国際経済秩序2(裁判制度の信頼性1)

国際間紛争になると相手の国での裁判では不公平な裁判を受けるのではないかと心配するのが普通です。
まだ国際間の信頼が低いからでしょう。
個人・人間の智恵では進化している筈ですが、民族・集団とか国家の利害が絡むと信頼できなくなるのです。
国際間の管轄になると後進国の場合、裁判所の独立・・合理化が保障されない恐れが高いので、歴史的には一種の治外法権が要求されてきました。
島津久光による生麦事件があって、「切り捨て御免の法制度だ」と開き直られるのでは納得できない欧米の論理や裁判制度が確立されていないので公平な裁判が期待できないことが幕末の不平等条約の基礎となりました。
内外の制度上の格差が治外法権に繋がったので、明治政府は当初から司法制度の整備に努力し、その成果をアッピールして条約改正に苦労しました。
明治初期からの法制度の整備についてはボワソナード教授の招聘等で、精力的に法典編纂を進めた経緯については、07/29/05「明治以降の刑事関係法の歴史3(清律3)」以前後から08/31/06「刑事関係法(実体法)の歴史16(旧刑法2)」あたりまで連載しています。
明治政府が先ず刑事方面の整備や裁判官の養成を始めたのは、こうした流れの一環でした。
欧米の要求があって、裁判は政府から独立していなければならないと叩き込まれて教育されて来た結果がそのとおりに出たのが、児島大審院長によるいわゆるロシア皇太子襲撃事件の裁判でした。
当時日本とロシアとの緊迫した状況下にあって、(緊迫下では当然国内右翼が・跳ねっ返りが発生します)折角親善のために日本を訪問した皇太子が1891年5月襲撃されたので、この処理を誤ると日露関係が決定的破局になるという恐れから、政府は皇族に対する罪と同様の厳重処刑・死刑を求めていました。
大審院は、政府の圧力をはねのけてロシア皇太子は天皇一族ではないと言う法理論どおりに一般の傷害事件として処理したのです。
後にオーストリア皇太子に向けられたサラエボの一発が第一次世界大戦の切っ掛けになったのですが、同様の先駆例が日露間であったのですが、日本では即時戦争に結びつかないようにうまく処理しました。
南下策として朝鮮を狙っていたロシアと朝鮮がロシアの支配下になると日本の国防上危険とする日本は、当時お互い強い警戒・牽制関係にありましたが、まだ日露間は決定的に悪化していなかったことも幸いしたでしょう。
これが有名な司法権の独立を守った大津事件ですが、中国や韓国の場合、戦争前のことは全て今まで国際条約で解決済みとして来たのに、日中、日韓が険悪になるとイキナリ日本企業に対する裁判を始めて韓国の場合その主張を認めました。
政府の意向を受けて裁判しているのは見え見えなのに、司法と政府は別だとうまく?使い分けているのですから困ったものです。
日本の大津事件の場合、目先の国益に反するかどうかはなく、本当に司法の論理のみで裁いた事件でした。
その場の短期的国益・ロシアとの険悪化を避けたい当時の国益を見れば、司法が政治におもねるべきだったでしょうが、ココで政治や国民世論をはねつけて凛とした裁判をしたことが、日本司法に対する国際評価を定めてこれが日本の遺産になっています。
現在アメリカの人種間紛争の裁判では、日系人判事が一番信頼されていると言われていることにも繋がります。
この後で書いて行きますが、先人の遺産(スターリンの北方領土占領と李承晩の竹島占領・北朝鮮の拉致事件、鄧小平以来続けた反日教育)が中ロ韓では現在政治にマイナスになっているのとの違いです。
この毅然とした判決が先進国で高評価されて、(シベリア鉄道着工によるロシアのアジア浸透に対抗する英国の政治的意味が背後にあったのは当然ですが・・)直ぐに最強硬派だった英国自身が欧米の条約改正機運を主導して行きます。

戦争と国力疲弊5(倭冦1)

4月4日に書いていた英仏7年戦争の話題に戻ります。
フランスはインドや北米の植民地を失った外にオーストリアへの援軍等で財政疲弊したので、フランス革命に繋がって行きます。
ドイツ30年戦争から始まってドイツ地域を舞台にした戦争の繰り返しで最も疲弊したことになる筈のプロシャやオーストリアが破綻しないで、遠くから応援していただけのイギリス(アメリカ独立革命)やフランスで大革命が起きたのは皮肉です。
古来からの経験から言えることは、遠征は割に合わないということでしょう。
秀吉の朝鮮征伐で戦場になった李氏朝鮮が倒れないで遠くから出張して来た明朝や豊臣政権が倒れたのは偶然ではありません。
アメリカのベトナム戦争など出張(遠征)した方が戦場になった国よりは(ベトナムは倒れませんでした)国力疲弊する率が高いことが分ります。
蒙古襲来時の鎌倉北条政権も内実は九州までの出張戦争だったから倒れたのであって、戦場になって大損害を受けた筈の対馬や九州地元諸豪族はいよいよ盛んになり、南北朝時代や応仁の乱を経て戦国大名に成長して行きます。
蒙古襲来に対する高麗や旧南宋地域への報復攻撃を計画した北条政権がこれを実行出来ずに中止してしまったことで、報復感情の収まらない九州地域の体力の余っている荒くれによるゲリラ的感情から始まった?倭冦とその末裔が蒙古軍の主力であった朝鮮半島と大陸(旧南宋)沿岸を荒し回ることになりました。
時の経過で報復感情とは関係がなくなってもこの繰り返しで手に入れた航海術を活かして山田長政のような元気印の日本人が東南アジアに雄飛して行く基礎となっていきます。
ちょうど西洋の大航海時代が日本でも偶然同時時期に始まっていたことになります。
数百年に及ぶ倭冦の航海と交戦経験が、明治以降短期間に海運業の発達や世界に冠たる海軍国に発展する基礎になって行きます。
日本自衛隊が現在でも中国に比べて海軍力では比較にならないほどの実力を有していると言われるのは、この歴史によります。
蒙古襲来時に元と高麗の連合軍が山が丸裸になるほどの努力で作った軍船が2回も壊滅的打撃を受けるなどのトラウマから、朝鮮半島及び中国大陸では歴代王朝が新造船意欲海軍力による領域拡張意欲をなくします。
以後自分で八幡船を追いかける能力がなく、神出鬼没的に突然襲撃して来る倭冦の劫略に打つ手がなくなり、上陸侵略されるとその都度追い払う程度しか出来ませんでした。
元の次の明朝も日本に善処を求める「お願い」程度しか出来なくなり・・結果的に明朝自体が倒れてしまいました。
蒙古襲来以来、大陸と朝鮮では大敗のトラウマから日本との海戦を避けるようになったことから、(鄭和の大船団はアラブ人によるものと言われています)操船経験が乏しいまま現在に至っています。
清朝末期には「定遠」など世界最新鋭の軍艦を購入して日本を威嚇していましたが、イザ黄海(威海衛)で戦端を開くと日本の精緻な操船技術の前になす術もなく圧倒的な軍艦を用していた北洋艦隊は壊滅的被害を受けてしまいました。
日清戦争は(清朝の方が最新鋭軍艦を擁していたのですから、)海軍操船技術差によって勝敗が決まったのです。
日露戦争での日本海海戦で東郷元帥がバルチック艦隊を壊滅的大敗に追い込んだのも、艦船装備力の差によるのではなく・(装備では日本海軍が対抗できる状態ではありませんでした)急激な戦闘態勢の命令に一糸乱れずに対応できる磨き抜かれた操船技術によるところだったことは誰も疑わないでしょう。
東郷元帥の果断な決断だけが賞讃されますが、これを実践できる操船技術や大砲等の射撃術等の優れた技術の裏付けがあってのことでした。
今も中国は装備だけ見れば航空母艦まがいを漸く持てるようになって喜んでいますが、多数船舶の連携でなりたっている現在の精密な操船技術力が未熟なままですから、とても日本と互角に戦えないと言われているのはこうした歴史によります。
戦場になった地域よりは遠征した方に負担が大きいというテーマに戻ります。
ロシアによるクリミア編入でも、現地クリミア住民には大したコスト負担がなく、クリミアを手に入れたロシアの方が、巨大な軍事力移動その他の事務負担や援助で莫大な財政負担が生じています。
ウクライナ本体を西側に引き寄せた筈の西欧も、その分巨額財政支援の必要性に追い込まれています。
中国がイキナリ海洋大国になると宣言しても、それだけでは歴史がないので簡単には行きません。

植民地化と民族文化喪失2

国内産業が疲弊すると職場が少なくなり、浮浪者が溢れ、することがない人が増えれば民心が無気力になります。
世界中が植民地と植民地を持つ国に二分化されて、際限ない収奪が進むと被植民地の産業構造の破壊が続く結果、世界中で強国と弱小国・民族格差・・文化の差が開く一方になりました。
植民地化によって関税等の防壁のない社会になると、イギリス・フランス等からの輸入攻勢で被植民地の事業主が倒産し経営者が夜逃げするような事態が増えて、その子世代では食うに困ります。
更にそのまた子の代には高度または中級の教育を受けられる人が少数化し、独立時代に中級教育を受けていた階層の多くが低級教育しか受けられなくなり、低レベル教育を受けていた階層は何らの教育も受けれないようになって行きます。
千葉で言えば地元商店街で酒屋や数カ所のレストランなど経営していた人が店舗を閉鎖して、入れ替わりに非正規系のファーストフード店長やコンビニ店長やマクドナルドの店長が赴任して来る社会になれば、地域社会の脆弱化は明らかです。
これが4〜5世代続くと地元文化にお金を出す余裕のある人が減り、文化人の比率が減り文盲中心社会になってしまう・・・・国全体が貧しくなれば文化の担い手(文化に金を使う人)が減り教育レベルが下がります・・・。
英仏企業との競争に敗れて事業倒産が増えて英仏企業の輸入案内人になった企業だけが生き残り、英仏等に抵抗して滅ぼされる地元豪族の中にあって、支配国とうまくやった支配に協力した豪族だけが生き残るのでは地元文化の担い手が減る一方です。
生き残った少数エリートの子息の多くは、(元々迎合主義者の子息です)宗主国の英仏等の首都へ留学し、その国の文化をまぶしいような気で受入れて帰国するのが普通です。
シンガポール国家創設者の李クアンユーが日経新聞に書いた「私の履歴書」にこの辺の気持ちが詳しく出ています。
土俗的なあか抜けない文化や踊りなどよりも、西洋のクラシック音楽やバレーやオペラをどんなに素晴らしいか・古くから地元にある酒やお菓子よりも、パリで飲んだワインやケーキが素晴らしいと自慢するのが普通です。
我が国でも横文字を縦にすれば博士になれる時代が長く続きましたし、私が成人したころは、何かあると「欧米では◯◯」としたり顔で講釈するテレビ番組が普通でした。
植民地争奪戦争は経済的には市場争奪戦争であり、支配服従関係に着目すれば帝国主義戦争であり、民族感情を基底に持って戦い侵略する結果、植民地の文化が劣化し続けることと相俟って人種差別意識を生み出し、世界中に民族格差を拡大する仕掛けだったことになります。
民族意識強調の時代に成立したアメリカ合衆国は、合衆国という我が国の名称にもかかわらず(正確にはUSAですから、合衆国ではありません)世界で最も人種別意識が強く、且つ実際に黒人に対する恐るべき人道差別をして来た国であるのは時代の申し子であるからです。
民族意識強調の最後の戦いを挑んだナチスが、ユダヤ人という標的を作ったのもその結果・必然であったと言えます。
日本の場合、支配地でもドンドン現地人教育に資金をつぎ込んでいたことから分るように人種差別目的ではありませんでした。
元々欧米の弱肉強食論理による餌食にならないために、アジアで団結しようと言うのが明治維新以来の国是ですから、協力者を増やすための国力伸張でしたから意味が違っています。
アメリカや中国が日本的自他愛・献身の精神を理解できないので、人道など問題にしない自分たちのどん欲な価値観で、日本も同じことをした筈と言う信念で悪宣伝をしたがるのです。
中韓やアメリカは、全くのデッチ上げを主張している自覚すらもないのではないでしょうか?

戦争と国力疲弊2

一時的延命でしかなくとも、独裁政治家等失脚すると命の危険がある場合、結果的に国民の不利益になろうとも、対外戦争に賭けて一日でも1年でも延命を計りたくなり易いと思われます。
この結果、非民主国家・・円満退任ルールのない独裁国家の方が対外戦争に走り易い性質を持っています。
この面から見ると民主主義国家の方が自己保身のための戦争をあまりしませんので平和的になり易い面がありますが、実際にはアメリカのように戦争ばかりしている国もあるので、民主国家の方が平和主義だとは一概に言えません。
戦争とその後の国力衰退のテーマに戻ります。
古くからの戦争を振り返ってみますと、蒙古襲来では戦った高麗・モンゴル連合も受けて立った北条政権も戦後国力疲弊でともに倒れましたし、秀吉の朝鮮征伐でも豊臣政権と戦った明朝も共に倒れました。
出張して戦った秀吉と明朝の方が国力が疲弊したのですが、戦場となって国土を蹂躙されただけの李氏朝鮮は、大した出費がなかった所為か?そのまま生き残りました。
この後で書きますが長期の戦場になったドイツも大したことがなく終わったのは、互い農業国であったから人的被害さえなければ政権が持つということでしょうか?
もっと古くは随の煬帝が高句麗征伐に乗り出したことによって、国力を衰退させて反乱が起きて唐の時代になりました。
西洋ではスペインのフェリペ2世が戦争ばかりしていて、何回も破産していますし・・結果的にあれだけ金銀をアメリカ大陸から持ち込んだ筈なのにみんなどこかへ消えてしまいました。
これらの時代には、民族意識の高揚や民意重視・・支持率維持ために、戦争が起きたのではありません。
国力・兵器水準が接近している国同士の場合、双方国内兵役負担の方が大きくなって結果的に大赤字・・内政負担→政権崩壊になるようです。
これがはっきりしたのが第1次世界大戦以降の先進国同士の戦争で、やればやるほどお互いに国力衰退の原因になります。
圧倒的兵力差・・刀や槍しかない未開民族に対する機関銃や大砲等の攻撃の場合、占領するメリットの方が大きいので、大航海時代以降スペインに始まるアメリカ大陸侵略〜19世紀型植民地争奪戦争は勝ちさえすれば旨味がありました。
例えば英仏7年戦争を例にすれば、隣あっている英仏本国では直接戦わないで遠くのインドや北米の植民地あるいは大陸でのプロシャ対オーストリアでの限定戦争への出張戦争でした。
このときに大陸では、プロシャとオーストリアの攻防戦を中心とする欧米列強ほぼ全員参加(ロシアはオーストリア側)の戦いが同時並行していましたから、言わば西欧大陸での第一次世界大戦のハシリ・ひな形と言うべきだったかも知れません。
大陸ではイギリス・プロシア連合は負け続けていましたが、制海権を握ったイギリスが植民地争奪戦で勝利し、(補給の続かないフランスは植民地の戦いで負けました)結局大陸で判定勝ち状態であったフランス・オーストリア・ロシア連合側も戦争を続けられなくなり講和となりました。
7年戦争では大陸では戦場になりましたが、イギリスは深手を負わず、しかもその結果インドや北米の覇権を握って良いこと尽くめのようでしたが、この戦費調達のためにアメリカ等植民地での増税がアメリカ独立運動を誘発しました。
このときは戦争で得た世界規模の植民地からの儲けの方が多かったので、イギリスの世界覇権確立に貢献できました。
植民地獲得競争の戦争は、産業革命の結果生産過剰になっていた欧米諸国にとって、勝てば資源や市場を手に入れられることから、戦費を上回る旨味が合ったので植民地争奪戦争が激しくなったのです。
植民地にされた方は産業革命による大量生産品に市場を奪われ、収奪されるばかりですから、インドで綿商人が「白骨累ルイ」と表現されるような悲惨な結果に追い込まれてしまいました。

ウクライナ政変とロシア2

西欧との間でウクライナ取り合いの綱引き程度にしておけば、燃料その他多くの面で死活的にロシアに頼っているウクライナはロシアのご機嫌を損ねる訳に行かないので、程々につき合って行けた筈です。
実際今回のデモ等の騒動で追い出された前大統領は、直前までEUとの協定を結ぶ予定だったのを昨秋ドタキャンしてロシアとの協定を結んだたことが騒乱の切っ掛けになったのですが、彼としてみれば南欧危機で懲りたEUから緊縮財政の要求その他うるさいことばかり言って来るEUとロシアを両天秤にかけて破格の好条件を引き出してロシアと協定を結んだのは、それなりの計算があってのことでしょう。
これに負けずにEUが条件を緩めて来れば、そのときにまた話に乗ればいい程度の腹づもりだった可能性があります。
ウクライナにとっては、どっちつかずの方が双方から有利な条件を引き出せるのでそうした行動をしていた筈です。
EUとの協定をボイコットしてロシアと仲良くしようとしたことに憤激した民衆暴動で彼は追い出されましたが、政治家の奥深い腹の底は民衆には見えません。
ロシアが陰陽の介入をせずに民衆暴動を座視していた・・なす術もなかったように見えることが疑問ですが、EUとの競争上ウクライナに譲歩し過ぎたので損な取引だった(ご破算になった方が良い)と思って放っておいたのかも知れません。
こんな人口の多い貧乏国をEUと競り合って勝ちとったものの高い買い物に気づいた・・破綻状態のウクライナを抱え込むとロシア経済が持たないという冷静な計算が働いた可能性もあります。
ロシアとしては戦略的要衝であるクリミアさえ確保できれば良いのであって、図体の大きい貧乏国をまとめて抱え込むのは大損です。
今回の強行策の結果、本体のウクライナを敵に回して小さなクリミヤを手に入れただけですから、一見ロシアの大損ですが、逆から見れば必須のところだけ手に入れて貧乏な不採算事業を切り離したと見るべきかも知れません。
そのままであれば経済援助しなければならないウクライナを、クリミアの併呑によって文句なしの敵国に追いやってしまい、無駄飯食いを切り離してEUに任せて清々したとも言えます。
企業がお荷物の主力不採算事業を恩を売って切り離すようなやり方です。
マレー半島からシンガポールが独立したことやイラクからクエートが分離独立したことがあります。
中国だって沿海部が内陸から切り離して友好国程度にして独立した方が有利に決まっています。
ウクライナを完全な敵国に追いやったロシアの行動は失敗だったのか、計画どおりだったのかは歴史が証明して行くことでしょう。
西欧にとってはロシアの裏庭とも言うべきウクライナ取り込みに動き過ぎた・・(民衆暴動を煽って)露骨にやり過ぎたことが、ロシアの反発するチャンスを与えて貧乏国を(昨年秋まで要求していたきつい条件を突き付けられないまま)引き受けるしかなくなったのですから、やり過ぎの結果の貧乏くじだったと言うべきでしょう。
御陰で日本にまで奉加帳が回って来て日本が千億か1500億の援助をすることになったと報道されていました。
中国成長鈍化やシェールガス期待→資源価格下落による経済変調でロシア経済は下降状態になっていて、支持率低下に焦っていたプーチンは、西欧のやり過ぎを捉えて、民族感情に訴え易い対外喧嘩に賭けたと言うのが一般的見方です。
しかし、穿った見方によれば、ウクライナの政変自体ロシアが(西欧が煽ったかのように見せかけて)裏で煽ってこれを攻撃材料にしてクリミアの切り離しに成功した可能性があるとすら言われています。
ロシアの対応がびっしり予定どおりと言わんかのように、一糸乱れず何の混乱もなく行なわれています。
兵員移動や住民投票その他がかなり前からの綿密な計画と準備がなければ不可能なほど手際よく進み過ぎていることと、ウクライナでイキナリ過激な暴動になって行った過程と前大統領がこれと言った抵抗(暴動制圧努力)をせずにあっさり国外脱出をした手際が良過ぎる不思議さがあります。

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