高齢化と社会保険の赤字2

もしも、生存期間が長引いたので医療費がかさむと言うならば、受益に対する(若いときから)保険料が低過ぎることになりますから、受益に見あった保険料引き揚げの議論をすべきことになります。
年金の場合には、「世代間扶養」だからと散々宣伝されて、各人の掛け金合計と比較する議論が封殺されていますが、その余波?で健康保険にも何となくその議論が関係あるようなムードで、各人掛け金合計と利用額の比較対照表作成が回避されています。
保険制度は、生命保険・自動車保険でも、火災保険でも、世代間扶養ではなく現在加入者間の相互リスク分散関係ですから、世代間扶養のへりくつで?収支を明らかにする必要がないと主張するのは制度意義からして無理があります。
そこで、年金の世代間扶養論を大大的に宣伝しておけば、大方の国民は各人別の収支明細など要求出来ないんだと思い込むのを期待している戦法のようです。
誤解するのは国民の早とちりであって、政府はそんなこと一回も言っていないと言えます。
19日ころに紹介したようにネットで見る限りでは(古い新聞を探し切れないので直ぐに検索出来るネットに頼ることになります)健康寿命と寝たきり開始とは関係があるかのように宣伝していますが、批判されれば、政府もマスコミも「そのようにズバリ言ったことはない」と言えます。
如何にも年金同様と言わんばかりに宣伝だけしておいて「誤解するのは国民の勝手です」と、健康寿命と寝たきりとはストレートの関係がない・年金の世代扶養と保険とは「関係ないことですから誤解しないように」と言うアナウンスは一切しないで黙っているのでしょうか?
ま、そんな議論は無駄と言う意見もあるし、有用だと言う意見もある筈ですからオープンな議論の場を提供するためにも基礎データを公開すべきです。
有用かどうかは客観データを開示した上で、民主的に決めて行くべきであって、政府が初めっから無用だと言って、(赤字の宣伝だけはしているのに・・)データすら作成しないで公開しない方が怪しい話です。
昔は1000年ほど前のトイレ跡などただ汚いだけだったのですが、今になると考古学的に有用な資料として未消化の種などの研究で何を食べていたかなどの研究が進んでいるのは周知のとおりです。
違った見方をする人には有用な資料になることがあるのですから、政府が必要と考えるかかどうかの基準だけではなく先ずは基礎データを作成して公開すべきです。
世代間扶養制度であるから、個々人の収支合計の計算する必要がないかのようなイメージ流布して、何のデータも公開しないのは何となく誤摩化しっぽい気がします。
保険制度が相互扶助の思想・・信頼を基礎にする以上は、統計的処理・計算によるとは言え、個々人1生の掛け金合計と受益の相関関係を無視しては成り立ちません。
「民をして知らしむべからず,依らしむベし」と言う政治理念ならば、仕方ないですが、民主社会である以上は死亡年齢別の収支を公開して合理的説明をすべきです。
その前提として毎年一定時期に「あなたのこれまでの掛け金合計が◯◯◯円で,これまでの医療給付金合計は△△△円で差し引き何円の残金・・または、マイナス何円」と言う収支表が毎年送付されて来た方が分り良いです。
あまり医療費を使わずに掛け金残の方が多い人は、自分が「世の中の人に良いことをしている」と言う満足感を得るでしょうし、マイナスの人は世間に感謝する気持ちになるでしょう。
毎年利用明細を送って来ると、自分が1年間にどれだけの医療費を使っているかの自覚にもなります。
透析その他天文学的高額医療の継続利用者としては、保険で認められている以上は、「無償利用する権利がある」と言う気持ちかも知れませんが、毎年または毎月こんなにも高額医療費を国民の善意で受けていると言う感謝の気持ちが沸くような制度設計にすべきです。
無償利益・サービスを受けている場合、提供者が誰か特定しなくとも、不特定多数の人に対して有り難いと思う気持ちを持つべきです。

高齢化と社会保険の赤字1

何でも高齢化や少子化による赤字と言う決まり文句でマスコミが報じていると、本来の問題の所在・・解決策を誤ります。
落語家の柳亭痴楽の綴り方教室で「・・郵便ポストが赤いのものみんな私が悪いのよ!」と言うセリフが1世を風靡したことがありますが、今は「高齢化が原因」と言えば免罪符になって全て議論停止の状態です。
医療機関の発達した現在では、人生最後の一定期間、医療関係の世話になるのは高齢化社会に関わらず同じです。
例えば40歳で亡くなる人も50歳で亡くなる人も皆病気や大怪我で最後を迎える以上、最後の一定期間医療の世話になる点は寿命の長短に係わらず同じです。
逆に若いトキからの難病で数十年医療機関にかかりっぱなしの人や、4〜50歳台で重病にかかって死亡した人の方が、生存維持に必死ですからいろんな高額医療に・しかも(透析その他)長期間精出す可能性が高いように思えます。
私の母が100歳の祝いをした(時には和食のコース料理を1人前に平らげて、健啖ぶりを発揮していたのですが・・)翌年あたりに胃腸の間にガンがあると分ったときには「放っておく方が良い」とになり、胃腸の間にステントを入れる簡単な手術をしただけで退院し、これと言った治療をしませんでしたから,高齢化したからと言うことで特別な医療費を使っていません。
高齢化すると最後の医療は却って簡単・少額かもしれないが、90〜100年の間に何回も医療を受ける関係がありますが、(年に数回程度の歯医者通いも亡くなるまでの合計では数十回に増えます・・)その代わり保険料を払う期間も長くなります。
寿命が延びると医療費のかかる期間も延びるでしょうが、その代わり労働期間・・納付期間も延びているので、私の場合既に大卒後約50年も払って来ていますが、今後まだまだ支払が続いていきます。
(いつまで払うのか調べたことがないので知りませんが・・仕事を辞めたら払わなくていいのかな?年収ゼロになっても納付義務がゼロになるのではなく最低の基礎的金額の支払義務があるのかも知れません。)
例えば30年間保険料を払った人が、最後の数ヶ月いろいろ病気するのと、私のように約50年以上も払って来て最後に(30年間払って死亡した・寿命の短い人よりも)仮に一ヶ月ほど余計世話になったとしても、これを比較したらどちらの方が、保険財政負担が大きいかの疑問です。
例えば、若い頃には、平均5年に数回の医療費支払が従来生涯に6回だったのが、寿命期間が延びて7〜8回の受診に増えてもその分保険料支払い期間が増えるのでこの収支は同じである筈です。
ただし、若いときには5〜10年に1回程度だった受診が70歳を超えて年数回〜10回になって来ると年間の支払い保険料も数倍から10倍にして行かないと計算が合わないような印象です。
ところが、逆に高齢者の保険料負担が軽くなっていて、しかも自己負担率も下がるのでは保険の原理からして逆張りです。
世代ごとの計算では、75〜80台になって来るとその年に払った保険料よりも多く使う人の比率が増えるでしょうが、その理屈から言えば若い頃には、保険料も数年に1回しか払わなくて良い制度にしていないと話が合いません。
若い頃に全然医師にかからないで保険料だけ毎月納めて来た普通の人にとっては、70台になってその年に払った保険料以上に年数回〜10回程度医者に行ってもいいじゃないかと言う気持ちになっている高齢者が多いと思います。
失業保険を60歳まで掛けた人が60歳になって失業保険を貰うときに、退職直前1年間の掛け金合計限度しか失業保険がでないと言われるような気持ちがします。
(それじゃ何のために何十年も払って来たのだと言う気持ち・・)
高齢化の所為で赤字になっていると言うならば、我々世代の生涯合計掛け金と、使っている医療費の比較を集計して公開して欲しいものです。
健康寿命の定義で19日に書いたように、生涯医療費を算出するには厚労省の調査は合理的だと思いますので、この調査結果を活かして、死亡年齢別の生涯医療費と生涯支払保険料額の収支表を公表して欲しいものです。
例えば、昨年の死亡者年齢別表を作ってその死亡者が過去に使った医療費・・支払った保険料の収支表を作るには、50歳の人が死亡した場合・・50年遡ったデータがいります。
仮に今はまだ遡れる記録が5〜10年前までしかないとすれば、生年月日まで遡れるようになるまではなお今後何十年もかかるでしょうが、現在の45〜50歳死亡の場合で言えば、当該年度の健康人も含めた45歳または50歳各年齢別に全員の使った年齢別医療費総額と総保険料金支払額額の対照表だけでも公開したら当面の年齢別収支関係が分ります。
(マイナンバー等が普及すれば、将来簡単に同一人の過去歴が遡及調査出来る時代が来るでしょう・・マイナンバー前から個人単位の保険番号がついている筈ですからやる気なれば過去に遡及してやれる筈ですが、コンピューター処理・・ソフトを作るのに金がかかるのか、やる気がなくてやっていないだけも知れません・・)

健康寿命と自立可能年齢2

世に言う健康寿命を見ると私の年では、平均的健康寿命を越えた年齢にカウントされています。
周りに元気な人が多いので本当かな?と疑問が起きますが、統計があると言うのだからそうかな?と思うしかありませんが、体感的にはあまり信用していません。
ただし、健康寿命の定義次第ですから、この機会に厚労省のPDFtoukei.umin.jp/kenkoujyumyou/syuyou/kenkoujyumyou_shishin.pdfに入ってみましたが、要約し切れませんので、関心のある方はご自分で上記pdfに入って頂くしかありませんが、グラフを見ると70代前半では、自立生活に問題のある人(要介護度2以上)の割合が2割前後しかありません。
私の直感と大方あっています。
その気で読み直してみると、私は健康寿命=「自立生活可能年齢」と勝手に誤解していましたが「健康寿命」であって、自立生活可能年齢でないことが分りました。

① 先ず健康期間カウントの仕方を見ると、例えば40台に健康不調期間があったが5年間で治って元気になっていた人が70歳で健康を損なって75歳でなくなると、75−5ー5で65年間を健康寿命と数えるようです。
② 自立可能年齢は、介護等級2未満の人が自立可能と判定出来るので客観性が高いし全国集計も簡単(上記のように40台で介護3になって5年で回復する人は滅多にいないでしょうから期間も短縮されます)ですが、「健康」などと言い出したら、人によって意味・回答基準が違ってきます。
参考までに質問事項を引用しておきます。
「表2-2. 「自分が健康であると自覚している期間の平均」の質問
問 あなたの現在の健康状態はいかがですか。
あてはまる番号1つに○をつけてください。
(1) よい
(2) まあよい
(3) ふつう
(4) あまりよくない
(5) よくない」
上記質問回答項目を見ると、その人の受け取り方・・女性の場合20台の不健康回答率が高いと上記PDFに紹介されているように、(女性はお化粧のノリが悪い程度で健康が気なるでしょうが、男の20台は健康など気にしていませんし・・)回答基準にばらつきがあるなど、・・この数日風邪気味の人やちょっと歯医者に行っている人や50肩になったばかりの人がちょうど質問を受けると、不健康と回答することがあり得る仕組みですから、客観性が低くなります。
いろんな角度から研究するのには健康寿命を基礎にするのは意味があるかも知れませんが、素人向けにマスコミ発表で広範に流布するには、健康寿命判定基準中の自立可能年齢こそ関心があるので、健康寿命と自立期間は違う意味を明らかにするために、自立期間を同時に並行的に発表すべきではないでしょうか?
「寿命が伸びるのは目出たいが健康寿命が延びないと困る」・・マスコミは平均寿命と健康寿命の差の期間を目立つように書き出して(健康寿命以降の期間を世話になる期間・・自立不可能期間とは書いていませんので誤報道ではありません)健康寿命期間を延ばす必要があるとしょっ中煽っていますが・・。
ちょっとグーグルで検索しただけでも以下のような見出しが踊っています。

健康寿命とはどのようなもの? – 生命保険文化センター
www.jili.or.jp › … › リスクに備えるための生活設計 › 老後
健康寿命が「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」と定義されているため、平均寿命と健康寿命との差は、日常生活に制限のある「健康ではない期間」を意味します。2013年において、この差は男性9.02年、女性12.40年でした。
‟平均寿命”が80歳越えで‟健康寿命” – Naverまとめ

matome.naver.jp/odai/2140679600018297501
平均寿命と健康寿命の意味や数値をまとめました …. 平成22年度の「健康日本21」の資料によると、男性は平均寿命79.55歳に対して健康寿命が70.42歳、女性平均寿命は86.30歳に対して健康寿命が73.62歳と、男性9.13年、女性12.68歳もの差があります。
男性71.19歳、女性74.21歳。「健康寿命」を伸ばすには …

diamond.jp/articles/-/60223
2014/10/08 – 健康寿命とは、健康上の問題がなく日常生活を普通に送れる状態を指す。わが国は高齢化については世界の先頭を走る課題先進国だが、そのゴールは、人間が自立して人間らしい生活を送れるという意味で、平均寿命ではなく健康寿命の …

上記各見出しを見ると決して誤った定義を用いてはいないのですが、正に人生「ゴール」での自立生活可能期間をイメージしてしまう人が多いのではないでしょうか?
こう言う報道が繰り返されると、マスコミ報道の健康寿命のことを、「自立出来なくなる最後の年齢」と誤解しているのは、私のようにそそっかしい人だけでしょうか?

格差社会・・貧困連鎖論批判2

「不器用でも(素質のある人は)たまには良いことがある」と言うのが昨日紹介した新聞記載の本来の意味でしょうが、大方の人は不器用は不器用のママで人生が終わるのでしょう。
競争社会が進むと不器用な人に構っている余裕がなくなったので、企業もどこも抱え込む余裕がない・・弱者排除論理が徹底して行くのでしょうが、どうして良いか分らずウロウロしていると放っておかないで誰かが声をかけてくれるゆとり・思いやり社会を別建てで作って欲しいものです。
ちなみに不器用な方が良い結果になる(こともある?)と言う有り難い意見を書いてくれる人は「どんな人かな?」と思って肩書きを見ると「詩人」とありました。
なるほど詩人なら、そう言うタイプでもやって行けるかな?と思いましたが、詩人(で新聞第1面のコラム連載をする人となれば、大変な成功者でしょうから)まで行かなくとも不器用なままで終わる凡人以下の人も生き易い世の中にして欲しいものです。
バカで不器用で放っておけないと思って声をかけてくれているにしても、親切にされると嬉しくて生きて行く気力が沸くものです。
男女をとわずに弱者に優しく思いやりのある人もいるでしょうが、生まれつき動物として始まって以来命をかけた競争社会で相手を蹴落とすことに精出して来た男性よりも生命を産み育てることに精出して来た女性の方が、思いやり・気配りなどフォローする能力が高いことは明らかです。
現在の厳しい企業間競争=相手との能力差の選別競争ですが、この結果内部で、「出来る人出来ない人」の厳しい選別が起きる社会です。
能力差を選別して格差を付けて行くのは男性に向いているのであって、今の厳しい能力選別社会に女性が参入するのは不向きな社会です。
これまで不器用で何となく困った状態の私に声をかけてくれたのは女性が多いので、女性が女性としての本来の価値観を発揮し易い社会にして欲しいと言う意見を書いてきました。
女性が男性価値観の仲間入りして競争して行く社会が貫徹すると、折角社会の半分を占めている思いやり・気配りの包容力ある社会を破壊してしまう結果になるのではないかと言う気がします。
女性は男性的価値観競争に参加して男勝りになる必要はありません。
(ジェンダーにこだわっている訳ではありません・・人によっては男性的能力の高い人もいるでしょうが・そう言う人は自己の能力を発揮して良いことは勿論です)
みんながみんな男性的行動能力で競争するのは、間違っています。
男性でもマッチョ系競争で劣っている人は柔弱な?詩人でも良いのと同じで、まして女性が男性と同一方向で能力競争する方が間違っています。
女性でも走るのが速い人もいるでしょう・・宅急便の配送員で男性の8割しか配達出来ないが女性ではトップだと言う競争をして意味があるのか?と言うことです。
男女をとわず自分の得意分野で競争社会に参加したら良いように思います。
女性は男性より優れた分野・・女性価値観トップが女性のトップとして男女平等に尊敬されるべきですし、日本では実際に家庭の中では女性が事実上の主として尊敬されてきました。
西洋から女性蔑視の思想が入って来た結果、おかしくなって来たのですが、我が国の場合天照大神の神話で知られるように万年単位の女性尊敬の歴史があるので、この130年程度の欧米価値観の全盛程度では根絶されることはありません・・幸いなお家庭内の女性の地位は盤石です。
男尊女卑の思想は西洋から入って来た借り物の思想であると言う点については、05/24/03「男の存在価値 1」〜05/28/03「男尊女卑の思想10(明治の思想と実際2)」前後までと、妻の無能力制度がフランス民法の導入で我が国に入って来たに過ぎないことを2年後の03/29/05「夫婦別姓14(上流の家と庶民の家2)妻の無能力と持参金の処分権」〜03/31/05「夫婦別姓18(夫の無能力と家事代理権)民法134」あたりまでに書いています。
女性的価値観を否定し、男性向け競争社会に参加させるために政府や文化人マスコミが必死ですが、みんなが女性的価値観に意味がないと言わんかのように、男性社会に参加させて、男性より劣ったもの・・2番煎じの性を演出しているように見えます。
日本のフェミニストは、女性の地位低下を目指して社会参加を主張しているように見えますが・・・?欧米では日本と違って女性は無能力としてバカにされて来た歴史があって、漸く女性も人の仲間だと気が付いたのは、せいぜい20世紀に入ったころからです。
アメリカでは黒人奴隷制度が知られていますが、女性も同様に何らの権利主体ですらなく、選挙権が与えられたのも日本よりも欧米の方が遅いのです。
欧米のような遅れた社会ではフェミニストは男性の真似をする権利から始めるしかなかったのですが、我が国は、昔から家の経営を女性が握って来た・男は外で殺し合いする程度しか仕事・権限がなかったのですから、今さら欧米の真似をしても仕方がないことです。

差異化社会3と多様な生き方2 

子供は自分のことを自分で一番良く知っているので、自分の能力にあったことをするのを厭いません・・どんな下働きでも、人は自分のレベルにあっているグループ内で自分の居場所を見つけて喜んで生活するものです。
私の少年事件処理の経験から言えば、子供自身が中学の授業が分っていないので、高校に行くのも無理・・自分の能力はこんなものと自分で良く分っているのが普通です。
知育教育には向いていない子供でも、何か役に立ちたい意欲を充分に持っているのが、諸外国との大きな違いです。
これは昔から、いろんな生き方を認めて尊敬して来た我が国社会の伝統が生き残っているからです。
November 22, 2015「民度と政体と4(新興国3)」で「分際を知る」テーマで分際を知る必要性を書いたことがあります。
「分際を知る」とは能力限界を知ってこれを受入れてじたばたしない能力であり、周囲もこれを尊重する社会です。
我が国では古来から、万物に神宿る精神で、些事・・何をするにも細かな儀礼様式を重んじ、身の回りの細かな道具類も大切にして「◯◯塚」などを作って供養します。
ましてや(刀鍛冶等名刀や伝統工芸品を作る人だけではなく)日用品でもどんな物造りに関しても、その道に精進している職人等を尊敬する精神でやってきました。
針塚その他の身近な道具でさえ神様扱いして来たことでも分るでしょうし、今でも日経新聞最終裏面で約1面を使って、しょっちゅうどうでも良いもの集めたり来歴を調べたり、保存運動・編纂している人の記事が大きく取り上げられて賞讃されている社会です。
1月4日の日経朝刊にも絵双六に関する市井の研究家が掲載されていて、今朝の朝刊にはけんかカルタの保存運動している人が紹介されていますが、こうした掲載が何十年もほぼ毎日続いているのは、これを賞讃する社会意識があるからです。
日本は古代から、八百万の神々を祭り、多種多様な価値を認める社会ですから、西洋式学校教育の画一的価値基準で落ちこぼれたからといってそれは職業向け能力の1つに過ぎないのであるから、そんなにがっかりする必要はありませんし早く別の道に進ませるべきです。
西洋伝来の画一的学校教育に馴染まない子供を一刻も早く解き放ってやることこそが必要です。
日本は分際(素質の方向性)に応じて生きて行くのが、難しい社会ではないし、みんながそれを望んでいるのです。
一応定年まで勤め上げた人の中にも、明治以降のさばっている知育基準の画一社会に不適合な人も一杯いて、何とかノイローゼにならずに定年まで持ちこたえていた人・・漸く解放されたと思っている人がかなりいる筈です・・。
そう言う人は定年後、まだ気力・体力があるからもっと画一社会で働けと言われても、もう懲り懲りでしょう。
気力の残っている人は、これから第2の人生をやる人もいますが・・・多分懲り懲りしていたが、体力・気力が余っていた人だと思います。
私の場合、能力が偏っている・・画一社会向きではないのに、未だに現役を続けていられるのは、タマタマ、個性的に生きて行き易い職業についているからに過ぎません。
明治以降西洋流の画一基準・・鋳型に押し込めるような窮屈な教育によって国民を一定方向へ向けたのは,折から勃興して来た産業構造・・画一生産力が国家の命運を決める時代・・労働者向け社会化にはある程度成功したとは思います。
1月3日書いたようにポスト産業資本主義(差異化)社会になってくると、単線的能力差が進むばかりでは、差を付けられた人のストレスが増すばかりです。各社会批判→唯物津論的対応・・高校授業無償化・精神科医を増やすばかりでは解決出来ませんので、個々の自由な生き方を広げて複線的・違った価値基準での挑戦機会を増やして行くことが個人の幸せばかりか社会発展のためにも必要です。
そして日本社会こそが、古代から多様な価値・生き方を認めて来た社会であり、この精神が明治以降圧迫されていた結果、文化伝承作業が定年後の慰みや、画一価値社会に絡めとられてない健全な女性の営みによって、日陰で脈々と受け継がれてきました。
これを無職女性の暇つぶしの余技や老後の慰みとバカにしないで、古来からの日本のアイデンテイーを守る大切な価値観であると認め、その復権・・古くて新しい価値観の時代こそ作って行くべきです。
私が、従来から女性の復権は男性の真似をして「朝早くから夜遅くまで外で働くことはない」「競争して勝つことではない」と繰り返し書いてきましたが、違った能力をゆったりと受け止める女性の子育ての生き方こそ日本文化の正当な継承者として尊敬すべきですし、保育所に乳幼児を預けてしまい、最重要な子供に対する文化継承作業を断ち切る政策運動に反対し続けている所以です。
ただし、高級品が売れる社会になったとしても、アップル製品等見れば分るように産業革命の延長上の大量供給品に頼る必要がなくなる訳ではありません。
効率生産・大量供給による時間や資金のゆとりがあってこそ、隠れ家的ホテル,レストランその他上質文化を楽しむゆとりを生むのですから、効率的大量生産組織や人員が不要にはならず、衣食足りて礼節を知ると言うようにむしろ文化の両輪と言うべきでしょう。

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