皇室典範は憲法か?2(天皇観の根本変化の有無6)

46年2月13日以降の動きは以下引用紹介の通り、最後はGHQ案で押し切られる展開です。
ポツダム宣言受諾交渉で国体護持を条件に引き延ばしていた結果、原爆投下によって最後に無条件降伏になったのとおなじ・無駄な抵抗のパターンですが、GHQがこのままだと「天皇の身体の保障ができない」と先に教えてくれたので原爆投下やソ連参戦のような悲惨な結果にならずにすみました。
結果がわかっていても国内政治力学上、(国益よりも自己保身が先に立つ?・・ポツダム宣言受諾引き伸ばしの結果、ソ連参戦と原爆の惨禍に遇いました)このようなパフオーマンス・手順が必要だったのでしょうか?
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html国会図書館資料引用の続きです。

3-15 GHQ草案 1946年2月13日
民政局内で書き上げられた憲法草案は、2月10日夜、マッカーサーのもとに提出された。マッカーサーは、局内で対立のあった、基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する規定の削除を指示した上で、この草案を基本的に了承した。
その後、最終的な調整作業を経て、GHQ草案は12日に完成し、マッカーサーの承認を経て、翌13日、日本政府に提示されることになった。日本政府は、22日の閣議においてGHQ草案の事実上の受け入れを決定し、26日の閣議においてGHQ草案に沿った新しい憲法草案を起草することを決定した。なお、GHQ草案全文の仮訳が閣僚に配布されたのは、25日の臨時閣議の席であった。
3-17 「ジープ・ウェイ・レター」往復書簡
1946(昭和21)年2月15日、白洲次郎終戦連絡事務局参与は、松本烝治国務大臣の意を受けて、ホイットニー民政局長に宛て、GHQ草案が、松本等に大きな衝撃を与えたことを伝え、遠まわしに、「松本案」の再考を希望する旨の書簡を送った。白洲は、「松本案」とGHQ草案は、目的を同じくし、ただ、その目的に到達する道すじを異にするだけだとして、「松本案」は、日本の国状に即した道すじ(ジープ・ウェイ)であるのに対して、GHQ草案は、一挙にその目的を達しようとするものだとした。
この書簡に対して、ホイットニー局長から、翌16日、返書が寄せられ、同局長は、日本側が、白洲の書簡によってGHQの意向を打診し、「松本案」を固守しようとする態度に出ているとして厳しく反論し、国際世論の動向からも、GHQ草案を採ることの必要性を力説している。
3-18 松本国務相「憲法改正案説明補充」 1946年2月18日
1946(昭和21)年2月13日、外務大臣官邸においてGHQ草案を手交された後、松本烝治国務大臣は、ただちに幣原喜重郎首相に報告・協議を行った結果、再説明書を提出して、GHQの再考を促すこととなった。
再説明書は、「憲法改正案説明補充」という表題を付し、英訳され、2月18日、白洲次郎終戦連絡事務局参与によりGHQに送達された。
しかし、ホイットニー民政局長は、「松本案」については考慮の余地はなく、GHQ草案を受け入れ、その原則を盛り込んだ改正案を作成するかどうかを20日中に回答せよと述べた。
1946(昭和21)年2月19日の閣議で、初めてGHQとの交渉の経緯とGHQ草案の内容説明が行われた結果、21日、幣原喜重郎首相がマッカーサーを訪問し、GHQ側の最終的な意思確認を行うこととなった。
翌22日午前の閣議で、首相から会見内容が報告され、協議の結果、GHQ草案を基本に、可能な限り日本側の意向を取り込んだものを起案することで一致し、同日午後に、松本烝治国務大臣が吉田茂外務大臣及び白洲次郎終戦連絡事務局参与とともにGHQに行き、GHQ草案のうち、GHQが日本側に対し変更してはならないとする部分の範囲について問いただすこととなった。
「会見記」は、22日午後の会見内容について松本自身が作成したメモである。また、ハッシー文書中の資料は、この会見についてのGHQ側の記録である。
松本等は、GHQ草案は一体をなすものであり、字句の変更等は可能だが、その基本原則についての変更を認めないとのGHQの返事を得た。
松本は、首相官邸に戻り、首相に報告するとともに、GHQ草案に従って日本案の作成に着手した。
3-20 日本国憲法「3月2日案」の起草と提出
1946(昭和21)年2月26日の閣議で、GHQ草案に基づいて日本政府側の案を起草し、3月11日を期限としてGHQに提出することが決定された。松本烝治国務大臣は、佐藤達夫法制局第一部長を助手に指名し、入江俊郎法制局次長にも参画を求めるとともに、自ら第1章(天皇)、第2章(戦争ノ廃止)、第4章(国会)、第5章(内閣)の「モデル案」を執筆した。
以下略
3-21 GHQとの交渉と「3月5日案」の作成
1946(昭和21)年3月4日午前10時、松本烝治国務大臣は、ホイットニーに対し、日本案(3月2日案)を提出した。GHQは、日本側の係官と手分けして、直ちに、日本案及び説明書の英訳を開始した。英訳が進むにつれて、GHQ側は、GHQ草案と日本案の相違点に気づき、松本とケーディスとの間で激しい口論となった。
松本は、午後になって、経済閣僚懇談会への出席を理由に、GHQを退出した。
日本案の英訳作業が一段落した夕刻、GHQは、引き続いて、確定案を作成する方針を示し、午後8時半頃から、佐藤達夫法制局第一部長ら日本側と、徹夜の逐条審議が開始された。審議済みの案文は、次々に総理官邸に届けられ、5日の閣議に付議された。同日午後4時頃、司令部での作業はすべて終了し、3月5日案が確定した。
閣議は、この案に従うことに決し、午後5時頃、幣原首相と松本国務大臣が参内して奏上した。
「3月4・5両日司令部ニ於ケル顛末」は、4日から5日にかけてのGHQにおける協議の顛末を佐藤が克明に記録したものである。上から二番目の資料は、総理官邸に逐次届けられた審議済みの案文を取りまとめたもので、閣議で配布された資料の原稿となったものである。

上記についてはそれぞれ当時の担当者のメモその他の資料原文が出ていますので関心のある方は資料を直接お読みください。
上記の通り、日本政府は白州次郎を立てて抵抗を試みたが一蹴されてGHQ案通りに日本語の法律用語に書き換えて完成したのが現憲法です。
現憲法と、2月13日のGHQ草案を読み比べれば、9条関係で芦田修正などが入りますが天皇関連骨子はほぼ同旨であることがわかります。

天皇観は根本変化したか?5(GHQ草案)

以下新憲法制定に至るGHQとのやりとりとその前の基本方針に関する国会図書館の記録からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/064shoshi.html

資料と解説・第3章 GHQ草案と日本政府の対応
3-3 マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して) 1946年1月25日
1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、1946年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。」

民間憲法改正案要綱に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%B3%95%E8%8D%89%E6%A1%88%E8%A6%81%E7%B6%B11946年2月3日、によれば、

46年2月3日のマッカーサー3原則(「マッカーサー・ノート」)には、「天皇は国家の元首の地位にある」”Emperor is at the head of the state.” と書かれる。

とあります。
上記の通り、GHQは天皇の戦争責任を一切出さなかったし、GHQの憲法草案も天皇制を基礎にしたものでした。
天皇の権威・国民の尊崇を利用する戦略は、とりもなおさず天皇を尊崇する国民意思尊重ということでしょう。
以下交渉経過は国会図書館資料からです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

2 日本側の検討
憲法問題調査委員会(松本委員会)は、松本烝治の「憲法改正四原則」に示されるように、当初から、天皇が統治権を総覧するという明治憲法の基本原則を変更する意思はなかった。ただし、松本委員会の中にも天皇制を廃止し、米国型の大統領制を採用すべきだとする大胆な意見もあった(野村淳治「憲法改正に関する意見書」)。しかし、それは、委員会審議には影響を与えず、委員会が作成した大幅改正と小改正の2案は、いずれも天皇の地位に根本的な変更を加える内容とはならなかった(「憲法改正要綱(甲案)」、「憲法改正案」(乙案))。

乙案とは1月6日に紹介した宮沢案でしょう。
日本政府は国務大臣が提出した政府案に対する回答をもらえると思って、2月13日にホイットニーと会談したところ全く違うGHQ案をもらってタマゲタところから始まります。
原文は2ページ目しかコピペしませんが、3ページ目には、重大すぎて即答できないと回答して会談を終えたとあります。
以下は松本国務大臣がホイットニーとの会談時のメモの一部です。
このコラムではコピーではっきり読めませんが、国会図書館の上記にアクセスすればはっきり読めますし1ページ目も3ページ目も読めます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html

3-16 GHQ草案手交時の記録
これらの資料は、1946(昭和21)年2月13日、GHQ草案が日本政府側に示された際の会談に関するGHQ側と日本側(松本)の記録である。会談の内容について、双方の記録に大きな違いはないが、GHQ側の記録からは、「松本案」に対する返答を期待していた日本政府側が、「松本案」の拒否、GHQ草案の提示という予想外の事態に直面し、衝撃を受けている様子をうかがい知ることができる。

料名 二月十三日會見記略
年月日 [1946年2月13日]
資料番号
所蔵 東京大学法学部法制史資料室松本文書

私の読み違いかもしれませんが、前ページ末の文章は「マッカーサー元帥はかねてより、天皇の保持について深甚の考慮を巡らしつつあり」としてこの1行目の「たるが、日本政府がこの提案のごとき」につながるので、「この提案」とは日本政府案に対して司令部が当日手交した(1ページ目に「先方提案数部交付し・・」と書いています)司令部草案をいうものと解すれば、文意が通ります。
5行目の「吾人はこの提案のごとき改正案の提示を命ずるものに非ず」も6行目の「この提案」も同じGHQ草案のことでで「原則さえ守ってくれれば・・そのとおりでなくともよい」という「押し付け批判」を意識した主張も全部理解可能です。
この「根本形態に基づいた改正案を速やかに提示」されたいと要求をされたのです。
2行目終わりの「これなくして」(GHQ案によらずして政府提出案のごとき改正案では)「天皇の身体(パーソンオブジエンペラー)の保障をなすこと能わず」とまで言われたとメモに残っています。
GHQは「民意による」制度という点で背後の連合国に対する天皇の生命保障・天皇制存続の保障説得を成功させようとしていたように演出していたのです・・この一点がないと「天皇の身体を保障できない」意味を私はこのように解釈しています・・。
本当に極東委員会が天皇制廃止を要求していたと言うのではなく脅しに使ったのでしょうか?
のちに極東委員会との関連で紹介しますが、GHQに対する連合国お目付役の極東委員会が設置され実動開始前にまとめてしまおうとGHQは極東委員会を蚊帳の外にしてこの交渉を進め、外部に出た時にはすでにこの案を歓迎する日本国内世論の盛り上がりを利用して、極東委員会の介入を阻止してしまいました  ・・善意悪意を別として鮮やかな手際です。
以下紹介しますが、これが徹夜交渉までして急がせた理由だと私は想像しています。

天皇観が根本変化したか2

GHQ憲法草案(・・ここでは天皇制限定)が、そのまま憲法になりえたのは強制によるのではなく、日本人の抱く歴史的・実際的天皇観にもあっていたので国民支持を受けたことによると思われます。
美濃部達吉一人がGHQ案に反対したのは、もともと天皇機関説批判論は学問でない・・実態に合わない妄想でしかないから、君側の奸である軍部狂信主義者の妄想さえとり除けばいいというのが彼の信念だったからでしょう。
この点では、戦後の憲法改正作業に関して宮沢教授が当初述べていた部分改正で良いという意見にも繋がっています。
(この辺はどこかの学説を読んでの意見ではなく私個人の思いつき意見です)
憲法改正に対する美濃部説や宮沢説を理解するには、両者がどの部分をどのように改正すれば良いとする案であったかを見ないと正確には言えませんが、そこまで読み見込んでいませんし引用して比較しているとくどくなり過ぎます。
正確に知りたい方は、以下に引用している国会図書館の資料に入ってご自分で読みくらべてください。
以下に紹介する通り憲法改正の流れでは、結果的にGHQに押し切られて言いなりになるしかなかったのは事実ですから、この外形だけを見れば、外国の強制によって憲法が制定された上に、明治憲法では前文と第一条に

「朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ・・・国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ・・」
「第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」

とあったのが、日本国憲法では

「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

その他内閣の輔弼が助言承認となり、国会が天皇の協賛機関ではなくなるなど関連改正があった以上は、国体変更になったという解釈が確かに可能です。
宮沢教授その他当時憲法改正に関与したエリート学者の多くは、自己の主張が46年2月13日にGHQに真っ向から否定されて格好がつかなくなったことから、自己の理論は正しかったがGHQの強制要素・・8月革命説を主張したい心理もわかります。
しかし、昨日紹介した通り連合国が日本降伏前から、天皇制廃止を考えていなかったし、実際の占領政策でもマッカーサー自身が天皇制利用の占領政策を基本としていました。
その方が占領支配が円滑に行くからです・・・このような国民の天皇に対する尊崇精神利用は、現実政治としてはいつの世でもどこの世界(植民地支配でも土着権力を利用する方法)でもありうることです。
蘇我氏であれ摂関政治〜清盛であれ、尊氏〜信長であれ家康であれ、明治維新の薩長土肥政権であれ、武力背景に朝廷を圧迫しながらも天皇の権威利用価値があったので適当に妥協して利用していた点は同じです。
だからと言ってその都度天皇制の根本が変わったという歴史家はいないでしょう。
美濃部説とGHQ草案の違いは、形式上でも天皇大権が憲法上にあると、これを悪用する組織が台頭するのを防げない・錦旗を握った方が何でも出来てしまえるリスクをどう見るかにあったのではないでしょうか?
軍部がまた政権を握るリスクを連合国が非常に恐れていた実態があります。
実際にこれを防げずに美濃部氏は貴族院議員を辞めざるを得なくなりました・・を危惧していたこと・・権力(錦旗)を握れるのは民選議員の多数派=投票による確かな民意だけに限定するという方法の違いでしょう。
アメリカ型民主主義を「投票箱民主主義」と揶揄されますが、民意を知る方法を神威によるとすれば権力を握った者の恣意的操作(政敵・道鏡失脚の宇佐八幡のご神託など史上いくらでもその例があります。)に陥りやすい欠点があります。
今ではメデイアの世論調査次第・・自説に誘導すべくニュースの取捨選択で民意を操作しようとするリスクが問題になり始めました。
国内政敵どころか、仮想敵国が相手国の世論操作に絡むようになってきたのでその危険性が表面化してきたのです。
トランプ氏登場以来マスメデイア操作による民意創出が問題になっていますし、私自身も昨秋の総選挙直前ころに行われていた大手メデイア世論調査結果と、実際の選挙結果との乖離(ニコ動だけがほぼ一致)について疑問を呈してきました。
ロシア等のメデイア介入があったか、フェイクで操作されたかどうかは別として投票結果は、少なくともその時点での民意であることは間違いのない事実でしょう。
日本側政府案を作った学者は私など足元にも及ばない秀才揃いでしょうが、摂関政治の頃から変わらぬ天皇制の本質・象徴であり民の尊崇の対象であり続けてきた本質をみずに、天皇の名で(天皇大権や統帥権を利用して)統治する形式を重く見すぎていたようです。
・・だから、そこに手をつけないことが国体を守ることになる考え、姑息な改正案しか発案できなかったのに対して、連合国やGHQは第三者・岡目八目の優位性で古代から続く天皇制の実態・本質をよく見ていた違いではないでしょうか。
実は権力に気兼ねのない民間の憲法改正案では、45年12月には現憲法同様の民意による象徴天皇制に基づく改正案が発表されていたようですから、民間(といっても相応の学者ですから、要は政府に重く用いられていない・束縛のないフリー?学者)・国民の方が実態に即していたことになり・エリート学者の完敗です。
エリートもわかっていたが立場上そこまで言えなかったとすれば・・天皇を利用する「君側の奸」勢力に気を使う御用学者の方がおかしいのです。
宮澤教授の時の権力に合わせた変節ぶりを昨日紹介したばかりです。
次の芦部教授も結局は世界権力者であるアメリカの判例動向(二重の基準)をいち早く取り入れて、憲法学会の1人者になったように見えます。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.htmlの資料からです。

2-16 憲法研究会「憲法草案要綱」 1945年12月26日
憲法研究会は、1945(昭和20)年10月29日、日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。
12月26日に「憲法草案要綱」として、同会から内閣へ届け、記者団に発表した。また、GHQには英語の話せる杉森が持参した。同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては、留保が付されることはなく、具体的な社会権、生存権が規定されている。
なお、この要綱には、GHQが強い関心を示し、通訳・翻訳部(ATIS)がこれを翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な検討を加えた文書が提出されている。また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。

憲法研究会のメンバーや憲法草案要綱を明日紹介します。

ギリシャ彫刻と日本彫刻(高村光太郎の苦しみ)

日本の絵画の場合、美しい女性も皆着物を着ている・上村松園の描く女性も浮世絵の女性も源氏物語絵巻の女性、飛鳥の高松塚古墳の女性像も当時の理想的装いで描かれている・・時代・社会性を持っています。
高僧や偉人の絵画や彫刻の場合なおさらです。
ミケランジェロのダビデの像(1504年公開)に先立つ運慶の仁王様(1200年代)はほぼ裸ですが、仁王様を金剛力士像というように、ダビデ像よりも社会的宗教的役割がはっきりしています。
古代ギリシャでは時代を超越した理想の人間像を求めたと言えばそれまですが、なぜ古代ギリシャ(ミロのヴィーナスは最後のヘレニズム様式と言われているらしいですが)でそこまで突き抜けられたのかが不思議です。
日本でも真似して?(これはすごいことだと発奮したのでしょうか?)明治以降裸体彫刻や洋画では裸体画が行われていますが、今ひとつ国民意識に定着しない様子です。
今も国民・民族意識は「綺麗に装うものであって・・」その競争に明け暮れています・・頭でギリシャ彫刻を理解したくらいで変わりません。
この結果、明治維新以降彫刻家にとっては、大変な時代が来ています。
それまでのように仏師は仏像を彫っていれば良かった時代ではなくなったので、高村光太郎は、江戸時代からの仏師である父光雲に反抗して見たのでしょうが、高村光太郎展を見た記憶では、結局は十和田湖畔に智恵子像を完成した(大したものですが・・)程度で、その他は(千葉市美術館の企画展では良いものが出品されなかっただけか?)手首や小鳥の彫刻などに逃げていた(素人の乱暴な感想ですが・・)印象を受けました。
以下は光太郎の詩集「道程」です。

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る  ああ、自然よ父よ僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ 常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため  この遠い道程のため

高村光太郎の苦悩は、日本彫刻界の苦悩でもあったでしょう。
あらたな彫刻へ踏み出すのは大変だったと思いますし、素人が口幅ったいことを言っては失礼ですが、今の日本彫刻界もまだまだどうして良いか分からない状態でしょうか。
明治に入って西洋列強に期していくためには、文化でも負けられない・・従来の花鳥風月では芸術と言えないと言う運動が起こり、絵画界でも同じく「洋画」に取り組んだもののすぐにフェノロサと岡倉天心のおかげで「日本画」と言うジャンルが生まれたので、画家の多くが日本画に回帰できて精神世界では大いに助かっているように見えます。
http://artscape.jp/artword/index.php/によると以下の通りです。

日本美術院は、1898年、東京美術学校を辞職した岡倉天心(覚三)を中心に、同じく美校を辞職した橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山ら26名によって、在野の美術団体として結成された。
後に経営難となって、1906年に茨城県の五浦に日本画の研究所を移し、対外的な活動をほぼ休止した。天心はアメリカと行き来しながら、この地で海を臨む場所に六角堂を建て、大観、春草らは貧しさに耐えながら研鑽したといわれる。13年の天心の死去を機に、翌14年に大観、観山が中心となって再興日本美術院を結成した。再興院展では、洋画部(20年まで)、彫刻部(61年まで)も設けられた。

この産みの苦しみが東博で今展覧されている横山大観の「無我」でしょうし、同時に展示されていた洋画の青木繁の日本武尊でしょう。
再興美術院では、日本画部門では大観や観山・春草などの英才が多数が出たのでいち早く国民の支持を受けましたが、その他部門ではイマイチで現在に至っています。
大観の今に至る影響力の大きさは明治維新当時の日本を覆った・漱石の神経衰弱に象徴される明治日本の精神界の葛藤を救った功績です。
古代に仏教導入・律令制導入後、和風文化・政治風土との軋轢に苦しんだ時代が終わり、平安時代には空海によって和風文化に適した日本的仏教が創始され、大陸文化.政治制度を吸収した上での各種和風文化が花開いて源氏物語や大和絵が起こり彫刻界では鎌倉時代に運慶のような傑物が出たように、彫刻界でも、欧米の精神を取り込んだ和風の彫刻様式を確立してほしいものです。
ただし我が国では、彫刻はもともと塑像や木造が主流であって金属や石を削る彫刻に馴染みがない・・せいぜい路傍のお地蔵様や狛犬→忠犬ハチ公が対象になる程度です。
絵画のように自宅に飾る習慣がない(書院造が発達したのちも・・・・生活空間の置物は彫刻でなく陶磁器でした(この陶磁器も今風の生活にそぐわなくなくなっています)ことが、大衆(市場での買い手が育たない)支持を得難い大きな違いでしょうか?
お寺の代わりに大きなビルが増えても、・・ホテルやデパート等正面には生花系の華やかなオブジェが食い込んでいますが、彫刻には目が行かない様子です。
この数十年の流れを見ると公園や広場のオブジェとしての意味しか(実用性?が)ないように思うのですが?
北村西望や平櫛田中の作品(例えば鏡獅子は古典題材・「意味」に戻って傑作を残しましたが、国立劇場にあるのでしょっちゅう見られます)は大好きですが、やはり意味があってこそ良いように見えるし家庭向きではありませんし一般ビル向きでもありません。
私の好みから一般化できるとはおもえませんが、私の場合意味(由緒来歴)を重視する傾向があるように思われます。
歴史建造物や歌枕を多くの人が愛するのは、そこに「意味」を見るからです。
各地の美術館で企画展が大流行しているのもその一環ですが、もしも日本人の多くが意味を求めているとしたら、意味不明の裸像を見てもピントこないし、需要に結びつかないでしょう。
高尚な芸術であっても評論家が褒めれてくれたり、美術館お買い上げだけでいいのではなく、市場の支持がないと健全な発達ができません。
裸体彫刻の時代は西欧や地中海世界でもギリシャ〜ローマで終わって以降は「意味の時代」に入っているのであって、ルネッサンス運動で一時的に(過去の遺物が)息を吹き返しただけ・「過去は過去」・だったのかもしれません。
せっかくルーブルで名品多数を鑑賞したのですが、記憶に残るのは、花より団子・・食べ物のことです。
いつも食べ物の思い出ですが、(オルセー美術館ではレストランがあって久しぶりにまともな食事ができて感激した記憶ですが・・・)ルーブルの思い出は、食事環境が(パンくらいしかなく)粗末だったことです。
隣に居合わせた若くてごつい人の太い腕と肩口しか見えなかったので、男の人と思って気楽にちょっと話しかけて見ると、ドイツから来た女性と知って驚いた記憶です。
ドイツ人にとっては気にならない食事内容でしょうが・・・。
食事といえば、ロンドンでも食事はひどいものでしたが、若かったこともあり気になりませんでした。
逆に大英博物館では美味しいオレンジジュースを毎日飲めたのが良い思い出に残っています。
まずい固いパンが紅茶に合うのも知りました。
パリでは高級レストランを探す能力もなく、街中のレストラン(飛び入り)で半端にいろんな食事をしたので、却って不味かった記憶・レベルの低さばかりが記憶に残っている感じです。
しかし大衆向けレストランのレベルが低いのでは、文化の底が知れています。
貧窮の極みである北朝鮮でさえも、最高級レストランでは日本同様のレベルを維持できているのでしょう。
文化度とは大衆レベル・表通りだけではなく、裏道の整備レベルこそ民度の基礎です。
日本は万葉の昔から大衆が文化を支えてきた強みがあります。
大衆を家畜のように支配する律令制が上滑りで終わって、これを利用した我が国古来の民族一体関係を生かした政治が鎌倉以来始まったように、洋風そのままの彫刻〜洋画には日本の心・大衆の支持がないので無理があります。
この数年近代立憲主義の主張が盛んですが、明治以降導入した欧米の皮相な思想は150年経過で次第に日本文化思想に融合(和魂洋才の完成)されてきた結果に対する焦りでしょうか?

立憲主義5と憲法改正2

昨日紹介した通り日本国憲法は超特急審議で制定された憲法ですが、それだけに一般の法とは違って、修飾語がやたらに多いものになっています。

日本国憲法
昭和21年11月3日公布
昭和22年5月3日施行
前文
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

人権は天賦不可譲のものである・・憲法以前のものであるかのような言い方が一般的ですが、そんなことは憲法に書いていません。
11条には、「・・この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」というものであり憲法によって「与えられた」ものです。
そもそも憲法によって保証されてこそ意味があるのであって、日本憲法の及ばない場所ではこの意味を持ちません。
よその国に行って(たとえば中国などで)表現の自由その他すべての基本的人権が日本憲法で保証されていると言っても通じないことは誰にでもわかる論理です。
前文には、「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」と書いていますが、この憲法に反する憲法を排除するとはどういう意味でしょうか?
未来永劫、これに反する憲法禁止→改正してはならないという意味でしょうか?
しかし、上記の通り憲法改正手続きが定められているのです。
およそありとらゆる決まりごとは時代の変化によって変わって行くものですが、改正手続き条項がないと硬直化してしまい革命的動乱を待たないと変えられないないのでは困るので、柔軟対応できるように改正規定を設けておく方が柔軟対応できて合理的というだけのことです。
直近の例では、皇室典範の改正論議がありました。
明治維新〜日本国憲法制定当時は、日本の歴史上・院政の弊害に鑑み、生前退位を認めない・・薨去直前の短期間の疾病中には臨時的な摂政制度で間に合う前提で天皇制度ができていました。
多くの人の寿命が90代に伸びてくると、重病にかかっていない・健康?であるが、高齢のために多様な公務に耐えられないような中間的状態が長期間予想される時代がくることは想定外であったからですが、もしも明治の初めまたは日本国憲法制定時に今後永久的に生前退位を認めないという禁止規定になっていたらどうなっていたかです。
このようにその時代に最善と思っていたことでも、想定外の事態で基本方針を変えなければならないことが起きてくるものです。
自分の制定した法の中にこれが最善であり今後「法(原則)の改正を許さない」と書き込むこと自体、「神を恐れぬ」傲慢な考え方であり、古来からの柔軟性を尊ぶ日本民族の発想と大いに違っています。
GHQは自己の支配(再軍備禁止)を永続化するために特別決議の他に国民投票という二重の縛りをかけました。
そもそも、よって立つ日本国憲法制定自体に国民投票を経ていないし、しかもわずかな期間の形式審議で制定しているのに、その改正の場合だけ3分の2の特別決議でしかも国民投票が必要というのも法理論上均衡を失しています。
ところで明治憲法にも3分の2条項がありますが、これは、憲法改正の発議権が国民代表の議会になく「勅命による発議」を前提にしていて、国民代表の議会と政府が対立関係にあることを前提にした制度で、発議権が国民代表になく君主・政府にある側面で根本から違っています。

大日本帝国憲法 明治二十二年二月十一日
第73条
将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノニ以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス

憲法は政府・君主に対する縛り・国民による監視抑制のためにあるという近代思想・まさに近代立憲思想の産物で明治憲法ができていて、「せっかく革命的騒動を経て君主に約束させた憲法をあんちょこに変えられては困る」という西欧の革命政権的立場を色濃く反映しています。
これが「勅命」で発議しても国会の3分の2以上の特別多数の同意がいる仕組み(単純多数だと切り崩されやすいので)の基礎思想です。
ところが日本の場合、実は国民の命を張った抵抗で明治維新がなったものでもなければ、憲法が生まれたものでもありません。
明治憲法の性質は欽定憲法と称される所以です。
国民の要求に応じたというよりは、明治になって次々といろんな分野の法制度を作っていくようになると、その交通整理・・法と法の優劣関係を定める上位規範・基本法が必要になるのは当然のことであって、これに加えて国際交渉上「この程度の約束をして置かないと仕方がないだろう」という対外妥協の必要性(刑罰等の法令・権利義務の整備がないと、悲願の治外法権の撤廃が見込めません→不平等条約改正など)があって生まれたものです。
中国がWTO加盟にあたって国内経済制度上の改正約束を対外的にしたのと同じ流れでしょう。

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