2017年元旦(目出たさも・・)

あけましておめでとう御座います。
今年もあらたな1年が始まりました。
皆様晴れやかな新年をお迎えのことと存じます。
若い人にとっては,希望に燃えた新春の始まりでもあるでしょう。
我が家もこれと言った目出たいことはないものの,まあまあの新年の始まりと言うわけで,何か困ったことがないことが目出たいと言うところです。
大晦日のコラムでふと思い出した武者小路実篤の作品?に多い心境と同じかも知れません。
武者小路実篤が「仲良きことは美しきかな」などと言う軽いタッチの心境をさらさらと書いてデパートなどで売り出していたのは,1976年同氏死亡の約5〜10年前後前・・晩年近くのことですから,私はまだ晩年には遠い現役ですので,まだ達観するには少し早いようにも思えますが・・。
小林一茶の俳句「目出たさもちうくらいなりおらが春・・」がイキナリ浮かんだのですが,もしかして武者小路が野菜と一緒に書いたものと印象がどこか似ているからかも知れません。
その頃の新築住宅の玄関の下駄箱の上などにかかっているのを良く見かけたように記憶していますが(「仲良きことは良きことかな・・」とかいろんな文字があったのでこの種の言葉もあったろうと言う程度できっちり覚えているわけではありません)・・そんなところです。
結婚前後ころの記憶ですから,昭和40年代中頃だったと思うのですが高度成長の恩恵がサラリーマンに及んで私のちょっと上の人たちが東京郊外の一戸建て住宅に移り始めた頃だった記憶です。
いわゆる◯◯寮(または◯◯方)〜アパートに移り,「◯◯荘」〜郊外の新興住宅を手に入れて◯◯市何丁目何番地に三段跳びで住所移転して行った(物価もドンドン上がりましたが・・)夢多き時代でした。
今のように各人が本物のプロの絵を自宅に飾れる時代ではなかったので,プロの絵描きではない実篤が余技でサラサラと書いた程度のカボチャやナスなどの絵(俳画だったかな?)に気の利いた文字を書いた(大量生産品だったと思います)のをデパートなどで買い求めて,先輩達が文化生活が始まった時代です。
今は,あちこちに美術館があって気楽にホンものを見られる時代ですが、当時は美術図鑑などで有名絵画の写真を図書館で見る程度でした。
そう言えば上野の西洋美術館に来たミロのビーナスを何時間も並んでみたのは、いつの日だったか?
いま思い出すと当時の郊外の分譲住宅の多くは新建材の建物で,(今は殆ど全部建て替えられてしまいましたが・・)その程度の軽いまがい物?でも文化の香りを楽しんで,皆喜んで飾っていた時代でした。
私自身で言えば,結婚してからだけでも現在の自宅になるまで6回も移り住んでいます。
2回目(昭和47年)では瞬間湯沸かし器(それでも冷たい水で食器類を洗わなくて良くなったのは画期的なことでした)だったのが、4回目の家(昭和51年)では給湯式でお風呂にはシャワーがついているし洗面所もお湯が出るのに感激し,5回目の家では(昭和61年)当時最先端のウオッシュレットを顧問先からプレゼントしてもらいました。
今の家は全て二重サッシュですし,床暖房で変化のめまぐるしさに驚くばかりです。
昭和45年の結婚当時と今を比較すると失われた20年とか30年とか言われるものの,現在の快適な生活ははるかな彼方からやって来た・・成長を遂げて文化生活レベルもはるかにアップしたものだなあ・・と感慨頻りです。
ところで、「ちうくらい」とは一茶の地元の言葉で「中」ではなく「いい加減な」と言う意味らしいです。
〈から風の吹けばとぶ屑屋はくづ屋のあるべきやうに、門松立てず煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける〉と前書付きの俳句で、一茶57歳の作ですから,老い先短い元旦を迎えたときの感慨を表現した俳句らしいです。
「いい加減」とは,だらしないと言う意味ではなく文字どおり[加減が良い」と言う・・(分相応の?)「良い塩梅だなあ」と言う意味(私個人の勝手な解釈です)でしょう。
学生時代に野尻湖湖畔でゼミの合宿があって、その帰りに小林一茶の旧居を見学したことを思い出しましたが、本当に狭い・土蔵とも言えない・・あら土で塗り籠めただけのあら壁の小屋が空き地にぽつんと建っているだけでした。
立派な業績を上げた人のツイの棲家の質素さ・・一茶の素朴な?作品を連想したものです。
(今行けば,廻りが整備されて立派な観光資源になっているでしょうが・・)。
ところで一茶の作品は子供心にも分り易いので素朴な印象を受けますが,難しいことを平易に表現するのが本当の達人とすれば,一茶の達人ぶりは半端でありません。
私は勿論一茶のような偉人ではありませんので、奥深い意味はありませんが,新年の心境を俗っぽい意味で言えば「ちょうどこんなモノ・・」だなあと言えるのかも知れません。
自分の心境を言い表すのにヒトサマの俳句を借りて表現するしかない・・無能と言えば無能ですが,俳句や詩,絵画あるいは芸術作品はおよそ凡人の心境を代わって表現してくれることにプロとしての存在・意味があるのかも知れません。
名句・名画〜名作とは万人の心に訴えることの出来る表現(共感)性の高いものと言い換えられるでしょう。
旅行などの写真を見ても自分の写したものと,プロの写真とはまるで出来が違いますが,その代わり自分の写した写真には自分や家族の具体的記憶が詰まっている・自分または関係者だけの価値です。
他人が見ても面白くないわけです。
個人の日記、故人(父母)の形見の多くは共感する範囲が自分一人または遺族だけですが,歴史に残る各種日記や遺品が個人だけの共感ではなく,民族の共通遺産になると「作品」となります。
同じ形見の衣類でも[家康の陣羽織」となれば共感者の範囲がぐっと広がり博物館の展示物になります。
明治村にある漱石の旧居は建築としては何の変哲もないものですが,漱石の住んでいた家となれば,座敷のたたずまいを見ているだけでいろんな作品の風景が偲ばれ価値が高まります。
これは公開のコラムですので,(気の利いた句をつくれない言い訳ですが・・)自分にしか通用しない自己満足の俳句や詩よりは通用性の広い名句を借りるしかないのは仕方のないところです。
プロの作者は大衆の気持ちの代弁者とすれば,人口に膾炙すればするほど作者の満足度が高まると言うもので,折角の名句を利用させて頂いてこそ、小林一茶が草葉の陰で喜んでくれるでしょう。
「去年今年貫く棒の如きもの」 高浜 虚子
は凛として決まっていますが,私には荷が重い感じがするので,今年は小林一茶の名句の心境で新年を始めたいと思います。
小林一茶は苦労した偉人ですが、凡人の心境を気負わずに表現しているのが、庶民文化社会のファンの心をつかんでいるのでしょう。
今年も根拠のない個人的思いつきを書いて行きますので、意見の合う限度でお読み下さるよう・・どうかよろしくお願いします。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC