平成31年元旦(行事の重要性!)

明けましておめでとうございます。
皆々様 輝かしい新年を迎えのことと存じます。
今年もまた元気で1年を送りたいと思っております。
なんやかやと言っても長年の習慣か?元旦になるとなんとなくおめでたく感じる不思議な日です。
ここで何故元旦がおめでたいかの疑問を考えてみました。
元旦といえば、どこの国でも家庭でもそれなりの行事があります。
何故行事があるのか?行事の効能について、気がついたことを書いていきます。
時間とは何か?と言えばよくわからない言葉ですが、時間に区切りをつけるために行事というものがあるのでしょう。
時間には区切りが何故必要か?
時間は連綿と流れて行くものですが、時間に区切りをつけないと、一定期限のある時間軸での達成目標(今では約束日時の設定)や過去一定期間経過の成果を振り返るなどの、短長期スパーンでの考察が難しくなるでしょう。
山登りなどで途中景色の良い小高い場所に来ると、今まで苦労して登ってきた道を振りかえって「あゝこれだけ登ってききたのだ」という達成感を味わいながら、この先の「胸突き八丁をさらに頑張るぞ!」という元気付ける場になります。
カレンダーの元祖は、月の満ち欠けの周期であったのではないか?という妄想を15年前の大晦日に12/31/03「大晦日2(日本書紀・・かがなべて・・・・)」のコラムで書いたことがあります。
金色夜叉で有名な貫一の名セリフ「今月今夜のこの月を、僕の涙で曇らせて見せる」
約束事をするようになっても「次の満月の夜・今度の三日月の夜」とかで間に合う時代が続いたように思えます。
ただし、このように目に見える形を基準にする程度だと最長1ヶ月しか期間がないので、(縄文時代にすでにどんぐりなどの植林が始まっていたことが分かってきましたが、栽培が発達してくると)もっと長い時間軸を考える必要が出てきます。
「3回目の満月の夜、4回目の三日月の夜」」とかのちょっと長い期間が必要になるので、数を数える必要性や能力が身について行ったのでしょう。
古代には、今の半年が1年だったように読んだ記憶がありますが、(臥薪嘗胆の故事を読めば、いくら誇大表現の好きな漢人とは言え、長すぎるのでこれを半分に翻訳すればまあまあです。)
越王勾践は最初に呉王闔閭を下した武将(諸侯)ですからその時すでに壮年のはずですが、負けた闔閭の子供の夫差が復讐のために臥薪してついに父の仇勾践を会稽山で破る→負けた方になった勾践は嘗胆すること20年にして会稽の恥を雪ぐのですが、ちょっと長すぎないかの疑問です。
その100年ほど前ですが 、晋の文公が覇者になる前の故事・重耳と言われていた時に、やはり19年間もの放浪の末に国に帰って晋公になるのですが、若い頃に読んだ記憶では(若者からみれば19年間も!・・・ものすごい長さですから、長過ぎるな!と思ったものですが・・。
ウイキペデイアの引用です

文公(ぶんこう、紀元前696年 – 紀元前628年、在位紀元前636年 – 紀元前628年)は、中国春秋時代の晋の君主。姓は姫、諱は重耳(ちょうじ)、諡は文。晋の公子であったが、国内の内紛をさけて19年間諸国を放浪したのち、帰国して君主となって天下の覇権を握り、斉の桓公と並んで斉桓晋文と称され、春秋五覇の代表格とされる。

時間観念の発達→季節の移ろいに戻します。
果実等の収穫を基準にする時代には実りの秋がくれば、1サイクルが終わったからこれを次の期間単位にする・・月の次に必要な長期単位としたとすればうなづけます。
漢字の稔(みのる)という字は、「ねん」とも「とし」とも訓読みし、作物の稔る期間を表すとも言います。
稔る期間を年(とし)といったのかもしれません。
秋から次の春までは実りがありませんが、この期間を裏年と理解していたのでしょう。
半導体の0と1の繰り替えしがセットになっているような理解です。
今でも庭先の柿などは1年おきに良くなる(翌年は身があまりつかない)ので、今年は「裏年なので・・・」という言い方が残っています。
秋から春までの1年は、裏の年ということになります。
表年と裏年が何故あるかというと、柿やミカンの実がなるには相応の栄養蓄積が必要なので、表年にいっぱい実がなって、前年からの蓄積を吸収してしまうからと言われています。
人間だって毎年赤ちゃんを産むのは母体に負担がかかるので、(私の世代では4歳違いの兄弟が普通でした)早くて2年ごとに産むのが普通です。
農地で言えば冬の間に地力を養う期間だったのでしょう。
ついでに1日の方も2003年の大晦日に「カカなべて」で書いたように夜(夜間は体力回復時間)と昼で別に数えていたことが上記引用した「大晦日2(日本書紀・・かがなべて・・・・)古代の歌でわかります。
「かがなべて、夜には九夜、日には十日を」
月の変化の回数を基準にしていると12回前後で似たような気候がくり返されることが知られてきます。
今でも世界中で12進法が結構残っていることからして、人類が最初に知った基幹数字は12だったと思われます。
お月様が12回周期で気候が概ね一巡する変化を知るとその繰り返しに合わせて、(周知のように月を基準にすると、うるう年がないと徐々にズレてくることが古代から知られていますが、数を数えるようになり始めの頃には、その程度の誤差は問題がなかったでしょう?)草木の成長があり、小鳥その他動物の産卵・出産時期も連動していることがわかる・・農作物のタネまき田植え時期〜収穫時期がくることもわかってきます。
農業社会の歴史の長い人類では、世界共通的に暦の重要性が知られて行ったでしょう。
24節季は太陽暦になってから古代中国中原の気候に合わせて生まれたものでしょうが、これでは日本の気候に合わないので二十四節季のほかに、「土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れたようです。
この機会に余談ですが24節季と雑節の関係表があってわかり良いので、正月早々ですが、お勉強好きの方のために引用・紹介しておきます。
http://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/nijyushisekki/からの引用です。

http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/faq/24sekki.htmlによると雑節は以下の通りです。
二十四節気を補う季節の移り変わりの目安として、雑節(ざっせつ)がある。

二十四節気を補う季節の移り変わりの目安として、雑節(ざっせつ)がある。土用、彼岸は入りの日付けを示す。

名称 太陽黄経 説明
土用 (どよう) 27°, 117°, 207°, 297° 太陰太陽暦では立春、立夏、立秋、立冬の前18日間を指した。最近では夏の土用だけを指すことが多い。
節分 (せつぶん) 季節の分かれめのことで、もとは四季にあった。立春の前日。
彼岸 (ひがん) 春分と秋分の前後の3日ずつの計7日のこと。初日を彼岸の入り、当日を中日(ちゅうにち)、終日を明けと呼ぶ。
八十八夜 (はちじゅうはちや) 立春から数えて88日目をいう。霜が降りることが少なくなる頃。
入梅 (にゅうばい) 80° 太陰太陽暦では芒種の後の壬(みずのえ)の日。つゆの雨が降り始める頃。
半夏生 (はんげしょう) 100° 太陰太陽暦では夏至より10日後とされていた。
二百十日 (にひゃくとおか) 立春から数えて、210日目の日。

各種行事は時間の流れにメリハリをつけて、新しいステージが始まる合図号砲みたいな役割・・ためにあるのでしょう。
我が家でも妻のアイデアで四季折々のいろんな行事を楽しんでいますが、様式美にこだわるのも良いものです。
元日はその年の始まりの日であり・旦とは水平線や地平線に日が昇ること・時間の始まりですから、「元旦はその年の時間の起点」生命が新たに芽吹く起点・・「神聖な時間の始まり」です。
元旦は年間行事の起点・・最も重要な行事として、人類共通行事になっているのでしょう。

大いに祝うべし!

韓国民の行動様式31(自治能力1)

アラブの春に関して自己統治能力がないのに・・と言うテーマで書き始めていましたが、朝鮮族はまさに自己統治能力もないのに棚ぼた式に独立出来たことが強迫神経症的心理に陥っている原因かも知れません。
未開社会とバカにされていた同じ日本統治下にあった台湾や南洋諸島よりも、バカにしていた朝鮮族の方が実は社会運営能力が劣っていたことになります。
東南アジアや太平洋諸島の島々は、欧米の植民地支配下に入るまでは元々強烈な異民族支配を直接受けたことがないので、遅れた社会なりに自分たちで小さな部族ごとの統治の経験がありました。
朝鮮半島では紀元前から漢帝国の支配下にあって、マトモに現地人の自主政権を作ったり運営した経験がないのが不幸です。
ヤシの葉で葺いた小屋でも順次大きな家を建てて来た南洋の未開民族と、始めっから高層ビルを外国企業が建ててくれて、そこに住んだことしかない・・自分たちで一度も小さな家すら建てたことがない場合、イキナリ全部自分で作るとなれば、簡単な1戸建てでさえどうやって建てて良いか困ります。
少人数でも部族単位の自治から始まっている社会と、紀元前からそう言う経験のないまま超大国に飲み込まれて来た社会とでは自治経験が違って当然です。
朝鮮半島が日本支配から脱したときのレベルから言えば、アラブやアフリカで独立後の部族対立→内戦大発生状態になったのと同じ民族レベルだったのです。
それが朝鮮戦争勃発の原因になったのですが、それぞれ背後に米ソや中国・義勇軍が直接介入したことによって、際限ない内乱に陥るのを免れて38度線で支配地域が固定し分断したことによって、却って外国軍の駐留が重しになって内部対立・際限のない内戦を回避出来たに過ぎません。
本来ならばそもそも自己統治能力が低いので、固定した南北領域内でまた内部混乱が起きるのですが,双方のバックに強大な大国がついたので現地権力はバックの意向に従っている限り安泰でした。
アフリカ・アラブ諸国のように内部権力紛争・・内乱は、朝鮮半島ではソ連やアメリカの直接的支配下に入った御陰で起きなくなりました。
これは自己の政治能力による安定ではなく、他人(米ソ中)の力による統治ですから、言わば被植民地支配下で部族間戦争が起きなかったのと同じです。
それでも次第に外国駐留軍の比重が下がり現地人の裁量範囲が広がると軍事政権でも、さすがに統治能力不足が露呈してきます。
さらに民選化すると直ぐに反日キャンペインが始まり国是のようになったのは統治能力不足の補償作用と見ることが出来ます。
2013-10-25「米ソの戦争犯罪3(神道敵視政策3)」に東南アジア諸国が日本軍撤退後また旧植民地支配を受けていたので、日本軍撤退後欧米からの独立戦争が始まったこともあって、米軍によるでっち上げの日本批判を受入れる余地がなかったと書きました。
韓国は自前の独立戦争を経験しておらず、棚ぼた式に米軍の庇護の元に政権が転がり込んで来たものです。
この結果、人民の信任がそもそも存在しないし、米軍の傀儡政権〜軍事政権時代が終わって、形だけ民主主義・民族自決を受入れても統治経験がまるでないので、うまく行きませんし、人民も信頼していません。
能力・信任の欠如を埋めるには、手っとり早いアメリカの日本批判宣伝に協力するのが良い・・アメリカの受けがいいばかりか、その都度日本から謝罪と称して援助を引き出す打ち出の小槌みたいなものですから、これに麻薬のように浸かって来たと見ることが出来ます。
中南米やアフリカあるいはアラブ諸国では、朝鮮民族のように旧植民地支配国にゆすりたかり出来る日本のような便利な国がないので、独立〜民主化した国はどこでもうまく行っていません。
韓国がアメリカという後ろ盾があって日本をいくらでも揺すっていれば良いので気楽ですし、政権が安定させられて運が良かったのです。
軍事政権・強権政治ができなくなれば、国内利害調整が必須になりますが、朝鮮族は上記のように古代から漢族支配・・その後は高句麗(満州族というのは古代にはありませんが、満州族系)に服従して来ただけで、専制君主に絶対服従して来た社会経験しかない民族ですから、自分の意見を主張して良いとなればどこで妥協するかの限度を知りません。

格差是正31(給与補助金1)

職場が減れば需給の結果労働者の立場が弱くなるのは、新自由主義(ネオリベラリズム)かどうかではなく、昔からの経済の原理そのものです。
フリードマンの新自由主義、ケインズ主義、古典派経済学、◯◯経済学かの論理の違いによるものではないでしょう。
どの経済理論でも、すべての分野で需給が緩めば価格が下がる・・立場が弱くなるし、鉱物資源でも人材でも稀少化すれば価格が上がり地位・待遇が上がる原理は変わりません。
と言うよりか経済学者はこうした原理を公理のような前提として自分の理論の正しさを論じているのです。
西洋で女性の地位が向上し人権意識が高まったのもペストの大流行によって人口が激減したことに端を発しています。
アメリカでは建国当初から女性不足と人間不足社会でしたから移民受入れに積極的でしたし、裏返せば人手不足で機械化に熱心で人権意識や女性の社会進出に熱心だった基礎でもあったのです。
中国の人権問題をアメリカが問題にしていますが、いくらでも湧いて来るかのような多すぎる人口問題を抱える中国では人が貴重ではないので、人権を説いても意味がなかったことが数百年後に分ることでしょう。
賃金の国際格差問題に戻ります。
解放直後の中国では最初は近代的な工場で働く習慣がないなど労働の質や技術差が大きかったので当時で言えば20倍前後の賃金格差は妥当だったでしょうが、・・・日本人が現地指導した結果、野菜その他良いものを作らねばないという意識も育つし、一定期間経過でどこの国でも生産用機械さえ同じならば日本国内並みの生産性に上がって行きます。
中国の改革開放後既に約30年も経過していて似た機械で生産すれば生産性が殆ど変わらなくなっている以上は、日本人の賃金も裸の自由(市場)競争に曝されれば、中国等の人件費とほぼ同じ賃金水準になって行くべきでしょう。
(これが人類平等の基本原理の発露です)
ところが中国の解放後約30年経過してなお日本人労働者と約10倍の賃金差を維持しているのですが、今では日本人と中国人との能力差が10倍もない(同じ工業製品でも少しは日本よりは精度が悪いかも知れませんが、10倍も製品に値段差を付ける品質差がない筈です。)のにこの格差が残っているのは市場経済・人類平等の原理から見れば異常です。
未だにこんな大きな賃金差がまかり通っているのは、日本国内での所得再分配政策・補助金の結果によることになります。
国際相場よりも無茶高い米や麦が補助金・高関税の結果まだ生産出来ているのと同じ原理です。
補助金の出所ですが、海外進出企業の国内工場で働く人は、その企業の海外収益回収による再分配で成り立って(内部的に完結)いますが、海外進出していない企業の高賃金は税による再分配によらない限り成り立ちません。

構造変化と緩和策1(ストレスとその対処)

バブル崩壊以降の我が国の苦境は、汎用品製造に関しては、低賃金国とのコスト競争に無理があることによるのですから、汎用品製造向け人材は徐々に低賃金国の水準に生活水準を合わせて行くしかないことにあります。
最近、今後4〜5年もすれば中国の人件費の上昇によって、日本国内生産の方がカントリーリスクを加味すると安くなると言う願望的意見が出始めています。
こうした願望が繰り返されること自体、人件費格差が我が国経済低迷の最大の原因であること・・結局は先進国の賃金が下落し新興国の水準が上昇して結果として生活水準の平準化の完成しかないことを物語っています。
そうとすれば、新興国の賃金上昇と日本国内の賃金水準のジリ貧・長期的下降が続くのは不可避です。
この現象はこれまで豊かな生活をして来た先進国国民にとっては大きなストレスであることは疑いのない事実ですが、このストレスの吐け口として特定政治家・政党の責任にしたり、今の若者がだらしないと言って世代問題や教育の所為にしても解決しませんし、特定のスケープゴート探しで解決出来るものではありません。
現下の閉塞感の根本は、グローバル化の進行・・構造問題・・結局は生活水準低下の見込みを国民が体感していることにあり、誰に文句言っても仕方がない・行き場のない不満・・これをストレスというのでしょうが、政治家や誰かの責任にしても意味がありません。
この苦境を乗り切るには国民みんな一人一人の智恵の結集しかないのですから、国難に「明るく」対処して行くしかないでしょう。
ただし、急激な国際平準化進行による痛み・・職場縮小の速度を落とし、失業の増加、生活保護の増加を緩和する必要があるのは確かですから、これをどのように実現するかが重要ですから政治家の役割がなくなったのではありません。
ただ・・・・誰がやっても後ろ向きの政策が中心ですので、国民にストレスが溜まるのは仕方がないでしょう。
破竹の勢いで進むときの大将は楽ですが、損害を少なくしながらの撤退作戦は難しいのです。
急激な失業や賃金下落に対する緩和策としては海外展開によって儲けを多くして国内に送金する穴埋めも1方法でしょうが、海外収益の送金に頼るのは日本の過疎地で言えば出稼ぎによる送金・仕送り頼みと同じですから先の展望がありません。
前向きの施策としては、正月以来東レなど高度化の成功例を紹介してきましたが、こうした成功事例を少しでも大きくして行く努力が政治であり経済人のつとめです。
こうした成功事例が少しくらいあっても、高度化対応出来る人材は限られていて大量生産職場縮小の穴埋め・・この種人材は大量にいます・・には追いつかない・・精々賃下げ圧力を少し押しとどめる程度に過ぎないのが実情です。
すなわち、努力がうまく行っても急激な落ち込みを緩和するくらいが関の山ですから、徐々に平均的人材の職場が減って行くのは防ぎようがない・・・国民は痛みを我慢するしかなくストレスを感じるのは仕方がないことです。
これが不満だからと言って政治家のクビのすげ替え・内部分裂・・何でも反対ばかりしていては、却って落ち着いて対処出来ず国力が低下するばかりです。
ここ数年千葉県弁護士会の総会では執行部提案が次々と否決される時代が続いています。
会の基本方針が何も決まらない状態・・ともかく反対が多いのですが、私はこれをストレス発散時代が来たのではないかと理解しています。

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