アメリカンファーストとは?2(身勝手宣言)

トランプ新大統領の主張は,自国の競争力(民度)を無視した剥き出しの結果重視主義ですから,言わば能力主義の旗を降ろしたことになります。
自由主義社会とは日々の競争を通じて日々ランキングが変わって行く社会のことですが,自由な競争の結果勝った・黒字が出たら不公正貿易国認定し高関税を掛ける・・それがイヤなら自主規制,または「一定率の輸入を増やせ」と強制するのですから,これでは現状固定主義と言うしかありません。
このやり方は、「能力のある国や企業の挑戦・台頭を許さない」と言う意思表示とほぼ同じです。
自由平等の基本的人権思想は、能力面の自由競争を保証し、その結果生じるランキングの上下変動・能力に応じた出世や降格・淘汰を認める社会をめざすものです。
これを国家や企業に適用するのが市場経済主義であって、売り上げが伸びた結果だけ見てその企業を不公正企業と認定して課徴金や高関税を課し、企業利益や規模アップを抑止するのでは、能力主義の禁止または大幅抑制主義になります。
能力を伸ばさせない・・企業の浮沈を抑制し、過去の実績を基準にする=現状の国力・生産力固定主義=能力に関係なく家禄は一定だった江戸時代の世襲制の焼き直しになってしまいそうです。
アメリカは国家間競争だけ儲けを基準に制限しようとするものですが,この論理を国内にも及ぼせば,個人や企業が儲けが大きいと「お前は不公正競争しているに違いない」と言って,取り締まるのと同じです。
「国内ではそんなひどいことしませんよ!」と言うならば,何故「外国相手なら何をしても良いと」言えるのかが問われねばなりません。
欧米の言う人権や正義は市民・支配層間だけのことであったし,これを国民全部・ピープルに及ぼした現代でも、「外国人・異民族に対しては何をしても良い」という意識が強いから,(対日戦争では,一般人の大量殺戮を繰り返しました)国内外でためらいなく基準を変えられるのでしょうか?
ところでトランプ氏個人批判が強いので誤摩化されますが,この種の主張はオバマ政権でも既に出ていて,一定率以上の国際収支黒字国を為替操作国と認定する基準を発表し,その対象に日本が入ると発表されていました。
ウイキペデイアによると以下のとおりです。
「為替操作国(かわせそうさこく)とは、アメリカ財務省が提出する為替政策報告書に基づき、アメリカ議会が為替相場を不当操作していると認定した対象国。
アメリカ財務省は、1988年から毎年2回議会に対して為替政策報告書を提出している。
2016年4月29日にはアメリカ財務省は為替介入を牽制するために為替監視リストを発表し、中国・台湾・韓国・日本・ドイツの5カ国が監視対象となった」
上記には監視対象国基準を書いていませんが、以下のロイターの記事のとおり当時の報道には,黒字額を基準にしていると報道されていました。
Business | 2016年 04月 30日 06:40 JS
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「米為替報告、日中独など大幅な黒字国5カ国を監視リストに」
上記のとおり不公正の監視対象国指定根拠は単に黒字が大きいか否かだけですから、大幅な黒字国の発生を許さない→将来黒字国の国力上昇の芽を摘む・・国力変動を認めない意思表示となります。
競争にはルールが必要ですから不公正競争が許されないのは当然ですが、何が不公正かを誰がどのように決めるべきかとなれば、国内の基準(・・例えば不正競争防止法など)はその国で決める・・主権の範囲内でしょうが、国家間の取引ルールの基準は国際合意で決めていくべきが当然です。
国内基準であっても,議会や相応の審議会などの議を経ないで権力者がイキナリ「鶴の一声」で決めるとなれば専制支配と同じです。
国際関係について、ある国が一方的に基準を作り他国に強制するのは、国内的に見れば独裁手法を取っているのと同様の評価を受けるべきでしょう。
不公正貿易に関する国際合意機構であるガットやこれを継承したWTOなどの国際合意システムが戦後発達して来たのは,強国(アメリカ)の横暴が第二次世界大戦の原因になってしまった反省から,これを許さないと言う国際意識の高まりによります。
折角営々と築いて来た国際合意をアメリカが無視して、どのクニを不公正貿易国と認定するかは、アメリカ政府のサジ加減・・黒字率を何%にするかの決め方次第でやって行くと言う横暴な宣言がトランプ氏の発表です。
中国で存続して来た専制支配の宣言とどう違うのでしょうか?
このような考え方の基礎になっているいわゆるスーパー301条に関する日本大百科全書(ニッポニカ)の解説スーパー301条 – Wikipediaの解説です。
「アメリカで制定された「1988年包括通商・競争力法」の条項の一つ。不公正な貿易政策をとる国を特定し、制裁措置を振りかざしながら譲歩を迫るための手続を定めている。具体的には、アメリカ通商代表部(USTR)がアメリカ製品の輸出を妨げている国と政策を特定し、それを改めるよう交渉し、交渉後一定期間内に満足できる成果が得られない場合は、関税引上げなどの報復措置がとられる。
 このような一方的な措置は、世界の貿易ルールを定めた世界貿易機関(WTO)協定の精神に違反していると国際的に強く批判されているが、アメリカ市場は巨大であり、理不尽と考えても交渉や譲歩を拒み続けられる相手国は少ない。」
今はスーパー301条が有名ですからこの時からアメリカの無茶が始まったかのように誤解している人が多いでしょうが、アメリカの身勝手な保護主義の動きは戦前から続いています。
大恐慌発生による不況脱出のためアメリカが高関税の口火を切って,西欧やカナダから直ちに報復関税を受けるなど(・・この関税強化戦争が第二次世界大戦の原因になったことは良く知られているとおりです)国際経済はガタガタになりました。
アメリカは元々社会的練度の低いクニですから、何かあるとすぐにショックを受けてしまい短絡的行動に走り易い・・極端な保護主義に走り易いクニであったことが分ります。
こうした我がまま主義ををモンロー主義とか孤立主義などとオブラートに包んで表現するので、私のような素人には気が付きませんでしたが,図体の大きなアメリカが自分が強いときには自由貿易の旗振りをしていて競争に負け始めると閉じこもり宣言・・図体が大きいので廻りが放っておけないことを良いことにわがまま放題やって来た歴史が分ります。
無茶であろうとも図体が大きくなりすぎているので国際ルール破りを除外する訳にはいかない・ボイコット=経済的に見ればイキナリ国際物流の断ち切り宣言ですから,廻りの迷惑は計り知れません。
日本で言えば対米貿易が数十%もありますから,お互いに相手にしないとなれば日本にとって大打撃です。
その上日本からの他国への輸出入もアメリカが絡んでいることが多いので,世界中がアメリカとの貿易を拒否すると世界の物流が大混乱します。
地域的に見ればスエズ運河が止まると大変なので,廻りが放っておけないのと同じです。
アメリカがいくら無茶しても世界中がこれをを拒否し貿易から除外出来ない所以です。

新興国台頭と日本の進むべき道2

20世紀以降に形成された能力主義・平等主義とは,腕力・軍事力差を能力の指標とは認めない社会を目指して来ました。
個人間ではずっと昔からそうでしょう。
このルールに従い切れない集団を「暴力団」として忌み嫌って来たのです。
西洋諸国間では,ウエストファーリア条約以来累次の戦時条約等でなんとか腕力主義による無茶苦茶が是正されて来ましたが,彼らは異民族に対して腕力・軍事力さえ強ければ何をしても良いと言う暗黙の理念で植民地支配・奴隷支配をして来ました。
植民地だけではなく南ア連邦では人種差別によるアパルトヘイトがつい最近まで公然と行なわれていたのです。
その外延の1つがアヘン戦争でありその結果支配下の中国人を大量にクーリー(黒人のように奴隷ではなく2級市民)としてアメリカに送り込んだ原動力です。
幕末開国を迫られたときの我が国の欧米諸国に対する評価は一般に(どこで読んだか記憶がありませんが)「豺狼」のような欧米諸国と表現されていました,・・この中に放り出される以上「至急軍備を整えるしかない」となったのが幕末〜明治維新政府でした。
日本の軍備強化は欧米に追い込まれ事実上強制されたものです。
トランプ氏の政策方向をみると,任期中の短期に人材レベルアップ政策採用してもその効果が出るわけがないので,任期中の短期的成果を求めるならば,中国などの地域大国が腕力に任せてルール違反していくのを真似するしかないと思われます。
これまで非正規をしていた人がイキナリ10日で稼げるわけがないのでに10〜20日で10億円稼いで持って来ると言えば,何か悪いことでもするのじゃないかと親が心配するのが普通です。
普通のルール破りをする宣言と読むべきです。
自国自身が率先してルール破りをする宣言とすれば,世界の警察官をやれるわけはありません・・ルールに基づく介入ではなく自分の気に入った国に対してのみ応援する・・ヤクザ集団の「出入り」と同じになります。
アメリカは西欧に比較して粗野系と言うか底辺層の移民が多いせいか、(元々黒人や中国人をクーリーとして最底辺で使っていたことからも分るように粗放労働が好きです)資源が大量にあっても技能競争力・近代産業適応力では西欧や日本に比べて(日本より先行してはいたものの)劣っていたように思われます。
今でも量は作れるが,おいしいものや内容のある映画・・良いものが、アメリカで作れない原因です。
産業革命の結果、大量生産,儲けを生むおこぼれとして労働者の生活水準・社会的地位を向上して行くモデル社会が始まると→奴隷または奴隷的労働ではうまく行きません。
これが工業化が進んだ北部で奴隷無用論が広がった基礎であって,(異民族である日本に対する原爆投下や戦時国際法を全く守らずやりたい放題やったことや黒人差別が最近まで残っていることから見ても分るように)人権思想とは関係がありません。
リンカーンやトランプの「あなた方のため・・」の演説だけでどうなるものではない・・繰り返すように民度レベルにかかっています。
世に中間層の厚い社会は安定していると言い、過去を懐かしみますが,たまたま資本家支配層と被支配層にとってウインウインの例外的時代だったのです。
ここでアメリカでのベルトコンベアー方式発明の歴史的転換に入ります。
これと言った訓練コストなしにクルマを作れるようになったベルトコンベアー方式のアイデアは、アメリカ(資本主義者)アメリカ社会にとって最も必要な発明でした。
ベルトコンベアー方式はちょっとした訓練・未熟練でも何とかなる仕組みを開発したもので、アメリカの労働者レベルの低さ・弱点を補う面でも画期的である・・黒人等低レベル労働者の大量利用が可能になったばかりか,日欧に比べて大量資源を有しているアメリカの大量生産能力を引き出す点でも画期的でした。
ベルトコンベアー方式の発明は,産業革命以降発展して来た労働者重視の価値観の180度転換・・このときから支配層にとっては手間ひまのかかる民度のアップ・・技術アップ努力よりは,作業を細分化・単純化工夫によって未熟練・低賃金労働者を安く大量に使う競争に入りました。
大量生産方式は,技術レベルで比喩的に言えば従来5〜6点必要な作業が2〜3点で良いならば,5〜6点の能力の人はいらない・・2〜3点の人と同じ給与しか払いたくない社会の始まりです。
ベルトコンベアー方式の理念・・何事も作業工程を細分化して単純工程化して誰でも参加出来るようにする研究・価値観は,20世紀始め頃には,資源+未熟練労働力の多いアメリカが有利でしたし、この優位性維持のために移民受入れ政策を続けて来ました。
アメリカ一強の戦後の基本的論調は粗放・粗製濫造が賞讃され大量生産・大量販売・・・スーパーダイエーが目指した方向性でした。
従来テストで50点も取れないような人では使い物にならなかった仕事が2〜30点台の人でも5〜60点の人と同じ仕事ができる社会です。
上記は比喩的例示であって力がないために仕事出来なかった女性でも、トラックや重機運転手などいろんな分野への弱者参加が始まりました。
これは弱者・底辺層にとっては福音ですが,能力差を強調して高額賃金を得られなくなり,しかも大量参加する結果労賃単価が安くなるのは避けられません・従来の5〜60点の階層にとっては大変な事態です。
この工夫開発に必要な開発要員は大切ですが,開発研究に関与するには7〜80点以上必要とすれば、5〜60点台の中間技術者や中間管理職に高給を払う必要がない・彼らを減らす方向を目指すことになります。
機械化・工程細分化進展に比例してより低レベル未熟練工(事務系で言えばそろばんが出来なくとも計算機で簡単に出来るし,パソコンでもっと便利・・計算能力不要)でも生産に従事させられるようになると,(日本のように中間層の文化水準アップによる工夫努力で差をつけるにはもの凄いエネルギーがいる割に成功率・効率が悪い?)より低レベル(低賃金)人材を求めて更に突進・開き直りに徹して来たのが、中国の改革解放以来の移民受け入れ拡大と工場の海外移転方策でした。
中国の改革開放でそこへ生産拠点を移転すると大量チープ労働者がまとめて手に入るようになったのでこれが製品価格低下・デフレ・・中間層没落の契機・結果になっています。
これは流れ作業方式が(アメリカその他先進国内でのチマチマした変革から)ガットからWTOなど国際物流の発達によって、遠く海外・・世界規模で大々的に始まった到達点・結果の始まりであって,原因ではありません。
中国への生産拠点移動など20世紀終わり頃から新興国の製造業参入が始まると、移民受け入れだけでは粗製・大量生産競争では低賃金の本場である新興国に負け始めます。
アメリカはこの対抗策として、北米自由貿易協定(NAFTA)でアメリカ企業自体が一斉にメキシコに工場移転を始めました。
ナフタは,ウイキペデイアによれば,1992年12月17日に署名され、1994年1月1日に発効した。」とあります。
17年1月20日日経朝刊3ページによれば,「NAFTAの利点を利用しようと多くの企業がメキシコに生産拠点設置し,93年に16億ドルの黒字であった米国の対メキシコ貿易収支は,2015年には606億ドルの赤字になった。」とあります。
文字どおり怒濤のような勢いです。

観念論の弊2(神学論争)

大陸諸国とイギリスの国民性の違いは、大陸の観念論に対してイギリスの経験論として比較されるのが普通ですが,観念論は体系的一貫性を重んじる傾向があります。
先進社会から優れた観念が先に入って来た文化格差の大きい社会や気候変動の画一的な大陸に多い現象だと思われます。
一度圧倒的に進んだ文化の体系が樹立されると、現に起きた事象をその体系内で矛盾なく処理出来るような解釈論の工夫(これを「新説」と言う程度)に傾注するのが普通・矛盾なく説明出来る論理を発明考案?するのが優秀な学者になります。
先進社会から遅れたゲルマン・ガリアの大地に入って来た場合のキリスト教神学もその一種だったでしょうが、十字軍遠征の結果タマタマ、プラトン系(イデア重視)か、アリストテレス系(形相・質量)かの大きな争点が提起されたことが言論活発化の端緒となり救いだったことになります。
(ただし私には文字どおり高邁過ぎる「神学論争」でよく分りません)
ところでプラトン、アリストテレスの議論が入って来たのは(十字軍の結果)アラブ言語で書かれたプラトン等の思想が入って来て、これをラテン語に翻訳したことによって漸く始まったのですから,西欧のギリシャ文化と言っても実は(見落とし勝ちですが)アラブ経由のしかも十字軍以降の理解であったことが重要です。
我々は学校で「ギリシャ・ローマの文化」と習いますので,ローマ滅亡後に同時的に西欧に入ったかのように誤解していますが,ギリシャ文明は十字軍の後に別ルート、アラブルートで入って来たものです。
ギリシャ文明の流入があってこそ多様な価値観の存在を知り、その刺激でルネッサンスが始りひいては新教発生の土壌となり宗教戦争を経て,信教の自由になって行ったことになります。
プラトン哲学などが「アラブ語をラテン語に翻訳することによって広がった」と言う意見をどこで読んだか根拠を探せませんが,ウイキペデイアでトマスの記事を見ると以下のとおりです。
「トマスの生きた時代は、十字軍をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわず、これをとどめることはできなくなっていた。また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさの中で、イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻いていた。」
上記ウイキペディアの通り唯一神のキリスト教の立場では多様な哲学思考に発展しかねない多島海文明のギリシャい思想流入に反対の立場であったことが分かります。
上記のとおり、アラブ世界からそのころにギリシャ哲学が入ってその刺激で神学が飛躍的に?(その前から修道院中心にキリスト教の儀式その他こまごまとした研究発表がありました・・哲学分野で)発達したことになります。
逆から言えば、形而上の論理に関心を持つ人材が漸く育って来たから、需要があって翻訳流入も始まったと言うことでしょうか?
アラブを通じてしかもアラブ語をラテン語に翻訳しないと入らなかった・・ラテン語文献がなかったと言うことは,ローマ帝国ではギリシャ哲学が全く顧みられていなかった・・・・ラテン語への翻訳がない=需要がなかった・・程度のレベルであったことが分ります。
あるいはキリスト教が国教化した結果多様な意見が死滅してしまったのかも知れません。
ちなみに、神学大全と言うとトマス・アクィナスが有名ですが,ウイキペデアによると、彼は途中死亡して,弟子達がその後に完成したものと紹介しています。
完成時期不明ですが1300年以降でしょうか?
「1274年3月7日にトマスが世を去ると、残された弟子たちが師の構想を引き継いで第三部の残りの部分(秘跡と終末)を完成させた。」
『神学大全』(しんがくたいぜん、羅: Summa Theologiae, Summa Theologica, Summa)は、「神学の要綱」「神学の集大成」という意味の題を持つ中世ヨーロッパの神学書。13世紀に中世的なキリスト教神学が体系化されると共に出現した。一般的にはトマス・アクィナスの『神学大全』が最もよく知られているが、他にもヘールズのアレクサンデルやアルベルトゥス・マグヌスの手による『神学大全』も存在する。」
神学論争と言ってもせいぜい13世紀中頃からの始まりでしかない・・西欧社会の形而上の思弁能力発達の遅さが目立ちます。
我が国の発達をウイキペデイアでみると
古くは,空海・弘法大師には多様な著書がありますが,佛教理論書については,「天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻(天長六本宗書の一)を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著した。」とあり、
法然の著書『選択本願念仏集』は(『選択集』)建久9年(1198年)で、かなり遅いと思われる『立正安国論』でさえも1260年ですから有名なトマス・アクィナスより早いことが分ります。
その他に最澄や親鸞、栄西、道元等々有名人が一杯いますので,日本社会の思想活動の早さが分ります。
西欧の神学論争に戻りますと,折角ギリシャの有り難い哲学思想が輸入されたのですが,プラトン、アリストテレスの違い(中国で言えば孔孟の教え)だけでは中世終わり頃に実際社会の説明がつかなくなって来た(中国では朱子学による再構成による)ことが,キリスト神学の権威喪失→新教発生→キリスト教の信用低下の原因になっていったと思えます。
中国の場合,儒教にももいろんな学派があったのですが,中世以降朱子学一辺倒になって以降細かな解釈(訓詁)学になってしまい,思想界の停滞を招いたと言えます。
逆から言えば,紀元前の孔孟の教えを中世に朱子学による再構成しただけで社会が20世紀まで間に合っていたのが中国・朝鮮社会であった・・停滞したままであったとも言えます。
・十字軍遠征→イスラムの影響があった・・海で繋がる西欧とは違い,中国は広大な砂漠の西域からの文物流入が基本でササン朝ペルシャ以降外部刺激が少なかったので(眠れる獅子?)居眠りしていて20世紀まで間に合ったのかも知れません。
体系的一貫論に戻りますと,忠臣蔵の事件処理で言えば,儒学が重視する「忠」の理念だけでは社会秩序維持との矛盾相克を処理出来ず儒者の信用が失墜したコトを紹介したことがあります。
綱吉の動物愛護精神もそれ自体立派な考えですが,社会生活との折り合い必要だったのにこれに気がまわらなかったので悪政になったものですし,観念論で貫徹するのは強力な専制支配以外には実務上必ず無理が出て来ます。
忠孝最重視の価値観と社会秩序の相克が綱吉以降の我が国で直面した問題であった・・貨幣改鋳を悪政として批判した新井白石も同じです。
金含有量を減らして改鋳するのは伝統的儒学的価値観からすれば,(「悪貨良貨」の熟語があるほど古くからの基本です)悪政と言えば悪政です。
しかし、悪貨の概念は,金を商品としてとり帰する前提から始まった歴史を見れば含有率を偽るのは、言わば詐欺行為です。
商品・品質を偽ることに非難基礎があるのであって、貨幣経済を前提に社会全体を見る意識のなかった古代の観念を,経済政策の是非の判断に流用するのは間違いです。
新井白石によるい閉会中に対する批判は、今のゼロ金利政策や日銀国債購入性悪説同様に、貨幣改鋳がタマタマ過去の(古代の貨幣経済未発達時代の)価値観にあわなかっただけのことでした。

民度4(朝鮮族2・観念論の弊1)

古代日本は律令制その他多くの制度を導入しながら,思想の均一化をもたらす「科挙制」を頭から採用しなかったのは,やおよろず・多様な意見を尊重し硬直した主張を嫌う民族性→科挙制度の危険な本質を当時から見抜いた先人の優れた智恵です。
日本は徳川家が佛教に代わる学問として儒学を重視したのは,佛教経由の学問では近世社会に適合出来なくなっていたからですが,(04/13/08「佛教から儒教へ1」以下に連載しましたが,儒学も赤穂浪士の処断に当たって限界を露呈したことも紹介しました)家宣父子の中継ぎを経た吉宗が儒学者新井白石を失脚させて以降,自由な学問が花開いたのは古代に科挙制度を採用しなかった賢明な選択に負うところが大きいと思われます。
律令制を取り入れても「(事実上骨抜きにしましたが)、科挙制を当初から採用しなかった点については2005年・・11/26/05「日本に科挙が導入されなかった理由1(地方分権社会1)」その他でいろんな角度から書いています。
ソモソモ,李氏朝鮮の長い統治期間中にこれと言った学問業績の有無については(寡聞にして)聞きませんが,その原因は朱子学採用以降、明朝、清朝及びこれを宗主国とする李氏朝鮮では,明清朝以上にその解釈学に特化してしまったことによると思われます。
解釈ばかりしていると学問研究とは言えない・・思考の範囲が既存権威内での応用に限定され,幅広く思考を巡らせるべき知能も発達しません・・。
まして自民族発祥思想ではなく,宗主国の明や清朝でどのような解釈が主流か?の早耳を競う程度が重視されるようになるとなおさらです。
私の司法試験受験勉強当時には,「今ドイツではこのような考え方が新しい流れだ」とか一方で戦後はアメリカ支配でしたから「アメリカの判例動向がどうの」とか・・アメリカに留学して来たばかりの新進気鋭?学者の意見が注目を集めていました。
憲法や刑事証拠法など人権保障関連は米国発の法理でしたから,米国の判例の動きや解釈論などが幅を利かしますが、ワイマール憲法同様に日本国憲法が理想的理念で作られたことが欠点です。
良く知られているように日本語通訳だった20代女性が抜擢されてイキナリ短期間に空想論で作ったことが,大きな原因になっていると思われます。
法や憲法は政治利害を前提にした妥協で出来上がって行く結果、実態に応じたものに練り上げられますが(綱吉の生類憐みの令は独裁権力の欠点が出た・社会生活者との妥協をしなかった点が問題でした),社会経験もない一介の通訳がイキナリ憲法草案を密室で書き上げた・占領軍独裁制の欠陥がモロに出たもので,ほんとに「交戦権がない」と言うことで良いのかなど無理・・稚拙過ぎる条文・・これが未だに平和憲法論争の原因になっているのです。
ソモソモアメリカ憲法は(判例法主義の伝統を受けて)修正第何条と言う表現が有名なようにしょっ中書き直されて来たもので、運用して都合が悪ければ修正して行く仕組みで「不磨の大典」ではありません。
素人が思いつき的に「戦争のない社会が良いなあ!と言う程度で現実国際社会との折り合いなど考えずに書いた条文・・いつでも修正出来る前提で気楽に書いた条文をその背景を考えずに絶対修正出来ない「平和主義」の理念を守れなどと言う壮大な観念論の柱・金科玉条にしてしまうのは一種のすり替え・詐欺みたいな主張です。
以下は諸外国の憲法改正の回数に関する国会図書館による調査研究からです。
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8624126_po_0824.pdf?contentNo=1第824号 国立国会図書館
諸外国における戦後の憲法改正【第4版】調査と情報―ISSUE BRIEF― NUMBER 824(2014. 4.24.)
国立国会図書館 調査及び立法考査局憲法課(山岡やまおか規雄のりお・元尾もとお一りゅういち)
●1945年の第二次世界大戦終結から2014年3月に至るまで、アメリカは6回、カナダは1867年憲法法が17回、1982年憲法法が2回、フランスは27回(新憲法制定を含む。)、ドイツは59回、イタリアは15回、オーストラリアは5回、中国は9回(新憲法制定を含む。)、韓国は9回(新憲法制定を含む。)の憲法改正をそれぞれ行った。」
平和憲法その他の信奉者は,アメリカにもその実例がないのでアメリカの判例(解釈)を錦の御旗として利用出来ないので,「近代法の法理を守れ」「憲法違反」などどこの国にも実際にない空理空論・法理を主張するしかない状態のように見えます。
思想家ではなく法律家である以上は、観念的反対ではなく,諸外国・・共謀罪や秘密保護法や憲法停止の非常事態制度(・・フランスが昨年のテロ以来執行中)のある国で、どう言う人権侵害事件が起きているかの例を出して議論すべきだとこのコラムで繰り返し書いていますが,そのような事例を出す気配がなく相変わらず抽象的反対を繰り替えしているだけです。
スパイ防止関連法や個人識別情報制度を人権侵害と騒いでいる先進国がないので,「近代法の法理に反する」と意味不明の原理を持ち出すしかないのでしょう。
現在は近代社会のままではない・・法理も時代に合わせて変わると言う意見をどこかに書きました。(貨幣の正邪も時代によって変わることを明日書きます)
日本の法学者の多くは,近代までの中朝民族の頑迷固陋な観念論の信奉者よりもずっと上を行く、特殊精神傾向の集団ではないでしょうか?、
ついでに書いておきますと,アメリカ式勉強法の導入は我が国発展に大きな意味があったと思われます・・たとえば、勉強の仕方まで変わる・・アメリカではケースメソッド・・事例研究中心であることも知りました。
私自身高尚な議論は不向き・・実務家向き?ですので,事例演習形式の勉強の方が理解し易いので助かりましたが・・。
法科大学院制度創設後の新司法試験問題を見た印象では,徐々に事例を上げてその解決方法を問う事例設問形式中心に変わって行き,今ではこればかりのような印象です。
こうなると大学院での法律相談実習や模擬裁判など実技訓練が必須になって来るので、法科大学院へ行かない独学者には不利になっています。
アメリカ一辺倒の時代になっても英米法は判例法のクニ・・事例に合わせて融通ムゲな解決が出来る(ただしデュープロセス・・手続違背には厳しい判例が多い)ことから,学問の広がりが制約されないのが良いところです。
先に抽象概念があって、その適用を議論するのではなく、事例から思考が始まる良さです。
我が国憲法論者は折角英米法導入による良い側面(思考の柔軟性・・憲法を柔軟に変えて行く)を活かさずに肝腎のアメリカすらも求めていない「憲法を守れ」と言う観念論ばかりに執着しているのは残念です。
現在の天皇陛下生前退位・譲位論も同じで,出来る範囲で先ずお心に沿うように早く変えようとすると,先ず反対,完全・全面改正でないと行けないと言って,内容の議論よりは方法で反対する・・結局修正反対します。
日本独立時の平和条約も全面講和など出来るわけがないのが分っている・・今だにソ連・ロシアと平和条約を結べない状態を見れば分ります・・のに全面講和以外反対・日本独立を遅らせるために運動した社会党と同じです。
沖縄も不可能な無条件返還にこだわっていたし,(アメリカ基地存続反対では変換は無理でした)何事も完全主義?と言う名の反対主義です。
中韓に限らずどこのクニもいつの時代にも,物わかりの悪い原理主義者が一定数いますが,(幕末に国際情勢無視の「(鎖国)の祖法を守れ」と幕府を困らせるために騒いだ勢力もこの一種です)占領軍が実態に合わない憲法を押し付けたのでこれ(悪用するため)に飛びつく困った人材が大学機関の主流派になってしまった弊害です。
幕末に「祖法を守れ」と主張したのと同類の(内容の議論をしないで兎も角)「憲法を守れ」の主張を繰り返しています。

ピープルと文字文化普及2

今の中国語では、漢字と漢字を繋ぐ文字として,普通に知られているところでは・・「的」「地」「得」などの利用が知られていますが,(構造助詞と言うそうです)自民族言語使用の文字になれば自然発生的にこう言う助詞副詞間接詞的な繋ぎ文字表現が生まれて来るのが普通の発展形態です。
そこで最も多く使われている[的」がいつから使われるようになったかが気になって調べてみると,以下の論文が見つかりました。
一部引用しか出来ないので,関心のある方は全文をご自分で御読み下さい。
http://www.ffl.kanagawa-u.ac.jp/graduate/ronsyu/img/vol_17/vol17_04.pdf
中国語構造助詞「的」の歴史的変遷
     ─表記と構造から考える─ 于 飛
1.1 中国の唐代
構造助詞「的」の最初の形は「底」という漢字で書かれて、中国の唐代に初めてみえてくる。最初に記載された文献の中には以下の二つの用例しかない。
「底」の構造は「X(名詞、代名詞、動詞、形容詞)+底」及び「X(動詞、形容詞)+底+名詞」である。次は最初の2例をとりあげる・・以下中略
1.4 中国の元・明・清時代
・・中国の元代から、表記としての「底」の代わりに「的」という漢字がよく用いられる。・・以下中略
5 現代中国語における構造助詞「的」の研究
現代中国語で最も多く用いられる漢字が「的(de)で、使用頻度はおそらく5%を超える(100字のうち5字以上を占める)。現代中国語において、「的」は使用頻度といい機能といい、きわめて重要な助詞である
・・・・中略・・表はコピペし難いので省略・・
表1でみると、「的」の表記と構造の歴史の変化ははっきり分かってきた。
表記の方は、中国の唐代に「底」という漢字を使いはじめ、宋代に「的」という漢字は「底」の代わりに用いられた。その「的」の使用率は元代から普及されて、現代まではもう完全に「底」に取って代わっている。構造の方は、「A(名詞、代名詞、動詞、形容詞)+底・的」の構造は唐代から現代までほとんど変わっていない。
「A+底・的+B」の構造は唐代と五代では「的」の前に名詞と代名詞が出てない。それ以外、現在の話し言葉の中で、「数量詞+的+数量詞」の構造も用いられた。用法からみると、「的」は最初の連体修飾と準体助詞の2つの機能から、現代中国語の副詞の後置成分、状態詞の後置成分と助詞(朱德熙氏の『現代漢語語法研究』(1980年)によると帰納された)の3つの機能に発展した。」
となっています。
唐の衰退が始まった頃(安禄山の乱が起きたのが天宝14年です)から、徐々に口語に合わせた表記方法が発展して(上記論文には日付がないので発表年月日が分りませんが,)現代表記になって(簡体字化+学校制度を構築してから数十年経過でみんなが使えるようになって)助詞が漸く一般化して来た経緯が分ります。
(このコラムは時々注記しているとおり専門論文ではなく,思いつき自由奔放な素人判断ですので念のため・・)
唐の時代に漸く「低」と言う「つなぎ言葉(中国の定義では構造助詞)」が2例出て来たのですが,(代表的な「的」を見ているだけなので,その他繋ぎ文字の有無までは分りません)我が国万葉集では殆ど全てに万葉仮名を工夫して副詞・助詞や間接詞が使われています。
日本では既に14〜500年前から多様な助詞を使っていたのです。
昨日書いたように,聖徳太子以前から数百年単位で徐々に日本列島の独自意識成長が進んでいたコトが分ります。
縄文時代以来数千年以上育んで来た独自文化・・民族気質・価値観からすると文字その他便利なものは明治維新時の和魂洋才・・同様に大陸から導入するとしても,気質・価値観は受入れられない関係だった可能性があります。
その後の律令制導入も同様であったことも繰り返し書いて来ました。
ここのテーマは文字導入ですが,漢字を導入・・記録することの便利さを導入したものの表記方法はすぐに独自開発していたことを書いています。
自民族の発音どおりに文字化するには,昨日書いたとおり表意文字だけでは不便なので,どうしても表音文字が必要です。
これが唐時代初見と言うのが上記論文です。
上記論文では出典書物が唐時代と言うだけですが、唐も長いので念のために時期を調べてみました。
昨日紹介した論文の内2例が出ている文書の1である「隋唐嘉话」はどう言う文書でいつ書かれたものか?
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B%E5%94%90%E5%98%89%E8%A9%B1によると、「隋唐嘉話》,又名《國朝傳記》、《國史異纂》,凡三卷[1],唐代劉餗著。」「记载南北朝至唐代开元年间史事,以补正史之阙」とあります。
要するに正史に漏れた部分の私的補遣文書と言う意味でしょうか?
著者の生没年不明となっていますが,著者劉餗の経歴をhttps://zh.wikisource.org/wiki/Author:%E5%8A%89%E9%A4%97で調べると「劉餗,字鼎卿,徐州彭城(今江蘇徐州)人。生卒年不詳。劉知幾次子。進士及第,天寶初年,歷官河南功曹參軍、集賢院學士,兼修國史,官終右補闕」となっています。
進士及第の天宝は玄宗皇帝の年号でhttps://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%9D_(%E5%94%90%E6%9C%9D)によると,「天寶(742年正月—756年七月)是唐玄宗李隆基的年号,共计15年。天寶與開元兩個年號可以合稱為開天」と記載されています。
美術家は若くても立派作品を出せますが,歴史書は資料蓄積ですので若い頃にはまとまった歴史書を書けないでしょうから,晩年の著書とすれば,760年前後頃の著作でしょうか?
第2例の朝野佥载はhttp://baike.baidu.com/view/1039792.htmによれば、以下のとおりです。
作者张鷟,字文成,号浮休子,史称“青钱学士”;深州陆泽(今河北深县北)人。生卒年不详,大致在武则天到唐玄宗朝前期,
則天武后から玄宗皇帝前期の人です。
現在中国語になるまで、マトモな口語表記が生まれなかった・・今でも[的」1つの漢字を多様に使い回しをしている・・発展途上・未発達なことが分ります。
唐時代には2通りの使い回ししかなかったのが今では多種多様な利用が行なわれている・・生活高度化により言語表現が発達したのに新たな文字創作力が追いつかない様子が窺われます。
「的」だけではなく前後に来る文字によって1つの漢字が意味の違う使い方をするから表意文字とは言い切れない・・中国文字は「表語文字」と言うらしいですが,単に表音(間接)文字が未発達なだけではないでしょうか?
昨日からこれを私流の理解で「繋ぎ文字」と書いて来ましたが,中国ではこれを「構造助詞」と言うらしいです。
「構造助詞」など学校で習わないな!と思って検索してみると,中国語勉強関連の情報ばかりで中国語以外にはない・・一般的用語ではない印象です。
中国人自身の使っている言語表現に合わせた文字文化が未発達だから「的」「得」など限られた文字を多様に使い回す必要になっているだけではないでしょうか?
北朝鮮同様で,中国は何でも謙虚に考えず開き直り・・強弁する傾向がありますが、これでは発展性がありません。
(劣等感が強過ぎるからではないかと一般に思われていますが,もっと根深い問題・・エリ−トだけが本当のこと知っていれば良い・・庶民は支配・教育の対象であり,都合の良いコトだけ教えておけば良い・・真実は教える必要がないと言う思考による・・ここでテーマにしている西洋式エリートとその他庶民・民族分断思考が基礎にあるというべきです)

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