プロの判断と司法審査(伊方原発)2

NHKニュースに戻りますと、ニュースの関連資料として、ワンクリックで見られる原発運転基準を決めているルールを資料としてつけてくれると分かり良いので、こういうサービスが欲しいものです。
その上で、

この規則第○条○項に「具体的危険があれば停止すべし」という規制基準が設定されていて、具体的危険に当たるかどうかの規定に・・
(1)①〜⑤の場合は即該当
(2)⑥〜⑩の場合は多数意見で決める
などの要件があるなどの類型的説明があって、本件では、(1)③にあたるかどうかが争点であった。
(1)③とは、半径Xキロ以内に活断層がある場合のことであり、本決定ではX㎞内にあると認定され、規制委員会がXキロ以上距離があるとした測定がABCDEの各データと矛盾することを理由に否定されました。

という論理構造であればスッキリします。
そうすれば、その次のレベル・・活断層の定義分類規則がどうなっているか、活断層にはABCDEの〜の10種類があり、その種類に応じて原発までの距離が決まっている場合、数十のデータの組み合わせでABCD〜の種類を決めるのが、学会の通説となっていればそのデータの正確性・当てはめが合理的に説明されているか次第となり、そこに関心のある人だけさらにそのデータを読み込めば良いことです。
例えばAB分類境界値付近の場合には、プロ集団の委員会の決議による場合があるでしょう。
規則詳細やデータは公開されているとしても、一般人には容易にアクセスできないのでこういう報道の際にはその報道に関連している関連規則や事前公開されていたデータをワンクリックで見たい人は見られるサービスをすべきでしょう。
ところで、関連法令や規則はワンクリックで閲覧できるようなサービスが可能でしょうが、科学関連事件(医療関連事件でも)はデータの信用性や読み方で勝敗が分かれるのが普通ですので、報道機関がデータそのものを閲覧可能にしない限り事件当事者以外は厳密な理解は不可能です。
裁判手続きはIT化に向けて準備中(千葉県弁護士会でも2月7日総会前の研修?でIT化訴訟手続きの実演してくれる段階)ですが、今はまだ紙媒体なので決定要旨が配布されても各種科学的な検査や実験の生データは配布されません。
(そもそも決定書あるいは本案判決書全文を入手しても証拠の配布はありません)
訴訟手続きはまだIT化されていないとしても科学者段階のデータはほぼIT化されているはずですので、双方弁護団の手元資料はほぼ全て電子化されたもののはずです。
私の現在進行形の事件で、経理事務所から約17年に及ぶ膨大データを元にした表をもらっていますが、この表が事態正しくを把握できるよう表になっているか、自分で生の会計資料を拾い出して検証作業するための試行錯誤で色々な表に作り直すには、データそのものをネットでもらわないと作業ができませんので、会計事務所の作ってくれた表自体を紙媒体だけでなくデータでもらっています。その表で説明するのが妥当としても、(訴訟では原証拠提出が原則必要です)生の会計資料から間違いなく作成したという説明だけで訴訟提起するのは心許ないので、この引当用の表を作るなど色々な作業が必要です。
このように訴訟外の準備段階では私のような高齢者でさえもIT化作業が進んでいますので、報道機関はやる気があれば、予告された決定前に入手した実験データをもとに決定と同時に双方提出証拠(本当に訴訟提出済み証拠かの確認は相手方に確認すれば簡単にできます)のネット配信可能です。
このように予めの準備があれば、裁判所の手続き進行指揮等からどの点に焦点が当たっていたかの予測がついているので、決定要旨入手直後の検討でどの実験記録や過去データがどのデータと矛盾するとして採用されなかったかも短時間で解説可能です。
原発訴訟は個人が原告になっているものの争点の多くは個人情報を除けば(活断層かの判定に必要なデータや火山噴火データ)客観的データの解析である以上、これを国民に秘匿する必要性がほとんどないはずです。
訴訟当事者双方に提出済み証拠の提供を求めれば、双方がこれを拒否する必要もない・自陣営の主張を理解してもらうために積極的に協力してくれるし、懇切に説明もしてくれるので簡単作業です。
こういうサービスなしに裁判の結果「具体的危険があると認定されました」という報道は、停止決定があった以上裁判所が具体的危険を認定したに決まっているイコールの関係であり、同義反復・・実は根拠説明になっていません。
国民が知りたいのは、規制委員会が具体的危険がないとしていたのが、裁判所がどういう根拠で具体的危険があると覆したかの説明でしょう。
NHKは根拠の結論を書いているかのようですが、実際には結果として同義反復に過ぎず「当面原発は停止になるらしい」としかわかりません。
庶民は「結果だけ知れば良い」と言うならば見出しだけで十分です。

「また火山の噴火に対する安全性については、熊本県の阿蘇山で噴火が起きた場合の火山灰などの影響が過小評価されているという判断を示しました。」

とも書いていますが、過小評価しているという結論だけの記載でどちらが正しいのか、さっぱり分からない報道です。
規制委と裁判所の判断が違った前提事実のどこが違っているのかの説明がないので、どちらが合理的判断なのか、司法の政治的偏りなのかそれぞれの立場で憶測に基づく非難合戦をすることになります。
https://www.sankei.com/column/news/200118/clm2001180003-n1.html

【主張】伊方原発停止 高裁の迷走が止まらない
2020.1.18 05:00コラム主張

引用省略しますが、上記主張は否定的批判論ですが、NHK以上の決定理由の掘り下げがないままのイメージ主張です。
報道機関であれば、決定書要旨が手に入っているはずですし大手新聞の掲載する批判論である以上は、決定論理のどこに問題があるかの具体的指摘が欲しいものです。
担当裁判官はこの春だったかに定年退官というニュースも断片的に駆け巡り、「良心に従った公正な判断が定年前でないと書けない」あるいは「定年前で政治的立場を露骨に出した」かのような憶測も広がります。
こういう次元の低い議論が広がるのは後進国みたいで恥ずかしいことですが、決定内容要旨自体の報道がないから根拠不要の言いたい放題の応酬になります。

国民総意2と神威

古代ではモーゼ・・神の啓示・・我が国では神威?宇佐八幡の御神託などの受信能力のある人・結局は意味不明ですが、卑近な例で言えば企業経営での投資・撤退決断等々集団トップに求められる決断力でしょうか。
宇佐八幡の御神託についてはJan 16, 2020 「神は民族利益を超越したか?」でも少し触れました。
政治家で言えば、国内や世界情勢の空気を読む能力であり、読みが狂うとリスクを取る立場ですが、いつもギリギリ決断の積み重ねです。
各種評論家、学者はその道のプロのように見えますが、「無数の与件が一定としたら」こうなる・こうすべき論にすぎません。
厳格なルールで行われるスポーツでさえも選手の体調、気温風向き等による誤差が生じますし、政治経済などの社会現象では何万あるか不明・無限大要素の組みわせですから、与件一定などあり得ないので、高名な評論家・学者等が経営や政治家になって成功した事例は皆無に近いでしょう。
「政治の世界は一寸先は闇」というように、数分後の大地震や今回の中国武漢発のコロナウイルス騒動による大リスクなどは合理的分析では予測不能です。
安倍総理の中東歴訪直前に米国によるイランの司令官殺害とこれに激昂するイランがどう動くかの緊迫した情勢下で、安全保証専門家が総理に示した選択肢が数種類あって(これが官僚システムの原則らしいですが)総理がその中で最も順位の低い予定通りの歴訪を選んだということでしたが、結果的にイランによる米軍基地へのミサイル攻撃が限定的だったことで報復合戦のエスカレートにならず歴訪決断が良かったことになります。
このような限界状況下では、プロの高度判断に頼るしかないことが今でもいっぱいあります。
政治の世界では世界中の情報が手元に揃っていない中での(後講釈は誰でもできると言われる所以です)緊急判断が求められることが多いので、直感力.神の啓示の受信能力のレベルによります。
サッカー・ラグビーなどで瞬時動物的勘による的確なパスや移動、戦闘現場での司令官や救急担当医師等の専門家判断の場合鍛え抜いた訓練の結果でしょうが、政治家の場合鍛え抜いた直感と神の啓示受診能力双方が必要な感じです。
菅直人氏には市民運動をしてきたせいか?で緊急時の胆力というか現場指揮経験がない・・実務能力欠如が目立ちました。
方向性がズレましたので東北大震災による原発事故に関する国民総意に戻しますと、当時の日本は敗戦時同様の国難に遭遇して悪くいえば民族挙げての総ヒステリー状態下で国民挙げて国家民族のいく末に誰もが想いを致す特殊環境下にあったので「民族意思が形成された」状況であったというべきでしょう。
国民全員に憑依した原発に関する国民総意は、「もともと危険なものである」「この危険なものが、通常状態では飼い慣らせる・危険除去施設設置は可能であっても、突発的自然現象については中短期的将来の科学技術の発達によっては予測不能である→100%安全確保できない」というものでした。
ただし、「いつ自然の猛威が襲い掛かるか不明であるので、すぐやめると電力不足で社会生活が成り立たない現実を踏まえ、代替発電産業の成長するまで最大限危険予測を鋭敏にしながらも代替電力が成長するまで「恐る恐る運転継続する」という国民総意があったことになります。
例えば、東北大震災級津波がいつどこに来るか不明ですが、だからと言って日本中の海岸ベリの生活を全員一斉に明日から放棄するわけにはいきません。
東北の大津波に被災地で明日もう一度津波が来ないという確信がなくとも警戒しながら海岸ベリで堤防その他の復旧作業を続けています。
要するに「危険が否定できないからすぐやめる」という選択肢を国民総意が取らなかったのです。
こういう考えは原発に限らず、もともと法律学で「許された危険」という基礎理論の応用です。
卑近な例でいえば、車の場合、交通戦争と言われ最盛期には年間1万人以上に事故死者が出ていましたし、今でも自動車による死亡事故を皆無にすることはできないが、社会的に有用な道具であることを理由に製造販売使用が許されています。
料理も食中毒の危険が否定できないからと、フグやキノコに限らず何もかも禁止していれば多種多様な日本の食文化が生まれなかったでしょう。
飛行機も墜落しない保障がありませんが、今よりもっと危険性の高かった初期から許容されて技術開発の結果次第に安全性が高まってきたものです。
原発というか放射能漏れによる死者が一人も出ていないのに比べれば、車の被害の方がその何万倍も大きくしかも(死者だけでなく傷害・物損事故の方が死亡事故の何十倍もあるほか排ガス公害など)現在も日々発生しています。
原発に限って、危険の可能性があるという程度で停止命令を出すことは国民総意に反していないかの違和感です。
伊方原発で稼働停止命令が出たとの報道ですが、この国民総意を無視して司法が「危険性がない」証明を求めたとすれば危険を除去できない前提の国民合意・・与野党合意を無視した判断となります。
できるだけ慎重審査するという政府の決めたルールを守っていないという判断でしょうか?
決定文自体がまだネットに出ていないので正確な決定理由が不明ですが一応引用しておきます。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200117/k10012249231000.html

伊方原発3号機 運転認めない仮処分決定 広島高裁
2020年1月17日 18時02分

・・広島高等裁判所は、地震や火山の噴火によって住民の生命や身体に具体的な危険があるとして、運転を認めない仮処分の決定を出しました。・・

伊方原発の敷地の近くに地震を引き起こす活断層がある可能性を否定できないとしたうえで「原発までの距離は2キロ以内と認められるが、四国電力は十分な調査をせず、原子力規制委員会が問題ないと判断した過程には誤りや欠落があったと言わざるをえない」と指摘しました。

また火山の噴火に対する安全性については、熊本県の阿蘇山で噴火が起きた場合の火山灰などの影響が過小評価されているという判断を示しました。

自由民権運動の系譜2(メデイア)

社会保障費は社会全体の経済力の範囲でしか出せない→保育所であれ、生活保護であれ、芸術やスポーツ振興〜科学振興であれ国全体で必要なものがいっぱいある・比喩的に言えば、数万種類の必要分野にそれぞれどの比率で資金や人材を分配すべきかのトータル判断をするのが政治というものです。
教育費予算に絞っても大学や高校小中学校の耐震補強工事費と学費補助の優先順位、保育所設置基準を緩めてより多くの保育所設置に舵を切るか等々何事も総合判断です。
こう言う政治判断に司法が介入するのは、司法権の乱用です。
設置基準を緩めたから事故が起きたのは国家の責任だと言うのは、政治判断に司法が優越するかのような結果になります。
よくある事例では、ガードレールがなくて車が転落したり、道路陥没で車が落ちて損害を被ったなどの国家賠償事件ですが、全部の崖や道路にガードレールを一斉に設置するのは無理があるので、通行量の少ないところはあと回しにするなど予算の許す範囲で順次工事していくのが普通です。
道路陥没などの通報があればすぐ現地急行して通報後通行禁止柵などを設ければ良いですが、滅多にない陥没事故のために大勢が常時待機できないので、駆けつけるまで一定時間がかかります。
この所要時間は予算次第・要員を増やし、出動待機場所の増減次第・予算配分によります。
人員不足のためにその作業が翌朝になったために陥没に気づかなかったオートバイの転落被害が起きた場合、道路管理者に責任があると言えるでしょうか?
予算に応じた配置人員で可能なことをしたが、間に合わず柵で囲う前に事故が起きたなら、それは予算配分問題..政治が決めるべき・・その分野の予算が少なすぎるかどうかは地域住民・・市町村議会が決めるべきことであり、司法がこれを「道路の瑕疵」として賠償を命じるのは行きすぎでしょう。
瑕疵には違いないですが、瑕疵を補修すべき予算配分の優先順位を決める権限は立法府にあるのです。
都内では電車ホームの転落防止柵設置が進んでいますが、これも予算次第で一気に設置できず順次工事中ですが、最後になってまだ設置していない駅で事故があった場合の責任も同じです。
国家や公共団体の予算優先順位を決めるのは、民意=議会・・政治分野です。
このトータル利害調整を「有司専制」で行うのでなく、民意に基づく合理的分配をするのが政治力であり調整力です。
〇〇反対・それを廃止することによってこれまであったサービスをなくすのか?
既存サービス受益者をどうするかという問題に対しては何も考える必要がない・再軍備反対→中ソが侵略してきたらどうするかについては答えない。
〇〇設置要求運動・その施設ができたらその後の運営費や維持費など、どうするという問いには答えない・・。
あらゆる主張を通せばその必要コストに応じて他の施策の比率を減らすしかないのですが、その点に関する意見はないし議論に応じない、自分の主張を実現したいだけという無責任主張が一般的に行われています。
はじめから他の主張団体との利害調整に応じる気持ちがない・・他のことはどうでもいいから自分の主張だけを通したいという主張になります。
自分の主張が通ればその分他の予算が減るという関係を敢えて無視している人・集団は、自己実現と利害相反する他の集団との利害調整拒否する政治団体と言い換えることができるでしょう。
素人の場合、自分は素人だから、要望を出すだけで、あとは政党が全体のバランスを考えて正式公約にするかどうかを決めればいいのじゃないかと言えますが、政党自体が全体予算バランス無視で
「この分だけ予算措置を求める・その結果他のどの部分の予算が削れるか知ったことでない」
と言うようになると国家運営を任せろと言う政党とは言えなくなります。
言い換えれば、今は少数政党で弱いから弱者の意見を尊重しろと主張していますが、唯我独尊ですから権力を握った場合、他の要望は受け入れないし利害調整する気もない、独裁政党になると宣言しているようなものです。
民主党政権は八ッ場ダム工事をやめるとした場合、その穴埋めをどうするかの意見がなくて結局続行に決まりましたが、結果からみるとやめる場合の総合判断による意見ではなかったことを露呈しました。
子供が南米に2週間の家族旅行したいと言っても家計や休暇期間・健康等の都合の事情等で親が国内旅行にしようと言っても聞き入れず、駄々をこねていたようなものです。
流石に民主党政権時代に原子力発電をやめるしかないとしても約30年(あるいは30年までにだったか?)かけて徐々に減らしていく・その間に風力や太陽光発電等を育てていくという基本方針が策定されましたが、社会運営に責任ある政党としては、「ある工事をやめるまたは何かを新設する」というからにその影響を総合的に判断して決めて行く必要があったことを示しています。
原発に戻しますと、民主党政権のやめる方向の決断はいかに工夫努力しても危険性を無くせないという国民意識を前提にしていたものです。
努力工夫次第で、100%安全になるという自信があれば、30年までに?やめる決断自体があり得ないことでした。
ということは太陽光等で補充できるようになるまでの間はリスクゼロではないが、恐る恐る・できるだけリスク軽減しながら運転して行きましょうという国民合意であり、今の各野党自身そのような意図であったことになります。
山奥に行った帰り道で崖崩れがあり、絶壁の上の道路幅が半分に削れてしまいその約1キロの区間を走破するのは危険極まりないものの、そのまま山に止まれば餓死するしかないときに「100%安全ではないが慎重に通り抜けましょう」というのと同じです。
夜中に数百メートル危険そうな路地があるときに、危険を冒しても変えるしかないこともありますし、企業経営でも一定のリスク承知で新興国進出して成功することがあります。

14年政変→大隈重信下野

14年政変による大隈重信の下野と政権内復帰・・下野=反乱図式がなくなった流れの事例に戻ります。
大隈重信に関するウイキペデイアの記述からです。

立憲改進党の設立[編集]
野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した[57]。しかし党首としての大隈は、演説をすることもなく、意見を新聞等で公表することもしなかった[58]。明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している[59]。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている[60]
明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した[61]。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった[59]。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した[62]。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である[62]。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている[6

明治14年「国会開設の詔」に関するウイキペデイア引用です。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原文(原文では句読点がないため、適宜、句読点を挿入している)

朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緖ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ總攬シ、又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ、後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。
顧ミルニ、立國ノ體國各宜キヲ殊ニス。非常ノ事業實ニ輕擧ニ便ナラス。我祖我宗、照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ、洪模ヲ弘メ、古今ヲ變通シ、斷シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ。將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス。今在廷臣僚ニ命シ、假スニ時日ヲ以テシ、經畫ノ責ニ當ラシム。其組織權限ニ至テハ、朕親ラ衷ヲ栽シ、時ニ及テ公布スル所アラントス。
朕惟フニ、人心進ムニ偏シテ、時會速ナルヲ競フ。浮言相動カシ、竟ニ大計ヲ遺ル。是レ宜シク今ニ及テ、謨訓ヲ明徴シ、以テ朝野臣民ニ公示スヘシ。若シ仍ホ故サラニ躁急ヲ爭ヒ、事變ヲ煽シ、國安ヲ害スル者アラハ、處スルニ國典ヲ以テスヘシ。特ニ茲ニ言明シ爾有衆ニ諭ス。
奉勅   太政大臣三條實美
明治十四年十月十二日

以上のように地方議会を先に開設して地方から議論の経験を積んでいくなど着実に国会開設の準備が進むにつれて不満があれば言論活動で・という動きが加速していき、実力行動が影を潜めていきます。
こういう面では板垣による自由民権運動の啓蒙的役割が大きかったと思われますし、「有司専制」を排し、庶民に政治参加経験させれば民度が上がるという板垣らの主張を政府を取り入れて板垣の言うようないきなり国会経験でなく地方議会を設立してそこで議論経験から人材を育てるという着実な運用をしてきたことが上記「国会開設の詔」の

「嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。」

によって分かります。
昭和の頃には地元政治経験・現場を経て・市町村〜県会→国会→派閥領袖に成長後国家基本を論じるパターンができていました。
現在の菅官房長官も地方議会出身ですし自民党元幹事長の野中努氏もそうでした。
企業で言えば若手の頃には営業現場や地方(今では海外子会社も含む)経験を積ませその実務経験をもとに本社企画部等に抜擢されて最後は社長になるパターンが多く見られるのと同じです。
地方議会もない社会でいきなり国会だけ作っても空理空論の激突しかないので明治政府は発足直後から廃藩置県に始まり地方制度創設、村〜郡単位の地元民の意思決定経験〜日常決定参加から始めて行ったようです。
こうして着実に国民に政治経験を積ませた上で、明治23年に帝国議会開設になるのですが、自由民権運動は国会開設にこぎつけたことで国民啓蒙的運動としては目的を達したので本来の使命は終わったことになります。
コストカッターとしてのゴーン氏はリストラ成功で役割が終わったことになるのと同じです。
住宅公団が戦後住宅不足対応の役割を終えたのに、都市整備公団という名に変えて生き残ろうとしているものの、都市整備?この数十年何をしているのか不明・・を批判したことがあります。
日本も民選議員が必要という西洋の聞きかじりを吹聴する程度でも明治維新当時はそれでも新知識だったでしょうが、大久保らが数十年も行ってきた啓蒙運動の成果でそういう制度がある程度のことは誰でも知るようになり、具体的にどう運用するかの実用段階に入ると草分けを自慢しても時代遅れになります。
実務運用・「罵り合いではなく対話が必要」という書物の受け売りではなく、自分が対話力があるかは別です。
政治家と評論家とでは能力の方向が違います。

任命の効力2(拒否・辞職→反抗認定→小田原征伐)

小田原攻めのきっかけになった真田昌幸は、武田家最盛時には武田24将の一人でしたが、武田家滅亡後武田旧領地を一括支配させるために信長が派遣した滝川一益の与力となって本領安堵し?本能寺変後滝川一益が畿内に逃げ帰って空白地帯かしたあと甲州〜信州一帯が家康と北条の草刈り場になった時に(天正壬午の乱)北条と家康の講和条件として信濃は家康、北関東は後北条の切り取り勝手となった結果に怒って自立したものです。
すなわち、真田家は武田家の信州から上州への進出により獲得した東信濃と上州吾妻郡と利根郡だったかの沼田城を根拠地とするいくつかの枝城の支配を許されていた状態で武田家滅亡後、旧武田家領地一括支配として入った滝川一益から本領安堵されたいわゆる地元豪族・小名でした。
武田家滅亡後滝川一益退却後空白地帯となった東信濃に侵攻した北条氏に一旦従ったものの、家康の信濃侵攻に応じて家康に服属していたのですが、家康と北条との講和で勝手に上野国を北条の切り取り勝手と決められても、上州2郡を家康にもらった領地でないので服属条件・本領安堵の約束違反で飲めるものではありません。
止む無く上州の領地を北条に差し出すか、双方に反旗を翻して双方と敵対して滅びるかの瀬戸際で頼ったのがまずは上杉家であり、豊臣家の惣無事令でした。
徳川から北条への上州の領地・沼田城他の引き渡し勧告を拒否した上で上杉と真田が同盟を結んだので徳川家からの攻撃が始まったのですが、上杉の応援と(第一次上田合戦)昌幸の巧みな戦術で何倍もの徳川軍を撃退して、徳川方が攻めあぐねているうちに昌幸が次男幸村を豊臣政権に送り込み、豊臣家直接臣従に成功します。
それまでは配下武将の更迭と謀反に対する制裁は内部問題のレベルで、惣無事令の対象外でした。
この辺は徳川体制下でも同じで、大名が家臣の領地を取り上げたり切腹を命じたり処分するのは大名家内の自由でしたが、将軍家お目見え→将軍直臣までなると大名の自由処分権が制約されたのと同じです。
これによって大名として自立してしまったので、豊臣政権の惣無事令の対象となりましたので、徳川からの攻撃の心配がなくなり後は豊臣政権への出仕を拒んでいる北条との攻防だけ残る状態になっていました。
後北条は武田家の圧迫が亡くなった後、北関東に勢力を伸ばすチャンスと見てジリジリと勢力を伸ばしていて、関東地場大名連合軍との合戦(沼尻の合戦・1584年(天正12年))を制していよいよ北辺の真田領・沼田城を中心とする地域に触手を伸ばすようになったのですが、この時点ではすでに秀吉の四国〜九州征伐が終了していた点が重要です。
秀吉は西国方面の平定に関心があったのでこれまで関東の戦闘にあまり関心を示さなかったので、甘く見たのでしょう。
しかも直接の臣下になっている真田攻撃を秀吉が放置できるわけがなく、総攻撃の決定となりました。
真田昌幸は武田家滅亡〜本能維持の変後激変する信州〜北関東の政治情勢下でうまく生き延びて大名昇格を果たした類まれな政治感覚と戦巧者でしたが、うまく生き延びられたのは秀吉の厚遇があったことによるのでこの恩義を大事にしたことで歴史に名を残しました。
徳川はこの攻防戦を経て真田家の武勇・戦略の確かさを知り、味方につけて損がないと見て、重臣と真田家の縁組を図り味方に取り込む戦略を採用し、真田家はいわゆる豊臣恩顧の大名であるものの、秀吉死後家康必勝の勢いがわかっていたので家督相続者である長男信之を家康側近の娘を嫁にとって保険をかけるなど双方冷徹なプロ対応を取ります。
幸村と大谷刑部との関係や上記上杉との義理などいろんな経緯を踏まえて、関ヶ原の時には家督相続させた長男を家康軍に派遣し、自分は隠居身分となり次男信繁(通称幸村)が西軍につく義理を尽くしたものでした。
ちなみに講談で知られるように真田幸村の活躍で徳川家に信之家が睨まれていたかというと、長男の家系はその後も幕閣で重用され幕末近くには老中にまで上り詰めています。
現在でも総裁選で争って負けた政治家が組閣時に入閣に応じることは、政権を支える意思表示となり現政権に挑戦する意欲を持っている以上は入閣要請に応じないのが原則です。
反主流あるいは批判的意見を主張していても入閣した以上は、鉾を収めて従う意思表示になります。
倒閣運動あるいは現政権の続投を阻止して次期総裁選を戦う以上は、早めに閣外に出て旗幟鮮明にしておくのが普通です。
内閣にいるときに現政権施策に協賛していたのに、閣外に出た途端に現政権の過去の政策批判するのは論理的に無理があるからです。
北条氏は秀吉が関白太政大臣として上洛を命じても応じなかったのは、秀吉を覇者と認めない・挑戦権を放棄しない意思表示でした。
現在一般企業でも社員が病気でもないのに出社を拒む・・学校の場合生徒の欠席が続くなど・不審に思い、同僚上司を使い何があったのか様子を探るのが普通です。
荒木村重が、信長に伺候しないで居城に篭り度重なる同輩の勧告(秀吉配下の黒田官兵衛が説得に赴いて土牢に監禁されています)など伺候命令に応じなかったので謀反の意思表示として総攻撃を受け一族悲惨な結果に終わったのもその一例です。
その頃はしょっちゅう信長のもとに伺候していないと謀反の疑いを受けるので、諸大名は戦線現場から抜け出してでも中間報告と称してまめに伺候するのが普通でした。
気配りに長けた秀吉の場合、中国方面の支配地拡大戦略を任されていた秀吉が自分の戦功が大きくなりすぎる危険を察知して、信長直々の采配による派手な戦勝演出のため備中高松城などの小さな城を地味に落としていくのではなく、水攻めで時間をかけて毛利本軍おびき出し戦略をとり毛利本軍が出てくると「上様でないと」自分の能力ではとても無理なので・・とおだてて信長本軍の出動を懇願して信長をその気にさせたと(小説の世界です)言われます。
このお願いのために肝心の城ぜめを部下に委ねて安土に舞い戻るなど小まめな行動をしていたことがわかります。

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