国政政党の役割2

ここでは政党全体の能力競争・・レストランのメニューにあたる選挙に必要な公約の内容を書いています。
実際に作れないメニュウ表記はフェイク・おとり広告になるのと同じで、メニーに掲げる以上は具体的準備が必要でしょう。
例えば、政治資金規正法関連や政務調査費の使途チェックばかりに特化するのは、政党ではなくオンブズマン程度の組織のやることでしょうし、汚職や不正経理チェックも警察や監査専門家が第一次的にやることです。
弱者目線で言えば福祉水準は手厚い方が良いし医療費は安い方が良いし子供も大事にした方が良いに決まっています。
しかし商人でいえば売り上げ金全部〜8割を生活費に使うと次の商品仕入れができないし、店舗や設備をリニューアルし優秀な人材を雇って行かないと競争に負けます。
結局は使途バランスをどうするかの問題です。
政治家・国の経営者になろうとするものは、いかにして収入(国の活力アップ)を増やすかの方向性を示してから、その配分を考えるのが普通です。
総収入があってこそ、使い道の考えも出てくるものです。
生活保護も手厚い方がいいものの、元気に働くものの生活水準とのバランスがあります。
希望の党の公約では不要不急のインフラ整備をやめて財政再建する・・消費税増税凍結と言うのですが、不要不急のインフラ工事をやめるといっても何を不要不急と断定して中止するかの意見がありません。
国家運営には、国民全般の生活条件の底上げ・の収入増をはかることが重要・その上での分配論ですが、収入面で言えば、どの産業分野を今後伸ばしていくべきかを言うべきであって、単に「産業の活力アップを目指します」と言うのでは空疎すぎます。
産業の活力アップ反対の政党はないでしょうから、どうやって活力アップするかの提案こそを公約すべきです。
例えば電線地中化自体は徐々に行われていて誰も反対はないのですから、この公約は従来は年に5キロのペースで進んでいたが、今後10キロのペースにするなどの速度アップのアッピールと思われますが、資金面の優先配分だけでは無理で、後記の通り逼迫している建設関連労働力をこの分野に優先的配分しない限りスピードアップできません。
電線地中化工事を早めるために、オフイスビルやホテルあるいは駅舎等々の新改築、オリンピック関連工事その他の前向き需要に応じた建設工事(新鋭工場や物流施設や、都心部の最新ショッピング施設新設工事などなど)を遅れさせることが経済活性化にどのように結びつくのでしょうか?
優先順位の決定がないまま・・不要不急のインフラ整備をやめるというだけでは、なにを止めるのかも不明で希望の党には何の政策もない・やりたいこともないのに権力欲だけで結党したと自白しているようなものです。
築地移転で言えば、1年間以上も空転させてまで土壌汚染を騒ぐ必要があったのかと言う・まさに時間の優先順位の判断ミスの疑問です。
政治は全体のバランスを見て取捨選択→具体的になると大方の場合「あなたの希望は後回しです」と言うしかないので利害対立が出てきますが、利害調整をしないで具体的意見を言えないのでは、国家運営を担うべき政党と言えないでしょう。
国政進出の政党設立は、小池氏が総理になりたいという野心で始めたことは周知の通りであったにもかかわらず、党代表の自分が立候補するか否かさえもはっきり出来ないまま公示日直前を迎えてしまいました。
都知事1年で都政を混乱させただけで何もしないで逃げ出すのか?という批判に耐えられなかったことがまず第一で、次に結党直後のフィーバーがどの程度続くか見極めてから決めたいという態度が見え見えでした。
若狭氏が結党準備をしていたのに、或る日突然に私がやりますと宣言していきなり自ら代表についておきながら、風向き次第で選挙に出るか出ないかを決めるというのでは、実現したいことがあって旗揚げしたのではないという前代未聞の自己都合の結党だったイメージを焼き付けました。
選挙に出ないで負けた場合には都知事の椅子にしがみついていれば、もしかして残任期中に都政で挽回できれば捲土重来を期する道があると見たのでしょう。
無責任な煽りばかりで自分が出馬するかどうかもはっきりさせられない・・それでもメデイアの煽る方向へ単純に同調する国民がそんなに多いのか不思議だと思ったのは私だけかと見ていましたが、結果は10月10日公示〜10月22日の衆議院選挙結果で判明しました。
October 28, 2017「アメリカンファーストと都民ファーストの違い」以来アメリカンファーストのフレーズに関連して、都民ファーストのフレーズとを比較しているうちに希望の党の旗揚げがあったので、変な方向にテーマが流れてしまいました。
小池氏の手法は、現実政治に関係のないキャッチフレーズを次々繰り出すだけ・それもヒト様(トランプ氏やメデイアで出ている)の借用の言葉が踊っているだけという印象で終わったのではないでしょうか?
アメリカンファーストはオバマ以来の国際力学の変化であって(応分の負担をしてくれないと)「もはや世界の警察官をやってられない」というアメリカの厭戦気分を背景にしていますので、時代背景のあるフレーズですが、都民ファーストには何らの合理性もないと書いてきました。
日経新聞には、消費税の地方分配率で、東京都が取りすぎているので東京都の取り分を減るべきという動きが出ていて12月16日朝刊ではその方向で決着したと書いています。
都民ファーストどころか「都が多く取り過ぎている」という批判の方が多いのを無視し(何か言い分があるかもしれませんが、何も考えずに流行語に飛びついただけの印象を国民多くがうけたでしょう)て国政に打って出ようというのですから、何を考えているの?という疑問を持った人の方が多いでしょう。
今回(昨秋)の選挙の結果、メデイアと政治家がタッグを組んで虚像・イメージを繰り返せば一定のところまで行けるが、国民が賢いので根拠のないイメージ効果持続期間(人の噂も75日?)が短いことが分かった状態です。
メデイアの世論誘導力が選挙のたびに落ちてきたことが、メデイアが目の敵にしていたトランプ当選だけではなく今回も証明されたようです。

 

労働力流動化(職業訓練必要性)2

大きな変動を何でも拒否する超保守思想の権化みたいな教条的運動は困りものです。
こういう人たちも人権擁護で頑張っているのでしょうが、あまり反対ばかりが続くと外国から何かもらっているのじゃないか?という疑いを持つ人がふえてきました。
今後IT〜AI発達の過程で、雇用流動化・個人の方から見れば30代まではスポーツ選手では、監督コーチになれるのは一握りで残りの大多数は3〜40台では別の仕事につくのが普通(プログラマー等IT関連も同様)であるように、(タイピストのように職種自体がなくなっていくパターンが増えていきます)人生途中で変化していく人の方が多くなる時代が来るように思えます。
変化することにはなんでも反対にエネルギーを注ぐのではなく、IT化どころかAI化による急激な労働環境・社会変化が見込まれる時代には、変化に対する適応能力の再教育制度の再構築(職業教育は子供〜若者だけではなく中高年にも必要)や再就職の手助けに向けた社会構築にエネルギーを注ぐべきです。
高度成長期でさえ多くの労働者が終身雇用下になかったにも拘らず、今どき時代逆行の正規化…終身雇用拡大が必要か?の根本的な問いかけが必要です。
その結果、もし未だに正規非正規(私はその垣根をなくしていくべきという意見ですが)の峻別が必要としても、終身雇用を前提にした再チャレンジ・受け皿のない(大卒時に人生コースが決まってしまう・変化・コースから脱落した多くはは落ちこぼれしかない社会)固定した社会が有用か?の議論こそ重要です。
終身雇用でもいいが、後ろ向き・倒産しそうな時しか整理解雇を認めないのではなく、当該分野はまだもうかっているが、将来を見据えてこの分野を縮小していきたいという前向きな場合でも、金銭解決で解雇を認めるような柔軟運用が社会をしなやかにしていくように思えます。
金銭解決反対で前に進まないならば、正規・非正規の2択しかなくなり非正規が増える一方になると思われます。
希望の党の公約は民進党系の思想で作られているとしたら、正規=解雇柔軟運用という妥協能力がない旧社会党の系譜が色濃いために・金銭解決絶対反対意見になるのでしょうか?
そうなると企業は新卒新採用を最小に抑えるしかない・・非正規が増えるしかないでしょう。
希望の党(この原稿は17年秋から暮れにかけて書いたもので、当時の希望の党の主張を前提にしています)が「非正規を減らし正規社員を増やせ」と本気で主張しているならば、正規雇用者の解雇規制緩和でなければ矛盾です。
ここ(17年秋総選挙時の)で希望の党の公約を見直してみましたが「 〇〇に希望を」という抽象的スローガンの羅列しか目に入りません。
要は耳当たりの良さそうなことを羅列的スローガンにしただけで、正規を増やすために必要な金銭解決を認めるのかどうか、どうしたいのか道筋が見えません。
金銭解決で入れ替え可能ならば、企業は正規雇用にこだわる必要がなくなりますが、その代わり転職能力のない既得権利者にとっては脅威です。
17年12月16日に書きましたが、省力化による人手不足解消と職業教育はセットであるべきです。
韓国では労働貴族・・非正規の苦しみを無視して無茶な要求貫徹のためのストライキ打ち放題という現状(特に現代労組)が知られていますが、日本の大手労組はそこまでひどくないものの、(解雇規制=新規採用抑制)既得権にあぐらをかく姿勢では国民の支持を得られません。
そもそも日本社会が沈没するでしょう。
正規職人口の比率が下がれば下がる程自分の希少性が上がるので、そういう方向へ大手労組は動きがちです。
組織労組の大方を占める連合の勢力はウイキぺデイアによると以下の通りです。

1989年11月:78産別、 組合員数  約800万人(結成時)
2016年2月 :51産別、       689万0,619人

内訳に占める旧官公労を抜き出してみると以下のとおりです。

自治労     798,659         地方公務
日教組      241,331         教育
JP労組     240,579        日本郵政
国公連合    83,402         国家公務
JR連合       81,230         JR 全日本鉄道労働組合総連合会
JR総連      72,655         JR

JR東労組崩壊

連合の下部組織で、組織単体としては最大勢力を誇ったのが東日本旅客鉄道労働組合(JR東労組)であった。急進的かつ戦闘的な左派労組であり、組織率も2017年2月の時点では約80%と高く、雇用側に対して最も影響力がある労組と見られていた・・・・JR東日本という単体で非常に公共性の高い企業に対し意見ができることは、連合内部で大きなアドバンテージであった。実際、2017年2月に同組合の執行部は「スト権を確立した、いつでも戦える」と宣言している
ところが、
2018年2月に実際にJR東労組がスト権行使を会社に通告したところ、大量の組合員が「労使関係の崩壊」と言って脱退し始めた
この背景には、過激な組織運営に以前から組合員が不満をいだいていたことや、企業に対する労働組合として逸脱する主張が一部の過激な指導者によって実施されていることなどが上げられる。
執行部はスト中止を宣言するがその後も脱退は止まらず、結果的に46,500人のマンモス労組から約32,000人が脱退、かろうじて第一労組の面目は保ったものの、従来の戦闘的な労働運動が成立しない情勢であることを証明してしまう結果になった。

組合が民主的に運営されているというのが建前ですが、実際には組合員多数の本音を反映していなかったことが露呈したことになります。
日弁連の各種政治的意見を会員の何割が支持しているかについても、このように実際の行動で見たらわかり良いでしょう。

憲法(皇室典範)改正は投票になじまない2

イスラム諸国でイスラム戒律を無視した法制定が簡単にできるかの問題と同じです。
形式憲法に書いていなくとも、それ以上に国民精神の根本にある天皇制のあり方の変更は、国民にとって最重要課題です。
この大変更について国民投票を経ていませんが、日本の国是について、下々が声を 上げること自体が「オソレ多い」・・国民の意思を汲み取る能力のある代表が集まって決めていくのが正しいという日本教があるのです。
古代から周囲がセキとして静まり返る中で、神に取り継ぐ神官が厳かに「畏み畏み申し上げ」て「神の思し召し」で「落ち着くところに落ち着かせてくれる」という古代信仰が今でも底流にあります。
そういうものがあるかどうかすら国民投票になじまない・・国民としてはそれが最もふさわしいという暗黙の合意が根底にあるように思われます。
その代わりに日本の代表者は勝手なことが許されない・・国民意思吸収に必死ですし、その能力が問われます。
自分の関心のあることに集中する能力・学者や研究者の能力が不要どころか、政治決断には邪魔・両立できません。
政治家は学問的な有能さが必要でなく国民意思を察知する能力です。
この結果、現代的装置として、与野党重鎮〜元首相や政権首脳の意見を背景にした衆参正副議長協議を経て落ち着くべきところに落ち着いた印象です。
落ち着くべきところに落ち着くには、じんわりとした国民の支持が必要ですが、これが選挙によって可能かは別問題です。
民主活動家は、何かあると「デュープロセス」・内容如何にかかわらず「民主的手続きを経るべし」というのが十八番ですが、そんな形式手続きが必要なのではなく、本質は国民意思吸収能力のある一定の「大人(オトナ)」の「合議」を経るべしということです。
その資格とは、日本社会では、勉強ができる・秀才であることが基準ではなく、みんなをまとめ上げて行く能力・・すなわち空気を読める能力・私にはその種の能力が欠如しているので、無い物ねだりでそのように思うのですが・・。
最初は身の回りの小さな単位で空気を読み次第に大きな単位になって行く繰り返しで幅広い空気を読む能力のある人になって行く・・・最後は日本列島全体の総合的空気を読める人が社会のトップに立って行くことになるのでしょう。
このような経験のある人が合議して国家の基本的重要事項を決めて行くのが日本社会の基本ルール・憲法です。
このような基準で考えると秀才が権力を握ると悲惨なことになることが多い歴史の理解可能です。
旧社会党に始まって民主党や革新系野党は、批判精神中心の人材(秀才を集めるのが好きで)ばかりで、どうやって国家を運営していくかの能力のない人が中心だから、政権を任せられないのです。
どうやって良いか不明なので、手続き重視・結局粗探しになりがちです。
このような社会のあり方は日本だけではなくキリスト教会にも朝長老派教会という一派が今でもあります。
これに対して未熟な若い人の意見も正しければ取り入れろという、いわば造反有理論が多数決制でしょうか?
ただし、その場の短時間の議論では、大きな声や論理が正しくとも長期的に見ればマイナス面もいろいろあるので、目先の討論で勝ちさえすれば正しいとは限りません。
最近の事例では、民主党政権下で蓮舫氏が仕切った事業仕分けの拙速性でした。
千葉県弁護士会でも長老の談合で決まる運営・長老支配打破を謳って、昭和50年はじめ頃に中堅弁護士が声をあげた成果が誇らしげに語られてきました。
実は日本国憲法は形式上総選挙を経ていますが、18年1月4日以来紹介してきた経緯を見ると2月13日のGHQ草案提示以来、松本委員会では無理となった後、外務省役人(入江俊郎氏など)を軸に日本側対応が動き出して、今回の皇室典範改正の動きとほぼ同様の関係者の根回し的手続きを経て、成案に至ったものです。
投票箱民主主義の限界ですが、実はアメリカ自身が自分自身の憲法制定のために国民投票をしていないことは周知の通りですが、憲法改正にも国民投票を要件としていないことを17年12月29日に紹介しました。
英国のEU離脱の国民投票でも◯x程度のおおまかな結論を求めるならばまだしも「離脱条件を決める条項の可否」を国民投票するようなことは不可能です。
憲法改正も同様で、細かな条文改正を国民投票で決めるのは無理があります。
だからこそ、アメリカは日本には不可能に近い特別決議と国民投票を強制しておきながら、自国では憲法改正は国民の代表たる議会の手で次々と改正されてきたのです。
諸外国の憲法改正の実態は以下の通り頻繁ですが、国民投票不要だからこそ可能になっているというべきでしょう。
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8624126_po_0824.pdf?contentNo=1国立国会図書館

諸外国における戦後の憲法改正【第4版】
調査と情報―ISSUE BRIEF
― NUMBER 824(2014. 4.24.)
諸外国における戦後の憲法改正【第4版】
1945年の第二次世界大戦終結から2014年3月に至るまで、アメリカは6回、カナダは1867年憲法法が17回、1982年憲法法が2回、フランスは27回(新憲法制定を含む。)、ドイツは59回、イタリアは15回、オーストラリアは5回、中国は9回(新憲法制定を含む。)、韓国は9回(新憲法制定を含む。)の憲法改正をそれぞれ行った。

たとえば日本国憲法では、国民が今の憲法が不都合と思う人が6割いても変更できないようにしていることになっています。
こんな無茶な非合理な改正規定を持つ憲法があるでしょうか?
よほど押し付け内容に自信がなかったからでしょうか?
その後押し的なイメージ戦略が、平和主義を守れとか天賦人権論の横行です。
「天賦不可譲」の権利論が一般化している結果、以下の通り誤ったイメージ流布の役割を果たしています。
以下の文章が法律家の意見かどうか不明ですが、それだけに立憲主義論者が一般に浸透させたいイメージ流布の効果が、ズバリ出ていて分かり良いでしょう。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13150613708

人権は、人が生まれながらに持っており、他人に譲り渡すことはできず、国や他人によって奪われたりすることはありません。例外的に、民主的社会をまもるために、例えば表現の自由や移動の自由などに対して、どうしても必要な制限を法律で決めることは認められます。
しかしその場合にも、生命に対する権利、拷問を受けない権利、奴隷状態に置かれない権利、犯罪と定められていないことをしても罰せられない権利、思想、良心そして宗教を信じる自由(内心の自由)などについては制限することはできません。
人権の不可侵性の説明で、明らかに生命に対する権利は制限することはできません。と明記されています。
死刑は明らかに人権侵害です。これは、議論の余地がない。
なぜ、死刑存置派は、人権を守らないのですか?」

プロはここまで正面から書けませんが、このシリーズで紹介している「実務法曹にとっての近代立憲主義」の本では、私のような素人が読むと、執筆者の誘導したいイメージ・熱意ばかりが記憶に残る仕組みです。
「こんなことが書いてあったなあ」というおぼろげなイメージ記憶なので、このコラムで引用するために読み返してみるとどこにもそのような具体的論述がないのに驚きました。
名誉毀損判例などを読むと、裁判所は「前後をきっちり読めば、そのような趣旨でないことが容易に判断できる」という趣旨で名誉毀損に当たらないという判断が多いのですが、国民の多くはその雑誌や本のみだし等で余談を抱くのが普通で、本文を読む人もその著作の言いたい気持ちをムードで受け止める人の方が多い実態を無視しています。

憲法とは?(近代立憲主義の限界2)

慰安婦問題を際限なく仕掛けてくる韓国や北朝鮮のように自分の依って立つ意見が絶対とする態度を見るとこういう思考形式の人とは、まともな議論が成り立たないように見えますが・・。
憲法を左翼的理解・・「権力抑制のために定めた根本ルールのみ」と自分の気に入った方向で定義してその定義に従わない人をバカ扱いする人たちは、どこか北の人たちと似ています。
皇室典範や、17条憲法は権力抑制目的ではないので、実質的意味の憲法にも入らないでしょうが、国家民族のあり方の基本ルールを実質的憲法と見れば、上記も入るでしょう。
ところで権力監視抑制のみを憲法の要件とすれば、左翼的立場では絶大な信奉の対象になっている「憲法の平和主義」論は、憲法に入るのでしょうか?
そもそも、左翼思想と平和主義がどういう関係があるのか理解不能です。
今世界で軍事力を前面に押し出している国々は中国やロシア北朝鮮・皆もともと共産系国家であり、中国の軍事脅威に真正面から晒されている日本で、非武装平和論をいうのが軍事力で迫ってくる国々と親和性のある左翼系文化人ばかりというのが不思議な関係です。
いかにも「中国の軍事圧力に屈服するのが最善」と言わんかのようなスタンスに見えてしまうので、信用性がなくなります。
もともと公害反対は人権救済問題であるのは当然ですが、公害など全く問題にしていなかったソ連や中国の実態を知る立場では、共産党の弁護士がこれを中心になって推進することに違和感を持っていたことを繰り返し書いてきました。
共産党と関係ない人の公害反対や各種の人権運動であれば信用し易かったのですが・・。
そういう視点で見れば、米ソどちらかの核の傘に入って「非武装平和」を唱えるかだけの選択の時代には、米ソどちらをかの庇護の元での非武装または軽武装平和論が合理的な時代でした。
60年の安保反対闘争は、戦争反対闘争ではなく米国の傘に入るのに対する闘争だったのです。
集団自衛権・軍事同盟をするとアメリカの戦争に巻きまれると主張しますが、中ソ陣営ならばば巻き込まれないと言うのでしょうか?
「同盟していざとなって自分を守ってもらう」ためには、「自分も相手が困ったときに助けに行く」というのが同盟の基本です。
「自分が攻められていないときには知らん顔しています」という同盟など成り立つはずがありません。
自衛が必要だが「軍事同盟禁止」が成り立つのは、超超大国だけの論理であって、それ以外の中小国は大国との同盟(相互協力関係)がないと自衛することは不可能です。
超大国といえども孤立していると、2〜3〜4位連合に負けるので、多数派(分断)工作に余念がないのが現実です。
社内や政党内の派閥でも「寄らば大樹の陰」で派閥に属すれば、その分自己の主張が制限される・・ボスの言い分に従うしかないのは仕方のないことです。
中ソどちらに属した方が、「自由度が高いか、待遇が良いか」「将来性があるか」の選択の問題なのに「平和憲法を守れ!というだけでは、現実生活者は「私どもには、難しいことはわかりませんので・・」と相手にしなかったでしょう。
上記の通り、双方の方向性が一致していた時代には非武装平和論も意味が(一定の支持)あったのですが、米国の圧倒的地位が低下して「尖閣諸島が守てくれる」かどうかになってくると、米軍のにらみだけでは解決できない・実戦闘勃発可能性が近づいてくると同盟さえあれば軽武装で十分ではなくなりました。
比喩的にいえば「警察力・巡視艇(スピーカーで退去要請だけで、解決するのか、軍事力・海軍力はいらないのか?」ですが、自力撃退しない限り引き下がらない相手には相応の軍事力が必要です。
軍事同盟とは自力防衛が主体であって「応援部隊は応援(後方支援中心)でしかない(野球の応援団?」ないという軍事同盟のセオリーに戻る・・応援が来るまでの初期自力防衛力の備えが必須になってきます。
戦国時代に国境沿いの小豪族が攻められた時に織田や武田の主力軍勢が来るまで自力で小さな城を守り抜く戦力が必須だったのと同じです。
現在で言えば、尖閣や沖縄が奇襲攻撃で中国に占領された時に、米軍は日本が自力で奪還作戦を行うための後ろ巻をしてくれても、米軍が先頭切って攻め込んでくれるようなことは、はほぼ100%ありえない状態です。
この段階で、「侵略されれば無抵抗で受け入れれば良い」という非武装平和論と、米軍に頼るから軽武装で良いという非武装論とは水と油の関係であったことが分かってきました。
平和論と日米安保条約が矛盾どころか補完すると考える勢力との基本認識の違いが、60年安保騒動になったのです。
その後の政治過程を見れば、アメリカの核の傘を選ぶ国民の方が圧倒的多数であり、中ソの各事件や公害垂れ流し、あるいはスターリン粛清や文化大革命等の悲惨な弾圧実態を賞賛する勢力は国民支持を失っていき、旧社会党が消滅し、後継の社民党支持率が今では0%台になっている現状です。
非武装論支持激減は戦後の熱狂が冷めてきたからではなく、中ソに占領させたい勢力と米国寄りの双方が支持していた平和論だったので、国際環境変化によって、元々の目的相違が明白になったにすぎません。
同じく軍事強国として理不尽に実力行使している中国やロシアの軍事力の圧迫に直面している我が国で、共産系に親和性を持っている勢力が非武装平和論を言っても、国民の多くが信用できない気持ちになるのが仕方がないでしょう。
憲法論に戻りますと、平和を守るためには権力→軍事力抑制が必要といえば、立憲主義的理解でも「憲法の平和主義」が憲法に入るのでしょうか?
共産主義国が軒並み軍事独裁国家になっている上に、「軍事独裁や人権侵害が問題になって米国援助が削減されるとすぐに中露になびく政権が普通ですが、このような国際政治における長年の結果からみると中露は道義無視の山賊、海賊の逃げ場・・巣窟のような立ち位置と認識されていることになりませんか?
これらを理想の国として崇め、中露の軍事支配下に入ることを推進しようとする左翼思想家の不思議さです。
その運動として日本国国内の人権侵害や公害、閣僚の揚げ足取り、原子力被害など批判していますが、彼らが理想化し非武装のママ中露の支配下に一刻も早く入ることを目的にしている中露が行っている少数民族への大弾圧や各種情報統制・巨額割路政治による巨大な格差社会を全く問題にしません。
こういう国の支配下に入れば原発・放射能被害も秘密にしてもいいし、人種差別や弾圧思想改造収容や臓器摘出もやりたい放題にすべきというのでしょうか?
そこまで行くと中露の現実を前提にすると、左翼文化人らの各種主張は日本をよりよくしたいという正義の観念が全く見えない・日本の政治を撹乱して世界の進展について行くのを少しの時間でも妨害する・・周辺諸国よりも遅れた劣等国にすることが目的のように見えますが・・。
左翼的・憲法学会的多数説・・「権力抑制こそが憲法である」という主張のおかしさは、イスラム法を基本とする諸国家に当てはめれば、明瞭になります。
イスラムの諸原理は権力抑止機能以外の生活規範がほとんどでしょうから、これらは実質的意味の憲法ではないという意見・・普通の法律以下の扱いになりますが、イスラム諸国でこのような実態無視の意見が主流でありうるとは到底考えられません。
彼らはイスラムの諸原理に従うことは成文憲法に従う以上に重要なルールと考えているでしょう。
ただし、イスラム原理に反する憲法を作ること自体できないから、日常的に矛盾が起きることはないでしょうが・・・。
日本や西欧の基準でイスラム国で男女平等・金融その他のルールを強制すれ大きな葛藤が生じます。
いわゆるハラル認証も同じですが、イスラム諸国においては、イスラムの諸原理は成文憲法以上の効力があることは確かです。

天皇制変遷の歴史4(連署・同意権2)

天皇制変遷の歴史4(連署・同意権2)

現在の議院内閣制でも天皇の名において国会を召集しますが、詔書には内閣総理大臣の副書が必要です。

官報で見る国会召集の詔書


日本国憲法第七条及び第五十二条並びに国会法第一条及び第二条によって、
平成二十五年一月二十八日に、国会の常会を東京に召集する。
御 名  御璽
平成二十五年一月十八日
内閣総理大臣臨時代理
国務大臣 麻生 太郎
法令を公布する場合には内閣総理大臣と担当大臣の連署が必要です。
連署を拒むことはありえないと思いますが、仮に内閣総理大臣や担当大臣の副署しない詔書が発行されても、公布の効力がないとされるでしょうか?
徳川時代でいえば、将軍家の同意がないということで無効(紫衣事件)でしょうし、現在でも天皇が独断で任命したら内閣の助言承認がないという点では同じです。
いわゆる天皇の大権と内閣の助言承認との違いですが、実際の実力関係・実質決定権は徳川時代も明治時代も現在も変わらないように思うのは私だけでしょうか?
天皇と周辺に実務能力がなくなった結果天皇大権の場合、周辺を握ったものが天皇の名で政治権力を行使できる点に問題があった点は確かです。
禁中並公家諸法度以来、政府高官の任命に至るまで幕府の同意が必要になったことを紹介しましたが、明治憲法も国務大臣の輔弼プラス副署が必須にされていた点では、禁中並公家諸法度の幕府同意権の明治版ですし、現行憲法の内閣の助言.承認を要するのとほとんど同じです。
以下明治憲法を見てください。
いかにも仰々しく天皇大権を謳っていますが、実態は内閣の輔弼によるものでした。
捕弼する仕組み・・君側の奸がはびこるかどうかで天皇制危機が起きるだけでしょう。
今のような民主制が確立すると補弼すべき内閣が悪いかどうかは、国民が選ぶことですから天皇制の問題ではなくなります。
天皇(君主)無答責という原理がトキに言われますが、実務を握るものが責任を負うべきである組織・機関決定にそのまま署名するしかないものが責任を取るのは無理があるという当然のことを言うにすぎず、保元の乱や承久の乱のように、上皇が先頭切って行えば責任を取るのは当然です。
皇子も同じで以仁王や護良親王のように自己の意思で行動すれば、相応の責任を取るしかありません。
現在サウジ国籍ジャーナリスト殺害事件が国際政治を揺るがしていますが、皇太子の地位があるから責任があるかどうかではなく、実効的関与があったかどうかで決まることです。
このように見れば、天皇の戦争責任論・・あるいは天皇制があったから戦争回避できなかったかの問題ではなかったことがわかるでしょう。
これまで日露講和条約反対論に始まる過激主張煽りの極限化が国会での良識的言動を葬る役割を果たし、ひいては戦争に持ち込んで行ったのですが、これは天皇制の結果ではなくジャーナリズムによる國民扇動行き過ぎの結果です。
※日米開戦自体をジャーナリズムが煽っていたというのではなく、第一次世界大戦後の国際情勢変化に合わせて対外活動を軌道修正すべきところを逆方行為へ煽って行ったことを書いています。
例えば、今回の米中覇権争い、あるいは米ロの核軍縮条約破棄で言えば、米国トランプ氏による過去の約束全てのちゃぶ台返しで始まっていますが、その非を咎めても仕方がない・・ロシアは再度米国と無制限軍拡競争する力がないことが明らかである以上、ロシアとしては表向き自国に非がないと言いながらも、米国との再交渉・新条約締結に応じる構えを見せています。
カナダやメキシコも過去の条約違反だと喚いても仕方ない・・再交渉に応じてきました。
中国も米国の強硬要求に応じるのが大人の知恵でしょうが、中華の夢実現という国粋主義思想家のいう通り自力更生路線で断固アメリカと対決すると戦前日本の二の舞です。
多分表面的強硬路線とは別に妥協を探っているでしょうから、日本としてはいきなり頭越し米中和解をされると困るので安倍総理が10月25〜26日に訪中して首脳会談をしたばかりです。
欧州情勢は複雑怪奇と言って政権を投げ出した時代とは違い、安倍政権は複眼的どころか多層的国際戦略を実行しています。
明治憲法
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム
国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
以下省略
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第10条天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ   憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
第2章 臣民権利義務
第18条日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
第19条日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得
第20条日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ・・以下省略
第37条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
第55条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
御名御璽
明治二十二年二月十一日
内閣総理大臣 伯爵 黒田清隆
枢密院議長 伯爵 伊藤博文
以下省略
1921年に軍部の同意が得られず組閣すらできないで「うな丼の香りを嗅いだだけだった」とし、「鰻香内閣」と揶揄された清浦奎吾内閣がありましたが、組閣が天皇の大命降下によるならば、軍部も天皇大権・・統帥権を盾にした組閣非協力は許されないはずです。
皆、自己主張を通すために天皇制を悪用していただけなのです。
上記の通り、官吏任免権があっても法の特例を除くのですが、法に根拠のない官吏任免がほぼゼロですし、基本的人権もすべて「法律に従い」という限定があって、天皇は立法権があるとはいうものの、法は国会の協賛が必須ですから、天皇が勝手に何も決められない点では中世以来の天皇の権限と変わりません。
幕府の同意なしに叙任し、幕府に取り消された後水尾天皇の例とどう違うか?です。
また、現行憲法と比べても法令交付や政府高官任命その他すべてに国会の指名や内閣の助言承認がいる(憲法6条7条)のと結果が同じです。
このように天皇権力は明治憲法でも禁中並公家諸法度(慶長20年7月17日[2](1615年9月9日)以来長期的に象徴的機能・名前を貸すだけ?以外に実際にはなくなっていたのです。

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