PeopleとCitizen5(市民の資格1)

西洋中世でのキリスト教の広がりとその反動としてのシチズン→シビリアンの成長に戻します。
ローマ崩壊後ガリア・ゲルマニアの地を支配したフランク族その他支配者が,支配地域が広がると武力だけではない合理的運営が必要になり,何らかのルールが必要・ルール強制の権威根拠を(日本のように各地習俗を汲み上げる面倒なことをせずに)先進地域のルールブックであったキリストの教えに求めたものと思われます。
1神教は支配者にとっては民意を一々聞き取る必要もないし構成諸部族の意見を無視出来る・・単純明快で支配者にとって便利です。
まして巨大なローマ帝国で普及していたとなれば権威も充分ですから、これと言った説明や納得を得る手間がいらない・・「こんなことも知らないのか!」とバカにすれば済みます。
韓国人は初対面で先ず学歴自慢をして相手を黙らせてしまうのが常道です。
我が国で言えば,内容妥当性議論の逃避・我が国でこれを適用すればどうなるかと言う具体的議論をすることなく留学経験をひけらかして,「欧米では・・」と言えば勝負がつくように思っている社会です。
そしてこの先進文化・ルールに精通している聖職者が支配的地位(第一部会)を占め・次にキリスト教文化をある程度体得している教養人が(野蛮人・バーバリズムから昇格して)「市民」第三部会員として優遇されます。
そしてこのルールを守らせるための強制力・軍事力となって軍事力も一体化します。
軍事力正当化の完成です。
我が国のイメージでは何故シビリアンの敵が「聖職者と軍」であったか分り難いですが,こうした支配体制構築の歴史によります。
中国文明はオリエント・メソポタミア文化の導入で始まったと言う私の仮説については、(すべてこのコラムは私の独断・偏見に基づいています)を、09/01/05中国の独自性とは?1(ペルシャの影響1)以下で連載し、その他、12/14/05「漢民族の広がり?4・東西移動から南北移動へ2」その他あちこちに書いています。
中国でも何かと周囲の民族を蛮族(南蛮・北狄・西戎・東夷)と言いたがり,(今では国名にまで恥ずかしげもなく中華と使うほど)違いにこだわるのは、何段階も隔絶した先進文化導入(自民族で足下から自然発生・段階的発達した文化でない)の歴史があると見れば符節が合います。
こう言う社会では被支配者との間で超越的分化格差があるので,専制支配が可能になります。
これが欧米のピープルとシチズンの分化の始まりであり,中国の士大夫層とその他の始まりです。
日本で漢民族伝来の漢字を読み書き出来る階層が長年エリート層を形成して来たのと同じですが、日本の場合直ぐに万葉仮名を工夫し庶民まで和歌に親しみ,さらにはひらがなを発明し・漢字仮名交じり文になって庶民に普及した・・漢字は文字として利用しただけで,思考内容は日本民族独自性の維持でした。
西欧では民族別思考温存ではなく文字文化も導入されたアルファベットそのままで、しかもルネッサンスが来るまでラテン語だけしか文字化(・事実上どの程度自民族言語が文字化され利用されていたか不明)されませんでした。
朝鮮半島では,15世紀年中頃からハングルがあったらしいのですが・文書は飽くまで漢文のままで、日本統治になって漸く公式認知された?のと比較すれば独自文化発達の違いが分ります。
どこでもいつでも最初の支配確立は武力によりますが,その次の支配はルールによらない裸の武力だけでは大変です・支配道具としてキリスト教が採用された以上は,被支配者にとっては軍とキリスト教が一体化したものに見えたでしょう。
最初は,未開人ではあるが教養を得た者だけを「市民」として特別扱いされ三部会員に昇格して現住民のエリートは満足していたのですが,その内硬直したキリスト教支配が鬱陶しくなると,軍と聖職者に対する抵抗勢力としてシビリアンが生まれて来たことになります。
カール大帝に関するウイキペデイアの記事からです。
「カール大帝(742年4月2日 – 814年1月28日)は、800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 – 814年)を号したが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。
古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる[3]。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。」
西ローマ帝国継承者を勝手に号したこと・・古代ローマの輝かしい歴史・文化を理想として仰ぎ見ていたことが分ります。
そうなれば自然に思想・道徳その他善悪の基準導入になります。
その前からそう言う意識が定着していたからコソ「われこそが継承者である」との主張が出て来たことになります。
ところで、西洋中世と聞けば,今の英独仏伊などの前身の王国がそのころからあってその下位に各地領主・後の貴族や騎士がいた社会であったかのように何となく想像してしまいますが,上記によると現在のいろんな国の前身である王国が出来たのは,カール大帝死後・843年以降であったことが分ります。
平安時代が、延暦13年(794年)から始まって、 816年 空海が高野山に道場(金剛峯寺)を開いています。
フランク王国分裂後仮に数十年〜5〜60年間の動乱を経た結果いろんなクニの分立が始まったとすれば,899年 に菅原道真が右大臣になっていますし、905年 紀貫之らが仮名序・真名序で書いた『古今和歌集』を撰進したころです。
フランス王国の例で見れば以下のとおりです。
「フランス王国(フランスおうこく、フランス語: Royaume de France)は、現在のフランス共和国にかつて存在し、その前身となった王国。起源はフランク王国にまで遡るが、一般には987年の西フランク王国におけるカロリング朝断絶とカペー朝成立後を「フランス王国」と呼んでいる。1789年のフランス革命まで800年間・・」
「カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世(ロベール家)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれ、カペー朝(987年 – 1328年)が成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺のイル=ド=フランスを押さえるのみであったが・・」
フランス王国と言っても当初今のパリ周辺しか支配していなかったのです。
987年と言えば,日本では藤原兼家が986年に摂政に就いていて、995(長徳1)年には藤原道長が内覧の宣旨を受けています。
文化面では1001(長保3)年:清少納言の『枕草子』が完成し、1011年には紫式部の『源氏物語』が完成しています。
日本では遣隋使,遣唐使を派遣しましたが、明治の和魂洋才政策同様で合理的文化導入だけが目的で、国民のあるべきルール・生き方ではニッポン民族独自スタイルを貫徹していました。
我が国では専制支配(異論を許さない点では1神教支配と同じ)を前提とする科挙制や律令制・・区分田が国情に合わず根付かなかった経緯については、01/10/06「律令制の崩壊2(桓武天皇時代)」前後のコラムで連載しました。
24日にクリスマスの起源に関心を持って,書いているうちに話題がズレましたが,クリスマスを祝う風習は元々のキリストの宗教行事ではなく,いつのころかミトラとか言う別の宗教行事・あるいは習俗を取り入れたことに始まると言われます。
(そんな宗教があったかどうかすらはっきりしないのは、異教徒の習俗だったのを,沽券に関わるので何とかキリスト教に関係付けようとするからではないでしょうか?
これまで書いているように,キリスト教はガリア・ゲルマニアの習俗から発展したものではありません。
骨の髄までしみ込んだキリスト教意識・・キリスト教徒になり切れない者を異教徒として迫害に加担して来た歴史が邪魔をしていて、西洋では素直にゲルマニア・ケルト族の習俗だと認めるわけに行かないのでしょう。
田舎出身の人が東京生まれと虚偽経歴で生きて来た場合,生まれ故郷で覚えたことを「イヤ東京でも子供の頃にはこう言う習慣があった」と言い張っているようなものです。
儒教どっぷり度で日本に優っていることが自慢の韓国に至っては、(いわゆる韓国起源論の一種ですが・・)孔子が朝鮮半島出身と言い張っているのと50歩100歩ではないでしょうか?
外来のキリスト教を取り入れる前の現地民族・・本来自分たちの祖先の習俗そそのまま認めるとこれまで自分たちの宗教であると有り難がって来たメッキが剥げるのが怖いのではないでしょうか?
お祭りの原型がみるからに北欧向きですから,雪も滅多に降らないローマ時代からの習俗にこじつけるのは無理っぽい印象です・ただし地中海世界の習俗が北に行って今のように変化したと言う見方も出来ますのでいろんな意見があり得ます。
日本の神社仏閣は庶民が楽しむ行事中心・・今では観光名所・・いつも人集めの中心ですが,キリスト教と言うより西洋諸国でも,中世修道院に代表される陰気くさい教えの強制ばかりではなく,庶民が楽しめる要素が必要だったのです。
キリスト教の影響が,クリスマスを祝う以外になくなるとすれば,それはそれで信教「から」の自由の完成で目出たいことです。
今年は幸い3連休の中日ですし,信教の自由ではなく「信教からの自由」を満喫するつもりで仏教徒であり神社の信者でもある我が家では、信教とは関係なくクリスマスを今年も楽しみました。

非理法権天と野党1

非理法権天の思想は江戸時代の学者が言い出したことですが,徳川支配が盤石になって各種御法度などの具体的規制が始まっただけではなく、綱吉の時代になると生類憐みの令など(「殺生するな」と言うだけならば誰も疑問を持ちませんが,)具体的・細かくなって行くとその命令に対する道徳性に対する関心も高まります。
綱吉の生類憐れみの令はまだ過去の道理や道徳(宗教観)の延長の域・・具体化の域を出ませんが,次の正徳の治は儒家でありながら新井白石が経済や貿易政策に関与するようになり,その次の吉宗になるとサラに一歩踏み出して(儒家の時代が終わり)経済政策→規制(たとえば1730年の堂島の米先物取引許可があればその表裏の関係で取引所のルール規制も生じます)にまで進みます。
自由放任・積極経済主義の田沼政治の反動として定信の改革になると規制だらけの政治開始・・緊縮経済の一環として文化作品にまで口出しして,山東京伝が手鎖の刑に課せられています。
いつものエリート批判ですが,定信は若い頃から秀才の誉れ高かったと言われますので,才能を伸ばすより既存知識・・新たな風俗を好まない・規制を好む・・現実政治向きではなかったのではないでしょうか?
この辺は秀才の慶喜が(大政奉還)政権を投げ出すと、案に相違して諸候会議を主宰出来なかった(人望がなかったことも明治維新の原動力に関係したでしょう)のが日本のために良かったとなります。
政治の具体化が進むにつれて・・忠臣蔵で言えば忠孝の倫理と幕府秩序の相克で右往左往した末に切腹に決まったように,抽象論の理解(宗教家や儒家・荻生徂徠だったか?の議論)だけでは政治が動かなくなり、政治の表舞台から退場して行ったのです。
佛教〜儒教〜実学への流れについては03/13/08「政策責任者の資格9(儒教道徳と市場経済4)」前後で連載しました。
江戸時代に宗教哲学や有職故実を持ち出してもどうにもならなくなって来たのが正徳の治〜享保の改革以降の政治ですが、・・戦後から現在に至る革新系野党は日本社会が江戸時代に卒業した筈の抽象論から卒業しきれないグループ・・高邁な平和論・憲法論・あるいは近代法の精神だけをぶって満足している印象です。
最初は欧米では・・と言えば何でも立派に見えましたが・・。
国会で必要とされている具体的な議論をする能力に欠けているのか?スローガンの域を出ないので・・(今でも抽象論で満足するレベルの人が一定数いるのでその支持を受けているものの)多数の支持を得られないのです。
たとえば、土井元党首の「ダメな物はダメ」鳩山氏の「少なくとも県外へ」年金についても野党のときに厳しく追及していたのに・・何をどう改革するかではなく,やっていたのは集計ミスなどの揚げ足取りばかりだったので・・民主党が政権についても何ら目に見える改革が出来ませんでした。
昨年の安保法制国会でも憲法違反かどうかの抽象論(民意無視・国会に反対デモが何万人集まったとか)ばかりで、安保法制の必要性の有無について国際環境に対応した具体的議論を国民に示せませんでした。
山尾氏の「日本死ね!」は現在進行形ですが,同氏はこれが政府の保育園増設に弾みがついたと自画自賛しているようですが,いずれも具体的政策は与党任せで政治家に必要な具体論・・どうやって保育園を増やして行くか・・保育所政策がどうあるべきかの具体論がありません。
格差反対論も左翼系の十八番(おはこ)ですが,安倍総理の方が非正規の賃上げを要請したり,「同一労働同一賃金」の実現に努力しているのに,野党や連合からは格差是正のための具体論が全く上がって来ません。
生活保護基準や最低賃金を上げろと言うだけでは,格差が発生する基礎構造の改変・根本解決にはなりません。
最近成立したばかりの通称「カジノ法」でも「ギャンブル依存症」が増えると言うスローガンで野党が反対していますが,現実のギャンブル依存症ではパチンコ関連しかなくこれが今でも問題なのに・・と言いながら,これの改善策について、同党がこれまで具体的にギャンブル=パチンコ依存症対策を講じて発表しているのを見たこともないし,(逆にパチンコ業界から資金を受けてるのが左翼系ではないかと言う指摘すらあります)逆に努力しているのは政府の方です。
グローバリズム反対論も同じで,どうすべきと言う主張がない・・結果的に不満を煽っているだけになります。
乳幼児がぐずったり犬が騒げば,親や飼い主が解決してくれるのと同じで,野党は政府が何か解決してくれるためのアラーム装置と言う役割分担・・万年野党を自己目的にしているのでしょうか?
自分で政権運営するのが政党の目的とすれば,「何でも反対するだけ」「国民不満を煽って政府の是正策を求める」のが仕事では,政党としての将来がありません。
江戸時代に戻しますと,各方面で法令が具体化して来ると,具体的適用の蓄積と安定運用の期待から判例集(御定書)整備・熟達した官僚機構形成が白石→吉宗の頃から進みます。
日常生活に直結する法令が次々と出るようになると(「殺生するな」と言うだけなら誰も反対しませんが・・)これに対する賛否の意見が,利害のある関係者から起きます→反対論からすれば悪法か否かの議論が起きて来ます。
仮に悪法とした場合従うべきか否か?など・・「法と道徳・道理の関係」を研究する学問が発達して来ます。
非理法権天を記載している伊勢貞丈家訓はhttp://21coe.kokugakuin.ac.jp/db2/kokugaku/ise.002.htmlによれば,宝暦13(1763)成立と出ていて,吉宗の死亡が1751年ですから,綱吉〜正徳の治,享保の改革など過去3代で日常生活に入り込む形で急激に増えて来た法令が研究対象・・重要関心事項にはいっていたと思われます。
ただ彼は,ウイキペデイアによれば
「伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄であり礼法に精通し、江戸幕府3代将軍徳川家光の時に貞丈の曾祖父伊勢貞衡(さだひら)が召し出された。」
「28歳で御小姓組に番入り、儀式の周旋、将軍出行の随行などにあたった。貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった。」
彼は有職故実・今で言えば法制史のプロですが,当時は忠臣蔵で有名な吉良家のように有職故実=現役指導係でもあった筈です。
ただ,彼の役職は,「儀式の周旋、将軍出行の随行」などで,具体的法令執行や研究に当たる公事方・吟味与力に採用されていません。
古いことを知っていても(法制史の学者が裁判出来ないし立法に関与出来ないのは今でも同じです)時代に合わないので役立たずだったのです。
室町幕府以来の家系で有職故実に通じていることによって成り立っている家柄?ですから、次々と打ち出される新法令・生活様式の変革は家業の存続に関係し・冷や飯を食っている環境から批判的立場だった可能性があります。
いずれにしても次々と法令が出て来る時代になって,「権力さえ強ければ,何をしても良い社会でない」と言う思いがあるからこそ、こう言う議論・・大公儀に対する明からさまな批判が出来ないので,「権力が法に勝つ」(勝って良いのか?)と言う反語的研究が起きて来たと見るべきです。
「非理法権天の法理」は最終的には「権力も天に勝てない」と言う意見ですが,天と道理の区別がはっきりしない(私の理解不足?)ところから見ると、将軍家の発する法令を旗本である貞丈が正面から違法とは言えないものの、結局「道理に反した法は無効だ」と言いたかったのではないでしょうか?
幕末に開国の必要性に直面したときに約200年前に決めた「(鎖国の)祖法を守れ」と時代錯誤な反対した攘夷運動と同じです。
今で言うと護憲論・憲法違反論で・・具体的な国際環境を前提に政策の可否を論じるよりは,もっと超越した有り難い物・・近代法の精神に反するとか言って,・・・野党が反対するのと似ています。
共謀法やスパイ防止法で言えば,先進国でこれらのないクニがないのですから、現在ある諸国で,どう言う弊害が起きているかの具体的議論が必要なのにその紹介がないまま単純に近代法(1800年代のことか?)の精神や原理違反とか言うだけでした。
日銀の異次元緩和が実行されると(「異次元」とは先例から一歩踏み出すことですから)日銀がそこまでやっていいのか!の議論がほうはいと起きるのと同じです。
過去の踏襲だけならば政治家はいりません。
天皇退位(譲位ではありません)問題も過去の知識を中心とする歴史家や学者の意見は参考にとどめるべきであって、現在から近い将来に合わせてどうするかは政治家の仕事です。
将来まで縛るのは行き過ぎとすれば,特例法にとどめる謙抑性も1つの選択肢です。

Civilian2とCitizen4(信教の自由2)

フランス革命の意義に戻しますと「市民」が,革命の成果として信教の自由=教会の思想審査の特権を廃止し(特定宗教が信徒の思想審査するのは勝手ですが,異端と判定され破門されても信教の自由があれば市民は別に困りません),同時に教会の経済基盤である・中世以来,領主による領地寄進で成り立っていた教会財産(領地)を国有化してしまいました。
西欧で宗教戦争が何故激しく長く続いたかと言えば,ルネッサンスで人間解放を謳いながらも実際には信教の自由がなかったからです。
信教の自由があれば、命がけで戦争までする必要はありません。
ガリレオだって,信教の自由があれば地動説が正しいと最後まで言い張れた・・節を曲げる必要がなかったでしょう
ちなみに西欧でイギリスの近代化が最も早かったのは、ヘンリイ8世( 1491年6月28日〜1547年1月28日)のイギリス国教会設立→ローマ教皇支配から思想統制からの独立・民族の思考自由化が始まったからではないでしょうか。
我が国で言えば信長による比叡山焼き討ち(元亀2年9月12日(1571年9月30日)が象徴的ですが,このトキから宗教の権威・呪縛がなくなり日本社会の合理主義が始まったのと時期的にも似ています。
ただし、ヘンリー8世は個人の粗暴性の故に・・破門されるならば別の宗派を建てると言う単なる開き直りをしただけ・・ローマンカトリックから独立しただけでキリスト教社会に留まった点では、信長が目の前で浄土法華両宗派のエリートを集めて宗論を戦わさせて(安土宗論1579年天正7年)合理的な方に軍配を上げるなど時代変革の意識鮮明だったのとは違いますので、社会に与えた効果が間接的で大きくはありませんが,似たようなことになったと言う意味です。
信長は石山本願寺と熾烈な戦いをしていたことを数日前に紹介したように浄土宗支持者は政治の場面では大敵でしたが,(和解したのは1980年ですからこの宗論はその直前・・まだ戦っている最中です)このときの軍配は浄土宗に上がったと言う、うろ覚えです。
法華〜日蓮系の排他的・・自由な思考を禁止する傾向に自由な発想を重んじる信長の合理主義が許せなかったのでしょうか。
叡山焼き討ちは古代から続く宗教意識の権威を木っ端みじんにすると言う信長による時代変革の意図的なものであったので、その後を受けた秀吉〜家康〜幕末まで時間をかけて徐々に,宗教権威をなくす方向が着実に進みました。
家康の頃までは学問知識が佛教を経由していたので,黒衣の宰相コト崇伝や沢庵和尚がまだ権威を持っていましたが、その後紫衣事件などの政変?を経て「学問知識」の源泉が朱子学に入れ替わり,更には陽明学導入で日本人意識の実践的精神・合理化が進んで行きます。
この合理的実践主義の尊重・・経験が明治維新以降の近代化・・現在の現場力の高さに大きな役割を果たしたのはまぎれもないところです。
佛教が知的権威から切り離されて行った経過については、11/28/05(2005年です)「儒教との距離5(定着していた仏教2)前後の連載で詳しく紹介したことがあります。
信長以降捲まず撓まず各種宗教権威が否定され,宗教界は葬式佛教や寺子屋程度あるいは各種興業(相撲巡業や軽業師その他)の場所貸し・・いまでは観光遺産?に地位低下させるのに成功したのです。
この辺,未だに天動説を信じ,あるいはダーウインの進化論など知らない国民が一杯いると言われる・・真偽のほどは分りませんが・・アメリカなどとの大きな違いです。
繰り返し書いていますが日本の社会変化は武士の勃興に始まり何事も数世紀上にわたって少しずつ着実で後戻りのない点が特徴で,この辺が個人的(トランプ氏もその一人にカウントされるのか?)粗暴性で突発的・革命的に起きる西洋とは基礎レベルが違います。
上記のように宗教の権威をつき破る意識改革が意図的・着実に進んだ日本とヘンリー8世の暴挙とは違いますが,ここではローマの教会の権威をコケにしてしまったことがイングランドでの社会変化の切っ掛けになったのではないかと言う思いつきを書いているだけです。
今になるとどう言う根拠か知りませんが(私のような視点によるとは限りません)従来のルールしきたりを無視する「とんでもない君主だった」と言う悪評価に対する再評価の動きがあるようです。
ヘンリ8世が思い切ったことが出来たのは,1つにはイングランド,アイルランドはローマ文化からの中心地から遠い辺境の地でローマ文化・キリスト思想の浸透が遅く半端であった(ケルト族の習慣・信仰が色濃く残っていることは周知のとおりです)ことから早く離脱出来たコトが大きかったように思えます。
もっと古くにはマグナカルタがありますが,もともとローマから遠い上に海を隔てている結果,ローマの権威が及び難かった・・地元民族固有の考え方や生き方がそのまま残り易かったことを表しています。
中世の特色は修道院文化とも言えますが,スペインやフランスなどに比べてイングランド・アイルランドでは修道院が(私の知る限りですが)それほど発達しなかったように見えます。
この辺は同じ漢字文化圏と言っても思考様式が中韓と全く違っている・日本の場合,都市のあり方・住宅様式から衣類・食材文化までまるで違っていますが、それほどではないにしても・・我が国と似ています。
イギリスでマグナカルタが出来,コンモンローが早くから発達し〜弁護士制度が発達し・・今でも国際的に弁護士業界が世界を席巻出来ている原因も,国教会の独立が大きな契機になったかも知れません。
ちなみに我が国サービス業の生産性が低いと言われていますが,・・ラーメン屋・デパートの生産性かな?どうやって計るのか?と思って内容を見ると,国際金融サ−ビス,コンサル・法律海運その他も含まれています。
法律サービスや金融サービス・コンサルも含まれているのでは、M&Aなどのコンサルなどで巨額報酬を得ているのに比べると我が国では企業買収等のコンサル業が未発達ですから,日本のサ−ビス業の生産性が低いわけです。
落ちぶれたりとは言え,イギリスは今でも法律・金融サービス分野ではだんトツで日本が遠く及ばない・国際競争力のある分野です・・歴史は怖いものです。
日本でのフランス革命の理解は、参政権→意見表明の自由・人権宣言の角度中心ですが,フランス革命に倣った西欧的理解では,参政権は派生的成果であって、信教の自由の獲得・・ローマ教皇支配から脱却こそが絶対に譲れない革命の成果でした。
日本では学校で学ぶフランス革命は政体変更(アンシャンレジーム打破)中心ですが,フランス革命の時系列的変化を見ると,一直線で共和制になったのではありません。
政体・・立憲君主主義か共和制かどのような選挙権を認めるかなどは正に(私に言わせれば)「些末な」革命の成果・・バリエーション範疇でした。
短期間の革命進行途中でさえめまぐるしく変わるので簡単に書ききれませんが,最初は(王制前提の)立憲君主主義宣言でしたし,途中で公安委員会が幅を利かす=議会と行政一体制の時代があり、共和制になったりテルミドールの反動があり,ナポレン帝政になり,ナポレオン失脚後王制に戻ったり更にナポレン3世の時代もあります。
共和制になってもいろんな風に政体が変わって来ました・・現在のフランスの政体はド・ゴール将軍の始めた何と第5共和制です。

日本と信教の自由2(津地鎮祭訴訟)

日本では信教の自由がなくて庶民が苦しんだ歴史がありません。
古代に天皇家自身が佛教を取り入れても神社を尊崇するなど自由自在でした。
「神も仏もないものか!」と言う嘆き節がありますが,日本人はどちらにすがっても良い関係でした。
まして佛教内宗派などは,どうでもいい状態でした。
一向一揆・あるいは信長が石山本願寺と戦ったのは,本願寺が足利義昭をバックに武田や毛利と信長包囲網を形成していたから戦っていたに過ぎず,本願寺勢が講和(天正8年閏3月7日(1580年4月20日誓紙提出)によって石山本願寺を退去した後は争っていません。
庶民が宗教の縛りに苦しめられた経験がありません。
閉鎖的な教会の建物に比べて日本のお寺は八方吹き抜けのお堂が中心で開放的です。
神社も同様です。
庶民にとってお寺や神社はいろいろなお祭りなど楽しむための場となり、京都の東寺の例で分るように市をたてる場ともなり、あるいは子供の遊び場になりひいては寺子屋と言う教育の場になり・集落の寄り合い場所にもなっていました。
私の子供の頃の経験では,朝のラジオ体操の場になり,夏休みには多様な年齢の子供がみんな集まって宿題をやったりもしました。
真夏の夜の楽しみ・・祇園祭などは神社でやっていました。
地域みんなのために奉仕する精神の発露が,戦後アチコチのお寺で始めた保育所・幼稚園でしょう。
女性が働きに出るようになると幼児の面倒を見る必要が出て来て預かり始めたのが始まりです。
庶民の多様な救済や楽しみを奪う排他的宗教が禁止されていた・信教の自由を積極的に守って来たのが歴代権力者の仕事でした。
新憲法によって欧米の経験による信教の自由が明記されるとオーム真理教のように無茶をしていても簡単に取り締まれなくなって聖域化しているマイナス効果の方こそ問題です。
宗教法人は簡単に出来るし何かと言うと憲法違反と言われるので,司直の手が入り難くなったので,ヤクザその他(節税にもなります)がこれを隠れ蓑にして宗教法人化するのがこの数十年來の大流行です。
オーム真理教事件は氷山の一角に過ぎません。
憲法
第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
明治憲法には,以下の通り信教の自由に関する独立の条文がありません。
第2章 臣民権利義務
第19条 公務への志願の自由
第20条 兵役の義務
第22条 居住・移転の自由
第29条 言論・出版・集会・結社の自由
第31条 非常大権
日本では、排他的宗教が大嫌い・言論自由が原則社会でしたから、西洋で信教の自由が必要とする社会とはマ逆の社会でした。
食後の人にはお茶が良いのですが,空きっ腹の人にはお茶よりも栄養のあるものの方が良いのとの違いです。
日本では信教の自由=言論の自由がある代わりに言論のルール・・嘘つきや他人の悪口を言うのは御法度の道徳律が古代から確立している社会です。
言論の自由の歴史がない結果,表現の自由とセットになっている言論のルール・・嘘つき・告げ口等が許されないルールが分らない・・でっち上げで何でも言いたい放題の中韓政府とでは議論が噛み合ない原因です。 
民主主義社会では決めたことは(相手が誰であろうと)守る前提になりますが、専制支配下では恣意的命令が基本ですから約束を守るよりも,強そうな人の様子をうかがって,その意向に従う方が重要です。
昨年ドイツのメルケル首相来日時日韓慰安婦紛争や南京虐殺騒動などに関して「日本が周辺国と戦後和解出来ていない・・」(のは日本の責任だ)「ドイツに見習え」と言うキャンペインをしていたマスコミ質問に対して「良い周辺国に恵まれているので・・・」とメルケル首相がうまく交わしたように・(良いクニでない)こういう国が周辺にいることが日本の苦労です。
日本は先進国基準で言えば,周辺国と十分な和解が出来ています・・中国を代表する国民政府と和解し,本来必要のないその後を継いだ中共政権とも念のため改めてに和解しています・・韓国とも父親の朴大統領時代に日韓交渉で充分過ぎる保障をして和解しています。
和解に基づく日本の巨額経済援助の結果高成長出来たことに味を占めて,彼らはまた金になると思って蒸し返して来たと多くの日本人が思っているでしょう。
アメリカの要請もあって,仕方なし2回目の日韓合意をしましたが,日本からの金の振込が終わると再び韓国では昨年の日韓合意は大統領罷免と連動して,また無効だと言う動きが始まっています。
こういう国とは,(民意水準が簡単に上がらないでしょうから)朴クネ大統領の言うとおり「千年付き合わない」方が良いでしょう。
欧米にとって死活的重要性のある信教の自由が(日本では元々普通である)我が国で改めて明記されたことによって,何か意味を持たせるために歴史本質を離れてケチ付け訴訟のタネになっている例として・・津地鎮祭訴訟に関するウイキペデイアからの引用でみておきましょう。
「津市体育館建設起工式が1965年1月14日に同市船頭町の建設現場において行われた際に、市の職員が式典の進行係となり、大市神社の宮司ら4名の神職主宰のもとに神式に則って地鎮祭を行った[1]。市長は大市神社に対して公金から挙式費用金7,663円(神職に対する報償費金4,000円、供物料金3,663円)の支出を行った。
これに対し、津市議会議員が地方自治法第242条の2(住民訴訟)に基づき、損害補填を求めて出訴した。」
「最高裁判所は(1977年7月13日大法廷判決)
「わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。 (中略) (憲法二〇条三項の禁止する宗教的行為とは)およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。
本件起工式は、宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから、憲法二〇条三項により禁止される宗教的活動にはあたらないと解するのが、相当である。」
判決ではフランス革命の歴史まで説き起こす必要がありませんが,妥当な結果です。
信教の自由は魔女狩りや自由な言論弾圧,悲惨な宗教戦争を阻止するべく生まれたものであって,百円〜数千円の寄付を禁止するためにワザワザ憲法で規定したものではありません。
憲法学者は「蟻の一穴」と言うのでしょうが、物事は程度問題ですからこれを越えると揚げ足取りの評価になります。
野党の国会対応を見ていると揚げ足取りに終始していて自分の主張が見えない傾向があるのはこのような戦術に長年堕している結果です
人の表情やモノ腰態度も全て人格表現の一部と言えば言えますので,これを理由に四六時中部下や子供を叱ってバカリではイジメの一種で部下はイヤになるし子供はぐれてしまいます。

PeopleとCitizen2

支配層のピープルに対する差別意識は古代ギリシャ・ローマ〜現欧米がオリエントの異民族から最先端文化受け入れによって成り立っていたこと・・先端文化を吸収したものだけがエリート・支配層と言う意識が基礎にあったからだと思われます。
その上,イギリスのノルマンコンクエラーが有名ですが,イギリスでは支配層は原住民・ケルト族の上に君臨する異民族でした。
イギリスでは支配層と庶民とでは体格からして違うし使っている英語自体が違うと一般に言われていますが,これは元々異民族支配によるものだからです。
この辺はフランスその他のクニでも支配層と庶民はまるで違っている原因です。
フランスに行っても格好いいパリジャンばかりではなく庶民の多くは貧相な体格です。
重層的に支配者が入って来て上にかぶさって来た歴史のあるインドでも、立派な風貌の支配層と庶民とはまるで「人種」が違います。
西欧諸国では長年ラテン語しか公式言語・文書がなかったことからも分るように,あるいは教会に入れるのは地元の有力者だけであったこと・・宗教戦争と言っても領主がどちらかに決めれば,その領内全員がその宗派に変わる程度の信仰でした。
もともと領民は支配対象であって人間の仲間・・意思主体と認めていない社会であったこと・・領民の自己決定権尊重など思いもよらなかったからでしょう。
これが戦国末期に日本に来た宣教師らが日本における庶民の重要性に気付かず、領主中心に布教して失敗した原因です。
キリスト教はローマで国教化に成功した以降、庶民から遊離して儀式を荘厳化するなど庶民の苦しみ救済と関係なく権力に結びついて広げていたコトが,この一事をもっても分ります。
庶民が宗教を支えていた日本の浄土宗系や念仏系、一向宗とは違い,キリスト教徒の言う宗教は、権力をカサに来たものであって,庶民の心・・衆生救済に本当に関係していたか不明です。
救済能力が形骸化の反動で異教徒かどうかに異様に関心がある・・あるいは他の宗教に対する敵意が重要になっているのではないしょうか?
中韓の内政がうまく行かないと矛先を日本に向けるのが常態化しているのと同じです。
西欧や中国の領土論では、行った先に旗を立てて来たら自分の領土だという不思議な主張も領主さえ取り込めば宗教地図上の勝負アリの思想とどこかに共通性があるのかも知れません。
西洋では文化が上からの浸透を基準にしているので、庶民にキリスト教がどこまで浸透していたか不明な状況であったことからも分るように,西欧の庶民はずっとローマ文化の被支配者・アウトサイダーのままだったと思われす。
とりわけ,ローマ滅亡後の中世キリスト教精神は修道院中心になって行ったことから分るように,言わば牢獄的思考停止を強制する(修道院で生まれた食品もありますが原則を書いています)精神世界ですから,新しい発想が生まれ難い社会を強制していました。
ガリレオガリレイの「それでも地球は動いている」と言う言葉が有名ですが,ルネッサンス最盛期でさえ自由な考えや発言が許されない状態だったのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki
ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 – グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。
ルネッサンスの曙とされるダンテの「神曲」は1300年丁度ころから順次発表されたものでしたが,それから約250年後でも,この有様です。
如何にキリスト教神学?が思想の自由を奪い中世西洋社会で圧政の裏付けとなって来たかが分るでしょう。
新しいことを言えば異端審問や魔女狩りの恐怖が待っている・・言わばキリスト教が沈黙を強いられる社会を強制していたのです。
旧ソレンがこの焼き直しで「共産主義」と言う新たなドグマ(「教義」と訳されていますが正に「教義」です)を定立し、政敵が出ると反党的言動(異端審問の焼き直し)として容赦ない粛清対象にされていました。
ソ連政府は,西洋諸国では,フランス革命で信教の自由・・すなわちキリスト教神学に縛られない自由を宣言していて、これを否定出来なかったので,共産主義を宗教ではない・合理主義と称して,非合理な印象の旧宗教を一律禁止しましたが,本質は共産主義と言う新興宗教以外認めない一神教の論理を近代風に言い換えただけのことでした。
ロシア社会は西欧よりも数世紀単位以上遅れた・・一種の古代社会でした(今も安倍総理がロシアと交渉するのに先進国基準で話し合ってもむりです)から,その社会に合わせた一種の反動・・思想信条の不自由を維持する必要に迫られていたものの・・社会主義革命は資本主義の矛盾を解決する新時代をになうもの・・先進性を主張するためのレトリックとしての表現だったことになります。
ルネッサンスを「人間復興」翻訳されているように,1000年に及ぶ中世の暗黒時代・・何も言えない・・黙って牛馬のように農作業等の従事するしかなかった人民が人間が人間らしい生き方を表現したいと主張し始めたのがルネッサンスだったのです。
この圧迫・隷従の時代には,庶民から生まれる文化など想像すら出来なかったし,大衆社会と言われる現在でも欧米では現場力より特別なエリートが集う研究所などで研究すれば足りるという意識が今でも強固に残っている原因です。
芸術(音楽や絵画)も原則として修道院〜大聖堂建築からしか生まれない・・庶民の支持を問題にしない・・前衛と称して庶民のずっと先を行くものと言うエリート思想が定着している源流です。
今でも欧米系展覧会に言っても何が何だか分らない前提で,客の評価は問題にしない「お前はレベルが低くて分らないのだ」と言うのが欧米系芸術展示方法・・専門評論家の批評だけが頼りと言う変なシステムです。
日本の都々逸、端唄小唄,歌舞伎や浮世絵あるいは,古くは源氏物語〜今様や(難しそうな能狂言でさえ神社等で各地民衆に開放されて演じられて来ました)〜各種絵双紙もその時代,時代に普通の読者・観客に受入れられて来たものであって,「時代の先を行くものだから素人が見ても分らない」と言う受け止め方はありません。
どんなにニッポン民族が貶められている時代でも洋画は専門家がそろっている?美術館等が買い上げるものであって,市場では日本画の方が実際に高額で売れていた・・洋画に何千万も自己資金を出す客がいるでしょうか?
宗教に戻しますと,日本では八百万の神が仲良くする社会ですから、他宗教と争い相手を排撃するものと言う前提で宗教観を聞かれると、多くの人は(占領下でうっかり言うと危ないと言う自己保身もあって)無宗教と答える習慣が根付いていますが、神道やお寺は庶民の心底からの支持で成り立っているので神社仏閣に行けば自然に手を合わせる状況は今も変わりません。
西欧庶民にとっては地方に残っている教会に対して日本のように何かありがたく感じるものがない印象ですが、これは上記のとおり千年単位で文化征服・圧政の象徴・出先機関・道具としての歴史があるからではないでしょうか?
日本では各地でお城の復興に熱心ですが,西洋では遺跡扱いになっているのは中世〜近世にかけての領主と人民の関係を表しているのと同じです。

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