メデイアと学者の煽り5(煽りが政治を左右する社会1)

日米戦が仮に敗戦でなく停戦で終わったとしても、日本は停戦を奇貨として中国各地に駐屯を続け、兵士の食料や兵士の補充のために)国内需要・・日常品の製造を後回しにして)働き盛りの男子や食料や武器弾薬製造に邁進しどんどん戦地へ送っていたら、どうなったでしょうか?
国内復旧を後回しにしてさらに戦力増強が可能だったでしょうか?
停戦すれば、急いで兵力撤収して国内復旧に投資するのが普通でしょう。
日露戦争では、奉天会戦後その先もはや一歩も歩けないほど疲れ切っていたのが現状・・中堅下士官が枯渇していて(この養成には数年以上の訓練が必要で補給ができなくなっていた他に武器弾薬の補給不能になっていて、ロシアがシベリア鉄道経由で続々と陸軍増強を図っているのを黙って見ているしかなかった・・国力・体力を使い果たした状態でいわば現地でへたばっていたのが実態でした。
この辺は日米戦も同様で1年以上経過で中堅熟練パイロットの補給が間に合わなくなって、学徒出陣・予科練上がりの十分な訓練を経ていない・操縦桿を握ってまっすぐ飛行する程度しか操縦能力のない促成戦力利用→特攻機作戦に切り替えるしかなくなった原因です。
そこでほぼ無傷の海軍の決戦・・次の日本海海戦での(一種の博打でした)決着待ちで、約2ヶ月も経過していた5月に日本海海戦で大勝利した勢いを利用してうまく講和できたにすぎません。
喧嘩や戦争を止める場合、その名称が敗戦でも停戦でも、講和だろうが、まずは国力・体力回復を図るべきが優先課題です。
従来の国是であった日本列島防衛線確保のために日露戦争を戦い国力を使い果たしたのは、政府の失策でも何でもありません。
むしろ長年の準備が功を奏したのですから、めでたいことでした。
震災事故のために備蓄した食品等を使い尽くして国民の生命・健康を守れたならば、めでたいことです。
ロシア軍撃退のために(武器弾薬.中堅人材のみならず)国力を使い切ったどころか、以下の通り、巨額負債を抱えていたのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%94%BF%E5%A4%89

大正政変
脚注
3 日露戦争の戦費は日清戦争の8倍、開戦前年の国家財政の約7倍に達した。その8割は公債であり、戦後、償還の負担等が財政を圧迫した。

・・国内経済が持たなくなったならば、戦争終結後は内政充実・復旧に向けるべきなのに、版図拡大・市場拡大→侵略国家化への変身の動きを鮮明にして行った選択の誤りがなぜ起きたかの真摯な反省こそが必要です。
米国が講和に骨折ってくれなくてそのまま戦争を継続すれば(日米戦で初戦の勝利連続中にどこも仲裁してくれずに敗戦の憂き目にあった例を見ればわかります。)ていたのは誰の目にも明らかだったのですから、講和成立に尽力してくれた米国への感謝の行動・・米国の希望(満州市場への参入門戸開放希望)を一定程度尊重する政策を採用するのは当然の流れでした。
米国は、日露戦争をはじめっから応援してくれていたのはその分け前?として戦後満州への参入を期待していたことは当初からはっきりしていたのです。
3月31日に紹介した早期開戦を求める「7博士意見書」にすら米国の意図が出ていますのでその分をここで再引用しておきます。

「米国の如きはその目的満州の開放にあり。満州にして開放せらるればその地主権者の清国たると露国たるとを問わず単に通商上の利益を失わざるをもって足れりとす。ゆえに極東の安全清国の保全を目的とせる外交においてこの国を最後の侶伴となさんと欲するは自らの行動の自由を束縛するものに外ならず。ゆえに米国の決心を待ちて強硬の態度をとらんと欲するは適切の手段に非ず。」

講和条約に向けた政府や軍部の姿勢は冷静沈着・・米国による仲裁を準備してからの開戦になったなど準備周到で外交センスも良かったのですから、(実務をよく知る伊藤博文はもともと準備無視の開戦論には否定的でした)その流れからすれば、講和成立後アメリカへの配慮をせずに遮二無二(周りの目を気にしている余裕がなく)満州進出〜日米戦争に向かうしかなくなっていった方針の急展開は、4月2日末尾に紹介したえせ学者とメデイアの合作による世論煽り(アメリカに配慮するな!という強硬意見)が政府方針の変更を招いた元凶です。
日比谷焼き討ち事件で見たように、賠償金をとれなかったことをアメリカの責任であるかのように学者が煽った民衆のアメリカに対する逆恨みは度が過ぎています。
日比谷焼き討ち事件の時にアメリカ人牧師の教会まで押しかけていますが、騒動の鎮静化のためにか?政府が総辞職に追い込まれていますが、(この逆恨み感情が背景にあって)以後の政権はアメリカに対する弱腰外交の批判を恐れてしまったのでしょう。
引用してきたポーツマス条約に関するウイキぺでイア中の「影響」では

「ルーズベルト大統領の意向を受けてエドワード・ヘンリー・ハリマンが来日し、1905年10月12日に奉天以南の東清鉄道の日米共同経営を規定した桂・ハリマン協定が調印されたが、モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村寿太郎外相の反対によって破棄された[3]。」

と書いていて講和条約後すぐに政府がアメリカと協定した鉄道利権共有の合意が破棄されている点を淡々と書いていますが、アメリカは多分「恩知らずめ!」と怒ったでしょう。
日比谷焼き討ち騒動とこれに続く桂内閣の辞職は、世論が極論に煽られてまちがっていることが明らかであっても、当面の混乱を鎮めるために政府が責任を取って辞職する悪習の始まりです。
民意とは国民総体の意見ですから、民意重視とメデイアに煽られたホンの数千数〜数万の不平分子の意見を聞くのとは意味が違います。
「神」の権威を嵩に着て神輿を担いで暴れ回った平安時代の僧兵のような存在ではないでしょうか?
これに味をしめた野党+学者とメデイアのトライアングルが何かと極論を煽るとその都度、沈静化するための政変・総辞職になる悪習が始まったエポックメイキングになる重要事件であったと思われます。

メデイアと学者の煽り6(国際孤立の始まり1)

昨日引用したウイキペデイアによれば日本は

「金が欲しくて戦争した訳ではない」との政府意向と共に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に迎えられ、「平和を愛するがゆえに成された英断」と喝采を送った外国メディアも少なくなかった。

と、日本政府が格好良く矛を収めたのは、非常に有能というか見事な交渉でしたが、国内の講和反対騒動は高度な駆け引き・・国際常識を知らない田舎者が大騒ぎしていたようなものです。
この大騒ぎを見れば、政府がせっかく紳士風に収めてもエセ学者が国内を煽ったことによって国際社会に馬脚を表していたようなものです。

「上記のような暴動・講和反対運動が日本国内で起こったことは、日本政府が持っていた戦争意図への不信感を植えつける結果になってしまった。」

とウイキペデイアにある通り、せっかくの外交交渉の成果をメデイアの煽りが裏で台無しにしていたのです。
日露戦争は基本的に明治維新以降欧米の植民地にならないように抵抗力をつける富国強兵政策の総決算的戦争・・防衛のための戦争であった本質からして、(軍の近代化による防衛力増強・・応援してくれる諸国を増やす努力を含めてギリギリ間に合って)負けないで済んだだけでよかった戦争です。
賠償金を取れない戦争はコストがかかった分だけ勝った方も負けた方もその後の経済が疲弊します。
個人でもそうですが、揉め事を起こして得はありません。
賠償金をたんまり取るべきという強盗的交渉は酷くないか?という国際世論に当時変わりつつあったのですが、エセ学者やメデイアはこの流れについていけない・・今の革新系という超保守政治運動家同様だったことがわかります。
第一次世界対戦でドイツに課した賠償金が重すぎたことが知られていますが、実は日露戦争前の1900年の義和団事件(7博士意見書に書いている日本の呼称は北清事変)の時に決めた巨額賠償金が酷過ぎるという批判を受けるようになって、日本を含めて連合国がそれぞれ)その後中国へ実質返還する動きになっていたのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1#%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8

義和団事件
賠償金の返却
あまりにも過酷な賠償金請求に対し、やがて国際的な批判と反省が起こり、賠償金を受け取った各国は様々な形で中国に還元することとなった。たとえばアメリカは、賠償金によって北京に清華大学(1911年~)を創設した。この大学は北京大学と並んで中国を代表する名門大学として成長し、現在でも理系分野ではトップと言われている。
日本も1922年に賠償金の一部を中国に対する東方文化事業に使用することを決定し、中国側に通告した。日本の外務省には、対支文化事業部が新設され、日中共同による「東方文化事業総委員会」が発足した[12]。また、東亜同文会・同仁会・日華学会・在華居留民団など日本国内で日中関係進展にかかわる団体への補助を行ったり、中国人留日学生への援助を行った。

(押し込み強盗ではないのであたり前のことですが)第一次世界大戦では、戦勝国が賠償金を取れなくなったので、敗戦国のみならず戦勝国も双方疲弊し、世界の主導権が欧州から米国に移ってしまったと見るのが歴史上の定説でしょう。
対外的あるいは学校教育的には日露戦争戦勝のプラス面ばかり・・日本が自信をもってしまったのがその後の方向性を誤った原因のように習いますが、(実力以上の自信を持って舞上がっていたのはエセ学者とメデイアのみであって、)政府・識者としては開戦前から借款に走り回っていたことから分かるように、仮に勝ったとしてもその後の負債返済に象徴されるように戦争で失ったものの復旧など大変な国難が待ち受けていることを承知していたことは、開戦には容易に踏み切らなかったことや講和条約対応を見ても容易に推定可能です。
1日も早い講和を望み、講和成立後は戦後復旧費用・内政的に大変な状態・・これをどう乗り切るかの瀬戸際に追い込まれていたことは政府は誰よりもよく知っていたでしょう。
一等国になって実力が上がったのではなく、逆に中堅兵士が多く戦死し前線指揮官の補給が続かなくなっていたことが紹介されていることからも分かるように、戦争後は戦前よりも総合国力が落ちているのですから、本来ならば、体力回復が第一で対外活動を縮小しなければならない状態でした。
ところが軽薄学者やメデイアの方は、世界の一等国になったのだからもっと世界進出し国威発揚すべきと煽りを続けたのでそのギャップに苦しむことになります。
大災害で熟練調理師や熟練工その他の人的被害その他を受けた商店や工場は、まずは復旧に専念すべきであって、店舗拡張や海外工場新設計画があってもそれを一時中止・先送りするか他社との合弁に切り替えて資金や人的負担を分散軽減するのが普通です。
新規投資には膨大なエネルギーが必要ですから、戦争で人材を含めて体力を使い切った直後に満州に日本単独で鉄道敷設等の投資・エルギーをつぎ込むのは無理があったのですから、ここは一歩下がってアメリカの望んでいる満州の共同事業化を日本の方から提案すべきだったのです。
ところが、首の皮一枚でようやく講和を勝ち取ったにも関わらず、エセ学者やメデイアが「国民の貴重な血を流して勝ち取ったものを寸土も譲るな!」という偏狭な主張を繰り返して政府の政策選択の幅をなくしていき、常識的対応をしていた桂内閣を辞職に追い詰めていった流れが日本を破滅の淵に追い込んでいったのです。
日本戦後でいえば、日米同盟とソ連圏との同盟とどちらの選択が正しかったかは、歴史が証明しているところですが、日安保を進めた岸総理が条約成立後退陣を余儀なくされ、安保反対闘争で活躍した人たちがメデイア界で英雄扱いされる変風潮が今も続いています。
歴史を見てわかることは、日本のメデイアやこれに迎合する学者はいつも極論を主張して日本の国益に反する方向へ世論を引っ張る傾向があるように見えます。
日米戦の終戦後復興でみると(戦後国内復興に専念していたにもかかわらず)10数年かかってようやく岩戸景気に始まる成長が始まった例を見ても分かるように、これを敗戦というか終戦というかにかかわらず、もともとそれだけの痛手を受けていた事実はかわらないということです。
原爆投下や焼夷弾攻撃の結果、国内焼け野が原であっても日米講和条約で仮に対等終戦・・日米現占領地現状維持の停戦だった場合を想定すれば・中国現地に大量の兵員など釘付けのままであれば)日本国内復興がもっと遅れたどころか、もっと大変なことになっていたことがわかります。
例えば、戦中戦後の食糧難は、台湾島からの輸送船が撃沈されてことが原因のように言われますが、もともと日本は食料を自給していた上に満蒙開拓団や朝鮮半島等への移住や何百万に上る兵員の外地展開で国内需要は減っていたはずでした。
食料不足は農家の青壮年働き手を根こそぎ徴兵したために起きたことです。
工員不足を補うための女子生徒動員・韓国慰安婦騒動で有名な女子挺身隊などが多く報道されているので有名ですが、工場は10〜20日操業が止まっても目に見えて生産力が落ちますが、農地の草むしりや害虫の駆除・里山の管理など目配りはその程度の手抜きでは目に見える変化がありませんので学徒動員の対象になりません。
即時効のない農業ではつい後回しになりますが、いわゆる10年戦争をやっていると周辺山間地の手入れが後回しになり農地が痩せてきて大変なことになってきた、働き手の大部分が徴兵されてしまった事による生産減少が大きな原因でした。
現状停戦でなく全面撤兵になったことより、大量の労働力が戦地から引き上げてきたので、国内復旧が急速に進んだ面を否定できません。

メデイアと学者の煽り2(日露戦争1)

3月27日まで見てきたように、日本で史上言論弾圧事件と言われている大部分(ほぼ100%)は少なくとも野党やメデイアの集中砲火で政権が辞職に追い込まれ、その結果天皇機関説を教えること自体が犯罪になってしまい、その後は野党が処罰しろと騒がなくとも治安当局が検挙するようになっていたのですから、それを政府による「弾圧」というのは自己矛盾的主張ではないでしょうか?
戦前は軍部・右翼が怖くてメデイアは迎合するしかなかったという言い訳もありそうですが、日露講和条約反対の日比谷焼打事件の例を書きましたが、軍部が怖くて迎合するしかなかったというのは言い訳に過ぎません。
むしろ軍部内の跳ねっ返り・ 「勇ましいことを言えば格好いい」という程度の浅薄な軍部内少数意見をメデイや野党が引き受けてあたかも正しいかのように世論を煽っては軍部内の慎重穏健派を蹴落としていく役割を果たしてきた・存在を示してきたと見るべきでしょう。
メデイア界の主張を通すための箔づけに最近では国連調査官報告や憲法学者連盟声明を利用しているように、当時は「帝大学者意見書」を発表しては、世論誘導に励んでいた点では今のやり方の先駆けパターンです。
以下日露戦争前後における「エセ学問見解」?やメデイアの動きと客観事実を紹介しますが、無責任報道が昔から「学問の自由」「報道の自由」を錦の御旗にしていかに蔓延っていたかが分かります。
24日「政党の終焉」で見たように軍部よりも政友会総裁の方が軍部を煽る過激主張していました。
日本国内報道過熱が先行して中韓の反日運動が過熱したのと同じ構図で、外野の軍部を利用しすぎたのです。
日露戦争開戦と講和時におけるメデイアによる跳ね返り学者利用による民衆に対する煽りの激しさは、以下に紹介する通り半端ではありません。
日露開戦の是非や講和の損得などの機微について前提事実を詳しく知らない庶民や右翼が、焼き討ちするまで盛りあがるには、盛り上がるにたる一方的な(国民を煽る)情報を流布して反政府運動を盛り上げるメデイアやエセ学問的意見や政治家の後押しがあったからです。
日露講和条約の理解には客観情勢の理解が必須ですし、この読者にとっては多くの方がある程度知っていると思いますが、キッチりした時系列を確認しながらお読みいただく方が良いので煩雑で長くなりますが、何回かに分けて引用して行きます。
今日から先ず客観的時系列解説記事を紹介し、それを前提として当時学者の言う「学問の自由」とは何であったか・学問研究と関係のない政治意見・アジテートを「学問の自由」と主張したことで、かえって学問の重要性を貶める効果を果たしていったのではないかの視点で7博士の意見とその評価を紹介します。
ポーツマス条約に関するウイキペデイアによれば、日露戦争と日露講和条約の概要(長くなるので一部引用)は以下の通りです。

1905年3月、日本軍はロシア軍を破って奉天(現在の瀋陽)を占領したものの、継戦能力はすでに限界を超え、特に長期間の専門的教育を必要とする上に、常に部隊の先頭に欠かせない尉官クラスの士官の損害が甚大で払底しつつある他、武器・弾薬の調達の目途も立たなくなっていた。一方のロシアでは同年1月の血の日曜日事件などにみられる国内情勢の混乱とロシア第一革命の広がり、さらにロシア軍の相次ぐ敗北とそれに伴う弱体化、日本の強大化に対する列強の怖れなどもあって、日露講和を求める国際世論が強まっていた[1]。
1905年5月27日から28日にかけての日本海海戦での完全勝利は、日本にとって講和への絶好の機会となった。
5月31日、小村寿太郎外務大臣は、高平小五郎駐米公使[注釈 1]にあてて訓電を発し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に「直接かつ全然一己の発意により」日露両国間の講和を斡旋するよう求め、命を受けた高平は翌日「中立の友誼的斡旋」を大統領に申し入れた[2]。
ルーズベルト大統領は日露開戦の当初から、アメリカは日本を支持するとロシアに警告し、「日本はアメリカのために戦っている」と公言しており、また全米ユダヤ人協会会長で銀行家のヤコブ・シフと鉄道王のエドワード・ハリマンが先頭に立って日本の国債を買い支えるなど、アメリカは満洲、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入のために日本を支援していた[3]。
中国の門戸開放を願うアメリカとしては、日本とロシアのいずれかが圧倒的な勝利を収めて満州を独占することは避けなければならなかったのであり、このアメリカの立場と、国内の革命運動抑圧のため戦争終結を望むロシア、戦力の限界点を超えて勝利を確実にしたい日本のそれぞれの希望が一致したのである
・・1905年6月9日、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案した。この提案を受諾したのは、日本が提案のあった翌日の6月10日、ロシアが6月12日であった[2]。なお、ルーズベルトは交渉を有利に進めるために日本は樺太(サハリン)に軍を派遣して同地を占領すべきだと意見を示唆している[2][注釈 3]。
・・・・ウィッテは、ポーツマス到着以来まるで戦勝国の代表のように振る舞い、ロシアは必ずしも講和を欲しておらず、いつでも戦争をつづける準備があるという姿勢をくずさなかった
すべての戦力においてロシアより劣勢であった日本は、開戦当初より、戦争の期間を約1年に想定し、先制攻撃をおこなって戦況が優勢なうちに講和に持ち込もうとしていた[12]。開戦後、日本軍が連戦連勝をつづけてきたのはむしろ奇跡的ともいえたが、3月の奉天会戦の勝利以後は武器・弾薬の補給も途絶えた。
そのため、日本軍は決してロシア軍に対し決戦を挑むことなく、ひたすら講和の機会をうかがった[注釈 5]。5月末の日本海海戦でロシアバルチック艦隊を撃滅したことは、その絶好の機会だったのである[12]。
すでに日本はこの戦争に約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していた。満州軍総参謀長の児玉源太郎は、1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵と15億円の戦費を要するとして、続行は不可能と結論づけていた[12]。とくに専門的教育に年月を要する下級将校クラスが勇敢に前線を率いて戦死した結果、既にその補充は容易でなくなっていた[11]。一方、ロシアは、海軍は失ったもののシベリア鉄道を利用して陸軍を増強することが可能であり、新たに増援部隊が加わって、日本軍を圧倒する兵力を集めつつあった
首席特命全権大使に選ばれた小村は、こうした複雑な事情をすべて知悉したうえで会議に臨んだ。
児玉源太郎は、日本が講和条件として掲げた対露要求12条のなかに賠償金の一条があることを知り、「桂の馬鹿が償金をとる気になっている」と語ったという[16]。日露開戦前に小村外相に「七博士意見書」を提出した七博士の代表格として知られる戸水寛人は、講和の最低条件として「償金30億円、樺太・カムチャッカ半島・沿海州全部の割譲」を主張し、新聞もまた戸水博士の主張を挙げるなどして国民の期待感を煽り、国民もまた戦勝気分に浮かれていた。

上記のとおり講和条約反対の日比谷焼き討ち事件はメデイアの期待に応える無知(実態無視)な学者のアジテート・扇動によって始まったものです。

メデイアと学者の煽り1(思想の自由市場論のまやかし)

放送権を寡占しているメデイア界が放送の偏り批判を受けると、「日本の公平性規制がおかしい」として言論自由度ランクキングを下げる運動を世界規模で展開し、ついに国連特別調査官任命・・対日調査にこぎつけてメデイア界の要望通りの調査報告をしてもらい「虎の威を借りて」政府批判をしておきながら、政府がこれに応じて参入自由化とセットで放送に公平性を求めずに自由にさせようとすると大反対するとはおかしな業界です。
勘ぐれば、寡占のままで「言論の自由侵害だ、なんの批判も許さない.規制するな」と言ってれば、寡占業界では好きな方向へ世論を誘導できます。
ネット業界も自由参入になるといろんな意見が出回りやすくなるので本当の「言論の自由市場」になってしまうと「自分達の偏った意見は淘汰されるので困る」という本音が出てきたのではないでしょうか?
憲法学者の決まり文句である「思想の自由市場論」は特定思想傾向のメデイアが寡占している市場を前提にしていた「まやかし論」であったことが昨日紹介した日経新聞の論調で暴露された印象です。
表現の自由の問題が遅れて問題になってきたのが、16年アメリカ大統領選でのトランプ氏のメデイアに対するフェイク攻撃です。
アメリカも思想の自由市場とはいうものの、実際には大手メデイアの寡占市場です。
3社を4社〜8社に増やしても談合的に同一方向(業界基準?)に向けた報道ばかりするようになれば同じことです。
自由市場化するにはだれでも指折り数えられるような有名大手企業を少しばかり参入させる(1〜2社増やす)のではなく、業界標準的思想傾向に関与しない無限?の参入を期待できるネット業界へ電波利用を解禁する発想は画期的なことです。
寡占市場であるメデイア界に特定政治勢力が牢固たる勢力を張ってしまい、一定レンジ内の意見しか報道されていなかった問題点を暴いたのがネット通信の発達でした。
自由な表現が広がれば、その分名誉毀損的意見やワイセツ、業務妨害的あるいは米大統領選挙で問題になっている選挙妨害など多様なマイナス利用が増えるでしょうが、それはそれで別の救済や抑止手段等を工夫して行けばいいことであって、まずは自由な発言発表の場が増えた点を前向きに・公共電波利用権付与を含めて前向きに捉えるべきです。
有用な技術が出てくるとその弊害ばかり強調する意見がメデイアで主流になりがち・・・これが何でも反対の野党を育てている原因です。
新たなものを利用するには新技術に応じた規制がセットであるべきです・・高速道路を認めると歩行者が危険でないかと言う時には歩行禁止にすれば良いように(従来価値観では人が歩けない道路ってあるの?となりますが・・・。)新しいことには新しい発想が必要です。
頭の硬い集団では、表現の自由に対する規制を絶対悪視する傾向により、新しい規制に何でも反対したがる傾向があります。
車=危険→車禁止のおかしさは誰でもわかるでしょうが、空軍基地や原発・パソコン・防犯カメラ・GPSその他全て新らしいものはダメの発想でいいのでしょうか?
軍隊=戦争をイメージしてしまい、軍備反対という短絡思考も似ています。
ドローンであれ軍備も飛行機や車も各種工場も安全に向けた工夫をこらしながら発展させていくべきです。
車の便益性は言うまでもないことですが、一方で生命等への危険性は皆無ではありませんが不断の努力により、今では我が国の交通事故年間死者数が5000人以下になっています。
工場等も有益であるけれども労災事故や公害〜騒音等の被害もありますが、これも公害防除技術の発達や安全管理の徹底等により、我が国では一定程度まで克服されて来ました。
原発も同様で安全運転に向けた工夫の余地がないかの議論が必須ですが「まず反対ありき」では建設的議論になりません。
結果的にいろんな分野で既得権益を守ることにエネルギーを使う集団になってきたのでしょう
・・・ひいては思想の自由市場参加者を制限して一定方向の思想のスクリーニングを受けた人しか表現できないようにしておけば(メデイアの主張に反する変な?意見が出ないので)自分亜たちの都合の良い件ばかり報道できるグループから見れば、言論規制の必要がないのは当然です。
結果的に自分たちの気に入った表現の自由が守れる・・・参入制限方向へ意見が偏るようにように見えます。
ロシアによる米大統領選挙選挙英国の離脱国民投票への介入、直近フランス大統領選その他への介入疑惑が盛んですが、(我が国では中韓系細胞のメデイアへの浸透疑惑)参入制限があって5〜6社程度の企業相手ならば、長期間かけた外国勢力の浸透工作が容易になります。
参入障壁を低くして超大手だけでなく一定規模の企業が次々と参入してくると、工作すべき相手が拡散する分に比例して浸透工作が難しくなります。
この角度から考えても参入拡大が必要です。
「思想の自由市場」と言うからには参加を否定するのではなく、参入障壁が下がるのに従って必然的に増えてくるマナー違反に必要な規制をタブー視しないことが重要ではないでしょうか?
一定仲良しクラブ的な運営・・気に入らない意見の参入規制をしたままで「思想の自由市場」とはおこがましい限りです。
大学自治会を極左集団が牛耳ってしまっても、その排除方法がないのですが一般学生や社会が無視すればいいことで大した実害がありませんが、電波を寡占している大手メデイアが(実情無視で)一方的傾向の主張を垂れ流すのは実害が大きすぎます。
何が偏頗放送かを誰がどうやって判定するかの問題を解決する方法が今の所ないので、中立や公正報道の義務強化よりは、参入の自由化によって、思想の自由市場化によって淘汰を待つ方が合理的です。
電波割当制では有限どころか希少すぎて超大手しか参入できない難点がありましたが、インフラ整備と利用の2階立て構想は素人の私から見ても非常に魅力のあるアイデアと言うべきです。
NTTの通信設備インフラ部門と利用を切り離したことで一定の資本力があれば携帯やネット通信に参入できるようになったのと同様で電波希少性の隘路も、一定料金を払えば巨大設備を対等料金で利用できるようになれば参入障壁がぐっと低くなります。
いわばクルマを買わなくともタクシー等を利用できるようにすれば、購入し自分で保管維持できる人以外の利用できます。
鉄道施設を自前で持つ人だけが鉄道輸送できるのではなく、一般企業が貨物運送を利用出来れば公平です。
電波利用者・参加者が増えれば、報道の多様化効果が高まりまさに言論が市場化します。
公共工事の談合が禁止されているのは市場価格が歪められるからですが、思想の自由市場?の場合、あえて談合しなくとも慰安婦騒動でいえば「朝日がやっているのに負けられない」とばかりに一見独自意見のようなそぶりで競合他社がどっと追随報道に走ったので日本中が強制連行論一色になった原因でした。
思想表現は談合しなくとも、発表されるとそれを見てからの後追いでも瞬時の遅れを取り戻せるので、実質的な(一発入札の公共工事と違い)談合効果があります。
慰安婦騒動による朝日の検証委員会意見は朝日新聞の主張を引用する記事を調査したがほとんどない・・少ないので、朝日新聞の責任は低いかのような意見でした。
大事件スクープがあると、スクープで先を越された他社が単なるスクープの引用だけでは負けてしまうので、追っかけて深堀・独自取材を装うのが普通・朝日の引用意見ばかり書かないのは当たり前のことですから、こういう論理で朝日新聞の責任が少ないという意見の不自然さ(朝日新聞が選んだ委員ですから当然ですが・・)をそのころに書きました。
言論市場に4〜5社程度しか参加がないと、あえて談合しなくとも一定思想方向の人材を揃えておけば他社との競争と言っても「より早いか、よりセンセーショナルなキャッチコピー術に優れているか」の競争・・一定方向へ意見が向かうに決まっています。
これでは違った方向の意見が出てきません。
大学自治会が4〜50年前から政治偏向が激しくなりすぎたので、今では自治会がある政治意見を発表しても全学生の意見を代表する意見とは誰も思わなくなっていますが、これはこれで放っておいても誰もがそう思って無視できるので社会に悪影響を与えません。
しかしメデイアは庶民に一定方向の誤った情報を植え付けて、行動を煽る傾向があるので、放置できない影響力があります。
どうせ煽り合いならば、自由にさせていろんな意見から国民が自分で決めた方が合理的ですが、日本では報道できるものが寡占状態にあるのが問題です。

二項対立社会観5→軍部責任説1

メデイアや野党政治家や文化人が、戦前の言論弾圧批判・・軍国主義批判・・自分らは被害者であるかのような主張を臆面もなく何故繰り返すのでしょうか?
自己批判することなく治安維持法や軍部の責任にしてしまえば気楽でしょうが、その代わり厳しい自己批判をしないから、戦前の過ち・政策論争よりは政敵攻撃しかしない体質をそのままを繰り返しているように見えます。
「軍部が悪い・国民に責任がない」占領軍の民族分断政策にまんまと乗った・狡いのが左翼文化人・メデイア界です。
ドイツのように「ナチスだけに責任を負わせて国民は知らん顔」しているだけでは、民族の歴史・・将来に禍根を残す筈ですが、それだけでは気が済まなかったのか?
後ろめたさを隠すためか?
「毒を食らわば皿まで」と言う言葉がありますが、左翼文化人は米軍に協力するだけでは満足せずに中韓にもっと日本軍部の責任を追及するようにそそのかしてきたように見えます。
二項対立社会観については、17年2月23日「単純政治の限界・・2項対立4」まで書いてその後3月末〜4月にかけて表題にしていませんが、関係意見を書いていますのでその続きです。
軍部の発言力強化に力を貸してきのが、その時々の野党政治家でありメデイアであったことをこれまで書いてきました。
戦後軍部だけが悪かったという変な切り分け虚構に酔いしれた結果、政府攻撃材料に靖国参拝を問題視するようになったので、日本の左翼文化人・・メデイアが軍国主義復活反対と騒いでいるのに被害者の中国政府が黙っていると「政府は何をしているのだ」という国内突き上げに呼応するしかなくなった面が知られています。
慰安婦騒動も当初韓国政府はあまり信じていなかった・問題にしていなかったのですが、日本国内で盛り上がっているのに「政府が黙っているとは何事だ」という突き上げによって、韓国政府も腰をあげた経緯です。
http://ksmworld.blog.jp/archives/1067111984.html

1986年に当時の中曽根康弘首相は靖国神社参拝を取りやめるが、それまでは過去10回にわたり中曽根氏は靖国参拝をしていた。しかも、1985年8月15日には、現職首相として初めて靖国神社に公式参拝していた。
ところが、1986年に朝日新聞などのメディアが1978年に合祀されたA級戦犯のことを取り上げ、公式参拝を問題視した。中国側も朝日新聞から「この問題をどう思うか」と取材を受ければ「公式参拝はアジア各国人民の感情を傷つける」と言わざるを得ない。かくして、中曽根首相は1986年に一転して靖国参拝を取りやめる。
このときの後藤田正晴官房長官が残した「内閣総理大臣その他の国務大臣による靖国神社公式参拝に関する官房長官談話」(官房長官談話)は次のような内容だった。
《A級戦犯に礼拝したという批判があり、近隣諸国の国民感情に配慮するために、首相の公式参拝を差し控える》
この官房長談話は、『河野談話』、『村山談話』同様に罪深い。A級戦犯が合祀されたのは1978年(新聞が報じたのは1979年)で、その後も大平正芳首相や鈴木善幸首相は靖国を参拝しているが、中韓両国からは批判されていない。

慰安婦騒動については周知の通り、以下の朝日新聞報道に始まり韓国も対応する事態になりました。
http://ianfukangaeru.blogspot.jp/2013/12/1992.html
朝日新聞の奇襲

一九九二年一月十一日、朝日新聞の朝刊を手にとった人は、第一面トップに躍る慰安婦のキャンペーン記事に目を見はったことであろう。今にして思えば、この「スクープ報道」こそ、それから数年わが国ばかりでなくアジア諸国まで巻きこむ一大狂騒曲の発火点となるものだった。第一面ばかりでなく社会面まで潰したこの大報道を紹介すると長くなるので、とりあえずは主な見出しだけを次に羅列しておこう。

「慰安所 軍関与示す資料」「防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌」
「部隊に設置指示 募集含め統制・監督参謀長名で、次官印も」「〈民間任せ〉政府見解揺らぐ」
「〈謝罪を〉〈補償を〉の声さらに」
「募集など派遣軍において統制、すみやかに性的慰安の設備を」

さらに防衛庁資料を「発見」した吉見義明中央大教授の「軍関与は明白 謝罪と補償を」の談話、「不十分な調査示す」との女性史研究家鈴木裕子さん、「軍の関与は明らか」とする元日本軍慰安係長山田清吉少尉のコメント、「多くは朝鮮人女性」と見出しをつけた「従軍慰安婦」の解説コラムもつく構成になっている。
しかし「見出し」だけでは、なぜこんな大報道になったのか理解しかねる人もあると思うので、朝日新聞の意図を一面のリードから引用する。

日中戦争や太平洋戦争中、日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌が、防衛庁の防衛研究所図書館に所蔵されていることが十日、明らかになった。
朝鮮人慰安婦について、日本政府はこれまで国会答弁の中で「民間業者が連れて歩いていた」として、国としての関与を認めてこなかった。昨年十二月には、朝鮮人元慰安婦らが日本政府に補償を求める訴訟を起こし、韓国政府も真相究明を要求している。国の関与を示す資料が防衛庁にあったことで、これまでの日本政府の見解は大きく揺らぐことになる。政府として新たな対応を迫られるとともに、宮沢首相の十六日からの訪韓でも深刻な課題を背負わされたことになる。

このリード文を読めば、キャンペーン報道の意図が首相訪韓のタイミングに合わせて、それまで「国の関与」を否定していた日本政府に「偽証」の証拠をつきつける劇的な演出だったらしいことが読みとれる。

一月十一日といえば、訪韓の五日前にあたる。今さら予定の変更もできず、かといって予想される韓国側の猛反発への対応策を立てる余裕もない。私はタイミングの良さと、「関与」という曖昧な概念を持ち出して、争点に絞った朝日新聞の手法に、「やるもんだなあ」と感嘆した。
防研図書館の「陸支密大日記」は三十年前から公開されていて、慰安婦関係の書類が含まれていることも、軍が関与していたことも、研究者の間では周知の事実だった。慰安所を利用した軍人の手記や映画やテレビドラマのたぐいも数多く、この種の見聞者をふくめれば、軍が関与していないと思う人の方が珍らしかっただろう。それをやや舌足らずの国会答弁(後述)に結びつけて、「国としての関与を認めてこなかった」とこじつけたのは、トリックとしか言いようがない。

ところが軍部といっても外国人傭兵ではなく皆国民の父親です・・都合よく切り分けて自分に関係がないという誤魔化しが良心のある人ならばいつまでも通用するはずがありません。
そこで、軍部とは職業軍人のみで徴兵で駆り出された方は被害者だと言う分類が一般的です。

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