天災地域の別表現と言えるでしょうか?
天災が長引けばそれがその地域の気候というようになっていて、それ以上の天災が来ないので天災のない国と言い、日本のように普段は温暖で麗しい国では年に1〜2回しか台風その他の天災が来ないと天災の多い国と言われます。

円高適応力3

パナソニックやシャープ・・家電業界を比喩的に言えば、白物家電など不採算事業の撤退で仮に1万人のリストラがあっても同一企業内で高度産業部門にシフトして1000人雇用が出来て(高度化の結果)一人当たり10倍の稼ぎがあれば、残り9000人を社内で清掃や見学者案内その他で遊ばしておいてもやって行けます。
これを社外に出せば9000人の失業発生になりますが、9000人政府が雇えるほどの納税をして所得再分配資金にすれば、その税で介護や医療従事者の拡大・フィットネスクラブサービス業その他新たなビジネスになります。
鉱工業生産部門から第三次産業へシフトするには、鉱工業分野の稼ぎで養えるだけの収益がなければなりません。
鉱工業あるいは農業等の人口比率の高い社会とは、言い換えれば生産に従事しない余剰人口を多く養えない社会ですから、第一次第二次産業の余剰収益性の低い社会・・生産性の低い社会の別名と言えます。
円高で国内企業の減った分だけ勝ち組が大儲けしてくれれば、その資金で(所得再分配)街を掃除したり子どもを預かったり病人の世話・高齢者介護・芸術活動する人、美術館で働く人などへの支出が増えて、いろんな非生産分野で働く余力が出るので、生活水準が上がります。
円高が続いてもトータルとして貿易収支が黒字であり続けている場合、衰退した産業分野に変わる高収益産業・分野が出て来ていることを意味しているのですから、国のあり方として問題がないばかりか、めでたいことです。
円高=高賃金でもなお国際貿易競争に勝っていて貿易黒字を維持出来ている以上は、日本経済は適応出来ていることになりますから、この段階で不適応の結果生じる失業者は介護などへ職業訓練などで移行させて行く・・サービス分野を増やして国民の生活水準を上げる方向へ誘導すべきであって、何重苦などと言って騒いでいるのは間違いです。
スポーツでも勉強・研究でも順次ランクの高いチームに移籍して行っても、そこでもレギュラー・・一定の上位集団に入れる限度で、より高レベルのチームへ移籍して行く方が本人の修行のためにいい結果になります。
円高によって10の事業が海外に出て行きその結果50万人の職場が失われても、残った優良企業の円高対応力が上がって50万人分の失業者を養うほどの利益を得ているならば国家経済としては収支トントンです。
(円高になっても経常収支が黒字ということはこういうことでしょう)
円高でも儲かってる企業からの税の投入や彼らの消費によって、所得再分配方法として失業保険を払う代わりに介護職員や美術館やサービス業等の職員を50万人増やせば失業者はゼロになります。
円安政策は、円高に見合った多くの介護従事者その他を養うに足りるほど高額な稼ぎの出来る高度企業・分野が育っていないにも拘らず、能力以上に円高になったとき・・即ちその結果貿易赤字に転落するときにこそ必要です。
ここ数年の超円高では、対応能力する暇がないほど急激過ぎたとすれば、(誰が判定するかと言えば貿易赤字になるかどうかを基準にするしかないでしょうが・・)高度化対応に一息つくまでの時間稼ぎとしてはさし当たりの円安政策は意味があるでしょう。
近代産業で負け続けて貿易赤字になるのを待ってから・・自然に円安になるのを待っていると恒常的な貿易赤字になってからになりますので、その時点=円高適応に失敗して産業がメタメタに負けてしまってから漸く円安になっても最早、再起不能になってしまいかねません。
我が国は所得収支の黒字が大きいので、貿易赤字になってからでも何年間も経常収支赤字にならない(・・一見貯蓄があると良いようですが、資源国同様に却って問題が大きくなります)このために円高是正措置が遅れるリスクが大きくなります。

政府と国民の違い(中国人との付き合い方)3

2月9日「政府と国民の違い(中国人との付き合い方)2」の続きに戻ります。
個人個人にはホモサピエンスとして千年万年の経験・DNAがある点が中国人や韓国人、日本人も同じでも、2月8日に書いたように民族の置かれた状況によって個人としても経験の質が違ってきます。
異民族支配が続いた国や専制君主制の歴史のある国では、国民と政府とは一種の対立・緊張関係でずっと来たので、政府権力とは別行動基準の別格の人格が長年にわたって形成されて来たことに気を付けねばなりません。
日本では会社その他組織では一体感が強いので法人と構成員総体との区別が分り難いので、法人擬制説が理解し易いのですが、日本以外の国では西洋も東洋も国家と国民は全く別の存在(法人実在説)という理解がし易いのでしょう。
我が国では、天皇を日本国と国民統合の両方の象徴と言われてみんな何となく納得しているのはこのせいです。
憲法
  昭和21・11・3・公布
  昭和22・5・3・施行
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

比喩的に言えば、中国政府にとっては自国支配地域内の人民は外国人・日本人より御し難いでしょうし、中国人民にとっても外国人である日本人よりは自国政府の方が怖いし遠い存在です。
(古代から圧政を受けた経験のない我が国では、上から下まで「お上が悪いようにする訳がない」と言う信頼感・同胞意識・政府と国民一体意識で成り立っているので、気がつき難い点です)
そもそも国民という言葉自体我が国特有の概念かも知れません。
中国ではご承知のように「人民」(中華人民共和国・朝鮮人民共和国)ですし、西洋諸国では国民以前に「市民」か否かが重要です。
日本国内の例で言えば、京の町は、支配者が入れ替わりに次々にやって来たので町衆は権力者と適当な距離を保ちつつ、したたかに生きて来た歴史があります。
今こそ戦後中国が我が国にしきりに言って来ていた「戦争をした政府と国民の責任は別」という意見は、彼らの国では当然の認識だったのだと噛み締め直して、中韓両国民と大人の関係としてつき合って行くべきかも知れないということです。
ただし中国の言う政府と国民分断作戦は、飽くまで自国の都合に良いときだけの主張であって、自分・中国政府の都合によっては昨夏の尖閣諸島問題で見れば分るようにいろんな民間や文化交流を中国からビザ発給をしないなどで、断って来たことでも明らかです。
中国の人民も日本人と同様に人類始まって以来の長い経験がある・・政府のお粗末な能力とは別であると書いてきましたが、現実の中国人が日本人をどのように思って生きているかは別問題です。
今のところ中国政府は言論統制が激しいだけではなく、日本人が如何に悪いかの宣伝に努めています。
いろんな記念館で日本が悪辣・暴虐・レイプなど悪逆非道の限りを尽くし、アワやという所で共産党の八路軍が救済に駆けつけるような事実無根の映画を一杯作っては、日本軍は如何に残虐であったかの虚偽教育を連日しています。
こう言う映画ばかり見せられて、しかも学校教育でもこればかり教えられて育っていれば、今の中国人の脳みそは日本人に対して何か報復しなければ気が済まないような気持ちになっている人が大半どころか99%でしょう。
ですから、国際紛争の解決としてはこう言う政治教育ばかりしている中国や韓国相手の場合、悪意に凝り固まっている面では政府と国民を一体視して行かなければ、ことを誤ります。
中韓の国民は、利にさといので都合によっては手のひらを返したような(見え透いた)行動に出ますが、表面上ニコニコしていてもその心底には日本に対するドス黒い感情/欲望があることを忘れてはなりません。
中国国民が目先の利にさといのは、政権が歴史上くるくると変わって来たことに対する処世術として身に付いたことでしょう。
中韓政府による対日虚偽悪質宣伝教育をやめてから、50〜60年間くらいは中韓の人間は心の奥底に反日感情を根深く持っているので、その効果が持続する間は国民も含めて信用出来ません。

最低レベル競争の有用性(入会資格)3

各地の弁護士会のランクとしては、長者番付に乗るような高収入の人が多くいても他方で会費納付に苦労して会費免除受けているような人が多い会よりは、高収入の人が少なくとも、会費納付に苦労している人が少ない会の方が、信用不安が少ない・顧客満足度が高いのではないでしょうか?
国や社会構成・学校・スポーツチームその他のあり方と同じで、最低底辺層の底上げ・基準をどこに置くかは組織にとって重要・死活問題です。
企業でも官僚組織でも不良社員・役人一人2人の行為で甚大なダメージを被る場合があります。
サッカーや野球等でも一人二人のポカが命取りですし、山登りでも何でも能力の低いところに合わすのが普通です。
我々が修習生の頃にはアパートを借りるのに保証人など要求されることはなかったし、地方の名士の仲間入りとしてどこでも歓迎されました。
それがこの10数年ほど前から修習生がアパートを借りるのに保証人を要求されるようになったり、収入不安定で住宅ローンなど組めなくなったと聞くようになりました。
我々のころは銀行でもどこでも弁護士になる人ならいくら(額の制限なく)でも借りて下さいという時代で(逆にこちらは借りる必要もない時代でしたが・・)生きて来たことから見れば信用力に雲泥の差が生じています。
(私が今の新事務所に移転したのは神戸の震災後でまだ10年あまり前ですが、そのころでも保証人も保証金も当然のように要求されていません)
若手弁護士の経済力の変化を、社会がシビアーに見ていることになります。
可哀想だからと言って、点数の低い人をドンドン入学させたり入社させているとその学校や企業の評価は下がって行きます。
組織維持には入会資格(最低基準)が重要・必須です。
客商売のレストランやホテルでも客単価を落とせばそれなりの人が入って来るし、上げればそれなりの客しか入りません。
国・社会の場合、生まれつきの人である限り一定レベル以下だからと言って国外追放・国籍を与えない訳に行きませんので、殆どの国で知能レベルで言えば精薄から重度知恵遅れまで一定数の分布がある・・知能レベル運動能力・会話能力等計測可能なレベルで言えばどこの国でも最低ランクのレベルは同じになります。
ただし新規加入資格としての帰化には、国籍法第5条4項に生活能力要件があります。

  国籍法(昭和二十五年五月四日法律第百四十七号)

第五条  法務大臣は、次の条件を備える外国人でなければ、その帰化を許可することができない。
一  引き続き五年以上日本に住所を有すること。
二  二十歳以上で本国法によつて行為能力を有すること。
三  素行が善良であること。
四  自己又は生計を一にする配偶者その他の親族の資産又は技能によつて生計を営むことができること。
以下省略

アメリカで一定額以上の預金があれば、永住権を与えるのも同じ原理です。
上記のとおり、生まれつき以外の後からの入会資格には一定の資格(弁護士や宅建業者で言えば試験合格)の外に殆どの組織では経済要件を課していることが分ります。
法曹3者で見れば、裁判所も検察庁も司法試験合格・修習修了者と言うだけで無制限に採用するのではなく、試験合格の上に更に厳格な採用基準を設けていて合格者500人時代と比べて採用者がその割に増えていません。
弁護士会も加入要件と試験合格とは別にすべきでしょうが、職域を守るための独善・競争排除との区別がつき難いのが難点です。
入会資格のハードルを引き上げるのは問題ですが、政治に迎合して引き下げる必要までないのではないでしょうか?
(例えば年収◯◯円以上という基準が仮にあるとすればその額を引き下げても)一般の資格引き下げはただそれだけですが、会費減免は会に必要な経費を他の会員の負担で賄おうことですから、一種の所得移転を計ることになりますから、なおさらです。
弁護士会費が元々高過ぎるのではないかと言う批判もありそうですが、弁護士会の場合、他の団体とは異なり膨大な無償社会活動を行っていて(本来公費で賄うべきところを)それが会費で賄われているからです。
巨額会費をつぎ込んだ無償・低廉活動(原発相談その他)会から担当者に相談料や日当が支給されます)の多くが若手会員によって担われていますが、若手会員の仕事の場・・顧客獲得にもなってるのですから(ひまわり基金その他無償あるいは低廉活動の多くは若手の新規職場提供にもなっています)会費支出の恩恵を一番受けているのも若手会員になります。
即独する人がまだ事務所を決めていないので、(卒業試験合格前に借りてしまうのはリスクがあります)新規登録申請にあたって届け出事務所を自宅にしておくしかないという話題から、どうせ直ぐに仕事がある訳でもないし事務所を借りるまで「登録を数ヶ月送らせたら会費も負担しなくていいのに?」という疑問に対して、早く登録しないと法律相談その他の仕事が回って来ないから・・と言う回答でした。

次世代と年金赤字3

イタリアでは地震学者が有罪判決を受けたことが大ニュースになっていましたが、単なる笑い話として受け取るのではなく、我が国に置き換えるとよく分ります。
原発施設の場合は地震予知のように学問的に不明な事柄ではなく、備えをどこまでしておくべきだったか否かと言う初歩的ミス・・問題点が分っていたのに費用を惜しんで敢えて準備しなかった疑いが濃厚ですから、まさに刑事面から厳格な捜査をするべき分野です。
刑事面に限らず政治責任を含めて責任問題をどうするかを論じる気配すら全くないまま、再稼働準備・新基準のテーマに絞ってしまうのでは、消化不良のママ先送りになった印象になります。
原発事故当時の緊急対応に局限した事故調査ではなく、むしろ事故前の基準作りに責任がなかったのかミスがなかったのかこそ、長期的視点で検証することが重要でしょう。
事故当時の対応のミスばかりあげつらって肝腎の事前にあるべき安全基準策定ミスの有無を問題にしないはおかしな議論です。
原発事故後の対応を見ていると、交通事故や火災や爆発事故が起きたときに駆けつけた消防車や救急車の対応ばかり議論していて、交通事故や火災の原因究明・調査・責任者処罰等を放置しているやり方です。
原発事故のまじめな総括から入って再稼働の是非を決めて行く(きちっと検証して不備な点を明らかにした上で、今度はどうするという議論が必要というだけで必ず責任者を出せという意味ではありません)のが筋ですが、これをしないまま貿易赤字が大変だからという理由で、うやむやに決着すると将来に禍根を残すでしょう。
年金資金不足(喪失)に戻りますと、信託銀行に預けておけば5年で1、5倍、10年で2倍になる時代に預けていたのに何故40年もたって2倍にしかならないのか、その資金・元金自体どこへ消えてしまったのか等々について政府がきちっと説明する必要があります。
財投に使ったり、高齢者不要に使ったり、住宅ローン用に低金利で貸したために運用益が悪かったとかいろいろあると思いますが、正々堂々と主張して国民の理解を得るのが筋でしょう。

自信がないためか、資金の使い道の説明を全くせずにれに、世代間扶養・・「掛け金の合計と支払額は関係ない制度だった」と言い張り始めたのですが、・・これを裏返せばこれから掛ける人(次世代)に対しても「あなたの掛けた以上払うとは限りませんよ」と宣伝しているのと同じです。
それどころか4日に紹介したように、「これから掛ける若い人は払った以下しか受けられない」と学者を動員してしょっ中大宣伝しています。
自分の掛け金総額以上に払ってくれる可能性が低いのでは誰でも納付するのはいやでしょう・・払ってくれるかどうか当てにならないのでは、無理して掛ける気持ちにならない・・年金不信が起きて来るのは当然です。
その結果、公的年金不信になって(公的年金を積むのをやめて)民間年金契約をする人が増えているのは理の当然です。
民間では、次世代の加入者数に関係なく約束した年金を払うのが当然で、まさか後続の加入者次第ですと言えません。
現在の世代間扶養説の流布・マスコミを通じた洗脳は、後の加入者次第でいくら払えるか分りませんという結論ですから、行き着くところ国民に公的年金を掛ける気持ちをなくさせる・・納付意欲減退作戦・目的と同視出来ます。
政府はこのような宣伝を通じて何を達成しようとしているのか疑問ですが、公的年金を縮小廃止して民間移行を奨励しようと考えている・・ひいては年金制度の維持をまじめに考えていないとしか考えられません。
年金問題を解決するためなら「安心確実」がセールストークなのに、逆に「次世代次第で払うかどうか分らない制度だった」→「これからもそうだ」と主張し始めたのでは話になりません。
この論法では「これから公的年金掛けたら損する」と政府が宣伝しているのと同じですが、同時に民間年金契約の普及が始まりましたので、生命保険の加入者減に見舞われている生保業界からの働きかけ・・救済を始めたのでしょうか?

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