政争と粛清2(未熟社会3→革命)

フランスやロシア革命の推移はよく知られているので、ここでは独裁政治途中短期間で病死したために独裁→恐怖政治になってしまう弊害に至らなかった・・(日本の信長のように短期間)あまり知られていないクロムウエルの独裁について紹介しておきましょう。
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-041.htmlから以下の通り引用して紹介しておきます。

「権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、財産権と参政権の平等を要求する水平派や、土地均分を要求するディガーズの運動を弾圧するとともに、国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。また議会の穏健派である長老派を1648年には追放して、独立派のみで独占した(これ以後の長期議会を、ランプ議会という。ランプとは残部の意味)。また反革命運動を抑える口実で、アイルランド征服(1649年)とスコットランド征服(1650年)を実行した。
1651年には貿易商の要求を入れて航海法を制定、オランダとの対立を深め、翌年から英蘭戦争が始まった。1653年には長期議会を解散させ、護国卿に就任した。クロムウェルは、イギリス絶対王政のもとで獲得された海外領土に対しても共和政支持を拡げようとし、艦隊を送った。同時に「西方政策」と称して、西インド諸島や北米大陸のスペイン殖民地に対して攻勢をかけ、ジャマイカ島、トリニダート=トバゴなどを征服し、これによってイギリス領西インド諸島が形成された。
クロムウェルの独裁
ピューリタン革命を勝利に導いたクロムウェルは1653年護国卿となってから、58年の死まで独裁者としてイギリスに君臨した。左には水平派の反体制運動、右には王党派の反革命陰謀、という左右両方からの攻撃に対し、クロムウェルは権力の維持のために軍事独裁体制を強化した。全国を10の軍区にわけ、各軍区に軍政長官を置き、軍事と行政の権限を与えた。この軍政長官には陸軍少将が当てられたので、この体制を「少将制」という。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽は禁止された。
議会(下院のみの一院であった)はクロムウェルに国王の称号を与えようとしたが、さすがにそれは拒否した。しかし、殿下と呼ばれ、後継者を指名することができ、第二院を設けてクロムウェルが議員を任命できるようにした。まさに実質的な国王となったといえるが、インフルエンザにかかり1658年9月3日に死んでしまう。その子リチャードが護国卿に就任したが議会も混乱し、リチャードは人望が無く調停に失敗しわずか8ヶ月で辞任してしまった。その後、議会は王政復古に動く。」

社会混乱のマイナス視点で見れば、理念を伴った西欧の革命も中国歴代王朝末期の理念なき大動乱と同じですが、中国の場合、勝ち残って自分が皇帝になれれば大満足であって、勝ち組に参加した将兵も功労に応じた地位を得ればそれで満足ですから、さらなる権力闘争がありません。
結果的に権力維持のための外征をする必要がなかったことと、数十年単位に及ぶ大騒乱の結果国内経済衰退・人口激減などで体力が弱ってしまうのが普通でした。
例えば後漢末期の大混乱では人口が6分の1に減り周辺地域に設置した楽浪郡などを維持できなくなり現地政府(楽浪郡庁)を縮小したことで、朝鮮半島で現地民族が興隆しひいては日本列島人の自立が始まったたことが知られています。
魏晋南北朝に続く五胡16国、 唐末の五代10国、 清朝末期の動乱期も同様で周辺国に出て行くどころか、混乱期には周辺少数民族が入ってきた歴史です。
このように、中国の大義なき動乱の場合には、周りに迷惑をかけるどころではない・・その後2〜3代の皇帝は、国力回復に専念するしかないのが普通でした。
周辺民族への迷惑度から見れば、勝ち残った方が倒した前王朝とそっくり同じ政治制度を踏襲する中国の理念なき動乱の方が、すぐに安定政権になるメリットがありました。
日本の学者だけか?知りませんが、西洋の革命思想・理念先行を賛美する傾向がありますが、革命動乱後に理念先行の場合、もしかしたら新たな社会制度が生まれるメリットがありますが、革命に成功してすぐに穏健な民主化に成功した国はどこにもありません。
この点は戦争規模が大きければ大きいほど科学技術その他の大発展の契機になり新しいステージが開かれる・・次の時代に変わることが多いのですが、だからと言って大戦争到来を賛美するのが間違っているのと同じです。
このコラムで繰り返し書いてきたところですが、仁徳天皇が「民の竈を心配し」何事を決めるにもボトムアップで行う日本のような社会では大混乱になる革命を起こす必要がありません。
赤ちゃんが泣きわめく前に母親がちょっとした表情を察知しておむつを取り替えたり至れり尽くせりケアーする環境では、幼児期になって母親を信じているので駄々をこねたりしません。
青年期になっても親子で大げんかしなくとも(欧米の下手な子育てを前提に日本の青年に反抗期がないのはどうのと・・悦に入っている学者が多いのは・・革命賛美と同じ発想です)相互に気配りして家の伝統・文化を守りながら徐々に成長して行く社会の方が皆が幸せです。
日本は長年絶えざる発展をしながらも、古来の文化伝統を大切にして来られた所以です。
このようにして育った次世代が成長して中間管理職あるいは企業トップ、政治家・指導者になっても常に末端従業員や庶民の表情を読むこと・・気配りに長けています。
民意無視政治の結果、不満が爆発して権力に対して命がけで抵抗するのが革命(青年期の反抗)ですから、(中国歴代王朝末期の暴動も実質は同じです)そのような支配層しか持っていない民族民衆も思いやるレベルがどっこいどっこいであって、庶民レベル方が高いはずがありません。
庶民層がいきなり権力を握っても(育ちが悪いので)民主主義や人権尊重理念だけでうまく経営できる訳がありません。
経営不振や不祥事の社長や経営陣を吊るし上げて労組支配になって、うまく行った企業があるでしょうか?
ロシアで言えば、革命後に革命に協力 勝利したグループ内の抗争に勝利した支配グループもいざ実務に入ると政治経験のないズブの素人が利害の錯綜している内政(国民も革命成功により、前より良くなると新政権に期待しているのでなおさらです)をどうして良いか不明で混乱するのが当然です。
中国の場合、大動乱を経て権力を握ると直ちに 新皇帝に推戴されて歴代王朝の先例踏襲だけですから苦労がありませんが・・革命の場合過去のやり方を「がらっと変える」と主張して政権を取るから苦労することになります。
小池氏がチェンジと言い「リセットする」というから、却って何をするのか「さっぱり不明」という批判が起きるのです。
中国歴代暴動後の王朝の場合、大混乱を沈めて民の塗炭の苦しみからの解放が第一の仕事であって、民が暴動前の平穏な生活に戻れさえすれば良いのです。
ところが、毛沢東もスターリンも党内での権謀術数のプロではあったでしょうが、民生・利害調整をどうするか?という方向での政治経験がないし、王朝支配はよくないと立ち上がった結果、過去の王朝支配の真似をできないので、どのような政治をすればいいのかまるで分からなかったと思います。
専制支配下で特徴的な権謀術数は 政敵の足をすくって失脚させればおしまいです・・政敵が再起し報復できないように「罪9族に及ぶ」と言うほど徹底根こそぎ処刑するのが普通・・今回で言えば、薄熙来や周永康のように一度失脚したら再起できない仕組みです。
ところが、内政は民がいてこそ権力者ですから、民を丸ごと策略やざん言でひっかっけて目の前から消しさる訳には行きません。
民生の場合には、負けた方を丸ごと抹殺すれば良い訳ではなく、調整して納得させる技術が必要です。
民族丸ごとの移住強制はいわば個々人に対する粛清の大量処理版というべきです。
スターリンは政敵抹殺大規模版として自作農丸ごと、民族丸ごとシベリア流刑・移民強制をしていたし、ナチスはユダヤ人を丸ごと収容所に入れたと言われますが、これは少数民族にたいしてだけできることであって国民全般向けでは不可能です。
多数国民相手の民生では策略でゴマカし、陥れる権謀術数は効きません。

内政経験未熟2(ロシアの場合1)

国政担当者になれば、市民運動のように一方の立場だけ言い募れば良いものではありません・・。
革命成功には(まずは従来の対立を棚上げしての大同団結成功によりますが)多くの集団利益の糾合によりますが、権力奪取に成功してみると権力を倒そうという共通の目的がなくなります。
政策のすり合わせで一つの党になったのではなく当面の敵・政権打倒のための薄氷の団結では、政権を奪った後に棚上げが解消されれば対立が復活するのが当たり前で統一政権の展望がもともとありません。
命がけの革命が成功した以上は、各集団構成員は当然自分たちの現状に対する不満解消=要求が通ったものと感激し期待しますので、革命騒乱前の対立利益の棚上げ我慢が解消される期待・・革命勃発前以上に自己集団利益・主張の実現期待が高まっています。
政権運営者運営になると従来以上に妥協が必要なときに逆に出身母体の要求実現圧力が高まり利害対立が尖鋭化します。
戦国大名の合戦勝利後の恩賞争いは参加豪族の求めるものが同じ方向、領地等ですから競合豪族の得た恩賞が自分より多く(他の武将が60の恩賞もらい自分が40しか恩賞がもらえないのは悲しいですが、)自分の領地が減らされる関係ではありません。
革命後の政策争いの場合には、競合相手の主張が通ると自分の主張が否定される関係が多いので、「主張がとおってよかったね」とお祝いするどころではない・・簡単にはおさまりません。
もともと意見が相容れないから別組織を作り相互に敵対していたのですから、革命実現後の昂揚感で小池氏(は選挙で勝つ前に表明したのですが・・)のいう通り「さらさらない」譲る気持ちが薄れていますのでまとまるはずがありません。
最大共通の敵である政権(たとえば3〜4割の支持を受けていた最大政党の政権)を打倒するために残り6~7割の大同団結で(内部党派の内訳が15%〜13%〜12〜10〜9、5〜8%〜・・.=6〜70%)で政権奪取した場合、革命成功後の妥協が難しくなり離合集散を繰り返した挙句、最後は血で血で洗う内部抗争が始まるのが普通・西洋革命やロシア革命の経験です。
日本では、民主党の寄り合い世帯の矛盾がいつも言われていましたが、要は「自民党を倒し政権交代のための大同団結」という呼びかけに応じること自体に、政権獲得後の政権運営の展望がないことを自己表現しているのですから論理帰結というべきです。
家の建て替え案について借家に引越すかを含めて10種類の案の対立があってまとまっていないのに、先ず取り壊すことの賛否をとって取り壊してしまい、後で野宿しながらゆっくり決めるようなものです。
もともと合理的妥協できない体質の集団同士が、(中国の国共合作や日本で言えば選挙協力)当面の敵を倒すだけの目的で団結しているのでは当面の敵を倒して政権を取ったのちの熾烈な政争・国政混乱を前提にしているのですから、政権担当能力の無さを自ら示していることになります。
民進党内の保守系や連合が、共産党との選挙強力に断固反対していたのは、その後の熾烈な内部抗争では鉄の規律を誇る共産党に負けてしまう・3日天下の恐怖があるからです。
ロシア革命ではボルシェビキが多数の支持を受けたのではなく選挙では負けていたのに、武力圧倒(言わばクーデターです)した歴史があります。
クロムウエルの独裁も鉄騎兵という武力背景によるものでしたし、ナポレンも軍を背景に頭角を表したものです。
メデイアは総選挙得票数を見れば野党合計が与党合計を上回っているとしきりに宣伝しますが、妥協能力のない政党選挙目的で団結してもが仮に7割あっても大同団結の結果政権を取ると、外敵がなくなった後はお互い妥協能力のない人の集まりですから、ロシア革命の推移を見れば明らかなように連立政権の内部抗争で四分五裂し、最後に勝ち残ったグループも政治運営経験がない上に相手が合理的説得になじまない原理主義的傾向グループばかりですから、結果的に国民支持が10%以下の最も残忍なテロ行為を行える狂信的集団の政権確立・・内政では独裁・恐怖政治や対外冒険主義に陥ります。
ロシアや中国のような後進国でない先進民主主義国においても、民選議員が離合集散を繰り返すことに対する国民不満を背景に強力な政府・統領制への期待が高まるので、統領政治→独裁(前近代では中国のようにその都度前王朝制度の踏襲・あるいはフランスのようにナポレン帝政となるなど・1党独裁制度の場合には終身党首)→恐怖政治のパターンとなる確率が高まります。
第一次第二次ナポレン帝政を見ても分かるように、内部抗争がなくなると次々と敵を求めて対外戦争や紛争を起こすパターンです。
革命主導したレーニンは資本主義→帝国主義戦争が必然と主張していましたが、歴史を見れば逆に革命(素人で内政能力欠如)→対外戦争が必然的というべきでしょう。
日本の薩長土肥政権・古くは鎌倉や室町幕府・徳川政権の成立後この構成集団間で粛清政治にならなかったのは、もともと主義主張や利害対立で反目していたのではなく地盤が遠く離れていて別の領地を持っていたから別集団になっていたに過ぎない・・上記の通り論功行賞の競合関係しかない面と、構成大名それぞれ小なりと言えども先祖代々からの領地内の内政経験が豊富にあったから利害対立の捌きかたをよく知っていたことによります。
政権運営経験のない後醍醐政治が失敗したのは、失政を誤魔化すための恐怖政治に走ることを許さない民度の高さによります。
清教徒革命の場合クロムウエルの独裁、フランス革命の場合ジャコバンの恐怖政治・ロシアの赤色テロなど世界で有名な革命では例外なく独裁→恐怖政治に陥っていることが知られています。
以下は、赤色テロに関するウィキペデアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/の引用です。

ロシア
レーニンは、早くから革命にはテロリズムは必要であると考えていた。彼はフランス革命や自らの兄アレクサンドル・ウリヤノフも信奉したロシアの虚無主義、セルゲイ・ネチャーエフを研究し、熱心にテロを奨励したと言われている。
1918年8月30日、左翼社会革命党の党員ファニヤ・カプラン(英語版)がレーニンを狙撃した暗殺未遂事件が発生すると、同年9月にレーニンは「赤色テロ」政令を発して、「白色テロには赤色テロで応じる」ことを宣言した。しかし既にボルシェビキによるテロはいたる所で行われており、この宣言はそれを正当化した形であった。レーニンは、秘密警察チェーカー(後のKGB)を動員して反対派を徹底的に粛清。国民に密告を奨励して「反革命」とみなされた人物を次々と逮捕・処刑した。ロマノフ朝最後の皇帝であったニコライ2世一家もエカテリンブルクで全員虐殺された。この他の皇族や、資産家、クラークなども、亡命できた者を除いて「人民の敵」というレッテルを張られて裁判もなしに殺害された。これらの事実は欧米に衝撃を与え、ナチズムなどの反共主義が広がる要因となった。
カンボジア
1976年に親米政権を打倒して政権を掌握したクメール・ルージュは、農村部から都市部に至るまで、反対派を大量に殺戮した。クメール・ルージュによる大量殺戮は、1979年にベトナム軍が介入するまで続いた。
中国
毛沢東の主導で行われた大躍進政策や文化大革命は中国において行われた典型的な赤色テロの例であろう。大躍進政策では数千万人が餓死し、文化大革命でも数千万人が虐殺されたとされている。」

上記の通り、もっとも温和な国民性と思われていたカンボジアで共産党政権になると大虐殺がおこなれていたことを見ても、ソ連のおそるべき粛清政治はスターリン個人の資質によるものではありません。
共産主義政党に限らず西欧流の主義主張の強調によって、(相手をけなして)政権を取る方法(集団内部で結果的に妥協を拒む原理主義者・・純粋主張・純化論が幅を利かしがちです)はこうしたことになり易いことを示しています。
日本のように尖鋭な主張を嫌い茫漠とした人格採点の方が穏当なところ落ち着きます。

アメリカの自治体2(政府形態1)

昨日引用の続きです。
素人の私が自己流解釈するよりそのまま引用の方がわかり良いので、そっくり(と言っても関心のあるところだけの抜粋です)引用さていただきます。
今日のコラムは私の意見部分がなく引用だけです。
http://www.clair.or.jp/j/forum/series/pdf/h18-1.pdf1

3 カリフォルニア州地方自治体の政府形態
(1)アメリカ全土地方自治の政府形態
アメリカ全土には、下記の表が示すようにさまざまな地方自治体の政府形態が示されている。
表 2 政府形態の年代推移
推 移      2005      2004    2000    1996   1992   1988     1984
支配人制   3,475(48.9%)  3,453   3,302   2,760   2,441   2,356   2,290(35%)
市長議会制  3,091(43.5%)  3,089   2,988    3,319   3,686   3,686   3,686(56%)
委員会制   145( 2.0%)   145    143     154   168    173   176(3%)
町総会制   338( 4.7%)   338    334    365    363    369    370(5%)
町総会代表制 63( 0.9%)    63 64    70     79    82    81(1%)
不明 3
計     7,112(100%)    7,091    6,381   6,668  6,737    6,666    6,603
(100%)
出典:The Municipal Year Book 2005,Published by the International
City/County
Management Association (ICMA)
注① 上記の表中の合衆国の地方政府の総計は、2,500 人以上の人口をもつ自治体のみを
示している。また、2,500 人以下の人口をもつ地方政府は 30,000 ほどである。
注② 理事会・支配人制政府のもとで運営されている自治体に住む住民は、9、200 万人以上である。
注③ 25,000 人以上の人口の自治体の 63%は、理事会・支配人制を採用している。
それぞれのシステムについて、簡単に解説しよう。
イ 市支配人制
この制度は、1908 年ヴァジニア州スタウトン市 (Staunton, Virginia) において初めて採用された。
多くの市で急速に採用され、今日では、25 万以下の自治体では半数以上で採用されている。また、ヨーロッパのほとんどの国、またアジアにまで広まっている。
この制度は、理事会によって任命された支配人に全行政をまかせ、理事会は、支配人の任免の他には予算や政策の決定を行うに過ぎない。市長の選出は、理事会の互選か、有権者による直接公選であるが、その任務は、理事会の議長、また対外的代表など数が限られている。支配人は、「行政大学院」で教育を受けた行政の専門家で、予算・政策案の作成、行政組織の管理、情報の収集、市民との交流などの仕事を行う。企業に極めて似た制度と言える。
カリフォルニア州のこの制度の採用率は、非常に高く、また採用してもそのバリエーションに富んでいる。州内 465 自治体のうち、32 自治体が「議会-市長制」であるのに対し、後は、「理事会-支配人制」である。
例えば、第3章で示す「トーランス市」の場合は、もとより「理事会―市支配人制」であるが、支配人はこの半世紀ほどで2人だけである。専門職としてのマネージャーは、通常日本では自治体の「わたり職人」のようなイメージであったが、必ずしもそうではないようである。
ロ 弱市長制
連邦政府の統計では、弱市長制と強市長制は、「議会―市長」と解されて、一緒に取り扱われている[U.S. Census Bureau, Government Organization, 2002CensusofGovernments,Vol.1No.1.]。しかし、ここでは、政府形態のバリエーションを増やす意味からも別々に説明する。
弱市長制は、現在の制度のうちで最も古く 19 世紀前半に始められた。
この制度の特徴は、主任行政官としての市長の地位が極めて弱いことである。議会は部長の任免権を持ち、それによって行政権を遂行する。また議会は、予算案の作成と採択に責任を有する。この他に行政権は、多数の行政委員会にも与えられており、しかもその委員は有権者によって選出される。
この制度は、州制度に類似しているが、地方自治体レベルでは比較的小規模自治体で使われるのが通常である。しかし、例外的に 37 万都市のミネソタ州ミネアポリス市とカリフォルニア州ロスアンジェルス市(市部人口 3,957,875 人)でも採用されている。
ハ 強市長制
1870~80 年頃、この制度が採用され始めた。この制度は、首長と議会がそれぞれ有権者によって直接選出される。首長は、強い行政権をもち、全行政過程の決定・執行に責任をもち、また政治的リーダーでもある。
この制度の欠点は、行政に素人の市長が採用され、政治と行政を区別することが困難な場合が多いことである。
強市長制は、わが国の自治体制度と類似している。
なお、行政管理官制は、強市長制に基本的には類似しているが、行政管理官は首長のもとで支配人制の支配人と類似した機能を果たす。
ニ 委員会制、町総会制
上記の3制度以外には、カリフォルニア州においては見当たらない。少なくとも「自治体年鑑(municipal year book)」や連邦統計局編纂の「政府組織(Government Organization)」には見当たらない。

アメリカの州・郡(County Government)と市町村の関係2

アメリカの場合、州の規模が大きいので隣の州で日常規制・ごみ収集方法が違ってもあまり関係がないと言えば分かり良いでしょう。
例えば、関東地方だけで7都県もありますが、アメリカの場合で言えばカリフォルニア州の何分の1です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q116683326によると以下の通りです。

カリフォルニア州面積:411,045平方km
(日本の面積の1.1倍)

以上のように州(ステート)と連邦の成り立ち・・歴史が違う上に事実的な意味を持つ面積規模もまるで違うアメリカの州の連邦の政府に対する自治権を理想化して日本の小さな都道府県や市町村に当てはめる議論は間違いです。
アメリカの場合、主権国家内の自治権というよりは独立国の条約による連合体・・EU加盟国がマーストリヒト条約等に従う義務によって、もともと100%あった主権が制限されている関係と見るべきです。
上記歴史経緯や地理条件などを総合すると、州に対して郡(County Government)や市町村がどのような自治権を有しているかの研究こそが日本の自治の参考にすべき基準です。
以下はカリフォルニア州政治に関する17年10月7日現在のウィキペデイアの記事からです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B7%9E%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%BA%9C地方政府

「カリフォルニア州は郡に分割されており、郡が法的な州の小区分である[8]。州内には58郡があり、480の都市、約3,400の特別地区と教育学区がある[9]。特別地区は具体的な公共計画と公共設備を有権者のために運営し、「その境界の中で行政的あるいは所有者としての機能を果たすための州の機関」として捉えられている[10]。
地方政府の権限の詳細を支配下に置くために州議会は1963年にサンフランシスコ郡を除く全郡に地方機関結成委員会を創設した。」

その境界の中で行政的あるいは所有者としての機能を果たすための州の機関」ということは、要約すればこれと言った自治権がない・・州政府の末端行政機関であるかのような位置付けです。
別の記事を見ると郡は条例制定しても市の批准がないとその市内では適用できないというので相応の条例制定権があるようですが、上記カギ括弧書きの要約と合わせると州政府の下位機関としての行政執行を具体化する範囲程度のイメージです。
そこで各州と郡を一体として・・市町村の自治体との具体的な関係を見ていきます。
自治体とは何か?政府とは何か?となると意外に難しいのに気づきます。
昨日書いた通りアメリカは、もともと独立国家の連合体ですから、州内の統治をどうするかについて連邦憲法に何も書いていないことになります。
ですから州政府と郡や自治体との関係も州ごとに違うことを前提にする必要があります。
そもそも州の憲法事項になっているかを最初に問題にすべきでしょう。
https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk079/zk079_02.pdfによれば以下の通りです。

2.2
地方政府の法的位置づけ10
地方政府は各州ごとに州憲法や州法によって規定されており、その種類や機能は一律に定義することができない。歴史的には、地方政府を州の一部局として自治の範囲を狭く解釈する見解と、州からある程度独立した組織として自治の範囲を広く解釈する見解との対立があった。
地方政府の機能や権限を狭く限定的に解釈する前者の代表としては、
「ディロンの法則(Dillon’s Rule)」と呼ばれる解釈基準がある。この基準によると、地方政府は州憲法や州法によって付与された権限のみを行使することができる。
一方で、地方政府の固有の自治権を主張する議論として「クーリー・ドクトリン(Cooley’s Doctrine)」が挙げられる。クーリー裁判官は1871年にミシガン州最高裁判所で、「州憲法による黙示の制限」によって地方政府の権利は州議会の権力から保護されており、「純粋にあるいは基本的に地方的な事務については、地方政府の法が州法に優先する12」と述べている。
・・・・このため、南北戦争の頃になると州議会の過剰な介入に反発した地方政府や住民が、地方の自治権を主張して各地でホームルール運動を起こすようになった。この運動が一定の成果を挙げて、各州の州憲法や州法において、人口等の一定の条件を備える地方政府に対する、州政府の介入を制限・禁止する規定や、州憲法や州法に違反しないことを条件に、地方政府に自治憲章を制定する権利を認める規定が定められることで、地方政府の自治が保障されるようになった。ただし、実際にはこの特典が得られる地方政府は限られており、また自治憲章に関する規定は州憲法や州法にもとづいている。自治憲章のための権限は、あくまでも州政府から地方政府への授権であり、州政府から独立した自治権を地方政府に与えるものではない。」

以上要するに州法で許容される範囲の自治権しかないということでしょう。
各州が自由に決めてきたとは言っても江戸時代の各大名家が周辺大名家のいいところを吸収模倣して行ったように時間の経過でおのづと共通化していきます。
アメリカでは学校制度から何か何までいろいろあって自由な国だという評価する人が多いですが、ただ発展段階が原始的〜初歩段階にあるからに過ぎないのではないでしょうか。

沖縄先住民権論4と言論の自由4

前置きが長くなりましたが、オナガ知事の国連演説を紹介しましょう。
平成29年9月10日の「先住民権運動の背景3(ロシアの領土欲1)」の続きでもあります。http://www.huffingtonpost.jp/2015/09/21/takeshi-onaga-okinawa-un-human-rights-council_n_8173918.htmlによると以下の通りです。

NEWS
翁長雄志知事が国連で演説
「沖縄の人々は、人権をないがしろにされている」(日本語訳全文)
沖縄県の翁長雄志知事(64)は9月21日、スイスで開かれている国連人権理事会で約2分にわたって英語で演説し、アメリカ軍普天間基地の移設計画について、沖縄に米軍基地が集中する実態を紹介し「沖縄の人々は、自己決定権や人権をないがしろにされている」などと訴えた。
翁長知事の国連演説は、国連人権理事会の場で発言機会を持つNGO「市民外交センター」が、持ち時間を提供して実現。国連での演説の意義について、同NGOの上村英明代表は琉球新報に、「沖縄の基地問題は安全保障、平和の問題ではなく、人権問題だということを国際社会にアピールする機会となる」と説明した

報ステが方針転換?翁長知事国連演説の真意を報道


2015年10月1日
報ステが方針転換?翁長知事国連演説の真意を報道
「この場のスピーチには、どういう意味があったのか。国連人権委員会の元委員に話を聞いた。
「翁長知事が発言した内容の中に、『沖縄の人たちの自決権が無視されている』と。国連人権理事会でこの演説を聴いた人は、『先住民たる沖縄県民が住んでいる沖縄という島の中で、アメリカが軍事基地を新たに設置しようとしている』という図式を描くわけですね」
「安全保障の問題が、人権の問題に。もう一つは、国内問題であったものが、国際的な問題に変容している」(元国連人権理事会諮問委員会委員 坂元茂樹氏)、
「・・自決権というのは2つあって、沖縄の中の自治権という意味もあるけれども、もう一つは「独立」を含んだ、「独立の決定」という意味の自決権という意味もあるので、この国連の人権理事会の中ではそういうニュアンスを含んで、あの短い時間とはいえ、スピーチをしたととらえたほうがよかろう」と、そういう見方が出ております。」

ところでNGO「市民外交センター」とは何者か?
http://japan-plus.net/783/によれば以下の通りです。

(1)市民外交センター http://www005.upp.so-net.ne.jp/peacetax
先住民族の人権問題に取り組む団体。代表は上村英明氏。長年、琉球民族を先住民として認めさせる運動を国連に対して続けている。2014年、国連は日本政府に対し、琉球民族を先住民族として認めるよう勧告を出している。

NGOとは何でしょうか?
NGOとは、本来は政府権力から離れて人権を守る運動家の団体であるべきですから、人権を守るために政府と意見対立する必要のある場合もありますが、「逆は必ずしも真ならず」の法則通りであって、政府意見に対立.反対運動すれば全て人権擁護になるとは限りません。
NGOが国連等で行なっている日本社会批判が本当に人権を守るためにやっているか?のチェックが必要です。
結果的に日本に不都合な(慰安婦騒動のようにありもしない?)事実を(外国勢力の影響下で)NGO の名で国連に広めていく反日国家の別働組織と区別がつかない印象を受ける人が多いでしょう。
この疑念を払拭するは、日本のNGOの資金源を明らかにする必要があります。
大口の資金を出している人や組織が本当の支持者であり本籍ですし、その支持者のために動くのが普通です。
どこが資金を出しているのか?・いわゆるマネーロンダリングの解明次第ですが、これができないと実態が不明です。
マイナンバー法案に反対し、成立後には普及に徹底反対する組織はこの問題が絡んでいる印象を感じられます。
資金問題はヒューマンライトナウが16年末頃に誇らしげにネット報道した日本の少女売買春国連調査官報告?の騒動時に関心を抱いて書きかけていましたが、間に色々挟まって連載が先送りになっています。
事務所経営している弁護士として経営の視点から見ると資金源の重要性に関心がいきます。
当時ネットで活動実績などをみると、NGO活動にほとんどの時間を費やしていて、しかもたまにやっているように見える?本業の弁護士活動ではあまりペイしない自己犠牲的訴訟中心の仕事ぶりのアッピールが出てきました。(綺麗ごとを書いているだけで実はぼろ儲けしているのかもしれませんが・・)
国連まで出かけて活動するには(1回行くだけならば大したコストではないでしょうが、そこまで自分を売り込むには)相応の活動経費がかかると思われるし、国内NGO関連事業でもあちこちへ行くイベント経費を誰が出しているのか?
設営作業参加者から徴収するとしても簡単にペイしそうもないようですから、(参加協力者自身交通費その他の負担があり日当ゼロの無償参加自体がきついでしょうから・お弁当くらい配給して欲しいとか?参加費を払うどころではないでしょう)どうやって事務所経費や集会・イベント費を賄っているの?という疑問から書きかけのままになっています。
資金源の公開についてはどうあるべきかNGOの資金源のシリーズで別に書く予定です。
翁長知事は(中国の応援で)日本から独立の道もあるのだ→「中国の属国になってもいいんだ」とは言いませんが、先住民論を国連で事実上公式発言したので上記の通り一歩踏み出したと取られています。
韓国パク大統領が自国を有利にするために中国にすり寄ったのと同様に、なりふり構わない・・浅はかさでは同様ですが・・同じ日本人でそこまでするか!というのが大方の印象でしょう。
もしかして「元々俺は日本人ではない・・先住民だ」というのであれば・・「愛国心はどうなっているのだ」という意見は議論がかみ合いません。
古来から「何があっても同じ日本人である」という1点で価値観を共有できましたが、外国の応援を背景にしているかどうか不明ですが?こういう人が出てくると・・難しくなってきました。
中国はこれに呼応して(というより中国共産党の長期的浸透作戦が実を結び翁長氏を擁立したという?噂があります)尖閣諸島だけではなく、沖縄諸島全体が中国の領土だという主張を始めているようです。
この数日の引用に限らず、このブログでの各種引用は、元の記事自体が本当にあるか不明・確認する能力が私にはないので、このようなネット報道があるという程度の信用でお読みください。
http://blog.goo.ne.jp/yomogiinu/e/71d61b213f725292c89eb9cc91aea090

沖縄は中国領だと世界的に主張する中国
2016-11-16 | 中国
中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報は16日、日本が「奄美・琉球」(鹿児島、沖縄)の世界自然遺産登録を目指していることに関連し「琉球諸島は日本固有の領土とは言えない」とする専門家の論文を掲載。中国ではここ数年、沖縄に関する日本の主権に疑問を投げ掛ける論調が出ており、自国領と主張する沖縄県・尖閣諸島に対する日本の領有権を崩すための世論工作とみられる。「奄美・琉球」の世界遺産登録に関しても、中国は尖閣まで対象地域が拡大しかねないと懸念している。」

各地で今後原発停止仮処分が通らなくなると、オナガ知事のような(「外国勢力になびいて良いのか?」と言わんばかりのそぶりをして?)主張をしたい誘惑が出てくる・「魚心あれば水心」で日本の混乱を狙う中国が暗躍を始めるのでしょうか?

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