1党独裁とデータのデタラメさ1

ロシアの人口急減データを昨日紹介しましたが、中国の場合どうだったかと平均寿命で世界ネタ帳を見ると、1980年以降しか出ていないので大躍進時代の平均寿命変化は分かりません。
現在は10年に1度の国勢調査をしているようですが、人口自体が未だにはっきりわかっていない・数億単位(11〜12億から15億?)の誤差のある推定しかないと言われている状況です。
ソ連の経済統計の水増しも大変なものでしたが、人口や死亡年齢までごまかしていないだろうという気持ちで引用したものです。
18日に大躍進政策のウィキペデイアで紹介したように、地方政府や人民が中央の無理な政策に迎合して数字だけ合わせようとするのでその歪み(地方政府が大増産を達成したと虚偽報告していたように2人目の出生を届けないなど)が現れています。
本日現在の中華人民共和国に関するウィキペデイアの記事からです。
一人っ子政策の歪みは以下の通りです。
「戸籍上は子供を一人しか持たないようにするため、出産しても届出を行わないことによって黒孩子(ヘイハイズ)と呼ばれる戸籍を持たない子供が激増したり、貧乏な農家の子供たちが人身売買のバイヤー経由で裕福な家庭に売られるなど、新たな問題が発生した。また、統計上では総人口は約13億人であるが、黒孩子や盲民と言われる浮浪民の存在のため、潜在的な人口は15億人を超えているとも言われる[79]。また、清水美和東京新聞論説委員によると、10年ごとに行われている国勢調査では、2000年度調査は統計は13億人だったが、実際は15億人だったという。 」
人間というより生き物の基礎的権利ともいうべき出産の数にまで国家が介入する「何でも強制管理主義」の弊害です。
無理な強制があれば、無理に比例して公式数字と実態がかけ離れてきます。
いろんな統計数字が合わないというと趣味の問題のように見えますが、これにともなう実害は甚大です。
公式届出できない幽霊人口は、文字通りの幽霊であって人間扱いされていません・学校に行く資格もなければ(文盲のままです)保険もないし、就職するにも名前すらない・・正規な就職不能で学歴もなく一生涯日陰者です。
殺されても、交通事故にあってもそもそもその人間がいたことになっていないのですから、・それなりに救済する運動もあるでしょうが、原則と例外の関係を書いています・・人間扱いされていないどころの話ではありません。
内政の結果を総合的に表すバロメーターである(後漢末の混乱から曹操〜曹丕〜司馬懿による西晋王朝までに人口が10分の1に減ってしまったという推定例を数日前に書きました)ロシアの平均寿命低下の原因を19日に見てきましたが、社会混乱・・強権政治が綻びるとすぐに「1990年代前半だけで男性の殺人被害者は2倍に増えた。」結果男女の寿命差が開いたというのですから凄まじい社会です。
強圧的に抑えつける者がなくなると強盗等が横行して殺人被害が2倍になる社会レベルでは、何らかの強権政治が必須です。
いろんな場面で書いてきましたが、幼稚園児や小学低学年生〜中高校生を集めて「自主的に話し合って決めなさい」と言っても、年齢相応に決められる能力レベルがあって年齢能力を超えたテーマの場合には無理です。
民度というのは平均的レべルのことですから、場合によっては隔絶した偉大な人材が出て来ることがあります。
近現代史で見れば複雑なユーゴスラビアをチトー大統領のような人物がカリスマ支配ができる場合です。
以下はユーゴスラビアに関するウィキペデイアの記事からです。

「ユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。」

しかも混在が進んでいたために、一たび民族間紛争・殺し合いが始まるとそれぞれの民族集住地域にいる少数民族は悲惨なことになり、世界中が放って置けなくなったのがボスニア・ヘルツェゴビナその他次々と起きた紛争でした。
この大きな原因は、偉大な指導者いる場合、多種多様な矛盾関係を包容包摂してまとまっていることがおおいのですが、指導者がいなくなるとそれぞれ我慢していた利害集団が我も我もt「エゴ・我」を主張し始めると収拾がつかなくなります。
チトー死亡(1980)後ソ連が崩壊する共産主義の強制力・ソ連に対する恐怖がなくなったのを機会に帳尻合わせが一気に始まった印象です。
この結果、異民族混在のユーゴスラビアは四分五裂して凄惨な市街戦を繰り返して見るに見かねたEUの介入で漸く小民族に分かれて落ち着いたばかりです。
古代からの王国建国はこの種の突出した偉大な人材が出た時に成立したのではないでしょうか?
民度レベルとの格差に反比例して支配者には大きな権力を持てる代わりに権力者の自己抑制と民意を積極的に汲み取る能力教育→帝王学を身につけさせて、無茶をさせない慣習的ルールが成立していたのは能力格差を前提していたのでしょう。
西欧では(議会との)能力格差が縮まったことを反映してイギリスのマグナカルタ成立以来徐々に王権縮小過程にあったのに、大航海偉大〜重商主義時代の到来に気を良くした西欧各国で最後のあがきのように王権神授説を背景に絶対王政・・国王の権力再拡大を志向したので、(太平洋プレートの滑り込み圧力のエネルギーがたまって大規模地震が起きたような)反動が起きたのが英仏の革命だったと見ることが可能です。
幼児には自己決定能力がないのに比例して両親の指導強制力プラス深い慈愛が必要なのと同じで、上下の関係は能力格差に裏打ちされれているものです。
能力格差が低いのに権力だけ強いと革命が起きるし、能力差があるのにこれを無視して人権とか高邁な理念だけで平等論を主張するのは、裏付けになる能力差を無視した空論です。
実態無視の意見に煽られた単細胞グループが、親や上司、先生などなど目上のひとたちに日頃(自分の能力不足を補って)大事にされている現実を見ないで「造反有理」という言葉に酔いしれて文化革命騒動の真似事をしていたのが、その頃の日本学生運動でした。
中国の場合年の行かない少年を紅衛兵に仕上げ、これが全土に猛威をふるったのですから、正気の沙汰ではありませんが、実は中国人民の不満が爆発寸前にまで鬱積していたので、これを煽ってみたら成功したと見るべきでしょう。
文化大革命は時系列で見れば、大躍進政策の失敗による困窮不満でしたから、本来は元凶である毛沢東に向かうべきエネルギーを現政権への不満へと方向づけた毛沢東の手腕は恐るべきものでした。
少年兵/紅衛兵が暴れまわって大事な人間関係をぶち壊して見ても、ぶち壊した少年兵の方には上から下までそれぞれの分野で(ちょっとした宣伝に簡単に乗せられてしまう程度の低レベル)自立能力すらない・実際の運営能力がないために結局は大混乱しかなく最終的には独裁政治になるしかありません、
日本では、毛沢東語録を聞きかじり、造反有理と称して少しの疑問もなく、大学教授を根拠なく吊るし上げて学内の反対意見を蹴散らして大学自治会をスターリンのように独占支配して(いわゆる内ゲバ・粛清の行き着くところが浅間山荘事件で白日の下に曝されましたが、)百%実践してきたのがいわゆる3派10流と言われた全学連でした。
一応自治会選挙で選ばれたというのでしょうが、誰も寄り付けないようにしているのですから民主「的」かもしれませんが「民主的」運営でないことは結果から見ても誰の目にも明らかです。
革命後の独裁政治の場合、長年の権力行使に付随して発展してきた王権発動にあたっての抑制的システムまでぶち壊してしまって存在しなくなっているのが難点です。
クロムウエルやジャコバンの形式的な議会の議決、ソ連のスターリン独裁や現在進行中の中国の全人代の運営を見ても全て全会一致の採択ですから、権力抑制に対する実際的意味のある装置でなかったことは明らかです。

政争と粛清3(大躍進政策・モンゴル人等の大虐殺)

頭のいい人・秀才から見れば訳のわからない?人を抹殺しないで、グダグダした言い分を根気よく聞いて「納得」の上で進めないと内政はうまく行きません。
民進党の野田元総理が堅い支持基盤を持っているのは見るかに愚直・言葉にならない気持ちを近いしてくれそうな風貌(具体的に知らない大多数にとっては内容もそうだろうという安心感)によるでしょう。
私の持論ですが、秀才が政治運営するのは無理があります。
秀才?理念先行の集団が政権を取ると面倒な利害調整を端折って党内抗争で勝った方が独裁→計画経済=国民に対する問答無用の強制→抵抗勢力・集団・少数民族に対してはまとめてシベリヤへ強制移住・権力内部では猜疑心の再生産になって終わりのない個別政敵粛清に行き着いたものです。
ポルポト政権の大虐殺も中華人民共和国政府がモンゴル族や満州族、チベット族を大量抹殺したのも説得の手間を省く同じ流れでしょう。
チベット族の民族抹殺政策はインドに亡命したダライ・ラマの抵抗によって世界に知られていて、以下紹介する大躍進政策失敗に関するウィキペデイアの解説にもチベット族関係が出ていますが、モンゴル・満州族等に関しては記述がありません・・外部に逃亡しようのない内陸部の満州族やモンゴル族の大量虐殺はもっとひどかったのにまだ一般化していませんが、そのうち一般化して来るでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/によると以下の通り(引用文献名が地道な調査報告でない点が実態そのものか単なる主張に類するものかどうか頼りないですが、)人口の6割も被害を受けていると書かれています。
(追記10月19日日経朝刊6pの中外時報欄に「楊海英静岡大学教授らの研究によれば内モンゴルで文革中に『モンゴル人のジェノサイド』が起きた。ただその実情を伝える情報は中国の内側では封印されている」してとさりげなく触れているように徐々に大手新聞も扱うようになってきました。)

「内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴル-じんみんかくめいとう-しゅくせいじけん)とは、1966年から1976年にかけて、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1
1949年に中華人民共和国が建国されると、内モンゴル自治区には漢民族の大量移住が行われ自治区内におけるモンゴル人の人口比率は大幅に減少した。1960年代になり中ソ対立が顕在化すると「内外モンゴルの統一」を口実にソ連の介入を招きかねない内モンゴルの自治は徹底的な弾圧を受けることとなる。1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、鄧小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[2]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは内人党分子とされたモンゴル人が弾圧された。
こうした混乱は続き1969年には内モンゴル自治区に軍政施行、内モンゴル生産建設兵団が組織的に送り込まれ、1970年には内モンゴル自治区は廃止され周辺各省により分割された。
1966年から1976年にかけて中国政府は内モンゴル自治区(南モンゴル)、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、青海省(チベット)、甘粛省、東北三省(満洲)に先住していたモンゴル人に対して「分裂主義者」「地域国粋主義者」などの罪名のもとで70万から80万人を投獄し、5万人から十数万人を殺害した[1][3][4]。これは当時の内モンゴル自治区の人口の6割以上を占める[4]。」

内政を底上げするには根気よく民度をあげるしかない・「急がば回れ」の諺通りですが、民度アップは強制・恐怖政治では無理ですし・・平和な社会でしか民度が上がりませんから(現在のシリアのように日々生命の危険にさらされていると大人も自己啓発できないだけでなく、次世代の教育すらできません)、暴動や革命による社会の混乱は生活水準・民度アップの目的には反したマイナスの結果を生みます。
受け皿になる社会実態の変化がない以上社会を権力で変えようがないのですから、中国のように何回王朝が倒れても同じ政治形態をとってきたのは実態に即した知恵だったのです。
あたらしいスローガンで政権奪取しても、社会がその段階にない場合や社会が新しいステージに入っていても政治運営経験や能力がなくてその実現能力がない場合には、手っ取り早い政権維持のためにクロムウエルやジャコバンのようにエネルギーを政敵を粛清したり政敵駆逐が片付いて独裁体制が固まると今度はナポレンのように外延拡大に向けることになることを書いてきました。
イワン雷帝以来ロシアは外延拡張政策に突っ走ってきて、民生向上に向けるべき資源を民生に向けられなかったので西欧諸国と生活水準で大きな格差が生じていたことが革命を必要とする原動力であった筈ですが、ロシア革命後利害調整の必要な民政能力のない悲しさで、(レーニンも新経済政策・ネップをやったもののうまく行かず、「1歩前進二歩後退」などと失敗をごまかしていましたが)結果的に後継者は外延重視政策に切り替わって行くしかなかったと思われます。
その結果数千万の餓死者を出しながら穀物輸出をつづけ〜国民不満を抑えるためのスターリンの大粛清政治となり、国内では粛清が怖くて批判できず、民生は縮小均衡の螺旋状態に陥っていました。
この辺は毛沢東の何千万の餓死者を出したと言われる大躍進政策(政権奪取→毛沢東の党内基盤確立後民生向上に踏み出した点は正しかったのですが)とこれに続く文化大革命も同じです。
ウィキペデアによる本日現在の大躍進政策の記事です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/

1957年11月6日、ソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。毛沢東共産党主席はこれに触発され、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスをこれらの農工業の生産指標において15年で追い越す(後に「3年」に「修正」)という、壮大な計画を立案した
しかし、市場原理を無視して、一部の農工業生産指標のみにおいて3年間で米英を追い越すほどのノルマを人民に課し、ずさんな管理の元でこれらの農工業製品のみに対して無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。
1959年の7月から8月にかけて、江西省の廬山における会議(廬山会議)において、共産党の要人・国防大臣彭徳懐元帥が大躍進政策の問題点を諫めた。この指摘に対して毛沢東は、労働者を搾取する制度を正当化する観点が含まれているとして、社会主義への裏切りであると拒否。彭徳懐は失脚させられた。この結果、同政策に意見するものがいなくなるとともに、一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は実態を把握しないまま更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。
また、需要や流通、輸出入やインフラストラクチャーなどを含めたマクロ経済やミクロ経済のメカニズムのみならず、生態系全体のシステムをも完全に無視し、単に数字上の生産目標達成のみを目的とした、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも甚大な被害を招いた。経済のシステムや自然はごく単純な合理思考で改造、操作できると考えてしまったのである。
大躍進政策によるチベットの惨状について
パンチェン・ラマは周恩来首相に改善を求めている[3]。
チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった。チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる[3]
また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで[3]、パンチェンラマは次のように書いている[3]。
この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こんな恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(中略)チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった
政策の結末
毛沢東の主導による大増産キャンペーンが全国で行なわれた結果、生産量を増大させた地方・地区がより「革命的」であり、その地区の共産党幹部がより有能で、昇進が約束される風潮が蔓延した。そして各地の共産党幹部は目先の功を争い、毎年中央に「党の指導で、前年より更にこれだけ飛躍的に生産を拡大させた」と報告し、現実の生産量を過剰申告したり、地区中の作物を一区画の畑に集めて写真を撮り虚偽宣伝する事例が中国全土で横行した。ある地区で農作物の生産量が増大したと宣伝された場合、隣接地区の幹部も対抗上、生産量が増大したと虚偽報告するしかなく、中央への申告と実際の生産量とのギャップは年々広がる一方であった。そして中央政府は、地方から報告された生産量を前提に、輸出などに回す穀物の供出を地方政府に命じた。
「地方幹部は生産量を過剰申告したとも言えず、一度『増えた』生産量を減らすわけにもいかず、辻褄あわせに農村から食糧を洗いざらい徴発した。その結果引き起こされたのが、広範囲の農村で餓死者続出の大飢饉だった」と周恩来に近かった関係者は証言する。飢餓の最悪期にも中国はソ連からの借款の返済に農作物を輸出していた。また都市部の倉庫は穀物で一杯だったという証言が残されている[8]
結局、大躍進政策は数千万人の餓死者を出す、惨憺たる大失敗に終わった。1959年、毛沢東は政策失敗を認めて国家主席を辞任し、実質的な権力を失う。あるデータでは大躍進政策による餓死者数は3,635万人であったという[9]。1962年1月の中央工作会議(七千人大会)で、劉少奇国家主席は「三分の天災、七分の人災」と大躍進の原因を評価した。

内政経験未熟2(ロシアの場合1)

国政担当者になれば、市民運動のように一方の立場だけ言い募れば良いものではありません・・。
革命成功には(まずは従来の対立を棚上げしての大同団結成功によりますが)多くの集団利益の糾合によりますが、権力奪取に成功してみると権力を倒そうという共通の目的がなくなります。
政策のすり合わせで一つの党になったのではなく当面の敵・政権打倒のための薄氷の団結では、政権を奪った後に棚上げが解消されれば対立が復活するのが当たり前で統一政権の展望がもともとありません。
命がけの革命が成功した以上は、各集団構成員は当然自分たちの現状に対する不満解消=要求が通ったものと感激し期待しますので、革命騒乱前の対立利益の棚上げ我慢が解消される期待・・革命勃発前以上に自己集団利益・主張の実現期待が高まっています。
政権運営者運営になると従来以上に妥協が必要なときに逆に出身母体の要求実現圧力が高まり利害対立が尖鋭化します。
戦国大名の合戦勝利後の恩賞争いは参加豪族の求めるものが同じ方向、領地等ですから競合豪族の得た恩賞が自分より多く(他の武将が60の恩賞もらい自分が40しか恩賞がもらえないのは悲しいですが、)自分の領地が減らされる関係ではありません。
革命後の政策争いの場合には、競合相手の主張が通ると自分の主張が否定される関係が多いので、「主張がとおってよかったね」とお祝いするどころではない・・簡単にはおさまりません。
もともと意見が相容れないから別組織を作り相互に敵対していたのですから、革命実現後の昂揚感で小池氏(は選挙で勝つ前に表明したのですが・・)のいう通り「さらさらない」譲る気持ちが薄れていますのでまとまるはずがありません。
最大共通の敵である政権(たとえば3〜4割の支持を受けていた最大政党の政権)を打倒するために残り6~7割の大同団結で(内部党派の内訳が15%〜13%〜12〜10〜9、5〜8%〜・・.=6〜70%)で政権奪取した場合、革命成功後の妥協が難しくなり離合集散を繰り返した挙句、最後は血で血で洗う内部抗争が始まるのが普通・西洋革命やロシア革命の経験です。
日本では、民主党の寄り合い世帯の矛盾がいつも言われていましたが、要は「自民党を倒し政権交代のための大同団結」という呼びかけに応じること自体に、政権獲得後の政権運営の展望がないことを自己表現しているのですから論理帰結というべきです。
家の建て替え案について借家に引越すかを含めて10種類の案の対立があってまとまっていないのに、先ず取り壊すことの賛否をとって取り壊してしまい、後で野宿しながらゆっくり決めるようなものです。
もともと合理的妥協できない体質の集団同士が、(中国の国共合作や日本で言えば選挙協力)当面の敵を倒すだけの目的で団結しているのでは当面の敵を倒して政権を取ったのちの熾烈な政争・国政混乱を前提にしているのですから、政権担当能力の無さを自ら示していることになります。
民進党内の保守系や連合が、共産党との選挙強力に断固反対していたのは、その後の熾烈な内部抗争では鉄の規律を誇る共産党に負けてしまう・3日天下の恐怖があるからです。
ロシア革命ではボルシェビキが多数の支持を受けたのではなく選挙では負けていたのに、武力圧倒(言わばクーデターです)した歴史があります。
クロムウエルの独裁も鉄騎兵という武力背景によるものでしたし、ナポレンも軍を背景に頭角を表したものです。
メデイアは総選挙得票数を見れば野党合計が与党合計を上回っているとしきりに宣伝しますが、妥協能力のない政党選挙目的で団結してもが仮に7割あっても大同団結の結果政権を取ると、外敵がなくなった後はお互い妥協能力のない人の集まりですから、ロシア革命の推移を見れば明らかなように連立政権の内部抗争で四分五裂し、最後に勝ち残ったグループも政治運営経験がない上に相手が合理的説得になじまない原理主義的傾向グループばかりですから、結果的に国民支持が10%以下の最も残忍なテロ行為を行える狂信的集団の政権確立・・内政では独裁・恐怖政治や対外冒険主義に陥ります。
ロシアや中国のような後進国でない先進民主主義国においても、民選議員が離合集散を繰り返すことに対する国民不満を背景に強力な政府・統領制への期待が高まるので、統領政治→独裁(前近代では中国のようにその都度前王朝制度の踏襲・あるいはフランスのようにナポレン帝政となるなど・1党独裁制度の場合には終身党首)→恐怖政治のパターンとなる確率が高まります。
第一次第二次ナポレン帝政を見ても分かるように、内部抗争がなくなると次々と敵を求めて対外戦争や紛争を起こすパターンです。
革命主導したレーニンは資本主義→帝国主義戦争が必然と主張していましたが、歴史を見れば逆に革命(素人で内政能力欠如)→対外戦争が必然的というべきでしょう。
日本の薩長土肥政権・古くは鎌倉や室町幕府・徳川政権の成立後この構成集団間で粛清政治にならなかったのは、もともと主義主張や利害対立で反目していたのではなく地盤が遠く離れていて別の領地を持っていたから別集団になっていたに過ぎない・・上記の通り論功行賞の競合関係しかない面と、構成大名それぞれ小なりと言えども先祖代々からの領地内の内政経験が豊富にあったから利害対立の捌きかたをよく知っていたことによります。
政権運営経験のない後醍醐政治が失敗したのは、失政を誤魔化すための恐怖政治に走ることを許さない民度の高さによります。
清教徒革命の場合クロムウエルの独裁、フランス革命の場合ジャコバンの恐怖政治・ロシアの赤色テロなど世界で有名な革命では例外なく独裁→恐怖政治に陥っていることが知られています。
以下は、赤色テロに関するウィキペデアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/の引用です。

ロシア
レーニンは、早くから革命にはテロリズムは必要であると考えていた。彼はフランス革命や自らの兄アレクサンドル・ウリヤノフも信奉したロシアの虚無主義、セルゲイ・ネチャーエフを研究し、熱心にテロを奨励したと言われている。
1918年8月30日、左翼社会革命党の党員ファニヤ・カプラン(英語版)がレーニンを狙撃した暗殺未遂事件が発生すると、同年9月にレーニンは「赤色テロ」政令を発して、「白色テロには赤色テロで応じる」ことを宣言した。しかし既にボルシェビキによるテロはいたる所で行われており、この宣言はそれを正当化した形であった。レーニンは、秘密警察チェーカー(後のKGB)を動員して反対派を徹底的に粛清。国民に密告を奨励して「反革命」とみなされた人物を次々と逮捕・処刑した。ロマノフ朝最後の皇帝であったニコライ2世一家もエカテリンブルクで全員虐殺された。この他の皇族や、資産家、クラークなども、亡命できた者を除いて「人民の敵」というレッテルを張られて裁判もなしに殺害された。これらの事実は欧米に衝撃を与え、ナチズムなどの反共主義が広がる要因となった。
カンボジア
1976年に親米政権を打倒して政権を掌握したクメール・ルージュは、農村部から都市部に至るまで、反対派を大量に殺戮した。クメール・ルージュによる大量殺戮は、1979年にベトナム軍が介入するまで続いた。
中国
毛沢東の主導で行われた大躍進政策や文化大革命は中国において行われた典型的な赤色テロの例であろう。大躍進政策では数千万人が餓死し、文化大革命でも数千万人が虐殺されたとされている。」

上記の通り、もっとも温和な国民性と思われていたカンボジアで共産党政権になると大虐殺がおこなれていたことを見ても、ソ連のおそるべき粛清政治はスターリン個人の資質によるものではありません。
共産主義政党に限らず西欧流の主義主張の強調によって、(相手をけなして)政権を取る方法(集団内部で結果的に妥協を拒む原理主義者・・純粋主張・純化論が幅を利かしがちです)はこうしたことになり易いことを示しています。
日本のように尖鋭な主張を嫌い茫漠とした人格採点の方が穏当なところ落ち着きます。

アメリカの自治体4(自然発生的集落の未発達→内政経験未熟1)

日本の場合、例えば青森の三内丸山遺跡はhttp://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/によれば、
「今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。」
「膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。
ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。」
とあるように、これだけ大規模な集落が営まれていた上に、遠隔地でしか取れないヒスイや黒曜石を交易によって入手していたことから見ても(石しか残っていないだけでその他の物品も当然交換していたでしょう)ということは当時すでに周辺諸集落どころか遠隔地とも円滑に交流していたと見るべきでしょう。
原始的集団同士の協調・折り合いさえつけられない・・アメリカではまだうまく解決する知恵がない状態が最近顕在化しています。
各人が言いたいことを言い、協調できない社会・・これを許せないと喧嘩(戦争)していられないから言いっ放しにしておく程度の知恵・・言論の自由論ですが、(アメリカの場合広大な原野にそれぞれ入植し近い集落でも数十キロ以上離れていれば、意見の違いを調整する必要性がなかったし、都市部では隣と付き合う必要がないから近所の人の意見など気にしないで済む面があります)これを多様性を許す社会と言い換えているように見えます。
アメリカが世界をまとめ切れないどころか、国内の近隣自治体間の協調さえできていません。
外敵のために作った国家でしかないから、星条旗(戦争)のために団結できるだけの関係です。
広域自治体ができないで失敗している状況を12日のコラムで引用紹介しましたが、もう一度一その部分だけ引用しますと以下の通りです。
http://www.clair.or.jp/j/forum/series/pdf/h18-1.pdf1

カリフォルニア州の地方自治体について
東海大学政治経済学部政治学科教授牧田 義輝氏
6 カウンティ政府と広域行政
・・・カリフォルニア州同様、アメリカには連合型の広域政府が一例としてない。1960・70 年代に犯罪、福祉、暴動、環境、人種差別問題が大都市問題として噴出したときこれらの問題を解決するために大都市圏総合広域政府の創設の提案が、全米で 100 例以上提案された。
しかし、この種の広域政府は実現していない。」

このようにカナダなどでは多数作られている連合型広域政府でさえ作られない理由は、地方自治体の自治権が強力であることに尽きる。カナダなどの場合、たとえば「トロント大都市圏自治体」の設置のように上位政府である州政府の議決で創設できるのに対し、アメリカの場合は大都市圏広域政府を作る場合に近郊自治体と中心大都市自治体の利害が不一致である場合(人種、経済格差、文化、環境などほとんどが利害対立しているが)住民投票において近郊の多数、中心都市の多数をそれぞれ要件とすることなどによってすべてが挫折したのである。

自然発生的集落から周辺との協調を経て発展してきた社会の場合には、周辺自治体との交流を経て生活習慣が似てくれば、価値観が似ているので必要に応じた話し合い解決の土壌があり、合併・広域化に違和感がありません。
また協調行動も容易ですが、何もない原野の先まで馬で走っていって、そこに国旗を立ててくればそこまで自分の領域と宣言し、まずは周辺を囲ってから内部に習慣の違う民族の移民を進めて集落を作り埋めていくやり方社会との違いです。
内政充実の結果周辺に信用が広がり自然に生活領域が広がって行く・・商売で言えば本店の人材・実力を蓄えてからの周辺支店網拡大の場合安定的です。
あるいは徐々に従業員を増やして行くと従業員が仮りに数千人になっても企業カラーが一体化しますが、大きな企業をM&Aで買収すると社風が10〜20年たっても違ったままになるのと同じです。
外延的伸長に対する関心で急膨張し縄張りだけの急拡大・・1時的に鳴り物入り進出・派手な宣伝で売り上げをあげても、地についていないと何かあると脆いものです。
内部充実を待たずに武力や資金力だけで領域を広げてきた結果、内部住民の福利に対する関心は2の次3の次の社会(自前文化が生まれない外延社会)のもろさがアメリカで出てきたのが治安悪化だと思われます。
アメリカの共和党は軍事力を背景にした外交だけあり、民主党は内政に関心があるがバラまきしか知らないと一般に言われています。
民主党が内政重視と言っても利害調整をしない豊富な資金力を背景したフードスタンプ配布条件の底上げや福祉中心ではまともな国政とは言えません。
今でも後進の地域大国では簡単に外敵に焦点を当てる政治に偏り勝ちなのは、民度が低くて内政充実能力が欠如しているのに対して、周辺國威圧による対外的成果を求める方が簡単だからです。
ロシアもピョートル大帝(領土拡張を重視する人にとっては素晴らしい帝王でしょうが)逆から見れば、国民生活充実・内的発展に使うべきエネルギー(民度が低くてこれにエネルギーを注いでもうまく行かないので)を外延拡張に使ってしまった君主とも言えます。
ロシアは正面の西と南へ(対トルコ)の進出では英仏に阻まれたので誰もいない裏のシベリアに向かうしかなかったのですが、シベリアの大規模な囲い込みに成功した結果、国民の生活向上に使うべき資源を巨大な領土経営資源としてどんどんつぎ込み、内部空洞化→ロシア革命になったものですから、見方によればもともと遅れていたロシア社会後進性維持の元凶になったような人物と評価できます。
今でも広すぎる領土を守るために中露国境だけでも何千キロとあって膨大な国境守備隊が張り付いていると言われます。
ロシア革命で民衆が本来求めていたのは、国土領域拡大や外国に対する主導権を持つことよりは国民の貧しさの克服(・その不満の蓄積)であり、いわばイワン雷帝以来歴代帝政が続けてきた外延的拡張政策の内政重視政策へ方針変更であるべきでした。
イワン雷帝の治績はhttps://jp.rbth.com/arts/2016/10/14/638545によれば以下の通りです。

2、最初のツァーリ(皇帝)になった。
イワンは1547年、成人に達した日に戴冠した。イワン以前にはモスクワ・ルーシの支配者はすべて大公の称号を持っていたが、彼は初めて、ローマ皇帝「カエサル」の名に由来するツァーリ(皇帝)を名乗った。これは西欧の「皇帝」と同じく、その権力が直接、神に起源をもつとされている。
「5、戦争を行った。
イワン雷帝は、国土を拡大しようとして、治世の全期間にわたって戦争した。一方で彼はカザン、アストラハン・ハン国を粉砕して両国をロシアに併合した。彼の時代にヴォルガ川沿岸地方と沿ウラル地方がロシア国家に併合され、広大なシベリア各地の開発が始まった」

ロシア革命に戻りますと、実際に革命当初まず第一にやったのは対ドイツ戦からの離脱であり平和国家を目指したものでしたが、内政に手を出してみるとすぐにどうして良いか分からなくなってしまった印象です。
・・実は利害の錯綜する内政はスローガンだけでは何も進みません・・・実務経験のない革新系政治運動家→運動家であっても、批判してきただけで政治運営の経験がないのでどのように利害をさばいて良いか分からないので無理です・・。
日本の民主党や敗戦直後の片山内閣だけの責任ではありません。
建武の親政を断行した後醍醐天皇が失敗したのも同じことです。
日本の民主党や片山内閣が能力不足を隠すための粛清に走らなかったし、走らせなかった点が我が国の民度の高さです。

アメリカの自治体2(政府形態1)

昨日引用の続きです。
素人の私が自己流解釈するよりそのまま引用の方がわかり良いので、そっくり(と言っても関心のあるところだけの抜粋です)引用さていただきます。
今日のコラムは私の意見部分がなく引用だけです。
http://www.clair.or.jp/j/forum/series/pdf/h18-1.pdf1

3 カリフォルニア州地方自治体の政府形態
(1)アメリカ全土地方自治の政府形態
アメリカ全土には、下記の表が示すようにさまざまな地方自治体の政府形態が示されている。
表 2 政府形態の年代推移
推 移      2005      2004    2000    1996   1992   1988     1984
支配人制   3,475(48.9%)  3,453   3,302   2,760   2,441   2,356   2,290(35%)
市長議会制  3,091(43.5%)  3,089   2,988    3,319   3,686   3,686   3,686(56%)
委員会制   145( 2.0%)   145    143     154   168    173   176(3%)
町総会制   338( 4.7%)   338    334    365    363    369    370(5%)
町総会代表制 63( 0.9%)    63 64    70     79    82    81(1%)
不明 3
計     7,112(100%)    7,091    6,381   6,668  6,737    6,666    6,603
(100%)
出典:The Municipal Year Book 2005,Published by the International
City/County
Management Association (ICMA)
注① 上記の表中の合衆国の地方政府の総計は、2,500 人以上の人口をもつ自治体のみを
示している。また、2,500 人以下の人口をもつ地方政府は 30,000 ほどである。
注② 理事会・支配人制政府のもとで運営されている自治体に住む住民は、9、200 万人以上である。
注③ 25,000 人以上の人口の自治体の 63%は、理事会・支配人制を採用している。
それぞれのシステムについて、簡単に解説しよう。
イ 市支配人制
この制度は、1908 年ヴァジニア州スタウトン市 (Staunton, Virginia) において初めて採用された。
多くの市で急速に採用され、今日では、25 万以下の自治体では半数以上で採用されている。また、ヨーロッパのほとんどの国、またアジアにまで広まっている。
この制度は、理事会によって任命された支配人に全行政をまかせ、理事会は、支配人の任免の他には予算や政策の決定を行うに過ぎない。市長の選出は、理事会の互選か、有権者による直接公選であるが、その任務は、理事会の議長、また対外的代表など数が限られている。支配人は、「行政大学院」で教育を受けた行政の専門家で、予算・政策案の作成、行政組織の管理、情報の収集、市民との交流などの仕事を行う。企業に極めて似た制度と言える。
カリフォルニア州のこの制度の採用率は、非常に高く、また採用してもそのバリエーションに富んでいる。州内 465 自治体のうち、32 自治体が「議会-市長制」であるのに対し、後は、「理事会-支配人制」である。
例えば、第3章で示す「トーランス市」の場合は、もとより「理事会―市支配人制」であるが、支配人はこの半世紀ほどで2人だけである。専門職としてのマネージャーは、通常日本では自治体の「わたり職人」のようなイメージであったが、必ずしもそうではないようである。
ロ 弱市長制
連邦政府の統計では、弱市長制と強市長制は、「議会―市長」と解されて、一緒に取り扱われている[U.S. Census Bureau, Government Organization, 2002CensusofGovernments,Vol.1No.1.]。しかし、ここでは、政府形態のバリエーションを増やす意味からも別々に説明する。
弱市長制は、現在の制度のうちで最も古く 19 世紀前半に始められた。
この制度の特徴は、主任行政官としての市長の地位が極めて弱いことである。議会は部長の任免権を持ち、それによって行政権を遂行する。また議会は、予算案の作成と採択に責任を有する。この他に行政権は、多数の行政委員会にも与えられており、しかもその委員は有権者によって選出される。
この制度は、州制度に類似しているが、地方自治体レベルでは比較的小規模自治体で使われるのが通常である。しかし、例外的に 37 万都市のミネソタ州ミネアポリス市とカリフォルニア州ロスアンジェルス市(市部人口 3,957,875 人)でも採用されている。
ハ 強市長制
1870~80 年頃、この制度が採用され始めた。この制度は、首長と議会がそれぞれ有権者によって直接選出される。首長は、強い行政権をもち、全行政過程の決定・執行に責任をもち、また政治的リーダーでもある。
この制度の欠点は、行政に素人の市長が採用され、政治と行政を区別することが困難な場合が多いことである。
強市長制は、わが国の自治体制度と類似している。
なお、行政管理官制は、強市長制に基本的には類似しているが、行政管理官は首長のもとで支配人制の支配人と類似した機能を果たす。
ニ 委員会制、町総会制
上記の3制度以外には、カリフォルニア州においては見当たらない。少なくとも「自治体年鑑(municipal year book)」や連邦統計局編纂の「政府組織(Government Organization)」には見当たらない。

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