政党支持率と内閣支持率推移2

福田内閣で安定成長軌道に乗ると再び党高政底(リーダシップ政治不要?)に戻ります。
あ〜とかう〜とか何を言っているのか、まるで不明な発音が普通であった大平氏を筆頭に鈴木善幸〜最後は(大平氏に比べて発音ははっきりしているが)「言語明瞭意味不明」と言われた竹下など基本的に「寝業師」中心で何をどうするのか不明の時代が続きました。
この間、政治目標をはっきり主張していたのは「青年将校」と言われていた中曽根氏だけです。
若い頃から総理公選制を唱えるなど主張のはっきりしていた彼が遂に政権を入手すると長期政権になったのは、三角大福中の政権争奪者の中で年齢が一人大幅に開いていた(若かった)からと言われていますが、日本の経済力が警戒されて国際包囲網が形成されていく中で、相応のビジョンを持って国際的人脈形成をして世界に飛び込んで適応できたことがわかります。
人脈的にはいわゆるロン・ヤス関係を構築し、貿易面では国営企業を減らして国内経済では国鉄その他の民営化実現などの自由経済化を進める改革を行うなど国内で痛みを受け入れるべきは受け入れ流などの成果をあげました。
国鉄とJRとのサービス精神の違い超赤い自他室が黒自体室に変わっただけではなく・・その頃を期して公務員の姿勢が民間並みに変わったのを見れば結果的に大きな改革でした。
国際政治的には不沈空母発言等で西側諸国になくてはならない存在を強調するなど第二次世界大戦前夜のような孤立の再現を防ぐのに成功していたことがわかります。
プラザ合意でひどい目にあったという意見が主流ですが、一定の痛みの受け入れによって円高でも稼げる筋肉質の企業に変身させ、他方黒字を稼ぐばかりではなく、儲けを国内還元する・・内需拡大→生活充実・文化度アップに切り替えた功績は偉大です。
このコラムで「失われた20年というが、日本の身近な生活水準が目に見えてよくなっている」ことを繰り返し書いてきました。
内需無視で輸出で儲けるばかりでは国民も不幸ですし、商人や製造業者は一定の儲けがあったらその段階で家族・従業員国民にその利益を還元し国民の消費・文化度アップできてこそ、儲ける意味があります。
韓国の苦しみを見るとここ1〜2年貿易統計上空前の黒字を稼いでいる筈なのに、国民に還元せず国民の多くが低賃金や失業や負債増加に苦しんでいるアンバランスがあり、そのはけ口として文大統領が率先して自分が不法占領している竹島問題を持ちだして日本を刺激し、あるいは解決済みの慰安婦騒動の蒸し返しを図っています。
中国も実は貿易黒字が大きいのですが、国威発揚のために戦略的に無駄な海外投資(軍港確保目的にインフラ融資をして返済できないと港湾を取り上げる高利貸し商法)をしたり、内需(無駄なインフラ投資ばかりで国民を豊かにする消費支出)に回せないために、国民の生活レベルが低いままです。
この不満のはけ口にするために対外強硬主義に走るしかなく、何でも「死活的国益だから譲れない」と息巻いて相手国を恫喝する傾向です。
いくら威張っても、日常レベルの低さを知っている日本人の多くが気にしない・中国人民自身が日本の豊かな生活が憧れの対象になっている要因です。
何かあると譲るのを拒み「国難」だといきり立ってその都度仕返しだと騒いで対外的強硬策で孤立するのが良いものではありません。
中国は国内改革・痛みを拒んで・・開き直って、逆にこの1〜2年で見ると成長が止まった生産過剰分を民間に圧力をかけてどんどん潰して国有企業温存策に転じた上で、国内不満対策で対外強硬策になっているのを見ると、日本が戦前に突き進んだ轍を踏んでいるように見えます。
日本の対米戦は、短期的に見ればアメリカに戦争に追い込まれた面がありますが、その前に「満州死守が我が国の生命線」というような頑なな対応が遠因になっているという反省が必要です。
今になっての後講釈ですが、そのとき少し譲っておいても生命線でも何でもなかったことがわかります。
中曽根氏は小派閥の長でしかなかったために、時の主流派に正面から抵抗できないために妥協を重ねて政界風見鶏と言われ続けましたが、ともかく潰されないで生き残ったことで国鉄その他民営化の大業を歴史に残せました。
この時期には、もはや共産主義か自由主義の選択の時代が終わり(勝敗がついていたので)自由主義陣営内の競争選択の時代が来ていたのです。
内閣支持率が下がっても日本経済が上昇基調にある限り、党の支持率(体制選択不要・社会党/革新系支持率が上がらない)変更にはならなかったことがわかります。
一方で日本の国力増大(1968年西ドイツを抜いてGNP世界2位)→国際的地位・関係が微妙になり始めた時期でもありました。
ニクソンが電撃的に中国訪問(1972年)し、自陣営に引き入れて共産主義陣営の中ソ分断に成功し、一方で西側陣営内で頭角を現わしてきた日本外し(中国による日本批判を裏で承認する方向性)に動いていたのですから、複雑な国際政治経済が始まっていました。
国内政治が複雑になっただけではなく、自由主義陣営参加で占領軍支配以来のやり方・・・アメリカのいうとおりしていれば済む時代でなくなってきたのです。
一方で欧米諸国は、第二次世界大戦の教訓もあって日本を重視する方法も用意していました。
世界の重要事項を決める大国の首脳会議の場・サミットが結成され日本が創立メンバーに入ったのもこのころですがいわば、欧米多数の中に一人アジア人が入っても何も言えない・・「一緒に決めましたよネ!という約束させれる場を作られたようなものです。
その意味はいわゆるプラザ合意も同じです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/
第1回先進国首脳会議は、1975年11月15日から17日までフランスのイヴリーヌ県ランブイエで開催された先進国首脳会議。通称ランブイエ・サミット。
参加者 ヴァレリー・ジスカール・デスタン
ヘルムート・シュミット
アルド・モロ
三木武夫
ハロルド・ウィルソン
ジェラルド・フォード
ニクソンショック〜プラザ合意以降自由陣営内で日本包囲網が形成される時代ですが、日本の選択として中ソ陣営に鞍替えする余地のない時代でした。
キャッチアップ時代が終わって以降現状維持・調整型政治では困る・・構想力・現状打破力プラス国際政治の荒波をくぐり抜ける能力が問われる時代が到来していることになります。
戦前独ソ不可侵条約締結に際して「時の平沼騏一郎内閣は、『欧州の天地に複雑怪奇なる新情勢が生じた』という声明を出し、総辞職してしまった。」http://www.y-history.net/appendix/wh1505-010.html)ようなことの繰り返しでは困ります。
プラザ合意により、超円高〜バブル崩壊後「失われた20年」が始まりました。
「失われた20年」(ただし私は成長の足踏みが続いた結果、より良き日本文化が成熟できた良き時代であったと考えていることを繰り返し書いてきました)の始まりの閉塞感打破を期待されるようになって、トップ交代に対する期待感が再び強まったものの誰がやってもうまくいかない時代が続きました。

2項対立社会像と日本1

GHQが描いた支配図式・・戦争加害者=軍人超国家主義者VS被害者=人民という分類は日本人の大方には受け入れられていません。
進歩的文化人?に誘導される革新勢力の民族のあり方についての立場は、GHQ・背後の米国政府が軍国主義者と被害人民対立を誘導し、中ソの主張する資本家に搾取される労働者、政府VS人民の対立図式をそのまま迎合して敗戦後影響力を拡大したグループです。
もともとどこの社会や組織にも一定率の不平不満層がいるものですが、それが敗戦→不平を煽る米ソ双方の応援政策によって一時的に力を得たということでしょう。
これが朝鮮戦争開始まで(同床異夢)目的を一にして影響力を拡大してきたのですが、朝鮮戦争以降米国が対ソ競争に協力させる方向に対日方針が変わると支持母体に亀裂が生じ、再軍備反対〜全面講和と部分講和論の対立となり、政治的には左右両系乱立政党の大同合併・・自社2大政党制・55年体制確立→これが支持層の分裂に及んだのが60年安保騒動後の(清水幾太郎に代表されるような)分裂です。
安保騒動を機に、反日運動の戦術論として、従来の真っ向からの共産主義賛美(地上の楽園論)では国民支持を得られなくなったので、米国の民主主義理念に乗っかって(悪用?)手続き重視論・議事妨害戦術に高等戦術・日本の成長阻止に切り替えたように見えます。
一時この戦術の功があって、社会党が国民の支持を得ていたこともありましたが、学者だけでなく庶民が自由に海外に行き生のアメリカを知るようになると、次第に「欧米では・・」という進歩的?意見の御利益が下がってきたのがこの数十年の流れです。
このようなずるい戦術についていけない純粋左翼は極左化して行きますし、選挙の洗礼に晒される政治家は、本音・共産主義化の良さで政策主張をやめて民主主義運動を表看板にして「十分な審議時間がなかった、強行採決は民主主義否定とか、資料不備や失言暴言?を捉えてはこれの責任を取らない限り審議に応じられない」という議事妨害政党化して現在に至っています。
今でも民族内対立を煽る中国の戦略に呼応する日本人は極く少数になってきたので、靖国神社参拝に中韓がこだわり軍国主義復活を煽っても、米軍に日本人共通の先祖を辱めれた古傷をえぐられるようで日本人大方が却って不快感を持つ所以です。
軍国主義者と被害人民という民族分断論は無理になったので、自民党内の分断に力を入れ始めたようで、最近では「安倍政権による憲法改正は許さない」というスローガンが広がっています。
昨年夏頃の総選挙前には(自民党はいいが)安倍政権は良くないという変なスロガーガンが出まわりました。
民族全体を支配被支配に分ける分断政策がうまくいかなくなったので「安倍政権」だけが良くないと焦点を絞った・自民党内の分断を狙ったようですが、やり方が古すぎるように見えます。
明日政党等の支持率を紹介しますが、自民党支持率よりは内閣支持率の方がたかいので無理な主張でしたから、野党は大敗してしまいました。
日本企業はもともと村落共同体の延長意識・・構成員の生活を守るのが第一です。
民族の心構えがイザという時にためらいなく出たものです。
それが行き過ぎて国際標準?から見て株主軽視あるいは社会公共の利益を軽視していないかの批判が起きている状態です。
そうした反省によるメセナ活動も長期的には企業イメージを高め結局は企業存続・従業員を守るためです。
・・全従業員が大事な客とその周りの社会の支持を受ける必要を感じて社会・公益重視に精出しているのが日本企業です。
大震災等があるとコンビニが無料で商品解放したり、食品大量輸送をしたりするのは経営者が従業員を仲間としてみているだけでなく、地域住民をも助け合う仲間として意識しているからでしょう。
欧米の法制度が導入されているので、法制度上会社は株式保有者のもので、社員とは会社設立に参加した者・その後にその株式を譲り受けたもの・・出資者・株主のことを言い、そこで働く者は対象・・資材設備同様のコスト扱いで「被」雇用者あるいは従業員と呼ばれます。
しかし、明治維新以降150年経ても多くの人が「うちの会社」と言い、自分のことを社員という呼称が定着しているのは、「村落共同体は村長の私有ではなく村民みんなのもの」という意識が勤務先は「自分の会社」という意識がそうさせるのです。
また正社員になると「自分の仲間」であり、非正規は「よそ者」が臨時に応援しているだけという意識差別が大きな問題になります。
戦後国民を意図的に「人民」というグループがいますが、この思想背景には「搾取されるもの」という意味が含まれていますがこれが定着しないのは、日本社会に合わない意味を無理に押しつけようとするからです。
戦いにおいては部下が最も危険な最前線で戦いますが、指揮者がいなくなると全体が総崩れになるから指揮系統を守る必要があるからであって、負けが決まれば戦いの指揮者不要なので今度は城主の方が自分の命を捨てても兵の命を守るのが原則です。
城が落ちる時に城兵一同の助命と引き換えに城主が腹を切るルールは上記思考に基づいてます。
天皇が、マッカーサーとの会談で天皇陛下が自分の生命にこだわらないという覚悟を示されたのは日本
一旦法手続きが決まると世の中が変わっても昔の捜査手法しかできない・新たな社会に適応した捜査手法実践のための法改正をしようとすると、まず反対して改正を引き伸ばしを図る・・その間社会が停滞する仕組みです。
泥棒や強盗殺人そのものは昔と同じでも、現場へ向かい、現場からの離脱が高速化・広域化していき、テロ行為の手口が巧妙化し高度科学技術を駆使するようになっている以現在、迅速に捜査し証拠を確保するためには19世紀型の紙媒体の令状主義ではどうにもならない時代が来ていることは明らかでしょう。
社会変化によって法制度が現実に合わなくなってきたならば、「法網をくぐる者を許さない」ように、何とかできるように法制度を工夫をすべきではないでしょうか?
法網をくぐる者に対する対策というより「働き方改革」でも何でも同じですが、世の中はどんどん変わりますので、ルールもそれに合わせて変えて行かないと時代の変化に追いついて行けません。
どんな制度も機械類も運用してみる不具合が出て来るものですが、それを煽って反対ばかりしていては何事も始まりません。
例えば代表的政策でいえば、非武装平和論の理想を言うばかりで現実対応案が全くない・公害反対も同じで対案がなく操業停止を求めるばかり・・沖縄の基地で言えば航空機部品が落ちれば飛行禁止を求めるなど今も同じです・・。
飛行機に限らず車でも医療行為でも電車でも一定率の事故・・不具合が起きるものですが、何か失敗がある都度操業停止を求めていたら何の産業も成り立ちません。
大事故・大規模な食中毒事故が起きた場合には5日〜1週間の営業停止処分がありますが、すべてミスの程度と結果の兼ね合いです。
沖縄基地問題では飛行機部品が落下したとか不時着した程度で(不時着でなくその前段階で安全策として燃料タンクを人気のないのを確認してから水面に事前投棄したということのようですが・・。

民主主義のルール3と違法収集証拠排除論2

昨日紹介したGPS捜査違法判例は令状なし捜査を違法としたものですが、内容を見ると具体的に「侵害された私的領域」とは何か不明です。
昨日最後の行で引用したように最判は麗々しく憲法の住居不可侵を引用していますが、刑法の住居侵入罪は正当な理由があるときを除いているように憲法に住居不可侵が書いてあるからといって一切の例外を許さないようなトーンに疑問があります。
刑法

(住居侵入等)
第一三〇条 正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。

住居侵入でも玄関先に押し売りが入って帰らないのと寝室にまでズカズカ入ったのとでは大違いですし、個人的庭先でも私的な行為をしている・例えば他人の目につかない前提で下着姿で庭にで出ている女性が目撃されたのとネットフェンス程度の仕切りしかない道路から丸見えの貸し駐車場に無断で入ったのとでは重みが違います。
GPS事件では、ラブホテル?だったかの敷地内駐車があって、そこへ行ったことの特定可能性の理由で私的領域・プライバシー侵害になったように記憶しています。
人間が直接入れば入ったところが庭先であってもそこから居室内の無防備にくつろいだ様子が見られる可能性がありますが、同じ場所にGPS装着車がが入っても、その場に入ったことがわかるのみであって、そこから見える居室内のプライバシーが侵害される可能性すらありません。
しかも「判決文では「個人のプライバシーを侵害し得るものであり」という可能性を認定しているにすぎません。
しかも「私的領域」という観念的被害とは(追跡事例として昨日書いた例でいえば居室等に勝手に入ったのでなく、無人の庭を横切った程度)すぎません。
判例は「同意を得ていない=強制」という単純論理ではないでしょうが、生身の人間が尾行していて犯人がホテルに入って駐車するのを見ただけなら違法性がないが、GPSなら違法ということとの違いは、強制処分になるか否かによっているような印象を受けます。
強制処分→令状を得ていない→違法と言うのは形式的で具体的妥当性の結論から見て如何にも無理なこじづけのように思えますが・・・.この辺は自分の事件でなくいい加減に読んでいるのでもっと緻密な理論があっての結論と思いますが・・部外者の気楽な意見としてお読みください。
最判では、GPSの特定は数十メートルの誤差があるものの、道路移動だけなく私的空間に停車したときもGPSで想定できるのがプライバシー侵害リスクがあるということだったように記憶していますが、上記例で言えば家に入らず宅地でもダメということになるイメージです。
ところで広域高速移動という犯罪集団の出現自体がここ数十年で多発するようになった現象である上に、GPSで位置確認する技術は親が子供の見守りや老人徘徊対策に使えるなど、これまた最近の新技術です。
車社会になって、信号制度が行き渡ると追跡パトカーの例外が認められるようになるなど例外はいつもあとからで出来るものです。
GPSの有用性は一般に知られているのですが、その使い方についてのルールがまだ決まっていない状態でこの判例が出ました。
GPS捜査は、その捜査が違法とされていたものをあえておこなったものではなく、合法捜査か否かの境界事例であってこの判決で初めて「許されない」と決まった事件ですから、その点でも違法性自体が極めて弱いものです。
また最判自体で書いているように、令状が必要と言いながら一方でをGPS捜査をあらかじめ許容する令状の応用には無理があるとまで書いているのですから、最判自体が不可能なことを捜査機関に要求していることになります。
犯罪調査対象絞り込みなどにGPS利用捜査の必要性があるのに、現在の令状方式では事前発布する方法は無理がある・・憲法で要請している令状なし捜査だから、違法というのでは、結果的にGPS利用禁止と同じです。
最判には国家の治安維持と人権擁護の折り合いをどうすべきかの国家運営について責任ある価値判断が抜けている(一介の市井弁護士がいうのもおこがましいですが)ような印象です。
電子化や移動方法の高度化対応に必要な捜査手法に現行法・憲法の令状主義が対応できていないのであれば、どのように折り合いをつけて行くべきかを考えるのが実務判断の最高機関としての勤めではないでしょうか?
司法機関は学問研究の場ではなく、実務解決の最終機関としての責任があるでしょう。
憲法の「令状主義の原則」は近代以降当時の科学技術に応じて「これが良い」となったに過ぎません。
今どき怪しそうな人間相手にずっと長期尾行をつづけるなどやってられない・(自分の愛する子供でさえつきっきりにできないので、GPS利用する時代です)データ上の追跡で一定時間まとまって停止した場所周辺にアジトがあるかなど的を絞って調査したりその周辺で見張っていてどの辺の路地から出てくるかを見張っている方が合理的ですから今は浮気調査など興信所に頼むと皆この方法でやっています。
単に効率性の問題だけでなく犯人が短時間に広域高速移動するようになると、事件後その周辺で不審者の聞き込みをするのでは、有益な情報収拾が不可能になっています。
民間素人・個人利益実現のためでさえ自由にやっている・処罰する法令もない状態ですが・・逆に公益上必要のある政府の方はプライバシー侵害の「リスク」があるから、やってはいけない・・というのが不思議です。
何かあると民間が情報収集するのと政府の収集は違う・公益のために収拾するのは権力行使になるから厳しくする必要があるという意見が圧倒的です。
ところで、個人がより大きな公益確保のために臨時に細かなルールを破っても、その方が正しいとして賞賛されるのが普通です。
警察だと臨機応変の処置が許されない・・警察や公務員が「自己裁量でいろんなことをしてはいけない」という正解(PC)はその通りですが、それも職権乱用にならない限りのことでないのかの疑問です。
一般意識では警察や公務員は公益のためにやっているのだからという意識で、管理事務所あるいは個人でも何か問い合わせがあると積極的に協力する・令状がなくとも防犯カメラの映像を見せてくれと頼まれると見せたりするのが普通です。
私人にいきなり聞かれても、怪しんで答えないことが多いですが・・・。
日本の国民意識では「お上」に対する信頼がものすごく厚い社会ですが、進歩的文化人にとっては、逆です。
民間なら何を見せても良いとは言わないまでも、自治会名簿などを聞き込みにきた警察に見せたりすると大騒ぎします。
政府や公的機関は「人民の敵」だから「どんな情報も開示したくないとか些細なミスも許さない」という意識が強いグループのようです。
中国は長年「日本政府は悪いが「日本人は敵ではない」という言い方が普通でしたが、このような分類・2項対立意識社会と日本古来からの君民一体重視社会の違いをだいぶ前からこのコラムで書いています。
アメリカも同様で、国家神道や超国家主義者を背景にする軍人だけを悪者に仕立てて極東軍事裁判や神道指令で民族一体感破壊を図るとともに、他方で共産主義思想の浸透を奨励して労使対立→国民分断をはかったのですが、欧米や中国の考える「支配と被支配者の対立社会」と違い、日本国民はもともと上から下まで助け合いの社会でしたから、よほどの外れ者以外にはその扇動に乗りませんでした。
(助け合いどころか大震災の混乱に乗じて盗みに入る不心得者が一定率います・いつも書きますが、日本人/日本社会というときには大方の心を書いています)

民主主義のルール・手続き重視論2と違法収集証拠排除論1

例えば警官がスピード違反して追いかけたり、追跡中に犯人が逃げ込んだ他人の(塀で囲まれて門が開いている)敷地を通過してその裏の路地に逃走するような場合に、警官が(他人の敷地に入るのが違法だからと遠回りしていると逃げられてしまう)一緒に踏み入って庭を横切ってその先の路地で逮捕したからといって逮捕が無効違法になるべきではないでしょう。
それぞれに緊急事態に対応する法令(パトカーでサイレンを鳴らしていれば信号無視できるなど・住居侵入は「正当理由」)があれば済むことですが、新規分野でまだそう言う手当の法令ができていない不備の場合に臨機応変の法令違反行為があれば、そのような検挙が許されないかということです。
福島原発事故では、現地所長が東電首脳部による現状無視の指示を無視して臨機応変の果敢な処置をして過酷事故発生を防いだことが知られていますが、国民は首脳部指示無視の法令違反と日本国滅亡の瀬戸際に瀕するリスクから、救った所長判断のどちらの方に正義があったかを知っています。
まだ例外を認める法令がないのに、現場判断でやったことが仮に違法であるとしても、違法の程度が重大でなければ、その法令違反(パトカーが信号無視できる法令がまだない場合を考えると、逃げる犯人が信号無視で突っ走った場合にパトカーも(横から来る車がないときに)信号無視で追いかけた場合)ですが、そのために事故が起きたか実害が起きていないかだけで処理すればいいのであって、違法な逮捕が許されない・・その後の手続き(逮捕によって得た指紋や自白その他の証拠を裁判に使えないか?)一切を無効にする必要はないでしょう。
(上記で言えば住居侵入で処罰するべきか否か・・この例の場合には、「正当な理由」が認められるでしょうが、庭だけでなく家の中まで無断で入れば行きすぎでしょうがそれでも)その犯罪の成否に関係がない以上その犯人を無罪にする必要までないでしょう。
最近の最高裁判例で言えば、GPS捜査はプライバシー侵害の危険性が高いから捜索差押え令状手続きが必要である→違法捜査と認定され、その捜査によって得た窃盗犯罪実行の証拠が否定されたように記憶しています。(時間がたったので正確な記憶がありません)
https://news.yahoo.co.jp/byline/maedatsunehiko/20170316-00068741/からの引用です。

警察が捜査対象者の車両に密かにGPS端末を取り付け、その位置情報を把握するGPS捜査。最高裁は、その法的論争に決着をつけた。しかも、今後の犯罪捜査に深刻な影響を与える厳しい内容だった。公開されている判決文(詳細はこちら)を踏まえ、その理由を示したい。
捜査対象者に気づかれないように注意しつつ、密かにその生活圏内に近づき、行動を内密に把握する、といった観点からすれば、尾行や張り込みと全く同様だ。
現に警察は、GPS捜査をそれらの延長線上のものと見ており、捜査人員や予算が限られる中、そうした古典的な捜査手法に代わる有効な手段だととらえてきた。
その上で、基本的に路上を走行する車両の位置情報を把握するだけであり、個人のプライバシーの領域に深く踏み込むわけではないとして、尾行や張り込みと同様、裁判官の令状は不要である、という立場を堅持してきた。
検察も同様のスタンスだった。
今回の事件でも、警察は被告人や共犯者らの承諾はもちろん、裁判官の令状も得ない状態で、約6か月半にわたり、被告人らの19台の車やバイクにGPS端末を取り付け、その位置情報を把握していた。
今回の一審、控訴審も、被告人を窃盗罪などで有罪とする結論自体は変わらなかったが、大阪地裁は令状なしのGPS捜査を違法とし、高裁は今回のケースだと重大な違法性なしと判断するなど、全く異なっていた。
これに対し、最高裁は、まず次のとおり、GPS捜査と尾行や張り込みとの関係について、警察・検察の見解を全否定した
「GPS捜査は…その性質上、公道上のもののみならず、個人のプライバシーが強く保護されるべき場所や空間に関わるものも含めて、対象車両及びその使用者の所在と移動状況を逐一把握することを可能にする」
「このような捜査手法は、個人の行動を継続的、網羅的に把握することを必然的に伴うから、個人のプライバシーを侵害し得るものであり、また、そのような侵害を可能とする機器を個人の所持品に秘かに装着することによって行う点において、公道上の所在を肉眼で把握したりカメラで撮影したりするような手法とは異なり、公権力による私的領域への侵入を伴う」
「憲法35条は、『住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利』を規定しているところ、この規定の保障対象には、『住居、書類及び所持品』に限らずこれらに準ずる私的領域に『侵入』されることのない権利が含まれる」

超国家・普遍思想4と現実との乖離2(全面講和論と安保騒動)

昨日紹介したウイキペデイアの清水幾太郎の記事を読む限りでは、彼は左翼思考から転向したのではなく、反米という一点で節を曲げずに頑張っていたように見えます。
丸山眞男氏ら「進歩的文化人」主流は、ソ連寄りの主張では戦えない・国民支持がないのを知っていたので「反安保」(ソ連支持)よりは「議決方法が民主的でない」と論点をずらしていくことにしたのでしょうが、清水氏はこのずるいやり方が気に入らなかったようです。
米ソどちらの側についた方が良いかの綱引きで社会主義に夢を持つ純粋な人が国民支持を受けずに論争負けた場合、自己主張が日本のためになると信じているならば支持者を増やすために自己主張の説得力を増やすためにさらに努力するのが本来です。
論戦に破れたからと言って例えば「相手の声が悪いとか聞き取りにくい」とか揚げ足取りの非難しても始まりません。
「日本のための思想信条の自由」であるならば、国民に受け入れられず挽回の余地がないとわかった時点でその思想の優劣が決まったのですから、潔く結果を受け入れるべきです。
討論で負けたのに土俵外の争いに持ち込むような卑怯な真似は日本社会では許されません。
敗戦時に日本の堅固な社会組織解体を目指すGHQの威力を背景に「過去の仕組み解体主張すれば何でも良い」という左右双方が共同歩調できた良き時代に勢いを増した観念論者・進歩的文化人?の限界が最初に出たのが、サンフランシスコ講和条約の股裂事件であったでしょう。
以後いわゆる(敗戦後米ソ双方から支援されてきた)進歩的文化人?はあくまで共産主義が良いと頑張る(確かな野党)勢力と議決方法に矮小化する(日本国家を超越した背後の支配権力に擦り寄りたい)勢力に別れていったように見えます。
そのトドメになった最後の大団円になったのがいわゆる60年安保騒動だったことになります。
左翼系ではこの騒動の大規模さとその高揚感を懐かしむ(続く大騒動を期待する)高齢者が多いですが、最後の大決戦が大きな争いになるのは歴史上普通で、豊臣家が滅亡した大坂の陣が大きな合戦であったことを理由にもっと大きな合戦が起きるの期待しているようなものです。
「進歩的文化人?」と言う変な種族が60年安保以降、土俵上の勝負で負けてしまったので正々堂々の議論をする能力・自信を失い、アメリカの民主的手続き重視の論理を借用して政府の足を引っ張ることを主たる運動に変えていったのですから、姑息な争い方に反対する清水氏の方が王道というべきでしょう。
政敵の足を引っ張ることに精出すことになった勢力の方こそ、自己批判すべきだったと思われます。
これが潔くない行動として批判したら、報道界で干され、従来の仲間から仲間はずれにされてもくじけなかった清水氏こそ侠客・男の生き方です。
日本人は「難しいことはよく分からない」と言いながらも、実はしっかりと正邪を見極める能力が高いので、邪道を続ける限り野党や「進歩的文化人」支持がジリ貧になるしかなかったのです。
安保騒動・・40年前の清水幾太郎の孤立化の経緯を(ウイキペデイアの紹介記事しか知りませんが・・)見ると、ここ数年顕著になっている国会の議論・集団安保法案などで法案の中身よりは議論の時間が少ないとか議決方法が民主的でないとかばかり主張したり、経済政策その他重要法案の審議そっちのけで、森友、加計学園問題等に何年も同じテーマで堂々巡りしている、(この数日では日銀人事案について事前報道があったことを理由に難色を示すなど(・・野党の関心は人材・能力の適性に関する賛否意見であるべきでしょう)近年の野党の国会戦術・揚げ足取りばかり煽る報道界の体質の源流を見る気がします。
国会ではちょっとした政府答弁のミス等があるとその責任をはっきりしない限り、審議に応じないなど議論が全て中断する慣習になっているのは、60年安保以来の悪しき伝統になっている様子が見えます。
昨日22日の日経新聞朝刊3pにも働き方改革の1年延期方針に対して「政争している場合か」という大きな見出しがあって、見出しで見る限り批判記事が出ています。
題名しか見ていませんが、政府提出データが間違っていたことで紛糾しているようですが、内容についての議論がなく入り口でこんな資料ではどうの・・・という議論ばかりでは国会が何ためにあるかわかりません。
政権のよりどころになっているデータが違うならば、自分の主張を裏付けるデータの方が正しいと主張すればいいことです。
我々の訴訟でいえば、相手が有利に展開するために出した資料に不備があった場合、その不備を補正出来ないうちに結審した方が有利です。
例えば訴訟で大量の署名簿を提出した時に中の1名の署名に不備があってもその他数万名の署名に影響しないならば一人くらいの署名文字が読めなくともその補充調査するよりは、その分だけ撤回するかは提出者の自由です。
証拠価値を(反対尋問等で)減殺された方が、その証拠がないと負けそうな重要証拠の時には新たな証拠提出に必要な期間を待ってくださいと頼むのが普通です。
国会で野党が政府新たな資料を出すまで審議に応じないというのは、この逆をやっていることになります。
これを論理的に見れば、政府はその資料がなくとも法案の結論が左右されない・あってもなくともいいおまけの余計な発言(大臣失言)や資料に対する揚げ足取りでしかなかったという前提・・野党が問題にしている資料ミスや大臣発言は法案審議の帰趨に関係ない無駄な資料であることを野党が自己証明していることになります。
野党は政党として独自意見があればその主張をすればいいのですから、政府提出資料の一部にミスがあれば、それがなかった時にその法案の決定にどういう影響があるか、あるいは大臣の「問題』発言がその法案とどういう関係があるかを論じれば良いことです。
担当大臣が法案を十分理解していないことが時々問題になりますが、法律というのは(実務運用して見ないとどういう不都合があるか分からないのが原則で)運用するのは法ができてから一定期間経過後の現場ですので、半年〜1年で交代していくのが原則になっている担当大臣が数年先の運用を即座に想定して答えられないのは当たり前のことです。
これを前提に最近の法律では、施行数年後に実務運用を見ての見直し規定を置いている法律が増えてきました。
物理的な車や洗濯機等の機械類でも実験の繰り返しだけではわからないので、販売後実際にユーザーが使ってみてその使い勝手によって、さらに修正・磨きをかけて行くのが普通です。
「まして生身の人間相手の法律においておや!」と言うことです。

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