日弁連と政治2

連合赤軍事件のように学生運動が先鋭化の極致に至ったのは、強制加入とは言えないまでも、自治会費が強制徴収・・・大学が学費等とセットで徴収して自治会に交付する仕組みになっているからだと思われます。
ただし、学生自治会費強制徴収システムは私の学生時代にはそうでしたが、今はどうなっているか知りません。
昔のママとすれば、活動家は自治会内役員の多数派を占めさえすれば、巨額会費を自由に使えるので一般学生の支持をそっちのけに熾烈な自治会支配権を巡る闘争(内ゲバ)を繰り返していたのです。
昭和40年代ころには、いわゆる3派10流とも言われていましたが、今では三派系全学連が主流・内ゲバに勝ち残って?それぞれの大学自治会を独占して現在に至っていると思われます。
(最近はニュース価値がなくなってマスコミが報じなくなったので、実態が一般人には分りません)
◯◯大学は革マル・・△大学は中核となってしまったところでは、その大学に入学した学生にとっては、違う派閥の活動家を選択する余地がありませんから、活動家は一般学生の支持を得るために活動するよりは、対抗する他大学の派閥との闘争資金(労組等への浸透資金等)・・に100%勢力を振り向けることになります。
これでも形式的には毎年自治会役員選挙が行なわれていて「民主的?」に選出されていることになっている筈です。
囚われの集団と言う言葉がありますが、バス乗客その他一定時間逃れられない環境の場合、そこで特定の音楽を流したり政治演説するのはルール違反になっています。
強制加入や強制徴収システムの場合、会費未納や加入率の減少による歯止め・自浄作用がなくなっています。
さらには学内自治や弁護士自治を尊重して外部チェックが抑制されていることもあって、こう言う組織は余程自己抑制しないと大きなダメージを受けるまで気が付かないリスクが生じます。
独裁制は、支持の空洞化が進んでいても外見に現れないのと同じで、強制加入団体の弁護士会では、社会的信用が徐々に蝕まれて行き、取り返しのつかないところまで進んでしまわないかが心配です。
今ある弁護士会の高度な社会信用は、我々世代が営々と築いて来た成果であって今の活動家?が築いたものはありません。
今では、大学自治会(と言っても全学生の代弁ではなく革マル・中核派などの特定集団の意見です)の発言や声明など、社会で何の意味も持たなくなっているのを他山の石とすべきです。
2週間ほどまえには京大構内で内偵中の刑事が監禁される事件が起きたと報道されましたが、これに対する学内自治を楯にした大規模な社会関心を呼んでいません。
大学の自治と警察権力の関係として、昭和30年代初頭には「東大ポポロ劇団事件」があって、我々世代での法律専攻の学生では、誰もが知っている大事件でした。
私は一瞬同事件の再現か?と脳裏をかすめたものでしたが、その後粛々と監禁事件として刑事立件されても社会的騒動には全くなっていません。
最早学生自治・学生運動弾圧と主張しても誰も耳を傾ける時代ではなくなっている・・一般学生自体が「特殊」活動家と一線を画していて京大(教職員や一般学生)が一丸となって学生自治を守れと言うエネルギーになっていないからです。
北大生のイスラム国参戦のための出国を事前阻止出来たのは、地道な内偵活動があったからこそですし、内偵自体を違法と言っていたのでは、(事件が起きる前の内偵することが違法と言うのでは)過激犯罪を事前阻止出来ません・・事前どころか事件が起きてからでも、迅速対応が出来ません。
誤解のないように書いておきますが、内偵活動だからと言って住居侵入して良いか、(証拠収集のために)泥棒して良いかは別問題です。
結局被害刑事がどのような違法行為をしていたか、(入場券を買って入った場合とか公開集会の場合などは違法性がないでしょう)と学生らによる違法行為の程度によって監禁(致傷があったかどうか忘れましたが・・)行為の違法性阻却になるか否かでしょう。
このように純粋な法律論が待っていますが、学内自治支持が社会問題として盛り上がらなくなっている点をココでは書いています。

条約成立後の専門家の役割2

専門家集団の役割と政治について考えてみますと、専門家集団・・地震学会・◯◯学会その他は、特定政治利害実現のために結集したものではありません。
専門家は政治が決めるタメの参考意見を提供すべきですが、専門家は決まった結果をフォローして行くしかない・・条約が出来た以上は、マイナス面を如何に少なくするかの専門的フォローこそが役割です。
地震学会で言えば、原発推進するかどうかは政治が決めることであって、原発にはこう言う危険があるとか、対処方法はこういうことがあるなどと客観的意見を言うまでが仕事です。
原発は危険があると反対したのに原発推進の結果が出た場合、具体的な施行に必要な規則等の制定に地震学者が反対運動しているような動きにあたるのが、国際条約署名後の共謀罪の国内法整備反対論の動きではないでしょうか?
どう言う方向に持って行くかを政治が決めたら、人権侵害にならないように施行規則やガイドラインの整備あるいは証拠法則の適用等の段階で専門家は出来る限りの努力をするべきでしょう。
犯罪の実行行為があってからその前の謀議を割り出して行くのに比べて、共謀段階で検挙してしまうと、実行の外形的準備さえないまま終わってしまうので、本当にそんな計画があったのか、権力によるでっち上げだったのかの区別がつき難いのが確かです。
この種の陰謀で政敵を葬るやり方が、洋の東西を問わず古代から繰り返された歴史です。
我が国で言えば有間皇子の事件や長屋王の事件など知られていますが、(菅原道真のさせんもその一種でしょう)武士の時代以降陰謀によるえん罪はドンドン減って行き、ドンドンなくなって行ったように思われます。
我が国の場合、武士の台頭以降、社会がかなり合理主義的になっていますし、今では証拠裁判主義ですから、古代にのみ存在したえん罪の疑いをそのまま再現するように心配するのは間違いです。
共謀罪を法制化して定義を厳密に決めても、その認定には証拠がいります。
共謀だけで処罰と言うと如何にも内心の意思だけで処罰されるかのような悪印象を振りまいて国民を不安に陥れますが、自分で内心思って考えているだけ・・仮に発言しても相手が共謀に加担しないと成立しません。
他人との話あい・「意思の連絡」が必要ですし、阿吽の呼吸ではなく何らかの意思「表示」が必要です。
※ただし、共謀共同正犯論では、「意思の連絡」と言う単語を使う学説もあればいろいろです。
いろんな説があるとしても、共謀罪は共同正犯構成するのではなく、共謀のみで足りるとすれば、共同意思主体(これの必要説もあれば、意思主体説をとらない説もあります)の成立も不要ですし、確かに共謀の成立要件が少し容易になるかも知れません。
ところで、意思の連絡→意思表示と言っても声に出す必要がありません。
黙示の意思表示と言う民事での概念があって、これを刑事事件の共謀共同正犯事件でも認めた判例が出ていることを、「共謀概念の蓄積(練馬事件)3」Published November 6, 2014で紹介しました。
黙示の意思表示で良いとなれば、共謀の現場に同席しながら、黙って聞いていただけの人が、相手(首謀者)から、「お前これをやってくれ」と言われて声を出して返事しなくとも、そのとおり実行すれば、それは犯行計画に同意したことになるでしょう。
今ではビデオや録音・メールのやり取りその他客観証拠が一杯ある時代です。(15〜16日に書いたように関係者は馬鹿ではないので、こう言うときには当然証拠を残さないようにやるでしょうから・・内通者のいるときだけ有効です。
これに加えて酒席で冗談に言ったこととの区別のためには、会話した場所や状況など共謀に参加するためのある程度の継続的行動記録など客観証拠の裏付けが必要です。
むしろ実行行為やその準備行為に関与したこととの関連で、証拠評価されて行くのではないでしょうか?
銀行強盗計画に関与したかの認定でいえば、何時何分に指定された場所に逃走用の車を用意して待っていたとしても、「何のことか知らないが呼び出されて待っていただけ」と言う場合(末端関与者の場合、謀議が漏れないように用件を言わないでただ待機するように命じることが多い)もあります。
いずれにせよ事前の関与次第等で共謀の有無が決まることが多いですから、継続的な状況証拠の収集が重要で、この辺の詰めをして行くのがプロの仕事です。

条約成立後の専門家の役割1

組織暴力団でさえなければ、(偶発的に集団化した場合・・または一旦解散して別組織にした場合や、本体そのままで別組織を立ち上げた場合などまだ組織暴力団の指定を受けていない状態)犯行計画が分って証拠まであっても、やられるまで放置すればいいと言う時代・・国民意識ではなくなっています。
暴力団だけではなく一般人でも、犯行グループをネット募集するようになった場合に、これが予め分っても彼らが誘拐や殺人を実行するまで放置しておいて良いという社会意識ではないでしょう。
共謀罪の立法化は組織暴力団・テロ集団ではなくとも、第三者と計画した段階に至れば、処罰が必要と言う世界全体の総意が成立した・これは政治決着であって法律家がどうのこうの言うのは範囲外の分野です。
どの集団階層の利益擁護であろうとも、利害集団のために運動するのは、その時点で政治運動分野です。
ですから、法律家である日弁連が組織暴力団をかばっているのではない・・個人犯罪まで処罰するのはおかしいと言う意見だとしても、こうした犯罪予備軍のために何故運動するのか理解不能です。
そんなバラバラの予備軍(予備軍の人はいまは幸せな恋人同士・・またはまだ恋人がいない状態ですから、自分が将来ストーカーになると予想はしないでしょうから、(この段階の人に聞いたらほぼ大多数がストーカーなんて悪いことだと言うでしょう)大した応援団になる筈がありません。
あるかないか分らない支持母体を当てにして熱心に反対運動しているとはとても思えません。
だから、バックの抽象的な人権擁護のために活動していると言うのでしょうが・・。
人権擁護の心配ならば近代刑法の理念に反すると言う抽象論ではなく、どう言う場合に侵害のリスクがあるかを具体的に主張すべきではないでしょうか?
共謀罪が法制化された場合の人権侵害が心配ならば、・・しかし、共謀罪制定は国際条約上避けられないとすれば、法律家は犯罪化の前倒しの必要性にあわせて、共謀の概念定義の緻密化や証拠法則の充実等を提案して行くべきです。
車は危険だとしても、社会に反対しないでガードレールを作れ、信号機を整備しろ、歩車道の区別をしろなど言うのと同じ方式で良いのではないでしょうか?
いわゆる公害企業も同じです。
石油製品生産に反対するのではなく、公害防止技術の発展を期すれば良いことです。
10月30日にちょっと書いたテロ組織「イスラム国」を支持するのかどうかの問題に戻します。
私自身もこれまで何回か書いていますが、西欧が中東やアフリカ地域で現地諸部族の居住地域に関係なく・・と言うよりお互いに反目するように民族を分断する形で勝手に引いた国境線を変更すべきと言う動き自体は当然だと思っています。
欧米が植民地支配に便利なように作った秩序否定の主張を支持したい気持ち・・日本で言えば戦後秩序の否定)とは別に、彼らテロ組織が支配下に入った少数民族を奴隷化すると言う宣言等を見ると、西欧の植民地支配の悪い点を拡大しようとしているようですから、これを支持したいと思う人が少ないのではないでしょうか?
仮にテロ組織「イスラム国」を全面的支持している人がいてもそれはそれで個人の勝手ですが、今この時点で、日本国がアメリカを中心とした世界秩序に反抗することが得策かは別問題です。
中国やロシアも国内異民族による激しい抵抗問題を抱えているので、反テロの動き自体は世界の強国に限らず、独立運動を抱えるインドネシアやフィリッピン、タイあるいはミャンマー等多くの国の一致した動きですから、日本がこの条約の履行を渋ることは、これら多くの国を敵に回すことになります。
国際条約に適合する国内法成立に反対していて、国際的に意見を通しきれるか・・日本が国際政治で孤立しないかのせめぎ合いが国際政治問題であって、日弁連はそう言う政治を決めるための集団ではないので、その判断は政治が決めるべきです。

共謀罪と犯意2

労働分野でいろんな働き方が増えているように社会全体で非定型化が進んでいますので、犯罪認定も定型行為をするまで放置しておけなくなります。
領土侵犯が漁船や不法移民の浸透によるように・・・数十年前から社会問題化しているイジメや虐待、スローカー等も非定型化繰り返しによる新たな分野で、定型行為発生まで放置することは許されません。
中国漁船が単なる密漁か侵犯のデモンストレーション行為かあるいは、避難を装って侵犯目的で上陸したのか、本当の避難行為か・・主観的意図を重視せざるを得なくなるのが現在です。
こうなると、昭和30年代まで一定の勢いを持っていた主観派刑法学の見直し・・復調が始まるし、その智恵を再活用する必要があるかも知れません。
この後で社会防衛思想の復活傾向を書いて行きますが、これも主観派刑法学基礎思想の復調に連なるように思われます。
私が大学の授業で習った刑法の先生は主観派刑法学の先生でしたが、司法試験では客観派の団藤教授の本を基本書にして勉強したので、主観派のことは授業で聞いた以外には詳しく分っていませんが、復活すれば懐かしいことです。
共謀罪法反対論の論拠になっている「近代刑法の理念に反する」と言う意見は、このような客観派と主観派で過去に争って来た論争の違いも下地になっていて、現在主流を占めている客観派から見れば、主観派刑法学・新派の復権が危険だというのが、反対論の論拠になっているのかも知れません。
(今の実務家は、殆どが客観派刑法学の経験しかないと思うので・・共謀罪は近代刑法原理に反するという主張は客観派刑法学の理念に反するという意味かもしません。)
これでまでの司法実務では、共謀罪が出来ても主観要件だけでは認定が困難過ぎることから、昨日まで書いたように実際には共謀罪で立件出来るのは、内通者から逐一の会話録音やメール情報等が入手出来たときなどに限定されてしまう結果、「1万件に1件も立件出来ないのではないか」と言う私のような意見の論拠にもなります。
要は、現行の殺人予備罪同様にもしも証拠のきちんとあるときでも実行するまで待つしかないのではなく、万1証拠のそろったときに適用出来るように法整備して準備しておくだけ・・備えあれば憂いなしと言うことではないでしょうか?
共謀罪は法律自体に危険性があると言うよりは、運用の問題・・実務で濫用が起きないようにする、健全な司法インフラ充実の有無や、弁護側の努力等にかかっていることになります。
個人的犯罪・・ストーカー等や秋葉原事件のような事件では共謀することは滅多にないでしょうが、共謀罪の客観証拠収集にひっかかりやすいのは組織暴力団やテロ組織です。
遠距離移動が多いので、組織人は毎回顔を突き合わせて相談出来ないので、ついメールや電子機器による連絡に頼り勝ちですし、組織多数者間の共謀になるとそのうちの一人でも、精巧な録音装置をポケットに忍ばせておくとこれが証拠になります。
録音機器や連絡メール等電子的記録等にどこまで犯意と言える事柄についての計画=特定犯罪実行の共謀と言える程度の痕跡が残っているかにかかって来ます。
共謀罪制定反対論者は、具体的な犯罪計画があって、その経緯に関する(15〜16日に書いたようにうまく検挙出来る事件が万に1つしかないとしても)客観証拠があっても、計画段階であるかぎり処罰すべきではないと運動していることになります。
犯罪を犯すのは社会弱者?であるから彼らが気持ちよく犯罪計画出来るように運動しているとでも言うのでしょうか?
ストーカーは一方的思い込みも含めて広くいえば恋に敗れた人ですから、一種の弱者に違いないですが、違法行為を個人で妄想する段階を越えて第3者と計画するようになった段階=共謀するようになれば、危険性が高まり、許された一線を越えていると思われます。
個人が思いつきでイキナリ反抗に及ぶのに比べて、他人と共同して行なうようになるとその危険性はより高まります。
組織暴力団員の組織としての犯罪も、社会的弱者が徒党を組んだ結果の一態様と言えます。
全て犯罪者は基本的に社会弱者ですが、(いじめっ子も家庭内不遇その他弱者であることが多いのですが・)原因究明は犯罪を減らすために必要と言う別次元の問題であって、弱者ならば、犯罪を犯しても良いと言う論理にはなりません。
犯罪=処罰と言う社会ルールが古代からどこの国にもあるのは、社会弱者であっても1線を越えれば処罰すべきだと言う世界全体に共通する古代からの合意です。
ストーカー犯罪が頻発している外、秋葉原事件等個人的大事件もたまに起きます。
組織暴力団ではなくとも共謀・・一定数以上の計画に発展した段階では、(秋葉原事件は個人犯罪ですから、共犯者の必要な共謀法では防げません)その計画が証拠によって裏付けられる場合に限って何らかの社会防衛行為の準備が必要です。

共謀罪と犯意1

共謀相手への連絡・意思表示も、その人の過去の意思表示に関する記録媒体(ツイッターやブログ、メール等)が発達していますので、客観証拠のある限度で検挙出来るようにするのが合理的です。
(冗談めかしていても冗談らしい意見を繰り返す中での表現の微妙な変化や相手の反応変化など、単なる冗談から、徐々に犯意が形成されて行き、どの時点で犯意にまで高まったかの区別もつき易くなります)
「犯意」と言えば、学生時代に刑法講義で読んだことがありますが、実行の着手に関して「犯意の飛躍的表動が必要」と言う箇所を思い出します。
(今では重要性があまりなくなっていると思いますが、当時の刑法学では主観説系と客観説系の(新旧両派の)対立が大きなテーマで、主観説系の意見だったと思います)
共謀罪がない場合は、構成要件該当行為の実行に着手したか否かが犯罪成立の必須要件でしたから、実行行為がいつ始まったかの定義が、一定の行為をしたことを前提としながらも未遂処罰との関係で重要でした。
そこでどの段階で実行に着手したことになるのかについていろんな定義があって、私の学んだ先生は主観派刑法でしたので、「犯意の飛躍的表動があったとき」と言う定義を学生に説いていたのです。
その後、戦後の風潮もあって、客観派刑法学が支配的になっていて、未遂に終わるまでの間に行なった実行行為の行為態様そのもので、判断すると言う風潮になって行ったように思われます。
実際に「犯意の飛躍的表動があったとき」と言っても、客観証拠との関係でいえば、何らかの客観行為態様と比較しないと認定出来ないと思われます。
(判決書きには往々にして「ココにおいて・・殺害するのもやむなしと決意し・・・・」定型的書き方が多いのは、・・犯意形成時認定の必要性がある前提です・・。
共謀罪法成立後は、従来の実行行為定義の一部・内包されている(行為には意味が必要とする意味での)「犯意」ではなく、その前段階の「犯意」概念が独立して重要性を持って来るでしょう。
一定の行為があってからの判定では、実際に行なわれた行為態様が認定されるので、そこから後追い的に判断出来ること・・客観説や実質的行為説が可能でしたし、合理的でした。
共謀罪が独立の犯罪となって共謀罪だけで独立して立件するには、共謀と言う実行行為が予定されますが、従来型の殺人や傷害のように分りよい実行行為がないところで、犯意認定するしかないことになります。
例えば放火や殺人あるいは窃盗であれば、ココまでやれば◯◯罪の実行に着手したことになるという類型化が積み重ねられています。
ある行為が構成要件該当行為か否かの基準については、定型説(私はその学説が良いと思ってこれによって刑法を理解して受験しました)などがありますが、共謀罪になると事件類型ごとの共謀形態と言う概念構成をして出来ないことはないかも知れませんが、かなり無理があるように思えます。
しかし、共謀罪の実行行為とは共謀行為をすることですが、放火の共謀と殺人や強盗の共謀とを外形的に類型化出来るような違いがあるかをココで問題にしています。
あるとすれば、犯罪類型ごとの共謀類型と言うよりは、全てあるいは一定のグループ的犯罪ごとに共通する共謀類型が研究されているかも知れません。
いつも書くように私はこのブログは暇つぶしに書いているだけですので、専門学者の間では、共謀罪を作った場合、構成要件該当行為をどう決めて行くかの議論や研究が進んでいるかを知らずに想像で書いているだけです。
定型説に限らず、客観派刑法学では何となく構成要件該当行為をどのように判断するべきかを予め机上の議論で客観的に決めて行くのは無理が出て来そうです。
(永久に客観化出来ないと言う意味ではなく、判例・事例集積による事後的な基準造りしかないのではないかと言う意味です)
戦争が国家間で決まった定型行為から始まっていたのが、今では漁船の大挙領海侵犯に始まり、サイバーテロや各種テロを見ても分るように非定型化こそが、現在の特徴です。

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