保育所反対と共同体利益1

個人エゴ主張を臆面もなく公的主張にした・・地域エゴ、成長し最大限発展したのが、以前紹介した杉並ゴミ戦争でした。
たまたま10日ほど前から市川市で周辺住民による保育所設置反対運動の結果、新設断念に追い込まれた報道が世間を騒がせています。
MSNでみると「子供の声がうるさい」と言う苦情が多くなっていて、東京都では騒音防止条例から子供の声をワザワザ外したと言う報道まであります。
目黒区の国有地利用の保育所などでも反対があって設置出来ない状態が頻発している様子です。
3〜40年前に運動会の声がうるさいと言う苦情に対して、コラムに何か書いた記憶がありますが、何事もエゴ主張が過ぎると次世代養育することまで肩身が狭い思いをしなくてはならない時代が来ます。
そのころは子供3人の子育て中でしたから自分に利害があって、何言ってるのだと反発したのかも知れませんが・・身近に子供のいない今になっても(聞いてみればそれなりに理由がありますが・・)保育所設置反対運動には疑問を感じます。
ちなみにmsnニュースによると以下のとおりです。
 毎日新聞が16、17両日実施 「迷惑だと思う」6%
「千葉県市川市や東京都調布市などで、保育園の新設が住民の反対によって断念や延期になる事例が相次いでいる。毎日新聞の16、17両日の全国世論調査で「近所に保育園ができるのを迷惑だと思うか」と尋ねたところ、「迷惑とは思わない」という答えが86%を占めた。「迷惑だと思う」は6%。男女別、年代別で結果に大きな差はなかった。」
サイレントマジョリティー論22の続きですがいろんな集会に行くと、大きな声で何かを詰問する人が数人でもいるとそれが全体意見のような雰囲気で運営されることが多いのに驚きます。
保育所設置反対しているのは一部の人だけだったのでしょうか?
私の場合、たまに聞くから子供の歓声が気にならない(耳も遠くなっているし・)だけかも知れませんが、何もかも自分の都合ばかり主張するのでは共同体が成り立ちません。
保育所設置断念騒動をみたときに、アメリカによる日本の共同体意識破壊政策がここまで浸透して来たのか?と驚いてこのシリーズを書き始めていたのですが、MSN調査結果を見るとアメリカ的我欲に固執するのはまだ少数であることが明らかになりほっとしています。
東北大震災では、エゴよりも共同体利益・・民族の絆を優先して行動する人が圧倒的に多かったことが証明されています。
日本が世界に誇る絆社会が(アメリカによる戦後70年にわたる同胞意識破壊工作にも拘らず)健在であることが世界中に示されました。
学校教育やマスコミを通じてエゴ主張奨励を如何に煽ろうとも万年単位で培われた日本民族の価値観は簡単に変わらない・・エゴ主張したい比率は昔から変わってないことがわかります。
民族の価値観と言っても比率の問題ですから、April 7, 2016「司法権の限界13(人材と身分保障1)」でどんなテストをしても「5%前後の外れモノ」がいると書いてきましたが、正に6%くらいの外れモノがいるのは当然と言うか昔から変わらないでしょう。
東北大震災時に避難した留守宅を狙う空き巣が発生しましたが、こう言う不心得者が一定率いるのは当然であり、要は民族特性は比率の問題です。
ですから特定民族批判や賞賛は、当然の前提としてこの民族には日本にくらべてこう言う傾向の人が多いと言う程度の意味しかありません。
日本人にも犯罪者はいっぱいますし、きれい好き、約束や時間を守る落とし物が届くなども比率の大小問題であることが当然の前提です。
〇〇人と言ってもいろんな人がいるから、「民族非難するのは偏見だ」と言うマスコミ報道が一般的で、うっかり特定民族批判をするとレイシストのレッテル貼りされるリスクがありますが、その発言や民族批判は比率の差を暗黙の前提にしているのですから、これをあえて無視してレイシスト呼ばわりするのはちょっと狡い印象になります。
西洋ではナチズムに対する絶対的禁止社会ですからレイシストと言うレッテルが貼られると言論界で事実上抹殺される仕組みらしいです。
日本ではそこまで行きません・・その点で西洋よりもナチズムやユダヤ人虐殺が本当にあったのかなどに関しての議論・・言論の自由がありますが、それでもマスコミにレッテル張りされる恐怖が強い点は同じです。
マスコミ等での発言をするときにはリスク回避のために必ず「私は個人的に〇〇人と付き合いがあってその人は立派な人ですが・・」と言う前置きから始める人が大多数になっています。
こんな無駄な前置きが必要なのは、マスコミの異常なレッテル張りが原因です。
人材採用で学歴を重視するのは、例外があることを前提にしながらも大方◯◯と言う比率を基準にしているからですが、採用基準に他所の大学を入れない理由として一々「◯◯大卒にもいい人がいるのですが・・」断りを入れる企業はありません。。
イギリス人はアジ音痴だと言ってもマスコミは問題にしないのに特定民族になるとヘイトスピーチなどと過敏なのは不思議です。
マスコミがある特定分野で批判するならば、特定国の軍備増強や公害・言論弾圧などには何も言わない傾向がありますが、どこの国に対しても公平に批判する度胸が欲しいものです。

地方自治制度の悪用2(国家意思の不貫徹)

昨日与那国島の例を紹介しました。
自治制の弊害を最大限悪用しているように見えますが、この悪用のために今でもいわゆるプロ市民(もしかして日本人だけではないのか?)が沖縄に住民票を移して基地反対運動に励んでいると言われています。
憲法の勉強をしていると地方自治の重要性の記述が多いのですが、どの論文にも民主制の基礎と言うばかりで何故重要かの具体的説明がありません。
日本が将来国力回復しても一枚岩で行動出来ないための妨害装置としての遺産・・アメリカの重要な置き土産だから非武装主義同様に論理的議論を許さない・・宗教のようにあがめるしかないと言うことでしょうか?
全国に波及する基準は全国統一の方が良い・自治体ごとに自主性がある・・基準が違う必要がないばかりか自治体ごとに基準が違うのでは有害です。
TPPの基本は加盟国では1つのルールにしましょうと言う精神の国際版です。
全国統一基準必要な分野で地方自主性があると却って混乱します。
電化製品やクルマの部品が地方ごとに違う基準では、全国的サプライチェーンでの製造が出来ません。
客観的な物品規格統一だけではなく、人間交流や物流の発展によって、国内では価値観均一化も進んでいます。
私の高校時代には、あちこち一人で旅行すると地域ごとに違う家の形や風景の違いを見るのが楽しみでしたが、今ではどこへ行っても似たような家の建て方ばかり・着ているものも職業生活も食べ物(千葉で九州の野菜など普通に食べているように)まで皆同じです。
ホテルも全国似たようななサービスがあり事前予測可能・もしもホテルごとに歯ブラシやタオル持参などの必要性が違うと準備するのに困ります。
こう言う時代になると自治体行政は身近な(全国共通基準が望ましいが経済力に応じた)サービスをやれば良いのであって,国家戦略的分野について特定地域だけが特別な権利を持つ理由がありません。
ヤマ1つ越えると何もかも言葉まで違う・・いろんな生活習慣の違う時代に出来上がった自治体ごとの基準の違い・・・「これを尊重しましょう」と言う価値観を今でも強調するのは何百年も使っていない死法をイキナリ持ち出して処罰するようなものです。
アメリカは今、沖縄基地反対運動に困っていますが、元はと言えば将来日本が国力回復したときに統一国家としての行動が出来ないように、妨害するために無茶な自治制度を作っておいたことが自分に跳ね返ってきたのです。
中国の反米・反基地闘争に利用されて基地利用に困っているのは、アメリカが遺産として残した平和憲法に縛られて日本に軍事協力させる足かせになっているのと同じ構図です。
大きな河川や海岸は本来国家管理が原則ですが、埋め立て等の現状変更には、地元漁民等の利害があるので、これに精通している自治体の許認可にかからしめている程度のことであって、(道路交通法規は全戸国一律ですが、追い越し禁止や徐行区域などの設定はカーブその他の状況を良く知っている地方に任せた方が良いと言うだけのことです)その決定基準自体が国家基準と違って良いと言うものではありません。
現憲法家では、何かちょっとした国家的政策を実現しようとするとほぼ100%地元同意が必要ですが、こんな無茶な制度を持っている「統一国家」があるでしょうか?
自国が侵略されて国民が虐殺されても抵抗する権利・・自営する権利もない憲法って、国民主権原理からして無効じゃないかと書いてきましたが、現行の地方自治制度・・地方の同意がないと国家が出来ないシステム自体が、国家権力そのものの否定・・日本を1つの統一体として認めない意味での国家権力の否定です。
昨日与那国島の住民同意の例や裁判例を紹介しましたが、国境に所在する軍事基地が戦闘の危険が迫ると撤去を求められる・・存在してはいけないかのような裁判所の判断が普通に出て来るのをみれば、国家のあり方に対する思考までも狂ってしまっているとしか良いようがありません。
統一体・・クルマで言えば、バンパーがあって本体の安全性を高めますが、ぶつかる危険を引き受けるばかりでは不公平だ、そんな部品をなくせと言うのは矛盾です。
国境地域だけが防衛負担するのはイヤだとい出して、国境から100kmまで守備隊下げておくと、その防御地点が最初の被攻撃地点になるのでその周辺が不満を言い、200k地点に下げると今度は200k地点が最初に攻撃されるのは不公平と言い出します。
これを繰り返して行くと最後は首都で最初に引き受けろとなりますが、そうなると首都住民外の国民を見捨てるしかなくなります。
辺境の地が国家全体のために防衛を引き受ける義務がないと言えるのだったら、国家防衛は成り立ちません。
アメリカが占領支配下の日本民族に対して自前の軍隊保持を禁じただけではなく、国家意思よりも地方の意思・・決定が結果的に優先するシステムを憲法に組み込んだのはは、仮に将来再軍備したとしても国家防衛のための基地を政府が思うように作れないシステムを残して行ったことが分ります。
国土内に国家意思の貫徹出来ない場所を憲法で設置した結果、日本列島を都道府県数だけの小国に分解することを米軍が強制したことになります。
まして我が国は異民族が連合して作った国家ではありません。
連邦性国家でも(ロシアやアメリカで)国家防衛のための軍事基地の設置に地元市町村の同意が要るとは考えられません。
護憲論者は現実無視・空理空論の集まりと言われるのは、独立国家としてありえない制度を議論抜きにして憲法を守れと後生大事にするところにあります。
国家意思が貫徹出来ない制度は統一国家として自己矛盾ですから、戦後日本は法的には分裂状態に置かれて来たことになります。
自治体の無茶な主張を引き出そうとする勢力は、この法的分裂状態を強化し保持しようとする勢力です。
法制度論は別としても、上記のとおり地域独自性がなくなって行く一方なのにこれを強調するのは無理がある実態を無視出来ないからか、翁長知事はこの無理(全国利害のテーマを地元の同意にかからしめる主張)を通すために「沖縄の人は日本の先住民族?少数民族なのに民族自決権が侵害されている」と言う趣旨の翁長知事の国連やアメリカでの演説になって来るのでしょう。
日本全体の支持を受けるための政治活動をするのが本来国内政治家の仕事ですが、海外発信に努力するのは、いわゆる文化人同様に国内支持の足りない分を国連などの介入・・例の国連報告書や対日勧告を取り付けるための行動でしょうか?
翁長氏が国連で演説してもアメリカ軍基地妨害目的が見え見えですので慰安婦問題のようにアメリカが応援する筈がないですから、翁長知事としては、中国の支持だけでもうけた方が良いと言う立場に切り替えたのでしょうか?
日本から沖縄切り離しを狙っている・・と言うよりは尖閣を譲らないと沖縄まで狙うぞ!と言う脅しでしょう・・・中国のあと押しを期待しているのでしょうか?
中国としては、着々と布石を打っているつもりでしょうが、逆効果のように思えます。

地方自治制度の悪用1(僻地・末端の重要性2)

昨日から地震災害で紹介したように、地方の決定・自然災害がサプライチェーンを通じて全国波及する時代です。
原発稼働の可否は立地する市町村・・僻地だけに利害のあることではなく、経済合理性や環境破壊の有無は言うに及ばず、国防政策や日本の将来の産業構造を規定する全国的関心のある事柄です。
学問的も、全国原発停止以降原子力関係学科の志望者が激減しています。
1地域住民の賛否や・・(ドサ廻りになっている)数人の末端裁判官の意見で国家の枢要事を決めて直ぐに国家意思として強制力が出る仕組みがあるのは制度的に無理があります。
この辺は沖縄の基地問題の議論も同様で、国防に関する決定を地元沖縄の意見で決めようとする運動自体おかしな議論です。
裁判官で言えば、地方小単位の社会に関係のある決定権者として、地方に赴任しているに過ぎないのにタマタマ全国的テーマが地方の管轄になると、俄然(上級審の結論が出るまで原則として効力が出ない本案訴訟手続があるのに、これをしないで即時効のある仮処分決定するのは)全国民に影響のある決定権を行使するのは権限乱用です。
内乱罪等国家的影響のある事件は高裁から始める特別規定がありますが、原発や軍事基地のあり方など1つの裁判結果が全国に影響を及ぼすことが明らかな事件は、高裁ではなくとも大規模庁に専属する仕組みにする・・あるいは原則として仮処分を許さないなどの配慮をすべきでしょう。
世界中どこの国で、国家的関心事である軍事基地の設置に関して地元自治体の同意を必要とする→地元裁判所で一次的な決着がついてしまう国があるでしょうか?
軍事基地や原発は、国全体のためにあるものですから、その基地や施設が国全体のためにある・・その地域だけのものではないのは当然です。
実際原発規制委は全国を管轄にして審査しています。
沖縄の基地移転については海面の埋め立てが必要なために県知事の許可や承認にかかっているので、国が県知事の承認がないと埋め立て出来ないと言う変な法制度がガンになっているようです。
ソモソモ民間が公有水面を埋め立てるには、(勝手に出来るでは困るので)許可がいるのは当然としても、地方で許可しても国家の大局からみて不都合なときには、国が取り消せる制度設計が本来です。
地方自治制度と国のあり方の基本問題ですが、国の決定の可否を自治体が最終判断出来る・・逆の制度設計は無理があります。
いわゆる「法の間違い・・不備」を衝いているのがこの種事件一般のあり方です。
民間または同格の公共団体(喩えば隣の県が隣の県内の海を埋め立てるのは埋め立て地の県の同意が要るなど)が行なうときだけの制度であるべきでした。
国が決める場合地方の意見を聞かねばならないと言うのは分りますが、地方が国策の最終決定権を持つのは統一国家の制度としては無理があります。
地方自治は、戦後憲法(アメリカの押し付け)で出来た制度で、その前には官選知事制度でしたから、知事の許可の権限=国にの命令次第だったので矛盾がなかったのです。
地元民の民選になる都知事が最終決定権を持ったままにしておくのは、国家意思の一体性からして無理があります。
アメリカは、将来日本が言うこと聞かなくなれば、政府と地元の対立さえ起こせばにっちもさっちも行かなくなるように、(武力不保持条項同様に)時限爆弾のようにアメリカが置き土産として残した仕掛けだったかも知れません。
何しろ尖閣諸島情勢緊迫により、自衛隊が遠くから駆けつけるのでは・・時間的に不利なので最寄りの島に駐留するにも地元民(大人だけで言えば千人前後?))の賛否をとっていましたから、(公明党の言うように外国人にも地方自治体への参政権を与えると・・実際以下に紹介するとおり基地賛否の住民投票には外国人にまで投票権を与えています。)イザとなれば中国系の勢力浸透は簡単です。
ウイキペディアによると以下のとおりです。
  与那国島
人口1,745人、年平均気温23.6℃、年間降水量2,363.5mm。石垣島からは124kmの国境の島で、台湾宜蘭蘇澳港までは111km

以下は与那国島と防衛問題に関するウイキペデイアです

2014年3月31日、国と与那国町との間で町有地を貸す契約が正式に結ばれた[25]。2014年4月19日、小野寺五典防衛大臣出席のもと、沿岸監視部隊配備のための着工式典が開かれた[26]。2016年には、200名弱の自衛隊関係者が与那国町に駐屯すると見られる。
2014年9月7日投票の与那国町議会選挙で、町議会は誘致派が3人、反対派らが3人となった。誘致派が議長となったため、議長を除く議席構成では、反対派が多数となった。反対派らの賛成多数で、自衛隊誘致の賛否を島民に問う反対派が主導する住民投票条例が可決され[27][28]、2015年2月22日に陸上自衛隊沿岸監視部隊配備の是非を問う住民投票が実施された。
この住民投票に法的拘束力は無いものの、与那国町の住民投票条例は町長と町議会に対して「投票結果を尊重」するよう求めている[29]。誘致反対派の要求により、この住民投票での投票権は中学生以上の未成年者や永住外国人にも与えられた[30]。この住民投票には、有権者1276人のうち1094人が投票し投票率は85.74%。開票結果は、賛成632票、反対445票で、賛成派が多数を占めた[31]。しかしながら反対派は納得せず、工事差し止めを求める裁判を起こすことを検討している[30]。
反対派住民30名は武力衝突による平和的生存権の侵害や電磁波による健康被害の恐れを根拠に駐屯地の工事差し止めの仮処分命令申し立てを行ったが、那覇地方裁判所は2015年12月24日付けで却下した。決定理由として、武力衝突に至る恐れがあることを認める資料がないことや、電磁波の強度が法律の基準値を下回ることを挙げた[32]。住民3名はこれを不服として即時抗告したが、福岡高等裁判所那覇支部は2016年2月19日付けで却下した

※上記決定によれば「武力衝突のおそれがないこと」を理由の1にしているのですから驚きです。
武力衝突のおそれがあれば自衛隊基地の存在が許されないと言うならば、まんがではないでしょうか?

信頼社会の再評価2(コーポレートガバナンス4)

トップダウン否定のコーポレートガバナンス論が実態に妥当する制度ではないのは、日本や中国・台湾などアジアだけはなく、アメリカでもアップルのジョブス氏の例を見れば明らかです。
日本社会は原則としてボトムアップアップ社会ですが、創業者や中興の祖があって企業や組織が成り立っていることをみると、ときにはトップダウン型の人材を必要としていることを表しています。
アメリカでもジョブズ氏の先見の明があってこそアップルの成功があったのであって、誰もが納得する多数が決めた製品しか作らないのでは、アップルの大成功はあり得ませんでした。
アップルのiPhoneが昨年秋発売新製品が想定外どおり?の苦戦に陥っていることが4月16日の日経新聞1面に(1〜3月期に続き4〜6月期も前年同期比3割程度の減産)と出ています。
ジョブズ氏亡き後の新製品がどうなるか?と言われていた危惧がそのとおりになって来た印象です。
人権派は、秘密保護法や組織犯罪処罰が近代法原理に反するというのですが、秘密保護法のない国・共謀を処罰しない近代国家がどこにあるかの質問に革新系文化人が答えられないままです。
西欧近代の法理と言っても、喧伝されるギリシャ・ ローマの民主主義が一握りの市民だけのことだったように、西欧の近代法理はきれいごとでしかない現実があります。
死刑廃止と言いながら,一方でちょっとして事件でも犯罪者をその場で原則として射殺してしまう乱暴な実際の運用を紹介したことがあります。
西欧かぶれの文化人が集団自衛権容認が戦争法だと宣伝していますが、そのような解釈をしてどこの国とも相互防衛条約を結ばない国が(スイスを除いて)いくつあるかを明らかにすべきです。
ベトナム、フィリッピンが日本や米国を頼りにし、小碓とラリアまで日本と防衛協議するようになったのは、中国による事実上の侵略実行に危機感を抱いて始めたことであって,中国を侵略しょうとしていると思っている人はいない・・そう言う主張している国があるとすれば、世界で中国だけではないでしょうか?
国際紛争に関連する主張はどこの利益を代弁しているかが重要です。
企業のコーポレートガバナンス・・トップダウンに戻りますと、うまく行ったときには黙っていてタマタマ失敗するとオーナの暴走と非難するのがこれまでのマスコミ姿勢でした。
何回も書くようにどんな名人上手でも一定割合での失敗があるものです。
その失敗を前提にしても成功率の高い人に5〜10年先に進むべき計画を委ねるしかない・・結果的に取締役会が追認機関になっていることを理由にして、何か事件が起きると取締役会の無責任?運営を批判するのですが、西欧伝来の元々法制度に無理がある・・取締役には元々そのような実質的権限がないとするべきです。
法を悪用して?形式権限行使すると逆に実質的権限濫用の疑いが生じます。
セブンイレブン騒動では、最終的に動きが見えてきましたがその後の人事案も社外委員2人の意向によって、全て覆されて決まって行く様子です。
社外委員制度が機能していて、(今回は鈴木氏が耄碌して、老害が出ていた可能性がないとは言えませんから)目出たいのかも知れませんが、今年の2〜3月ころに就任したばかりの部外者が人事案についてまで最終決定するのって、タマタマその結果が正しいとしてもこれが社外役員の本分だと言う認識が広まると口の出し過ぎと言う批判がその内出て来るでしょう。
取締役が監督権限を行使しないので、屋上屋を重ねて?社外委員会などの承認がないと何も出来ない仕組みにしても,社外委員会も結局はその会社の実態不明なので、カリスマ経営者の提案を実際にはその委員会も追認するしかないのが実務の世界です。
屋上屋をかさねるたびに追認機関が増えているだけです。
カリスマ経営者の独断による経営政策がタマタマ失敗したとしても、それはリーダーの暴走でもガバナンス失敗でもありません・・企業人としては失敗する場合も読み込み済みでカリスマ性のある人にリスク込で委ねていると言うべきでしょう。
勝率が下がれば単に「最近カンが悪くなったようですから交代して頂きましょう」と言うだけでよいのであって「違法」だとか、道徳非難する必要はありません。
新規事業挑戦の可否はトップダウンを認める代わりに失敗すれば結果責任をとるのは必要ですが(任期等で身分保障する必要はありません)、道徳非難をすべきではありません。
本来リスク込ミで監督や企業トップに方針決定を一任するものですから、試合に負けたり投資失敗したときに道義非難(・・東京裁判のように違法と称して刑事処罰する方向を煽る傾向がありますが・・)する方がルール違反です。
西欧で発達した統治に関する近代原理は公共団体に妥当する論理・・公的団体の場合議会等の監督を受けた範囲で行なうべきですから、これを逸脱すること自体で違法ですが、日進月歩の事業体統治には妥当しません。
スポーツの監督はコーチ陣の合議で指揮するのではありませんし、軍の指揮命令も同じです。

コーポレートガバナンス2

セブンイレブン騒動は、成長企業から安定・停滞企業への踊り場にさしかかった・・「今後は仮に現状維持=年数%の縮小路線でも良いから安定の方が良い」とすれば多数で決めるやり方に切り替えたことは正しいことになります。
鈴木氏は創業家の同意を得られなかったことを辞意表明の大きな理由にしているところをみると、そこに創業家・伊藤氏の判断の重み・・もうこの程度の成長で打ち止めで良いから今後は安定軌道に乗せてくれと言う意向が働いたのでしょうか?
今後セブンイレブンが今まで通りたゆまぬ新機軸を打ち出すのか、守りに入るのか次第で今回騒動の本当の意味が分かって来るでしょう。
躍進型企業の場合、トップである孫正義氏や永守重信氏からの新規事業提案に根本から反対かどうかを「部下である」取締役らの多数決で決める現行のコーポレートガバナンス方式では無理があります。
(企業買収を含めて)の提案があった場合,取締役らは提案自体に反対せずに、提案を実行する前提でミスがないように手堅くチェックするための機関・・「こう言う問題がないでしょうか?」と言う質問をするくらいが関の山であって、(オ!良い点に気が付いてくれたその点の調査を君がしてくれ」と言う前向きのやり取りが普通です。
マスコミ的評価では、取締役(財務や労務あるいは法務に詳しい人など・・)多数が反対するのが「ガバナンスの勝利」と言うのでしょうか?
彼らは新規事業の発展性について意見を期待されて取締役になっているのではなく、財務系取締役は財務的にその事業にはどの程度資金が必要で当社資金力は・・・などと言う説明・・増資か社債発行か、その場合の損得など・・法務担当は、進出先の法務事情の説明・・公取委の審査機関にどのくらいなどそれぞれ分野別能力発揮を要請されているのが普通です。
セブンイレブンはなお発展を続けて来たことは衆目の認めるところでしょうが、躍進中企業でも安定企業向けのコーポレートガバナンスが機能した事例の1つとしてマスコミが賞讃しているのでしょうか。
企業不祥事が起きる都度、監視機能が機能していないことを理由として監査役会制度や◯◯委員会制度を設けたり、「屋上屋を重ねる」社外取締役制度を設けさせたりと弥縫策に必死ですが、根本には西洋の近代価値観・・各種制度のほころびの一種であって基本的に無理があるように見えます。
西欧型民主義・・西欧の価値観が実態に合っていない点・・矛盾が一杯あって中東地域の反抗の現れが、テロの頻発や難民発生等の根本原因であると書いてきましたが、会社法のコンプライアンス論もその一つのような気がします。
(西欧で発達した)「近代法の原理を守れ」と言うお決まりの政治運動に対しては繰り返し批判してきました。
近代法の原理は三権分立に始まり人間性を邪なものと前提して牽制監視しあう仕組みですが、それではどこまで監視を強化しても不正会計等を防げませんから、無理があるでしょう。
マイナンバー制度に限らずも、どんな厳重な防護策もこれを破る能力のある人間は必ず出ます。
厳重な防御システムを作れる人が100〜1000人いれば、このシステムを理解出来る同等レベルの人(ハッカー)がその何倍・・相当数いるのが普通だからです。
会計不祥事がある都度、帳簿監査の公認会計士の数をいくら増やしても、同等レベルの人にとってはその裏をかいくぐるのは容易です。
三権分立の権力構造に限らずいろんな猜疑心で成り立っている近代法原理をもう一度見直す必要があるでしょう。権力に限らずいろんな猜疑心で成り立っている近代法原理をもう一度見直す必要があるでしょう。
我が国の企業や友人関係をみれば分りますが、従業員が忠実でしかも不正をしないと言う信頼で成り立っています。
不祥事が起きるとあの人が「まさかそんなことをするとは思わなかった」・と言うのが普通です。
そして(近代法の原理によれば)「信用していた私(被害者)が馬鹿だったのですね!」となりますが、我が国古代からの法原理によれば、信用していた人がバカだったのではなく「信用を悪用」した人が(長期信用を重んじる我が国では、信用を毀損した方がその何倍も損するのですから)本当の「バカ」なのです。
「まさか神社に罰当たりなことをするとは思わなかった」立ち入り禁止の立て札すら不要・・結界だけで充分と思っていた人が馬鹿なのではなく、結界を破る方が大バカと言うの我が国の法原理です。

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