メデイア誘導・フェイクニュースの限界1(加計問題国会報道)

昨日の引用記事の続きです。
少々長くなりますが、NHKが報道の自由と称して肝心の重要発言を報道しない・・一定方向に向けた切り取り報道の常態化・・を明らかにするためにほぼ全文を引用しておく方がわかり良い・これを見る人によってNHKの方が逆に正しいという意見もあるでしょうから・公平のために以下長くなりますが引用しておきます。
私にはどちらの方が都合よく切り取り紹介しているかはわかりませんが、こういう批判が起きているという紹介です。
JBpress
森 清勇1日前
「審査では与党側が獣医学部に関わる実情を内外の視点から質し、長年の間誘致に関わってきた愛媛県前知事の加戸守行氏は「岩盤規制で歪められた行政が正された」と話し、ワーキング・グループ座長の八田達夫氏は事業主体の選定過程においては「一点の曇りもない」と発言した。
 しかしNW9では、「行政が歪められた」と語ってきた前川参考人はしばし登場したが、「行政が正された」とする参考人たちの発言はほとんど報道されず、首相と友人のゴルフや会食の多さから疑惑は深まったとする見方に重点を置いた報道であった。
「総理の発言」云々は既得権益優遇者の発想
野党は7割の質問時間を配分されたが、安保法案などの審議と同じく問題の本質に迫る質問はほとんどしなかった。他方、与党の小野寺五典委員(24日)や青山繁晴委員(25日)は、問題の核心に迫る質問から「疑惑」と言えるのかを引き出そうとした。
 小野寺委員は「加計という具体的な話はあったか」と聞き、前川参考人は「首相と加計氏が友人であることを知っていた。加計学園が希望していることも知っていた」ので、「『総理は自分の口からは言えない』は加計学園のことだと確信した」などを引き出した。
 また、和泉洋人首相補佐官からは「岩盤規制改革を全体としてスピード感をもって進める旨の指示を(首相から常々)受けていたので、その旨伝えたが、『総理の口からは言えないので私が代わりに言う』とは言っていない」ことを確認した。
また、前川氏が上司の大臣や下僚の局長などに「行政が歪められますよ」などと語っていないことを確認したうえで、「この問題で行政が不当に歪められたかというと、必ずしもそうではない。むしろ岩盤規制に穴をあける努力が行われたということであり、加計は前川参考人の心の中にあったのではなかったか」と纏める。
 そのうえで、実際に岩盤規制と戦った八田参考人に「これまでの一連の質疑応答を聞いて、行政が捻じ曲げられたと感じたか」と質す。
 八田氏は岩盤規制がいかに強く働いているかについて言及し、「国益の観点ではなく既得権者の自己益を守るために存在するもので、今回の決定で「不公平な行政が正された」と証言した。
続けて、「獣医学部の規制は利権と密接にかかわっており、成長分野を阻害している。規制に穴をあけた今回の一連の過程で、総理の方針に言及しても何ら問題はない。その発言を特定の事業者を優遇する意向と受け取ったとすれば、自身が既得権益を優遇してきた人でなければ思いつかない論理じゃないかと思う」と、前川氏の証言が問題だというニュアンスの発言で結んだ。
細かいことを総理に聞いても無理だ
青山委員は24日における前川氏と他の参考人の発言を確認したうえで、前川氏以外は「加計」という言葉は誰一人使っていないと指摘する。
 そして、「加計ありきで決まってしまっているというのは前川氏本人ではないか。加計ありきは前川氏の胸のなかにある。これを一般的な言葉で言えば、『思い込み』という」と締めくくる。
NHKが本質にかかわる問題で報道したのは、加戸氏の「安倍総理との何十回にわたる会合を通じて加計の『か』の字も聞いたことはないし、私自身も申し上げたことはない。特区申請以来、悲願10年の手前で『白紙に戻せ』という議論が出ていると、またあと10年待たされるのかなと。それは日本国家としての恥だと思っている」という発言だけであった。」
NHKは「国民が求めているのは丁寧な口調ではなくて、確たる記憶、動かない証拠、丁寧な説明内容です。1月20日を守るために過去の答弁を修正していくという手法は丁寧な答弁だったとは思わない」と発言した蓮舫委員をはじめ、野党委員の発言を多く取り上げて報道した。
 また、「こんな場面もありました」として、山本幸三地方創生担当大臣が「細かいことを総理にお尋ねしても無理だと思います。それは私が担当しているわけで、私に聞いていただければと思います」と発言したことに関わる部分を報道した。
 質問していた櫻井充委員(民進党)は「そんな小さなことってどういうことだよ、(大臣が、手や頭を横に振りながら言ってないよと否定するが)言ったよ今。そんな小さなことは総理が答弁することじゃない。失礼だ、もうあなたは答弁結構だ。時間の無駄だから出て来るなよ」と、色を成して相手を言い捨てる場面を放映した。
櫻井委員の方が勇み足であることは、大臣の発言を確認すれば簡単に分かる。大臣は「細かいこと」とは言っているが「そんな小さなこと」とは言っていない。櫻井委員が自分の聞き間違いに自分で激高する、言うなればスタンドプレーであるが、NHKはこれを注釈なしに流し、「審議はしばしば中断された」とも述べた。
 視聴者は、大臣の答弁姿勢に問題があるかの如く受け取るのが一般であろうし、そうした印象操作と言えなくもない。
閉会後のインタビューでも、前川参考人の「真相究明のためにもっと時間が必要ではないか」という発言や、野田佳彦民進党幹事長の「疑惑は深まった」という発言を流したが、中立的な立場で取り仕切ってきた八田氏の「一点の曇りもない」には触れなかった。
報道されなかった本質論議
獣医学部の新設規制は法律で決められたものではなく、文科省が告示で決めているものだ。文科省が農林水産省や日本獣医師会の政治力を受けて、雁字搦めの「告示」にしている状況も浮き彫りになった。
 獣医系大学の立地状況をみると、現在16カ所、定員930人に設定されており、獣医師の不足から定員40人の2割増し50人前後を受け入れている大学もあるという。また、8割が東日本にあり、西日本には2割で四国にはない。小野寺委員は、まずこの問題について参考人に質問した。
 加戸氏は「私は10年も前から当事者であり、10年後、安倍首相にあらぬ嫌疑がかけられていることを晴らすことができればと思う」と心情の吐露から始めた。
そして、愛媛県には学園都市構想があり、高等教育機関の誘致を行ってきたが失敗の連続であった。その後、鳥インフルエンザや口蹄疫が発生し、また米国では狂牛病なども生起した。こうしたことからも国際的に胸を張れる獣医学部の新設を考えたという。
 リップサービスなどはあったが、なかなか来てくれない。「黒い猫でも白い猫でも獣医学部を作ってくれる猫が一番いい猫」で、話に乗ってくれたのは加計学園だけであったと語る。その過程においては安倍首相の友人である加計学園の「か」の字も出たことがないと断言した。
 文科省に獣医学部開設の件を依頼に行ったが、農水省がうんと言わない、獣医学界がうんと言わないので文科省だけでは何ともできない、と言われた経緯などにも証言が及んだ。
文科省の後輩には国が求めているもの、世界が求めているものを考えてくれ。アメリカでは感染症、遺伝子操作など新しい獣医学部を作っているぞ、道州制で四国州ができれば、(日本を捨てて)進んでアメリカの51州になるぞと、強い言葉で言ったこともあるなど回想した。
 現に米国ではテネシー州、テキサス州、アリゾナ州など、獣医学部の空白地域にどんどん設立されていることを紹介したうえで、「こうした近未来の国際社会における情勢を見ながら大臣に食ってかかって、(硬直した行政を)直しましょうという役人になってほしい」と、苦言を呈する場面もあった。
続いて八田座長が、加計学園に獣医学部新設を認めるまでの経緯について説明し、「(首相が)特定の事業者を優遇して欲しいという意向を示されたことはない。新潟市の提案を前提に議論してきたことからも分かる」と述べ、また、「1校のみ(に絞ったこと)が首相の関与ではないかという疑念を生んだ。しかしこれは獣医師会の政治家への働きがけで1校となった」もので、首相の関与の余地がなかったことも明言した。
 以上の経過から、「決定のプロセスには一点の曇りもない」と断言し、また「4条件は満たされている」とも語った。
さらに追加的に、岩盤規制がいかに強く働いているについて言及し、国益の観点ではなく既得権者の自己益を守るために存在するもので、今回の決定で「不公平な行政が正された」とも結論付けた。
 加戸氏と八田氏の発言は、誘致と規制の現場で辛酸をなめてきたからこそ語ることができた証言であり、今回の疑惑を解く有力な示唆を与えるものであったが、NHKが報道することはなかった。
 産経WEBニュース(7月27日)によると、元財務省官僚の高橋洋一氏は7月25日、愛媛「正論」懇話会で講演し、「文部科学省にはいろいろな許認可があるが、『告示』という省内の規則で獣医学部の新設は『申請を受け付けない』としてきた。これにより、新設は50年間ストップしてきた。(中略)この告示を問題視した規制改革委員会が平成17年に文科省に対し説明を求めたところ、『挙証責任は委員会側にあると、理屈の通らないことを言ったのが、課長時代の前川喜平・前文部科学事務次官だった』」と紹介している。」

自民族言語表現・文化の重要性4(近現代用語を日本に頼る中韓1)

ソ連では政府自身が何千万と餓死させながら穀物輸出して共産主義政権が大成功していると虚偽発表していましたし、中国も戦後「大躍進」と称して、実際には数千万〜5000万人の餓死者を出していたことが今になると常識になっています。
個人でも共通ですが、不都合・遅れている状況を隠すときに政府による虚偽発表→鉄のカーテンが起きる現象です。
上の道義が低いと下々もこれに倣います。
日本は古代から外来技術が入ってくるとマルゴト導入ではなく日本の在来概念を組み合わせて、それに適した言語を創設してきました。
蒸気船〜蒸気機関車、自動車、自転車、飛行機や航空母艦などがその1例です。
機械類に限らず新しい考え方・思想的熟語・社会の仕組みに関する用語、法律用語も同じです。
清朝の方が日本より数十年早く西欧に接していたのに、西洋の文物技術(新概念)をまともな漢字熟語に翻訳できていなかった事実から見ると、中国では・・漢字発祥の民族とは言え、多分先進社会用語を自民族で翻訳用語を創作する能力が、日本より低かったのでしょう。
文化格差が有り過ぎる場合、自民族用語に翻訳したくとも自国に高度な対応語がないので無理があります。
この点、日本では江戸時代から堂島には米相場があったし、手形取引も発達していたなどのほか藩札があるので紙幣の流通→両替(大阪は銀で江戸は金兌換ですから必然的に為替取引が発展しますし、遠隔地決済のために為替手形もできていました)もあるなどいろんな社会組織や制度が発達していた・学問的にもエレキテルの研究や数学や蘭学を通じて医学も発達していたなど有利な点があったでしょう。
文化格差があると自国言語に対応言語がない翻訳しきれない結果英外来語をマルごと導入しかなくなる・・西洋諸国でラテン語が約千年間も公用語であり続けた原因がここに有ります。
日本が幕末から明治にかけて欧米の近代用語をすべて自国の漢字熟語に変換して置けたのは、変換能力が高かった他にほぼ同水準の概念が国内にあったことにもよります。
他民族言語を自民族語に変換した歴史経験がない中国や韓国は日本の変換しておいた漢字熟語をそのままの流用で間に合う・自分で努力・創作する必要がなかったので効率が良かったし、英語圏に入らなくともなんとか現在社会がなり立っている状態です。
ただし韓国に限っては戦後すぐに7月20日に紹介したように、日本語のヒラカナに相当するハングル一本化してしまって、漢字教育廃止しているので、漢字をそのまま使えない不都合があると言われています。
専門家だけ漢字を使えば良いというのでは、それ以外の民度はどうなる?という疑問です。
公教育をやめても自発的に学ぶ意欲のある社会であれば別ですが、そうでないとその後漢字文化はジリ貧になって行きます。
7月20日に紹介したように、教育をやめてから一定期間経過すると漢字需要がなくなった結果・・新聞等のメデイアも漢字表記をやめてしまったと言うのですから驚きです。
漢字を読めない層が増えて商売ならない時代がすぐにくるのですから、?せっかく日本が統治期間に民度引き上げのために学校制度を普及させて教育して来のですが、朝鮮人の多くには、荷が勝ち過ぎていたのでしょう。
もちろん前大統領の父親のパク大統領のように、日本の教育制度に乗っかって(日本の士官学校出で日本陸軍での将校でした)頭角を現した人も一定率いますので、何回も書いているようにこのコラムではいつも比率の大きさを書いている・例外がないという意見ではありません。
韓国では漢字を日本文化と誤解して?日本敗戦後の優先課題としてすぐに漢字の公教育を廃止したのですが、その結果、すぐに漢字を読む層が商売にならないほど?消えてしまい、漢字を利用した新聞が成り立たなくなってしまった・・多くの国民が漢字教育に関心を持たなかった事実が重要です。
李氏朝の国家樹立後明や清の冊封体制下にあったとはいえ、独立性が高まった結果すぐに先祖帰りして行った流れが起きていたことと、日本敗戦後日本と交流を断固拒否していた間に7月28〜29日に紹介したように産業部門がどんどん落ち込んで行ったことを合わせて見ると外界からの半強制的学問や技術導入の流れがなくなるとすぐに元々の「地・民度」に戻っていく様子がわかります。
長いヤンパン支配下で、ヤンパンはエリート層として文字教育を受けていたでしょうが、それ以外の庶民が自発的に文字を習い考える気風が育たなかった土壌を見る思いです。
中国律令的価値観では、日本の武士ですら平安時代に描くところの裸足で歩き回る地下(じげ)人であって、このために江戸時代の朝鮮通信使は貴族層ではない武士を相手にするしかないと言って、(実態より形式重視)嫌がっていました。
以上は・・出典を記憶していませんが、小説か随筆か何かで読んだ記憶です。
日本の武士は鎌倉以来支配層として成長し、漢詩文の素養を積んでいましたし(太田道灌が恥ずかしく感じた故事)、江戸時代になると庶民まで子供を寺子屋に通わせたり芸事を習うなど自発的な文化吸収欲求の高い・・最下層で農作業現場系に関与する実務社会でも絶えざる自発的改良工夫の進む社会でした。
他方、朝鮮では、庶民には自発的な文字その他の文化を学びたい欲求が起きなかったのでしょうか?
庶民は文字による文化などを知りたいとは思わないし、社会生活上必要な工夫もしないで古代意識のまま生きて来たから民間から文化や技術が発達しなかったのでしょう。
日本統治になってからの朝鮮では、日本政府が庶民にまで学校に強制的に通わせたり、世界恐慌時に宇垣総督着任後には農村の窮乏を防ぐために学校にいけない子供には教育課程を緩くして学校に時間が空いて放課後に学校にくれば教える仕組みを作り出し農村教育では、「なせばなる」と言う徳目教育で農村で皆が集まって色んな農村の課題をみんなで考えさせたりした結果、とてもできそうもないように見えることでも、みんなで色々工夫して努力していると何とかなることが多い経験を積ませていた結果、徐々に自信を持ち成果を出すようになっていたと言われます。
せっかく身に付き始めた気風が簡単に先祖帰りてしまったのでしょうか?
大恐慌爺以降の記述は以下のとおりです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/kankoku-hatten.html
「日本でも東北の農村では、農家のみならず、役場の職員、教員の給料が払えず、遅配、欠配が続いた。農家では自分の作った米を食べず、市場に出すため、ますます米の価格が低下し、売るものがなくなり、娘の身売りが続出した。この年9月に満州事変が勃発した。この原因の一つは、この農村の疲弊対策として、農民の移民先を求めたことである。
朝鮮の農民も自分で作った米は食べることができず、粟か稗しか食べられなかった。日本の農林省は「米の価格低下は、朝鮮米の無制限な移出が原因」と非難し、出荷の自粛を求めた。しかし他に有用な作物がない朝鮮では、農民の生活を維持するためには、高価な米を内地へ移出するしか方法がなかった。陸軍の応援で辛うじて米を自由に日本へ移出する事が認められたのである。
尚、この時期アメリカではフィリピンからの砂糖、椰子油の無制限な輸入に、アメリカ本土の砂糖や食料油の製造者が反発した。更にフィリピン労働者のアメリカ進出に危機感を抱く労働組合が同調し、フィリピンの十年後の独立が決定した。フィリピンの切り捨てである。日本とどちらが民衆の事を考えた施策だったであろうか。
「宇垣総督は着任後直ちに農村を視察し、農村振興運動をスタートさせた。日本における農村自立更正運動より僅かながら先行している。この運動で宇垣が最も主張したのは「心田開発」即ち心の持ち方であった。又宇垣に呼ばれ指導に当たった山崎延吉の指導理念は「奉公の精神、協同の精神、自助の精神」であった。セマウル運動との違いは奉公が勤勉に代わっただけである。」
「この文盲対策として1934年簡易学校の制度を発足させている。学校へ行けなかった青年に読み書き・算盤を教えるものである。生徒は農業の暇なときだけ来て、勉強するというやり方で、普通学校に併設し、普通学校の先生が兼務で教えたのである。」
以下明日に続きます。

外からの民主化と自力発展能力1(民度)

昨日紹介したとおり、何百年も水車作りに挑戦しても実用品を作れない結果を見ると本当のことを言えない社会体制ばかりが原因ではなさそうです。
ものづくりができない・・民度レベルが数千年遅れている可能性もあります。
日本では種子島の鉄砲であれ、いろんな新製品が入ると既存技術の応用ですぐに作ってしまうレベルでしたし、思想や文化も入ってくると、そのものも受容するだけではなく日本式により良いものに仕上げていく社会でした。
朝鮮通信使がこっそりと水車その他日本の優れたものを絵にして持ち帰っても複雑な部品・曲げもの作りの技術を含めて受容レベルに達していないから、いわゆるパチモノ→パチモンづくりが限度であって本物を作れない民度レベルだったことがここに現れています。
日韓併合後日本の技術指導が始まってようやくまともなものを作れるようになったように見えます。
朝鮮から日本への定期的通信来訪は、日本古代の遣隋使・遣唐使の中世版ですが、日本の場合空海が仏像や曼荼羅・土木技術その他を持ち帰れば、すぐに仏像や仏画ため池など実現できたのが我が国です。
朝鮮族では、文字情報で持ち帰ってもそれを実現する総合的な技術が育っていなかったので何回日本に来ても意味がなかったということでしょう。
古代から朝鮮半島は漢の時代から直接支配地であって、漢王朝〜後継王朝の盛衰に伴って波が広がったり引いたり(支配力が落ちると地元に委ねたり)の繰り返しでしたが、元がモンゴルに引き上げた結果中原に生じた権力空白(明王朝が1368年に成立しましたが当初数十年は内部統一にエネルギーが取られます)に乗じて独立したのが李氏朝鮮ですが、1368年に成立していた明王朝に対しては、朝貢して属国の体裁を取りながらも一応独立した王朝になった歴史です。
漢民族直接支配の時代には、帝国の最東端であって文化伝播が遅いもののその時々の中国の文化支配が細々と及んでいた時には、20世紀に入って上記日韓併合によって直接技術指導を受けられるようになったのと同様でその時々の社会進歩にある程度ついて行けていたのでしょう。
李氏朝鮮成立後は朝貢すればいいだけで事実上没交渉(再び直接支配されないように最も警戒すべき相手国です)で直接支配を受けなくなると独自発展能力次第の社会に陥ります。
日本の場合これを利用して平安時代に独自の文化が花開き、鎌倉から〜室町安土桃山江戸時代へと順次の発展が続くのですが、朝鮮の場合そのまま停滞してしまったように見えます。
第4代世宗の時代になって周辺との格差に気づいたものの、宗主国明に行くのは介入を受けるリスクがあることから圧倒的な国力差のない比較的安全な日本から文化(特にひらがなに象徴される独自文化)や技術導入しようとしたように見えます。
第四代と言えば、日本の江戸時代で言えば綱吉が5代ですから(政変や病気等で1代の長さに差があるのですが概ね)ほぼ政権基盤が固まりその政権の独自性がようやく出てくるときです。
アメリカで言えば、大統領就任後100日は批判しないというのも、今では戦乱を統一するのではなく、整った官僚機構を引き継ぐので100日で足りるという考えなのでしょう。
日本ではこの時期に上方に頼っていた文化基盤が江戸に移り元禄文化になるのですが、李氏朝鮮では四代目になっても独自文化を育てられなかったので、焦って?日本への通信使派遣になったものでしょう。
李氏朝鮮に関するウイキペデイアの記事です。
「1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる[1])が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。」
昨日紹介した通信使の記事では、1443年(正長元年・世宗25年)であり目的は「通信使の目的には日本の国情視察もあり、1428年(応永35年・世宗10年)の正使だった朴端生は、科学技術に関心の高かった世宗から日本の技術の調査を命じられていた」というのです。
国家樹立後約50年経過しても独自に発展する能力がないので、情報収集の必要性に気付いたものの、持ち帰った情報を活かす基盤がなかったので水車や荷車ひとつまとも作れなかったのです。
世界には独自に文化発展させる能力のある民族とない民族があって、朝鮮や中国人は自力で何もできない民族らしいのです。
明治維新当時の日本から見れば、古代社会がそのままあるような朝鮮の情景を写真等で今見るとに多くの人がその停滞ぶりに驚くでしょう。
米ソ冷戦時で言えば、ソ連や中国ではその間約40年間何の発展もなくて、自由主義諸国とは巨大な格差が生じてしまったことを想起して下さい。
中国が鄧小平によって解放されてみると戦争前の情景のまま(・・車が出始めたばかりの戦前に日本で走っていたようなゴツイ板張りのトラックがそのまま走っているなど)広がっているのに多くの日本人が驚きました・・中ソの偉大な発展を褒めそやしていた左翼文化人の虚偽性が白日の下に晒されたことになります。
中国は西域からの文物流入が止まると発展性がなくなったと何回も書いてきましたが、最近でもこういうことが起きていたのです。
もちろん道義も停滞どころか退化している状態で、日本ではまず泥棒から始まり生活態度が汚すぎるなど・・世界中で虚偽表示その他違法行為やり放題の印象をバラまいたので、・・南シナ海での不法占拠もその1態様です・・これが世界中で中国人の信用をなくしている原因です。
朝鮮通信使に戻りますと周辺国ではどんどん社会が進んで行くのが分かり、焦って日本へ通信使を派遣して日本で発展しているひらがなの実情や社会生活に必要な技術動向を探ることにしたものの、持ち帰った情報だけでは何をどうして良いか分からなかったのです。
自分が何もできない劣等意識を何とかするしかない・・結果的に根拠なく相手をバカにする知恵が付いたように見えます。
原発事故があるともう日本はダメだとむちゃくちゃな言説がそのまま流布する社会・・これを受け入れるレベルの社会です。
文大統領の原発中止に対する朝鮮日報の記事が・全くの虚偽主張に国民が簡単に踊ってしまう現状批判している状況を勝又氏のブログに引用されています。
朝鮮日報自身が、レベルの低い話だと認めて批判しているだけまだマシですが??
ともかく根拠のない扇動に簡単に乗ってしまう民度であることは間違いないでしょう。
こういう国で民主主義ってまだ無理じゃないの!というのが、最近の日本人大方の感想ではないでしょうか?

自民族言語表現の重要性3(ハングル1)

李氏朝鮮第4代の世宗がハングル文字を整理し普及させようとした事跡をこの後で紹介しますが、そのトキ自前の言語文字を持つのは、漢文化の及ばない化外の地・非文化圏だと言う学者層による反論があったくらいです。
いわば、「自国文字を持たない方が文化度が進んでいる証(あかし」と言うのが朝鮮人知識層の基礎意識だったらしいです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%ABによれば以下の通りです。
「李氏朝鮮第4代王の世宗は、朝鮮固有の文字の創製を積極的に推し進めた。しかし、その事業は当初から事大主義的な保守派の反発を受けた。世宗が設立した諮問機関の集賢殿副提学だった崔萬理は1444年に上疏文で、「昔から中国の諸地は風土が異なっても方言に基づいて文字を作った例はない。ただモンゴル・西夏・女真・日本・チベットのみが文字を持つが、これらはみな夷狄(野蛮人・未開人)のなすことであり、言うに足るものではない」「漢字(中国文字)こそ文字であり、民族固有の文字など有り得ない」と反対した。」
確かに中央文化から離れれば離れるほど、方言など独自性が強くなり固有文化色が強まる傾向があるのは事実ですが、そこには中央の文化をそのまま真似するのがの正しいとする確固とした思想があります。
日本でも、地方の駅ビル内店舗では首都圏と同じチエーン店が出店しているので興ざめすることがありますが、地元にとっては首都圏と同じ店があるのが自慢でしょう。
韓国では真似ばかりでは恥ずかしいという少しのテライもない・いわば開き直り文化が昔から定着していたというべきでしょう。
朝鮮通信使が江戸時代だけでも12回も日本に来ていて、日本の社会の実情を見て自国より進んだ社会生活のあり方を見ても全くこれを報告しないで逆に明や清朝の文化をそのまま受け入れている自分たちに比べて日本が如何に文化の遅れた国か!という報告や吹聴ばかりしていたと言われています。
以下のように室町時代の使節には、立派な報告書があるようですが、侮蔑意識が先にたって社会全般で学ぶ気持ちがなかったから宗主国清朝等にないものは(顔色を伺うのに汲々としていた結果)取り入れられない・・活かせなかったのでしょう。
この辺は明治維新当時、政権交代の連絡今後の徳川政権同様の国交を求める「国書」に「天皇」その他の文言があることを理由に受け取れないとスッタ揉んだの末に江華島沖事件に発展してようやく決着したのも、宗主国清朝に必死に義理立てしていた結果によるものでした。
冊封を受けている朝鮮としては、宗主国以外は全て「王」であるべきあって皇帝を意味する天皇という肩書きそのまま受け取れば宗主国清朝からどのような問責を受けるかも知れないという必死の立場があったからです。
この主張は戦後復活していて、今なお、天皇をあえて「日王」侮蔑的表現に固執しているのは、この歴史に由来します。
ましてその中にこれまで多数回の朝貢を受けてきたが・・今回幕府に変わって天皇の政府に変わったので今後も・・という案内が入っていたのですから、宗主国の目を盗んで2重外交をして来た疑いを受ける…・・一種の謀反の嫌疑ということで、李氏朝鮮としては必死だったのです。
日本としては琉球の朝貢と朝鮮の朝貢を同一視していた歴史があるし、実質的立場から見ても、秀吉による朝鮮征伐の後で(北方民族の圧力もあって)本国を守るために明軍が引き上げてしまった結果、後ろだてのいなくなった日本軍の再来襲を恐れていた朝鮮では、おりから北方から女真族・後の清朝が勢力を広げて来て、日本と挟み撃ちにあうのを極度に恐れていたこともあって、徳川時代に復活した通信使は主に日本の報復的再来襲を防ぐための敵情視察と懐柔にあったので外形上はご機嫌うかがい・内容実質は朝貢に似ていたことがあります。
日本からは1度も行かない仕組も朝貢の形式です。
冊封された王か天皇かの問題では、聖徳太子以来、「日出るところの天子」と自称して来た独立国としての長い歴史があり、これも日本は譲れません。
こんな訳でこじれにこじれて日本では征韓論が吹き出した原因です。
こじれにこじれていた結果、起きたのが江華島事件です。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
江華島事件 年月日:1875年9月20日から同22日 場所:江華島(朝鮮西部、黄海)
結果:永宗城砲台等の破壊の後、雲揚号の戦域離脱による戦闘終了。
日朝修好条規の締結。
戦力  日本                    李氏朝鮮
砲艦1隻                      陸上砲台
海兵隊
(士官・海兵・水夫あわせて約22名が上陸)      (約500名)
損害  戦死 1
戦傷 1                      戦死 35
捕虜 16
大小砲36門鹵獲
明治8年はまだ日本軍の近代化が始まったばかりのころでそれほど火砲系(大砲威力)の差がなかったと思われる上に、すぐに上陸作戦に移行→肉薄戦になると火力の近代化はほとんど意味をなさず兵士の気力と数の差が重要になるはずです。
ところが、水夫を含めてたったの22名の日本兵の上陸攻撃に対して500人の圧倒的兵力と自国民応援のある有利な状況下で迎え撃ちながら、自分からあっさりと負けてしまう朝鮮兵の弱さが不思議です。
しかも戦利品を確保するために4〜5名程度の水夫・兵などが翌日再上陸して大砲などを持ち帰ったというのですから、朝鮮兵が何をしていたのか?不思議な民族です。
上記数字を見ても分かるように22名が上陸して16名の捕虜を連れて船に戻っています。
時系列記録は 以下のとおりです。
午前07時43分 端艇二艘で乗り出し、同島に上陸しようとした時、第一砲台から発砲がある。上陸後八分間の激戦の後、東西北3方向から放火しながら急攻したため、城内守備兵は逃げ去り、同砲台を占拠する。
午前08時20分 喇叭にて退軍を命じ、総員東門の前に集合させ、人員を点検する。井上艦長も兵士の慰労のため上陸する。(日本側/負傷2名但し後に1名死亡)(朝鮮側/死者35名、捕虜16名、その他日本側にて、敵の負傷者及び婦人等の身柄を保護し、安全な場所へ誘導して解放する)
午前09時07分 城内に遺棄した大砲等の武器を戦利品として捕獲し、城内を焼き払う。
午後09時59分 戦利品の雲揚への積込みが完了する。
午後10時30分 島に上陸していた全兵士が雲揚に帰る。
【9月23日】 ─ 戦域の離脱 ─
午前11時00分 昨日積み残しの大砲を積み込み、同所を発艦する。
日支事変・中国大陸での陸戦でも日本の何十倍もの兵力の国府軍が開戦すると潰走するばかりで、日本軍は局地戦では最後まで負けてはいませんでした。
攻城戦を制するには城門・城壁を突破するには籠城軍の何倍もの兵力がないとむりと言われていますが・・。
秀吉軍が朝鮮半島ほぼ全土をあっという間に攻略できたことや、戦後北朝鮮軍が38度線を絵超えると抵抗らしい抵抗もなく短期間で半島ほぼ全域を占領できたことなどを見ると、中国や朝鮮では元々戦わずして逃げる民族です。
以下の絵が実際の砦と同じとは限りませんが、一応城塞になっているのに、誰も城門を守らずに逃げてしまったから船を漕ぐ?水夫を含めたたったの22名で攻略できたと思われます。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f5/Soldiers_from_the_Un%27y%C5%8D_attacking_the_Yeongjong_castle_on_a_Korean_island_%28woodblock_print%2C_1876%29.jpg

自民族言語表現の重要性1

楽団やプロスポーツでも選手の実力・層の厚さは重要ですが、軍師や監督の腕が悪いと負けるのと同じで・・日産の例を見ればあのままだったらイマでは潰れていたかも知れないし、シャープの例も同じです・・(もしかすると東芝も同じかな?)トップ層のレベルが低いと次がなくなる時代ではないかと思っています。 
アメリカが絶えざる人材流入が途絶えるようになると、発展が途絶える点では、唐滅亡以降西域から人材が流入しなくなってからパッタリと発展しなくなった中国歴史の運命を辿るのではないでしょうか。
我が国の場合、過去2000年間で見れば以下の通り、トップクラスの招聘を除けば中間層人材輸入の必要性がなかったのですが、今後必要とするAI系人材になると長年日本が適応してこられた経験で今後も大量の人材輸入しないでやって行けるかは不明です。
言わば、AI分野で国際的に通用するトップクラスの層が日本にも少数いるとした場合、これを支える二番手の高度人材層をどのくらい厚く養成できるかの見通し次第です。
私自身その方向性に全く鈍いことから、(自分の能力を基準にすれば)直感的にインドや中国系に層の厚さで押されそうな心配をしていますが・・杞憂であれば・・と祈るばかりです。
外来文明導入に関する過去2000年の成功体験が今後の展開にも役に立つかどうかは別として、日本の過去の歴史では以下の通りうまくやってきました。
明治維新で御雇い外国人が再任を期待していたのに任期が来るとみんな「結構です」と断られたのに驚いた逸話がありますが・・日本人はちょっと聞いたり技術の基礎を教えられれば,「ヒント」だけで,すぐに自家薬籠中の物にする素地があったからです。
種子島で火縄銃を売ったオランダ人がこれは高く売れると思って、次に商品用に一杯持って来たときには,日本ではその間にもっと性能の良いものが国産化されていたので商売し損ねたことが知られています。
もっと古代にさかのぼれば遣唐使を繰り返す必要がなかった・・仏教精神や隋唐の文化の精髄を誰かが持ち帰ってこれを周辺に広めるとみんなが思想原理を自己のものにする能力があったことによります。
だいぶ前に書いたと思いますが、このように何でも自民族の技術に変えていくようになったのには、民族レベルが古代から高いことがあります。
その最たるものが世界に例を見ない言語変換技術の発明でしょう。
古代から中世までの間、日本列島の文化吸収の唯一対象であった漢文化を咀嚼するのに漢字そのままを日本語読みする技術確立(ほぼ全ての漢字には訓読みがあります)の他に文法の違いまで克服し「日本語と全く文法の違う漢字文化をそのまま日本語読みする工夫」が成功していたことです。
いわゆる漢文の読み下し文・レ点等を利用した技法です。
このお陰で中国へ一人一人が留学しなくとも、留学僧がどっさりと文献を持って帰れば一定の教養のある国民みんながそれを読めた・・間に合ったことになっていたのです。
当時の留学僧の主要な仕事は如何に多量の文献・文物を入手して持ち帰るかが大きな仕事目標であったと言われます。
だからこそ最澄がわずかの滞在で帰国して天台宗を開けたのですが、空海のように本格的修行をしていないので、空海帰国後に密教の教えを請うしかなかった面でもあります。
http://www.kosaiji.org/hokke/tendai/saicho.htmによると以下の通りです。
最澄は弟子の義真(781-833)(後に初代天台座主)を通訳に連れ、空海とおなじ延暦23年(804)7月、遣唐副使の第二船に乗って出発した。
9月26日 約160km歩いて台州の臨海に到着。天台山に直行せずに大回りをしたのは、台州の滞在許可(ビザ)が必要だったからである。
11月5日 天台山巡礼を終えて臨海の龍興寺にもどる。ここで受学と日本に持ち帰る仏典書写に専念することになる。
最澄は8ヶ月の入唐期間のうち6ヶ月をこの台州に留まり、そのほとんどを龍興寺で過ごす。
2月20日には103部253巻(一説には230部460巻)もの写経を終えた。還学生(短期留学)の最澄にとって帰国船に乗るまでの期間は限られていた。それにも関わらずこれだけの成果を出した。これには陸淳が20人の写経生の動員に協力し、道邃和尚、行満和尚も資料の厳選と収集や僧侶を動員など好意的な協力を惜しまなかったのであろう。」
上記の通り天台山にいたのは1ヶ月間あまりだけですから、修行らしい修行をしていないでしょう。
空海の方は周知の通り、恵果和尚について修行して最高位・阿闍梨まで上り詰めてからの帰国でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
からの引用です
永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。
長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し[9]、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。
8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
・・・大同元年(806年)10月、空海は無事、博多津に帰着。呉服町に東長寺を開基し、大宰府に滞在する。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していた。
空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。」
・・・弘仁3年(812年)11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。」
明治維新当時も欧米留学者たちが、自己一人で情報一人占めすることなく欧米の社会事情や技術情報を日本語に翻訳して流布させたこと・・これをすぐに自前のものにしてしまえる層が暑かったことが、爆発的文明開花に成功できた原因です。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC