憲法と国家(外国に支配されるための憲法?)1

民族主義者であろうとなかろうと、憲法や刑法その他の法制度は(憲法などよりずっと下位の身近な道路交通法や自治体の条例でも)その法や条例の効力が及ぶ地域内のために良かれと思って制定するものでしょう。
よその国や他民族のために制定するものではありません。
千葉市の条例や職員向け内規は千葉市民のために制定するものであって、隣接市町村のためにあるのではありません。
商家や大名家の家憲家訓も同じで、自分が創業した商売や政権を滅ぼすために家訓や家憲を制定する人はいません。
社内ルールも自社のために取締役会規則や就業規則あるいは操業マニュアルを作るものであって、他社のために作る会社はありません。
スポーツその他各種クラブにはルールがありますが、その組織やスポーツを維持発展させるためにルールを作るのです。
自社従業員のためにもいろんなルールがありますが、会社を潰してでも守るべきルールがあるとしたら背理です。
国家の場合も憲法で定める「思想信条の自由」は国家のより良き発展を目指すためのものであって、国家を潰す目的の自由があるとは思えません。
内乱の予備陰謀だけで処罰されるのはこの端的な例です。
組織内秩序維持に反した場合、その認定手続に従い拘禁され、有罪認定によって懲役刑にとどまらず生命(死刑)まで奪えるようになっていることがその思想の現れです。
思想信条の重要性といっても生命よりも重要なものがないはずですから、思想信条だけ国家運営から超越できると言う主張は無理があるでしょう。
この論を合理化するには先ず外堀を埋める必要があって、グローバリスとは死刑廃止論にこだわる政治的意味があるのかもしれません。
国家を潰し民族を他民族の支配下に置く「目的」までなくともそういう結果をもたらす思想宣伝の自由があるとは思えません。
日本の憲法学者や思想家の意見を見ると国家存続よりも基本的人権や平和主義の方が優先するかのようなイメージ主張が流布しているような印象です。
印象という意味はずばりの主張をみたことがないからです。
例えば非武装平和論に関する討論番組を見ていると
「中国が日本侵略を開始したらどうするのか?」という趣旨の質問に「そうならないように努力するのが政治の役割だ」と答え、「そういう努力をしても問答無用で領土割譲を要求して実力行使してきたらどうするのか?の質問には「そうならないように努力する」という繰り返しで討論が終わるのが普通です。
強盗や窃盗恐喝殺人等にどう対処するか警察力の強化の議論では、それなりの対処してもその地域での犯罪が増えてきた場合の議論であって、どのような教育をしても善政を敷いても犯罪ゼロにできない現実を前提にした議論です。
同様に戦争の起きない世界が理想としても、実際に強引な要求を通すために武力による威嚇や実力行使が行われる時にどうするかの議論をしているのに「そうならないように努力する」というのではまともな議論をする態度とは思えません。
こういう議論の繰り返しを見ていると次元の違う無責任回答・・「日本民族がどうなっても気にしない」基本姿勢を前提にする印象を受けますが、この理解は私の一方的誤解かもしれませんので「印象」とかいています。
「北朝鮮のように日本に自由に侵入して好き勝手に選んだ日本人を拉致していっても指をくわえて見ているのか?」という質問にも「そうならないように」というだけでは、北朝鮮を大事にすれば良いという程度の意見かな?という推測しかできません。
結局彼らのいう非武装平和論は、「旧中ソ圏に対する友好国になれば良い・・・そうでない限り日本が滅びるかどうかは知ったことではない」という(中ソの)主張を根底にしていることになるのでしょうか?
上記の通り「日本がどうなってもいい」とズバリの意見はないでしょうから、証拠を出せと言われれば出せませんので印象というしかないことになります。
一方でアメリカを中心とする自由主義国家寄りの意見では、思想表現の自由論を筆頭にいわゆる「天賦不可譲の人権」論で国家以前の権利であるかのような(これもそのように誘導しているだけで、はっきりそう言っていないように見えます)主張を展開しています。
日本の戦後思想界はアメリカ系と中ソ系に分かれて争って来たもので、日本の国益を求める意見が脇に追いやられているというよりも、もともと敗戦後そんなことを言える立場でなかったのが今に続いているように見えます。
アメリカ系の金科玉条は基本的人権の尊重・・分けても重視してきたのは思想の自由市場論でした。
これによると「言論の自由は国家発展に寄与する」とも言いますが・・。
以上の経過を受けて、我が国憲法学者・ジャーナリズムは、日本国家存立のためになるかの視点よりは、戦後米ソの意向をの代弁・紹介していれば、一流学者・その道の権威になれる社会だったように見えます。
2018年1月6日に「皇室典範は憲法か?1(天皇観根本変化の有無1)」芦部信喜その他戦後憲法学者を紹介したことがありますが、憲法学界ではアメリカ憲法学・判例紹介をしてきた人たちがわが国憲法学の主流どころかほぼ100%に近いでしょう。
憲法学者による基本的人権論は、メデイア界を実質支配してきたアメリカの論理に従っていました。
すなわち「基本的人権の中でも(政治動向に直結する)表現の自由は、特別・別格であって、「公共の福祉」で安易に規制すべきはなく(といっているかどうか知りませんがそのようなイメージ流布で)アメリカが実質支配する「思想の自由市場」アメリカが許容する範囲内競争の結果事後的に市場で選別されるべきと言う特殊な地位を与えられています。
憲法学者の言う表現の自由とは、アメリカの世界支配思想の範囲内での自由だったように思われます。
日本国憲法と明治憲法の違いは、明治憲法では臣民の義務、法に反しない限度の人権保障であったが、戦後憲法では、憲法の保障に格上げされた点が根本的相違であると習ってきました。
しかし本国米国では、ルーズベルトの容共政権に対する反動で反共・マッカーシズムが吹き荒れると日本でもレッドパージが行われたなどの実例を見ると、米国(という外国の都合)支配に反しない限度の人権保障に変わっただけだったことが証明されています。
どっちみち何かの限界内で人権が認められ制限されるならば、外国の都合の範囲内での人権よりは、自分の属する共同体を守るための範囲内で認められる人権保障の方が合目的ではないでしょか?
日本の各種(憲法に限らず経済学その他多種多様な)学会や報道界では、資本主義だけではなくマルクス経済学や左翼系ジャーナリストが並立していたので、一見学問の自由があるようでしたが、いずれも日本民族のための研究発表の自由ではなく、敗戦直後の政治情勢では、むしろ「日本民族再興を許さない」方向で米ソ両国が一致していたので連合軍は、当初ソ連を含めた共同占領統治体制が表向きの体制でした。
GHQを傘下におく極東委員会設置が1945(昭和20)年12月のモスクワ外相会談で決まったことを、「GHQ(内部対立)+本国政府+極東委員会1→天皇制存続?」January 13, 2018で紹介したことがあります。
この結果、資本主義、共産主義双方の学問が保護されたのは、一時的偶然にすぎません。
再軍備を許さない方針は容共のルーズベルト〜トルーマン政権下では方向性が一致していましたが、朝鮮戦争を契機に後方陣地として日本に協力させるために一定の再軍備が要になったので、完全な丸腰・・非武装平和論の支持勢力が中ソ系人脈に限定されるようになっただけのことです。

フェイクニュース8と思想の自由市場論1

米大統領選挙によって表舞台に飛び出したフェイク論議はアメリカによる報道支配・・アメリカ憲法学者の言うアメリカ支配に都合の良い「思想の自由市場」の崩壊・陰りが原因です。
憲法学者のいう思想の自由市場論は、マスメデイアを支配する勢力に迎合する意見発表の自由論です。
メデイア支配者の意に沿わない発言があると・メデイア界で袋叩きにして有力政治家でもすぐ失脚させてしまう実力を持つ社会・言葉尻を捉えて見せしめ的に発掘しては吊るし上げて「失言」ですら如何に怖い目に遭うかを見せつけて自由な発言を萎縮させる社会でした。
日本では安倍政権が誕生するまでは、政治家を続けるには(アメリカ支配・その手先としてメデイア界勢力を張ってしまった中韓勢力の)「メデイアを敵に回したらおしまい」というのが不文律になっていました。
安倍政権はこの不文律に挑戦したので、当初歴史修正主義者・アメリカによる戦後秩序否定論者のレッテル張りされていました。
メデイア界総力あげて彼の追い落としを画策していて、第一次安倍政権では、(根拠なく)如何にも頼りなさげな表情ばかり選んで報道する印象づけ報道で、あえなく退陣に追い込まれましたが、第二次政権では上記に懲りた安倍総理の正面突破作戦でメデイア界の雄であった朝日新聞とフジテレビが逆に追い込まれました。
中国による尖閣諸島海域侵犯行為と反日暴動プラス韓国による慰安婦攻勢激化に対してメデイアが米国による戦後秩序維持・非武装平和論・周辺国に何をされてもじっと黙っている図式を宣伝しても国民が納得しなくなったからです。
昨年夏の小池劇場では、「メデイア(護憲派が選挙のためにだけ改憲派小池氏に近づき選挙が終わったら民進党系多数を頼んで党方針を護憲政党に引き戻す戦略)に逆らったから負けた」とメデイアが宣伝していましたが、私は国民が左翼寄りメデイアの上記策略を拒否したからであることを昨年夏頃に連載しました。
日本では、政治家や公務員等がメデイアの意(結局は米中韓の利益)に反することを言うと「〇〇がそんなことを言って良いのか」という非難の嵐で謝罪に追い込み議員辞職に追い込むのが普通でした。
自由な思想市場など全くない状態です。
大手新聞は朝日、毎日、読売、日経4社の次に中堅の産経が続く程度の寡占市場ですし、テレビ界もほぼ同様です。
この独占的言論市場を占領軍が抑えた上で、その支配を続けるために見張り役を残す英米流の継続支配が続きました。
こういう「自由な思想市場」に任せるとどうなるか?
これが戦後70年も続いた結果、自国のためになることをうっかり言えない・正論は仲間内で「もぞもぞ」としか言えない社会になっていました。
米国→占領終了後は、日本監視役/手先として韓国系を使うようになった結果、今では中韓系多数が入り込むメデイア界では、(将軍家側用人が権力を握るように)アメリカの意向で動くよりも本国中韓の意向反映の方が色濃くなってきました。
靖国参拝問題の政治問題化以降アメリカの手先としての行動よりは、中韓の反日運動目的の軸足を置くようになって来たのですが、それを効果あらしめるために「錦の御旗として」「アメリカの作った戦後秩序・東京裁判を否定するのか!」というテーマにすり替えて来たことになります。
ブッシュ元大統領が日本訪問時に自ら靖国神社参拝を求めたのは、むしろこんな非生産的紛争にアメリカが利用されるのを嫌がっていることを(リップサービスか否かの解釈は別として)意思表示した事になります。
http://www.news-postseven.com/archives/20140510_255131.html

ブッシュ元大統領 靖国参拝申し出たが日本側が明治神宮変更

以後、尖閣諸島や慰安婦騒動等になってくると米国利益のための手先としての行為より中韓の利益が正面に出てくるようになってきました。
アメリカの意向と関係がないからこそ、日本も果敢に反撃できるようになった面がありますし、逆から見れば、「迷惑だから早く収束してほしい」というアメリカの圧力にもなっています。
ただ中韓系人材がアメリカのために日本の内情報告したり日常的細かなアメリカの対日世論誘導工作協力はそのままですから、アメリカは中韓系人材を切ることも出来ず、板挟みになっているのではないでしょうか。
世界政治での日本の存在が大きくなってくると、ついにアメリカも態度をはっきりさせるしかなくなり慰安婦騒動では日本有利な調査結果を出したので、朴槿恵が窮地に追い込まれることになりました。
アメリカは日中韓3国中で日本をとる意思表示を示したのですが、もともと安倍総理敵視から始まったことを想起すれば、ここまで逆転したのは安倍外交の勝利・大成功でしょう。
メデイアと民意の乖離に戻します。
民意=普通は国益を実現するものですが、これとメデイアの誘導したい方向との乖離が起きる原因は、日本の場合、占領されていた後遺症から基本的に国外勢力がメデイア内部を牛耳る体制が確固として構築されていることによると思われます。
アメリカの息のかかったメデイア界を作っておいて「思想の自由市場」で学問の方向を決めて行くといっても、アメリカの意に反する多数意見が成立する余地がないし、この20年ばかりではその手先になっている中韓の意向に反することをちょっと言おうものならばメデイア界で袋叩きになる仕組みでした。
アメリカ支配の時にはまだ婉曲的でしたが、その手先に使っていた中韓が影響力を持ってくると(ソフト能力が低いので)やり方が露骨になったこともあって、彼らの影響力行使が国民にはっきりしてきました。
多数意見・メデイアのでっち上げ(中韓利益擁護)「思想の自由市場」?に頼る社民や民進党が無記名選挙で苦戦するのはこのせいです。
最近英語でもPC(ポリティカルコレクトネス)の弊害が言われるようになってきましたが、英語圏でさえ大手メデイア・主としてリベラリスト・グローバリスト?のでっちあげる「正義」に耐えられない人が増えてきたのでしょう。
国民の健全な意識に反するメデイアに対する不満の爆発現象をフェイク批判のキャッチフレーズで表現しているのがトランプによるフェイク批判ですし、トランプ旋風のエネルギーであったように思われます。
トランプ氏の政策の基本が反グローバル化(国際多角的合意の破棄)であることから見れば、彼の標的がフェイクかどうかではなかった・メデイア界の手放しの(合理的規制不要の)グローバル化賞賛思想支配に対する挑戦であったことが明らかです。
トランプ氏当選以来問題化しているフェイク論争は、実はフェイクかどうかの事実認定の問題ではなく、メデイアによる一定方向への脚色誘導報道に対する反感の問題ですから、フェイクそのものに矮小化してその区別を議論していても解決にはなりません。
メデイア界は、自分らの痛い点に焦点が行かないように意図的に的外れ議論をしているように見えます。
2月4日の「フェイクニュースとは?1」で紹介したように、フェイク対策のために「ファクトチェック体制構築する、あるいはした」と言っていたフェイスブックが、昨年末にこれをやめて参加者の共感度で決めていくと発表したのは、「メデイア界はこの論争をうやむやに終わらせたい」からと深読みすることも可能です。
「ファクトチェックをやめることにした・共感度次第」ということは、事実上放任ですからこれでフェイク論争を自然消滅させようとしていたように見えます。

フェイクニュース7(フェイク拡散防止策1)

産地偽装表示や無農薬表示あるいは薬や化粧品の効能書きがその表現から消費者が受け取るイメージと違っている場合に、不当表示や薬事法違反などとする規制が発達していますが、これに対して「表現の自由」憲法違反として頑張っているのを聞いたことがありません。
輸入産品についても製品化のどの段階までを原産地表示すべきかのきめ細かい規則が発達していますが、それが表現の自由・憲法違反という主張や争いもありません。
食品内容の比率次第で(例えばそば粉何%以上含有で「そば」と表示できるか?の規制があるとした場合など)特定商品名を表示できるかの問題も同じでしょう。
これら規制を見ると商品として流通させる以上は、消費者保護のために一定の商品表示には一定の規格範囲の性能品質がなければならないという社会の要請があります。
自分の好みで自己使用や親しい人に無償で配るのに一定率以下のそば粉しか入れないで、これを自己流の「そば」と言っているのは個人の勝手・表現の自由でしょう。
私は、子供らが小さい頃に自宅の庭で真っ白と焦げ茶色のガチョウ2羽を飼っていたことがありますが、名前をシロとクロと付けて呼んでいました。
これを仮に商品として売る場合には、クロと言うのは家庭内の名前であって、黒い色ではないと説明しないで「シロとクロ各1羽」として売れば表示・契約違反となるでしょう。
以上のように、商品名表示や事実表示の定義については、「業として流通させる場合」には、規制当局がココまでの内容があれば、この表示ができると規格規制していても、それは表現の自由の問題ではないという国民合意が出来上がっていることがわかります。
自分が一般と違った意味で使いたければ、「業」的に流通させないで個人的に利用する範囲で変わった表示をするのは勝手ということでしょう。
ネット発信は個人会話と違うのですが「業」商品として流通目的で発信しているとも言い切れないのでややこしいのですが、個人的に言いたいことを(私のように自己満足で?)書いている人と拡散目的で書いている人とでは規制基準が違うべきでしょう。
目的など内心の意思は判定不能ですが、外形からざっくり言えばSNSへの投稿は「ソーシャル」というとおり拡散率が高いのが特徴ですから、内心目的如何に関わらず実際に流通が予定されている以上事実を適時した発信には合理的根拠を必要とすべきでしょうし、金儲け目的が表示されているアフィリエイト系?などはより厳重基準を適用すべきでしょう。
業として表現する場合には、消費者・視聴者等を誤解させないためにも、表現行為のウチで、物品名だけではなく、事実表示と、他人の意見表明部分の紹介記事、さらには発信者の意見(意見の中での論建て前提事実の場合それも区分けする)とを明確に区分けをして発信するルールを大手メデイアの方から率先して行って手本を示してから、その応用ルールを個人の行うネット発信者にも課していくのが現実的でしょう。
人材の揃った大手メデイアがこれらの区分表示を怠ったまま曖昧に自社意見を事実に混入して垂れ流したまま、ネットのフェイク性だけを強調しても迫力がありません。
特に意見の紹介になるとA意見発表があったことが事実としても、ABC意見のうち自社の気に入ったA意見ばかり優先的・好意的に紹介するのでは、不公正になります。
これが放送の中立性に反した偏向報道の問題です。
大手支配の裏の勢力(日本では敗戦→占領支配・・国外勢力が・米ソ中韓と軸足を移しながら事実上牛耳ってきた疑いが言われています・憶測です)が「表現の自由論」で安住しながら「ネット発信が広がるとこれを目の敵にして?「規制すべし」というのは矛盾ですから・・。
日本では敗戦による米軍占領以来外国勢力によって報道機関を支配されてきた歴史もあって、トランプ氏が選挙戦で偏向報道を指摘する前から、慰安婦報道以来これが大問題になっています。http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/755c0843633b7d1a9d901171fee94662

高市早苗総務大臣は、2016年2月8日の衆院予算委員会で、放送局が「政治的に公平であること」と定めた放送法4条の違反を繰り返した場合、電波法に基づき電波停止を命じる可能性に言及しました。
高市大臣は
「行政が何度要請しても、全く改善しない放送局に何の対応もしないとは約束できない。将来にわたり可能性が全くないとは言えない」

この発言が表現の自由を侵害するかのような危険視する批判がメデア界では大方ですが、元々報道の中立性を求める放送法自体を憲法違反というならば別ですが、中立を求める法がある以上は事案によっては「法の適用がありうる」という答弁は当たり前ですから、この批判論はあたかも大手メデイアには一方的な報道権があるかのような開き直りにしか理解できない「思い上がり」でしょう。
電波の希少性によって事実上独占業界になっている「放送利権」については2月10日現在のウイキペデイアによると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/放送利権

今日、所轄官庁である総務省から新規に地上波放送局の免許を得ることは至難、よって新規事業者の参入がおよそできない状態にあり、日本の放送局は既得権益化しやすい[。
日本放送協会(NHK)を含め、地上波放送は基本的に都道府県ごと(県域放送)であり、民間放送局(民放)であれば、これより派生して、東京にある放送局が事実上地方局を支配しているキー局制度、新聞社が放送局の株式を保有するクロスオーナーシップ[1]、放送局が番組の著作権をもち、制作会社や制作者には著作権があたえられにくい映画の著作権なども放送利権としてあげられている。また日本の放送局は、いわゆる「電波オークション」によるものではないことや、諸外国に比べ格段に安い電波利用料なども議論の対象となっている。
免許事業であり、法によりある種の保護下に置かれていること、加えて新規事業者の参入の心配がおよそないことから、既存局あるいは既存系列同士での、複雑な競争と共栄関係が「両立」している。結果、以下のような実態がある。
・・・・。

有限の電波割り当てを受ける特権的立場・「思想の自由な市場競争」の成り立たない放送事業でさえ、「中立違反を放置しろ」と言わんかの如き放送業界と違い、何らの特権も享受していない「ネット発信者だけフェイク規制しろ」というのは無理・・これがアメリカでフェイスブックの自主規制が腰砕けになった原因でしょうか?
上記の通りいろんな商品表示に関する規制も表現の自由に関係するとしても直ちに「憲法違反」という観念的議論ではなく、実態に即して見て行くことが一般的ですが、思想表現も、商品の1種として市場提供されるようになると、ネット配信の場合、民泊の紹介事業者やスーパーに当たるのがフェイスブックなので、事前規制が可能か?で議論になっていることになります。
大手メデイアは「表現の自由」「思想市場論」と言っても限られた電波の割り当てを受けている寡占市場を無視して市場競争論をふりかざせば視聴者の偏向批判を封じ込められたので一方的報道・・「何でもあり」の時代が続きましたが、その終わりが近づいた「危機感」が今回のフェイク騒動の底流的原因でしょう。

フェイクニュース3(拡散の原動力1)

善意で見れば、大手企業のように何段階もの社内第三者チェックを受けない分、発信チェックが甘くなります。
私のように仕事の合間に思いつきを書いている素人からすれば、どこかのネット記事に出ているとそれが事実かどうか確認する方法(時間・取材陣を雇うコスト?)もないのでそのまま引用しがちです。
私自身(嘘かほんとか不明であるが)「こういう記事が出ています」という書き方を普通にしています。
引用のたびに上記括弧書きをつけるのも煩雑だし、信用性の判断は引用先を書いているので、その引用先を信用するかどうかの判断を読者がして下さいという書き方になっています。
読者の方で、引用先が大手メデイアか個人か匿名記事かなどで過去の実績で自己判断するしかないのではないでしょうか?
大手でもA社ならこの分野の記事の信用性が高いがB社ならこの部分の信用性が低いとか、それぞれの政治的立場によって、割引方が違うでしょう。
大方の人は、自分の気に入った情報を信じやすい(ファクトチェックが甘くなる)と言われますが、この応用例・・トランプ支持者が反クリントンのデマ情報に一も二もなく飛びついたと言われる現象に現れています。
逆からいえば、信じたい人しか信じないとすれば、(元々の支持者が舞い上がっているだけで)フェイクニュースの影響力はそれほど強くないのかも知れません。
沖縄の報道でも、モリカケでも、先に自分の立場があってこれに反対の報道があっても「また大げさに言ってる」という反感を持つだけです。
私のように突然気が変わり別の意見を書く・・一貫性を気にしないこのコラムでも、「この人はこういう傾向の意見だから・」という先入観で読んでいる人が多いでしょう。
こうしてみると元々ほとんど関心のなかった浮動層に対する影響力の問題です。
浮動層に対する影響力は従来通り、メデイアの一方的報道の影響力が甚大です。
トランプ政権有利のフェイクニュースの影響力に関する調査では、圧倒的多数が大手メデイアの報道で知ったというものだったらしいです。
(私自身その調査が本当にあったのか、どういう調査方法だったのか正確なのかについてファクトを知る手立てがありませんので、もしかしたらフェイクニュースに加担していることにもなり兼ねません)
トランプ氏の選挙費用はこのおかげで少なく済んだと豪語していると言われることとも符合しています。
冒頭に書いたように「真偽不明」ですが・」という「断り書き」があるかないかではなく視聴者は、(多くの人は仕事の合間にチラッとしか見ないこともあって)ニュース内容だけを直感的にインプットされてしまう傾向があるからです。
今後安易な拡散防止のためには、我々素人も引用するときにどうやるべきかの工夫が進むのでしょうか?
他方で、チェック能力の甘さが原因というよりは、あんちょこに発信できることから、「いいね」をふやすことに満足するだけのための意図的フェイクニュースがいっぱい出てきたようです。
政治的には右でも左でも反ユダヤでも民族派でも何でもいいが、とも角「いいね」視聴者を増やして稼ぎたい一心で過激さを競うような見出しで商売にする人も出現します。
http://www.huffingtonpost.jp/kazuhiro-taira/fakenews-maker-was-dead_a_23229251

平 和博 朝日新聞記者(デジタルウオッチャー)
2017年10月04日 11時29分 JST | 更新 2017年10月04日 11時29分 JST
フェイクニュースで”トランプ氏を大統領にした男”として知られ、米大統領選をめぐるフェイクニュース騒動を象徴する人物、ポール・ホーナー氏が死亡した、と欧米のメディアなどがこぞって伝えている。
・・・・・
「トランプ氏のフォロワーは何であれ、ファクトチェックというものをしない。何でも投稿し、すべてを信じる。トランプ選対の本部長は、反トランプのデモ参加者が(手間賃として)3500ドルを受け取っていた、という私の記事を、事実のように投稿していた。結構、あれは私のでっち上げだ。」
ホーナー氏のフェイクニュースは、なぜ拡散するのか――ワシントン・ポストのインタビュー記事で、こう答えている。
「正直に言うと、みんな本当に、思った以上にバカだ。ただ次から次へと転送するだけ。もう、誰も何のファクトチェックもしない――つまり、こんな風にトランプ氏は当選したんだ。彼は何でも言いたいことを言う。みんなそれを全部信じる。彼が言ったことが事実でないとわかっても、誰も気にしない。みんなそれを受け入れてしまっているんだから。これは本当に恐ろしい。こんなの見たことがない。」
フェイクニュースを拡散させる動機を聞かれると、ホーナー氏はこう答えている。
「バカげたことを信じる奴らを、笑いものにしてやろうと思っていたんだ。ところがそれが拡散してしまった。彼らはそれを、本当に信じてしまったんだ。」
トランプ氏の当選はあり得ないと思っていたし、トランプ氏のことは嫌いだ、とホーナー氏は言う。
・・ただ、自身のサイトはあくまで風刺とパロディーのサイトであって、他のフェイクニュースサイトと一緒にされたくはない、とホーナー氏は述べていた。

アメリカのプロ的フェイクニュース発信者の上記意見の通り、自分の信じたいものに飛びつく傾向が強いのです。
そして熱烈共感者が拡散するとそれを別の共感者がさらに拡散することの繰り返しで、あたかも多数が支持しているかのような現象を生じさせてしまう・・・これを大手メデイアがニュースで大々的に取り上げる結果、ネットを見ない一般人もそれを信じてしまう傾向が論じられています。
猫の動画などのお遊びや家庭内の揉め事なども実話ではなくフォロワー獲得のために誇張されていても社会問題になりませんが、これが政治分野に利用され、それが本当らしく政治に利用され一昔前の「怪文書」化されるようになった・・・大手メデイアの支持しない対極にあるトランプ陣営がこれを最大活用したので、大騒ぎになって来たと思われます。
クリントン支持層は日頃から大手メデイアの報道に不満を抱いていない・・不満度が低いのでフェイクにそれほど飛びつなかった原因のように見えます。
従来文化人や憲法学者はメデイア界がグローバリストやリベラリストに牛耳られている現実(勿論この論証はないでしょうからこの主張自体フェイクかな?・・)を無視して「思想の自由市場論」を展開してきました。
市場が一定傾向の思想グループが支配されている結果、そのグループに反する思想は市場から締め出され「自由な市場競争」が本当は成立していなかった疑いを持たれるようになってきました。
(占領支配下で肝腎の日本国国益擁護勢力皆無・一掃され?その空洞下で米ソ思想支配の草刈り場となり、その後中韓による日本メデイア界への侵蝕競争が行われ、肝腎の地元日本人がその(植民地被支配民族のように)下風に立たされていると思い込んでいる人が増えてきました。)
この結果、日本ではリベラル系(最近では中韓二大勢力)に有利な際どい「編集」記事が多すぎるという不満が表面化してきて、2月5日紹介した台湾原住民報道に対する大規模訴訟になったのでしょう。

フェイクニュースとは?1

見出しでセンセーショナルに書いていても内容を読めば、公正中立的に書いているような場合には総合的に名誉毀損に当たらないような判例が多いことから見ると、内容を見れば「領海付近しか行かない」と書いていた場合には訴訟的事実認定ではメデイアは虚偽を書いていないことになるのでしょう。
ニュース見出しを流して見るレベルの人が、「中国主張の領海内を航行するのかな?」と誤解する人まで相手にしないということでしょうが、国民の多くが誤解するような書き方の影響力の大きさでは「虚偽」ではないまでも誤解を招きやすいフェイクニュースの一種というべきでしょう。
トランプ氏の言うフェイクニュースとは何かを決める必要・・一般庶民を誤解させるようなイメージニュースの垂れ流しをフェイクニュースと言うべきかの問題です。
名誉毀損事件の判例では見出しでは例えば「A代議士婦女暴行で逮捕か?」となっていても文章全部を読めば容疑がはっきりしないことが分かるような場合には、疑いがあると言う事実に間違いない・双方の言い分を紹介していると名誉毀損にならないとなりそうですが、「火の気のないところに煙は立たない」と言うイメージで受信し、あとは自分の想像力を膨らませるのが普通です。
だからこそ、大金をかけたイメージ広告が多用されているし、消費者保護のために誤解を招くような広告が規制対象になっている現実があるし、注意事項を隅っこに小さく書いているのではダメで消費者にわかりやすく書かないと企業が負けるリスクがある運用になっているのは消費者保護のためにあるのです。
消費者保護の基準と政治ニュースでは受け手のレベルが違うのでしょうか?
ネットや週刊誌情報が政治に与える影響度が上がってくると政治ニュースも受け手はまさに情報の「消費者」ですから、裁判所も教養(ヒマ)があって冷静に読み切る階層を前提にした判断基準を変えて行くべきではないでしょうか?
フェイクニュース弊害の根源は、記事を端折らずにしっかり読めば誤解がないとして問題にしなくて良いのか?
吊り広告やコマーシャルのイメージ誘導の影響力の大きさ、あるいは新聞でさえもゴシップ的記事は言うに及ばず、多くの記事について見出し程度しか見る時間のない人が多い現実を利用した慰安婦報道の検証で指摘された朝日の「角度付け報道」の多さ・見出し作成の問題点に対する司法の基準がずれているように思われます。
しかもネットの発達によるあんちょこな拡散が可能になったことによって、大量に出回っていることによる既成「事実」化が進むのが問題です。
「航行の自由作戦」の表現はアメリカが発表した文言を日本メデイアがその通り報道しているだけとした場合メデイアによる虚偽報道ではないにしても、この用語命名が世界中に拡散することによって、その表現がいかにも正しいかのように受け止められて行く危険です。
朝日の慰安婦報道の検証意見書を見たときの記憶(なので正確ではありません)では、朝日新聞の報道を引用した記事が意外に少なかった・だから朝日の責任が低いかのような結論でしたが、朝日が慰安婦の強制連行の事実を大々的に報道し他社も追随報道するようになると多くの人はもはや「連行の事実は公理」のようになってしまいその信用性を問題にしなくなる・・却って出典引用がほとんどなかったことがわかります。
大分前から「航行の自由作戦」の出典明記記事がないのは引用する必要がないほどの「常識」になりそれほど普及してしまったということでしょう。
世界中での(普及によって)「朝日新聞記事の引用がほとんどなかった・だから朝日には国際拡散の責任は低い」という結論だったように思いますが・・(正確には覚えていないので、誤解があるかも知れませんので関心のある方はご自分で検証記事をお読みください)という検証委員会の論調には違和感を覚えたものです。
フェイクニュースがぐるぐる回っていくと出典元が明らかでないもののどんどん尾ヒレがついて大げさになり「常識」のような扱いになる危険性をここでは書いています。
フェイスブックその他発信方法が多様化してきたことで、近年フェイクニュースの危険性が問題になってきたのですが、もともと大手メデイアを介した(コマーシャルを先蹤・先駆けとして)が従来ギリギリセーフ的なイメージ報道に頼ってきたことがその原型・・これの発展形ではない かと言う気がします。
司法は見出しだけで多くの人がイメージを膨らませている現実に向き合っていない・・これを改めるべきでしょうが、権力機構そのものである司法が大胆に踏み込むには(憲法で保障されている表現の自由との兼ね合いで)まだ無理があるので、当面は自主規制に対する国民の支持がどうなるかの運用を待つのが合理的かも知れません。
最近フェイスブックがフェイクニュースを選別する遮断する方針を示したばかりですが、思想表現の自由との兼ね合いに苦しむことになります。
https://www.gizmodo.jp/2018/01/facebook-user-fake-news.html

Facebookの新たなフェイクニュース対策「ユーザーのちから」が、とってもビミョー
2018.01.24 19:00
SNSで今最も大きな問題のひとつは、フェイクニュース。なんとかしたい、ニセの情報に踊らされたくないと思うのはみな同じでしょう。ただ、フェイクを見極める難しさこそ最大の障壁です。このわかりきった難題に対して、Facebook(フェイスブック)は新たな仕組みを導入することで立ち向かおうとしています。新たな仕組みとは…ユーザーみんなの力。
マーク・ザッカーバーグCEOが、1月19日付けのFacebookポストにてこの試みについて語っています。
「運営側で決定してしまうこともできるけれど、その方法には違和感を感じます。外部の専門家に頼む方法もあるけれど、それは自分たちの決定権を外に委ねることになるし、客観性という問題もクリアできません。ならば、ユーザーに、コミュニティにフィードバックしてもらえばいいのではないでしょうか。コミュニティが、どのソースは信用できるのがをランク付けする、それが最も客観性があるやり方だと判断しました」
というわけで、ザッカーバーグ氏が発表した新たな取り組みは、Facebookという場所を使うみんなで、みんなが見る、みんなのニュースの基準を高めましょうよという方法。運営でも専門家でもなく、実際にサービスを利用する人々=コミュニティで判断したらいいじゃんという方法。自分のことは自分でやろうという方法。
とても理想的に聞こえますが、なんでしょうかねモヤモヤ感。ユーザーがフィードに流れるニュースを判断できないからこそ、フェイクニュースは広まり、広まるからこそますます問題になるわけで。なのに、そもそもニュースが流れてくるソース自体の信頼度をユーザーがランクづけするなんてできるのでしょうか。なんか、グルグルまわっているような。卵とにわとりどっちが先か問題のような。なんでしょうかねモヤモヤ感。

上記はマーク・ザッカーバーグ氏の発言・・英文の要約のようですから英文の読み間違いがないかの「ファクト」を知りたい方は上記に引用されている英文自体をお読みください。
上記意見は、騙され易いユーザーに判定させるのは論理矛盾というもののようですが、そもそもフェイクニュースが問題になっているのは、SNS系は「いいね」の共感数で広がるものですが、それとファクトとが一致していないからフェイクニュースが問題になっているのですから、賛否・共感数の多さでファクトかフェイクかを決めるのでは、同義反復になってしまいます。
上記意見の通り、フェイクかどうかの仕分けは難しい問題ですが、放置できない段階に来ているのも事実でしょうから、試行錯誤でやっていくしかないでしょう。
憲法で保障された「表現の自由を守れ」と言う観念論に安住してきたメデイア界(個人がやると大騒ぎになる偏面性?)に対する痛烈なパンチになったことが明らかです。
観念論さえ言えば相手を圧倒するような時代がとっくの昔に終わっている・・具体的事象に当てはめて議論しないと何事も解決出来ない現実を知る必要がある一例です。

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