学問の自由安売り2→天皇機関説事件へ

学者の公式意見であるならば合理的根拠が必要で、根拠なし(日清戦争でいくら取れたから大国のロシアからはその何倍を取るべきという程度での主張では庶民の皮算用レベルで学者の意見とはいえません)に願望を書くだけならば、庶民の感情論と同じです。
ただし、これまで書いてきたように、(ウイキペデイアの解説には出ていませんが)「賠償金を取らないと日本経済が持たない」と言う危機感を持ってその種の説明もしていたのでしょうが、「日本に金が必要」ということと相手のあることで相手から金を取れるかは別問題ですから、いまの韓国のように「国民感情が許さない」と国内事情を対外的に喚けと主張していたことになります。
日露戦後に戦時経済の穴埋めために巨額資金が必要である点では異論がなかったと思われますが、賠償金獲得は資金手当の一方法でしかなかったことになります。
賠償金で賄うほどの戦勝ではなかった客観事実・・「負けないうちに終われてよかった」のが実態である以上は、その現実を受け入れて、戦後経済・復旧資金をどうやって工面するか、資金手当が無理ならば従来の拡大政策を修正し(民間企業でいえば、出店計画を縮小して台風や水害等で荒れた既存店舗工場の補修資金・死傷した従業員や下請け納入業者の支援などに優先配分する)腰を矯める時期・・どうやって戦争経済を平時モードに切り替えて行くかの提言こそが、学問のある人のなすべきことでしょう。
取れそうもない賠償金要求を貫徹しない政府・担当大臣を国民感情が許さないと言って政府を非難し、内閣総辞職を勝ち取ったものの、それで一件落着・結果を受け入れるしかないとなると、今度はその不平感情のはけ口・代償として満州への傍若無人な進出を煽っていったことになります。
アメリカは日本の賠償金要求を取り下げさせて満州権益を認めることで講和を仲介した以上は、「日本の満州進出に文句いえない筈」という程度の浅はかな意見で煽り続ける・・結果的に満州への傍若無人な進出を当然とする感情論が広がっていったのでしょう。
賠償金を取れなかったのは、アメリカによる不当な介入(多分日清戦争後の三国干渉の結果同様のアメリカに不当に干渉されたかのように煽っていた印象です)によるのではなく、日本の実力からみれば最大限の利益を図ってくれた現実無視の「感情論」(・・アメリカ系教会襲撃を見れば)であったように見えます。
最近のネット世論?に出る、その道の通らしい人・〇〇評論家の意見を見ていても、左右を問わずこの種の前提事実を独断的な読み方をした上で、一方的邪推の上に邪推を重ねれればこうなると言う議論が広がっていることが散見されます。
最近の憲法学者の憲法関連声明も研究論文発表とはとても言えない代物が中心である点では同様です。
憲法学者は憲法の専門家であって、政治の現場にいないのですから政治声明を出す以上は、肩書きによらない個人意見であるべきでしょう。
日比谷焼打事件でも帝大教授の肩書で出すのではなく、自己の意見が正しいと思うならば、肩書きなしで自説を展開し、国民がその意見だけを見てどのように受け止めるかでしょう。
酒の鑑評会では出品者を不明にして味を見るのがルールになっているのと同じです。
このように本来学問研究成果と関係のない政治意見(3月31日に紹介した7博士意見書を読むと学術研究論文ではなく、単なるアジテートに過ぎません)を学者の名で発表し政治運動に利用することにより、本当に必要な学問の自由を侵害する危険がこの頃から始まっていたのでしょう。
えせ学者の跳ね返り行為が過ぎたことによって、せっかくの親日国の米国に対日疑念を抱かせ仮想敵国視(いわゆるオレンジ作戦の対日適用)へ移っていく切っ掛けになっていった原因です。
紹介したウイキペデイアに

「暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。」

書いていますが、(政府は謙遜に勤めていたのに)7博士は余計なことをしたものです。
米国は7博士の主張を危険視したのではなく、米国はこのような過激派を煽る民衆運動に弱い日本政府の傾向を読みとったのは慧眼というべきでしょう。
以降学者もどきの政治運動が政治を動かす傾向が続き騒動が起きる都度事なかれ式に内閣総辞職が慣例となってしまい、日本を取り返しのつかない方向へ走らせていくのです。
現在もそうですが、「学問の自由」とは学問発表の自由であって、政治運動する行為は政治運動というべきであって、それは「学問の自由」となんら関係がありません。
それは学問ではありません。
一旦学者になれば何を言っても何をしても全て免責されるかのように主張するのは、学問の冒涜です。
「学者」という特権身分があるものではありません。
帝大教授の肩書きで発表し国民を扇動しても何をしても許されるというのは傲慢です。
単に権威を利用した政治運動にすぎません。
日露戦争後約30年後に起きた天皇機関説事件も政府が始めたのではなく、メデイアが騒ぎ、これに便乗した野党の追求によって始まったものです。
政府は学問のことは学問論争に任せせればいいであって政府は関知しないという答弁をしているのに、メデイアの応援を受けた野党がこれを追求していたことが以下の記事でわかります。
天皇機関説事件に関するウイキペデイアの記述です。

松田源治文部大臣は、天皇は国家の主体なのか、天皇は国家の機関なのかという論議は、学者の議論にまかせておくことが相当(妥当)ではないか、と答弁していた。
岡田啓介首相も文相と同様に、学説の問題は学者に委ねるべきだと答弁した。
同年2月25日、美濃部議員が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易明瞭に解説する釈明演説を行い、議場からは一部拍手が起こり、菊池議員までもがこれならば問題なしと語るに至った。
しかし、3月に再び天皇機関説問題を蒸し返し、議会の外では皇道派が上げた抗議の怒号が収まらなかった。しかしそうした者の中にはそもそも天皇機関説とは何たるかということすら理解しない者も多く、「畏れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か」と激昂する者までいるという始末だった。最終的に天皇機関説の違憲性を政府およびその他に認めさせ、これを元に野党や皇道派[1]が天皇機関説を支持する政府・枢密院議長その他、陸軍統制派・元老・重臣・財界その他を排撃を目的とした政争であった[2]
これに乗じて、野党政友会は、機関説の提唱者で当時枢密院議長の要職にあった一木喜徳郎や、金森徳次郎内閣法制局長官らを失脚させ、岡田内閣を倒すことを目論んだ。一方政府は、陸軍大臣からの要求をのみ、・・・」

結局美濃部氏の告発まで政府がやらざる得なくなる方向へ進みます。
政友会やメデイアの政権攻撃は一見反政府運動・民主的運動になりますが、いつも背後に軍部内の小数強硬意見・跳ねっ返りの支持を受けて「虎の威を借りる」運動形式だったのが本質だったのではないでしょうか?
政権党が野党になると軍部の強硬派意向を背景に今度は次の政権を追い詰めることの繰り返しでした。
戦前の議会では非常識な軍部内の経論を持ち込んでは審議妨害・倒閣運動ばかりが華やかになったのは、当時のキングメーカーであった西園寺公望の憲政の常道論によります。
彼の憲政理解・・「時の内閣が総辞職すれば当時の野党に組閣させるの正しい」という形式理解による交代論が、戦前議会を歪な方向へ曲げてしまった原因です。

日露戦争以降の政治とメデイア2

 自分で原文を書き上げ、グラフその他資料を作るとなると、いろんなパターンがあってその中から取捨選択していく作業があり試行錯誤し完成までには多角的検討を経ている上に同輩らの検討も経ています。
その結果が会議資料に出てくるのですから、日常別の業務を持っている外部委員がいきなり読む・・会議が始まっていろんな人の発言を聞きそれに一々反応しながら、同時に資料作成者が完成させる前に削ぎ落としてきた点検項目=これは配布資料に出ていません・・をその場で自分なりに想定して質問するのは容易ではありません。
ちょっと気になる点を質問する程度がやっとですが質問してみると、
「その点は資料ナンバーの何ページの10何行目以下にありますので読みあげさせていただきます・・〇〇委員のご質問はここで書いていない部分のご質問かと思われますが・・ABCのシュミレーションをしたところこのような結果になりました・・ご説明不足で申し訳ありませんでした・・」となって10分程後に別の議題の頃に追加資料がコピーして配布されることがあります。
部外者ががちょっと思い付きそうなことは、課長への説明の時に指摘されて修正し、部長説明でも補充し局長や担当役員決裁でもこれをやった結果が議題に出ているのですから、多くの目を経るうちに検討済みのことが多いものです。
部長や役員決裁段階で指摘されて再調査し直すのでは、担当者の能力不足・・あいつは役に立たないとなるので、意見の割れそうなテーマでは2〜3種類の調査結果を用意しておいて、どちらを執行部提案にするかについては部長や役員の判断とするのが普通です。
こういう経過を経るので、一般的に企業や官庁のしごとで本当によくわかっているのは課長直前の若手人材と言われています。
その企業実務慣行などに精通しない部外者(外部取締役や審議委員)はせいぜい「私の会社ではこういう調査を入れるのですが、御社はどういうやり方でやっているのですか?」「この点に問題がないか」という質問をする程度がやっとでしょう。
同じ部門出身の専務や社長が決裁する場合でもほぼ同じでしょう。
まして同業他社ではない・異業種経験しかない社外取締役や、有名ジャーナリストなど部外者の目で考えた経験しかない人が、(事前検討会議に参加しないので)いきなり膨大な資料を積み上げられて各部門から上がったいくつもの議題を次々と流れ作業的に議論して行くのでは、ほとんど機能していないのではないかと思われます。
最近社外取締役が、いくつもの企業で名を連ねているのが問題視されているのは、本業の他にそんなに多くの社外取締役になっていて、片手間で何をできるのか?という疑問にあるようにも思われます。
審議会委員や外部委員で具体的に関与している場合には、会議の場では気になったがその時の話題進行の流れから発言し損なってしまったが気にかかったテーマについて、(事前配布の資料が手持ちの場合)後日読み直して見て気になる部分の資料を担当者に補充してもらうなど個人的に聞くことは可能です。
こうした資料を直接見たこともないし議論の経過も知らない全くの部外者であるメデイアの受け売り(多くは審議会で自分の意見が通らなかった不満分子のリークでしょう)程度の意見などをメデイアが取り上げると民意・・国民多数意見であるかのような報道になるマジックです。
最近では、熊本地震のときに「みのもんた」氏がこれといった根拠なしに?自衛隊批判して大ブーイングを受けましたが、これまでこの種の根拠ない一方的決め付けをする役割をコメンテーターと言うわけのわからない芸人が担当しては、一刀両断=根拠ない断言をメデイア筋書き通りに濫発させていたことに対する健全な不満が漸く出たところです。
テレビ座談会等ではこの場面で誰がこういう発言して次にだれがこう言うと大方決めておいてどこで誰が締め括って下さいとセオリーが決まっているのが普通です。
この長年の役割分担で一見気の利いた発言をする役割をもらって来ただけのことでしょう。
ですから「みのもんた」個人の責任というよりは、こういう根拠ない極論・・無責任発言がテレビ界ウケしてきたことが、彼の個人ツイッターでも許されると増長させたのです。
熊本地震から考えると日露戦争は100年以上前のことですから、聞きカジリ程度の人でも帝大教授という肩書き利用の知ったかぶりの意見で運動すると庶民に対する影響力が大きかったのでしょう。
この頃から根拠のないメデイア意見に箔をつける役割を学者が果たす二人三脚が一般化して、メデイア意見=世論(民意)となって戦後は(CHQのプロパガンダ機関化していたこともあって)第4の政治権力と言われるように横柄になっていったと思われます。
正確には権力などない・西欧の第三身分の次に出てきた勢力という意味で第4階級というべきらしいですが、これを誤解して?権力があるかのように振舞っている点が問題です。
今では、権力を持っているかのようにのさばっているのが嫌われる意味で権力?という意味で使われるようになったので、第4の権力といってメデイア批判するのは語源を知らない間違いだと言う逆批判も行われているようです。
語源の問題ではなく、そもそもマイクさえ突きつければ政治家や経営者に平身低頭で謝罪を繰り返させる・うっかり何かを言うと「国民に向かってそんなことを言って良いのか」と嵩にかかって責め立てるやり方の本質をごまかすものです。
神威を伝える古代天皇〜時代が下ってからの将軍御側用人が将軍家の意向を伝える場面で諸大名が平服して承るのが普通になる・・・ひいては側用人の権威がいや増して行ったのと同じです。
メデイアが法律上の権力を持っていなくとも事実上民意を代表するかのように巧妙に民意を装う弊害..神威を標榜して南都北嶺の僧兵が横暴を重ねるのが政治をゆがめるのとどういう違いがあるかと言うことです。
メデイアが勝手に作り上げた「民意」を背景にした傲慢な態度はまさに政治効果でいえば現在的権力者そのものです。
メデイアは立法司法行政の3権のように「法で認められた権力を持っていない」ので、翻訳ミスだと形式論を言ってメデイア批判を封じようとする意見が流布していますが、側用人や中国歴代の宦官批判を宦官や側用人は制度上何の権力も持っていないのに、「制度を知らない無知な議論」だといって封じようとするのと同じです。
公式権力を持たないメデイアが情報拡散手段を独占するようになって、メデイアの特定方向への煽りが民意を決めるようになった弊害を書いています。
私の憶測では日露開戦是非論段階では政府の慎重論が優っていましたが、これといった見識に裏打ちされないメデイア関係者意見が政治を決めていくきっかけになったのが、日露講和会議後の日比谷焼き打ち事件でした。
本来言論で勝負すべきメデイアが暴動行為を煽り・・・講和条約が正しいと主張した(徳富蘇峰の主催する)国民新聞社も同時に襲撃されていますが、言論機関が対立する言論機関襲撃を煽るのは論理矛盾です。
その後の滝川事件〜天皇機関説事件〜軍部のテロ頻発や満州での戦線拡大を見ると、言論の自由を基本とする言論界が軍部内の総合判断力のない偏った無謀な意向をバックに報道していたことがわかります。
現在の森加計騒動でも野党が勢いづいているのは、メデイアによって国家としてやるべき多くの政治課題をそっちのけにしてでも、(あるいは国政を停滞させられる材料があれば何でも騒ぐ?)先行究明するほど重要であるかのように大規模模報道が続いているからです・・。
今や情報源が大手メデイア連合が情報発信を独占できた時代が終わり、ネット経由で多様な情報発信者が現れたことから、国民世論がメデイアの方向性ばかりではなくなっていますので、メデイアが「笛吹けども踊らず」で昨年の総選挙ではメデイア主張による世論誘導はほとんど効果がありませんでしたが・・。

煽りが政治を左右する社会3(強訴〜一揆〜デモ2)

もっと遡れば、白河法皇を悩ませていた強訴・「神の声」「神威」を嵩にきた強訴が、今の「民衆の声を無視するな!」というデモの起源でしょうか?
(「民主主義」という標語自体「近現在の政治的神話」に過ぎないことを01/22/04「中世から近世へ(国家権力の強化)2」に書きました)
強訴に関するウイキペデアイアの記事です。

特に「南都北嶺」と並び称された南都興福寺と比叡山延暦寺は強訴の常連で、興福寺は春日大社の神木(春日神木)、延暦寺は日吉大社の神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出た。
神木を使う前者を「榊振り」、神輿を使う後者を「神輿振り」とも呼び[3]、神輿振りは1095年の強訴が最初とされる[4]。白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」という言葉を残しているが、これは延暦寺の強訴を嘆いての事である。
興福寺の榊振りの場合は、まず訴訟の宣言として、神木を本殿から移殿へ移し(御遷座)、訴えが聞き入れられれば本殿へ戻し(御帰座)、聞き入れられなければ興福寺前の金堂に移し、それでもまだ聞き入れられない場合は神木を先頭にして京に向かって大行進を始め、木津で一旦駐留し(御進発)、それでもまだ聞き入れられないなら宇治平等院まで北上し、それでもだめな場合にいよいよ入洛する、という手順だった[5]。
強訴の理由は寺社の荘園を国司が侵害したり、競合する寺社が今までより優遇措置を得ることなどである。朝廷は、強訴を押さえるため、武士の武力を重用した。これは、新興勢力の武士が、仏罰や神威を恐れなかったためである。これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。
寺社の強訴は平安時代から室町時代ごろまで盛んだったが、その後寺社権門の衰退と共に廃れていった。

これも要求を聞き入れるばかりで僧兵や首謀者が処刑されなかったから、無責任な強訴がはびこったのです。
武士の台頭・・平忠盛が武力制圧が知られていますが、それ以来武士を使うようになって強訴が下火〜なくなっています。
ウイキペデイアの忠盛によると以下の通りです。

天仁元年(1108年)、忠盛は13歳で左衛門少尉となり、天永2年(1111年)には検非違使を兼帯して、京の治安維持に従事した。天永4年(1113年)には盗賊の夏焼大夫を追捕した功で従五位下に叙される(『長秋記』3月14日条)。同年の永久の強訴では父とともに宇治に出動して興福寺の大衆の入京を阻止している。

平安時代の強訴を見ると当時の知的階層をバックにした「神の意志」の無理強い・・昭和40年代初頭の大学をバックにした全共闘の民意?を標榜する「強訴」に似ています。
江戸時代末期に薩長が流行らせた根拠のない攘夷思想・・・・囃し立てる「エエじゃないか運動」など・より近くは「昔軍部今総評」と言われた戦後の風潮もその1種です。
日露戦争が終わってみると戦争による国力疲弊と目標喪失による国内困難を抱え込んだ上にアメリカに対して「戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。」・と紹介されているように国際孤立に突き進む起点になった点が重要です。
他のアジア諸国と違った発展をしてきた日本が、幕末以降欧米から好意的に見られて文化的にはフランスのジャポニズムブームになったように、順調に成長してきた近代日本の転換点でした。
日本はこの時に欧米並みの植民地支配の仲間入りせずに、ロシア撃退による本来の防衛目的達成で満足すべきでした。
(あるいは参入するにしても現在の協調融資方式で仲間を増やして儲けとリスクを分け合う方法があったのです。)
それができなかったのは内部矛盾激化と国民の血を無駄にするな!と煽るメデイアの存在が大きかったことがわかります。
政治家はエセ学者やメデイアの弱腰批判に追いまくられて、当時の実態を前提にすれば、最大の成果をあげた日露講和条約締結であったのに、非合理な不満に煽られて内閣総辞職に追い込まれてしまいました。
日比谷公園焼き討ち事件に関するウイキペデイアの記事からです。

全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれたのである。その内容は、「閣僚と元老を全て処分し、講和条約を破棄してロシアとの戦争継続を求める」という過激なものであった。
この事件の後、大正政変やシーメンス事件に際して起こった民衆騒擾は、政府指導層に民衆の力を思い知らせるとともに、大正デモクラシーの推進力にもなった。

このような感情に訴える煽りの結果・・「せっかく国民の地を流して得た利権を得た満州へアメリカの参入を許すな!」と遠慮会釈なく進出→独占支配に突き進むしかなくなったのですから、この方向性の誤りは言論界にこそあって政治家の責任ではありません。
どのような善政を敷いていても競争社会の敗者はいつもいるし、日頃むしゃくしゃしている下層階層(強訴に駆り出された僧兵もその時代のあぶれ者です)に、暴れ回るのが正義であるかのようにメデイアが煽りかければ「この機会に・・・」と打ちこわしや暴動の動きに付和雷同する傾向があります。
昭和40年初めの学生騒動も同じで、若者が現状不満で暴れるのは正しい意思表示だとメデイアが煽ったので思慮の浅い若者がこの洗脳に乗せられていただけでした。
当時「造反有理」その他毛沢東語録がメデイアを通じて盛んに流布されていました。
ウイキペデイアによると以下の通りです。

文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年[1]から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた社会的騒乱である。
ウイキペデイアによる全共闘世代は以下の通りです。
全共闘世代(ぜんきょうとうせだい)とは、1965年から1972年までの、全共闘運動・安保闘争とベトナム戦争の時期に大学時代を送った世代である

上記を見ると文化大革命を理想の運動のように讃えていたメデイアの意図的操作に、浅慮の若者がまともに煽られてしまったと感じる人が多いでしょう。
文化大革命に関するウイキペデイアの引用の続きです

当時の朝日新聞等の立ち位置です。
当時は海外メディアが殆ど閉め出された中、朝日新聞社など一部の親中派メディアは、中華人民共和国国内に残る事が出来た。朝日新聞は、当時の広岡知男社長自らが、顔写真つきで一面トップに「中国訪問を終えて」と題した記事を掲載したが、そこには文化大革命の悲惨な実態は全く伝えられないままであるだけでなく、むしろ礼賛する内容であった。
しかし、その後文化大革命の悲惨な実態が明るみに出ると、これらの親中派メディアを除いて全否定的な評価が支配的となった。それまで毛沢東や文化大革命を無条件に礼賛し、論壇や学会を主導してきた安藤彦太郎、新島淳良、菊地昌典、秋岡家栄、菅沼正久、藤村俊郎、西園寺公一らの論者に対し、その責任を問う形で批判が集中している[19]。批判された者はほとんどの場合沈黙を守り、文革終結後も大学教授などの社会的地位を保ち続けた。

今も当時の論客が何らの責任も取らずにいて今でも当時を懐かしむ高齢世代ではカリスマ的人気を保っている様子ですが、朝日新聞や左翼文化人に煽られるままに学生運動にのめり込んで、一生を棒に振った若者・今の高齢者らこそ哀れです。

煽りが政治を左右する社会2(強訴〜一揆〜デモ1)

この悪習の起源を近くに探ると江戸時代に大名領内で一揆や騒乱が起きるとその責任を取らせて改易その他が行われたことにあるように思われます。
一揆に関するウイキペデイアの記事からです。
江戸時代には幕府が一揆を禁止し、1637年(寛永14年)の島原の乱以降は一揆は沈静化し、強訴や逃散など百姓一揆と呼ばれる闘争の形態が主流となる。
豊臣政権時代より領内の騒擾を理由とした大名改易のケースが現れたため、「領内が治まっていない」ことを公然と示すことができれば、領主側に匹敵する武力を集めずとも、責任問題を恐れる領主や代官への重大な圧力となった。
百姓一揆の闘争形態の分類として、代表越訴、惣百姓一揆、村方騒動、国訴などが挙げられる。
江戸時代の農民一揆の場合、うまくいっても一揆の首謀者は処刑されるのが原則でした。
義民で 知られる佐倉惣五郎伝は「伝」と言う通り内容の多くは創作でしょうが、ウイキペデイア紹介の一般的理解では以下の通りです。
直訴と処刑
佐倉藩主堀田正信は新たに重税を取り立て、領民の暮らしは困窮した[4]。全領の名主たちは郡奉行や国家老に重税の廃止を求めたが拒絶され[4]、さらに江戸に出て江戸藩邸に訴えても(門訴)取り上げられず[4]、惣代6人が老中に駕籠訴を行ったがこれも退けられた[4]。
このため惣五郎は1人で将軍に駕籠訴を行った[4]。『地蔵堂通夜物語』では承応2年(1653年)とされ[4]、上野寛永寺に参詣する四代将軍の徳川家綱に直訴したという。『堀田騒動記』では正保元年(1644年)とされており[4]、将軍は三代徳川家光になる。
直訴の結果、訴えは聞き届けられ、佐倉藩の領民は救われた[4]。しかし、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、男子4人も死罪となった[4]。
うろ覚えですが、しょっちゅう行っている歴博の展示では、一揆をするには集落ごとに寄り合いを重ね、集落代表同士の寄り合いに進んで徐々に一揆の準備をし、誰を責任者=成功すると磔になるかなど覚悟がいります・・の分担を決めてから押し出していく手順のようです。
絵図面のようなもので流れを説明する展示があった記憶ですが、最近もの忘れがはげしいので正確ではありません。
上記の通り地域村落住民が一致して決行するには現地農民代表者になったものが処刑される覚悟まで決めてから実行する・・それほど追い詰められている実態がある・・少数不平分子の跳ねっ返りではないので・・そこまで領民全般を追い詰めた現地支配者や 代官等の政治責任を問うのは合理的であったでしょう。
それが明治以降騒動を起こした者にお咎めなしで、逆に政府トップが総辞職に追い込まれ政策変更が多くなる逆転した運用になってきました。
1960年の安保騒動も結果は同じでした。
そうなると騒動を煽る方は気安くやれる上に英勇扱いで、参加する方も気楽になり破壊行動さえしなけば検挙されないのですから、普段から何かとうまくいってない・・・自分の意見など誰にも相手にされていない不平不満分子が、この機会に鬱憤ばらしに暴れまわろうとなります。
しかも数千〜数万人も集まって騒げば、国の重要政策さえ変更できてしまうのですから、鬱憤ばらしには効率が良く最適でしょう。
交通通信の発達した現在1億何千万の人口のうち、5000〜数万人程度の動員は簡単になってきました。
社民党だけではなく民進党や希望の党の支持率がコアの支持者中心だけかな?1%台に減ってきたとの報道がありますが、それでも1億数千万人口から見れば1%で120万の支持者ですし、しかも残っているのはコアの熱烈支持者・いわゆるプロ市民ですから、動員力が高いので500〜1000人くらいは国会周辺でも原発でも基地周辺でも簡単に集められます。
EU離脱国民投票以来、大手メデイアの世論調査と実際の投票結果が大幅に違っていることが多くなったので、メデイアの調査結果の信用が大幅に落ちています。
・・・メデイアの強調しているテーマに国民がそれほど同調していないのに、それが支持率低下に直結したと強調したいメデイアは、そもそも調査主体としては中立ではなく不適格でしょう。
トランプ氏のテレビ出演前の楽屋裏での女性に対する卑わいな言動が報じられている場合に、これを「鬼の首でも取った」ように報道しているメデイアとしては、そんなことと大統領の資質と関係ないと国民が多くが思っていても、そういう結果が出るのはメデイアに取っては大恥をかくことになりますので、世論がこうだと結果誘導したくなるのは当然です。
朝日新聞の慰安婦事件でいえば、朝日新聞が自分で世論調査してみたら批判が少なかったと調査報道しているようなものです。
そもそも政変工作を仕掛けている主役のメデイア会全体が当事者ですから、当事者が世論調査発表すること自体が選挙誘導疑惑が濃くなるので邪道です。
昨年夏の選挙前世論調査と選挙結果の大幅ギャップや、以下に紹介する最近調査結果を見るとこの1年間感じの政策論議そっちのけで「森かけ」問題ばかりで、「日本の政策停滞を目的にしているのではないか」という国民不満が結果として出て来ています。
改ざん疑惑を朝日新聞が囃し立てたのちの調査ですが、結果を見れば技術的問題であって政治家に疑惑があるような内容でなかったことがはっきりした後の4月調査であれば、もっと支持率が上がると思われます。
これをやっている政党の合計支持率が昨年の選挙頃から全く上がっていないどころか減少している現実を見れば、国民の関心がどこにあるかの真実がわかります。
メデイアがこの辺を報道しないで、自民党支持率が下がったという点ばかり強調報道していますが、メデイアがあれほど集中的報道してもそれほど下がっていないことの方が重要です。
これがトランプ氏の強調するフェイクニュース論が一定の支持をうけている基礎です・・.日本でも昨年夏衆議院選挙での直前調査結果は実際の選挙結果と大幅に違ってい他店については、17年11月5日に詳細を書いています。
選挙結果と大方一致していたのは、ニコ動だけでしたので大手報道はあてになりませんが・・以下は一応の参考です。
https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_pol_politics-support-politicalpartyの支持率調査によれば以下の通りです。
※記事などの内容は2018年3月16日掲載時のものです
いかに掲載すべき図表(政党支持率)がなぜか今回復時(18年9月中旬以降の全面故障〜復元始めは9月26日)にははいらないので抜けています。

関心のある方は上記引用先にアクセスして直接ご覧ください。

 

メデイアと学者の煽り5(日露戦争と帝大7博士意見書2)

ウイキペデイアによるポーツマス条約から引用の続きです。

影響
「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。
しかし日本国民の多くは、連戦連勝の軍事的成果にかかわらず、どうして賠償金を放棄し講和しなければならないのかと憤った[20]。有力紙であった『万朝報』もまた小村全権を「弔旗を以て迎えよ」とする社説を掲載した。
しかし、もし戦争継続が軍事的ないし財政的に日本の負荷を超えていることを公に発表すれば、それはロシアの戦争継続派の発言力を高めて戦争の長期化を促し、かえって講和の成立を危うくする怖れがあったため、政府は実情を正確に国民に伝えることができなかったのである
条約締結の9月5日、東京の日比谷公園で小村外交を弾劾する国民大会が開かれ、これを解散させようとする警官隊と衝突し、さらに数万の大衆が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅、政府系と目された国民新聞社を襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した(日比谷焼打事件)。群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の米国公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった[11][20]。結局、政府は戒厳令をしき軍隊を出動させた。こうした騒擾は、戦争による損害と生活苦に対する庶民の不満のあらわれであったが、講和反対運動は全国化し、藩閥政府批判と結びついて、翌1906年(明治39年)、第1次桂内閣は退陣を余儀なくされた。
ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村寿太郎外相の反対によって破棄された[3]。
清国に対しては、1905年12月、満州善後条約が北京において結ばれ、ポーツマス条約によってロシアから日本に譲渡された満州利権の移動を清国が了承し、加えて新たな利権が日本に対し付与された。すなわち、南満洲鉄道の吉林までの延伸および同鉄道守備のための日本軍常駐権ないし沿線鉱山の採掘権の保障、また、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止、安奉鉄道の使用権継続と日清両国の共同事業化、営口・安東および奉天における日本人居留地の設置、さらに、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などであり、これらはいずれも戦後の満洲経営を進める基礎となり、日本の大陸進出は以後いっそう本格化した。
大韓帝国皇帝高宗はロシア勝利を期待したため、深く失望したといわれる[19]。韓国に関しては、7月の桂・タフト協定でアメリカに、8月の第二次日英同盟条約でイギリスに、さらにこの条約ではロシアに対しても、日本の韓国に対する排他的優先権が認められ、11月の第二次日韓協約によって韓国は外交権を失った。12月、首都漢城に統監府が置かれ、韓国は日本の保護国となった。
この条約の結果、日本は「一等国」と自称するようになった。当時の大国に所在した日本の在外公館は、多くは公使館であったがいずれも大使館に昇格し、在東京の外国公使館も大使館に格上げされることとなった[21]。しかし、その一方、国民のあいだでは従来の明確な国家目標が見失われ、国民の合意形成は崩壊の様相を呈した[22]
上記のような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。

上記最後の3行は突然の結論記事ですが、重要な指摘です。
文献の引用もあるので相応の論説を背景にしていると思われますが、紙媒体の引用文献自体にこのコラムでは入れない(このために引用されている本を買って読む暇はない)ので直接確認できません。
しかし幕末から、明治維新以降、欧米列強の植民地にされてしまわないかの恐怖心で凝り固まっていた国民意識・その恐怖心をバネに富国強兵に邁進していた当面の目標喪失はよくわかりそうな気がします。
幕末〜開国後西欧列強の餌食にならないように「頑張ろう」と言う暗黙合意で日本人民が必死に頑張ってきた・・いわば強迫神経症に陥っていたのが明治初年から日露戦争までの日本人でしたし、その代表的心情を表していたのが、夏目漱石ではないかというのが私の個人感想です。
その最後に最凶暴国ロシアとの対決になったのですから、国民あげて立ち向かったのですが、ようやく危機をしのいで世界の強国の一角を占めるようになると目標がなくなったことを言うのでしょうか?
目標喪失と一緒に戦費負担のマイナス(巨額戦費を賄うために国際金融資本からの借款取り付けに成功したことが勝因の一つとして知られています・この返済負担をどうするか)や使い切った武器弾薬.人員の補填に始まり、戦死者遺族や傷病兵の生活保障資金不足など国内経済矛盾を抱え込むようになりました。
ロシアに勝って満洲地域の利権を手に入れたと言っても目先の経済効果では、すぐに経済メリットがあったどころか中期的に見れば先行投資が必要になる関係です。
当面の効果は脅威を追い払っただけですから蒙古襲来後の北条政権崩壊原因を彷彿とさせる状態でした。
蒙古軍と戦った御家人に恩賞を与えられなかったと習いますが、恩賞というよりは防壁を築くためのコスト負担・・兵を集めて出陣すること自体で膨大なコストを負担させていました。
今風に言えば、大手ゼネコンの下請けで地元工務店が大規模受注用に機械設備を購入し人も増やしたが、施工後ゼネコン・幕府が代金を払ってくれないので地元工務店が下請けや大工職人・設備等納入業者に払えないという事態です。
モンゴル襲来時も多くの死傷者が出る=兵士=働き盛りの喪失=地域内生産力が下がる・・税収減の中での遺族や傷病兵の生活保障等がのしかかってきます。
個人間の喧嘩で言えば小競り合いの喧嘩でも怪我した方はその後全治何ヶ月かの治療で痛い思いをし、治療費がかかりその間思うように仕事ができず収入が減ります。
双方死力を尽くしての喧嘩の場合、そこへ受傷前の自分より半分以下の闘争能力しかない相手にも負けてしまう弱い立場になります。
だからこそ野生動物は滅多に喧嘩しないし、リーダーを決めるために勝負する必要がある時にもお互いに怪我しない程度で勝敗を決めて負けた方はスゴスゴと引き下がるルールになっています。
ライオンで言えば、相手を倒して勝ったとしても、ビッコになったのでは、うさぎ一匹も捕まえられませんので、10日もすれば空腹でフラフラでしょうし、他の猛獣の餌食になってしまいます。
だから猛獣といっても、死闘を挑んでくる相手と戦ったりちょっと自分より弱い程度の動物相手に日常的狩りの対象にすることができないのです。
平和を維持するには、無防備なウサギになるよりも適度な抵抗力が必要という軍事的常識はここから生まれてきます。
日本としては日清戦争の時のように領土と賠償金を欲しかったし必要だったのは確かですが、本来ヤクザの恐喝や強盗のように金を取るのを目的に戦争をするのはそもそも邪道です。
7博士の煽っていた講和条約論は「日清戦争と比べてその何倍を取るべき」という道義も何もあったものじゃない・・バナナの叩き売りのような道義を弁えないものでした。
そもそも、日本はこれ以上の継戦能力がなかったという能力限界があったかどうかよりも、(そんなことを知らないアメリカ国民が)ロシア大使ウイッテが、日本が金目的の戦争を仕掛けているかのようにアメリカ世論に訴えると、アメリカ国民の同情引きつけに成功していた経緯も出ています。

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