米軍支配と歴史ねつ造2

日本社会でもっとも嫌われる行為・・敗戦直後で弱り切った日本の弱みにつけ込んだトラの威を借る朝鮮人による傍若無人ぶりが、日本人の朝鮮人嫌い・三国人という呼称を生み出し、今も根強く残る結果になってしまいました。
(日本が国力を回復した後は大人しくなりましたが、一旦やったこと・・人の弱みにつけ込む人たちだという認識は簡単に消えません)
朝鮮人の不法行為ぶりについては、米軍政による報道規制によって国民一般には知らされませんでしたが、国民にとっては身の回りでしょっ中起きていたことなので、多くの国民が肌で知っている口コミよる記憶の伝承まで消すことは出来ません。
また、朝鮮に住んでいて敗戦によって日本へ引き上げた人も一杯いますが、これがまたひどい目にあったらしいのですが、ソ連軍によるシベリア抑留と違って、米軍の報道管制によるのか全く報道されないままになっています。
日本本土であれだけ違法行為を働いた朝鮮人が朝鮮半島内の日本人の資産略奪その他の違法行為はやりたい放題であったことは明白です・・・みんな着の身着のままで逃げて来たのですが、そこまでしかマスコミは報道しません。
我が国は今でこそ文章国ですが、稗田阿礼で知られているとおり、基本的に口承文化の国でもあります。
秀吉による信長肖像画の書き直し命令は、口承を中心に400年以上も伝わっていたものです。
ところで米兵による不法行為ですが、今でも、沖縄での米兵による違法行為・性犯罪等がしょっ中報道されますが、日本が国際復帰して長期経過している・これだけ社会問題になっていてもいまだに根絶出来ないことから見れば、占領下でやりたい放題だった米兵による事件がゼロだった訳がありません。
・・占領・軍政下では米兵の数も今とは違って圧倒的に多いし、国内を支配者として自由に闊歩していた時期ですから、この何百〜千倍単位で事件があったはずですが、70年近くたった今でもまだ僅か1件すら表に出てない・・刑事事件化していないこと自体が異常です。
(調べればどこかに報道されていたと言うこともあり得ますが、社会問題に全くなっていない・出来ないまま我々素人・一般人はまるで知らないままと言う所が異常です)
・・当時GHQの報道統制がどれだけきつかったか・・すべて抹殺されていたことが逆に証明されることになります。
警察はアメリカ兵の違法行為について何も出来なかった時代が続いていたのですが、これを朝鮮人も真似していたのです。
これの経験のある石原都知事による第三国人発言・・戦争当事国でさえないのにトラの威を借りて威張っていたことから「戦勝国ではない」という意味での第三国人と日本人が言うようになっていたもので、これを前提にして同都知事の発言が出て来るのです。
第三国人発言が差別用語だとマスコミが批判するのですが、第三者という言い方自体は日常の普通熟語ですが、これが差別用語に転化した所以は、朝鮮人があまりにもひどい行動をしたことによる身から出た錆です。
(一般用語であるにもかかわらず、敗戦時に悪のりしなかった台湾人その他の国の人に対して一般化されていないので、朝鮮人が如何にひどかったかが分ります。)
朝鮮人による国内不法占拠状態は、立退料など払うことによって公的場所から朝鮮人の立ち退きがあちこちで徐々に進んでいますが、(以前大阪の江の子島の事例を紹介しました)竹島に関しては(立退料を払うことも出来ず)そのままです。
竹島に関しては戦後占領・・アメリカ軍支配下/あるいは基地存在下での不法占領開始ですからこれを阻止しない米軍は何のために日本に駐留しているのかが問題になるべきですが、マスコミがこれを論じたことも表向き政治問題になったことすらありません。
せいぜい韓国に対して抗議するくらいしか今でも許されない・・これがアメリカ主導の国際的仕組みです。
(昨年あたりまでは日本の教科書に竹島は日本の領土と記載するだけでも韓国から「消せ」という主張が来て大騒ぎになる状態でした・・韓国はアメリカの威を借りて日本を支配下においているくらいの気持ちで戦後から今まで来たことになります)
アメリカが占領軍を日本に置き続けることで日本の安全を守ってやっていると公式主張していて、日本は「これは嘘だ」ということが出来ない状態が今も続いていますが、・・これは裸の王様の寓話と同じで日本に対して嘘を強制していて恥じない国・・言論の自由を認めない政策になリます。
中韓両国が臆面もなく明々白々な虚偽主張を繰り広げるのは、背後に虚偽主張を実行している超大国のアメリカの支持があるからではないでしょうか?
(上が上なら下も下と言いますが、大親分(アメリカ)が嘘ばかり宣伝しているから下(中韓両国)も真似する構造です)
アメリカ政府は事実に反した論理矛盾した主張をしていても何も恥ずかしく感じない・・論理の通じない国どころか、公式批判すら許さない不正な国である点は中韓両国政府と同じです。
今回の竹島大騒動でも「仲直りしろ」と言うばかりで・・結局は既成事実を認めろ・・戦争にならない程度で永久的に喧嘩してれば良いというスタンスです。
竹島問題はアメリカにとってはどちらも半支配下にある国同士ですから、どちらが占領しても軍事的意味・アメリカにとっての安全性に全く変化しないからですが・・日本のために駐留しているのではなく日本支配のために継続しているとすれば、米軍にとっては一貫した行動です。
中国との尖閣諸島問題では中国がそこを支配するとしないでは中国海軍の太平洋展開に大きな意味を持つ・・将来の西太平洋支配権維持にアメリカの利害があるから、少しばかり日本寄りの発言をしているに過ぎません。
アメリカ軍・基地の存在=日米安保条約はアメリカのためにあるのであって、日本のためにあるのではありません。

全否定とプロパガンダ2(歴史改ざん1)

我が国での史実改ざんに類する事件としては、歴史上の支配者の中では、もっとも品性に問題のあった秀吉による信長の肖像画書き換え命令が本当にあったらしいことが、現在の技術で(1昨年頃に判明)分ってきましたが、(出来るだけ貧相な容貌への書き換えを命じられた永徳は苦しんだでしょう)やれたとしてもその程度のことです。
今になると残った絵画自体の科学的研究によって完成後に手を加えた後が判明しますが、それ以前の問題として秀吉の邪な命令が連綿と言い伝えられて来たからこそ、現在科学技術を利用した研究対象にもなって証明されることになったのです。
史実を変えようとする秀吉の行為は天に背くものとして国民が許さない文化があったからこそ、言い伝えが残っていて、現在の科学技術で解明しようとすることになって判明したことです。
このように今でも我が国では歴史というのは、その時点で到達した過去の客観的事実を明らかにするべきものと言う立場で一貫しています。
現在の中国の所在地域では、古代から異民族と漢民族?がほぼ交互に王朝を建てて来たことや、流民が前王朝を転覆させて新たに王朝を建てることが殆どであることから、いつも前時代を歪曲したり全否定することがこの地で生きる人の智恵・習慣・文化となって来ました。
最近では共産中国成立後に始まった文化大革命運動による伝統的価値観の全否定がその1事例ですし、改革開放直後には近代化に協力してくれる「日本様様」でしたが資本・技術導入がひととおり終わった後の現在では利用価値が減じたので手のひらを返したように日本全否定になりました。
異民族支配の繰り返しが全否定文化・目先の打算で動く文化を生み、日本のように文化の段階的継承が出来なかった・・段階的発展が出来なかった主な原因です。
中国に残存しない古美術や資料が我が国に多く残っているのも王朝交崩壊の都度、前時代の文化・文物を全否定する文化(国民性)と、何でも良い物は継承して行く我が国の文化の違いです。
毎回前時代を全否定する習慣に加えてその都度支配民族が違っているのですから、中国何千年の歴史などと威張るような内容は全くありません。
そもそも全否定している国に歴史などあるのかと言う疑問が起きますが、いつも全否定するとか、嘘でも何でも言えば勝ちみたいな処世術を継承している点では2000年の歴史があるし、「そう言う民族か!」と理解するために中国大陸での興亡の歴史を学んでおく意味があります。
もしも、異民族交代の歴史を日本列島の歴史に仮に当てはめたらどうなるでしょうか?
奈良時代の終わりに大陸から異民族が侵入して来てその民族が元々の住民を追い出して平安時代を作り、平安末期にロシアから異民族が入ってきて、彼らが原住民を追い出して鎌倉時代を作り、今度は南洋から異民族が侵入してその民族が元の居住者を追い出して室町時代を作り、再び大陸から異民族が侵入してその民族が今度は江戸時代を作り、更に朝鮮から異民族が侵入して明治時代を作ったとした場合を考えればよく分るでしょう。
もしも我が国も上記のように約千数百年間、民族入れ替わりの繰り返しであったとすれば、(骨格だけではなく心のひだに至るきめ細かな)文化の継承は難しく現在日本の歴史のような継続的発展を望めなかったでしょう。
勿論、強固な同胞意識も育っていませんし、黙っていても悪いようにされる心配がないという相互信頼・・長期間の交際を前提にした社会も出来なかったでしょう。
ところで、昨日、東京地裁での弁論が終わった後に、妻とともに三宅坂の国立劇場で歌舞伎を見てきました。
「塩原多助1代記」という通し狂言ですが、主人公はどんな理不尽な言いがかりにもじっと堪えて折檻を受けるという筋書きで、悪役はそれぞれ、時間の経過でそれなりのマイナスを背負って行き、律義な太助に最後に幸せの花が咲くというものでした。
日本社会では、正しいことは黙っていてもいつかは報われるという価値観で生きて来たことが分ります。
この狂言が出来た頃と今では大分国民意識が違うのと、異民族相手になると黙っていても通じることはない・・長期的付き合いが期待し難い点を考慮する必要があるので、国際関係では黙って辛抱とは行かなくなって来ている感じです。

中国に歴史があるか3(民族の断絶性2)

中国や韓国の場合、歴史とは今の権力に都合の良いプロパガンダに過ぎない(嘘でも何でも主張していれば良い)と言うスタンスになったのは、(勝てば官軍という言葉が我が国にもありますが(・・薩長と徳川の入れ代わり程度では済まない)現地支配民族がしょっ中入れ替わって来た歴史があるからではないでしょうか。
我が国では焚書の習慣がありませんので、薩長が政権を取ったからと言って旧幕府の政治記録一切を抹殺することは出来ません。
焚書と言えば占領軍司令官としてマッカーサーが日本で君臨していたときに、占領政策に反する・気に入らない図書館中の本の廃棄を命じたという嘘か本当から分らない情報・・はっきり記憶していませんが日下公人氏が言っていたのかな?があります。
(ネットで調べると、きちんとした学者(電気通信大学名誉教授)である西尾幹二というひとが情報開示している様子ですので、アメリカによる占領政策・・日本を貶めるために行われていた歴史のねつ造作業を知りたい方はそちらをお読み下さい)
あいにく日本は庶民に至るまで・乞食までが路上で新聞や本を読んでいる社会ですから、図書館の本さえ廃棄すれば占領軍の意に沿う歴史を作り上げられると思ったマッカーサー指令は頓挫してしまったようです。
(アメリカでは当時庶民の家々にまで本が大量に行き渡っていなかったからこその失敗でしょう)
日本では江戸時代から木版刷りの印刷が普及していて書物が大量に出回る社会ですし、平安の昔からの史実が旧家の土蔵から出て来た書物によって明らかになることがしょっ中あります。
奈良時代のことでさえ、荷札として使われていた木簡や竹簡が出て来て長屋の王の食べていたアワビまで分る国です。
中国の歴史上有名な焚書と言い、アメリカの日本での思想統制・歴史の書き換え政策と言い庶民レベルの低い社会を前提にした政治のやり方です。
話を戻しますと、現在中国のある地域の場合、エジプト、インド等とは違い、そこに出入りした民族自体が王朝の交代の度に大幅に違っていたこと・・有名な所でも(中国が公式に認めている異民族支配)5胡16国や5代10国あるいは金やモンゴル、最後は後金=満州族による清朝による支配とめまぐるしかったことは誰でも知っているとおりです。
この外でも所謂隠れ異民族支配を挙げればキリがない程、異民族支配が多かった地域です。
史記によれば、殷を滅ぼして周を建国した武王は西伯の子(西伯とは西方の異民族の族長という意味です)です。
ですから、この時点で既に異民族支配が始まったことが分ります。
そもそもこの頃には、漢民族とはまだ言わなかったですから、何が異民族かも分りませんが、しょっ中異民族が入り変わって支配をしていた時代であったことが分ります。
この地域で興亡した諸民族は、漢民族系?王朝を名乗っている場合でも、秦の滅亡以来毎回最下位の流民(・・もちろん何の教養もない食うや食わずの連中です)が王朝を転覆させて流民・最下層の頭目が帝王になったり、異民族が侵入して王朝を建てることの繰り返しだったので文化の継承もなく、前時代よりも発展することもなく毎回ゼロからの繰り返しでやってきました。
歴代王朝の中で最高潮の文化レベルに達したのは唐王朝ですが、李氏自体漢民族とは言い切れないのではないかと私は個人的印象(学問的にどう言う説があるのかを知りません)を持っています。
唐時代に文化の花開いたのは、タマタマ、ササン朝ペルシャが滅亡してその王族や多くの人材・文化人が流れ込んで来たことによるものであって、地元漢民族があの絢爛豪華な文化生み出したものはありません。
この辺のいきさつについては、12/16/05「東西移動から南北移動へ4(ペルシャの影響)」のコラムで連載したことがあります。
ペルシャからの文化注入が途切れた後の中国地域ではマトモな文化発展を出来ないまま現在に至ったのです。
このときに唐ではペルシャ人が10万人単位で殺されたとも言われますが、何かあるといつも極端に走る民族性です。
日本のサービス業の進出がここ数年盛んですから中国のサービス業も少しは洗練されるでしょうが、今度の騒動で日本企業が潮を引くように引き上げるとペルシャが引き上げた後のようにまた1000年ほど停滞するかも知れません。

中国に歴史があるか2(民族の連続性1)

北アメリカ居住者のルーツ・・・何系民族かの調査研究をする意味があるのは民族としての共通体験から、一定の共通気質が導き出される傾向があるからです。
民族意識・価値観の過去からの継続性があってこそ、その民族の歴史を知る・学ぶ意味があります。
我が国の場合、縄文時代(1万1000年〜紀元前7000年前の縄文早期)からの研究に意味があるのは、その頃の日本列島人の生活習慣・・考え方が今の日本人の気質と繋がっているからです。
我が国の場合、日本列島での縄文時代の研究が進んで来て食べ物に関してみれば、既に煮炊きもの中心の文化・・今に繋がる根菜類重視の文化が見えます。
(だからこそ必需品としての縄文土器がまず発達したのです)
話がそれますが、根菜類のうまい所は土の良いところが多いのですが、日本列島は他の国と比べて土が肥えていたからでしょう。
あるいは、昔から知られていることですが、犬や身近な動物を自分たちと同じ生き物として大事にする価値観・文化が縄文時代の遺跡から数多く出てきます。
千葉にあるシーワールドの本家であるアメリカのシーワールドの映像をユーチューブで最近見ていたところ、気質の違いに驚きます。
アメリカでは飽くまで人間の演技が主役で、シャチやイルカはその合間に人間の手助け役として出演する趣向です。
スターらしき演技者が高所からつり下げられるロープやリングなど使ってプール上でサーカス的演技を繰り返した上で、彼らが水中にはいるとロープ等の動力の代わりにシャチが水中の推進力となってスピードを出して人間が猛スピードで移動し(あたかも水上スキーの動物版の印象です)、あるいはシャチのジャンプの推進力によってより高くジャンプするだけです。
あるいはどこか別のシーワールドを見るとコミック役者が出て来ていろいろ笑わせるのが主で、いつアシカが出てくるのかと待っているとちょこっとワンポイント出て来るだけです。
日本の場合、20年ほど前まであった行川アイランドのフラミンゴショー・行進であれ、鴨川シーワールドのアシカのショーであれ、べルーガであれ、シャチであれ、ペリカンの行進であれ、北海道の旭山動物園のペンギンの行進であれ、すべて動物が主役です。
「彼らもこんなことが出来るよ!」と観客が賛嘆するための行動展示であって、関与する人間はそのお世話係でしかありません。
この気質差が1万年も前から続いている我が国・・日本列島住民の特質です。
中国や朝鮮では最近のオリンピックで初めて猫や犬を食べるのを「みっともない」となって禁止したばかりですし、欧米の動物愛護運動と言っても、元々人間を特別なものとして動物を見下した上で根の浅い頭でっかちな運動に過ぎません。
(だからこそ捕鯨反対などの過激運動にも繋がるのでしょう。)
欧米の動物愛護運動は、飽くまで金持ちが貧しい人へ施しを与えるような上から目線です。
民主主義運動や革命をする必要のある西洋や中国等の社会と我が国のように民主主義などとことさらに主張しなくとも自然にボトムアップしかない社会(逆にリーダーシップがないと批判されます)とは基本構造が違うのと同じです。
日本人はずっと列島に住み続けて来て異民族と入れ替わったことがないので、欧米人あるいはその他世界中の人々と日本人の違いが今に始まるのではなく、縄文の昔(1万年以上も前から)から違っていたことが分ります。
要するに我が国こそ1万年前からの古い歴史を研究するに足る国・民族なのです。
北アメリカ大陸の発掘で1万年前どころか500年前の状態が分っても、今のアメリカ(USA)人やカナダ人の気質を理解出来ません。
古代ローマ帝国はゴート人の侵入によって崩壊したので、今のイタリア半島に居住する民族と同じはありません。
中国の場合も異民族が順次侵入しては交代的に支配して来たので、夏や殷や周の頃の気質が今の中国人の気質と同じではありません。
支配者が次々と入れ替わっても漢民族が続いて来たかの如き宣伝をしていますが、所謂漢民族とは黄河上流域・・中原に居住していたホンの僅かな数の種族に過ぎません。
漢族が異民族支配を受ける度に、異民族と混淆して来たミックス状態を言うに過ぎず、本来の漢民族は今で言えば数千人〜数万人いるかいないかでしょう。
そんなことを言い出したら古代ローマ人もゴート族の侵入によっても全員どこかへ行ってしまったのではなく、少しはローマに居残って来た筈ですから、イタリアは今も古代ローマから同じ民族であるということになります。
(ただし、ベネツィア人は、この侵入に抵抗して海上の砂州に逃れた人たちですから、ローマ時代人の生き残りです・・今のイタリア人とは人種が違います)
アメリカインディアンが少しばかりアメリカ合衆国に今も残っていますし、オーストラリアに原住民が今も少しいるからと言って、現在のアメリカ人やオーストラリア人の先祖であるとか同族とは言いません。
歴史上国名?を「漢」と称した王朝である劉邦自身・中原・漢民族から見れば異民族であった楚の支配地域・沛(現在の江蘇省徐州市沛県)の県令になったことから身を起こし(史記では沛公と書かれています)たもので、元は地元の侠客・ならず者でした。
我が国では項羽と沛公の覇権争いを「漢楚の興亡」として、あたかも「漢民族」が勝ったかのように何故か言われますが、異民族である楚地域の出身者同士の覇権争いだったことになります。
我が国では、古代からの先進国としての憧れがあったからか、漢民族を美化し誇大化し過ぎる傾向があります。
遣唐使を通じて唐詩など文献だけが入って来ていて、(これに憧れていたのですが・・・私もその一人です)中国地域の具体的な歴史がよく分っていなかったことにもよるでもあるでしょう。

民度4 (孔孟の教え2)

我が国は律令制を導入しながらも、科挙制度を採用しなかったことを以前書きましたが、儒教を統治道具としなかった・・必要がなかったことによります。
11/27/05「日本に科挙が導入されなかった理由4(律令体制と中央集権)」でも書きましたが、科挙制度は専制君主制に必然となる官僚機構維持のための選抜試験でした。
科挙制は人材登用に優れているだけではなく、優秀な人材を抜擢しても高級官僚が世襲出来ずにしょっ中入れ替わっていると、皇帝権力を脅かす何代にも続く名門・実力者が成立出来ないので、専制君主制の維持にとって有利でした。
杜甫のお父さんかお祖父さん「杜審言」は則天武后の宮廷私人の一人でしたが、杜甫は科挙試験に合格せずに貧窮を極めていたのを想起しても良いでしょう。
我が国の司法試験でも同じですが、難しくし過ぎることによって2代連続合格は滅多にないことから、科挙制によって仮に途中失脚せずに全うしても1代で没落する仕組みが出来上がってしまいました。
「皇帝権力を内部から脅かす勢力が生まれない仕組み」ということは、どんな内部矛盾が生じても改革勢力が内部から生まれて来ない仕組みにしたと言うことです。
内部が腐り切ってもそのままですから・・・最下層民が食えなくなるまで腐敗が進む一方となり、庶民がどうせ生きて行けないならと言う捨て鉢の気持ちになるところまで追いつめられて、命知らずの流民となったときに初めて権力崩壊が始まります。
(黄巾の乱等王朝の最後はいつも同じです)
あるいは内部から腐って来て脆くなっているので、外敵・・異民族の侵攻によって容易く滅亡することも多くありました。
現在中国では薄煕来事件を通じて報道される政府高官の巨額蓄財は目に余るものですが、これは現在共産党の1党独裁権力による特性ではなく、1500年に及ぶ科挙制のもたらした負の側面です。
専制君主制下では政府高官と言えども我が国のような封建領主的先祖伝来の領地がありませんので、科挙官僚制によって抜擢されるのは有り難いですが、皇帝のお咎めを受けて失業しても帰るべき領地もありません。
そこで、いつ失業しても良いように地方の大守に就任すると、その間に目一杯蓄財に励む・・賄賂政治が習慣・伝統になってしまいました。
・・この点はお互い様ですので高官同士大めに見る・・取り締まりしない暗黙のルールになっていたので、この伝統が今の共産党幹部による(失脚を恐れる)巨額蓄財に繋がっているのです。
現在の共産党幹部の巨額蓄財は歴史?伝統・・中国人の精神性に由来することが分ります。
「恒産ありて恒心あり」とも言われますが、生活不安定な社会では恒心を保てなくなる・・目先の利益におわれる打算的人格形成に励んで来たのがこの地域の人民でした。
我が国の場合、先祖代々同じ地域に住み続ける前提でしたから、5年や10年誤摩化せば良いのではなく、100年単位でも馬脚が現れないように心がける・・名誉を重んじる生活習慣になりました。
あるいは数百年後に子孫の財産になるように植林したりしてきましたが、中国では自分一代でさえ一貫しないで、利のある方に着いたり離れたりの社会ですから、禿げ山になる一方になっているはこうした伝統に由来します。
以上のように元々中国や朝鮮では科挙試験で儒学の理解を問うたのは統治道具としての能力・学問であって、道徳・モラル教育目的ではなかった上に皇帝の機嫌次第でいつ処刑されるか知れない不安定な地位になったことから、短期的蓄財・打算的行動が基本的行動指針になってしまいました。
我が国では豪族連合による大和朝廷成立→鎌倉以降の武家政権も地方領主の連合体でしたので選抜試験制に馴染まなかったので、科挙制を採用しませんでした。
孔孟の教えが入って来ても実用に使わなかった分、中国で試験しているくらいだから。何か良いところがあるだろうと必死に良いところを無理により出して勉強してきました。
外の世界から何かが来ると悪いところを見つけるのではなく、何か良いところを見つけ出して育てるのが我が国の国民性です。
その結果、「ひとの生き方」という精神性・・モラル的に有意義な部分「仁」などだけ抜粋して勉強して来たので、「有り難い教えである」とみんなが思ってきました。
他方、専制君主制の中国や朝鮮では、官僚登用目的・モラルよりは統治技術的・実利勉強に主眼を置いて学んで来たことになります。
儒教=「ひとは如何に生くべきか」と言う基本的モラル理解を中心とする我が国の理解では、科挙試験に合格すると直ぐに地方大守等実務責任者に抜擢される中国や朝鮮の運用が理解不能ですが、(私はずっと疑問に思っていました)統治技術中心の勉強・試験であったとすれば、合格後直ぐに使い物になるので理解可能です。
経済学を究めても商売が出来る訳がないのですが、そろばん勘定や会計帳簿の付け方を学べば直ぐに役に立ちます。
車の運転免許試験に合格したら直ぐに運転出来るのと似ています。
(一応車の原理も習いますが、運転免許試験に高尚な哲理は不要です)
日本の司法試験も同様で、法の精神も少しは必要ですが大方は、実務能力を試すものですから、まさに科挙制度の現在版です。
法の精神よりは実務の勉強ですから、合格したらある程度・・ちょっと訓練したら直ぐに使い物になります。
同じ儒教国と言っても、中国や朝鮮では儒学の低レベル部分を中心に勉強して来た社会ではないでしょうか?
ひとのアラばかり探すのがうまい人がいますが、アラを探すというよりは自分のみの丈にあった部分しか理解出来ないのが普通でしょう。
世界で先に活躍するようになった日本人が道徳律の基盤は儒教であると宣伝するので、欧米人は儒教は大したものだと誤解しているに過ぎません。
日本人も儒教の本場の中国ではさぞかし立派な人が多いと思ってきましたから、何かあると「さすがに本場のひとは違うものだ」と買いかぶって良い方に誤解して来たのが、改革解放までの理解でした。

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