メデイアと学者の煽り3(日露戦争2)

ここで講和条約交渉で過大な要求を煽り、日比谷焼き討ち事件の大元になった帝大7博士は元々早期日露開戦を求める過激意見書を発表していました(東京朝日新聞に全文掲載されたのでまとまって残っているようですので、これを見ておきましょう。
講和条約反対論は時局演説や新聞での片言隻句の引用程度でしょうから、まとまった引用文献が見当たりませんが、街頭演説となればその過激発言ぶりはこの意見書から推して知るべきです。
意見書とはいうものの学者の論文とはとても言えない・・長いですが、そのレベルが分かる程度に一部引用して紹介しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%9A%E5%A3%AB%E6%84%8F%E8%A6%8B%E6%9B%B8

七博士意見書(しちはくしいけんしょ)とは、日露戦争開戦直前の1903年(明治36年)6月10日付で当時の内閣総理大臣桂太郎・外務大臣小村壽太郎らに提出された意見書。

およそ天下のこと、一成一敗間髪を入れずよく機に乗ずれば、禍【わざわい】を転じて福となし、機を逸すれば幸い転じて禍となす。
外交のこととくに然りとなす。しかるに顧みて七八年来、極東における事実を察すれば往々にしてこの機を逸せるものあり。
遼東還付のさい、その不割譲の条件を留保せざりし?は、これ実に最必要の機を逸せるものにして、今日の満州問題を惹起する原因といわざるべからず。
のちドイツが膠州湾を租借するや、薄弱なる海軍力?をもって長日月を費やし、もって我が極東に臨む彼の艦隊や顧みて後継の軍力ありしにあらず。進んで依拠すべき地盤ありしにあらず。
渺々として万里に懸軍するの有様なりしをもってこの機に乗じ、掲ぐるに正義をもってし、臨むに実力をもってせば、たとえ彼裕大な欲望を有するも、何をもってかこの正義とこの強力に抵抗することを得んや。
当時もしドイツをして膠州湾に手を下すあたわずんば、露国もまた容易に旅順大連の租借を要求することあたわざりしや明らかなり。
然るに我邦逡巡なす所なく、遂に彼らをしてその欲望を逞しうするを得せしめたるは、実に浩嘆の至りにたえず。
機を逸するの結果また大ならずや。
・・・・・・・・・・
このときに当り空しく歳月を経過して、条約の不履行を不問にふし、若しくは姑息の政策により一時を彌縫せんとするがごとき終わらば、実に千載の機会を逸し、国家の生存を危うくするものとなすべからず。
噫、我邦既に一度遼東の還付に好機を逸し、再びこれを北清事件に逸す。
豈にさらにこの覆轍を踏んで失策を重ぬべけんや。既往は追うべからず。ただこれを東隅に失うも、これを桑楡に収むるの策を講ぜざるべからず。
特に注意を要すべきは、極東の形勢漸く危急迫り、既往の如く幾回も機会を逸するの余裕を存せず。
今日の機会を失えば、遂に日清韓をして再び頭を上ぐるの機なからしむるに至るべきこと是なり。
今日は実に是千載一遇の好機にして、しかも最後の好機たるを自覚せざるべからず。
この機を失いもって万世の患を遺すことあらば、現時の国民は何をもってかその祖宗に答え、また何をもってか後世子孫に対することを得ん。
今や露国は次第にその勢力を満州に扶植し、鉄道の貫通と城壁砲台の建設等により、漸くその基礎を堅くし、殊に海上においては盛んに艦隊の勢力を集注し、海に陸に強勢を陪蕩しもって我邦を威圧せんとすること最近の報告の証明するところなり。
ゆえに一日を遷延すれば、一日の危急を加う。
しかれども独り喜ぶ、刻下我が軍力は彼と比較してなお些少の勝算?あることを。
しかれども、この好望を継続し得べきは僅々一歳内外を出ざるべし(もしそれその軍機の詳細は多年の研究の結果これを熟知するも事機密に属するをもってここにこれを略す)。
この時に当りて等閑機を失わば、実にこれ千秋の患を遺すものと問わざるべからず。
今や露国は実に我と拮抗し得べき成算あるに非ず。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼れ地歩を満州に占むれば、次に朝鮮に臨むこと火をみるが如く朝鮮すでにその勢力に服すれば、次に臨まんとする所問わずして明らかなり。
ゆえに曰く。今日満州問題を解決せざれば朝鮮空しかるべく、朝鮮空しければ日本の防禦は得て望むべからず。我邦上下人士が今日において自らその地位を自覚し、姑息の策を捨てて根底的に満州問題を解決せざるべからざる所以まさにここに存す。
今や我邦なお成算あり。これ実に天の時を得たるものなり。しこうして、彼れなおいまだ確固たる根拠を極東に完成せず。
地の利全く我にあり。しこうして、四千有余万の同胞は皆密に露国の行為を憎む。これ豈人の和を得たるものに非ずや。
しかるに、この際決する所なくんば、これ天の時を失い地の利を棄て人の和に背くものにして、地下祖宗の遺稟を危うくし、万世子孫の幸福を喪うものといわざるを得ず。
あるいは曰く。外交の事は慎重を要す。英米の態度これを研究せざるべからず。独仏の意向これを探知せざるべからずと。
まことにその如し。しかれども諸国の態度は大体においてすでに明らかなり。独仏の我に左袒せざるは明亮にして、また露国のためにその戦列に加わわざるもまた瞭然たり。
なんとなれば日英同盟の結果として、露国とともに日本を敵とすることは同時に英国を敵とする決心を要するものにして、彼らは満州のためにこの決心をなさざるべければなり。
米国の如きはその目的満州の開放にあり。満州にして開放せらるればその地主権者の清国たると露国たるとを問わず単に通商上の利益を失わざるをもって足れりとす。ゆえに極東の安全清国の保全を目的とせる外交においてこの国を最後の侶伴となさんと欲するは自らの行動の自由を束縛するものに外ならず。ゆえに米国の決心を待ちて強硬の態度をとらんと欲するは適切の手段に非ず。
これを要するに、吾人はゆえなくして漫りに開戦を主張するものには非ず。また吾人の言議の的中して後世より預言者たるの名誉を得るはかえって国家のために嘆ずべしとするものなり。
噫、我邦人は千載の好機の失うべからざることを注意せざるべからず。
姑息の策に甘んじて曠日彌久するの弊は結局自屈の運命をまつものに外ならず。ゆえに曰く。今日の時機において最後の決心をもってこの大問題を解決せよと。

長すぎるので途中割愛しましたが、(関心のある方は冒頭の引用先に入って全文お読みください)これが学者の論文と言えるものでしょうか?
単なる政治アジテート・檄文にすぎません。
南原繁氏の論文・ナチスや日本の全体主義批判を内務省がチェックしたものの純粋な論文であって、政治アジテート性がないので発禁処分等の問題にしなかったことを紹介したことがありますが、その時も書きましたがひどく難解な論文です。
この部分をもう一度引用しておきましょう。
https://kotobank.jp/word/国家と宗教-65224

「国家と宗教」南原繁著。 1942年刊。「ヨーロッパ精神史の研究」という副題がついているとおり,ギリシア思想から始って危機神学にいたるまでのヨーロッパの思想や理念を論じたものであって,きわめて高い学問的価値をもつものとされている。だが本書の意義はいま一つ別のところにある。これは実は国家神道を背景とした当時の祭政一致思想や超国家主義に対して抗議し,対決しようとしたものである。これが発売禁止とならなかったのは,アカデミックな著作であったためといわれている。

戦前どころか戦時中にナチスや日本の全体主義批判を公にしても、純粋な学問の自由は十分尊重されていたことがわかります。

軍部責任説2(マスメデイアの報道は公正か?)

時の経過で本当に日本軍人が南京大虐殺や慰安婦強制連行をしたのかについて疑問が起きてきたのは当然です。
「戦犯とは何だ!という疑問も起きてきます。
戦犯とは戦争当時に締結されていた戦時条約違反者のことであって、戦勝国が勝手に決めたルールで裁くことこそ条約違反であり戦争犯罪です。
まして後の人権思想で裁く権利ではありません。
この点については後で戦時国際法やマーストリヒト条約等の紹介をしながら書いていく予定です。
国民から湧き上がる疑問に対して左翼・文化人は答えることができません・・。
そこで、アメリカの戦後秩序を否定するのか?と言わんかのような国際宣伝をしてみたものの、慰安婦騒動ではアメリカにはしごをはずされ、その後トランプ氏と安倍政権が仲良くやっていることもあって、うまくいかないので、国連等へ行って日本には言論の自由がないと主張する人が増えてきました。
数年前に児童売買春関連で国連調査官を招いて(公的議決によるので個人が招く訳がはないでしょうから、日本の言論状況調査の必要性を強調し調査官派遣決議実現に尽力した人がいるのでしょうか?)少女の10何%かがやっていると言う記者会見だったかを誇らしげにブログか何かで発表していたことが話題になりましたが、この再現のようです。
この委員会委員長は日本の弁護士であるとのネット報道があったような記憶です。
委員長が独裁的に決めるものではないものの、いろんな国際会議での議長国になると議事進行等の裁量権が半端でないことが知られています。
https://blog.goo.ne.jp/hanamiduki87/e/6ccf38ccbdd4259fd27b7d85ad4ab2e2

日本の「報道の自由度」は過去最低、国連調査官の訪日と警告
2016年04月22日 | 社会のニュースを考える
報道自由度ランキング、日本は72位 3年連続で順位落とす
(TBSニュースi)
国際ジャーナリスト組織=「国境なき記者団」は、報道の自由に関する2016年の世界のランキングを発表しました。日本は72位に後退し、3年連続して順位を落としています。
「国境なき記者団」が発表した「世界報道の自由度ランキング」では、世界180の国と地域の報道がメディアの独立性や透明性などを基準に評価されています。
日本は、前年から11ポイント後退して72位でした。国境なき記者団は、安倍政権がメディアの独立性を脅かしていることや、主要メディアの自己検閲が増加していることなどが日本の民主主義の土台を危ういものにしているとしています。また、福島原発、日本の国防などが“国家機密”となっていて、ジャーナリストの取材を防ぐ厳しい法律で守られていると指摘しています。
最も報道の自由度が高い国はフィンランドで、70位に韓国が入ったほか、中国は176位、北朝鮮は179位、最下位はエリトリアでした。(20日21:55)
・・・ケイ氏はこの日、東京都千代田区の日本外国特派員協会で記者会見。番組に政治的公平を求める放送法四条の廃止を提言し、「メディア規制から手を引くべきだ」と述べた。高市氏には何度も面会を申し入れたが、会えなかったという。

上記はランクが下がったことを自慢のように「どうだ!と言いたいらしい人のネット記事ですが、世界中で国防関係機密情報あるいは原子力情報(テロリストの手に渡ると大変なので)を無制限開示している国がある筈がありません。
日本がこれを世界標準に近づけようと努力しただけで、これを理由にしてもともと機密にしている国よりも言論自由度を低くする理由にすのは論理的意見とはいえません。
また、一定方向へ誘導する言論がメデイアで幅を利かしていて公平でないことに対するネット上の非難が強まると、「言論が不自由になった」と国連機関を利用している疑いをもたれるようになってきました。
これまでマスメディアが情報発信を寡占していたので、報道の偏りに不満があってもマスメデイアが取り上げない限り自由な批判発表の場がなかったのでメデイア界を牛耳っている人が偏った意見を垂れ流しても批判できなかった・言論の不自由な社会でした。
ネット発達によってマスメデイアが偏っていると言う非難が自由に出回るようになってメデイア関係者が従来通り言いたいことを100%言えなくなるのはむしろ健全化したことではないでしょうか?
彼らが批判を意識して萎縮している現状について、国連調査官が来日して偏向報道批判の根拠になっている「メデイアの公平論を外せ」と提言しているようですが、電波に限りある以上・・・テレビ放送できるマスメデイアは、日本に何社もない寡占市場です・・・寡占企業が独占的地位を利用して報道の自由と称して一定の立場に偏った報道をして良いのか?と言う意見には、一定の合理性があります。
思想の自由市場論が成り立っていないからです。
鉄道や電力のような地域独占を認める産業では提供サービスや対価を自由に決められない規制があるのは当たり前のことで、独占~寡占と規制とは裏腹の関係です。
「公平報道規制をなくせ」という意見をメデイアの主張としてではなく、国連調査官報告という権威を借りて大規模に報道するならば、同時に偏頗報道規制が必要、あるいは参入規制撤廃が必要という反対意見報道もすべき・・反対意見併記が公正な報道態度でしょう。
国連調査官による言論不自由度批判を報道する時には、メデイアの公平性必要を言わずに国連調査官の批判を「神のお告げ」のように宣伝していたのに、今になって中立性というか「規制」の必要性を大規模に主張し始めたのは不思議です。
日経新3月26日朝刊3pには、大見出しで
『放送の政治的公平』撤廃も」
の大規模報道が突如出てきました。
政府が規制改革というか番組制作部門と放送インフラの2階建構造に改組して、一般ネット通信企業にインフラを開放する構想をしていることに対するメデイア界の危機感の表明らしいです。
上記開放が実現するとネット通信にはもともと放送法4条の政治的公平その他の規制がないので、放送法の規制そのものがなくなるというのですが、日経新聞の主張?メデイア界の反発主張は、規制がなくなれば好き勝手な放送が始まり
「偏った番組懸念」

という大きな縦書きの見出しがついています。

「首相は1月末の新経済連盟の会合で『ネットテレビには放送法の規制がかからない』と主張」規制撤廃に意欲を示した」

と危機感を煽っています。
既存メデイアは放送法の公平性を守っているから良質な放送をできているが、規制がなくなれば

「放送法に詳しい立教大砂川教授は第4条が撤廃されればフェイクニュースが話題になったように情報がどんどん偏る」と語る」

と主張しています。
国連調査官まで招いて?「4条の規制を外せ」と煽っていたのに、政府が「それでは参入を自由化して皆で好きに報道したいことを報道できる制度にしたらどうだ」と方針表明すると今度は既得権益喪失危機感表明の大合唱です。
憲法学者の言う「思想の自由市場」とは、左翼系メデイアの寡占支配を前提にした仮想現実で自己満足していたように見えます。
本当に表現の自由が始まると今までメデイアが「一方的に行なっていた主張ができなくなり競争に負けそう」という悲壮感アリアリの報道です。
「日テレ社長『容認できない』との大きな見出しも出ています。

戦前政党政治の失敗の原因(政治能力の未熟2)

政党内閣に関するウイキペデイアの記事からです。

大正7年(1918年)9月に立憲政友会の原敬が内閣を組閣した。この内閣は閣僚の大半が政党所属であった。また原が衆議院に議席を有する現役衆議院議員の初の首相であったことから政党内閣として画期的存在とされた。
特に1925年の男性普通選挙により成立した護憲三派の加藤高明内閣から始まる政党内閣6代の頃には政党内閣は「憲政の常道」として定着した。その背景には元老のなかでただ一人存命していた西園寺公望の意向があった。西園寺はイギリスの立憲政治を理想としており、政党内閣に比較的好意をもっていたからであった。
普通選挙は実現し、有権者は大幅に増加したが、それは政治資金の巨額化に伴うことであった。

その結果、選挙資金を得るためという政治腐敗の増加を招いた。政党間の政権交代は総選挙という国民の審判を通じて行われるのが本来の形である。しかし、この頃の政党は官僚や軍、枢密院などの勢力と結んで倒閣をめざし、それを果たした野党が議会の少数派のままで組閣し、与党という有利な条件のもとで総選挙に勝って第一党へ躍進するという形式が政権交代の基本的形式となった。政党内閣は政党間の対立という困難な問題を処理できないままに1930年代を迎えた。

そこに中国問題の深刻化、昭和金融恐慌、世界恐慌による経済危機、世界的な軍縮の流れに対する軍部の反発など、内外の危機に対して十分に対処しえなかった。その結果、海軍・陸軍、官僚、国家主義団体などを中心に政党政治への不満が高まった。そして1932年5月、海軍青年将校らによる犬養毅首相の暗殺(五・一五事件)と西園寺が軍部・世論の反対から犬養後継に政党党首を立てるのを断念したことをもって政党内閣は終わりをつげた。

上記を見ると、在野政治家は実務能力が低いのに「憲政の常道」と称して、西園寺が(民意の支持を無視して)形式的な政権交代制を採用していたのが政党の健全な成長の芽を摘んでしまったように見えます。
経験がないなりに実務に基づいて堅実政治をしている与党の支持がせっかく多くなっていても、政変の都度毎回少数野党に政権が変わるので、結果的に野党が国民の支持獲得を目的にせず、メデイア受けする空虚なスローガン頼りで政権攻撃する習慣になっていったように見えます。
メデイアの煽りで(本当は国民の多くが冷めていても冷めている人はデモしませんので)国会周辺が騒がしくなると「民主主義」という言葉の魔力でこのままでは政権維持不能となって内閣総辞職になります。
メデイア頼りの運動の限界を補うために軍部でもなんでも倒閣に利用できるものは利用していった結果軍部がどんどん発言力を持つようになってガン細胞のようになってしまったと見るべきでしょう。
戦後は揚げ足取りで倒閣に追い込んでも次の内閣は(本当に国民支持を受けている与党から樹立されるので、野党の揚げ足取り攻撃は意味がなくなっています。
ところが戦前成功例を夢見て戦前の揚げ足取りの「世論」という名でメデイアとの二人三脚での政権攻撃を戦後も繰り返してきたことになります。
実際に揚げ足取りで倒閣してもその次の選挙で社会党が勝ったことがないので、(60年安保だって政権交代はありませんでした)国民多くは安保反対でなかったのです。
まして政策論争のない揚げ足取りだけでは、政権交代になるはずがありません。
今回も森かけ問題による倒閣運動が盛んですが、政策論争でないので、安倍内閣が辞任しても野党への政権交代になる余地がありません。
内閣弱体化運動=国家に必要な政策遂行能力を弱める運動でしかないのです。
実務経験のない野党は無責任な観念〜原理論しか言えないので、国民が成熟してくると支持が減る一方になります。
そこで元官僚を野党が取り込んで現実野党を目指し・これを売り物に民主党が政権を一旦握ったのですが、多くが官僚の傍流であり、明治初期の板垣らと同じ傾向が出て・第一次大隈内閣同様の大失望を買ってジリ貧になってしまいました。
話題を元に戻しますと、23日まで紹介した小西氏も東大卒・元官僚で・東大教授の名前程度は知っていることを鼻にかける特徴にも現れています。
明治期の政治家が、ちょっと官員さんをやったことを誇って庶民に訴える傾向がありましたが、今でも在野政治家はその傾向を引きずっているようです。
明治初年と違い今では、元「官員さん」東大卒の有り難みが薄れています。
東大卒や国家公務員の中でも2〜3流人材・出世できそうもない不満分子が在野になって政治家になっていたこともあって、戦前の政党レベルが低く「あら探し」しかできない結果政党の根腐れ現象を起こしたことが上記「政党内閣」の紹介でわかります。
それをうまく利用して(・・当時陸士や海軍兵学校出身といえば今の東大卒よりもエリートでした)空隙を埋めるように軍部がガンのように育っていったと見るべきでしょう。
戦前政治家は「アラ探し」政治に終始していたので、国民に呆れられてしまい政党政治を自ら葬ってしまった点を反省すべきです。
軍部に頼っていた野党は、(国民を欧米流の単純な2項対立社会化→民族分断を企図していた)GHQ占領政治・・軍国主義批判→国民や政党は被害者という宣伝に便乗し・・またもや時の権力に媚びへつらって「国民や政治家が軍部や権力の弾圧によって窒息させられた」・・・「軍部や治安維持法が悪い」と宣伝してメデイア・言論界が被害者意識強調ばかりしてきました。
挙句に「戦犯批判・靖国合祀を許せない」と中韓まで応援団に引き込んで国民分断作戦に肩入れしてきたのが左翼や文化人です。
今の慰安婦騒動に限らず日本の国難は戦前から今まで、ずっと野党とメデイアの二人三脚プラス軍部や外部勢力引き込みで育て上げてきたものばかりです。
軍部を育てて言論を窒素させて行ったのは野党政治家とこれを応援するメデイアそのものだったことを今日まで見てきました。
戦後ずっと、メデイアの宣伝にさらされている国民の多くが、メデイア界も政治家も戦前権力による被害者だったかな?と誤解している人が多いでしょうが、逆に彼らのほうが弾圧を煽っていた張本人でした。
政府権力者(滝川事件でも背後で就職先を世話するなど尽力していた西園寺公望)の方が、如何にして政党政治を守り育てるかに腐心していた・肝心の民意無視で形式的な政権交代に重きをおいた)様子を紹介します。
簡略にみるには以下の記事が重宝です。
https://hosokawa18.exblog.jp/20192131/

戦前の政党政治はなぜ終焉したか
・・・昭和になってからは 「西園寺公望」 しか元老がいませんでしたから、
昭和における首相は全てこの男一人の手によって決められたのでした。
西園寺は 「政友会」 と 「民政党(憲政会)」 から交互に首相を奏薦します。
若槻礼次郎(憲政会)が金融恐慌の処理にミスって退陣したら、その次は田中義一(政友会)。
田中義一が張作霖爆殺事件で昭和天皇の勘気に触れて総辞職すると、次は浜口雄幸(民政党)。
浜口雄幸がテロによって倒れると、その次は若槻礼次郎(民政党)。
若槻礼次郎が満州事変の処理を巡り総辞職に追い込まれると、その次に首相に奏薦されたのが犬養毅(政友会)。これが 「憲政の常道」 たる 「西園寺ルール」 ですが、首相がテロで倒れた場合は政権交代させてません。
さもないと暗殺合戦が始まっちゃいます。
浜口首相がテロで倒れた後、首相に奏薦されたのは同じ 「民政党」 の若槻礼次郎でした。
このルールでいくと、次の首相は新しく政友会の総裁となった 「鈴木喜三郎」。
鈴木喜三郎もその気マンマンで、首相になる準備を始めています。
しかし西園寺は 「海軍出身」 の斉藤実を次期首相に奏薦。
これで戦前の政党内閣は終わりを告げたのでした。
つまり戦前の政党内閣が終焉した原因。それは・・・
「西園寺が鈴木喜三郎を首相に奏薦しなかったから」
この一言に尽きます。
なぜ西園寺は 「鈴木喜三郎」 を首相にしなかったのでしょうか。
まず 「政友会」 と 「民政党」 の抗争が激しすぎたコトが挙げられるでしょう。
国内・国外で問題が山積みなのに、とにかく彼らは党利党略が優先。帝国議会はお互いのスキャンダル暴露合戦と化しており、日本にとって害を及ぼすレベルにまで来ていました。
そして 「政友会」 があまりにも親軍的な政党と化していたコトも問題でした。
犬養首相は 「憲政の神様」 と呼ばれただけあって、党内のこうした勢力を抑えていたのですが、鈴木喜三郎は親軍派の代表的な人物であり、むしろ軍部よりも強硬意見の持ち主。
「こんなヤツを首相にしたら、日本がファシズム化しかねない」
それに比べて 「斉藤実」 は海軍出身ではありましたが、穏健で常識的な人。
「政党は平和で、海軍は戦争」
決してそんなコトはありません。
この場合は鈴木よりも斉藤を首相にした方が平和を望めたのでした。

天皇機関説事件でも紹介しましたが、政府会は政敵を攻撃するために時の政府が機関説を支持していることを攻撃し政党政治の理論的支柱である天皇機関説を潰す方を選んだのです。
以上紹介して来たように、社会党や民進党が政策論なしに政権や大臣の揚げ足取りに終始する体質は、戦前政党の悪しき系譜・DNAを引きずっていることがわかります。

メデイアや野党による政府追及1と思想弾圧2

実際に美濃部達吉の天皇機関説事件では内務省がメデイア世論に押されて告発したものの、検事調べで起訴猶予処分になって終わっていますし、京大の滝川事件でも、大学を(国家公務員の地位を)追われるかどうかだけで刑事処罰されたものではありません。
美濃部事件では野党政友会によるもので政府が対応するしかなくなったのですが、政府中枢どころか、天皇陛下でさえ美濃部説を支持していたと言う発言記録があるほどです。
天皇機関説事件に関するウイキペデイアの記事からです。

昭和天皇の見解
昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。昭和天皇は「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と本庄繁武官長に話し、真崎甚三郎教育総監にもその旨を伝えている[7]。国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていた(『本庄繁日記』)。また鈴木貫太郎侍従長には次のように話している。
主權が君主にあるか國家にあるかといふことを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれども、ただ機關説がよいとか惡いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ — 『西園寺公と政局』

滝川事件も以下で紹介するように政府中枢がメデイアの煽る世論に仕方なしに妥協的な処分をした裏事情が出ています。
半可通の右翼青年が政治力を何故持つようになったかといえば、民主主義がなかったのではなくむしろ民意重視の古代からの我が国で民意・・世論を偏った方向へ煽るメデイアの害が大きかったのです。
日露戦争講和条約に対する不満(戦勝したのに戦利品が少ない不満)で集まった暴徒による日比谷公園焼き討ち事件が知られていますが、素人が日ロの戦力比や国際情勢の機微を知る由もないので、半可通の極論を言う一部人士の言説をあたかも正義のようにメデイアが煽ってこれに軽薄な階層(メデイアを読む当時の知識人?)が反応したに過ぎないことは歴史が証明して・・ポーツマス条約は国際的根回しの成果・・当時の国際環境下では最大の成果であったことについて争いがないでしょう。
日比谷公園焼き打ち事件に関するウイキペデイアの記事です。

ロシア側はあくまで賠償金の支払いを拒否する。日露戦争の戦場は全て満州(中国東北部)南部と朝鮮半島北部であり、ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないという理由からであった。日本側の全権・小村寿太郎はロシアとの交渉決裂を恐れて8月29日、樺太の南半分の割譲と日本の大韓帝国に対する指導権の優位などを認めることで妥協し、講和条約であるポーツマス条約に調印したのであった。 この条件は、国民が考えていた条件とは大きくかけ離れるものであった(日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順 – ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。一部政治活動家の中にはイルクーツク地方以東のロシア帝国領土割譲がされると国民を扇動する者までいた)。このため、朝日新聞(9月1日付)に「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと書かれるほどであった。

当時はまだ民主主義制度が根付いていなかったので、政府は半可通知識にもとずく極論・暴動を無視していればよかったのですが、大正時代に入ってくると、メデイアによる世論形成効果(読者層が増えてきた)・・アオリ効果が多くなってきたので、半可通の知識人?やメデイアによる右翼扇動が(メデイアの一方的な報道がなければ条約交渉の推移など一般人が知る余地がありません)世論を形成し、国政を左右するようになって国家の方向性を誤らせてしまったのです。
戦前の軍国主義・いかに政府権力が怖いか・政府がいかに悪かったかを戦後メデイアや文化人が他人事(自分が被害者)のように宣伝をしていますが、右翼思想を煽って際限ない吊るし上げ政治・言論を萎縮させて行ったのはメデイアであり、半可通知識人だったのです。
ちなみに現在政府批判の急先鋒である朝日新聞は戦前には右翼の主張を煽って政府批判していた代表的メデイアであり、(上記日比谷事件でも朝日新聞の名が出ている他、後記上海新聞事件に関する論文を見れば天皇機関説事件その他で政府批判をしては、その都度軍部の力が伸長するのに貢献してきた疑いがあります。
メデイア界はこぞって軍部に媚びては次々と普通の学問まで標的にしてはまともな政治を出来なくしていったものであり、占領軍が来ると今度は占領軍軍政方向に協力し、占領軍がいなくなると中ソの宣伝機関化して戦前暗黒時代の宣伝に邁進するようになります。
日本社会の戦前戦後の違いは、メデイア界が右翼を煽るか左翼を煽る(対中韓失言報道を煽っては大臣罷免を要求するなど)かの違いであり、メデイアの誘導する民意?に基づく政治を前提にする点は同じです。
天皇機関説事件に関するウイキぺデイアの記事です。
天皇機関説事件とは1935年に起こった事件。当時の岡田内閣を倒閣させるための野党などによる攻撃に天皇機関説という憲法解釈が利用され、文民である内閣による軍事への影響力の根拠である「統治権は法人である国家に属し、国の最高機関である天皇が政府の輔弱を受けて行使する」が攻撃された。
議会の外では皇道派が上げた抗議の怒号が収まらなかった。しかしそうした者の中にはそもそも天皇機関説とは何たるかということすら理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいるという始末だった。
最終的に天皇機関説の違憲性を政府およびその他に認めさせ、これを元に野党や皇道派[1]が天皇機関説を支持する政府・枢密院議長その他、陸軍統制派・元老・重臣・財界その他を排撃を目的とした政争であった[2]。
上記によれば、政府が弾圧したと言うよりは、現在政治同様に政策論争よりは野党の揚げ足取り政府批判に端を発し・これをメデイアが大々的に報じて世論を誘導して、内閣が対応するしかなくなった事件です・権力による弾圧ではなくメデイア攻勢に権力が屈した事件です。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC-102675による解説です。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
天皇機関説
一木門下の東大教授美濃部達吉(みのべたつきち)は、日露戦争後、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたG・イェリネックの学説を導入し、国民代表機関たる議会は内閣を通して天皇の意思を拘束しうるとの説をたて、政党政治に理論的基礎を与えた。京都帝大教授佐々木惣一(そういち)もほぼ同様な説を唱え、1920年代には天皇機関説がほとんど国家公認の憲法学説となった。
【政友会】より
… 続く岡田啓介内閣も中間内閣として成立したため,政友会はこれを支持せず,入閣した3閣僚は政友会を脱党した。一方,1935年に軍部や右翼が中心となって国体明徴問題がおこると,政友会はこれに同調し,民政党などとともに国体明徴決議案を提出して鈴木総裁みずからが提案説明に立ち,政友会は立憲主義を基礎づける美濃部達吉の天皇機関説を否定するという政党にとっての自殺的行為に踏み出した。

上記の通り政党自身が政党のよって立つ憲法学説を批判して否定の論で気炎をあげる・「政敵を攻撃するためには何でもやる・・日本の将来など気にしない」と言う政党の低レベル行為が、日本の代議制民主主義の病理現象を拡大し日本を破滅の淵に追い込んでいった・まだ民主主義を使いこなせなかったように見えます。

左翼系文化人の伸張2(ポポロ事件)

16年9月4日に書き始めていた「占領政策と左翼系文化人の伸張1」以来アメリカ政府に対するコミンテルンやユダヤの影響に逸れていましたが、日本の文化人が何故左翼系中心になったかのテーマに戻ります。
左翼系文化人はニッポン民族批判にはアメリカ基準・・言論の自由や人権が・・と騒ぐのですが、国際政治になるとイキナリ旧ソ連や中韓の応援します。
高度技術漏洩防止の必要性や、防衛の必要性になるとイキナリアメリカ軍が使っていた軍国主義国家論が復活すると言うスローガンが出回ります・この二重基準の基礎にはルーズベルトの二重基準・反共国家の指導者でありながら容共体質・によって占領政治が始まったことにあります。
今のトランプ大統領が、個人的にはプーチンや中国の独裁政治・自国中心主義の身勝手な政治に対する賛美する資質を隠していませんが、その分ロシアゲートなどで国民批判を受けて反中・反ロシア政策をとるしかないねじれ現象担っているのと似ています。
アメリカ占領政策初期の政策にはルーズベルトのスターリン贔屓の影響でコミンテルン・今の言葉で言えば「グローバル化」の貫徹)とアメリカ民族主義の本音が混在していたことになります。
以下はルーズベルトと共産主義の関係に関する記事です。
http://ameblo.jp/rekishinavi/entry-11586757334.htmlの引用です。
「ヴエノナ文書とは第二次世界大戦前後の時期にアメリカ政府内部に多数のソ連のスパイが潜入 してことを暴いた文書で、アメリカの情報公開法に基づいて開示されたのですが、江崎氏が研究すればするほど、ルーズヴェルトはソ連やCHINA共産党と通 じていたことが明らかになってきたそうです。」
上記研究の信頼性は分りませんが、(意見には当然反論があり得ます)アメリカ本国では(ルーズベルト死亡後彼が政権に引き入れていた共産主義信奉者の影響が大き過ぎることに懸念が生じ)その後周知のとおりマッカーシー旋風で共産主義者が政権中枢から一掃されますが、それほどまで政権中枢にコミンテルンの細胞?が浸透していたことが分ります。
日本では独立後占領支配権力・・公式にはアメリカは反共陣営筆頭です・・が縮小して行く過程で、左翼系文化人は一旦勢力を張った大学やマスコミでの支配勢力維持のために、アメリカの持ち込んだ思想表現の自由・・これを拡大した大学の自治?をそのまま主張して民族系学者の復帰・浸透を許しませんでした。
大学研究機関、マスコミ界では共産系思想家はそのままとなり、却って自由主義系学者は後ろ盾がなくなり共産主義思想が大学等研究機関での支配勢力になって行く原因になりました。
現在でもNHKの「偏った」報道に対する批判に対して、「報道の自由」と言う偏った?意見で反論しているのがその代表的現れ方で、戦後ずっとこのやり方で学問の自由、大学の自治などで聖域化してやってきました。
この代表的事件がいわゆるポポロ事件でした。
ウイキペデイアからの引用です。
ポポロ劇団は1952年2月20日、東京大学本郷キャンパス法文経25番教室で松川事件をテーマとした演劇『何時(いつ)の日にか』(農民作家・藤田晋助の戯曲、1952年1月発表[1])の上演を行なった。これは大学の許可を得たものであった。上演中に、観客の中に本富士警察署の私服警官4名がいるのを学生が発見し、3名の身柄を拘束して警察手帳を奪い、謝罪文を書かせ、学生らが暴行を加えた。奪った警察手帳は東京大学の決議によって警察に返還されたが、警察手帳のメモから少なくとも1950年7月以降から警察が東大内を張込・尾行をして学生の思想動向等の調査を行っていたことが判明した。私服警官に暴行を加えた2人が暴力行為等処罰ニ関スル法律により起訴された。
最高裁判所大法廷は昭和38年5月22日、原審を破棄し、審理を東京地方裁判所に差戻した。理由として
「大学の学問の自由と自治は、大学が学術の中心として深く真理を探求し、専門の学芸を教授研究することを本質とすることに基づくから、直接には教授その他の研究者の研究、その結果の発表、研究結果の教授の自由とこれらを保障するための自治とを意味すると解される。大学の施設と学生は、これらの自由と自治の効果として、施設が大学当局によつて自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められるのである」。
しかし、
「本件集会は、真に学問的な研究と発表のためのものでなく、実社会の政治的社会的活動であり、かつ公開の集会またはこれに準じるものであつて、大学の学問の自由と自治は、これを享有しないといわなければならない。したがって、本件の集会に警察官が立ち入ったことは、大学の学問の自由と自治を犯すものではない」。

上記の通り事件としては公開の集会だから警官の立ち入りが違法でないとされたものの、前提としての大学自治が保証される判決でしたので、大学側の要請がない限り犯罪行為があっても警察が踏み込めないかのような行き過ぎ・・聖域化が始まり、教授吊るし上げ等のやり放題・以後荒れる大学が生まれる素地になっていきました。
民放の場合には顧客による選別・市場選択権がありますが、国営放送の場合一方的中韓政府主張代弁報道ばかりされたのでは、国民は溜まりません。
この批判不満が漸く進出して来たのが昨今ですが、マスコミ界は報道の自由論で一歩も引きません。
この種の意見は、日弁連の政治運動に対する批判に対しても「弁護士会自治」と言う理論で批判を寄せ付けないのと軌を一にしています。
私が大学を出た頃には経済学と言えば、近代経済学派系よりはマルクス経済学派系の方がマスコミで大事にされていて、隆盛な印象を持つ時代でした。
歴史・・漫画その他一般的ストーリーでも唯物史観が幅を利かしていました。
マルクス経済学者である美濃部氏が共産党から出て都知事を何期かやったのは、その直後頃でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki
革新統一による知事として知られ、政党では日本社会党と日本共産党を支持基盤とする革新知事として1967年(昭和42年)から1979年(昭和54年)の12年間(3期)に渡り、東京都知事を務めた。
どちらの経済論理が正しかったかはソ連の破綻、何千万の餓死者を出していた中国の失敗をみれば明らかですが、間違っていた共産主義理論が、学問組織内では逆に圧倒的優勢だった・・現在もこれが続いていることに学問の自由とは何か?と言う歴史の真理があります。
「◯◯の自由」とは「一旦支配権を握った方が半永久的に専制支配を続ける自由」と読み替えることが可能です。
何回も例に出していますが、大学自治会がどこからも介入を受けない結果、過激派の拠点になっていて、大学自治会のほぼ100%が、一般学生と関係のない政治組織になっていることを想起してみれば分ります。
自治と言うものは活動家が独走を始めると構成員総意を反映しなくなっても是正方法がなくなるリスクが多い・・・実はくせ者です。
スターリンの恐怖政治は、民主的選出方法による筈の共産主義国家で起きたものです。
司法試験受験科目であった政治学言論では、共産主義国家は自由主義国家ではないが、が、民主的選任方法があるから民主主義国家であると言う分類を習いました。
何となく詭弁っポイ説明でしたが、今や北朝鮮や中国等の共産主義国家が民の声を充分に吸い上げている国であると思っている人は皆無に近いでしょう。
こんな詭弁を信じ込んでいまだに中国の肩を持って活動しているのが革新系野党です。

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