会社の運営5(取締役の役割2)

トップとその周辺が決めた方向性に反対しないで、その執行方法についてあれこれ自由な意見を開陳してこれを聞いていたトップが、その内のA案で行こうと決済するのが実際に行なわれていた取締役会議の現実だったと言えそうです。
こう言う場合トップはフリーハンドの立場ですから、上位の裁断者として権威を持って決済出来ます。
社長提案が場合によっては否決されることもしょっ中ある・・対等者間の議論では、社長の権威がなくなるので社長としては基本方針に関しては、シャンシャン会議にして、意見を聞きたいのはその実現方法に関する智恵だけ(・・平取締役も社長の意を迎えてそうなります)なのでしょう。
総会でさえシャンシャン総会で終わらせるのがプロの腕と言われています。
執行役員制度が出来た今では、社長指示をどうやって実行するかの細かな議論は執行役員会に任せるべきであって、取締役会議は、執行機関の長=社長が提案する基本方針について決裁するべき会議にする・・機能実質を評議員会のような役割を果たすように(法律は既にそうなっているので法にあわせて)運用すべきです。
こう言う機能を果たしてこそ、社長が取締役会で選任されて、場合によっては解任されるようになっている法制度と符合するでしょう。
ボトムアップと言っても、既定の基本方針実行方法に関する微細な意見交換程度のことでお茶を濁していると、トップの示す方向性に納得出来ない取締役は、公然と反対意見を言えない・・言うと次がない・・実質的な言論の自由がないので、意見を通そうとすろ仲間を語らった「謀反」に走るしかありません。
ちなみに「次がない」という意味は、任期満了時に次の役員候補にして貰えない現実・・総会は執行部=現社長が提案したとおりの役員を承認する場になっていて、社長ににらまれたら、再任されないと言う意味です。
サラリーマンが出世して社長推薦の御陰で役員に成れている・・しかもやめたら行くところがないので再任を期待している現実があります。
この点我々外部委員は元々ペイしない安い日当で参加しているだけですから、いつやめても良いし気楽です。
弁護士会や日弁連の各種委員は無報酬です。
方向性に関する自分の意見が通らない度に、辞任を覚悟したり、相手を解任したりしなければならないのでは会社にとって重要な基本方針に関してマトモな議論が成立出来ません。
川重では意見相違を原因として解任決議までしてしまった結果から考えると、普段から取締役会議では基本方針に関して議論する土壌が全く存在していなかった・・未成熟な段階にあったと言えるのではないでしょうか?
社長提案に反対した場合、「やるかやられるしかない」と言うのでは、議論の場としては原始的過ぎませんか?
子供が言いたいことを言わないで泣き叫んだり実力行使するのと同じで、イキナリ解任に走るのは低レベルな話です。
川崎重工の解任事件を報道で見る限りでは、日本古代からのボトムアップ・・衆議による政治を社長らが無視して暴走していたので、已むにやまれず実行したとは言い切れない感じです。
企業合併の方向性についてはどこの企業でも秘中の秘であって、ごく少数の首脳間で極秘に根回しして一定段階に至ってから、取締役会に諮って後は一気に動くのが普通です。
(現在普通の行動パターン自体を改める必要があると言うならば別ですが・・)
仮にこのやり方が良いとするならば、そもそも極秘方針決断に参画出来ないその他取締役は本来的意味からすれば多すぎるからツンボ桟敷に置かれているように思われます。
ただ特定少数グループだけ判断していると偏りが生じるので、もう一度拡大会議で議論して他の角度から見直そうとする制度自体はいいことです。
見直しの可能性を前提にしている以上は、この段階では進みかけた検討テーマを撤回出来る状態(法的には当然やめられるでしょうが、実際的に社長らが恥をかかないで中止出来ることが必要です)で全体会議にかける必要があります。

民法改正2

民法は基礎法で素人も関係するから素人にも分るようにすべきだと言うならば、・・「借りたら返す義務がある」「物を買えば代金支払い義務と売った方は売った物を引き渡す義務がある」と言う現行民法のように基礎的原理だけ書いておいて、詳しくは学説判例によるというのも一方法ではないでしょうか?
結局現民法のような簡潔版で良いとなりますので、抵抗勢力の仲間入りになるのかな?
ただし私がここで書いているのは、条文を冗長にする必要がないと言うだけであって、その他の民法内の各種分野で改正案の検討が進んでいる内容について反対しているのではありません。
どの条文をどのように変更した方が良いかなどの具体的な勉強をしていませんので、反対するような意見を持ち合わせていません。
法律家と言っても毎日の仕事に忙しいので、具体的な改正作業について時々耳に入って来る程度ですから国民一般ではそもそも、民法改正が生活にどのような影響があるのか更に分らない筈です。
学説判例も今ではネット化されているので、その気になれば該当箇所を法学の素養がなくともいろんな角度からの検索が可能ですから、ある程度問題点を抽象化する能力があれば検索が可能です。
「家を建てる契約すればきちんと建てる義務がある」までは良いとして、鉄骨や基礎配筋がどの程度足りないと契約違反になるかまで法律に詳しく書かないのが合理的です。
基本原理だけが法律にあればよくて、その先の微細な基準は何かで調べる程度の手間をかけるかプロに聞かないと分らないのは仕方がないでしょう。
その先の細かいルールを知りたい人が、見れば分るようにしておけば足りる筈です。
数十年前までは六法程度(と言ってもいわゆる六法の外に税法や地方自治法や行政法関連や労働法関連、福祉関連等膨大になる一方でした)までは市販されていましたが、その先の細かい政令や省令等がよく分らない状態でした。
今では、六法全書を買ってもどうせあらゆる法律が網羅されていないことから、六法全書で調べるよりはネットで必要な法律を検索する方が便利な時代になって来ました。
私の事務所でも今年から六法全書を買うのをやめました。
ネットの場合は、政省令や規則・・通達・ガイドラインまで知りたければ直ぐに見られる時代ですから、何もかもを法律でベタにしておく必要がないように思えます。
法律は目次程度の利用(大見出し程度)にしてその関連の政令や省令はどんなのがあると言う例示を書いておいてくれれば、そこから順に詳細を探って行く方が合理的です。
法律が目次程度の役割でしかなく、実際の細かいルールが政令や省令で決まるのでは法治国家と言えないという民主主義信奉論者らの批判が起きます。
しかし大方の方向性さえ国会で決めれば、その範囲内の細かいルールは政省令や規則通達やガイドラインで決めて行くしかないのは現実問題として仕方のないことです。
何回も書きますが、原発の安全基準・・機械設備の設置・運営基準を国会では基本方針程度は示せても微細に渡って議論するのは(機械設備の進歩は日進月歩です)無理でしょう。
国会は原発を発展させるのかやめて行くのか、どの程度の安全を求めるのかの方向性を示す必要がありますが、どのような機械を設置してどのような運転をすべきかまで具体的に決める必要がありません。
新幹線や航空機でも同じで細かい機械仕様書のあり方・ビスは何センチ間隔にするべきかとか、運行マニュアルを国会で議論しても始まらないでしょう。
今の世の中はこう言う細かいマニュアルで成り立つようになっているので、これを国会軽視と嘆くのは時代錯誤です。
むしろ規則やマニュアル作成段階を民主化・・透明化して行く方が合理的です。
ここに族議員等が暗躍しているのですから、法律にしろと言う議論よりはこの分野の透明化をして行く作業を進める方が現実的です。
原発の立地基準作成の民主化とは、候補者名の連呼活動によるのではなく、地震学会その他の知見を合理的に公開で議論出来るような仕組み造りではないでしょうか。

規制と停滞2(伝統の保存)

我が国では茶道や華道・能狂言・お寺の行事等全ての分野で、一旦様式化されると500年でも千年でもこれを守って行くのが尊いという意識が濃厚です。
憲法であれ民法であれ、一旦出来ると不磨の大典という扱いになります。
我が国では、小さな集落の祭りその他伝統行事は自分の代で絶やすことは出来ないという意識が強く、これがために全国あちこちでいろんな物や行事が残っていて、それ自体は良いことです。
時々思い出すための行事として先祖の営みを残すことと、日々の生活ルールあるいは新たな技術変化に応じてその運用・・規制を変えないでそのまま残していくのが良いかは別問題です。
洗濯機その他の家電製品1つとっても分りますが、新しい家電製品を買えばこれに応じて洗濯機や掃除機・テレビ等の使い方が変って行くのが当然で、古い機械の使い方(ルール・マニュアル・操作方法)と違うからと言って、新機械導入をやめるのって滑稽ではないでしょうか。
新しい家電製品を買えば、古い機械の使い方にこだわらず新しい機械の使い方に慣れれば良いことです。
二階以上に上がるには階段で上がることは当然でしたが、これがエレベーターやエスカレーターが出来ても階段にこだわる人はこだわればいいことですが、親の教えと違うと言ってエレベータに乗らないで30〜40階まで歩くべきだと言えば笑い者です。
障子がガラス戸になり、薪を燃やしていた風呂等の火力がガスになるなど全ての分野でいろんな操作手順が変わっても誰も怪しみません。
親の教えた仕事の手順が口頭で教えられていたのが、今では法律や法に基づく規則や基準になったために変更が難しくなりました。
生活のしきたりに代えて文書化されている上に、親の教えという個人的なものから集団意思・ルールになっているので、個人が勝手に簡単に変えられなくなったのが厄介です。
親の教えを変えるかどうかは個人が決断するだけですが、社会の意思になると個人の思いつきで変更出来ないのですから、ルール変更のルールを作る必要が出て来ました。
ただ、畳・障子文化が失われるのは悲しいと思う人がいても日常生活の便利さには代えられないので、古い生活様式・用具はなくなって行くばかりですが、懐旧の情に浸りたい人が増えれば・・これに比例して古風な旅館等が商売になるので、この種の和風高級旅館が繁盛するのでそんなに心配が要りません。
商売にならない分野に関しては・・各地の民族博物館等に残して行くしかないでしょう。
先日佐倉の歴博に行ってみたら、デパートごとで売っていた正月のおせち料理の変遷が展示されていましたが、ホンの数十年前のことでも目の前から消えて行った物が多いのに驚かされます。
お祭りは伝統行事保存の最たる物ですが、元々始まった当時は伝統保存のために始まったのではなく、その当時最先端のイベント・・庶民を楽しませるために始めたものでしょう。
現在のサッカーや野球大会あるいはソーラン大会みたいなものだった筈です。
数百年後にはソフトボールやテニスや野球・ボクシング等や、「◯◯をお願いします」と候補者の名前を連呼して走り回る選挙活動なども懐かしい古典行事として残って行くのかと思うとおかしな気がします。
ネット選挙になれば、今までの選挙カー+ウグイス嬢による選挙活動が意味がなくなって行くでしょうが、どうしても残したければ新しいことに反対しないで、伝統行事保存活動に精出せば良いように思います。
薬局の対面販売問題も同じで、過去の良き伝統として博物館に残すのに協力しても良いと言えば、反対論が下火になネット販売解禁になり易いように思います。
今後新基準規制変更新基準を導入したい勢力は、いろんな旧基準を伝統技術として保存することに協力しますとバーター取引を申し出れば、守旧派も軟化して新基準採用が進み易いのではないでしょうか?
郵政民営化したい勢力は、公営当時の郵便局専門の博物館を作って公務員的対応技術を伝統技術として残してやると言えばどうでしょうか?
国鉄民営化のときも博物館化して昔の横柄な国鉄マンの応接技術を残しておけば、面白かったように思えます。
そうすれば、JRに移籍出来なかった昔気質の(横柄な)国鉄マンでも、一定数の雇用が確保出来て解雇無効裁判が起きなかったかも知れません。
日本古代では大和朝廷が出来るときに八百万(やおよろず)の地方神を、必ず祭ることにして平和裏に大同団結・国ゆずりが成立)出来ました。
単に弱い者・・時代遅れな物を打ち壊すのではなく、大切に祭る・・この精神でやれば良いのです。
社会発展に必要なことは、緩和だけではなく新時代に適合した新たな(もっと複雑な)規制に変更することですが、これを何故か「緩和」と言うから誤解が生じます。
(ネット選挙を解禁すればその面では緩和ですが、解禁以前よりもっと複雑な規制が必要になるでしょうし、ラジオ→テレビ→ビデオ→パソコン・・何ごとでも新技術の方が多機能な分、操作手順が複雑化する傾向があります。)

事前規制と事後審査4(ルール整備と訴訟の減少2)

高度成長期以降に生じた公害等の発生・・あるいはいろんな分野で生活スタイルが急激に変化したので、旧来暗黙裡に成立していた社会合意形成によるのでは時間がかかり過ぎて間に合わなくなってきました。
新たな社会合意形成が自然に出来上がるの待っていると時間がかかりますので、この間に日進月歩の科学技術の革新・社会生活様式の絶えざる変化にいつも追いつかないどころか格差が広がるばかりで、・・被害拡大・・社会紛争が多発してしまいます。
自然発生的社会ルール合意の形成を待てないところから、一方で法制定に馴染まない(原子力発電所の細かい規制を考えても分るように技術基準を法で決めるのは無理があります・・化学プラント・建築基準その他全ての分野で)個別の運用基準(法以下の規則やガイドライン)等の整備をする一方で、既に発生してしまった被害発生の救済のために訴訟が必要になりました。
昭和40年代以降労災その他の被害回復訴訟(交通事故を含めて)が大量に発生したのは、規制の追いつかない場面で起きた現象と言えます。
公害や労災訴訟等と平行して,社会の自然発生的合意形成を待っていられない(いろんな分野で専門知識が必要になって来たので自然発生的合意形成に馴染まなくなったことも大きな違いです)ので、公害関連その他規則が充実した結果、世界一公害防止技術の発展した国になり、この種の紛争はなくなりました。
(クルマの普及比で中国その他後進国に比べて交通事故死も激減していることは周知のとおりです)
いつも例として書きますが、日照権紛争も、木造二階建てしかない住宅街にビルが建ち始めた当時はこれに関連した事前の社会合意があり得なかったので、一時続々と日照権紛争が起きましたが、この結果日照に関する条例(日影規制や近隣同意条項)が各自治体で制定されてからは、ほぼ皆無になりました。
ところでモクモクと煙が出るような被害は直ぐに問題点が分りますが、水俣病や石綿(アスベスト)や薬害訴訟等・・当時一般人には危険性さえ分らなかったことが後で分ることがあります。
規制当局や関連業界で早くから分っていたのにイキナリの規制では設備投資した業界が参ってしまうので、一般人に分らないことを良いことにして隠していたり規制を先送りしていた結果、被害拡大したのではないかと言う争いがこれら訴訟の核心です。
ここ数日の話題では福島原発の汚染水が海に流れ込んでいることの発表がありましたが、これが1〜2ヶ月前から井戸の水位計の関係で疑うべきだったのに軽視していた疑い・・社長が知ってから数日置いて公表したことに対する批判で、昔のように数十年単位で隠していたか否かどころか期間が大幅に短縮されて批判を浴びる時代になりました。
カネボウの美白化粧品の問題発表遅れや、三菱のリコール隠し問題も同じです。
高度成長期以降建築その他各種分野で専門技術化が進んでいるので、建築基準や交通ルールその他専門分野での暗黙の社会合意の成立は無理・・不可能になりっています。
(原子力に限らず普通の医療、介護、食品・最も原始的で従来暗黙の合意が可能と思われていた農業でさえ残留農薬基準・遺伝子組み換え等専門知識が必要です・・その他従来常識と思えていた日常的分野でも専門知識化が大幅に進んできました)
こうなると従来のように常識の生成発展に委ねていると(日照被害紛争の頻発で言えば、従来の一戸建て新築に際してご近所へのご挨拶程度・・精々騒音被害に対する意味くらいしかなかったでしょう)無理が出て来たのです。
社会の発展に連れていろんな分野で規制(細かなルールあるいはマニュアル化が)がドンドン必要になって行きこれが信用出来れば、多くの国民はこれに従って行動すれば足りるので便利ですし、事前規制が増えれば訴訟が減ることはあっても増えることはありません。
この結果何かする都度、規制をクリアーしているかの準備に多くのエネルギーがとられる・・迅速性が犠牲になりますが、準備しないで猪突猛進してから損害賠償訴訟に巻き込まれたり設備投資が無駄になるよりは、手堅くやる方がトータルとして経済性が高いと考えるのが先進諸国や簡単に倒産して夜逃げすることの出来ない大手企業の一致した思想です。
訴訟社会と言われるアメリカでも、金融その他先進分野では規制がもの凄く細かく複雑ですから、事前規制が多いのは日本特有のことではなく社会の進展度の差によることが明らかです。
この先端分野では、アメリカでも規制を守るか罰金等をとられるばかりで訴訟社会にはなっていないでしょう。
社会が高度化すれば約束事(上流社会ではTPOに応じて着るもの食事ルールその他礼儀作法がきめ細かくなるものです)が多くなるのはどこでも同じです。
今までアメリカは、遅れている粗野な分野が多過ぎて事前規制が少なかったので訴訟社会になっていたのです。
礼儀正しくしていれば滅多に喧嘩も起きません。

事前規制と事後審査2

行政で言えば、裁量行為を自由にやらせていてその後にその違法(裁量権の逸脱)を主張して争うことが出来るのが行政訴訟システムです。
実際には(元々裁量の幅があるのですから、これの逸脱までを主張立証しなければなりません)法的にとても困難なことです。
後から争うよりは、行政決定段階で意見を言える・・あるいは民意を反映出来る方が合理的です。
選挙の洗礼を受けていないので、国民代表とは法的に言えませんが、中立的な学識経験者の参加による審議会や審査会が発達し、最近では弁護士が企業や行政庁内部に任用される例が増えてきました。
ある程度原案・・叩き台が出来上がってから審査会・審議会にかかわるよりもその前の段階で弁護士のリーガルセンスを取り込もうとするもので、実質的民意吸収促進策と言えます。
審議会政治よりは更に先に進んだ制度の始まりと言えるでしょう。
今夏修習同期の弁護士から届いた暑中見舞い状を見るとそれまで勤めていた何かの審議会委員を辞めて今は政府の特許関係の規則制定委員として頑張ってると書いてありました。
私も平成の初めころに千葉市で始めて制定する個人情報保護条例制定作業・・条文作成作業に参加したことがあります。
いろんな規則が出来上がる前に草案作成段階で参画して行く方が効率的で且つ合理的です。
各種世界標準の作成でも何でもそうですし、24日ころに参加を始めたばかりのTPP交渉を見ても分るように、あらかた出来上がってから交渉参加するのはとても不利なことです。
我が国の国民レベルが高いので、昔から権限が国司から郡司へ、守護大名から守護代へ、大名から家老クラスへ家老から下級武士へと権力が移り、官庁では局長などよりも課長クラスが最も実務に精通するようになって、次第に権限が下に移って行くことの繰り返しでした。
議会さえ出来れば民主化が完成していると考えるのは、下位階層に順次権限が移って行く習慣のない欧米流の意識です。
我が国の場合、江戸時代から庶民は寺子屋で既に勉強していたように全て庶民まで巻き込んだ意識の高い国ですから、「代表さえ選べば事足れり」という遅れた社会では元々ありません。
議会による会議は形骸化して行って、ドンドン下位組織に移って行く過程が日本政治の現状であり、我が国の庶民レベルの高さから言っても妥当な展開です。
こうした視点から見れば、議会審議の前に審議会等で練り上げられて事実上法案が決まっている状態が、数十年前から続いていましたが、今では審議会にかける前の草案作成段階からプロが参画して行く時代です。
明治以来の基礎法である民法大改正作業については、言い出しっぺ?の内田東大教授がわざわざ辞任して参与かなにかに就職し直して草案作成作業に集中している例がその象徴と言えます。
こうした動きは議会軽視という原理論で解決出来るものではなく、現憲法や法制度が社会進行の実態に数十年前から追い越されてしまっているのに、制度変更が追いつかない結果,実務を担当しているいる社会の方で困ってしまって、実態に合わせて変化し続けていることによるのです。
私はいろいろな審議会等委員会に出ていますが、私の関与している委員会では固定資産評価審査委員会が唯一地方税法に明文で置かれている独立委員会で、その他殆どは直接的な法によるものではなく、行政府が内部機関として自発的に設定(勿論それなりの法律上の順次の委任関係等の根拠がありますが・・・)したものが殆どです。
律令制ではどうにもならなくなって、令外の官として発達した検非違使庁や幕府のようなものでしょうか?
基本的な法制度・枠組みが社会の実態から数十年単位で遅れてしまっているので、こういうことになっているのです。
法制度・パラダイム変革の遅れを正すのが筋なのにこれをせずに、選挙で選ばれた議会の議論が形式化している・・審議会等で事実上全部決めてしまうのは、民主主義を形骸化する鬼っ子だと批判するのは形式的な議論に自己陶酔していることになります。

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