朝鮮民族の意識改革(宇垣総督の功績1)

昨日引用の続きです。
「当時の朝鮮農家の最大の問題は労働時間の少ないことであった。田の除草、施肥、更に堆肥作り等に、内地の農民並に働くことを求めたのである。更に冬作として麦、レンゲ草、菜の花等を奨励し、畜産、民芸品製作を奨励した。この方針の民間への徹底を図るため、青年団、婦人会を積極的に組織化したのである。ここで注目すべき事は、これらの団体は反日運動の温床になるとして、それまでは極めて抑制的な対応をしていたものを、積極的に活用を図ろうとしたことである。これらの会合は正規の会議も重要であるが、会議の前後に交わされるインフォーマルな会話、交際が極めて重要であり、反日運動に対する自信がなければ実施できない政策である。」
・・・・この宇垣時代に始まった農業の生産性の向上、工業の急激な発展は、第3表に示すような急激な社会変革を起こしたのである。強盗件数の減少、就学率の向上は生活レベルの向上を窺わせ、、電力消費量の急激な上昇は、今日の韓国発展の原動力と言えよう。」
「この農村振興運動が始まる数年前から自力更正が叫ばれ、京畿道を中心に普通学校(小学校)の卒業者に対し課外指導が行われていた。親から田の一部を借りさせ、先生と共に耕作法の研究が行われていたのである。彼らの熱心な農業への取り組みは周辺農家の2倍以上の収量を得たのである。最初馬鹿にしていた親もその成果に次第に脱帽し、彼らは若き農村指導者に育ちつつあったのである。この卒業生指導は1927年京畿道に始まり、1935年には普通学校の6割で13千人の卒業生を対象として、一人3年から5年間に亘り実施されていた。
 この卒業生指導をより組織的に実施するため、1933年京畿道に農事訓練所を設置したのを皮切りに、1935年以降全道に農村青年訓練所・女子訓練所が設置された。この運用は各道に任せられたため、名称・実施要項等、多少道により異なる。多くは1ヶ月の短期コースと1年間の長期コースに分かれ、長期コースでは寄宿舎に入れ、合宿訓練した。
道によっては卒業生指導を受けた者を入所資格としている所もあり、これにより卒業生指導が止められたわけではない。ここで重視されたのは農業実習と共に精神指導であった。この精神指導について日本への隷属意識を植え付けるものであったと非難されている。しかし私はここで植え付けられた「為せば成る」「協同の精神」と言ったものがセマウル運動の成功に繋がったのではなかろうかと考えている。日本の戦後成長もこの精神なしには考えられない。
 1938年になると内地との交流が始まった。岩手県の青年道場に50人派遣したのを皮切りに、1944年6月までに女子約3百人を含む約3千人が、約1ヶ月内地の訓練所や農家に派遣され、内地の農業技術を実習した。この中には内地の人手不足をカバーする目的のものもあったが、農具の違い等を身を以て体験した事は、速効性はなかったとしても、必ず得るものがあったと確信する。」
第3表 朝鮮産業革命の成果

昭和2年 昭和7年 昭和12年 昭和17年
農業生産高 千万円 86 86 122  
工業生産高 千万円 31 35 87
1人当り国民所得 89.9 78.1 110.7
発電量 百万KWH 2,698 (4,860)
就学率  %  17.4 18.2 30.7 49.6
強盗件数 1771 1261 727 394

農業・工業生産高:1934-1936年平均価格表示
1人当たり国内支出 単位 円 以上溝口他『旧植民地経済統計』
発電量:昭和17年記載数値は昭和16年分  朝鮮総督府殖産局『電気事業要覧』
就学率:正規学校就学率  古川宣子論文より作成
強盗件数: 朝鮮総督府『統計年報』
以上は本体のホームページが無くなっていて、トップに行けないので誰の論文かわかりませんが、きちんとした引用論文の明示もあって確かな数字に基づくようです。
欧米の植民地支配を受けた多くの民族は、朝鮮人に限らず現状を受け入れるだけで古代から生きてきた大まかな傾向があります。
しかも植民地支配に都合がいいので欧米による劣等民族意識の刷り込みによって、さらに前向きの気力を喪失させられていたように見えますが、李氏朝鮮では、同一民族でありながら、ヤンパン支配貫徹のためにヤンパン以外は「人」扱いされない状態で約600年も支配して来たので心底劣等意識に追い込まれ・・やる気を無くしてきたように見えます。
シンガポールのリークアンユー氏が日経の「私の履歴書」に書いていましたが、「自分たち現地人は欧米人にはとても叶わない別のもの」・・犬が人間を見るような見方?・・であったが、日本軍の来てあっという間に英軍を蹴散らしたのを見て受けた衝撃が書かれています。
その意識変革を図り成功体験を持たせ、これがようやく身についてきた結果めざましく農村の収穫が上がり、工業生産にも適応できるような人材が育ち始めた時に敗戦になったことがわかります。
このように、日本統治によって初めて庶民が前向き・・集団で考える経験を与えられた・・李氏朝鮮も欧米植民地支配政策では反抗のタネになるとして厳しく規制していたのですが、日本はこの習慣の大事さを積極的に教えたのです・・。
日本では昔から、小集落ごとの「寄り合い」で何ごとも決めていくのが普通ですから・・歴史以来朝鮮人が初めてこれらの経験をしたので、韓国独立後自立に向けた国づくりにこの経験が大きな効果をもたらしたようです。 
父親のパク大統領は戦前の日本のやり方が良かったことを知っていたので、日韓交渉がなると、農村近代化のためのセマウール運動を展開するに際して宇垣総督の片腕として実務をしていた人を韓国に招いて指導してもらっているようです。
こうした自信を持たせる・・努力すればなんとかなるという教育経験のない点が、アメリカ支配下にあったフィリッピンとの違いのようです。
文字教育に戻しますと、日本統治期間が短かったのでこのような影響を受けた人材の層が少なかったことと、特に文字その他の文化を身につけたとしても多くの庶民にとってはまだメッキ程度だったので漢字教育廃止がきまると、多くがハゲ落ちてしまった印象です。
日本でも・・明治3〜40年代生まれでは、尋常高等小学校卒程度が普通でしたが、それでも日常生活でいろんな漢字が出回っている結果、自然にいろんな漢字を理解して朝日や日経等の日々の新聞を読み、帳簿をつけて社長や課長その他の法律用語・日本で明治以降に作った漢字も理解し、英語もある程度カタカナ表記である限りラジオやテレビが何であるかを理解して生きてきました。
この辺は私の親世代ですので伯父など身辺で実例を見て育ちました。
我々も社会に出てから見聞きして習得したものが圧倒的多数ですから、社会生活上受ける影響力の大きさが分かります。
7月29日経朝刊の文化欄「傍にいた人」の連載シリーズには、小説家の大正生まれの叔父が学校に行けなかったが自学自習で資本論まで読破していた話が出てきます。
日本では学校で教えるか外国の強制があるかどうかではなく、・・宇垣総督が教え込んだ自発的動機がどこまで韓国に根付いているかです。
学校で教えなくとも目の前で漢字が氾濫しているかどうかは重要です。

自民族言語表現・文化の重要性4(近現代用語を日本に頼る中韓1)

ソ連では政府自身が何千万と餓死させながら穀物輸出して共産主義政権が大成功していると虚偽発表していましたし、中国も戦後「大躍進」と称して、実際には数千万〜5000万人の餓死者を出していたことが今になると常識になっています。
個人でも共通ですが、不都合・遅れている状況を隠すときに政府による虚偽発表→鉄のカーテンが起きる現象です。
上の道義が低いと下々もこれに倣います。
日本は古代から外来技術が入ってくるとマルゴト導入ではなく日本の在来概念を組み合わせて、それに適した言語を創設してきました。
蒸気船〜蒸気機関車、自動車、自転車、飛行機や航空母艦などがその1例です。
機械類に限らず新しい考え方・思想的熟語・社会の仕組みに関する用語、法律用語も同じです。
清朝の方が日本より数十年早く西欧に接していたのに、西洋の文物技術(新概念)をまともな漢字熟語に翻訳できていなかった事実から見ると、中国では・・漢字発祥の民族とは言え、多分先進社会用語を自民族で翻訳用語を創作する能力が、日本より低かったのでしょう。
文化格差が有り過ぎる場合、自民族用語に翻訳したくとも自国に高度な対応語がないので無理があります。
この点、日本では江戸時代から堂島には米相場があったし、手形取引も発達していたなどのほか藩札があるので紙幣の流通→両替(大阪は銀で江戸は金兌換ですから必然的に為替取引が発展しますし、遠隔地決済のために為替手形もできていました)もあるなどいろんな社会組織や制度が発達していた・学問的にもエレキテルの研究や数学や蘭学を通じて医学も発達していたなど有利な点があったでしょう。
文化格差があると自国言語に対応言語がない翻訳しきれない結果英外来語をマルごと導入しかなくなる・・西洋諸国でラテン語が約千年間も公用語であり続けた原因がここに有ります。
日本が幕末から明治にかけて欧米の近代用語をすべて自国の漢字熟語に変換して置けたのは、変換能力が高かった他にほぼ同水準の概念が国内にあったことにもよります。
他民族言語を自民族語に変換した歴史経験がない中国や韓国は日本の変換しておいた漢字熟語をそのままの流用で間に合う・自分で努力・創作する必要がなかったので効率が良かったし、英語圏に入らなくともなんとか現在社会がなり立っている状態です。
ただし韓国に限っては戦後すぐに7月20日に紹介したように、日本語のヒラカナに相当するハングル一本化してしまって、漢字教育廃止しているので、漢字をそのまま使えない不都合があると言われています。
専門家だけ漢字を使えば良いというのでは、それ以外の民度はどうなる?という疑問です。
公教育をやめても自発的に学ぶ意欲のある社会であれば別ですが、そうでないとその後漢字文化はジリ貧になって行きます。
7月20日に紹介したように、教育をやめてから一定期間経過すると漢字需要がなくなった結果・・新聞等のメデイアも漢字表記をやめてしまったと言うのですから驚きです。
漢字を読めない層が増えて商売ならない時代がすぐにくるのですから、?せっかく日本が統治期間に民度引き上げのために学校制度を普及させて教育して来のですが、朝鮮人の多くには、荷が勝ち過ぎていたのでしょう。
もちろん前大統領の父親のパク大統領のように、日本の教育制度に乗っかって(日本の士官学校出で日本陸軍での将校でした)頭角を現した人も一定率いますので、何回も書いているようにこのコラムではいつも比率の大きさを書いている・例外がないという意見ではありません。
韓国では漢字を日本文化と誤解して?日本敗戦後の優先課題としてすぐに漢字の公教育を廃止したのですが、その結果、すぐに漢字を読む層が商売にならないほど?消えてしまい、漢字を利用した新聞が成り立たなくなってしまった・・多くの国民が漢字教育に関心を持たなかった事実が重要です。
李氏朝の国家樹立後明や清の冊封体制下にあったとはいえ、独立性が高まった結果すぐに先祖帰りして行った流れが起きていたことと、日本敗戦後日本と交流を断固拒否していた間に7月28〜29日に紹介したように産業部門がどんどん落ち込んで行ったことを合わせて見ると外界からの半強制的学問や技術導入の流れがなくなるとすぐに元々の「地・民度」に戻っていく様子がわかります。
長いヤンパン支配下で、ヤンパンはエリート層として文字教育を受けていたでしょうが、それ以外の庶民が自発的に文字を習い考える気風が育たなかった土壌を見る思いです。
中国律令的価値観では、日本の武士ですら平安時代に描くところの裸足で歩き回る地下(じげ)人であって、このために江戸時代の朝鮮通信使は貴族層ではない武士を相手にするしかないと言って、(実態より形式重視)嫌がっていました。
以上は・・出典を記憶していませんが、小説か随筆か何かで読んだ記憶です。
日本の武士は鎌倉以来支配層として成長し、漢詩文の素養を積んでいましたし(太田道灌が恥ずかしく感じた故事)、江戸時代になると庶民まで子供を寺子屋に通わせたり芸事を習うなど自発的な文化吸収欲求の高い・・最下層で農作業現場系に関与する実務社会でも絶えざる自発的改良工夫の進む社会でした。
他方、朝鮮では、庶民には自発的な文字その他の文化を学びたい欲求が起きなかったのでしょうか?
庶民は文字による文化などを知りたいとは思わないし、社会生活上必要な工夫もしないで古代意識のまま生きて来たから民間から文化や技術が発達しなかったのでしょう。
日本統治になってからの朝鮮では、日本政府が庶民にまで学校に強制的に通わせたり、世界恐慌時に宇垣総督着任後には農村の窮乏を防ぐために学校にいけない子供には教育課程を緩くして学校に時間が空いて放課後に学校にくれば教える仕組みを作り出し農村教育では、「なせばなる」と言う徳目教育で農村で皆が集まって色んな農村の課題をみんなで考えさせたりした結果、とてもできそうもないように見えることでも、みんなで色々工夫して努力していると何とかなることが多い経験を積ませていた結果、徐々に自信を持ち成果を出すようになっていたと言われます。
せっかく身に付き始めた気風が簡単に先祖帰りてしまったのでしょうか?
大恐慌爺以降の記述は以下のとおりです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/kankoku-hatten.html
「日本でも東北の農村では、農家のみならず、役場の職員、教員の給料が払えず、遅配、欠配が続いた。農家では自分の作った米を食べず、市場に出すため、ますます米の価格が低下し、売るものがなくなり、娘の身売りが続出した。この年9月に満州事変が勃発した。この原因の一つは、この農村の疲弊対策として、農民の移民先を求めたことである。
朝鮮の農民も自分で作った米は食べることができず、粟か稗しか食べられなかった。日本の農林省は「米の価格低下は、朝鮮米の無制限な移出が原因」と非難し、出荷の自粛を求めた。しかし他に有用な作物がない朝鮮では、農民の生活を維持するためには、高価な米を内地へ移出するしか方法がなかった。陸軍の応援で辛うじて米を自由に日本へ移出する事が認められたのである。
尚、この時期アメリカではフィリピンからの砂糖、椰子油の無制限な輸入に、アメリカ本土の砂糖や食料油の製造者が反発した。更にフィリピン労働者のアメリカ進出に危機感を抱く労働組合が同調し、フィリピンの十年後の独立が決定した。フィリピンの切り捨てである。日本とどちらが民衆の事を考えた施策だったであろうか。
「宇垣総督は着任後直ちに農村を視察し、農村振興運動をスタートさせた。日本における農村自立更正運動より僅かながら先行している。この運動で宇垣が最も主張したのは「心田開発」即ち心の持ち方であった。又宇垣に呼ばれ指導に当たった山崎延吉の指導理念は「奉公の精神、協同の精神、自助の精神」であった。セマウル運動との違いは奉公が勤勉に代わっただけである。」
「この文盲対策として1934年簡易学校の制度を発足させている。学校へ行けなかった青年に読み書き・算盤を教えるものである。生徒は農業の暇なときだけ来て、勉強するというやり方で、普通学校に併設し、普通学校の先生が兼務で教えたのである。」
以下明日に続きます。

沽券・メンツにこだわる文化(韓国の戦後貧窮)3

日本人学者にも「天皇と言うべきではなく日王」とお呼びすべきだという意見があるのかも知れませんが、これは憲法で決まっていることであるから、学問の自由の問題ではないでしょう。
憲法で「天皇」の」呼称が決まっている以上国家組織の一部である文科省が、どんな学説があろうと「日王」と言う学説を採用して教科書指導するのは憲法違反です。
ですから、「そういう主張があるから・・」という言い訳自体がおかしなことになります。
日王説が仮にあるとしても、天皇の呼称がどうあるべきと言う憲法改正論であって国家機関である文科省が、「日王の 呼称が正しいとする教育行政」をする余地がないのですから、そういう主張と天皇の呼称を天秤にかけること自体が許されません。
朝鮮民族にとっては、「日王」の蔑称こそは、どんなことがあっても取り下げられないということでしょうし、古代から日本には立派な人がいたと言う聖徳太子の存在は許せないことになっているようです。
何事でも穏便に話せばわかる相手ばかりではありません・・この話はどこまでいってもだから円満解決は無理でしょう。
どこまでいっても話し合い解決のつかないことがあるからこそ、最後は警察を呼び、裁判で決着し強制執行する制度がどこの国でもあるのです。
ましてパク前大統領自身が民族を代表して「千年でも・・」円満解決は受け入れないと断言してしまう民族です。
こういう民族と礼儀に乗っ取って話し合っても解決になりません・・相手自体が平和裡の話し合いでは「千年」譲ることが出来ないという立場を予め表明しているのですから・・。
相手の代表を蛮族の酋長よばわりして礼儀に反しないかを合理的に考える能力がないのです。
幼児や馬鹿が大人に向かってバカと言っても笑って受ければいいことですが・・。
相手にしないで放置しているとこの後で紹介する韓国起源説のように慰安婦その他デマ情報がいつの間にか世界の常識になってしまいます。
ところで、明治維新当初の国書中の「天皇」「勅令」等の文字が李氏朝鮮政府の気に障っての受領拒否になっていたのですが、これが江華島事件の後に朝鮮側がその非を認めて謝罪した上で日朝修好条約締結になったのですが、日本敗戦後再び天皇を国内では「日王」と言うようになったようですが、内外使い分けの矛盾・・大使公使の信任状授受をどうしているのでしょうか?
日本国憲法
第七条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二  国会を召集すること。
三  衆議院を解散すること。
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七  栄典を授与すること。
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行ふこと。
憲法では全権委任状大使公使信任状に天皇の認証が要求されています。
天皇の御名御璽のある信任状を韓国では明治維新当時と同様に「おもて向き」受領拒否しているのでしょうか?
江戸時代当初の通信使に対する日本側返書を 間に入った宗氏が改ざんした国書改ざん事件同様に・・と韓国政府の誰かが「日王」に改ざんして国内記録化しているのでしょうか?
維新当時天皇の文字のある国書の受領拒否していたように、日本敗戦に乗じて天皇の文字を消さない限り国書を受けとれないと言い張っていたのでしょうか?
敗戦後とは言え、韓国も事実上アメリカ保護下で独立した以上、アメリカの意向を無視できません。
アメリカの意向は現憲法にあらわれています。
日本国憲法の米語訳は以下のとおりで、第一条以下「エンペラー」なっていてキングとはなっていません。
CHAPTER I
THE EMPEROR
Article 1. The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the People, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.
Article 2. The Imperial Throne shall be dynastic and succeeded to in accordance with the Imperial House Law passed by the Diet.
韓国が戦勝国一員としての地位を要求してダレスに拒否されたように韓国の要求はすべてアメリカ次第でした。
天皇の呼称を国王にしろと言う変更要求が韓国からあったとしてもアメリカが受付けなかったものと思われます。
こうした色々な不満の結果、戦後1965年の日韓条約にいたるまで、韓国は断固日韓国交を拒んでいました。
貧窮のどん底の韓国に対して、これ以上援助を続けられなくなったアメリカの後押しでやむなく日韓交渉に入ったために、日本の高度成長に対して貧窮のどん底にあった韓国は、天皇の呼称を日王に変えない限り条約締結できないとは言えなかったのでしょう。
戦後韓国経済の状態は以下のとおりで、生活費のすべてをアメリカに頼る状態で自力による生活能力のない・・国を挙げての生活保護受給者のような状態が続いていました。
以下はちょっと長いので2回に分けて引用しますが、日本支配が終わった時の自力能力・日韓条約時の韓国の民度・欧米の援助・植民地支配の特徴がよく現れていて面白い分析です。http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/shazai/4shou.html
・・頼みの農業も日本、満州から大量の人が引き揚げてきたこと、肥料工場が北にしか無かったことから肥料不足になり、食料品まで不足した。日本統治時代は日本に農産物を売り、そのお金で、消費材を買っていたのが、その農産物すら不足する事態となったのである。更には北朝鮮からの送電を絶たれ、韓国の国民の命を守ったのは、一にも二にもアメリカの援助であった。
アメリカが軍政期三年間に行った援助総額は四億一千万ドルに達した。又昭和二〇年から朴正煕による五カ年計画が始まる前年の三六年までの援助総額は三一億ドルに達する。年平均二億ドルに及ぶ。それが借款ではなく、無償援助であった。そのアメリカも昭和三五年近くになると国際収支が悪化し、援助が苦しくなった。昭和三二年の三億七千万ドルをピークに昭和三四年には二億二千万ドル昭和三五年には二億五千万ドルに低下し、無償援助から借款への変更を予告されるようになっていたのである。これに比べれば日韓基本条約で日本が供与した一〇年間均等払いでの無償援助三億ドルは期待に外れたものであった。なおこのアメリカからの援助は国家予算の三割から五割強に達した。
当初の援助は四〇%以上がアメリカの余剰農産物であり、通算でも二五%は小麦・トウモロコシ等の農産物であった。これを国民に売り、その売ったお金で軍事費その他諸費用をまかなった。その為農産物の価格は抑えられ、農業は衰微した。通算で四二%が原材料・中間製品であるが、その中には原綿が含まれており、この結果日本時代かなり生産された原綿も激減した。」
以下明日のコラムに続きます

沽券・メンツにこだわる文化(劣等感)2

7月22日に水車を何百年も作れなかった実態を紹介したとおり、社会レベルが数世紀単位で大幅に遅れているのを自覚していたからこそ、自国の現状を必死に隠したくなる心理です。
長年自分国の使いは江戸までゆるゆると往復して日本の実情を観察しているのに、日本側の人間は 釜山の倭館から一歩も出させない厳重な規制をかけていた真の原因と思われます。
あまりにも遅れた社会を見られたくなかったからではないでしょうか。
家の中が散らかっていると見られたくないので、入り口ドアを半開きにして立ちふさがって応対するのと同じ心理です。
ところがいくら内情を隠しても選び抜かれた使節随員が行く先で白昼衆人環視の中で鶏泥棒をして大騒ぎになり馬脚を現している絵が残っていることを22日に紹介しましたが、これを本国では知らないままだったと思われます。
江戸時代には日常的に絵画表現が発達していた(絵画用の関連商品の発達・需要が下地です)珍獣奇獣に関してもあるいは一般的植物図鑑など絵画表現が発達していたし(酒井抱一展などに行くと草花の図鑑.描き方の冊子が出ています)瓦版も多く出ていました。
この事情は以下の国立国会図書館の絵画集に明らかです。
http://www.ndl.go.jp/nature/cha3/
「江戸時代には、清船やオランダ船に乗って、多くの異国の鳥獣が海を渡ってきました。この時代の博物誌には、交易によって舶来した鳥獣のほかに、たまたま日本に迷いこんできた外国の鳥などもいろいろと記録されています。
第3章では、当時の人々の目を驚かせた珍しい鳥獣や魚介類の一部をお目にかけます。
第三章 珍禽奇獣異魚
迷鳥・珍鳥
外国産の鳥類
魚介類
獣類など」
以上に入って行くといろんな絵が見られますのでオススメです。
名古屋にアザラシが現れたと言っては大騒ぎになったなど物見高い・・好奇心の強い民度が出ています。
これを見ると全国各地に事件発生に即応して描写できる相応の絵師がいたことが分かります。
何か事件があると何でも絵画表現できるし、これを求める客がいた社会でした。
中国は改革開放以来、北朝鮮や李氏朝鮮と違い国内混沌をそのまま観光客にさらけ出していますが、グーグルマップなどの映像地図に出ないようにしています。
中華の栄光などといくら威張っていても中国人観光客が行く先々でゴミを散らし行儀が悪いので、お里が知れています。
李氏朝鮮では釜山の倭館で応対して日本人を首都まで行かせなかった自国の現状を知られたくなかった点は、以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E9%A4%A8
「近世倭館
1592年に始まる文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶し、戦争直後対馬藩が送った貿易再開を求める使者が帰ってこないことが多かった。しかし朝鮮人捕虜を送還するなど対馬藩の必死の努力によって、1607年最初の朝鮮通信使が来日し、国交回復が決まった。対馬藩は江戸幕府から朝鮮外交担当を命じられ、釜山に新設された倭館における朝鮮交易の独占権も付与された。1609年に締結された己酉約条によって、朝鮮は対馬藩主らに官職を与え、日本国王使としての特権を認めた。しかし日本使節のソウル上京は一度の例外を除き認められなくなった。また日本人が倭館から外出することも禁じられた。」
倭館からの外出禁止状態は、国書の膠着打開に向けた動き・江華島事件端緒に関するウイキペデイアの解説にも明らかです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1872年(明治5年)5月には外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた(倭館欄出)。」
日本でも長崎出島に限定してオランダ人の出入りを規制していたとはいえ、江戸表までのオランダ商館長による表敬訪問が慣例化していた・・自由に日本国内状況を見せていたのとは大違いです。
幕末有名なシーボルトは、この江戸参府使節随行員として初参加した機会を利用して途中各地で博物資料を収集出来たのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%98%AD%E9%96%A2%E4%BF%82によると以下の通りです。
「オランダ商館長は、歴代、通商免許に対する礼として江戸に上り、将軍に謁見して貿易の御礼を言上して贈り物を献上している。これを「カピタンの江戸参府」といい、毎年、定例として行うようになったのは1633年(寛永10年)からであり、商館が平戸から長崎に移されて以後も継続された。1790年(寛政2年)以降は4年に1度と改められたが、特派使節の東上は1850年(嘉永3年)まで166回を数えた。江戸の長崎屋、京の海老屋は「阿蘭陀宿」として使節の宿泊にあてられた。」
李氏朝鮮は、外見と内情の大きな落差を隠すために沽券にこだわった結果、明治維新当時日本からの通信使再開の国書を素直に受け取れなかったので、天皇その他の表現の端々にこだわって受領拒否していたのでしょう。
痩せ我慢も限界がきて、江華島事件を契機にしてついにこれまでの非礼を謝罪して日朝修好条規締結になって行くのですが、これは仕方なしに締結したに過ぎない・・その後ずっと天皇ではなく王に過ぎないのに・・という不満があったのでしょう。
同じ冊封国家同士であれば自分の方が格上なのに・・という不満が日本統治時代にずっと続いていたように思われます。
それでも沽券こだわる程の実力がないということで、ガマンしてきたのですが、日本敗戦と同時に重しが取れたので早速「日王」という侮辱的表現に戻り、いまでも事あるごとに「日王が・・」と侮辱的表現に終始しています。
日本でインドネシア等の大統領を「酋長が」と新聞が翻訳しているようなものです。
これを喜んで日本の教科書や(文科省)が採用しているような国会議員の報告がありました。
曰く「教科書で聖徳太子の称号をやめて「厩戸皇子」になっている理由を問いただしたところ、生前このような故障で当たっというので、それは違う・・天皇家ではおくり名で書くのがルールではないか?混ぜ聖徳太子だけ無冠の時名称を教えるのだ?と問いただしたところ、「天皇の呼称だって日王」という主張もあるしと・・と言い訳したとのことでした。
この辺はユーチューブでちょっと聞いただけで記憶がはっきりしませんし、発言している議員の方も文科省の役人との応答を正確に記憶しているか不明ですが、文科省では韓国の主張に敏感反応している(日教組の影響の大きい点は仕方がないでしょう)様子です。
朝鮮民族にとっては、「日王」の蔑称こそは、どんなことがあっても取り下げられないということでしょうし、聖徳太子の存在は許せないことになっているようです。

外からの民主化と自力発展能力2(民度)

進んだ思想や技術を外部から導入してもその受け入れ能力がないとどうなるかの続きです。
最近メデイア扇動によるムード的政治潮流づくりが盛んで功を奏しているように見えますが、デマに簡単に扇動されてしまう民度レベル・・衆愚政治化?で先行している韓国の実態(韓国人からすれば民主化が進んでいると自慢でしょうが・・)を以下のブログが的確に解剖しているので、要約紹介するよりそのままの方が(と言っても部分抜粋です)わかり良さそうなので長文になりますが引用しておきます。
http://ameblo.jp/katsumatahisayoshi/page-3.htmlからの引用です。
このコラムでは原則として引用部分を「」で括るのですが、引用する勝又氏のブログの中に新聞記事の引用記事があるので、文中勝又氏の意見と新聞記事の引用の区別が分かりにくくなっていますが、原則かっこ書き部分が新聞記事とご理解ください・・以下本日のコラムは最後まで勝又氏のブログの部分引用です。
「素人が影響与えた原発中止
文在寅大統領は、大統領選挙の争点でなかった原子力発電所の建設中止問題を、しかるべき機関に諮問することなく、突然に実行命令を出した。文氏の性格は本人の分析によれば、「原理主義」と「独善」だというが、まさにその通りのことが起こった。「大統領になれば何でもできる」という思いが、文氏を突き動かしているのだろう。歴代の韓国大統領と違うところはなさそうだ。
『朝鮮日報』(7月15日付)は、社説「国家百年の計を一瞬で葬る文在寅政権の無責任さ」と題して、次のように論じた。
「この原発建設中止問題は、かつて日本の民主党政権が、「コンクリートから人間」のスローガンで、関東の八ッ場ダム建設工事を中止したケースとよく似ている。「進歩派」政権という看板に酔って、自らの政権の行なうことは全て許されると錯覚しているのであろう。
問題は、専門家の議論を経ないで話が決定したことだ。原発という極めて専門的な分野を、一人の素人である大学教授が「原発恐怖」を唱えて、文大統領に大きな影響を与えたことだ。この点については、後で取り上げる。朴槿恵・前大統領が、40年来の友人とされる崔順実被告の影響を受けたのでないかと言われている。文大統領も同様に、前記の大学教授に吹き込まれているとの指摘が出ている。
(1)・・・ 新たに建設が進められていた6基の原発のうち、進捗率が低い4基はすでに作業も中断している。今回建設中止が決まった新古里5・6号機は工事進捗率が28.8%だが、最大3カ月間工事を中断し、その間に市民による陪審員団が建設を続けるかどうかを決めることになっている」
・・新古里5・6号機は、最大3カ月間の工事を中断し、市民による陪審員団が建設を続けるかどうかを決めるという。一見、市民の意見を聞くという形をとって、永久的な建設中止に持ち込もうという政治的な意図であろう。これが、「草の根民主主義」とか言われるものだそうだが、果たしてそうだろうか。文氏はポーズを取っているように見える。THAAD(超高高度ミサイル網)設置についても、環境影響評価で公聴会にかけて市民の意見を聞くという。この問題も原発問題と同様に、極めて専門性の高い問題である。それを政府自らが判断を下さず、市民に問題の可否を丸投げする「大衆迎合政治」の最たるものだ。これでは、政治のリーダーシップはどこにあるのか不明になる。「86世代」の学生運動家上がりの政治家が、考えつくような「青臭い」話であろう。・・・・
(2)「国のエネルギー政策は、国民生活や産業競争力、さらには国の安全保障にまで重大な影響を及ぼす。ところが政府はこの重要政策をあまりにも拙速な形で推し進め、しかもわずか数カ月後には専門家でもない一般市民の判断に任せるとしている。どう考えても異常なやり方だ。・・・・
『韓国経済新聞』(7月14日付)は、「あまりにも違う韓日のエネルギー政策決定過程」と題して、日韓の違いを指摘している。
「日本では、『エネルギー政策基本法』に基づき、2003年以降3年ごとに国家エネルギー政策を見直している。法案決定過程は徹底的に専門家らが主導する。電力関連専門家で構成された『総合エネルギー調査会』が草案を作る。この案に基づき政府と与党が協議し、最終政府案を閣議で決定する。韓国政府が『脱原発』政策を強行し、新古里(シンゴリ)原発5・6号機の建設中断を市民陪審員団の判断に任せることにした点とは全く違う」
以上のように、韓国メディアが嘆くのも当然であろう。市民が、韓国のエネルギー政策の基本を決めるとは飛躍しすぎている。将来の技術的な問題、エネルギーコスト問題、産業の国際競争力問題などを市民の決定に託せる問題だろうか。これでは、大統領も不要となろう。政治家は、国家の将来を専門的に考えるから「職業としての政治」が存在するのだ。・・文大統領は、難問を市民に丸投げしている。これぞまさに「政治によって生きる」という悪しき例の政治家に成り下がっている。大衆迎合政治の典型例である。
・・ 韓国の原発問題も、専門家が十分は検討を経て決めた経緯がある。それにもかかわらず、これを白紙にして市民に聞くというのは、問題の本質を逸脱している。実は、こういう市民に聞くというもっともらしい「口上」の裏には、市民運動家に政治的重要な決定を任せる意図が隠されている。文政権は、韓国の将来を一握りの市民運動家に託す意図であろう。次の社説が、その危険性を指摘している。・・・・
「もし今後原発や石炭への依存度を下げた場合、現状では何によってそれを賄うかというロードマップさえない。いきなり脱原発を宣言はしたものの、これは政治的な発想によって実現できる問題ではない。今政府では原発に強く反対する市民団体の活動家だった人物が何人も要職を占めている。つまり一方的な偏見を持った人物が国の政策を決めているということだ。脱原発あるいはエネルギー政策全体の方向性を見直すという重要な決定を下すのであれば、それによって大きな負担を強いられる国民全体の同意を得ることがまずは必要ではないか」(『朝鮮日報』6月20日付社説「脱原発は任期5年大統領が勝手に決められる問題ではない」)
(4)「『大統領選挙で文在寅(ムン・ジェイン)候補陣営に加わって脱原発公約を作った』と主張するキム・イクチュン東国大学医学部教授(微生物学)は先週、高校生の前で『脱核講義』(反核講義)をした。この講義内容は、荒唐無稽(むけい)としか言いようがないものだ」
微生物学が専門の教授が、原発反対を説いて回っているという。問題はその内容だ。後のパラグラフで明らかにされているように、全くのデタラメで事実と大きく異なっている。しかも、この教授が文大統領の原発廃止顧問役になっているのだ。かつて、日本の民主党政権時代、鳩山由紀夫首相の外交ブレーンの一人が偏った反米安保思想の持ち主であった。この人物の影響で、鳩山氏は沖縄基地問題の判断を大きく誤った経緯がある。文大統領も原発問題では同じ轍を踏みそうだ。
(5)「同教授は、『(2011年の福島原発事故で)日本の領土の70%が汚染された。日本では白内障・狭心症・脳出血・肺がんなどが事故前に比べて200%~300%と増加した』と言った。また、『11年以降の4年間で、日本では通常よりも死亡者数が60万人増えた。放射能のせいだということを立証したい』『今後300年間はすべての日本産食品や北太平洋産水産物を食べてはならない。今夜遺言書を作り、今後10世代にわたり(食べてはならないと)伝えなければならない』とも言った。キム・イクチュン教授は09年から全国各地を回り、1200回もこうした反核講義をし、原子力安全委員会委員になり、文在寅(ムン・ジェイン)大統領が見た昨年公開の原発災害映画『パンドラ』総括諮問を務めたという」
この種の話を大真面目に聞いている韓国国民の知的レベルも問われるのだ。・・・・韓国の市民活動家といえば、「慰安婦問題」で見られるように、偏見の塊である。15年の「日韓慰安婦合意」の白紙化を狙っている集団であるが、エネルギー問題でも同様な過激な主張を展開しているに違いない。
(6)「福島原発事故については、『原子放射線の影響に関する国連科学委員会』(UNSCEAR)が2年以上調査し、14年に提出した報告書がある。311ページにわたるこの報告書は、『福島原発事故で放射線にさらされた発電所職員や一般住民のうち、放射能で死亡または重大な病気にかかった事例は発見されなかった』と結論付けた。この調査には18カ国・約80人の専門家が参加し、国際原子力機関(IAEA)や世界保健機関(WHO)などが支援した。同報告書は、『(福島原発事故の)最も重要な健康への影響は精神的恐怖・ストレス・うつ病などだ)』としている。国のエネルギー政策が専門家でない人物の何の根拠もない主張に振り回されていると考えると、背筋が凍る思いだ」

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