メデイアの事実報道能力4(実質賃金低下論のマヤかし2)

全国平均という数字もよく出ますが、都道府県ごとの平均数字を出してそれを合計して都道府県の数で割って平均を出しているのか?
これでは人口百万の県と1100万の東京都と同じ1単位になって全国の趨勢をあらわしません。
全国平均というからには、各県のナマの数字を単純合計して総人口で割るのが簡明ですが、過疎地と大都会を合わせた(神戸市と丹波地方のように)平均を出してもあまり意味がないので、交通事故数や医療機関・医師数で言えば、地域ごとの人口10万あたりの比率などで出す方が合理的です。
それも平均ではなく10万人あたり医師数の最大地域の医師数は何人でどこそこで、最小の地域の人数は何人でここ」などと具体的に書いた方が分かりよい感じです。
平均というのはどのように何を平均したのかの定義自体が、実施主体によって不明瞭なことが多い印象です。
マンション販売では最多価格帯という表示がありますが、商売ですから客に分かり良くする努力が現れます。
賃金動向や国民の総消費能力を見るには、総就労者数の増減と総収入の前年比を見るのが単純・可視化できて分かり良いでしょう。
とは言うものの、NHKは平均年収が1100万円前後と言われますので、1500〜2500万の人(が一杯いるということでしょうが管理職等には残業手当がない)あるいは公務員は、原則景気変動に関係ないのが普通です。
仮に人口の2割の人の給与総額が全体の半分を占めていて人口比で2〜3割の中間層の公務員や団体職員等も岩盤のように景気によって動かない社会で、半分以上を占める庶民層で給与総額が2割上がっても、あるいは最下位層の月15万前後しか仕事のなかった人が毎日仕事が出来て2倍の30万になったとしても、全給与総額の平均値で見ればその上がり方は微々たるもの・本来の景気動向を表していないばかりか、そもそもなんの平均かすらわかりません。
まして新規参入は最低賃金層層が圧倒的多数ですから、これを頭割りに入れれる平均値がぐっと下がります。
各階層別平均ならわかりよいのですが、月収18〜20万の枠の人がアップして22万になった場合、その枠から出てしまうのでそれでは各人の追跡調査が必要ですから、複雑すぎます。
簡明化するには、月収2万きざみの枠をABCDEF〜等と区分し各区分の就労者数をデータ化し、その推移を(グラフ等で)発表すれば時間経過でCD前後の各クラスの人口が上下いずれに移動しているかがわかります。
ネット検索すると「実質」と言うもののなんら難しいことをやっているわけでなく、全企業の総支給額を就労人口で単純に割った平均賃金を名目賃金と言い、これに毎年毎月の物価変動率で調整したものと言うことがわかりました。
「実質」とは言うものの単純平均したものを物価変動率で修正したに過ぎないものを「実質」といかにも難しい計算をしたかのように銘打っていただけでした。
景気の循環と実質賃金の前提たる平均賃金を見ると現実の賃金支給総額を就労人口でわる単純平均が基礎数字ですから、物価変動率のブレが殆どないこの10〜20年単位でいえば実質賃金と平均賃金はほぼ同じですから、単に「平均賃金の推移」といえば国民にわかり良いのですが、「就労の裾野が広がれば平均賃金では下がるのが当たり前」すぎて政府批判トーンにならないので「実質賃金が下がっている」という報道が横行するようになったように見えます。
ちなみに(私の思い付きですが)好景気と平均賃金の関係を時間軸で見ると以下のようになると思われます。
① 景気が良くなる→社内失業者のフル稼働→残業でしのぐ
(この間、末端労働者の残業代が増えますが、彼らへの支給額が1割増えても全労働者・・製品出荷が1割増えても事務系の労働時間が1割増えないので売り上げが1割増えた1企業内だけ見ても支給額全体でストレートに1割あがりませんし、好景気の影響を早く受ける業種とすぐに受けない業種が混在するほか、公務員系あるいは業界団体などの事務局員は好景気で残業が増える関係でもありません。
就労者全体では景気の影響度はかなり緩和された数字になります)
② → 低賃金のパートなど非正規を増やす→正規職員の残業増に比べて(ゼロ収入→20万前後新規収入発生は)桁違いの影響力です。
③ →(正規雇用中の最低賃金層である)新卒採用を増やす(高給の部課長や重役から増やす企業はないでしょう)

a  企業の省力化投資+目や腕の力の弱い人腰に弱った人でもできる補助器具の開発などが並行して進む
b →戦力外だった高齢者雇用や子育て中の主婦の短時間労働参加が広がりさらに低賃金(高齢者は週3日、半日勤務などで月7〜8万でも満足な人がいる)就労人口が増える
⑤ 就労者数の増加限界(高齢者で対応できない若手必須分野の逼迫)→若手労働者の奪い合い→時給アップが始まる→製品価格やサービス価格への転嫁開始→物価アップ→実質賃金アップ
上記②〜④の間は低賃金労働者の就労人口増→頭割り平均であれば平均賃金が下がっていくのは当然です。
実質賃金とは「課長になって残業代が減った」り、年収2000万の人の給与がそのままで時給800円のバイト時給が1000円になった場合どのように修正して平均を出すかではなく、上記の通り単純合計で平均賃金を算出してこれが物価変動でどうなったか?だけですから、物価が一定であるときには平均賃金の変動率とピタリ同じですから、実質賃金も下がり続けます。
実質賃金の概念統計は、持続的インフレ下にあった高度成長期には毎年のベースアップがあっても同時にインフレ進行中でしたので、実質的購買力がどうなのかを知るために有用な概念でした。
しかし中国の改革開放以来日本は、物価下落に苦しんでいてリーマンショック以降は世界中の先進国が異次元緩和・・いかに物価を引きあげるかに奔走しているときに物価変動率による修正の必要性は乏しく、実質賃金を持ち出す意味がなくなっています。
今は・・ストレートに平均賃金動向をありのまま報道すればすぐわかることです。
上記1〜4を見れば、平均賃金が上がるときとは、完全雇用になって新人や非正規の就労率がこれ以上上がらない→採用時給与引き上げ競争に入った瞬間=平均賃金の下げ止まり・・就労率アップの限界・完全雇用状態で非正規等の末端人件費が上がり始めたときに生じるものです。
比喩的に言えば、不景気の時に10点の人材でも何割か失業していたのに好景気が続くと、10点の人の補充が終わってもまだ人手不足が続くと8点〜6点4点と次第に人材能力低下させるしかないのに、同じ時間給で募集しなければならないこと自体が生産性低下ですから、従来基準の10点の1人前人材を確保しようとすれば、競合他社より時間給アップして多数応募者確保→選別権確保のために人件費を上げるしかなくなる段階で初めて(物価変動がないときには)実質賃金=平均賃金がアップします。
生産性アップに関係ない(どころか半人前でも採用するしかなく、生産性低下に直面しているにも関わらず)賃金単価上昇は、1年前後のタイムラグで商品単価への転嫁が始まる・物価上昇するので、物価調整後の実質賃金は、再び下落に転じます。
実質賃金下落は、好景気前期の末端週労者増加による平均賃金下落による場合と(これ以上就労率増加見込めない)好景気後期の物価上昇による場合の二種類があるので、この分析なしに上位概念の「実質賃金が・・」と大規模連続報道する社会的意味がありません。

メデイアの事実報道能力2(在特会)

言論の自由市場論のトリックに挑戦し始めたのが、在特会の派手な言動(やりすぎ?)がニュースに取り上げられるのを狙った方法ですし、別のグループが応援する弁護士会相手の懲戒の大量請求運動でしょう。
内容が無茶であればあるほど話題性がある・大規模な報道対象になることで、報道されない問題点を社会に拡大する戦略としては成功しているように見えます。
在特会は巨額賠償金を取られましたが、結果的に在日特権?の実態というか反感の広告効果が大きかったし、(朝鮮人学校?が長年続けてきた公園の独占的使用を中止しました)弁護士個人ではなく「弁護士会が朝鮮人学校への補助金について口出しをする」問題点も(是非は国民判断に委ねるとして)広く知られるようなりました。
朝鮮人学校への補助金の何が問題か,(補助金の内容や朝鮮人学校と一般の学校の違いも知らないし)問題があるとしてもなぜ弁護士会が意見を公表する必要があるかは多分専門の委員会で十分な議論をして決めたのだろう程度しか門外漢の私にはわかっていません。
この機会に勉強すれば良いことですが、自分のコラムを書いている勢いで関心の赴くままにテーマが移りそれに合わせて書いているだけで忙しくこのコラムに関係のない分野の研究をする暇がありません。
参考までにネット検索すると以下の記事が出ました。
https://www.sankei.com/politics/news/170427/plt1704270025-n1.html
2017.4.27 18:51更新

朝鮮学校への補助金を不交付決定 学校行事では北朝鮮指導者賛美の歌「白頭山に行こう」披露 日韓合意否定に「主旨に反する」 千葉市

千葉市が補助金を交付しない決定が、人権問題とどうつながるかまでは私には不明ですが、千葉県弁護士会がこれを問題視したのでしょうか?
メデイアは自分勝手に「市民感覚」を標榜して好きな方向へ世論を煽ってきましたが、実はメデイア自身が「市民意識」と遊離しているの知らずに?メデイア報道の尻馬にのって、(情緒映像だけで影響を受ける層を支持母体とする)なんでも反対の政治になってしまったのが、旧社会党であり、その系譜を引く革新系政党です。
いわゆるモリカケ問題も、「疑惑」と言うばかりで「何の疑惑か!」すら提示しない思わせぶり報道ばかりで2年も国会審議を停滞させているのですが、市民が納得していないのは思わせ振りな報道姿勢の方ではないでしょうか?
18日午前8時発生の大坂の大震災発生報道では、阪神淡路地震に比べて(地震規模が小さかったとはいえ)人的被害や大規模火災等の少なさ・・・・神戸震災と比較してのその後適応力の高さに驚いたものですが、翌19日の日経を見ると「都市防災の脆弱さが浮き彫り」などの批判一色には驚きました。
・・朝の通勤ラッシュ時の震災にも拘らず交通関連事故ゼロは(脱線等は皆無です)特筆すべき成果でしょうが、通勤客が歩くなどの写真を強調して脆弱さを強調していました。
交通機関や工場やエレベーターでは事故防止のために一時停止しての安全点検が必須ですから、そういうことをあげつらっても意味がないでしょう。
今後の課題として工夫すべきは当然ですが、頭っから批判姿勢で報道を始めるようなことではありません。
まずは、「大した被害がなくてよかった」と胸をなでおろしたのが国民大多数の感慨ではないでしょうか?
自治会や役所での防災関連での議論を見ていると避難場所と言っても、地元住民の自宅倒壊リスクなど誰も本気で想定していない・・住宅地内の避難経路など(みんな路地裏まで知り尽くしているし)にもあまり関心がありません。
マンション業界でも倒壊リスクの時代を卒業して、高層ビル内の揺れ幅をいかに縮小するか・・耐震構造から免震構造に移っています。
個人の関心では、耐震性のない家は論外として免震構造の家に住む他に、住宅内のタンスや本棚や花瓶などの危険をどうするかの自助努力の工夫にはいっています。
「大都市の脆弱性浮き彫り」と言ってもハードのリスクを卒業してターミナル駅等での滞留者対策など新たな課題に対する今後の課題でありいわば贅沢な悩みです。
東北大震災後は災害対策の重点がこのようなソフトに向かっていることがわかります。
公園等にトイレがあればいいのではなく、綺麗で使いやすいか、ウオッシュレット化しているかのように「より良いものか」どうかが問われる時代です。
この結果、耐震構造のないマンションや住宅は時代遅れの遺物意識が定着しているので、「耐震補強工事が終わっているか?」終わっていない結果神戸のような倒壊事故が多発していれば、「なにかあれば、まず政府批判」の報道姿勢・・これまでのセオリーどおり、震災対策不備であるかのようなイメージを真っ先に掲げる「脆弱性批判」も違和感がなかったと思われます。
ところが、蓋を開けてみると、耐震補強すらしていなかったことによる震災被害は、高槻市の小学校のブロック塀倒壊事故による児童の死亡事故1件ともう一人80歳の事故の合計2件だけで、その他の2名は自宅内の本棚等の下敷きになった80代高齢者等自宅内死亡事故だけだったようです。
以上によればビル倒壊被害対策は建築基準法令整備などでほぼ解決済みであったことがわかります。
高槻市のブロック塀倒壊事故による児童死亡事故は、前時代的事故でしかも最優先であるべき教育設備で起きたのですから、文字通り地元政治のレベルが問われます。
今後の事実関係の進展によるでしょうが、耐震補強工事などは努力目標ですがそれでも速やかに対応してきたのが普通ですが、ブロック塀の高さ制限等の既存規制法規に違反している(法規制後のブロック塀)とすれば、これを放置していた地元政府の政治責任問題です。
これこそがメデイア好みの政治批判テーマになるべきでしょう。
前時代的ハードの未整備の結果,児童死者まで出したことに対して、従来型メデイアの報道姿勢の延長であれば厳しく非難すべきですが、メデイアは一報しただけでその後は日経新聞で見る限りほぼ無視状態でネット空間で喧しいだけです。
一方で都市機能の脆弱さは政府の責任であるかのような、イメージが刷り込まれています。
今回の大阪北部震災では、老朽家屋対策その他の防災機能が(高槻市を除いて)飛躍的に進んでいたことがわかり、これを同胞としてまず慶賀すべきですが、今後はエレベーター等も即時停止しないで最寄の駅や階まで徐行運転して客を電車やエレベーターから解放するなどのソフトが必要ですし、一旦停止後の再開までの時間短縮などの工夫を期待する(この種の努力は分秒単位の短縮などの地味な努力の積み重ねになります)前向き議論が一切ありません。
ただし、私のように報道姿勢に違和感を感じた人が多かったのを感じたか、抗議の電話が行ったのか?すぐにこの種の批判的報道が下火になりました。
すでに耐震補強時代が終わっているのが普通、建物倒壊事故や電車脱線等による直接被害よりは、今後は一時停止のあり方や帰宅困難者や行路途中で行き場を失った人の受け入れ施設の整備をどう進めるかが重要です。
交通機関の事故がなくとも一定規模の地震があれば点検による運行停止が必須で、(一般企業工場再開もその後です)その間のサプライチェーンの途絶や滞留者の居場所が重要です。
過疎地のように2両編成で30分に1回の電車が3時間止まっても駅周辺滞留者人口は知れていますが、大都市では数分〜10ごとに10何両編成の電車が発着し、大量乗降客の大方は5〜10分後には別の電車ヤバスに乗り換えていなくなってしまう前提で駅施設が出来上がっています。
これが1〜2時間完全停止すると(道路事故の場合一時滞留しますが、そのうち迂回路に誘導できますが・・)駅内外に人が溢れて収拾のつかない状態になります。
帰宅困難者だけではなく今では、昼間の滞留者だって駅に立ちっぱなしというわけにいかないので、休憩拠点整備などに関心が向かっています。

袴田事件3(メデイア・日経新聞2)

日経社説にたいする批判の続きです。
1審の判断に対して不服のある方が上訴して上級審の判断を仰ぐ仕組みも合理的であって、1審限りで終わりにすべきとは思えません。
社説最後の文脈からすると「元被告の方に不利な時だけ上訴権を認めて検察には認めるな!というようなニュアンスが感じられますが、中国や西欧の抑圧社会を前提にした権力に抑圧される被害者が被告人という図式的理解しているのでしょうか?
日本の刑事裁判の実情で、権力による庶民抑圧の刑事事件が何%あるでしょうか?
99、99%普通の市民が被害者になった事件が一般的刑事事件になっているのです。
権力者による庶民抑圧の刑事事件ではなく、ちょっとしたことで暴力を振るったり相手の人権を無視した(交通事故だって多くは)粗暴な人による人権被害が中心です。
犯罪には被害者がいるのであって、検察は公益・被害者の代弁者である立場を無視した意見です。
人権の多くはその行使の仕方によっては他の人権を侵害することになる(表現自由と名誉毀損の関係や道路交通法など)ので、この世の中には多種多様な法律があるのですが、そのほとんど全部が、人権と人権の衝突時における調整のためにあると言っても過言ではありません。
調整ルールは第一次的には、民事法で処理されますが悪質すぎる場合には刑事罰で調整し悪質な人権侵害を起こさないようにしているのです。
民事は個々人が自分で訴訟するしかないのですが、刑事になると殺されている場合もあり、人身売買その他暴力系被害者の多くはで自分で反撃できないことから公益を代表する検察官が処罰を求める仕組みです。
今千葉県でベトナム人の小学生が殺された事件が審理を終結したばかりですが、検察官の背後には被害者の親が必死に見守っている姿があって心打たれます。
加害者不明のことが多くてもこのように刑事事件には間違いなく被害者がいるのです。
事実の有無をきっちり調べた上の無罪ならばいいですが、確定判決まで行った以上は、これを取り消すには、証拠が捏造であれ何であれ、「無罪にさえなればいい」という一方的人権論は大間違いです。
社説を個別に見ていきますと
第一に
「死刑か無実かという正反対の結論」と刺激的に書いていますが、再審手続きは死刑になった場合だけではないので、このようなイメージから入る主張は冷静な議論であるべき社説の格式を落としています。
本件再審手続き申し立ては犯人性の有無が争点ですから、白と黒・二択しかありえないのは、被告人がその争い型を選択した結果です。
たまたま袴田再審事件は、死刑判決に対する無罪主張の再審申し立てだから、有罪か無罪→死刑か無罪かになるだけのことです。

刑事訴訟法
第四百三十五条 再審の請求は、左の場合において、有罪の言渡をした確定判決に対して、その言渡を受けた者の利益のために、これをすることができる
1〜5略
六 有罪の言渡を受けた者に対して無罪若しくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき。

上記の通り「原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」という理由で申立した場合には、中間的結論がありうるでしょうがその選択権は被告人が握っているのであって、被告人が「無罪になる証拠が見つかった」という申立てをしたから白か黒の二択になっているだけで制度の欠陥ではありません。
法制度通り解釈すれば、確定判決を取り消すべき新たな証拠が「あったかなかったか」の二択でしかないことは仕方がないことです。
第二に内容を見ておきますと、
「同じ証拠から死刑か無実かという正反対の結論が導かれるようでは司法の信頼をゆるがしかねない。」
というのですが、実は同じ証拠によって別の判断になったのではありません。
「シャツに不着した血痕」という証拠は共通ですが、1.2審で新たな証拠かどうか争われたのは、「シャツに不着した血痕」の有無ではなく、50年前の血痕をDNA鑑定できるかどうかだったのです。
鑑定意見の合理性(科学発見新技術開発のルールに合致しているか)が争点であってその点に関して1〜2審で結論・評価を異にしたらなぜ司法の信頼を失うか不思議です。
証拠を合理的に検討する視点を無視して同じ証拠を見る人によって違うのはおかしいというのですが、「見る視点の違い」と言ってもボヤ〜っと見た結果の違いではなく、DNA分析根拠を明らかにするべく努力したものの鑑定人がこれに協力しなかった結果を踏まえて信用性否定を判定しているのです。
「同じ証拠」と言っても証拠のナイフを直感的に見て、えいやっと結果を決めるのではなく、今の時代ではそのナイフに付着した血痕がだれの血痕かという鑑定の基礎になったデータの違いで両鑑定の優劣を決める時代です。
証拠という意味の時代的違いを言えば、昔は犯行現場近くに落ちていたナイフに血痕があれば目視で血痕さえあればその先の事実究明がなく裁判官がどう判断するかだけだったのですが、その後血痕があっても動物の血液か人間の血液かが分かるようになり、血液型の違い、さらにはDNA鑑定と微細化する一方です。
比喩的に言えば、100倍の顕微鏡で見ている時には、甲乙丙誰の血液かの区別がつかなかったのに、10万倍の倍率で見れば甲乙丙の違いがわかるようになったということです。
こういう場合、「同じ血痕で判断が異なるのはおかしい」とはいえません。
一方が10倍の倍率で論理チェックしたが、他方が100倍の倍率で論理を掘り下げて見直したら鑑定資料のずさんさがわかり鑑定が信用できないとなったとすればどちらの信用性が高いか明らかです。
地裁で動物の血液を被害者の血液と認定していたのを高裁でより精度の高い検査をしたら動物の血液と認定しても「同じ証拠で意見が分かれる」のではありません・・この場合に同じ証拠と言えるのは、同じ血液検査を利用した場合です。
目撃証言でアジア人というだけで犯人を決めるよりは、現場録音をチェックして何語を話していたかによってアジア系の何国人であるかを絞り込み、さらには防犯カメラ等に映った身長や体格着衣(同じ背広を着ていてもどう言う色柄かなど)等で絞り込むなどしていくのが合理的です。
何事も上位概念で決めるよりはさらに下位の細かな分類を利用した方が正確に決まっています。
日経社説は「同じ証拠」といいますが、上記のように地裁と高裁では評価対象が違うようです。
高祭は鑑定手法の合理性を問題視していてその再現実験のための鑑定資料や鑑定時の記録提出を求めたのに鑑定人がこれに応じなかったというのですが、地裁は頭から鑑定意見を信じてしまったような書きぶりです。
これでは地裁は鑑定結果を見ただけで判断し、高裁は鑑定結果よりは結論を見出した鑑定過程の合理性の有無を判断したのですから、地裁と高裁が同じ証拠を見て判断したと言えないでしょう。
袴田再審事件では同一資料をどのように分析するかによって結論が変わるからこそ、一審以来鑑定をして来たのです。

 袴田再審事件2(メデイア・日経新聞)

弁護側に不利な虚偽報道があれば弁護側は手持ちの判決書や決定書ですぐに反論できますが、内容に合わない「不当判決」の宣伝報道や内容捻じ曲げた報道があっても裁判所も検察も反論できないので、虚偽〜フェイク〜内容のない根拠ない誹謗・・何でも報道されっぱなしになります。
弁護側の主張が否定されると決まり文句のように出る「不当判決、不当決定」の垂れ幕がこの象徴でしょう。
本来大人の感覚で言えば、自分の意見が通らない都度、論争相手を「不当」と罵るなどはやるべきことではありません。
サッカーやスポーツで負ける都度対戦相手の試合が不当だと、罵っていて国際関係がなりたつでしょうか?
不当と言う批判の洪水ほど不当な批判の仕方はありません。
何が間違っているかの事実適示がないまま、不当(市民感覚が許さない)と言う根拠のない意見表明では批判された方が反論できない決めつけ報道になりますので、こういう報道は、批判とか意見と言うのも恥ずかしい動物の咆哮レベルのシロモノです。
上記のとおり裁判所等がなんら反論できない仕組みが出来上がっていることからこのような事実無視・・事実を論じない粗雑報道がはびこるようになったのではないでしょうか?
一旦メデイア攻撃の対象になると、国や大手企業に限らず個人でも全く反論できない点ではほぼ同様です。
もしも権力に属する裁判所や検察が、「裁判批判が間違っている」とひとことでも言えば言論弾圧といって(メデイアが煽って)大騒ぎになるでしょうから、「自由な言論市場で勝負すべき」と憲法学者が言うものの、メデイア攻撃の対象にされた組織や個人は何も言えない・言わせない仕組みを作り上げた上で「あることないこと無茶苦茶」報道してこれが「世論だ」「市民感覚」だと強弁する習慣が出来上がっていると言えるでしょうか?
戦前の美濃部教授に対する天皇機関説事件はまさにその種の総攻撃でした。
企業誘致その他公聴会等でも反対派はいくら動員しても良いが、賛成派が動員したことがわかるとメデイアの袋叩き・大政治問題になります。
企業側・公務員が何か釈明反論すると「そんなこと言って良いのか!」という非合理な非難大合唱で、最後は平謝り・土下座強要の繰り返しで、いつの間にかメデイアの応援を受けた庶民は怒号し放題という構図が出来上がっています。
平安末期に僧兵が神威をかさに着て日枝神社の神輿を担いで問答無用で暴れ回っていた横暴なやり方を、根拠を示さない「庶民の声」「市民感覚」に置き換えただけのように見えます。
ようするに日本では、メデイアが一方の立場で洪水的攻撃を始めると誰も反論できないまま、(妄言批判等で大臣がクビになり政治生命をなくす)社会から抹殺される時代が続いてきました。
うっかり疑問を呈すると「市民感情を理解できていない」と根拠不明の基準で袋叩きになる社会・・言論の自由市場・対等合理的論戦できる仕組を破壊し尽くしてきた結果、メデイアの応援を受けた批判者は言いたい放題・・批判する方は何を言っても言論の自由で免責される仕組みです。
道路占拠の屋台などを行政が是正しようとすると「部落民を差別するとかいじめて良いのか」という「えせ同和」が蔓延るようになったのと同じ構図です。
この類縁が(弱者の)「在日をいじめるのか!」と何でもゴリ押しがとおってきた習慣・.京都の公園不正使用が恒常化していた原因しょう。
韓国では一旦弱者のメデイア的地位を得るとやりたい放題の傍若無人ぶりが(たとえば飛行機遅延だったか?軽微な不手際事故では米国の飛行場だったかでクルーに暴力を振るう乗客の映像や、セウオール号事件では1年以上経過しても体育館だったかに泊り込みを続けている例が知られています)報道されますが、日本にもメデイアを通じてそのやり口が浸透しすぎているように見えます。
これは日本のエセ同和や在日のやり口が韓国に浸透したのか、韓国系の心情政治が日本のメデイア界に浸透したのか、どちらが先か知りませんが、「メデイアによって一旦弱者報道されれば何をしても言っても良い」という方向性は共通です。
いわゆる「在日特権」というのも特権でもなんでもなく、在日の場合ゴネてうるさいので窓口で役人が「こと勿れ主義」で対応して来た結果、在日を事実上特別扱いしているに過ぎないでしょう。
こうして在日の生活保護受給率等が高まり、京都の公園不正使用が既得権化していたのです。
「人の噂も75日」といわれるように判決等の内容を半年後に一般専門家が目にする頃には、世間の関心が移っているというか都合の悪い事実をメデイアが報じないので、マスメデイアによる世論誘導力は甚大でした。
今やネット時代で、コネがあれば担当弁護士から「決定書」をメールでもらって、そのままコピペ拡散できる時代です。
裁判所が自分で反論しなくとも、弁護士の名(郷原氏は隠れ裁判所か?)で拡散できます。
メデイアの誤読や意図的誤読報道はすぐにネットで反論されるようになります。
ひと昔前までは、何かあると北朝鮮や中国は「すべて日本の責任だ」という公式発言が普通でしたが、朝日新聞を筆頭にメデイア界では今でも何が何でも「人権?」と名のつく方に捻じ曲げて権力批判の結論だけ報道する傾向がまだ変わらない状態です。
6月17日の日経新聞朝刊社説にも、一度再審開始に決まったものが、同じ証拠を見る人によって正反対の結論になるのはおかしい」といい、「無罪方向に決まった場合には、事実の有無に関わらず覆せないようにすべきだ」と言わんかのような論調です。
念のために正確に引用しておきましょう。

 「信頼される司法のために」
静岡地裁が・・再審開始を決めた・・その最大の決め手が、袴田被告の来ていたとされるシャツについた血痕のDNA型だった。弁護側の推薦した鑑定人の鑑定では元被告や被害者のものと一致しなかった。
ところが・・高裁は鑑定のやり方について、「深刻な疑問が存在する」と信用性を否定。再審開始決定を取り消した。
裁判官が違えば異なる事実の認定や判断がなされることがありうる。
それにしても同じ証拠から死刑か無実かという正反対の結論が導かれるようでは司法の信頼をゆるがしかねない。
・・無罪につながるような新たな証拠が見つかり一度再審の開始が決まったらその扉の外で延々と争うのではなく、速かに再審の裁判に映る仕組みに改めるべきである。

以上のように日経は、高裁決定で1審の結果が変わるのでは、司法の信頼が揺るがしかねないという主張です。
それを言い出したら三審制度が成り立ちませんし、最高裁まで行って確定した有罪判決を一地方裁判所が取り消すような再審開始決定自体が、司法の信頼を根底から揺るがすことになりませんか?
だからこそ、再審査手続きに入るかどうかの手続き入り口で慎重な手続きが予定されているのです。

(フェイク?)報道と信用失墜2(政治と学者)

帝大7博士事件についてはApril 2, 2018,「メデイアと学者の煽り5(日露戦争4帝大7博士意見書2)」前後で連載しましたが、これこそは、学者+メデイア+背後の軍部一体の国民扇動の元祖というべきでしょう。
これに関してはhttps://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180614191227.pdf?id=ART0008242225の研究論文に詳しいので以下一部だけ引用しますが詳細は直接参照してください。

・・彼らの議論の内容について、この事件を詳述した 立花隆 は「驚 くべき杜撰な議論である。ほとんど床屋の政 談であるとl2切 り捨てている。
・・・メディアと大学教授と世 論の関係を考 える上できわめて興味深い。
本稿では「主戦論へと導いた事件 」というだけでな大学人とメディアが相互に利用しあうことを始めたメ ディア史上初の事 件として捉えなおしたい・・。

以上一部引用の他(天皇上層文を見ると)彼が国民代表のような主張をしているなど、現在の論理飛躍の思わせぶりメデイア報道の始まりです。
メデイアの論理飛躍の穴埋めに学者という権威利用した点も現在の憲法学者動員と同じです。
正式な学問発表・論文の場合、理系の場合には実験+論理検証を、文系の場合にも実験に相当する実務を知り尽くした論証を経ていない論文など相手にされませんが、7博士は国際政治のプロではないので、国際パワーポリテックスのナマ情報も知らずに空論を主張していたことを上記連載で書きました。
学問の自由と学者の政治発言は別物です。
学問は文系理系をとわず、過去の事実分析を積み重ねた上で過去(実験成果を含め)に起きたことの意味づけであるから説得力があるのであって、将来の予測能力はまた別です。
科学の発明発見も実験という過去の繰り返しによって確実さを得た上の意見ですが、これもそれまでの科学知識で分かっている限りの実験結果的正義に過ぎない点は、歴史・考古学者の意見が論者の収集した限度の事実にもとずく意見であって、新たな考古学資料や文献発見で歴史が変わるのと同じです。
我々法律の世界では、血液型がABOしか知らない時にはその血液型一致だけで親子関係有無の結論が決まっていたのが、もっと複雑な分類法がわかると数十年前の鑑定による同一性が間違いであることになり、この数十年ではDNA鑑定がその後の技術革新によってさらに次のレベルの鑑定をして見ると、別人であった結果が出るようになっています。
以下は逆の事例です。
http://www.cpigi.or.jp/news/img/09_09_10_yamada.pdf

2005年10月13日(木)
東京都で90年11月、Aさんが路上で刺されたうえ車に轢かれて死亡した事件で、警視庁は13日、Aさんを刺したB容疑者を殺人容疑で逮捕した。
これまで、Aさんの死因は轢き逃げによる脳の損傷だったが、轢かれる前にB容疑者に刺されたことが致命傷(死因)であったと改めて判断したため。
凶器の刃物に残された血液のDNA型鑑定の精度が、この15年で飛躍的に向上したことが決め手となった。15年前は、同じDNAを持つ人は「25人に1人程度」で証拠として不十分とされていたが、当時のDNAが保存されており、最新装置を使って新に行った鑑定では「数十億分の1」まで精度がアップ。問題の血液はBの血液だと改めて特定できた

広く知られていることでは万有引力の法則が、相対性原理の修正を受けたのと同じことが起きています。
このように学問はいろんな実験をしてわかった限度でいろんな意見をいうのは自由ですが、現在進行中の政治の動き及び将来のことになると、学者が(日露戦争でいえば武器弾薬の補給状況・・在庫がどのくらい残っているかの最高機密状況や相手方の兵力補給状況、国際世論の趨勢など・現役の交渉担当者や情報把握部署にいない限り・.逆にいえば、そういう部署にいれば軽々に外部発表できません)特別な情報を得ているわけはなく、また将来予見能力に秀でている特性もないので彼らが目先の政治論をいう特別な資格はありません。
彼らは過去のことを学ぶ能力に向いているグループである分、反比例的に即決や将来予測が最も不得手な人種の集まりでしょう。
能力もないのに帝大教授という肩書き利用してメデイアの振り付けどおり論じるようになると「床屋の政治談義」レベルになります。
僧侶が宗教論を比叡山等で講じるのは自由ですが、高僧としての権威を利用して具体的政治に介入すれば、政治責任をとるべきは当然です。
政治関与したから信長に叡山を焼き討ちされたのであり、宗教弾圧ではありません。
極端に言えば信玄や謙信のように頭をまるめて法体になっていても、軍を率いて出陣すれば、負けた場合死を覚悟すべきでしょう。
学者か僧侶かの身分によって政治責任がなくなるものではなく、政治行動には政治責任が伴うのは当たり前のことです。
この点では最近顕在化しつつある弁護士自治も同じ問題をはらんでいます。
弁護士会の自治権・・人権に関連があるといえば森羅万象ほとんど全て関連性がありますが、民主国家においては、具体的法案をどうすべきかは、民意によって決めることであって、特定法案についての賛否運動・.政治活動する自由までは前提にしていないように思われます。
道路交通法改正や飲食店での喫煙規制さえ、規制される方は人権を規制されるテーマですが、すべての法案に弁護士会の名で賛成反対の政治活動の自由があるとすればおかしなものです。
日弁連か千葉県弁護士会か忘れましたが、数日前に見たものによれば、最低賃金引き上げ決議?会長声明らしいものが記載されていました。
私個人で言えば、この種のことは政治が強制するのではなく、景気動向による・基本的には生産性次第という考えですが、それでも問題が起きているならば、生活保護費や子ども手当その他の引きあげ等の個別対応を基本にすべきという考えですし・まして今は好景気で日々バイト時給アップ・・人手不足がよく知られている通りですから、(今朝の日経新聞朝刊20pにはバイト時給上昇基調・・5月は1、8%高と出ています)なんとなく時宜に適さないイメージで受け取りました。
千葉県だけ下がっているというなら別ですが、上記は3大都市圏と出ています・・政治家でもない集団が政治に口出ししすぎるとこういうズレた運動になるのでしょうか?
美濃部氏の天皇機関説や滝川事件は、学問の場で学問として論文発表して学問として受け入れられていたものを、政治テーマにするためにメデイアと組んだ政治家が積極的に取り上げて政治問題化したものですから、文字通り学問の自由侵害ですが、7博士は専門分野外のことに学者の権威をふりかざして政治に介入しておきながら批判されると「学問の自由だ」と帝大でかばったのが本末転倒・・日本の不幸の始まりです。
上記論文によれば、東大史では、政治介入は不名誉なことらしく政治介入に関してはぼかして(いて内容不明なので著者が研究する気になったらしいです)「学問自由」の事件としてのみ記録しているようです。
学問に対する正面からの介入である美濃部〜滝川事件では文字通り「学問の自由」の事件でしたが、これをかばうどころか、愛弟子の宮澤教授が恩師を批判しているのですから、帝大のレベルってそんなものです。
宮澤教授に関する本日現在のウィキペデイアの紹介記事です。

1935年に天皇機関説事件が発生して師の美濃部が激しく攻撃された時には、東大で憲法学を教えていた宮澤も激しい批判の対象とされた。蓑田胸喜によれば、「美濃部達吉氏に対してと共に厳粛に司法行政的処置がなさるべきである」[2]「国体国憲に対する無学無信の反逆思想家が帝大憲法教授たることは学術的にも法律的にも断じて許さるべきではない」[3]とされた。

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