GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会1→天皇制存続?

GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会1→天皇制存続?

昨日の資料の続きです。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/026shoshi.htmlからの引用です

3-4 極東委員会の設置とGHQとの会談
終戦後の日本は事実上米国の単独占領のもとに置かれていたが、1945(昭和20)年12月のモスクワ外相会議の結果、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会が、東京には対日理事会が設置されることとなった。
極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。
とくに憲法改正問題に関して米国政府は、極東委員会の合意なくしてGHQに対する指令を発することができなくなった。
翌年1月17日、来日中の極東委員会調査団(来日中は、前身である極東諮問委員会として活動した)はGHQ民政局との会談の席で、憲法問題についての質問を行ったが、民政局側は憲法改正についての検討は行っていないと応じた。同月29日、マッカーサーは同調査団に対し、憲法改正については日本側に示唆を与えたものの、モスクワ宣言によりこの問題は自分の手を離れたと述べた。3-7 憲法改正権限に関するホイットニー・メモ 1946年2月1日
極東委員会が憲法改正の政策決定をする前ならば、GHQに憲法改正の権限があると、マッカーサーに進言したホイットニー民政局長のメモ。
1946(昭和21)年に入り、極東委員会の発足(2月26日)が迫っていたとき、ホイットニーらは、その前身である極東諮問委員会との会談のなかで、彼らが憲法改正問題に強い関心を持っていることを知った。この文書が作成された2月1日は、GHQ草案作成の重要なきっかけとなった、毎日新聞のスクープ記事が掲載された日でもあった。GHQは、独自の憲法草案作成を決断するにあたり、その法的根拠について検討していたのである。
3-28 極東委員会の関与
極東委員会は1946(昭和21)年2月26日にワシントンで第1回会議を開き、その活動を開始した。3月6日に日本政府が行った「憲法改正草案要綱」の突然の発表とマッカーサーの支持声明に対し、同委員会では、マッカーサーが権限を逸脱したとの批判が巻き起こった。
そこで同委員会は3月20日付け文書を発し、憲法案が可決される前にこれを審査する機会が同委員会に与えられるべきであると主張した。4月10日には、憲法改正問題に関する協議のためGHQ係官の派遣をマッカーサーに求めると決定したが、マッカーサーはこれを拒否した。
東京では、対日理事会が4月5日に初会議を行ったが、その席上マッカーサーは、憲法草案は日本国民が広範かつ自由に議論しており、連合国の政策に一致するものになるだろうと主張した。
しかし極東委員会では、米国代表であるマッコイ議長も憲法問題に関してマッカーサーを支持していなかった。
このことは、GHQ憲法問題担当政治顧問として来日した政治学者のケネス・コールグローヴからホイットニー民政局長に伝えられた(4月24日付けホイットニー文書)。
マッコイ議長自身もマッカーサーに対する4月25日付け打電で、新憲法成立以前に極東委員会が審査すべきことを訴えている。しかし日本で多くの知識人と接触し、憲法草案が広く支持されていることを知ったコールグローヴは、マッコイに対し、極東委員会での審査は時間の浪費になると伝え、GHQの立場を擁護した(4月26日付け書簡)。
極東委員会は、4月10日に予定された衆議院総選挙に対しても、国民が憲法問題を考える時間がほとんどないとして、その延期を求めていた。しかし総選挙は予定どおり実施され、きたるべき第90回帝国議会において「帝国憲法改正案」が審議されることは既定路線となっていった。極東委員会は、帝国議会の召集が間近に迫る5月13日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であるとする「新憲法採択の諸原則」を決定した。
4-6 極東委員会「日本の新憲法についての基本原則」
1946(昭和21)年7月2日、極東委員会は「日本の新憲法についての基本原則」を決定し、新憲法が盛り込むべき原則を初めて示したが、これは半年前に米国政府がマッカーサーに伝えていた「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)を基本としたものであった。同委員会内ではかねてより天皇制に対する強い反発があったが、結局SWNCC228を踏襲して、「天皇制を廃止するか、またはこれをより民主的な方向で改革する」という選択肢を日本国民に与えることで落ち着いた。
マッカーサーは、この基本原則に異議は唱えなかったが、この「指令」を公表すれば、憲法改正に対する日本国民の自発的努力が連合国による強制という性質を帯びることになるとして、公表を抑えさせた。

上記の通り、マッカーサーは極東委員会をうまく手玉にとっていたことが分かります。
マッカーサーが極東委員会をコケにしたのは(ソ連に口出しさせない)本国の意向であったのか、それともマッカーサー個人の意見だったのか断定できませんが、もともと本国の決定機関・・「米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)」は上記の通り「天皇制廃止」意向が強かったのが、マッカーサーの意向を反映して1月7日公式文書の「天皇制を廃止するか、またはこれをより民主的な方向で改革する」という選択肢を日本国民に与えることで落ち着いた。」という中立的な表現に変わったものの、対日政策方針でマッカーサーとの間でぎくしゃくしていたと言われていたように思います。
この1月7日のSWNCC文書発令前にアイゼンハワー参謀総長からマッカーサーとの書簡応答があった資料を1月10日コラムに引用しましたがもう一度ここで引用しておきます。

3-3 マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡(天皇の戦犯除外に関して) 1946年1月25日
1945(昭和20)年11月29日、米統合参謀本部はマッカーサーに対し、天皇の戦争犯罪行為の有無につき情報収集するよう命じた。これを受けマッカーサーは、1946年1月25日付けのこの電報で、天皇の犯罪行為の証拠なしと報告した。さらに、マッカーサーは、仮に天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、アメリカの負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。」

「天皇を戦争犯罪者として裁くべきかの調査命令発出・・元々本国では「天皇の戦争責任を問うべき」とする意見が強かったことが推測され、・・マッカーサーの意見は、この方向を変えるエネルギーになった可能性があります。
この報告書を受けて、戦犯追及意見が下火になり、1月7日のSWNCC228の公式(最終)意見となったのでしょう。

マッカーサーと連合国とのズレ?の原因1

私はGHQと本国政府プラス連合国は一体であると思っていましたが、実は本国政府との間で日本の天皇制維持に関して亀裂または方向性に微妙なズレが生じていた印象です。
マッカーサーと本国・連合国との間にどのようなズレがあったのでしょうか?
まずは経過から見ていきましょう。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/026shoshi.html

概説
第3章 GHQ草案と日本政府の対応
極東委員会の設置とアメリカ政府の対応
1945(昭和20)年12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東委員会(FEC)を設置することが合意された。その結果、対日占領管理方式が大幅に変更され、同委員会が活動を始める翌年2月26日から、憲法改正に関するGHQの権限は、一定の制約のもとに置かれることが明らかになった。
1946(昭和21)年1月7日、米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整委員会(SWNCC)は「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)を承認し、マッカーサーに「情報」として伝え、憲法改正についての示唆を行った。

以下は資料集からです。

3-2 「日本の統治体制の改革」(SWNCC228) 1946年1月7日
1946(昭和21)年1月7日、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が承認した日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示す文書(SWNCC228)。この文書は、マッカーサーが日本政府に対し、選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきであるとした。すでに極東委員会の設置が決定され、米国政府は憲法改正問題に関する指令権を失うこととなったため、マッカーサーに対する命令ではなく、「情報」の形で同月11日に伝達された。のちにGHQ草案の作成の際に「拘束力ある文書」として取り扱われ、極めて重要な役割を演じた。米国政府はこの文書の中で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民に受容されないので、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」であることを強調している。

概説に戻ります。

GHQ草案の作成
GHQは、起草作業を急ぐ一方で、日本政府に対して政府案の提出を要求、2月8日、憲法問題調査委員会の松本烝治委員長より、「憲法改正要綱」「憲法改正案ノ大要ノ説明」等がGHQに提出された
GHQ草案の受け入れと日本政府案の作成
2月13日、外務大臣官邸において、ホイットニーから松本国務大臣、吉田茂外務大臣らに対し、さきに提出された要綱を拒否することが伝えられ、その場で、GHQ草案が手渡された。後日、松本は、「憲法改正案説明補充」を提出するなどして抵抗したが、GHQの同意は得られなかった。
日本政府は、2月22日の閣議において、GHQ草案に沿う憲法改正の方針を決め、2月27日、法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長が中心となって日本政府案の作成に着手した。3月2日、試案(3月2日案)ができ上がり、3月4日午前、松本と佐藤は、GHQに赴いて提出し、同日夕方から、確定案作成のため民政局員と佐藤との間で徹夜の協議に入り、5日午後、すべての作業を終了した。
日本政府は、この確定案(3月5日案)を要綱化し、3月6日、「憲法改正草案要綱」として発表した。その後、ひらがな口語体での条文化が進められ、4月17日、「憲法改正草案」として公表された。
憲法改正問題をめぐるマッカーサーと極東委員会の対立
3月6日の「憲法改正草案要綱」発表とこれに対するマッカーサーの支持声明は、米国政府にとって寝耳に水であった。同要綱は、「日本政府案」として発表されたものだが、GHQが深く関与したことが明白であったため、日本の憲法改正に関する権限を有する極東委員会を強く刺激することとなった。マッカーサーと極東委員会の板挟みとなった国務省は、憲法はその施行前に極東委員会に提出されると弁明せざるをえなかった。
極東委員会はマッカーサーに対し、「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどない」という理由で、4月10日に予定された総選挙の延期を求め、さらに憲法改正問題について協議するためGHQから係官を派遣するよう要請した。しかしマッカーサーはこれらの要求を拒否し、極東委員会の介入を極力排除しようとした。

以下は資料集からの引用です

1-19近衛をめぐるアチソン政治顧問の動き
米国務省派遣の最高司令官政治顧問であるジョージ・アチソンが、憲法改正にとりかかった近衛について国務省に報告した文書類。
・・・一方、マッカーサーは、本国政府に直結しているアチソンを憲法改正問題から除外し始めた。
11月7日付けの国務次官宛てアチソンの書簡は、マッカーサーが憲法改正問題から国務省を除外しようとしていることを報告している。アチソンはこの書簡を、GHQに読まれる可能性のある電報を避け、わざわざ航空郵便で送った。この時期からマッカーサーは、憲法問題をGHQ内で扱う方向へと向かった。

ただし、この資料だけではマッカーサーが本国政府と別行動をするようになっていたことは分かりますが、何故そうなったか・本国や極東委員会と意見相違があったからでしょうが、何故意見相違が起きたか、マッカーサーが権限逸脱の危険・解任リスクを冒してまで頑張ったかは不明です。
明日から極東委員会と米本国(国政政治力学の変化の萌芽?)とマッカーサーの関係を見ておきましょう。

皇室典範は憲法か?1(天皇観根本変化の有無1)

年末から関心の続き・今日から17年12月30日の続きに入っていきます。
我が国の実質的意味の憲法とは何でしょうか?
12月30日に紹介したhttps://ameblo.jp/tribunusplebis/entry-10977674757.htmlによると以下の通りです。

*日本国憲法は、それ自体形式的意味の憲法であるとともに、憲法附属法も含めて実質的意味の憲法をも成している。
*学者さんによっては、ここで実質的意味の憲法として説明したものを、固有の意味の憲法とよび、固有の意味の憲法と「憲法 第2回」で触れる立憲的意味の憲法とを合わせて、実質的意味の憲法とされます。

http://houritu-info.com/constitution/souron/bunrui.htmlによると実質的意味の憲法の例として明治憲法下の皇室典範が入っています。

実質的意味の憲法とは、憲法の存在形式は問わず、内容に着目した場合の概念です。
実質的意味の憲法には、さらに「固有の意味の憲法」と「立憲的意味の憲法」に分類されます。
明治憲法下の皇室典範は実質的意味の憲法には当たりますが、形式的には憲法ではないため、上記の形式的意味の憲法には当たりません。

上記意見では「明治憲法下」と限定していますが、では現憲法下での皇室典範の位置付けはどうなるでしょうか?
実質的意味の憲法にも「固有の意味の憲法」と、「立憲的意味の憲法」があるようです。
「立憲的意味の憲法」論では権力抑止機能重視ですから、明治憲法下でも実質的意味の憲法に入っていなかったことになるのでしょうか?
皇室典範は現憲法下では形式上法律の格付けに入っていますが、実質的憲法か否かを論じるには法形式は本来関係のないことです。
日本国憲法

第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

憲法自体に皇位の世襲制を書いてあって、憲法全体の平等主義に反する他「両性の平等原則」に反する男系承継の原則も皇室典範には明記されています。
国会の議決によるとしても皇室典範という特別名称を指定しているなど、憲法上別格扱いであることは明らかです。
もしも現憲法成立あるいはポツダム宣言受諾によって、実質的意味の憲法から除外されたか否かについては、天皇制のあり方が敗戦を期に国家・民族の基本骨格に関わらなくなったか否かでしょう。
ポツダム宣言受諾が長引いたのは、いわゆる国体の護持条件が受け入れられるか?であったのですが、結果的に「無条件降伏」になったと言われています。
ただし正確には国会図書館資料では以下の通りの経緯です。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/033shoshi.html

日本政府は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究極的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定されると回答した(「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」)。1945(昭和20)年8月14日の御前会議で、ポツダム宣言受諾が決定され、天皇は、終戦の詔書の中で、「国体ヲ護持シ得」たとした。
1946(昭和21)年1月、米国政府からマッカーサーに対して「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)」には、憲法改正問題に関する米国政府の方針が直接かつ具体的に示されていた。この文書は、天皇制の廃止またはその民主主義的な改革が奨励されなければならないとし、日本国民が天皇制の維持を決定する場合には、天皇が一切の重要事項につき内閣の助言に基づいて行動すること等の民主主義的な改革を保障する条項が必要であるとしていた。マッカーサーは、その頃までに、占領政策の円滑な実施を図るため、天皇制を存続させることをほぼ決めていた(「マッカーサー、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛書簡」)。

形式的な天皇大権と象徴の違い・・あるいは「天皇の地位は国民の総意に基づく」となったのをどう見るかです。
私は摂関政治以来天皇の地位は名誉職・今風に言えば、象徴天皇である実態は何も変わらなかった・明治憲法で統治権・大権があるとしていても実態は同じであったし、その地位は神代の昔から国民の総意による支持が裏付けであったと言う立ち場(私個人の素人意見)でこのシリーズを書いています。
「神の意思とは今の民意の表現である」とたまたま1月2日に書いてきたところです。
ただし、改正された現憲法体制では、「国体が変更された」と見るべきというのが宮澤俊義教授・多分憲法学会の通説的意見でした。
(私は宮沢憲法の中の人権分野しかを基本書にしていなかったので、統治機構分野での宮沢説を直接読んだことがなくわかっていません。)
上記同資料によると以下の通りです。

憲法改正問題を検討するため、1945(昭和20)年9月28日、外務省が招へいして意見を聴取した宮沢俊義東大教授による講演の大意。宮沢は、美濃部達吉門下のなかでも屈指の憲法学者であった。ここでは、明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうると論じ、明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だとの見解を示した。このときの宮沢の見解は、のちに自身が主要メンバーとなる憲法問題調査委員会の審議や「憲法改正案」(乙案)に反映されている。

上記意見が通らずに後記の通りGHQの強硬意見に押されて全面改正になったから、理屈でもなんでもない力によって変わった以上は「国体は変わった」と言う意見になったのでしょうか?
天皇制は神代からの神の意によるものではなく、「国民総意にもとずく」ようになった点を捉えたもののようですが、天下の碩学が塾慮の末の意見でしょう。
このシリーズでは、天皇の地位はもともと古来から、象徴権能を核とするものであり、国民総意の支持があってこそ信長も家康もマッカーサーも無視できなかったし神代の時代から天皇への尊崇が永続してきたのではないか?とすれば天皇観は全く変わっていないという私固有の視点で書いています。
宮澤教授に関する1月5日現在のウイキペデアイアによれば以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E4%BF%8A%E7%BE%A9

日本国憲法の制定時に学術面から寄与し、後の憲法学界に多大な影響を残した。司法試験などの受験界では「宮沢説」[1]は通説とされ、弟子の芦部信喜以下東大の教授陣に引き継がれている。
学説は時期とともに変節を繰り返した。

以下は上記変節の説明文を要約するために番号を付し→で示しました。

① 天皇機関説事件→「国体国憲に対する無学無信の反逆思想家が帝大憲法教授たることは学術的にも法律的にも断じて許さるべきではない」(1番弟子が恩師を批判・・稲垣)
② ファシズムの理論に基づいて結成された大政翼賛会の一党支配方式→大賛成
③ 終戦直後は、帝国憲法の立憲主義的要素を一転して擁護、「日本国憲法の制定は日本国民が自発的自主的に行ったものではない」「大日本帝国憲法の部分的改正で十分ポツダム宣言に対応可能」という今でいう押し付け憲法論の立場に立っていた[要出典]。外務省に対して、憲法草案については、当初は新憲法は必要なしとアドバイスした。
④ その後、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を法的に解釈した八月革命説を提唱する。八月革命説とは、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行を、1945年8月におけるポツダム宣言の受諾により、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動したとすることにより、説明する議論である。
⑤ 天皇の立場については、1947年の時点では「日本国憲法の下の天皇も『君主』だと説く事が、むしろ通常の言葉の使い方に適合するだろうとおもう」と述べた。しかし、1955年には「君主の地位をもっていない」と君主制を否定した。さらに1967年の『憲法講話』(岩波新書)では、天皇はただの「公務員」と述べ、死去する1976年の『全訂日本国憲法』(日本評論者)では、「なんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在」と解説し、その翌年死去した。

今では宮澤説を継承している芦部説が支配的らしいですから、上記思想が戦後学会〜現在に至る憲法学を支配していたことになります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E9%83%A8%E4%BF%A1%E5%96%9Cnによれば以下の通りです。

芦部 信喜(あしべ のぶよし、1923年9月17日 – 1999年6月12日)は、戦前通説的見解とされた師である宮沢の学説を承継した上で、アメリカ合衆国の憲法学説・判例を他に先駆けて導入し、戦後の憲法学会における議論をリードし、その発展に寄与した。
・・・日本国憲法の制定の過程には、歴史上様々政治的な要因が働いていることは否定できないが、結局のところ、国民自ら憲法制定権力を発動させて制定したものであるとみるほかないとして宮沢の八月革命説を支持し[3]、その結果、上掲の特質を全て備えた日本国憲法が制定されたとみる。

結縁〜御縁1

今日は朝から家族で上野までお出かけ、初詣ならぬ東博詣での予定でしたが、急遽明日以降に変更して自宅で箱根駅伝を見ることになりました。
昨年は母校が残念ながら出場できなかったのですが、今年は予選通過で出場できることになりました。
ようやくの出場ですから、上位の成績が期待できずシードを確保できるかどうかの心配ばかりが先に立ち、ストレスの多い駅伝観戦ですが、想定外の良い結果が出るのを祈るしかありません。
母校といっても50年以上も前に4年間在籍しただけですが、たまたま法曹の道に進んだので周囲に同窓生・勉強仲間が多い結果、知らぬ間に母校関係者の御縁を受けて今までつつがなく(失敗だらけの人生ですが、自己評価では大過ないつもりで)やって来られた面もあります。
来し方を振り返ると、自分ではおもいがけない御縁であちこちで世話になり今に至っていることに想いが行くようになりました。
「結縁」という言葉がありますが、私の方は難しい修行などできませんが、自分勝手な解釈では、菩薩さまが一方的に救いの手を差し伸べてくださるような自分勝手なイメージを抱いています。
あり難いことでしかも社会の隅にうずくまっていてもちゃんと見逃さず救ってくれるというならば、神社仏閣にお参りする必要もないのですが、それでも少しでも目に止まりお耳に入るようにお参りしては、合図の鈴を鳴らし、柏手(かしわ手)を打ち何かをお祈りしています。
神様の場合には特定の偉い菩薩や如来様に頼らずとも、自然界・空気の中に神が満ち満ちていて、気配だけで包み込んでくれるありがたい仕組みです。
いわば大気中に満ちている電気(いま風にいえば電磁波?)のようなものですから、感度のいい人・主に女性に簡単に憑依して神様のお告げを告(の)らせることになります。
神の意思とは、今風に言えば「大方の民意のありか」のことでしょうし、これを神の「意」として教えてくださるありがたい仕組みです。
中国では亀の甲羅で「卜」していましたが、これは大気中に電磁波の少ない乾燥地域方式・空気中に神威が満ち満ちていない空疎・・まばらな地域向きです。
「空気」など読めない空疎な自然界を前提にしています。
日本列島は雷が多いことからしても大気中に満ち満ちている電磁波?に頼る方式が合理的だったのでしょう。
民意を知る・たみの「声にならない空気」を知るには、大気中の神威を聞く方式が、現在型民主主義の精神にも適しているように思えますし、民意を知る方法としては投票箱方式よりも優れているように思えます。
今でもK(空気を読む能力)が重視される社会です。
会議を開いても大きな声に従うのではなく、その場の空気を読んで議長が「この方向でいいですね」と方向性を決めていく方式です。
わが国では古来から神弥(神わたる)荘厳な雰囲気・電磁波の通りやすい雑念のない中で「神意」(御稜威・みいつ・結局は民意)の発現によるのが原則です。
我が国は古代からボトムアップ型社会であった原型がここにもあります。
この辺は、「民意とは何か」どうやって民意を汲上げていくかのテーマ・・日本の国憲がどうやって形成されてきたかのテーマでこの後に書いていく予定です。
仏教は外来宗教ですので、超越的な如来様や菩薩さまという偉い人がいますので、「日本教」とは基本が違いますが、我が国向けに改変されて「慈悲」を基本とする大慈大悲の観世音菩薩が信仰の中心になっています。
十一面観音や千手観音あるいは不空羂索観世音のお姿はこれを具象化したものでしょう。
どちらかといえば、超越的能力・男性的な支配服従の関係ですが、私にとっての観音様といえば慈愛に満ちた母親のイメージでしたが、狩野芳崖の悲母観音を見るとごつい顔立ちに驚いたものでした。
それでも「結縁」するには、お取次の役目が必要ということらしく、お寺の場合には、鐘をつきお経を唱えるのは修行を積んだお坊さまだけで、衆生は線香をあげる程度で気持ちが伝わる仕組みらしいです。
時々のご開帳時にご本尊を拝すると、より大きな効果・ご利益があるように思えて信者を集めています。
国立博物館等で各地名刹のありがたいご本尊や侍仏の展覧会があると、押すな押すなの大盛況の背景・・内心・無意識下では、連綿と続いてきた「ありがたい」意識が背景にあるからでしょう。
主催者側では格好をつけるため?美術的・歴史的価値があるという学問的な解説が多いので、それはそれで理解しやすく助かりますが、それは時間潰しのようなもので拝観者の多くは、普段お参りしてもご本尊にはお目にかかれないので、この機会に直接目にかかれる喜びに浸っているのです。
今春東博では正月明けから仁和寺展がはじまりすが、我が家族は2〜30年ほど前仁和寺を参観したことがありますがご本尊を拝観したことがありません。
これが楽しみで仁和寺展には行く予定です。
美術的価値もさることながら「ありがたい」という周辺意識が、幾多の戦火を潜ってもご本尊が守り継がれてきた実力というべきです。
最近興福寺その他のご本尊が工事中の避難?名目で上野の国立博物館に次々と来るようになり、しかも大盛況の理由はこの辺にもあるでしょう。
神社系は目に見えるご本尊がない・周辺の清浄な空気が自慢ですので、博物館展示・出開帳時代のお披露目には不利になります。
この挽回を期したのが、昨年春先に東博で開催された春日大社展でしょうか?
目に見えるものとしては奉納された金色の太刀や宝物程度ですから、興福寺や運慶展のような目玉に欠ける点が見劣りします。
神社系は清浄な「空気」が売り物ですから、現地に誘う触媒的役割に徹するしかないのでしょう。
そうは言ってもあまり多くの人が訪れると、(30年ほど前に家族で行った頃は、まだ旅行時代ではなかったのでどこへ行っても我がな家族の他はちらほらでしたが、ここ数年の伊勢神宮や春日大社など有名どころは)都会の雑踏と区別がつかなくなって「清浄の気」が失われてしまっているのが難点です。
やはり、古代を感じる森の中で人間の方がまばらな雰囲気でこそ「神の存在」を体感できそうで・古き良き時代が懐かしくなると高齢者の仲間入りです。
神社仏閣の多くが、小さいながらも参道経由でお参りする形態になっているのはこのせいでしょう。
今年の元旦には自宅近くの神社にお参りしてきましたが、20年ほど前に午前零時直前にお参りしてほんの10分前後並んで午前零時の到来を待つ程度・ちらほらで、知り合いに出会う程度で牧歌的でしたが、この10数年来マンションブームで大混雑化して鳥居の外から並ぶようになってきました。
何年か前から午前0時を期しての参拝を(長時間並ぶと冷えるので)敬遠して昼間に切り替えたのですが、それでも昨日は30分あまりも並ぶ行列でした。
15年ほど前の初夏に女川港から船に乗って金華山を訪れたときには、参詣者は私たち夫婦2人だけ・・5月すえ〜6月初め頃だったので新緑の草むらには可愛い子鹿ばかり・親は遠くの草むらや林から見守っていました・・清浄そのものの空気を吸う時間も満喫できたありがたさを今もって、忘れられない経験です。
清浄な空気といえば、30年ほど前に家族5人で真夏に訪れた山口のザビエル教会も(私たち家族の他参拝者はいません)爽やかな雰囲気でした。
キリスト教も「神」として日本で根付くには、日本的清浄な空気に包まれることが必須になるのでしょうか?
残念ながらザビエル教会はその後火事で焼け落ちたと報道されていましたが・・・。
結縁から話題が逸れましたが、今年も多くの清らかなご縁に囲まれて1年を平和に過ごしたいと思っています。
「内平らかに外成る」という平成の御世も来年4月で終わりです。
平成天皇退位後の元号がどうなるか楽しみです。

憲法改正3(特別多数と国民投票が必要か?1)

明治憲法は在野の憲法制定運動が奏功したかのように、自由民権運動が大きく教育されてきましたが、政府が憲法の必要性に目覚めて率先して取り組むようになったので、それに触発されて便乗意見が起きた面も否定できないでしょう。
もともと自由民権運動は、征韓論に破れて下野した板垣らによって始まったものであって、西南戦争まで連続する不平氏族の反乱を煽っていた不平勢力に過ぎません。
西南戦争でケリがついて、不平を言っても仕方がない社会になって沈静化していたのですが、昨日書いた通りいろんな法制度ができてくると、法と法の関係や上位規範の必要が出てきたところで、政府がこれに取り組むようになって内部で色んな意見が出ると早速これに飛びついた印象を受けます。
(私個人の偏った印象ですが?)
政府が先に憲法秩序の必要性を検討していて、政府内の大隈重信は早期制定論でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95によると自由民権運動は以下の通りです。

1873年(明治6年)、板垣退助は征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂し、板垣は西郷隆盛・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らとともに下野した。(明治六年政変)
経緯 自由民権運動は三つの段階に分けることができる。第一段階は、1874年(明治7年)の民選議員の建白書提出から1877年(明治10年)の西南戦争ごろまで。第二段階は、西南戦争以後、1884・1885年(明治17・8年)ごろまでが、この運動の最盛期である。 第三段階は、条約改正問題を契機として、この条約改正に対する反対運動として、民党が起こしたいわゆる大同団結運動を中心と明治20年前後の運動である
[1私擬憲法
国会期成同盟では国約憲法論を掲げ、その前提として自ら憲法を作ろうと翌1881年(明治14年)までに私案を持ち寄ることを決議した。憲法を考えるグループも生まれ、1881年(明治14年)に交詢社は『私擬憲法案』を編纂・発行し、植木枝盛は私擬憲法『東洋大日本国国憲按』を起草した。1968年(昭和43年)に東京五日市町(現・あきる野市)の農家の土蔵から発見されて有名になった『五日市憲法』は地方における民権運動の高まりと思想的な深化を示している。
「参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、1881年(明治14年)に起こった明治十四年の政変で、参議・伊藤博文らによって罷免された。一方、政府は国会開設の必要性を認めるとともに当面の政府批判をかわすため、10年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を出した。
注2 ただし板垣らの民撰議院設立建白書は当時それほどの先進性はなく、自らを追放に追い込んだ大久保利通ら非征韓派への批判が主体であり、政府における立法機関としての位置づけも不明確であった。むしろ板垣や江藤・後藤らが政権の中枢にあった時期に彼らが却下した宮島誠一郎の『立国憲義』などの方が先進性や体系性において優れており、現在では民撰議院設立建白書の意義をそれほど高く認めない説が有力である。稲田 2009などを参照。

上記の通り不平士族を支持基盤にしている結果でしょうが、国民悲願の不平等条約改正に対する反対運動が活動の中心であったなど、変化に対して何でも反対・国益などどうでもいいような動き・・今の革新系文化人思想家の先祖のようです。
秩父困民党事件(1884年明治17年)10月31日から11月9日)は不正士族・自由民権団が加担したので、過激になったと言われています。
(条約改正反対とは不思議ですが、これを実現するためには外圧・欧米の要求する近代化・法制度の導入→時代不適合の旧士族が困るので反対したのでしょうか?)
この3〜4年革新系がしきりに強調する近代法の法理とか、近代立憲主義とは、絶対君主制打倒によって生まれたばかりの革命政権では、いつまたちょっとした力関係の変化で「王政復古」するかも知れない過渡期にあって革命家がハリネズミのように緊張していた時代の思想です。
革命直後の「近代憲法」と違い、明治憲法の時でさえ、対外関係上君主が自発的に憲法を制定するしかない国際状況下にあって、もはや絶対王政が復活する余地がなかったし、憲法ができる前から天皇親政などできる能力がなかったので、親政の復活など誰も心配しなかったでしょう。
まして日本国憲法では、「現代民主主義国家」になって憲法の改正発議権が政府から国民の意見を代表する議会に移っているのに、国民が自分で選んだ議会の発議→決議に国民が抵抗するために国民の同意を要件にする必要があるという考え方自体非論理的です。
民主主義国家においては、国民代表の議会が憲法も決めるのが普通で、EU加入・離脱や国自体の合併のような最重要事項について議会の都合で自信がないときに国民投票をするのが合理的です。
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/issue/0584.pdf

諸外国における国民投票制度の概要 国立国会図書館 ISSUE BRIEF N
UMBER 584(2007. 4.26.)
スペインでは、憲法の全面改正ないし特定の条項の改正の場合にのみ国民投票が義務的要件とされ、そうでないときは一院の10分の1の議員の要求により国民投票が行われる(憲法第167、168条)。
スウェーデンでは、基本法2の改正には、国会(一院制)における、総選挙を挟む2回の議決を要するが、第1回の議決の後に3分の1の議員の要求があれば、その総選挙と同時に国民投票が行われる(統治法典第8章第15条)
フランスはこれらとは異なり、国会議員が提出した憲法改正案は国民投票を要するが、政府が提出した場合は、大統領がこれを両院合同会議に付託すれば、国民投票は行われない(憲法第89条)。これまでの事例では、国民投票より両院合同会議による憲法改正の方が多い。
主要国のうち、アメリカ、オランダ、カナダ、ドイツ、ベルギーでは、住民投票は別として、憲法改正の場合も含め国レベルでの国民投票の制度は、憲法上は規定されていない。
フィンランドでは、国民投票についての規定はあるが(憲法第53条)、憲法改正は国会選挙を挟む2回の国会(一院制)の議決で成立しうる(同第73条)。

上記の通り、日本国憲法を事実上主導した米国自体が、憲法改正は国民代表の議会で行なっている(周知の通り修正◯条という付加方式です)ので日本国憲法に限って事実上不可能なほど厳しい要件にしたのは、まさに憲法前文の「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」半永久的従属支配下におく思想の法的表現です。
国民投票をするならば、そもそも、3分の2の国会議決の必要がないでしょう。
国民投票をするのは、重要事項なので議会だけで決めてしまうのに自信がない時・たとえば49対51の僅差の時に「国民の声を聞いてみよう」という時に限るべきではないでしょうか?
そうとすれば、圧倒的多数の場合には不要な気がします。
国会議決を厳重にして即憲法改正にするか、スペインのように10分の1の提案で足りる代わりに国民投票するかどちらかにすべきでしょう。

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