階層社会と讒言社会2

ところで、最近の朝鮮半島の人を見ると、12日に書いたように李氏朝鮮も専制君主制でしたので、元々讒言社会であったとしても、中国に比べてその程度が激し過ぎる点や、何かあると直ぐ激昂するように見えるので、落ち着いた話し合い解決に向かない傾向があると思いますが、古代から同じだったのでしょうか?
大多数の人間がそうなのか、あるいは自由な言論が許されないので民族全体が精神病にかかったみたいになって見えるだけなのでしょうか?
国内意見比率がどうであるかは別としても国家の公式発言・行為としては、非常識過ぎる言動を見ると日本人から見るとその低レベルさに驚き呆れる人が多くなっています。
天智天皇のころに朝鮮半島の覇者になっていた高句麗はツングース族といわれているので土着朝鮮族とは違うようで、イギリスのノルマンコンクェラー同様で異民族支配でした。
この後半島では統一政権が出来ませんでしたが、女真族系の高麗の武将であった李成桂が半島を統一して1392年に樹立した李氏朝鮮では、ヤンパン階級と庶民に厳しく二分されていました。
李氏朝鮮で階級分化・差別が厳しかった原因・根拠は、高句麗以来異民族の系譜を引く支配階級(李氏朝鮮は女真族か?)と非支配階級にはっきり二分された社会だったからかも知れません。
朝鮮半島では日本の統治(本土並みの皆教育制度を施行しました)が始まるまでは、階級制度が厳しかったので、庶民は教育を受ける機会もなく動物並みの生活で20世紀まで来たことが、現在朝鮮族の民度の基礎をなしていると思われます。
中国もその地域でのせっかくの長い歴史を活かし切れないうえに、その粗野さに日本人(だけではなく世界中)が驚いていると思います。
中国の場合も士大夫階層とその他に分離されていて、90数%のその他国民は何らの歴史経験も共有して来なかったことによることを11/18/05「儒教と社会の停滞4(刻苦勉励の日本1)」等で書いたことがあります。
日本の場合、幸い同胞支配の連続なので庶民・乞食に至るまで同一文化水準で来たので、最下層に至るまで政治意見を持っていたし、いつでも下から順次階層が繰り上がれる社会でした。
大黒屋光太夫とかジョン万次郎の漂流譚を見れば分るように、一介の漁民でも海外漂流すればそこでその土地のエリート同様のレベルで直ぐに意見交換出来るようになるのが昔からの我が国の民度でしたし、近代・・戦争前後では街角の乞食でも新聞を読んでいると外国人が驚く社会でした。
こう言う社会では行動基準が正義にあっているか、広く公論の支持が必要ですので、正しい意見かどうかが重要です。
専制制社会では、高級官僚と言っても庶民に支持基盤を持っていないので、讒言や讒訴が幅を利かして粛正という恐怖政治になり易いのはのはこうした違いによります。
日本以外ではノルマン支配のイギリスに始まって世界中どこでも(インドも支配階層はアーリア系で体つきからしてまるで違います)階層分化の厳しい社会でした。
フランスで貴族階級がなお色濃く残っている点については、ココ・シャネルの映画を見て来た印象として、08/10/09「大名の没落と西洋貴族1(所有権の絶対性1)」でも紹介しました。
世界で唯一、日本だけで庶民文化が早くから発達したのは、この違いによるものですし、産業革命以降国際競争力は庶民の勤勉さなど国民総体の道徳レベル競争になって来たので、いろんな分野で日本優位になっている源泉です。
日本以外では世界中で似たような階級分化社会だったのに、世界中で南北併せて朝鮮族だけが何故いつまでも理性化しないまま暴力的・直情的なのか原因がよく分りません。
中国にもしっかりした意見の人が結構いると言われることがありますが、士大夫層の末裔がいるからと言えますが、朝鮮族にもエリート層の末裔がいるのですから、不思議な差です。
現在の朝鮮半島の行動原理を理解するには、中国の文化大革命当時と比較すれば良いのかも知れません。

壬申の乱前後の武闘時代2

豪族間の武闘中心主義社会の最後を締めくくった蘇我氏が、権力を握ってから専横政治をしたことを理由に中大兄皇子のクーデターによって失脚しましたし、平家も同様でした。
平家物語に始まり現在のいろんな歴史小説を見ても、我が国では古来から専横・独裁政治を嫌う風潮があることが分るでしょう。
以後鎌倉以降武家政権でも、専横を慎み合議を尊重する習慣に戻りました。
戦国時代を勝ち抜いた信長は蘇我氏や平清盛同様に過去の習慣・伝統に反して専横性・独裁性を強くし過ぎて本能寺で倒れました。
勝ち抜いばかりのときにはその延長戦の気持ちもあって、そう言う気持ちがないとやって行けないところがあるのでしょう。
唐の太宗のように「創業と守成いづれが難きか!」と重臣に聞くような区別意識がなかなか身に付かないものです。
どこの国でも長期の戦乱を鎮めた最後の勝者による政権が短命(春秋戦国時代を終わりにした秦の始皇帝、5胡16国(魏晋南北朝)時代をまとめた隋、院政期の騒乱をまとめた平家、応仁の乱以降の戦国時代をまとめた織豊政権など全て短命政権の宿命はこうしたところにあります。
独裁権力・専横政治は長い戦乱を武力統一した勢いのあるうちだけ可能なのであって、それでも直ぐに無理が出るのですが、幕末の井伊大老は(先祖は四天王の一人といて活躍したとしても彼自身)何ら武力面での実績もないのに、幕府という抽象的な権力(権力がガタガタになっているので強気を見せるために独裁権力行使を必要としたのですから、矛盾関係)によって独裁権力を行使しました。
歴史上の経験によれば、実績があっても戦時以外には独裁権力行使は無理が来るのに、なんら実績のない彼が幕府権威喪失著しい状態で役職上の権威のみに頼って独裁的権力を行使するとあっという間に桜田門外で倒れました。
乱世を統一したばかりの高揚期でさえも統一後の強権政治維持が難しくなるのに、政権末期の権威喪失を糊塗するための強権弾圧はかえって政権倒壊の引き金になり易いものです。
武断主義・独裁性の強かった天武天皇は一種の創業者としての強みで強行策の連発をしても生存中の政変がなくて無事病死でしたが、清盛だって混乱の中とは言え病死でした。
清盛の死後清盛の専横政治に対する反感があって(平家物語に出て来る平家批判は「奢れるものは久しからず」の精神だけです)源氏の天下に変わるのですが、もっと独裁制の強かった天武天皇死亡後どうなったのでしょうか?
天武天皇は自分が天智天皇の後継者を武力で倒したように自分の息子も倒されるのではないかと恐れていたらしく、天武天皇は天下をとってから軍事力の整備にはひとかたならぬ力を入れてました。
皇位継承者で日並(ひなみし)の皇子と称された草壁の皇子(こう言う特別な尊称を要求していた行為自体異常でした・・その後の皇太子にはこう言う尊称が私の知る限りですが、全くありません・・他の系列に皇位を行かせないという強固な意志表示だったでしょう)に対しても、必死に軍事訓練をしていました。
柿本人麻呂の「ひむがしの野にカギロイのたつ見えてかえり見すれば月カタブキヌ・・」の歌は、この皇子に対する調練開始の場面を描いたものであることを、09/24/05「独自日本の形成6(万葉集2)柿本人麻呂」のコラムで紹介したことがあります。
彼・皇太子が早死にした御陰で、持統天皇以降女帝が続きました。
中国では劉邦死後の呂后や唐の則天武后・清末の西太后等垂簾政治になるとやり過ぎる弊害がいつも起きるのですが、我が国の場合逆に女帝の連続による宥和政策が大和朝廷を安定期に導いたのではないでしょうか?

 合議を基本とする日本社会2

我が国の話し合い・譲り合い政治に戻ります。
外国では交渉相手が現地ルールで来ますので、こちらも海外では現地仕様(方式)に合わすしかないとしても、国内では古代からの譲り合い社会のママで行きたいものです。
そもそも王朝成立はどこの国でも武力統一によるもので、世界中でその辺の英雄神話に事欠かないのですが、我が国大和王権ではそうした英雄神話が全くないし、伝わっていません。
神武天皇の東征神話は如何にも武力統一したかのようですが、これは壬申の乱で勝利した大海人皇子の転戦ルートを拡大して書いたものという意見もあるように、神話時代の国づくりそのものではありません。
言うまでもなく壬申の乱のずっと前(何百年も前)に大和王権は成立しているので、神武天皇の東征神話はその辺の歴史の描写にはなり得ません。
本当の原始的大和王権成立時の神話としては、話し合いによる国ゆずり等の神話しかないことになります。
我が国は古代大和王権成立自体を武力で決めないで話し合い・・国ゆずり(神話)でやって来た経緯に分るように、日本列島では文字資料のない古代から話し合い=譲り合いでやって来た社会です。
この神話の実証研究が最近進んで来たようですが、以下私の素人的意見・経験から見ても、比叡山山麓にある日枝神社だけではなく、あちこちの神社でそこの祭神だけではなく八百万の神・各地方の神々を祭り続けて来た、大和王権の姿勢からも推測されます。
我が国では、犬、猫、牛あるいは各種道具(針塚・◯◯塚等で供養をします)や山川草木全て神が宿るものとして大切にする習俗がありますが、欧米のように万物の霊長などと威張っていて自然を征服するなんて発想はありません。
我が国では、武力で勝てば相手を奴隷・・動物並みに貶めて良い、何をしても良いと言う思想がないのは、元々武力で決着を付ける習慣や歴史がない・・縄文時代から万物共生を旨として生きて来た歴史がそうさせるのでしょう。
邪馬台国論争で有名なとおり邪馬台国がどこにあったかさえ分らない・・大和王権成立初期の頃の実態が良く分っていませんが、魏志倭人伝では卑弥呼の死亡後一旦乱れたがその娘トヨだったかが出てふたたび一体化し(平和が戻った)たとも書かれているようです。
魏志倭人伝でも武力統一や英雄の話は出て来ません。
途中で王朝が入れ替わった可能性の高い(定説とは言えないと言う意味です)継体天皇・王権の成立(・・これが簒奪か有力豪族間の話し合いだったかは説が分かれるでしょうが・・)への転換の流れを見ても、そこには大規模戦争の痕跡や記述がありません。
(イワイの乱があるので九州豪族が承服していなかったことが推定されるだけです)
こうしたことは全て大規模な戦争によらず、話し合いでやって来た古代からの経験・背景があってこそ可能であったと思われます。
邪馬台国がどこにあったかの邪馬台国論争も,元はと言えば倭人伝での距離・方向感がおかしいことにありますが、その他に話し合いで王権があちこちに移って来たことに原因がある可能性があります。
私の意見は大和王権は各地で成立した独立の地域王権の連合体で始まったという仮説が正しければの意見です。
(古代史は仮説が多い上に、私がよく勉強していないで個人的思い込みで書いていることもあるので、そのつもりでお読み下さい)
平和的政権交代が我が国で文字資料の出来る前から普通に行なわれていたとすると、その直前の蘇我氏が台頭し始めた頃の物部氏との戦争や、蘇我氏が実権を握ってから蘇我氏を倒すクーデター・(乙巳の変)、更には壬申の乱まで戦争(と言っても畿内だけのホンの狭い範囲でのヘゲモニー争いだったと思われますが・・・)が続いたのかということになります。

 現地仕様1(製品と道義)

アメリカではロビー活動(資金力)次第で政治=法律=正義が決まる・本来の正義などどこ吹く風という社会です。
「そんな社会っておかしいよね」と思っていても、アメリカでは黙っていると(資金を使った方が声が大きくなる社会です)大きな声で嘘を言っている方が正しいという政治=法律がそのまま出来てしまう社会ですから、酷いものです。
ロビー活動次第のアメリカでは、白を黒と言っても資金力のある方の意見・・法律になってしまう社会で、これがアメリカ型民主主義というものの現実です。
これを大したものだと崇めてる国が世界の大多数というのですから(内心バカにしている国が多いかも?)、日本も対外的には、外国標準仕様にして行かないと口惜しい思いばかりさせられます。
明治維新当時こうした豺狼のごとき欧米の行動にびっくりした日本は、和魂洋才で欧米的交渉力・・富国強兵に努めた結果、欧米の奴隷的植民地にならずに済み、ある程度まで行きましたが、第二次世界大戦突入に追い込まれて結局一敗地にまみれました。
狡いやり方では相手の方が上手ですから、日本が下手に狡いやり方を真似するとその辺ばかりうまく批判されてしまいます。
非人道的な植民地支配をしていた欧米が自分の非を棚に上げて、日本の非人道行為をでっち上げて日本を道義で責めるならば最早道義に反したことをされる心配はないだろうと言う読みがあって、やはり日本古来の国際信義を重んじる方式でやって行こうという気になったのが新憲法前文です。
(何回も引用していますので「憲法前文」で検索してください)
連合国がよってたかって東京裁判という形式を使って日本を道義批判している以上は、信義を重んじない国はない筈だという信念(皮肉を込めて)・・戦後60年以上もやって来ましたが、相手の道議批判を逆手にとるこの国策も、最近の中韓のあまりにも理不尽な非難のエスカレートや恫喝的外交の前に風前の灯になりました。
中韓の道義に反した脅迫・虚偽風説の流布活動に対して、腹が立つからと言ってこちらも感情的になると、負けると分っているのに戦争に引きずり込まれてしまった第二次世界大戦の二の舞になります。
感情的にならずに、さしあたり我が国政治スタイルもある程度現地仕様に踏み出すことから始めるしかないでしょう。
狡いやり方では相手の方が上手ですから、日本が下手に狡いやり方を真似するとその辺ばかりうまく批判されてしまいます。
明治維新以降欧米に飲み込まれないように欧米列強と同じ方向に進みながらも、我が国独自の植民地政策・・欧米とは違い、現地人の自立に心を砕いて来たのですが、これが却って欧米に憎まれてしまいました。
非人道的欧米の植民地政策を正そうとした我が国が、勝ち目のない戦争に向かわざるを得ないように巧妙に追い込まれ、予想どおりに負けたものの辛さで、逆に非人道国の汚名を着せられてしまいました。
戦後も挫けることなく、地道に励んで来た結果今や世界中で日本人の信用は高まるばかりですが、これに焦った(アメリカの意を受けた)中国・韓国政府が日本に挑発を繰り返しています。
已むなく日本も現地仕様に乗り出すについては、韓国の無茶な要求や中国の恫喝のバックに日本叩きをけしかけている国があることに気を付ける必要があります。
挑発に乗って日本が同じようなことをすると待っていましたとばかりに汚い罠が待っているリスクに気をつける必要があります。
先日韓国行なわれたサッカーのアジアリーグだったかの試合で、例によって韓国側が歴史問題の大横断幕を掲げた事件がありました。
韓国側ではこれを先に日本が旭日旗を掲げたからやったと言い訳しているようですが、徐々に分って来たところでは、韓国系で日本国内で活躍している在特会をシバク会・シバキ隊の隊員が韓国の横断幕を掲げる計画者と連絡を取り合ってシバキ隊側が日本人として先に旭日旗を掲げる手はずだったということらしいです。
これはネット報道であって必ずしも正確性の保障がありませんが、こうしたことが蔓延して日本を罠にはめようとする悪巧みが世界中に満載です。
日本が現地仕様に踏み出すについては、再び嵌められて第二次世界大戦に追い込まれた歴史の轍を踏まないように細心の注意を払う必要があります。

会社の運営6(取締役の役割3)

いろんな会議体で(複雑な利害関係を反映するために会議体が大きくなり過ぎると)機動的に動き難いのと、忌憚のない意見が出難い・・4〜50人以上の大会議体になると議論が形式的に流れ易い傾向があるので常任幹事会などが存在するのは、(私自身もかなり前から日弁選挙管理委員会の常任委員に就任しています)この意味で合理的制度と言えるでしょう。
いろんな委員会に参加して来ましたが、その経験によると、マイクを回して発言しているような大会議体では(議題が多いこともあって)一人当たりの発言時間/回数が事実上制約されるなど、突っ込んだ議論がし難くくなる傾向を否めません。
談論風発・・格式張らない議論をするには、参加人数が10人前後までが集中的・活発な議論がし易い感じです。
国政レベルで言えば、内閣制度自体がこうして出来上がったものです。
我々の経験している常任委員会は全体会議での議論の叩き台(A案B案C案等を準備する場合や、全体会で方向性が決まっていて運営要綱案作成を常任委員会に一任頂くというのが原則です。
そして、その結果を全体会に報告して最終決定を全体会で決める仕組みです。
企業合併の方向性についてはこうしたオープンな議論が先行しておらず、方向性を決めたりA~BC案を議論すること自体が予め外部に漏れるのは企業政策上困るので、この段階からどこの企業でも秘中の秘であって、ごく少数の首脳間で極秘に根回しして一定段階に至ってから、取締役会に諮ってその後は一気に動くのが普通です。
(この常識自体に問題があるかも知れませんが・・)
川崎重工の合併交渉については、既に一般取締役を含めた会議の議題にまでなっていた以上は、一定段階まで首脳部(複数)だけの極秘交渉をしていたこと自体が特に順序として問題があったとは(部外者には詳細不明で・・大方の感想でしかありませんが)言い切れません。
反旗を翻したメンバーは、議事手順に対する不満によるのではなく、実体的な内容・合併に関する執行部提案に拒否感を抱いたものの、下手に反対するとにらまれる・・次期総会で再任されないリスクがあるので先手を打って解任決議に出たのではないでしょうか?
取締役会出席者が社長等首脳部から提案された案と自分の意見が違う場合、正々堂々と反対論を展開することが取締役に期待されている現行法の役割です。
常任幹事会と全体会議の役割分担を考えても、全体会議で常任幹事会で出した方向性に異議を言えないのでは、何のために全体会議体があるか分りません。
川崎重工での解任劇に関しては、正々堂々の議論抜きにして一足飛びに解任動議を提出したことに関してはその役割からして疑問が残ります。
論議を尽くすことを避ける問答無用形式では、知能の未発達な子供の実力行使や未成熟社会でのクーデターと同じ次元になります。
取締役会ではすべてに同意するか、自分の意志を通すにはクーデターしかないとすれば、会議体としては未熟過ぎる話です。
西欧のフランス革命等は文化人が賞讃するように進んだ社会の立派な出来事ではなく、あまりにも国民意見を吸収出来ない遅れ過ぎた体制であった・・(衆議を大事にする日本から見れば数千年単位で遅れている)政治が未熟であるから起きたものであったと何回も書いてきました。
文化人が賞讃するフランス革命その他の革命騒乱事件は、命がけの革命騒動を起こさないと国民意見を汲み上げられない社会の未熟さを表現していますので、何も自慢するような事件ではありません。
子育てでもそうですが、乳児が大きな声で泣き始めるまで異変に気づかない母親というのはかなりレベルが低いと思います。
ちょっと変な顔や様子を見て直ぐに反応するのが優れた母親です。
小学校でいやなことがあると、子供が口に出さなくとも大方の母親には異変を感じるものです。
乳児が泣き叫んだり子供が自殺するまで異変に気がつかない母親って滅多にいるものではありません。

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