憲法と国家6(南原繁氏の超国家・普遍思想3)

教育勅語廃止に関する昨日紹介した記事によれば、南原繁氏の言う世界市民への参加資格・普遍的価値→「古今東西に通用するもの」「日本国憲法の人類普遍の原理に則り・」と言うことで、すべて普遍原理=国家や民族を超越した上位の価値観を基本とする前提です。
民族や地域ごとの価値観・意識をローカルなものとして否定し、上位のグローバル価値観(南原氏にとってはプロテスタント的価値観)を子供の頃から脳に植え付けていく戦略がそのまま出ています。
ドイツ宗教戦争のコラムで紹介しましたが、西洋では戦争に勝って地域領主さえカトリックに変えれば、その地域住民はカトリックになったり、新教になったりする仕組みです。
このやり方でアメリカの支配地たとえばフィリッピンではキリスト教徒になっていますし、本来儒教国家の韓国でも戦後キリスト教徒が急激に増えた原因です。
このやり方でアメリカの支配地たとえばフィリッピンではキリスト教徒になっていますし、本来儒教国家(私の個人的印象です)の韓国でもキリスト教徒が急激に増えた原因です。
以下は、「韓国のキリスト教徒」で見た本日現在のウイキペデイアの記事からです。

韓国統計庁が2005年発表したところによると韓国の宗教人口は総人口の53.1%を占め、非宗教人口は46.9%である。すなわち総人口のうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%となっている。プロテスタントとカトリックを合わせたキリスト教全体では29.2%となっていて仏教より信者の数が多い。キリスト教信者数は約1376万人となり、韓国は東アジアおよび東南アジアでの信者絶対数では中華人民共和国、フィリピン、インド、インドネシアに次ぎ5位である。国民全体に占めるキリスト教信者の割合ではフィリピンと東ティモールに次ぐ東アジアおよび東南アジア第3のキリスト教国である・・・
海外に対する宣教活動が活発なことも韓国キリスト教の特徴で、2000年にはプロテスタントだけでも10,646人の宣教師が156カ国で活動していた
福音派は極めて積極的な布教活動をする為、近年では世界各地(特にイスラム教諸国)においてトラブルに巻込まれている。アフガニスタンにおける布教活動ではモスクの前でキリスト教の賛美歌を歌うなど、過激な布教活動が見られたと報道されている。2007年ターリバーン韓国人拉致事件のような事件が発生した背景には、こういった刺激的かつ攻撃的な布教活動があったのではないかとの指摘もある。
韓国国内では1970年代から80年代の民主化運動の原動力となる一方、同じ時期には仏教寺院や仏像に対する破壊活動を行う牧師や信徒が出るなど、他宗教への攻撃も積極的に行った。

福音協会といえば南原氏の無教会的福音主義に似た名称ですが・・米軍政の韓国キリスト教に対する影響についてのウイキペデイアの記述は以下の通りです。

司令官のダグラス・マッカーサーは太平洋米国陸軍最高司令部布告第1号で「占領目的が日本の降伏文書の条項の移行と朝鮮人の人権及び宗教上の権利を保証する事にある」と布告し、韓国人に対して信教の自由を認めた。また、連合軍法令第11号により「神社法」を廃止して皇民化政策の残滓となる神道を排斥し、また、朝鮮伝統の巫俗信仰等の宗教に対しても規制政策を行った。これに対して、キリスト教は、ソウル放送で福音放送を流すことや刑務所に牧師を置くことが認められるなど優遇された。この厚遇について、柳東植は「キリスト教は仏教と違って日本帝国主義の強圧の対象であり、それゆえ日本帝国主義からの解放はすなわちキリスト教の解放と同じように感じていた。そして、解放を招いたのは西欧勢力であり、彼らの背後にはキリスト教が控えていた。さらに、指導層が直接キリスト教を庇護していた」と説明している

日本は文字通り民草の力が強いので戦国大名が何宗であろうと庶民に関係のない社会構造ですので、アメリカはキリスト教の浸透作戦に慎重でさしあたり「信教の自由」を謳って確固たる日本古来から信仰心の解体から入っていった・目立たないように日本人シンパを利用したということでしょう。
教育勅語排除に関するhttp://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-60de.html引用の続きです。

社会学者の清水幾太郎は、「戦後の教育について」と題した論文の中で、勅語は二つの部分からなっている。
一つが最初と最後で修飾的・形式的な部分で、もう一つが道徳的行為規則のシステムを記述した中間の部分である。
「額縁」と「絵」の関係で、「両親に対する孝行、兄弟姉妹の愛、夫婦の調和、忠実な友情、節約、博愛、学問や技術のための努力、知的練磨、道徳的完成、公益や産業のための献身、憲法及び法律の遵守、勇敢。これらの徳目は、『之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス』とあります通り、すべての時代のすべての社会に通用する一般的なルールなのです。私たちがどんな徳目を挙げても、恐らく、それは既に教育勅語に含まれているでしょう」
(1974)と述べ、戦後日本は額縁といっしょに絵そのものまで全面否定したのだから、いかなる道徳も成り立ちようがないとあきれている。
たしかに、人格の完成を教育の目的に掲げながらその道筋を示さず、一方教育勅語に示していた徳目を捨てたのだから、教育が崩壊していくのは当然であった。

上記最後の数行は南原氏が肝腎の価値そのものを西洋価値観(プロテスタント)に丸投げしていたのではないかという18日から紹介している西田氏の以下の批判に通じます。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no97_05.pdf

研究ノート〉立命館大学人文科学研究所紀要(97号)

宗教ナショナリズムと南原繁
西 田 彰 一
一体化の代償
南原は、国民共同体にかえて内部としての象徴天皇制を民族共同体としての日本の本質とみなすことで、外部としての西洋世界と世界観を統一することができるようになった。
・・・・・日本の普遍史への参与が説かれる当時物議を醸した両面講和論を説いたのも、 「国際連合の本来の理想にかなったもの」という、 西洋の普遍的価値への参与という前提が存在したからである。
南原にとって国家の問題は「本来のヨーロッパ精神から離反の方向を指し示して」いたナチスドイツが崩壊したことや日本の超国家主義論が失敗したことを受けて、 「わが国にはルネッサンスと同時に宗教改革が必至である」と単にヨーロッパ文化に追いつくことだけが目的とされ理想として西洋が説かれ、日本はただ改変される主体となるばかりであった5。
南原が東大総長として活躍した戦後の議論からは、現実問題と対峙することによって戦前期には維持していた緊張感が失われてしまったのである。
戦後の南原の政治哲学の問題点とは、国民共同体を維持するために、理想として目指されるべき秩序のあり方が、常に国民共同体や民族共同体の「外部」から移入されなければならないにも拘らず、共同体の「外部」=絶対的理想の性質が問われることなく、つねに共同体の秩序の枠組みの維持と、共同体の理想実現に向けた永続的運動のみが目的とされたことに問題があると言えるのではないだろうか。

南原氏の論文紹介は、民族と国民共同体に関する南原氏の変遷批判など哲学用語が多く素人には分かりにくいですが、教育勅語排除に関する清水幾太郎氏の上記意見をここに当てはめると何となく明らかになります。
「曲学阿世の徒」の名指し非難を受けたことで有名なサンフランシスコ講和条約・・全面講和か片面講和の論争では、南原氏が全面講和論をとった経緯も出ていますが、戦後現実国家と理想社会の峻別をしなくなったという上記研究の一断面かもしれません。

憲法と国家5(南原繁氏の超国家主義・普遍価値2)

南原氏の言う普遍的精神とは18日に紹介した通り、英米のプロテスタント的理想を言うのですから、(神道指令→日本民族の固有価値を否定して)キリスト教価値観を広めたい占領軍にとって願ってもない人材がいたことになります。
理想社会をプロテスタントの宗教的理想・しかもその模範は英米両国としていた点で、戦後ニッポンをキリスト教重視の米国思想に染め替えるべき最適の人材として気に入られた面があるでしょう。
ちなみに現在のアメリカ国民のプロテスタント比率は以下の通りです。 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13294889582009/8/1723:36:51

http://www.census.gov/compendia/statab/tables/09s0074.pdf に情報があります。
これによれば、
カトリック教会 : 23.9%
プロテスタント諸派 : 51.3%
となっています。

GHQが東大総長人事を強制したと言うよりは、米国の気に入りそうな人事案を根回しする人がいてのことですが・・。
南原氏はもともと内務省の要注意・危険人物であった・・「国家と宗教」だったかが、なぜ発禁処分ならなかったかについて諸説あるようですが・・。
南原氏の政治哲学とは素人的理解で言えば「ローカルな国家原理の上位に普遍価値・超越する理想社会がある・・それがプロテスタント思想である」というのですから、戦国時代末期にローマンカトリックによる日本支配の匂いを嗅ぎ取って秀吉が危険思想としてキリシタン禁制に踏み切った原理そのもの・・カトリックからプロテスタントに変わっただけです。
にも関わらず、これがそのままお咎めなしで敗戦の年3月に何故かいきなり法学部長に就任し、その年の12月に総長就任ですから、なんらかの政治の動き・日本側で米英の気に入りそうな人材抜擢を図ってのことでしょう。
矢内原氏や大内兵衛などマルクス経済学者の追放など東大内の国家主義者による学内追放が続いていたにも関わらず・そもそも政治哲学研究でいわゆる傍流系学者がどういう根拠でいきなり法学部長になれたか?も疑問です。
参考までに東大歴代法学部長の表がありましたので、以下に敗戦前後をコピペしておきます。
それぞれ具体的な法律専門家が学部長についていますし、最近の数十年で見ても同じです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

第12代 仁井田益太郎 1919年7月 – 1921年6月 帝国大学 民法・民事訴訟法
第13代 山田三良 1921年6月 – 1924年6月 帝国大学 国際私法
第14代 美濃部達吉 1924年6月 – 1927年6月 東京帝国大学 憲法・行政法
第15代 中田薫 1927年6月 – 1930年9月 東京帝国大学 日本法制史
第16代 穂積重遠 1930年9月 – 1933年9月 東京帝国大学 民法
第17代 末弘厳太郎 1933年9月 – 1936年4月 東京帝国大学 民法・労働法・法社会学 第18代 穂積重遠 1936年4月 – 1937年4月 東京帝国大学 民法
第19代 田中耕太郎 1937年4月 – 1939年2月 東京帝国大学 商法・法理学
第20代 穂積重遠 1939年2月 – 1942年3月 東京帝国大学 民法
第21代 末弘厳太郎 1942年3月 – 1945年3月 東京帝国大学 民法・労働法・法社会学
第22代 南原繁 1945年3月 – 1945年12月 東京帝国大学 政治学・政治史
第23代 我妻栄 1945年12月 – 1948年12月 東京帝国大学 民法
第24代 横田喜三郎 1948年12月 – 1951年3月 東京帝国大学 国際法
第25代 宮沢俊義 1951年4月 – 1953年3月 東京帝国大学 憲法

私が思うには、もともと日米戦えば勝ち目がないことは国民から上層部までみんな十分知っていたからこそ戦争回避に必死になっていたし、さらにミッドウエー海戦の大敗以降敗戦必至の状況が日々進んでいたので、政府上層部では敗戦処理用の日本側人材として(鬼畜米英と国内宣伝していながらも)内々米英に受けの良い思想家や実務家の抜擢が進んでいたように見えます。
政治表面では吉田茂などがすぐに表舞台に出て活躍できた所以です。
これが上記異例の抜擢人事だったのでしょう。
南原氏は戦後東大の初代総長に就任し各種学会や思想界に大きな影響を与えただけでなく、戦後教育勅語廃止→教育改革に辣腕を振るい・以来現在の6・3・3・4制度の枠組みが今に続いている大きな影響を与えた人物です。
以下は、19日紹介した西田氏の論文の一部です。

「戦後、南原繁は東京大学の総長となり、旧教育基本法の制定にも関わるなど、 戦後改革において広範に活躍した45)。その活躍は土持ゲーリー法一の教育史での先行研究などで詳しく紹介されているように、広範にわたる。」

彼が主導した戦後教育改革では教育勅語を排除して(古今東西に通じる?)教育基本法に変えていくのですが、その前提として彼の国体・民族独自の価値観に関する以下のような意見が上記西田論文で紹介されています。
天皇の人間宣言に関する意見です。
・・西田氏の下記要約が正しいと思うので人間宣言に関する南原氏意見引用省略します・・

南原は昭和天皇の人間宣言を高く評価している。
なぜなら日本人が「民族宗教的束縛を脱し」て、「国民たると同時に世界市民として自らを形成し得る根拠を、他ならぬ詔書によって」得たからである。つまり、日本は外部にあった西洋世界に一体化できる内部を、象徴天皇制によって獲得したと主張するのだ。

わたし的理解では、固有の民族価値観の主張を廃棄することによって、世界市民・世界標準に参加できるようになったというように読めます。
南原氏の言う世界市民参加資格とは18日紹介した通りプロテスタント思想ですが、世界市民の一員であるためには、日本独自の価値観教育ではダメだから、教育勅語を書き換えようとなったのは当然の流れでしょう。
(ただし教育勅語の本旨を戦前右翼が拡大解釈していた牽強付会の論?を前提にすればそうなるに過ぎないことは、19日に紹介した丸山正男の「超国家主義」に対する批判論文に詳しいし面白いのですが、引用するには長すぎるので関心のある方は上記で引用していない部分をお読みください)
教育勅語廃止に関する記事です。
http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-60de.html

1946年には、米国の教育使節団来日に協力する形で日本教育家委員会が発足し、南原繁東京帝国大学総長を委員長として教育改革案がまとめられるのだが、この改革案こそが戦後日本の指導者のもっていた教育に対する意識の集約されたものである。この改革案で第一にとりあげられたのが、教育勅語を新たに奏請しようという意見であった。
奏請の理由は、「従来の教育勅語は、天地の公道を示されたものとして決して謬りにはあらざるも、時勢の推移につれ国民今後の精神生活の指針たるに適せざるものあるにつき、更めて平和主義による新日本の建設の根幹となるべき国民教育の新方針並びに国民の精神生活の新方向を明示したもふ如き詔書をたまわり度きこと」とされていた。
1947年公布された教育基本法では、教育目的を示す第一条において、「人格の完成」を掲げて、古今東西に通用するものにしたいという姿勢を示している。【直後に出された文部省訓令では、『個人の価値と尊厳との認識に基づき、人間の具えるあらゆる能力をできる限り、しかも調和的に発展せしめることである。このことは、決して国家及び社会への義務と責任を軽視するものではない』と、説明している。】
そして、1948年6月10日には、衆参両院で「教育勅語等排除に関する決議」がなされた。参議院の決議では、「日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した」と新しい教育理念を明示した。

 

憲法と国家(外国に支配されるための憲法?)2

戦後航空機製造技術者らが飛行機を作れなくなったので、新幹線技術に挑んで成功したことが知られていますが、これでも日本を「自由経済」主義社会の一員と言っていました。
日本で言われている自由とか人権尊重あるいは平和主義と言っても、アメリカの手の平の上にいる限りの自由であって、観音様の手のひらの端まで飛んで帰ってきた孫悟空みたいなものです。
アメリカの手の平から経済力ではみ出しそうになった日本は、プラザ合意以降アメリカの手先・中韓の攻撃に曝されるようになりいわゆる「失われた20年」を経て現在に至っています。
最近の日米関係好転の原因は、日本がアメリカによるジャパンパッシングに懲りて飽くまで「良き同盟国として)アメリカの手のひらから出ないことを明らかにし、他方中国がリーマンショック以降アメリカの主敵として躍り出た結果、攻撃相手が日本から中国に変わっただけのことです。
以下敗戦以降のアメリカによる日本の思想支配について素描します。
今になると常識化していますが、日本を対米戦に追い込んだアメリカのルーズベルト政権は容共主義者の塊・巣窟であったと言われていますが、これも反対の立場によればフェイクニュースに惑わされていることになるのかな?
ルーズベルト急死によりその政策をそのまま引き継いだ副大統領トルーマンは多分その体質をそのまま引き継いでいたと思われますが、本国では隠れ共産主義政権だったので堂々と共産主義浸透教政策をできなかったのですが、米ソ協調の戦後体制を作った直後は、日本占領統治も昨日紹介した連合軍・・主に米ソ共同統治の方向を公然実行できたことになります。
日本占領政策は共同関係である以上は、双方の思想教育を公平に行う体制になったのは結論的に見て当たり前です。
(この辺・以下は私の個人意見であり事実か否かの検証までしていませんが・・)
ただし連合軍の進駐とは言っても、米軍以外は連合軍の体裁を作るため代表を派遣していただけで米軍が実戦力の100%を占めていたので実際の占領政策は現場を握る米国(マッカーサー)の思惑通り進められたことは間違いないでしょう。
戦後すぐの東京裁判でも外形上インドその他連合国も加えましたがストーリーはアメリカ主導でした。
イラク多国籍軍でもアフガンでも主戦力の米国が決めるのを参加国が追認するだけになるのが普通です。
1月13日前後に日本国憲法制定過程で連合軍の形式を重んじて結成された極東委員会をコケにしてGHQ主導で決めてしまった動きを紹介しましたが、日本での赤化政策の遂行もソ連との共同統治に名をかりた当時の米政権の(容共体質)本音がそこにあったと見るべきです。
占領政策を担当する民政局長にホイットニー着任後G2・マッカーサーと対立関係に入っていくイメージが知られていますが、ホイットニーの率いる民政局は着々と日本の教育界やメデイア界→思想界を赤化して行きます。
民政局各個人の思想傾向については性質上公式記録には出てきませんので、周囲の評価に過ぎず客観性がないですが、民政局はいわゆるピンカー達が支配していたことが知られています。
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110417/1303041243によると以下通りの人物評です。

GHQは民政局(GS)のほかウィロビー少将率いるG2と呼ばれる治安、諜報活動を受け持つ組織があり、この二つは激しく対立していました。
ホイットニーの部下のケーディス大佐はリベラリストであり、ユダヤ人です。ウィロビーはドイツ系米国人でした。こうした関係も二つを対立させる要因となっており、ウィロビーはホイットニーやケーディスらを「ピンカーズ」と呼んで毛嫌いしていました。
ピンカーズは共産主義者という意味です。
GHQ憲法は共産主義者の手によって作られたものです。

アメリカの機密文書公開を根拠に、対日政策がユダヤ系・共産主義者主導であったかのような意見が紹介されていますので以下に引用します。
私は自分でアメリカの公文書そのものを見に行く暇も能力もないし、以下に紹介するブログ発信者自体が何者か不明です。
アメリカの公文書紹介がフェイクかどうかチェックできる人は滅多にいないでしょうが、「フランクフルト学派」の説明その他も概ね普通に見えるものの、フェイクというものは真偽織り交ぜて本当らしく見せるのが普通ですので、「ちょっと見」ではその区別できる人は滅多にいないでしょう。
以下、各自御自分の能力に応じて信じるかどうか決めていただく前提で紹介しておきます。
https://ameblo.jp/gwh28/entry-12125624098.htm

2016-02-06 10:42:00
かまくら保存の会様のフェイスブックより
1990年以降、ワシントンの国立公文書館でCIAの前身にあたるOSSの機密文書が再調査されています。
まだ全部は公開されていないようです。これによると「日本計画」といわれる対外基本戦略が作成されていることがわかっています。このOSSが知識人向けのマルクス主義と言われる「フランクフルト学派」の巣窟になっており、マルクーゼ、ホルクハイマー、E・フロムなどがいます。
このOSSはコミンテルンの方針に従っていたわけでもないこともわかっています。
日本計画は1941年12月の日米開戦直後から準備され、日本の敗北を見越し、日本をいかに軍事的に壊滅させ、以下に戦後の日本社会を攪乱させるかを目的化したものです。天皇を象徴とする方針もこのとき立てられ、伝統の力を利用して、国内を対立させ、軍事力の膨張を抑える方向へと誘導するというものです。これらはマッカーサーにも伝えられています。
・・・OSSの計画は「社会主義は軍国主義の破壊を通して、ブルジョア民主革命を達した後に得られる」という2段階革命論であり、一気に天皇打倒するのではなく、他の改革を待って廃絶させる段階を待つというものです。以前書きましたが、憲法の「国民主権」「天皇は国民の総意に基づく」というのはまず第一段階のことなのです。ソ連が強行に皇室の廃止を求めたのに対してGHQは計画通り遂行していたのです。皇室の数を制限して立ち枯れ作戦も第二段階を意識してのことでしょう。憲法九条も次の革命のときに軍隊がなければ革命を起こしやすいという目的で作成されました。

戦後日本の言論の自由・学問の自由といっても「アメリカの容認する範囲の自由」と言う枠があったのを我々戦後世代は子供の頃から教えられず、素朴に「自由な国だ」と信じ込んでいたキライがあります。
資本主義・自由主義とソ連型の共産主義・国家管理型社会を理想化する二方向教育がゆるされていたので、言論の自由がある社会に見えていただけです。

表現の自由と思想の自由市場論2

メデイア攻撃の手段であるフェイク論争を「自然消滅させてなるものか!」というのが、トランプ大統領による年明けのフェイクニュース大賞の発表でしょう。
日本メデイアでは、この結果アメリカメデイア界との論争拡大が必至であるかのように紹介されていますが、メデイア界は注目を浴びるのがマイナスなので多分黙っているしかないのでしょう。
私がこのフェイクニュースシリーズを始めたのは、フェイクニュース大賞の発表に刺激を受けたものです。
http://www.news24.jp/articles/2018/01/18/10383232.html

アメリカのトランプ大統領は、ツイッターで自らが考案した「フェイクニュース大賞」に、ロシア疑惑を含む11件のニュースが受賞したと発表した。報道機関を挑発する姿勢に批判が高まりそうだ。
トランプ大統領はツイッターで「2017年は不公平なニュース、正真正銘の偽ニュースの年だった」と強調。11件のニュースが「フェイクニュース大賞」を受賞したと発表した。
ニューヨークタイムズは、2016年の大統領選でトランプ大統領が勝利した時に「経済は回復しない」と主張したことを理由にし、CNNテレビは最も多い4件のニュースで受賞したとしている。
また、ワシントンポストは決起集会が始まる数時間前の写真を掲載し、会場がガラガラだったと間違って報道したと主張し、最後にロシア疑惑そのものがフェイクニュースで共謀はないと強調している。

上記を見るとトランプ氏の目的は、フェイク(事実無根)というよりもメデイアの誘導していた「トランプ政権になると景気が悪くなる」というマイナス評価報道に対する批判であることが分かります。
ついでに上記日本の紹介記事自体が、ノーベル賞学者クルーグマンの意見が批判された・安倍政権が彼を招聘したことがあることを引いて「安倍政権が赤恥を掻いた」と言う鬼の首でもとったかのような報道がまっさかりですが・日本メデイアの特質・安倍政権批判に使える記事を中心に紹介していることがわかります。
フェイクニュース大賞として日本メデイアの紹介記事を見ると、事実無根というよりは、一方に肩入れするメデイアの意見主張を批判したもののようです。
英語圏でもメデイアで流通している思想とサイレントマジョリティー・一般意識が乖離してきたからメデイア界のトランプ批判の大合唱にも関わらず草の根の支持を受けたのです。
従来メデイア世界では、英米系ジャーナリズムが思想市場を支配してきた状況を前提に表現の規制は許されない・・「思想の自由市場」=英米系思想/グローバル化思想に合致するかどうかで淘汰されるべきというものでした。
中国の思想統制はネットの発達によって、早晩崩壊するだろうという見立てが15〜20年ほど前には主流でしたが、ハードというかシャープ支配の中国は徹底したネット支配によって見事にこれを乗り切っています。
アメリカの場合、思想の自由市場論・政府規制しない建前にこだわっている結果、逆に教育支配やCIAその他利用による間接的規制が効かないネット空間の自由奔放?あるいはハッキングによる発信力をソフトパワーで誘導するには無理が出てきました。
ロケットを飛ばせるのに電気釜や車をまともに作れない中露の現状について、ロケットなど巨大技術はスパイで盗めるが電気釜やトイレットペーパーなど日用品まで手が回らないからだ書いてきましたが、アメリカによる大手メデイア支配は要路の買収や脅迫・スパイ網で容易だが、草の根のネット発信者を買収・脅迫しきれないということです。
中国のシャープパワーに対する欧米の自慢するソフトパワーとは間接支配の代名詞ですが、昨日紹介したように全国紙4〜5社の意見・(テレビ界はその系列です)で世論が決まっていくのが今までの日本社会でしたが、巨大利権のある電波利用特権あるいは巨大資本を背景にした情報発信独占の時代から、SNS利用・・日用雑貨並みになってきた情報発信支配には間接支配方法が無力化しました。
日本国内の直近の例でいうと朝日新聞の森カケ問題に関する報道にたいする小川栄太郎氏の批判に対してお得意の「思想の自由市場」での反論をせずいきなり5000万円もの巨額賠償請求訴訟を仕掛けています。
思想の自由市場論の代表ともいうべき朝日新聞が自分の得意とする「思想市場」でまともに反論をせずにいきなり個人の評論家相手に巨額賠償訴訟提起したと言われている(これも事実不明ですが、仮に言論市場で反論したならば、メデイアを利用していくらでも反論記事を広報できる筈ですがすぐには見当たりません)のは異常です。
http://blog.goo.ne.jp/momofyumi/e/b2f213421a952bc769ba4ab4973d7113

【小川栄太郎氏が朝日新聞の申し入れに反論
森友・加計問題報道 「朝日新聞よ、恥を知りなさい」
HPに回答書全文を公開】
http://www.sankei.com/smp/entertainments/news/171206/ent1712060016-s1.html
【小川栄太郎氏が朝日新聞の申し入れに反論
森友・加計問題報道 「朝日新聞よ、恥を知りなさい」
HPに回答書全文を公開】
2017.12.6 20:13【小川栄太郎氏(朝日新聞からの申入書への)回答書全文】
2017-12-07 17:30:18 | ネットで拾った記事の保存庫《朝日捏造新聞》
文芸評論家の小川栄太郎氏は6日、10月に出版した自著「徹底検証『森友・加計事件』朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」(飛鳥新社)をめぐり、朝日新聞社から受けていた謝罪や訂正、賠償を求める申入書への回答書を発送し、自身が代表理事を務める「日本平和学研究所」のホームページで公表した。小川氏は朝日に対し「抽象的な苦情の羅列に過ぎない」などと反論した。全文は以下の通り。
回答書
朝日新聞よ、新聞社として恥を知りなさい。
朝日新聞からの申入書への回答に先立ち、貴紙による一連の森友・加計報道について、総論的な結論から申し上げます。
朝日新聞は日本を代表する言論機関です。
法的構成が不可能な言いがかりで一個人を恫喝するのではなく、言論には言論で勝負していただきたい。

以下省略
言論機関が権力による規制を受けて司法救済を求めるのは分かりますが、1個人の言論に対して言論で反論しないで司法権力を頼るのは不思議です。
小川栄太郎氏の意見は上記全文に詳細ですが、朝日の主張を検索しても見当たりません。
小川氏の主張通り、朝日新聞は言論戦を経ないで訴訟提起したのでしょうか?
言論に対して言論戦をしないで巨額訴訟提起するのは外形からみればアメリカで言われるスラップ・恐喝訴訟の疑いさえありますが、朝日新聞はなぜ大々的に反論しないのでしょうか?
言論機関の雄として日頃拠り所にしている筈の「思想の自由市場」は日本では機能していないことを前提にしているのでしょうか?

フェイクニュース4(拡散の原動力2)

昨日紹介した高裁判決では、名誉毀損等の具体的被害がない限り表現の自由は(最大限)尊重されるべき」という思想も出ています。
表現についての批判は、思想の市場淘汰に委ねるべきと言い続けてきた憲法学者らの意見が背景にあるのでしょう。
支配思想に押しつぶされていた少数意見もネットの発達で声を上げられるようになっただけでも良いことですが、特定政治思想・正義感に偏らない・どちらのグループでも良い・小遣い稼ぎになる程度で満足するもっとフリーな人が参加し始めたのが、SNS以降の世界です。
情報発信参加が容易・大衆参加型になった結果、初めて発信手段を入手した大衆は、特定立場攻撃の悪意がない分警戒心が低く気楽に・野放図に?・注意を引くために過激な創作をする傾向があります。
少年が面白半分に調子に乗ってやりすぎて大事件が起きることがあります。
発信自由・大衆化すると玉石混交状態になりますが、これに便乗・紛れて敵対国が相手国世論誘導に利用することが容易になって来ます・これがロシアによる選挙介入疑惑です。
いわば戦国時代の足軽が日当次第でどちらの武将の下でも働くし、現在世界の傭兵集団もそのような特性がありますが、普通の市民が小遣い銭欲しさだけで、リベラルだろうと極右だろうとどうでもいい・このような動きに気楽に参加するようになった社会になったということでしょう。
何でも気楽に批判できるようになると今までは大手メデイアから不公平な報道をされてきたと不満を持っている反リベラリスト、反グローバル系の方が、SNS利用による自前の発信力を身につけた勢いで、既成勢力に反対する過激な反感フェイクに乗り安い面があるでしょう。
この結果(どちらの陣営でも構わない)目を引くような過激発信したら、トランプ系の方が反応が良くてこれの転送が拡散した原因です。
以下の記事自体がフェイクかどうかどうか不明ですが、以下の通り無責任な情報拡散が続いているようです。
https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2017/11/1127.html

2017年11月27日(月)
アジアで広がるフェイクニュース
インドネシア・北スマトラ島にある人口15万人の街、タンジュンバライ。
人口の8割はイスラム教徒です。
モスクから流れるのは、イスラム教の礼拝の呼びかけを知らせる「アザーン」。
去年(2016年)7月、モスクの前に住む仏教徒の女性が、この音が大きいとして、音量を下げるようモスクに要求しました。
ところがSNS上には、「仏教徒がイスラム教徒の祈る権利自体を奪おうとしている」といった、女性の要求の内容をねじ曲げた投稿が広がったのです。
投稿を目にした男性です。
SNSの投稿を見た人
「仏教徒がアザーン(礼拝の呼びかけ)を禁じた。
(仏教徒を)あざける言葉とともに、“火をつけろ”と書いてありました。」
拡散する投稿に扇動された群衆は、ついには仏教寺院を襲い始めました。
その結果、合わせて10の寺が全焼。
この事件は、同じ街に住む人たちの心に今も影を落としています。
タイ SNSで拡散 深刻な経済被害も
リポート:藤下超総局長(アジア総局)
これは、今年(2017年)5月から6月にかけて、タイで出回った動画です。
「サンドイッチの具に、豚肉の代わりに綿が使われている」という内容ですが、全くの作り話です。
以下省略

フェイスブックがファクトチェックをやめて読者の判定に任せる方向に方向転換したことを2月4日に紹介しました。
2月4日には(過激なフェイクであればあるほど、「共感」が増えるので)共感の数量で決めるのでは意味がないのではないか?との私の意見を書きましたが、表現の自由を守るためには思想の自由市場で競争させろという古典的論理から言えば、フェイスブックが上から目線でチェックするよりは、自由競争に委ねる一見識と言うかそれしかないでしょう。
そもそも事実・ファクトとは何かですが、明日以降に書きますが、現地レポーターが現地で一部経験した地元意見を紹介する場合を見れば、レポーターが経験したのは事実としても、その地元の傾向のように言う点で誤解を招く行為です。
政治問題に関してはその上に(数十年後に判明してもすぐに明らかでない)機密事項が多くて憶測が中心になっている面もあり政治意見との区別をつけにくい・それ自体よくわかっていない上に、脚色していれば創作・表現の自由と言うのですから基準がはっきりしないと思うのは無理もないでしょう。
素人的には、メデイアの好む方向へ脚色する方がごまかしが巧妙・・「世論誘導の弊害があるので許されない」と思うのが普通ではないでしょうか・・?
品格を重んじる大手メデイアの場合、少なくとも「取材相手の言った事実」とこれをどのように解釈するかの自社意見とをはっきり区別して表示することから率先して欲しいと思います。
あるいは発言部分をカットした部分・マイナス情報も明らかにすべきでしょう。
国会中継や政治家発言の切り取り、つぎはぎ編集の問題が指摘されていますが、メデイアに政治家の発言に対する解釈・思想表現の自由があるとしても、事実報道と自社解釈を区別すべきです。
大手メデイアは報道手段独占を良いことにして、これまで編集権があるということで事実上自社意見に沿う方向に脚色して世論を誘導していた点を改める必要があります。
フェイクが社会問題になっているのは多くの人が、自分の好む傾向の記事のみを見たいし、信じたい傾向があるという大前提があります。
上記紹介したインドネシアの仏教寺院事件を見ると元々の相互不信が下地となって、フェイクニュースが簡単に受け入れられる下地になっていたように見えます。
情報がいっぱいあるように見えて、大手メデイアの一定立場に偏った?情報垂れ流しに対する不満等が強いと自分好みの情報しか目に入らないので、一定方向の情報のみ見るようになり、さらにどぎつい?過激表現に注目が行きやすくなる傾向・・結果的にそれぞれの傾向別に狭い情報の深堀り?と言う名の過激化に進展して行きます。
結果的に中庸のバランス感覚がなくなり、社会分断を煽る情報が氾濫し結果的に社会分断の危機感が生じてきます。
熱烈共感者が(フェイクっぽいと知りながら)情報拡散するとそれを別の共感者がさらに拡散することの繰り返しであたかも多数が支持しているかのような現象を生じさせてしまう・これを大手メデイアがニュースとして大々的に取り上げる結果、ネットを見ない一般人もそれを信じてしまう傾向が論じられています。
トランプ氏のツイッター発信が知られていますが、多くの人は(ローマ法王の支持が)メデイアで取り上げられたことによって、情報を入手していたとする調査結果が報告されています。
大手メデイアのニュースで「根拠のないデマ情報が話題になっている」と大々的報道があると「根拠がない」という注意の方を忘れてしまい、そういうニュースがあったな・・というおぼろげな記憶が残る・・印象効果が残っていきます。

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