差異化社会2と多様な価値観の復権1

高齢者が自己の能力減退を見定めて生きているように、若者(中高年)も自分の将来の到達点を見定めて、老人並みに達観する能力を磨くことも重要です。
とは言うものの、若いときの特権で能力以上の遠大な夢があってこそ・・一見無謀な挑戦が成功することがあって、社会活力の源になるのであって「俺の将来こんなもの・・」と中学・高校時代から全員諦めている社会がどうなるかの心配もあります。
大方の若者が自分の能力に応じた選択して、たまに元気な若者が、夢に挑戦出来る社会・・・失敗すれば気を取り直して、別の方向へ転換出来るシステムが理想的かも知れません。
フランスその他の移民社会では、アラブ・アフリカ系移民2〜3世が将来の展望なく成人になって行く・・テロ予備軍になるリスクが、今になって重大問題になっています。
独仏等のアラブ系移民2〜3世のテロ予備軍は、本来能力(素質)がある子供もいるのに,移民したばかりの経済格差や言葉の壁などの外部要因でマトモな教育を受けられないことによる絶望的状況・・格差拡大・固定です。
難民の場合有能な人も交じっていますので、政策次第で何とかなる人もいますが、初めから現場労働目的で入って来る階層の場合、千年単位の文化継承が違う上に形式的知能指数基準でもいわゆる落ちこぼれ系中心になります。
代々の日本人でも社会の高度化について行けない人材が下から順に増える一方でこれをどうするかの問題に直面しているのに、日本語の通じない・家庭教育の習慣のない親に育てられた異民族2世の場合なお大変なことになります。
少年事件では(外国人)親が風俗系で働いていて朝方まで帰って来ない・・すぐに寝てしまうので弁護士の方から連絡出来るのは出勤直前の夕方しかない親がいます・・。
審判の結果自宅に帰れることになっても、親は寝ていて迎えに来られないと言う子もいて、その間事務所にいなさいと言うこともあります。
日本人の場合子供が事件を起こした審判となれば万難を排して親が出席するのが100%ですが、・朝起きられないからと言って、審判に立ち会いもしない・・行っても結果は同じと言えば同じ・・文化の違いに驚きますが、それは別として・・親が夕方からいない子供の家庭教育はどうなっていたのか?
最近学級に移民2世向け会話出来る教員配置の必要性などが言われていますが、社会にとって大変な負担になる割に大して効果のないことが明らかです。
私はこう言う結果になるのが分っているから、低賃金労働者受け入れの移民はやめた方が良いと言う意見を、古くは13年前の01/05/03「外国人労働力移入 2(人口減少賛成)」前後の連載で書いたのを手始めに、11/10/05「市場競争と脱落者のケア2(フランスの移民の暴動)」その他で繰り返し返し書いてきました。
目先労賃の安い労働力を利用すると、次の世代で膨大な負担と社会不安を引き起こし、大きな付け払うことになります。
独仏の移民政策の失敗・・目先の低賃金労働者確保目的でも移民導入政策間違っていたこと・・日本が人手不足代替のロボット大国になった成功を論じるべきで、ここまではっきりした段階で(独仏の移民受け入れ失敗→テロの恐怖に怯えているのを無視して)日本の難民受け入れが少ないとか、移民受入れ拡大主張を展開するおかしさには驚くばかりです。
ただし、日本では、偏差値その他で早くからスライスされ過ぎているので、早くから現実に目覚める・・夢を失った若者の続出は、(独仏等の移民2〜3世のように直ちにテロ予備軍にはならないでしょうが、)能力の低い若者が早くから閉塞感を抱くのをどうやってケアするかを検討する必要がある事は確かです。
人間に能力差がある限り優勝劣敗が起きるのは不可避ですが、これをいつどの時点で知るか,転換の容易さやどんな職業も尊敬する社会か否かによって、達観出来るか自暴自棄になるか、精神科医の世話になるか,原理主義宗教・テロ組織に入るかが分かれます。
自分の能力限界や適した方向性を早く知った方が不適性な方向へ間違って進まないで済むし、無駄な努力をしなくて良いので、1面では合理的です。
40歳まで挑戦し続けてやっぱり無理だったと諦めるのと、10台で諦める・・自分の限界を知るのとでは、効率性や衝撃度が大違いです。
教育界が多様な人材が必要と教研集会などのテーマにしながら、画一基準で選別教育していることについて、02/05/07「多様な人材の生きていける社会へ1」以下で批判した・・その他でも折に触れて批判してきました。
唯一神を基本とする社会・・画一的価値観の西洋から導入された学校基準に毒された(知育偏重基準のより上位を目指す)無理な挑戦にこだわらないで、出来れば早く方向転換した方が良い人が一杯いる筈ですので、早めに進路選択を決めた方が良いのは確かです。
進路選択が仮に早く決まるとしても、自分は東大や超1流大学は無理で、そこそこの大学しか行けないと分っても、その程度のことで人生に絶望し、自暴自棄になる人は少ない事は誰でも分ります。
ここで強調したいことは、偏差値基準の単線的上下格差を固定する進路選択ではなく、偏差値最低レベルの高校でさえもついて行けない子供でも、多様な価値観・・植木職人やトビ、ペンキ、基礎工事等々・・小さなものを終日根気よく磨き上げるのが好きな子供もいることです。
従来型ルートから外れてもアップルで有名なジョブスのように大成功する人がいる・・こう言う可能性を言うのではありません。
ジョブズの場合は、従来型単線的価値観の達成を前提にその目標に達するための別ルートに過ぎません・・。
私の言うのは到達点自体の多様性です・・路地の片隅の居職人のママまで、最後までこつこつとやって一生終わって行くことで満足する人が一杯いる・・日本では昔からこう言う生き方を尊敬する社会です。
日本古来からの伝統である多様な社会・・あらゆるものに神宿る・・多神教の社会を取り戻そうと言う意見です。
大きな神社も、寒村の祠も大切にする・・いろんな道具や物品・生き物まで◯◯の神様△の神様としてそれぞれ大切にお祭りする社会です。

人生を味わう2

日々限界に挑戦しているスポーツ選手などは、以前より多く練習してもそれぞれの分野で選手寿命の限界があるのを誰でも知っていますが、凡人の日常生活は限界に挑んでいない楽な生活をしているから,体力の下り坂に入ったことが分り難いものです。
あと一歩も歩けない程、限界まで歩く人や寝不足や大食いの限界に挑戦する人も滅多にいないので、凡俗には限界値が下がっていることには気づくチャンスがありません。
厄年とは、普通の人は体力の下り坂になる転機に気づかずに従来とおりの生活をしていると、転んだり病気するよ!と言う戒めです。
この程度のことは、誰でも知っていますが、理屈が分るだけで、実感を伴わない・・限界能力の3〜4割しか使っていないつもりがいつの間にか限界の8〜9割に迫っているのに気が付かないからこそ(疲れが溜まってしまう・・)「転ばぬ先の杖・気をつけろ!」と言う厄年の教えなのでしょう。
無意識でいろんな厄年をくぐり抜けて来た私のように鈍い人間でも、70歳を過ぎると日常生活で日々体力・能力の衰えが目につくので、(具体的にどこかからだの具合が悪い訳ではないですが・・)寿命が細り始めているのを身近に感じるようになります。
厄年以降、体力が下り坂になってからの負けん気の発揮は、無理するとつまづいて転ぶだけですから、徐々に能力がゼロに近づいて行くのを従容として受入れて行く・・これが高齢者が自然に身につけて行く達観力・・特技と言うべきでしょう。
イヌを飼っていましたが、犬も高齢化して寿命が近づいたときには、私よりもずっと達観した顔をしていました。
能力の下り坂を口惜しいと思って「何を!っと、頑張れないのが可哀相」と思うのは将来のある若い人の発想で,高齢化するとこの先に良くなる未来がない代わりに「終わり」に近づくことを達観して行く過程・味わう能力が身に付いて行くのが不思議ですし、楽しいものです。
これから草木の萌えいずる春も良いですが、枯れて行く秋の夕暮れも良いと言う違いです。
古来から「秋の夕暮れ」の味わいを讃えている詩歌がいくらもありますが、この境地を表してるのでしょう。
悟りの境地などお釈迦様または特別な高僧でないと無理かな?と思っていましたが、図らずも高齢化して日々能力低下の進行を実感し、これをそのまま受入れる境地になって来ると、悟りに近づいていると思われていた昔の高僧は大方高齢者だったことが実感出来ます。
特別な人格者の悟りの境地とは内容・レベルが違うでしょうが、年さえとれば、凡俗も犬猫も皆「死」に向かって、おのずから悟りに近づくようです。
その気になって、周りの高齢者を見るとみんな元はどうだったと言わずに、弱くなった立場・・自分の体力気力の衰えをそのまま受入れて,・・、人の世話になればそのまま弱者として感謝して生きているのに驚きます。
これを惨めと言うか悟りに近づいていると言うかは、人の気持ち次第です。
老化を知って「惨め」と思う人は年齢進行に抗ってスポーツジムに通ったりして、「若い者に負けないぞ!」と頑張るなど人それぞれですが、私は(「己を知る」などと言い訳して)易きに就く方・・「年寄りの冷や水で鍛える」などもっての外ですから、秋が来たら早めに腹巻きするなどお腹を冷やさないようにしています。
易きに就く私の生き方からすると、元気に働いていた人が、(現役で)イキナリ亡くなると「可哀相」・・寂しいと言うのは、秋から冬に掛けての味わいを楽しむ期間がなくて、・盛夏にイキナリ「終わり」が来るのを勿体ないと言う意味かも知れません。
他方最後まで元気印の生き方を良しとする人は、「最後まで現役ですごい!と言う評価になるのでしょう。
私流の価値観では、お芝居でも音楽でも起承転結があるように、途中で幕引きになるのでは物足りないように思えます。
歌舞伎の1〜2幕だけ見る人もいますが、理解力が高いから理解出来るのかも知れませんが、私のレベルではやはり3〜4時間ものならば、3〜4時間かけてみた方が良いと思います。
ベート−ベンも「じゃじゃじゃじゃジャーン」と言うところまで聞かないと聞いた気がしないのが、凡人の辛さです。
今年は、元旦に書いたように悟りの境地の入口に立ったように思う自分に驚き、且つこれを味わえるようになった自分をほめながら,今後人生を味わい・楽しい1年を過ごして行く元年にして行く予定です。
ただし、若いときに自分の能力の限界を知るのはどうか・・悟っていられるかと言う別の問題がありますから、若い人にはこう言う生き方を勧めてよいかどうか分りません。
・・悟ったフリと言うか能力縮小・・最後にはゼロになることを自覚して気にならなくなるのは、下り坂に差し掛かった老人の特権・・生きて行く智恵と言うべきでしょう。
若いとき・・まだ上り坂の途中にあると思っている時期には、「これからは、下り坂しかありません」「達観しろ」と言うのは無理がありそうです。
(それぞれの能力に応じた目標としていた)登山に成功して、これから景色をゆるゆる眺めながら足下に気を付けて下りましょうと言うのと、目標途中で登山を諦めて下りましょうと言うのでは、意味が違います。
先のあるときには他人に負けるのに我慢出来ない口惜しさ、あるいは絶望は・・負けっぱなしでは将来が不安ですから当然の反応であって、これが向上力のバネにもなるし正常な気持ちです。
私たち老人の達観力?を若者が急いで真似する必要はありません。
達観や悟りの境地は高齢者のものですから、今年も若い人は悟らずに?頑張って前に進んで下さい。

米中の親和性と日本文化の隔絶2

これに対して中韓は、慰安婦攻勢や南京虐殺に日本が反対するのは、アメリカの戦後レジームに対する挑戦・・「アメリカに対する反抗と同じ」と言う旧来型論法で慰安婦攻勢や南京虐殺宣伝で反撃を強めました。
日本としてはアメリカに対してある程度不満があっても、(日本が世界のナンバーワンを目指すことが出来ない以上は)中国支配よりはアメリカの方が良いので、パックスアメリカーナ自体に挑戦しているものではありません。
むしろパックスアメリカーナに対して正面からの挑戦姿勢を示し始めたのは、中国の方であり、これにすり寄った韓国の方でした。
中国が尖閣諸島一点突破を図ればまだ道があった・・日本も苦しかったのですが、中国の対日暴動その他は国内矛盾激化をそらす方策の1つでしかなかったから、日本の思わぬ反撃にたじろいでいると国内政治が持たないので、今度は抵抗力の弱い西沙南沙諸島に目を向けざるを得なかったと見られます。
この作戦変更は相手が弱くて無抵抗なので、簡単に既得権の確保をしつつありますが、中国の周辺国の警戒感を生み、膨張主義と言うレッテルが国際的常識になって来たことと、アメリカもまだ世界の警察官役を完全にやめたとは言えない以上、この膨張主義を放置出来なくなりました。
このねじれ現象が日本に幸いして、このまま尖閣諸島や南沙諸島を中国にとられてしまうのでは大変だと言うアメリカが(目先の)価値判断に傾きました。
尖閣諸島に中国の基地が出来ると太平洋に中国潜水艦が自由に出入り出来る・・アメリカの安全保障上も座視出来ませんので、「戦後秩序を見直したい」と言う基本姿勢の安倍政権を潰してしまう訳に行かず、占領政治の批判さえしないならば・・と言う範囲で、アメリカが「当面」日本の応援をするしかなくなったところです。
イラク侵攻以降、世界中でアメリカのやることなすこと評判が悪くて信用ガタ落ちで、反米感情が広がる一方になって来たこともあって、唯一アメリカ支持を続ける日本をむげに扱うことが出来なくなって来たこともあります。
世界的に見れば西洋や中東諸国での反米感情が凄まじいものがあって自信を失って世界の警察官ではないと言い出したのですが、東南アジア諸国では、まだ反米感情がそれほどではないので、東南アジアではまだ権益を守りたいし守れるだろうと言うのがアメリカの本音で、アジア回帰と言い、アメリカ中心経済圏TPP構築に乗り出したのです。
TPPを意味あるものにするには日本参加が必須でしたし、この辺は、補完勢力としての日本の重要性を、2014/02/22アメリカの指導力16(引き蘢りのリスク5)ころまでと〜May 4 2015「覇道と日本の補完性1」まで書きましたが、話がそれていますので「補完2」以降は来年始めころのコラムに先送りになっています。

米中の親和性と日本文化の隔絶1

23日の続きです。
日本民族は西欧近代で民族主義が始まるずっと前の古代から・・白村江の海戦敗北以降日本列島を上げての列島防衛意識の高まり・・列島人一丸として戦う前提で、国家体制の再構築(大化の改新)に邁進し、防人制度も創設しました。
卑弥呼の頃には、それぞれがバラバラに交易していて今のような民族意識はなかった筈ように習いますが、(交易用に代表団を結成しているうちに一体感が出来たのか?)長い交易期間を通じて列島人と半島人と気質の違いを実感して来て「自分たちとあいつら」の区別がしみ込んでいたからでしょうか?
文字を残した中国の史書だけを基準に考えて来た従来の歴史学から見れば、日本列島は卑弥呼のこの頃にはまだ未開の地域ですが、考古学が発達して来ていろんなことが分って来ると・・1万年前後遡ると、列島の縄文文化の方が進んでいた可能性すら分ってきました。
何もかも大陸から伝来したのではなく、逆に日本の工芸品?が大陸にわたっていた様子・・遠慮して言えば可能性が出て来たのです。
このように歴史は魅力一杯ですから興味が尽きませんが、縄文時代から植林するなど循環型社会が根付いていたことが既に知られているように・・これが佛教の輪廻思想が根付いた所以です・・循環型になると環境重視→同じ環境を利用する共同体意識が強力になります。
日本の場合、外敵と戦うための民族意識強調と言う政治目的による根の浅い概念ではなく、環境重視=共同体意識が縄文時代から自然発生していた・・その後水田・・灌漑社会になって、より共同体意識が強固になって行ったことが今の西洋流の民族意識の母体になっているものですから、西欧で言い出した民族意識よりも歴史が古く基礎がしっかりしています。
ゴーストタウンにして街を棄てて行く・・居住地域を結果的に砂漠化させて移動して来た世界中の有名文明の跡地とは心構えが違っています。
・・アメリカや中国(公害を除去しないで、北京を棄てようとしています・・)の生活意識では、先祖代々繋がるような共同体意識が育ちません・・そこで、権力維持のためにアメリカでは国旗を振りかざして国歌を歌う程度の皮相な愛国心の強調の場合、いつも外敵が必要です。
平和のためと称して、アメリカは戦争ばかりして来たことを見れば分ります。
西欧の民族意識強調は、ナポレオン戦争遂行の必要のために生まれたもので、日本のように共同体・・環境や動物愛護意識から、自然発生的に生まれたものではありません。
運命共同体意識の強さに比例して、よそ者の参加にはハードルが高くなるの当然です・・インフラ整備に参加していない人がイキナリやって来て無償利用出来るのでは、代々の積み重ねで築き上げた環境を他所から来た人にただで利用されることになります。
何かの行事をみんなで苦労して盛り上げて来たときに、全く手伝わなかった人がハイライトのときだけ参加して大きな顔をされたらしらけるのと同じです。
環境に関心の低い・・格差社会の国が、「よそ者を低賃金労働に使えれば良い」と言う計算で受入れるのとは訳が違います・・日本人は一緒に住む限り平等前提で、格差や奴隷制度を前提に低賃金労働者を受入れることが出来ません。
防人は・・東国人中心に編成されていた・遠くの九州の防衛に協力させていて破綻しないで、機能していたことが驚きです。
一般に東北地方の服属は、征夷大将軍坂上田村麻呂の遠征によると言われていますが、大化の改新のころには既に東国(と言っても岐阜県以東?)からの防人派遣がさしたる抵抗なく?(万葉集等に出て来るだけで歴史書に出て来ないだけかも?)行なわれていたことになります。
危機が治まれば民族意識は鎮静して平和主義に徹して柔弱そうに見えますが、中世での蒙古襲来時の団結力・・幕末ペリー来航時の庶民に至るまでの国防意識の高まりなどなど、民族防衛意識は世界一高い民族性です。
民族を守るために命を投げ出す覚悟のある日本民族の強固な意識は、民族の一体感より一族の利益を守る意識中心の中韓等民族意識がまだ1つハッキリしない国では、理解を超えた状態ですから、マスコミ中心に流布している非武装論を日本人の脆弱性と誤解してしまったように見えます。
日本人は腰抜けばかりになってしまったから、一撃を加えればすぐに折れてしまうと甘く見て攻撃強化を始めたのが中韓両国の失敗です。
(ロシアは日本が怒り出すとすぐに引いてしまい対日友好外交に切り替えたのは日露戦争の教訓があったからでしょうか?)
変わり身が早いと言うべきですが、・・日本人からみれば、日本の弱みに付け込んだ先の不可侵条約違反→シベリヤ抑留と二重写し・・ロシアは日本が弱ったと見れば何をして来るか分らない国と言う記憶を呼び起こしてしまうマイナスに気が付かないから、露骨なことをするのでしょう・・。
(ロシアは国の歴史が浅くて目先の損得しかない・・最近のプーチン氏のやることは一見うまく行っているようですが、(ウクライナ侵攻・クリミヤ併合、やシリア介入・トルコ威嚇等々・・)相手の弱みに付け込むだけで、あまりにも見え透いていて子供みたいです)

憲法改正・変遷3(社会党の憲法解釈変更)

政策論争に負けた方は今後負けないように政策内容をレベルアップする方に努力するのが本来のあり方です。
スポーツ選手が試合に負けた場合、更なる精進努力をしないで、相手の悪口を吹聴していても却って信用を落とすばかりです。
政策発動の妨害目的・・時間稼ぎ・・訴訟でいえば、遅延工作は弁護士倫理違反と言われるように、政治家も政策討論で決着がついたことについて、揚げ足取り目的で法廷闘争をするのは政策遂行を妨害するのは邪道で政治家倫理にもとることになります。
この手段を権力者が利用した場合を見れば明らかです。
韓国大統領の動静を報じた朝鮮日報の記事を引用報道した産経支局長を刑事立件したことが騒ぎになりましたが、自己の動静を誤って報じられたならば言論空間で争えば良いことであって、権力者が場外乱闘に持ち込むのは正当な政治活動の域を超えた民主主義の破壊行為です。
一旦被害者になり弱者の立場になれば、何を言ってもやっても良いと言う風潮が(特に韓国人には)顕著ですが、政治家のやっていることが本筋を外していると長期的には国民の支持を失います。
ところで、自主憲法を認めない立場ならば、社会実態調査不要・・欧米ではこうだと言う観念的議論も可能ですし、国連勧告が大切・・この立場からは国連調査団報告に重みをおく立場が導かれます。
何かあるたびにテレビに出て来て、「欧米では・・」と言う意見が、昭和40年代初頭ころまで、マスコミでハバを利かしていました。
司法権が日本の国益を総合勘案して判断するべきとした場合、国内実態の判断では足りずに国際情勢全般に目配りして判断する必要のある外交のあり方を判断するのは無理があるので、日米安保条約の合憲性に関して統治行為論が出て来たのです。
どこの国と組むかを含めて司法が介入出来ないと明白な判断が示されている砂川事件大法廷判決を前提にすれば、条約内容の決め方・・どう言う段階で相互協力するかの細目協定まで司法が介入すること・・すなわち憲法違反かどうかの判断することは不可能です。
まして司法権でもなく実態把握能力に何の保障もない机上の議論しか経験のない、(国際情勢・国家機密情報を総合判断必要があります・・判断能力の担保もない)学者が、集団自衛権関連法案を憲法違反だと合唱すれば、特別な意味があるかのようにマスコミが大きく取り上げるのって、上滑りの感じを否めません。
仮に元裁判官で事実認定経験のある人でも、国家機密等を入手出来ない在野人になっていれば、国際情勢に関する情報を総合判断して条約の必要性を判断するのは無理があります。
我々実務経験のある弁護士でも、他人のやっている事件を軽々に判断出来ないと言うのが常識です・・弁護士仲間をかばう意味ではなく、訴訟でどう言う証拠が出ているか・これに対する裁判所の反応どうであったかなど総合しないと判断出来ないからです。
繰り返しますが、憲法は日本のためにあるのですから、日本にとって必要かどうかが合憲、違憲判断の分かれ目であって、日本の国益を離れた憲法解釈(・・例えば中国の利益になるための判断)は許されません。
日本の社会実態を見極めて憲法内容を判断して行く方式の場合、憲法違反かどうかを見極めるのに時間がかかるように、改正する必要があるかの判断も時間がかかります。
社会実態の変遷をじっくり見定めることを省略した憲法改正など直ぐに出来る訳がないことを前提に、「改正が先だ」と「百年河清を待つ」ような議論をしていると、必要とされている現実の政策対応が全て間に合わなくなります。
15日に砂川事件判決の田中長官の補足意見を紹介しましたが、憲法論を言い出したら何でもそうなりますから(非正規雇用も平等原則違反だから憲法違反だとか、消費税問題も弱者にきついから憲法違反と言う主張が可能です)全て憲法違反と言っていれば、約10年かけてその裁判の決着がつかない限り何らの政治決定も出来ないと言う論法は無理があります。
要するに憲法論・・護憲勢力の主張は、なんでも反対の社会党が政策論争で負けたことについて、憲法違反のレッテル貼りすればいいと利用していた便利な論理でしたが、これで国民の信用をなくしてしまいました。
政治家は政策の優劣で競争すべきですが、旧社会党は筋違いのことをやり続けたので信用をなくして行ったと思われます。
私は革新系と言うのは、社会の進歩に反対する超保守の集まりであると書いて来た所以です。
社会党は世上「何でも反対・・」と言われていたものの実は賛成する分野もあったのですから、政治と言うものには、利害集団がバックにあるものと言う前提で考えると、政策対応が停止することによって利益を受ける集団があることが分ります。
これを前提に分類すると、日米安保反対、自主防衛反対、グリーンカード反対、指紋押捺制度反対、防犯カメラ反対、通信傍受反対・・秘密保護法反対・・等々、産業的には空港建設反対、原子力発電反対、公害反対・それぞれ名目があり、結果的に日本のために良かった分野もありますが、概ね目先の目的を見れば、日本の安全保障に反対であり、経済が発展する疑いのあるものには全て何でも反対していたように見えます。
憲法論に持ち込んで思考停止を要求する勢力の目的とする方向性も共通です。
集団自衛権の可否について内容の議論を拒否して、・・「憲法改正するまではそんな法律は許されない」と言うばかりでは、現実政治向きではありません。
これまで書いて来たように憲法は、イキナリ改正すべきものではないし簡単に出来ないのが分りきっているし、しかもその主張者の多くが護憲勢力を標榜しています。
既に社会党が放棄した「何でも反対」路線の蒸し返しを民主党が憲法違反と言い換えているだけですから、思考方式としては、砂川事件判決で六十年まえから「自主防衛が許される」「防衛のために安保条約を結ぶのは合憲である・どこと組むべきかその内容について、司法権が介入出来ない・・立法府の専権行為である」と言う歴史的解決をすませている現実を無視して、蒸し返している点では、韓国が条約で決着がついたことを、もう一度蒸し返しているのと同じ思考方式になります。
但し社会党がこれ・・自主防衛権・自衛隊合憲・安保条約合憲を認めたのは、村山内閣になってからですから、国内的に大筋の決着がついたのは、まだ最近のことです。
2015年12月9日のウイキペデイアによれば、以下のとおりです。
村山内閣
総理大臣在任中[編集]
1994年7月、第130回通常国会にて所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した(後述)。

社会党の年来の主張は、自衛する権利もない・・強盗に襲われても抵抗する権利がないと言うにひとしい、砂川事件判決後約40年間も最高裁判決を無視して非武装論をずっと主張していたことが分ります。
実務に関係しない学者ではなく、現実政治を担うことを目的とする政治家の集団が非現実的主張を続けていて一定数の支持があったこと自体、マスコミによる実力以上の援護報道が利いていたことを推測させます。

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