ヘイトスピーチ7(外国人の政治活動1)

集会場所使用許可権を握る自治体の姿勢次第で、日本社会は相互不信社会に導いてしまうリスクがあります。
反捕鯨団体員に対する和歌山県の太地町のクジラ博物入館拒否事件を7月17日に紹介しましたが、実は自治体がこの種騒動の最前線にいるのです。
戦後ずっと、在日犯罪の場合だけ氏名を公表しないなどの過保護・・過敏すぎる配慮に対する国民不満が溜まった結果「在日特権」許すなという過激運動の培養源になったと思われますが、今度はこの法律を利用して韓国系に都合の悪い意見に対して「ヘイト」と大量攻撃さえすれば、短期間相手の主張を自動停止させられる別の特権・これを恐れて事実上中韓批判を控えるような萎縮効果→事実上特権付与されたことにならないかの疑問が生じます。
これまで以上にもっと有利な保護を与えるようになると不満がさらに蓄積されていく・こういう悪循環を阻止するには、双方自粛する理性が必要ですが、韓国または政府に関係ない民間団体名による対日攻撃の出方によって国民感情が揺れ動く面があるのは否定しきれません。
感情というのは一方だけの現象ではなく相手の挑発等に左右されることです。
相手国や相手国民間集団のどんなひどい挑発があっても、他方が感情的表現をしたら刑事処罰あるいは何らかの不利益処分というのでは片手落ちでしょう。
一般刑事事件で言えば、挑発があっても言い返すのを超えて手を出した方が犯罪者という基準ですが、「ヘイト禁止論では相手の挑発の有無にかかわらず」同程度の激しい言葉で言い返すことだけでも違反」となれば、「日本人だけ黙って我慢しろ」となって片手落ちのような気がする人が多いでしょう。
とはいうものの日本を挑発している相手方は外国政府または外国政府の別働隊の民間人であり、日本国内で仕返しされるのは日本にいる(そういう運動に関係のない)「在日外国人」であるというズレを無視できません。
外国での反日行為ならこの「ズレ」を無視した「反感を感じること自体に無理がある」というのは分かり良いのですが、日本国内で在日外国人ABC〜Nが激しい憎悪表現で排日運動やテロ行為を連続した場合に、(靖国神社では天皇の肖像写真に竹槍を突き刺してデモしている写真が出回っていましたし、沖縄基地反対運動家ではハングル表示の看板類が目立ち、外国語が飛び交っているとも言われます)「あれは在日のほんの一部であって多くの在日は親日的だ」というだけで納得する人が多数を占めるでしょうか?
もしも短期ビザで政治活動目的に来た特殊活動家による行為であって長期居住している在日に関係ない・・親世代から日本にいる本来の在日にはそんなことをしたい人はいないのでしょうが、日本人には短期ビザできて政治運動している人との区別がつきません。
特定民族出身者のテロや反日発言が続くとその集団員を色目で見たくなるのが自然の感情であり、「そんなに日本が嫌いなら出て行ってくれ」という気持ちが生じ易いでしょう。
中国の反日攻撃が激しい時期に京都嵐山付近を旅行した時に、普段観光地では、中国語程度しか見分けがつかず「中国人はうるさくて観光が台無しだ」程度の印象でしたが、その時には台湾の旗だったか掲げて台湾人であり、中国本土人ではないことをアッピールしていたので「台湾人だったのか!」といきなり親近感に切り替わった光景を思い出します。
在日にも、そういう知恵があれば双方にとって良い方向へ動くでしょうが、反日攻撃を過激化する一方で「反撃するな!ヘイト禁止しろ」という逆方向に注力すると民族和解が難しくなりそうです。
これを感情的意見と批判し集会場利用不許可・抑圧→処罰することで物事が解決するほど社会が甘くありません。
仮にもヘイトを理由に刑事処罰まで進むような制度が作られるようになると、却って国民感情が激化する事態がおきかねません。
色々考えると少数者に対して「出ていけ!」論は1線を超えた表現だから「排除目的扇動」だけ規制するのが合理的に見えますが、その場合でも相手の出方にもよります。「売り言葉に買い言葉」という場合もあるので、難しい問題であることがわかります。
そもそも表現の自由は政府成立前の基本的人権と言いますが、在日外国人が日本政治に口出す表現の自由があるのでしょうか?
自由の有無というよりは、よそから転居してきたばかりのものは、古くからの集落の重要決定に口出ししないで遠慮するのが普通の知恵です。
私の意見・・自由な発想が結果的にその国家・社会の発展に資するから、言論思想の自由市場が望ましいのであって、国家社会秩序を破壊し他国に支配されるように画策する自由があり得るかの関心です。
主権国家は自国内の政治について外国人に干渉される謂われがないので、外国人が適法に入国していても日本国内政治に介入する権利をあたえる必要がない・参政権を付与する必要がないはずです。
大げさな憲法論以前に、サークルに始まって各種組織は自治が原則で、会構成員でないものが会の運営に口出しする権利があるという意見は例外(例えば所属先の定める法令違反・・違法行為があれば権力チェックが入りますが、それは国を含めた上部機関との秩序相克です・・組織トップ関係者の違法行為に関して組織トップや関与者が処罰されたり組織業務停止などの処分を受けた場合でも会内運営自体は、善後策をどうするかを含めて自分たちで決めること)でしょう。
言論の自由は外国人にも原則付与されるとしても、国内政治に関する政治意見を主張しデモ行進などする権利を付与することが、憲法上の要請とは思えません。
とはいえ、仮に政治活動しないことが入国要件になっていないならば、政府が靖国神社や沖縄基地反対闘争などの政治運動に対して、短期滞在外国人が行なっている場合に、それを禁止抑圧する方法がありません。
この場合でも過激な反日政治活動している彼らは非居住者であり、長期居住の在日とは違うことが分かれば・関係のない人に不満が向かうのは合理的でないので、「ある程度」解決します。
反捕鯨活動家が日本に来て何か騒いでも在日豪州人一般に反感が向かわないように・・。
沖縄基地闘争でハングル文字があるということは、逆に親世代からの韓国人でないことが推測されます。
以下に書くように民主国家においては外国人の政治運動自体を取り締まる方法がない・状況下で、短期ビザで来た外国人が日本人に敏感な分野で激しい政治運動している場合には、その旨区分けして分かるようにメデイアが報道すれば、親世代から居住している在日に批判が集まることはないでしょう。
前から書いていますが、情報をきちんと出した方が却って在日のためにも良いのです。
在日団体の行動は、自己防衛に過敏過ぎる結果?長期的に自分の立場を悪くするようなことばかりしているのが、日韓双方にとって不幸です。
外国人の政治活動の自由権ですが、以下にみる通り結論から言うと憲法上の権利ではないが、公職選挙法や政治資金規正法等の具体的法令違反がない限り違法ではないが、在留更新拒否の裁量事由にはされるという灰色的身分です。
普通の人々・・個々人の生き方としても政治に関わらないのが生きる知恵ですから、よそ者がわざわざ政治の争いに首を突っ込んで政敵を作る必要がないといえば言えるでしょう。
「郷に入り手は郷に従え」と古来から言われるように地域社会にうまく溶け込む知恵・工夫が必要です。

基本的人権と制約原理6(ヘイトスピーチ規制1)

いわゆる在日特権論に対して「行政は公平に運用している」「特権などない」というのは、理論的にはその通りでしょうが、在日批判者が言うのは「法的特権」ではなく「事実上の運用上の特別優遇」を言うのですから、噛み合っていません。
「在特会」が知られるようになったきっかけとなった京都の朝鮮人学校の公園占拠問題も、行政が特に許可したわけではないから、法的権利を付与したわけではない・特権付与ではないが、大目に見てきたという「事実上の優遇」が目に余っていた現実が白日の下に曝される効果がありました。
そのやり方が激しすぎたので「違法評価されて」巨額の損害賠償支払いを命じられましたが、国民的注目を浴びた結果、朝鮮人学校による公園の事実上独占使用状態が終わりました。
メデイアは暴言批判一色でしたが、在特会の主張自体広く国民支持を受けたように見えます。
政府批判であれば「日本シネ」のアッピールの場合、表現の品位について批判が一切なく、訴えようとしている保育所不足に焦点を当てて野党の得点にしているのに比べて、在日の日本社会に対する問題では、国民が不満に感じている問題を掘り下げ報道を一切しないのは不自然です。
在日が日本人同等に窓口で保護されていないならば、目に見えない差別解消に努力すべきですが、日本人でもしないような権利以上の行為・・共用物を事実上独占使用するなど目に余る行為を繰り返していることを指摘したならば、表現方法に対する批判に終始しないで、本来の国民不満を掘り下げるべきです。
「弱者に優しく」という基本精神が日本にはあるので、結果的に在日系が弱者として優遇される傾向が生じ、一方ではそれに遠慮しながら感謝するのではなく、既得権益のように日本人を排斥するかのように振舞っていることに対する不満ですから、形式論では解決しません。
公園不正使用にとどまらず、事実上の優遇しすぎがあちこちで目立っていないか?・・鬱積された不満が広がる導火線になったのが在特会の過激行動だったようです。
在日系犯罪の場合でいえば、目立たせないような配慮からか?在日とわからないようにするためにか、実名報道しない慣習になっているのも、結果的に「第4の権力」と称されるメデイア界が事実上優遇をしているように見えます。
弱者優遇精神・・隠蔽保護の結果、在日の犯罪率、生活保護受給率が高いかのようなデマ?が広がるのですが、日本もアメリカがやっているようにいろんな分野の統計でドイツ系フランス系、日系という出身国別の発表をした方が却って透明化し、根拠ない憶測・思い込み批判を防げると思います。
公表されていないと思い込んでいましたが、真偽不明ですが、特別入手情報?として以下の通り公開されています。
http://taiyou.bandoutadanobu.com/?eid=1235636

2017.01.10 Tuesday
外国人犯罪問題に積極的に取り組んでいる自民党衆議院議員の長尾敬先生のご協力で、今回総務省からは世帯数を、厚労省からは生活保護受給世帯数を、最新の平成27年7月段階の数値で国籍別に入手することができました。
この数値は未だメディアには出ていませんので初公開です(^o^)

                      

生活保護は個人個人ではなく各世帯ごとに受給していますので、国際結婚家庭の場合はその世帯主の国籍で分類されています。
何故かまったく非公開の「在日」外国人検挙情況の総検挙件数と総検挙人員数
(同じく平成27年データ、28年公表。ご協力は衆議院議員長尾敬先生)↓

                        

なぜ非公開なのか?については、みなさんから警察庁に直接聞いてみて下さい。
(警察庁意見箱 https://www.npa.go.jp/goiken/)
うち在日人口の7割を占める「特別永住者」は外国人の身分のまま代々世襲でその滞在を認められ、殺人を含めたいかなる犯罪によって検挙されても唯一退去強制処分がない特別なご身分。
強制送還がないので再犯者が濾過されないという在日特権の悪影響が、在日韓国朝鮮民族全体の不名誉につながっています。

基本的人権と制約原理5(兵役納税の義務1)

国家転覆目的・内乱罪を頂点にしたスパイ罪〜兵役拒否罪〜租税納付義務違反罪などが世界中にありますが、これが諸外国でなぜ憲法違反でないのか・・人権衝突論や自己実現論/道徳論では蒙昧な私には理解できないからです。
共謀罪法の成立で具体的テロ行為の共謀だけでも共謀罪法で犯罪になりましたが、傷害等各種刑法犯該当のテロ行為ではなく、抽象的な日本の社会不安・相互不信を煽り、中国や韓国の支配下に入るべきという謀議はそれだけでは共謀罪法違反にはならないし、そういう集会に対して施設使用不許可するのは、憲法違反になるような解説です。
(これが問題になったのがクジラ博物館の事件でしょう)
古くは共産党員は自分の勤務先の会社を潰すのが目的だと非難され支持を失っていきましたが、そういう批判は時代遅れの間違った意見だったのでしょうか?
自民党でも自民党をぶっ潰せというスローガンで総理になった人もいますが、本音は自民党再生のための主張であって反自民ではありません。
自己実現論等の解釈によれば、日本を韓国や中国の支配下に置くべきだ・日本は昔中韓で悪いことをしたから今度は中韓の奴隷状態に入るべきと言う主張でも「自己実現」と称して自由にできるのが基本的人権なるようです。
是枝監督の言う「公権力とは距離を保つ」という主張は、反公権力=反政府 =反国益→反国民?のための言論の自由・・(新参の右翼発信者同様にメデイア界の婉曲的表現訓練をうけていないからか?)国益に反することを目的にしている実態をストレートに表現したことになるようです。
私の場合、千葉で生まれ育ったわけではないですが、千葉に住んでいる以上千葉市や千葉県(弁護士である以上弁護士会全般も)が良くなって欲しい気持ちがいっぱいですが、中には自分の住んでいる街や勤務先組織が嫌いな人もいるのでしょう。
普通に考えれば勤務先が嫌いならば転職すればいいような気がしますが、それが簡単にできないのでそこで楽しくやっている人を自分のように、不幸な状態に巻き込みたい捻れた感情が発達するのでしょうか?
住んでいる町や国が嫌いという場合、企業のように嫌な上司や同僚が身近にいる関係がないので(都会の場合近所づきあいがほぼ不要)その社会での主流から外れている疎外感がそうさせるのでしょうか?
他人のものを奪ってはいけないというルール→等価交換ルール=「私有財産権の絶対」思想も古代からありますし、殺人、傷害や弱いものいじめ、ひいては人命尊重も国家成立前からのことと言えますが、古代から所属集団のためには命も捨てる心構えが賞賛され、民族・集団のために命を賭して戦った人を讃える英雄像も古代からあります。
各地を旅行すると献身的に地元発展に尽くした人が、地元の偉人として顕彰されています。
特攻隊の自己犠牲精神をできるだけ矮小化する政策で戦後政治が行われて教育してきましたが、時間が経てばその尊い精神に感じる人が増えるようになるでしょう。
戦後政治=教育は占領軍の影響で、民族や集団のために尽くすのはよくない・「個人利益と対立すれば個人優越」という方向性が過ぎていたように思われます。
「国家・民族ひいては自分の家族を守るためには、自己犠牲を厭わない」というのも古代から尊ばれた古代亜kらの精神です。
生物は自己の生命を全うすることが最大の価値の筈ですが、子グマ連れの母熊が危険を顧みずに攻撃してくる本能を見えば、種の保存のために自己犠牲を厭わない本能があるのです。
人間は集団で力を合わせてこそ他の猛獣に負けずに生き残れたので、目の前の自分の子供だけではなく守るべき対象を集団にまで拡大してきたことになります。
ライオンだって狩をするときは集団戦法ですし、犬・狼・猿だけではなく多くは程度の差こそあれ、集団で生活しています。
このように考えると集団利益無視または卑しむ個人利益優先の思想教育は、集団で生きていく知恵を知らない程度のレベルです。
この辺で真面目に勉強する気になって、基本的人権に関する学説のお浚いを短時間にネット検索できる限度ですが・でしてみました。
以下の説明によると、基本的人権論は、戦前の美濃部説による公共の福祉による外在制約論から戦後の宮沢説・内在制約論〜人格的利益説・・佐藤幸治教授の道徳論〜さらにはパターナリズムによる補完・有用性?までを以下のネット記事では分かりよく説明されています。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/seminar/916restriction_of_Humanrights.htm(甲斐素直氏)
引用省略
ただ、人権の衝突による制約しか人権制約原理がないとすれば、納税の義務→脱税が犯罪になり徴兵制の国では徴兵拒否罪がなぜあるのか不明・・人格的利益説や道徳律と言い換えれば解決するのか私の能力では不明です。
内乱罪やスパイ法違反・・兵役の義務=所属組織を守る義務→違反に対して懲罰として各種の人権侵害行為ができる根拠を道徳律によるというのでは、戦前の美濃部説=外在制約論・公共の福祉論とどう違うのか不明です。
私の学んだ宮沢説は古いかもしれませんが、なんらかの人権制約原理がなければ、人を兵営に拘束し苦役を強制することは基本的人権違反で許されない→拒否しても犯罪にできないはずです。
基本的人権は人類普遍原理とは言うものの、「徴兵制のある先進国では普遍原理が認められていない」と言う説明になるのでしょうか?
それとも国ある限り国を守る義務があり、敵国と通謀し、引入れるのは「道徳に反するに決まっている」と言うのでしょうか?
こうなってくると基本的人権とは別にある道徳が基本的人権制約原理になってくるので、その範囲を誰がどのようにして決めるか?となります。
道徳とはそれぞれの集団・社会維持のための規範でしょうから、基本的人権は社会・国家成立以前からあると言う「自然権論」と対立関係にあるはずです。
内乱罪や兵役拒否罪あるいは租税強制徴収権・脱税罪の合憲性を認めるならば、結果的に戦前の美濃部説・外在的制約論とどう違うかになって来るのではないでしょうか。
素朴な感想では道徳という意味不明原理によるのではなく、国家に限らずどんな組織でもその集団所属者は、その「組織維持に協力する義務がある」(嫌なら会員脱退権・・国籍離脱の自由)という原理を立ててそこから納税(会費負担)義務、国家防衛(兵役)義務を導き出す方がスッキリします。
この点、弁護士会の強制加入主義(離脱の自由がない)は異例ですから、将来的に憲法違反の意見が出てくるでしょう。
相馬馬追いや博多や岸和田その他の夏祭りをユーチューブで見ていると、地域共同体の行事にこぞって参加することことこそが、共同体構成員になっている証のように見えます。
地元の人でこういう無駄な行事をやめようという声を上げられないのは、言論の自由がないからなのか、それとも共同体結束に必要な行事は地域にとって必須だと考える人の方が多いからではないでしょうか?
人権は無制限のものだが、個人人権の相克調整のためにだけ制約されるのではなく、もう一つの原理・・民族集団維持防衛のための義務も所属員にはあるという二本立てではないでしょうか?
この辺の議論は専門家同士で克服済みかもしれませんが、素人に分かり良く説明できない理論って、本当は裸の王様同様に「内部で傷を舐め合っている」だけの論ではないでしょうか?
わかりよい推理・素人の推量ですが、日本では幸い戦力不保持の憲法があるので、徴兵制の議論を避けて誰も問題にしないで今までごまかしてこられたのかもしれません。

基本的人権と制約原理1

国連報告者は、このような関心・本当に自由市場になっているかの基準で調査すべきでしょう。
どのような政府規制があるかの後進国的調査であれば政府規制のデータさえ集めれば結論が出せるのでしょうが、法的規制がないが自由市場の結果(世論変化)によって、コメンテーターの政治スタンスが受け入れられなくなってお役御免になったのか、政府の間接規制がどのようにあって政府意向で出番が減ったのか?の調査となると腰を据えた実態調査が必要です。
日本の世論動向など数ヶ月〜半年間の腰を据えた実態調査をしないと根拠ある意見を言えないはずです。
1週間程度の短期間訪日してスケジュール通りの面会聞き取りをこなしていくだけ・・双方の言い分を公平に聞いてどちらを信用するかしないかだけ・双方主張の裏付け調査・長期滞在しての社会科学的調査など地道な調査しないで一方の言い分だけ採用するのでは日本に来る必要がありません。
児童売買春の実態調査に来た国連調査官?がNGOなどからの聞き取りだけで?少女の何%(数字を忘れました)が児童売買春経験という驚くべき数字を発表して大騒ぎになったことがありますが、わずか1〜2週間?程度の駆け足視察で何が分かるか・事前に関係団体を通して各地で招集(動員?)された関係者から事情聴取したのだろうというのが普通に想定されます。
いかにもその結果発表の記者会見が楽しみであるかのような印象で発信していた弁護士がネット非難されると、名誉毀損で訴えて勝訴したらしいですが、何を批判したことが名誉毀損か訴訟記録を見ていないので不明ですが、調査官?報告者が情報源を秘匿している限り、情報源秘匿している限り同弁護士が虚偽情報を伝えたことも立証できません。
だいぶ前に書いたので、コラム内検索してみたら以下の通り過去に書いていました。
「援助交際率発表の衝撃1」(海外告げ口活動2)のテーマで2015/11/03頃に連載して、その頃のネット発信記事を引用していますので参考にしてください。
ちなみに訴訟は以下の通りらしいですが、「ネタを売り込んでいる」ことなのか「何が事実に反して名誉毀損」なのか、具体的に書いていません。
https://www.bengo4.com/internet/n_6279/

児童買春などの調査で来日した国連の特別報告者、マオド・ド・ブーア・ブキッキオ氏が2015年10月、日本記者クラブでの記者会見で発言した内容だ。ブキッキオ氏の発言は「日本の女子学生の3割(30%)は現在、援交をやっている」と訳されたが、「13%」の誤訳だったとして、のちに訂正された。
伊藤氏が(1)ブキッキオ氏がNGO関係者から聞き取りをおこなっていたこと、(2)その会合に参加したことをツイッターで報告したところ、池田氏は「(伊藤氏が)『日本の女子学生の30%が援助交際』などのネタを売り込んでいる」などとツイッターやブログで批判した。
伊藤氏が2016年4月、損害賠償660万円と謝罪文の掲載を求めて提訴すると、池田氏は「法廷内外で協力して、害虫を駆除しよう」などとツイッターに投稿した。一審の東京地裁は、約57万円の損害賠償の支払いを命じる判決を言い渡したが、伊藤氏は謝罪広告の掲載が認められなかったことなどを不服として控訴していた。
東京高裁の阿部潤裁判長は、池田氏の発言について「社会通念上許される限度を超えて、(伊藤氏の)名誉感情を侵害した」と認めた。さらに、池田氏側が「真実であること」を証明しなかったため、名誉毀損による不法行為にあたるとして、一審の賠償額の2倍にあたる計約114万円の支払いを命じた。一方で、謝罪文の掲載については棄却した。

話題を元に戻しますと、似たような思想傾向でも掘り下げた解説ができず、いつまでもムード的解説や意見しか言えない人は市場評価が下がり用済みになって行くのは当然のことです。
思想的にも国民の傾向がありますので、傾向が変われば過去の売れっ子もお呼びがかからなくなります。
戦後一世を風靡した宮沢憲法・天賦不可譲の人権論でも、昨日紹介したように時代推移によって、「天賦不可譲の人権」とか国家以前の「自然権」というだけでは、素朴すぎない?となって「自己実現」とかの新たな言い方に入れ替わっていったのです。
特定思想・学説が理論が荒すぎて市場評価を受けなくなってくると、これに比例して思想の自由市場論が下火になるのって?なんとなく可笑しい・・過去の思想の自由市場論とは、特定立場が言論市場を牛耳っている時だけのご都合主義だったのか?「思想の自由市場論」って何だったの?という疑問が湧いてきます。
上記憲法論によれば、日本を特定民族の支配下に置くための政治活動を隠れて行う必要がない「権利」となりますが、自由市場で居場所がない・そこで児童売買春その他、自己主張が通らない分野で国連に訴え出て勧告を求める流れになったように私には感じられます。
憲法論・国家が意見発表を制約できるか?という視点で言えば、日本の国益を損なう結果になるかどうかにかかわらず憲法で保障された「自己実現」だというのですから、慰安婦騒動の場合もともと日本が嫌いだから運動していると言っても良いし、「潔く認めて陳謝した方が長期的に日本人の信頼性を高めるから・・」と言い訳する必要がありません。
また児童売買春騒動でいえば、何が名誉毀損になったのか不明ですが、仮に国連報告者に対して「10何%の数字を説明したのは私ではない」とする名誉毀損訴訟であるとすれば、もともとそういう主張してたのであれば「思った通りに言って何が悪い」といえば済むことです。
そもそも自分が信念に基づいて発信しているならば、その主張功績を拡散してくれてありがたいだけであって、なぜ名誉毀損になるのかが不思議です。
名誉毀損で訴訟提起するのは、「その事実があったとすれば自分の信用が害された」という主張ですから、国民がそんな主張を支持していないことを知っていることを自分で証明していることになりませんか?
あるいは、
「朝鮮民族に将来どのようなひどいことをされても一切文句を言えない境遇に陥れる長期的目的で主張し行動している」
と目的をはっきりさせても言論の自由の視点では、どういう意見だからといって国家が発言禁止したりすることは許されませんが、これを思想の自由市場で堂々と主張しても誰も聞いてくれない・自分の信用が落ちる一方でメデイアでの出番が減ったことを批判するのは憲法や人権論の枠外のこと・・行き過ぎではないでしょうか?
上記NGO代表弁護士は「国連報告書を良い結果と賞賛し」ていたのではなく大変なことだと国民に警世するだけであって、日本や民族を性道徳のない国と貶める目的はなかったという立場でしょうが、イメージ的には誘致活動の成果・勝利宣言的に受け止めた人が多いのではないでしょうか。

表現の自由(自己実現・自己統治)とは1

民意による公権力=社会秩序と「距離を保つ」価値観であれば、いわゆる吉田調書のような「反日フィクション創造」に喜びを見い出して大喜びで大々的報道したい人が多いのもわかります。
メデイア界でこのような主張を英雄視する風潮・空気を読んで「公権力とは距離を保つ」と言えば格好いいとして、発言したのでしょうか?
「公権力とは距離を保つ」というのですが、全ての権力と距離を保つのではなく「公権力とは」と限定して距離を保つとしている意味が不気味です。
公に対する対語は私ですから「私権力」には「距離を保たない」と言う反語的意思表示でしょうか?
「公権力」とは、民意による正当性を付与された権力とすれば、「私権力」とは、民意による正当性を付与されていない・・・山賊やギャングが、民家に押し入って事実支配している状態・・マフィア的アウトロー権力を言うのでしょうか?
中国の共産党政権は民意による洗礼を受けていない・山賊(共産党私兵・人民軍は国家の兵ではなく共産党の私兵です)が国家を乗っ取った状態と言われていますが、「民意による「日本の政府・公権力とは距離を保つ」が、中国共産党政権には近づきたいと言う意味を含むのでしょうか?
7月9日に
「日本をより良くしたいと思うならば、国内の言論市場で先ずは勝負すべきです。」
と書き、その後カンヌ映画際に話題がそれましたが、元に戻ります。
私はいわゆる宮沢憲法で勉強した世代ですが、蒙昧な私は、自分に都合の良いように
「言論の自由、思想表現の自由が結果的に「その」社会発展に貢献するから重要」
という意味で理解してきましたが、最近そういう意見が(なくなった訳ではなさそうですが)背景に退いているようです。
旧ソ連に限らず中国その他の(人権無視の)独裁社会では、自由主義社会に遅れてしまうはず・・とメデイアでも一般的に言われている大方の刷り込みは、上記理解のもとで語られてきたと思います。
今朝の日経朝刊24pにもフランスの元文化相ラング氏との対談記事で、文化を大事にすると結果的にその国社会の発展に資するという添え言葉がありました。
「文化に投資するのは窓から金を投げ捨てるのではありません。それは大変に還元性の高い「投資」であり、世界にはすでに多くの実証例があります。」
と書いています。
文化に力を入れているフランスの元文化相らしい意見です。
我々個人も同じで、18年7月7日に上野東博の縄文展を見てきて感動し(後期も見に行く予定)ましたが、何千年も前の古代に高度・・・現代的に見て最先端センスでしかも精巧な器や櫛、土器等々がすでに製作されていたのを見ると「日本人は古代から手の込んだ「ものづくり」の好きな民族なのだなあ」と感動せずにいられませんでしたが、その背景にあるのはわが列島人(今の民族)が、かくも素晴らしい「ものづくり」続けていたのか?という感動であり民族の誇りです。
我々一人一人が一人で育ったのではなく「海よりも深い山よりも高いちちははの恩」というと古臭すぎるかもしれませんが、物心つく前から周囲の風のそよぎに始まって一言で言えば、民族の中で生きているのではないでしょうか?
芸術こそ他者無視でも「自己実現」に最適の分野ですが、それだけでは庶民に訴えるものがないからでしょうが、フランス文化相が「社会のために良いのだと付け足す」必要を感じたのでしょう。
いろんな基本的人権の中でも表現の自由は、とりわけ「受け手」があるものですから、聞いたら意見相違・・不満な不愉快になる人の存在が避けられません。
これに対して「言いたいことを言うのは勝手でしょう」と言うだけでは現実社会の支持を受けられないからではないでしょうか?
言いたいこというのは必要だがそれは「時と場所を選らんで言うものだ」という程度は子供だって知っています。
ところがいつの間にか?学問の世界では、表現の自由は「自己実現」のためにあるという意味が中心化して、ひいては国家社会の発展に資するという意味合いは否定されないようですが、副次効果的扱いに変わっているようです・・。
この扱いは昔から同じだったのにレベルの低い私は副次効果ばかりに印象が強く残っていたのかも知れません。
現在の主流的学説・・表現の自由で検索すると以下の通りで、社会のためになるのは二の次で、先ずは個人人格の発展に資するという主張が前面に出ています。
http://kenpou-jp.norio-de.com/hyogen/

ひとつは自己実現の価値。
自己実現の価値とは、
表現活動を通じて個人の人格を発展させるという個人的な価値といわれていますが、人間的成長のために表現活動が大事であるという価値観であるといえます。
もうひとつは自己統治の価値。
表現活動によって国民が政治的意思決定に関与するという民主主義と密接不可分な、社会的な価値をいいます。
このような価値を支えるためには、
「思想・言論の自由市場」の形成が不可欠であるといわれています。

ネットに出ている憲法の解説では、表現の自由は個人の幸福追求權の一種?誰でもいいたいことを言えるのが(ストレスがなく?・・兼好法師流に言えば言いたいことも言えないのでは「腹ふくるるわざ」)であり、「自己統治」に必要で人間として生きていくための基本的権利であり、最重要だと言うようになっているようです。
政治参加権のことを「社会の一員として当然発言権がある」という私流の粗雑な理解?いわば社会参加論ではなく、「自己統治」と言うようです。
ちらっと説明を読むと、「政治参加するには、多様な情報を知る必要がある・だから表現の自由が必要」というような説明ですが、その程度の説明をするのに難解な「自己統治」というのか不明です。
要は、「表現の自由は社会発展に資する」とは言いたくない・・「何事も個人のためにある」という強調のために言い出してこれが格好いいということで定着してきたようです。
そう言いながらも社会のためになると憲法の解説者はつい口を滑らせるようです。
https://blog.goo.ne.jp/kodomogenki/e/7ddf217e3a7af1c482364e1eb34d335d

「自己統治ですが、これは、私たちの社会の大切な仕組みである、民主主義を支えるとても大切な価値です。
自己実現でも述べましたが、ひとりひとりが、社会に起きている事柄について、情報を集め、分析することで、社会がどうあるべきかについての意見を自己決定することができます。
政治家を選び、その政治家が、私たちの未来の社会を決めるのですから、その判断材料となる情報は、とても大切であることが分かりますよね。
表現の自由の中でも、この政治にかかわる情報は、一番手厚い保護を与えて行かねばならないと考えられています。」

「自己統治」とは、国家・民族のためになるからではなく、政治参加する個人の「権利」を尊重しようという側面強調のために考え出された・・いかに共同体利益を消し去るかの工夫のためにできた概念のようです。
何が何でも共同体・社会と個人は対立するべきものだという戦後の風潮がここに現れています。

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