憲法(皇室典範)改正は投票になじまない1

わが国は、イスラム国ではありませんが、皇室典範や、天皇尊崇の精神・・ボトムアップ型衆議形成の仕組みそのものは、実質的意味での「憲法の中の憲法」と考えている人(素人)が圧倒的多数ではないでしょうか?
皇室典範については、国民がうっかり声を上げられないほど・・・皇室関係については、どのような過激な主義主張の(反日?)グループでさえ、沈黙を守るしかないほど・・・日本民族の根幹をなしている枢要なルールです。
沈黙を守るのは自由な発言が許されず権力者が勝手に決められるという意味ではなく、この問題については「古来からの神威(民族総意)によって決めて行くべき」という国民意思が強固にあるからでしょう。
イスラムの戒律のようなはっきりしたものがないというだけであって、天皇の尊厳を犯すことは日本民族として許されないという根本は、古代中世近世〜現代を通じて変わっていません。
これがあるから信長も手を出せなかったし、臣下たる幕府が上位にある朝廷に対して「禁中並公家諸法度」を強制したことがショックでしたが、内容を見ると当時の常識的範囲を超えていないルールを作ってお茶を濁しただけでした。
日本の天皇制の場合、上記のようにもともと柔軟な制度ですが、(それだからこそ連綿と続いてきたのです)譲れない基本があることは確かです。
これを明治政府が欧米に倣って成文化した結果、かえって硬直化するリスクを負ったことになります。
宗教意識に関して日本人は外見上こだわらないので、無神論のようですが、逆にものすごい「日本教」信仰の塊ですが、欧米やイスラムのような一神教的排他的戒律がないので外見上分かりにくいのでしょう。
このように考えると今回(数年前)の天皇陛下の生前退位の表明・変更それ自体重要な実質的意味の憲法改正ですし、それだからこそ国民の関心が高いし政府も流石の(反日)?メデイアも腫れものに触るように大事に扱っています。
(この辺の原稿は天皇陛下の退位希望の間接表明時の頃に書いたものです。
「高齢化に伴い身を引きたい」というのは、個人の自由・権利のように見えますが、公人の場合、(4〜5日前のドイツのメルケル首相の与党党首退任表明が世界政治の大テーマになっているように)後水尾天皇の退位事件の例を書いてきましたが、歴史上大きな政治問題になってきた歴史があることと、今の天皇に政治上の権限がないとはいえ退位するかどうかは国民大関心事である点は変わっていません。
不敬罪があろうとなかろうと、天皇を貶める行為があれば国民挙げて激昂する現状は今も同じです。
韓国李明博大統領(当時)が、「天皇を後ろ手に縛って謝罪させる」と発言した報道が日韓関係を根本的に悪化させたことが記憶に新しいところです。
これを韓国民が主張しているというだけでも大変なことなのに現職大統領発言となれば、「許しがたい」と思った国民が多く、この傷は10年や20年では多分修復不能でしょう。
この辺の機微が理解できないのか、逆に理解しているからこそ、日本の反韓感情を煽ろうとするのか政治意図不明ですが、靖国神社周辺で天皇の顔写真に竹槍を突き刺してデモしている写真を(もちろん韓国人とは断定できません)随分見た記憶ですが、今になると検索しても探せません。
残っていて出てくるデモ行進巨大看板?は昭和天皇陛下の顔写真らしきものの顔部分の下の胴体部分を骸骨の絵にして貼り付けた人形のベニヤ板らしきものを掲げる写真や平成天皇の写真拡大判を額装らしくして、それに黒い喪章のリボンで斜めにかけた生前の大喪の礼をイメージ看板だけです。
ただ彼らの主張の中心は、「日本人大嫌い」という表現中心のように見えます。
http://dametv2.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-bf28.htmlによると韓国人の対日感情は以下の通りです。

2015年5月17日 (日)
「佳子様を慰安婦に」と書く韓国メディア
韓国「デイリージャーナル誌」でチョン・ジェハク編集委員 というヤツ(莞島(ワンド)女子中学校国語教師)が、
日本王室の佳子王女を慰安婦に送るほかはない」「日本滅亡は天罰だ」という記事を書いたそうです。
3年前にイ・ミョンバクの発言以来の衝撃
・・・日本が滅ぶべき理由は枚挙に暇がないが、その最たる理由は国民性にある。
非道であり、人類愛に基づく考えはなく、自国のことのみを考える。
侵略戦争への謝罪と反省もない国だからである。
・・・「日本滅亡は天罰だ」と述べてきた。これまでも天罰と理解する他ない数多くの大地震があった。それらの天災は、日本人が倫理にもとる非人道的な動きをした(恐らく韓国に批判的になった)際に警告として発生している点を指摘したい。
・・・従軍慰安婦という人類史上、例を見ない非道を犯した日本は、「戦時売春婦」と述べるようになった。これは安倍首相のみの主張ではなく、日本人すべての総意を理解するよりない。過去の歴史に対する反省を充分に行った、ゆえにこれ以上の謝罪は必要ないと考える日本人が過半数を超えているためだ。よって、大地震による天罰は、日本人全体にふりかかるだろう。
日本人はクジラを食べる。世界の多くが反対する中、海洋研究などと主張している。まるで「従軍慰安婦」を「戦時売春婦」と主張するかのように。もしチャンスがあれば、ご皇室の佳子内親王を慰安婦に送るよりない。
日本列島全体を沈没させる震度10の地震が必要だ。是非、最初から日本列島をひっくり返してもらいたいものだ。
・・・日本は2020年、東京オリンピックを準備している。しかしその頃には日本は地球上から消えているのだ。日本人を同情する必要はない。

東日本大地震の時には、韓国が小躍りして喜んでいた状況が(イメージ的に)伝わっていましたが、韓国側ではこんな風潮が横行?存在している現状です。
ただし、日本でもネットの場合には、個人的に過激主張するものもありますので、デイリージャーナル誌とは実在するのかどの程度のメデイアかにもよりますが、メデイアというからには、個人誌ではないでしょう。
ネット検索してみると地方紙と言うので、大手ではないものの個人や特定狂信的集団内で配布している独りよがり的機関紙ではなく、一般向けに発行している・・一応メデイアという分類に入るのでしょう。
そこの投稿欄に個人の投稿が採用されたのではなく、編集委員という肩書きでの論説とすれば、その地方紙の傾向・・読者層の気持ちの想定がつくものです。
数年経ってしまい、どのような手順で退位手続きを決めていったか忘れかけていますが、当時大学教授を座長にして有識者会議で議論を練り上げながら、小出しにニュース化して国民に浸透させてから皇室会議を開いて段取りが決まったような記憶です。
最終決定の皇室会議?ここでの成案が皇室典範の改正案になる・・も与野党対決ではなく、歴代総理、衆参議長などで構成される会議だったように記憶します。
順を追った用意周到な感じで、皇室典範の改正=恒久制度化するか今回限りの特例にするかなど結論にも国民大方の納得を得たような落ち着きだった記憶です。
こういうことを与野党対決の投票で決めるのは無理があります。
ということは、そもそも成文化したこと自体が間違いであったようにも思えます。
16年の報道からの引用です。
毎日新聞2016年10月7日 07時00分(最終更新 10月7日 07時00分)
最新の政治ニュース
政府の事前の調整では、有識者会議に対し、生前退位についての議論はすぐには求めず、天皇の公務負担を軽減するには具体的にどのような方法があるかや、皇室典範にある摂政などの制度の問題点について全般的に議論するよう求める方針だ。ヒアリングのために招く専門家は、憲法や歴史などの学者を優先させる。
議論が一定程度進んだ段階で、現行制度での対応の是非、第三者による強制退位を防ぐ仕組み作り、天皇の退位後の地位などについて、論点を整理して示す。論点公表後には、退位後の陛下の呼称や住居をどうするかなど、退位を実現するにあたって必要となる具体的な制度の議論に入りたい考えだ。

 

憲法とは?(近代立憲主義の限界1)

いわゆる「近代立憲主義」を主張する勢力にとっては、皇室典範は(天皇家の「私事」に矮小化して理解するために)実質的意味の憲法に入らないようにしたいかのように見えます。
法理論的には以下のような構成になります。
簡単に言うといわゆる近代立憲主義運動家の論理です。
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100503/p1によると以下の通りです。2010-05-03(内容レベルから見て専門家の意見のようです)

憲法の機能をめぐる認識のズレ
左派的な立場から憲法が論じられるのを見聞きすると、「そもそも憲法とは国家権力を縛るためのものにある」といった趣旨にしばしば出くわします。
もう少し学識の豊かな方だと、「公権力に一定の制約を加えることこそが近代的な意味での憲法の本義である」などといった形に、憲法の意味を歴史的に限定した上で話されます。これらはごく自然な理解であり、決して間違っているわけではありません。

上記によれば、皇室典範は権力抑制のための制度ではないので、そもそも憲法に入らないことになります。
これによればいわゆる「浮利を追わず」などのいろんな家訓は対象外でしょうし、イスラム諸国でのイスラム原理の多くも意味のないことになるのでしょう。
しかし、「憲法は権力抑止のためにある・・それ以外は憲法でない」とする解釈も、一つの学説にすぎません。
この種の進んだ?学者(信奉者)の多くが、他の意見を認めない傾向が強いのが難点です。
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100503/p1の続きです。

・・そういった立場は、あくまでも特定の意味において「憲法」なる語を解した場合における正統な理解であって、憲法の意味や理解がこの立場に限定されるわけでは、本来ありません。
芦部信喜『憲法』(第4版、高橋和之補訂、岩波書店、2007年)の冒頭では、憲法の意味が大きく2つに分けられています。大略は次の通りです。

(1)形式的意味の憲法…「憲法」という名で呼ばれる成文の法典(憲法典)。「日本国憲法」がこれにあたる。英国のような不文憲法の国には無い。
(2)実質的意味の憲法…成文・不文にかかわらず、ある特定の内容によって国家の基礎を定める法。
(2)の実質的意味の憲法に含まれる法文は、憲法典だけには限られません。例えば皇室典範や国会法、教育基本法などのように、果たしている役割によって「国家の基礎」を規定していると解釈されるものは(2)の意味で「憲法」と見做し得るのです。
(2)実質的意味の憲法
①固有の意味の憲法…時代・地域にかかわりなく普遍的に存在するような、政治権力の組織や行使の仕方を規律することによって、国家の統治の基本を定めた法。――(b)
②近代的意味の憲法…専制的な権力を制限して広く国民の権利を保障しようとする自由主義≒立憲主義の思想に基づき、政治権力の組織化そのものよりも権力の制限と人権の保障を重視する。――(c)
既におわかりでしょうが、先に挙げた立場において語られている「憲法」とは、②の意味を指しています。
この意味の憲法が成立するのは一般的に「マグナ・カルタ」からであるとされており、憲法学が形成されていくのもそれ以降です。
①には例えば、「十七条の憲法」などが含まれます。憲法学の対象が主として②であり、憲法学の議論で「十七条の憲法」が普通扱われないのは、憲法学の成り立ちそのものを支えたのが②の意味の憲法とともに発展してきた自由主義≒立憲主義の考え方だからです。

樋口氏や長谷部氏などがこの分類を知らないわけではありません。
天皇機関説に反対した狂信的グループを紹介しましたが、現在でも何かというと訴訟を起こし、自己の主張が通らないと「不当判決」といい、自己の表現の自由にはうるさい敵対者の批判には訴訟を仕掛ける傾向(具体的内容不明ですのですが、相手が権力や大手ならばいいということで訴訟を連発する傾向がある点は間違いないでしょう)が多いことから見て、「近代立憲主義」論者は偏狭な人の集まりでしょうか。
もともと極右も極左もたまたま時代風潮に合わせて、狂信的になる点で思考回路は同じと一般に言われますが・・・。
以下によると、いろんな意見がありうるという学問の基本・・「この点に思いが至らないようです」と書いていますが、これが問題の本質でしょう。
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20100503/p1の続きです。

・・・しかし、彼らの著書を読んでとにかく「憲法=国家権力を制約するもの」と覚えた人の中には、「憲法」という語の多義性を意識しない人も多そうです。
もちろん、日本国憲法のみならず大日本帝国憲法も②に含まれますが、それはこれらの法典が基本的に②としての機能を果たしているからそう解されているだけであって、別に①と解そうとすることが不可能なわけではありません。つまり、今の憲法は社会的な「事実」として②ですが、それを①の方へと変えていくべきだという「主張」そのものは有り得るわけです。
こうした主張をしていると思われる論者は少なくありません。「憲法」なる語をこのような意味で使うとか、こういう理解で使うべき、などと明示的に述べている人はあまりいませんが、例えば近代主義への反発を軸に議論を構成している西部邁氏などは、明らかに「憲法」という語を非近代的な意味で使っていると思います(私は西部氏の良い読者ではありませんが、数年前に大学院の授業で『ナショナリズムの仁・義』(PHP研究所、2000年)を読んだときにこのことを思いました)。
自由主義≒立憲主義的な意味に限定して「憲法」を考えている人々は、なかなかこの点に思いが至らないようです。憲法に「国民の義務」をもっと盛り込もう、などといった動きとの(「論争」ではなく)「すれ違い」は、ここから生じている部分が大きいと思います。
左派的な立場の人々は、「憲法とはそもそも国家を縛るためのものだから」、そういった主張はそもそも憲法とは何かを理解していない、と考えてしまいがちです。
けれども、そこで異なる立場を採る側は憲法の意味を理解していないのではなく、実はそもそも別の意味で「憲法」なる語を使用しているのだとしたらどうでしょう。
そもそも憲法学の対象が(c)であるからといって、一つの法典(a)としての日本国憲法の条文についての論争が(c)の意味の憲法理解に縛られる必然性はありません。
逆に言えば、(c)の意味の「憲法」を問題にしたいのであれば、必ずしも(a)の意味の「憲法」に拘泥する理由は無いわけです。憲法典以外の法規・方針やそれらについての解釈、及びその他の政治慣行を含む全体としての“constitution”を重視すべきではないか、といった議論は杉田敦先生が提示しているところです(『政治への想像力』(岩波書店、2009年)などの他に、長谷部氏との対談『これが憲法だ!』(朝日新書、2006年)も政治学者による憲法への独特なアプローチが刺激的です)。
相手は憲法の意味も理解していないと考えてしまうと、一方が「馬鹿」だから問題外という話になって生産的な議論には発展しようがありません。
それゆえ、憲法についての有意義な論争を望むのであれば、どちらかが「事実」を理解していない「馬鹿」なのではなくて、日本国憲法が果たすべき主たる機能についての異なる「主張」が対立していると考えるべきでしょう。そろそろ、憲法論争が「ネクスト・ステージ」に進むことを期待したいものです。

天皇制変遷の歴史3(連署1)

裁判(裁定)に勝てば、相手が引き渡さなくとも武士は実力で取り返せるので(取られる一方の弱い武士は淘汰されていく・戦国時代に入っていく所以です・・)それでもいいのですが、公卿は実力装置を武士に頼っている状態で、荘園のアガリの分配を武士と争うとなれば、実力行使できないので勝ち目がありません。
徐々に荘園からの上がりが減っていき最後は盆暮れの付け届けくらいになっていく・・藤原氏を頂点とする公卿・朝廷は干上がっていきます。
室町初期の直義の頃の状況を見るとこういう荘園の収入の分配(平安時代初期には荘園成立過程での初期競争では、藤原氏が貴族(古代豪族)間で圧倒的地歩を固めましたが、それが天皇家自体の参入によって八条院領に蚕食され、鎌倉期になるともとからの荘園領主同士の争いよりは内部に地盤を築いて来た武士層に内部蚕食されて行く(合理的交渉で言えば、管理費の値上げ?要求すべきところを集金した管理費を実力で払わないとなれば横領?)時代に入り、公卿や八条院系)と現場管理者の武士層との紛争が多発する時代に入っていたのです。
鎌倉以降武家の時代になってだいぶ経つのに、観応の擾乱を見るとなお貴族や朝廷の荘園収入があったことが逆にわかりますが、応仁の乱を経て戦国時代に入ると中央の訴訟機関自体が機能しなくなっているので、収入ゼロに追い込まれていたであろうことは容易に想像がつきます。
10月26日に天皇家の収入減少を書きましたの一部繰り返しになりますが、さらに詳しく書きますと、公卿の中には大内氏などに縁を頼って地方に落ち延びていくか?文化を売る・天皇家は落ち延びられないので、天皇御真筆でお礼を貰うなどで食いつなぐ中で、地方有力武将への叙任や、大寺の実力者に僧正などの称号を付与するのは貴重な収入源だったし、ひいては乱発気味になっていました。
これが目に余って来たので、紫衣事件になったのですが、その背景には絶対的な収入減があったことがわかります。https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%B4%AB%E8%A1%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6&action=edit&section=1

紫衣と事件に至る事情
紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
これに対し、慶長18年(1613年)、江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

幕府権力確立によって、旧来同様にすべて幕府を通すべきとなると朝廷の収入源がなくなります。
これを禁止しっぱなしでは朝廷関係者が生きていけませんので、家康が1万石、次に秀忠が皇女誕生を祝って1万石、綱吉が1万石、慶喜が15万石寄進しています。
現憲法下でも天皇家の生活保障のために26日紹介したように「内廷費」が予算計上されているのと同様です。
生活補償するので生活費稼ぎのために「ハシタないことをやめてください」朝廷の権威が下がってしまうことを恐れた意味でもあったでしょう。
話題が逸れましたが、朝廷の文化活動に戻りますと、昭和天皇の活動も「雑草』研究などに限定されていますが、敗戦でそうなったのではなく、家康以前から「文化を売り物にするしかなかった」そういう仕組みになっていたのです。
家康に言われて初めてそうなったのではなく、当時すでに「朝廷や公卿が政治に口を出すべきではない」という価値観が一般化していたからでしょう。
明治維新でなぜ王政復古になったのかですが、薩長が幕府追及・倒幕の言いがかりに「尊王攘夷」を主張しただけのように思えます。
倒幕運動の大義名分が王政復古だったので、倒幕成功・維新後は表向き天皇親政形式・・政体書体制・二官八省体制を作ります。
(これも6省から8省へ変遷がありますが、重要なことは太政官と神祇官をトプ2としたことです)
しかし、もともと公卿・朝廷には鎌倉幕府以来実務経験も能力もないので、実務をやれるわけがありません。
薩長政府は当初二官八省体制を作りますが、神祇官などが政治をやれるわけがなく、目まぐるしく統治体制変更を繰り返し、最終的には、内閣制度を創設して行きます。
結局は実務政府とお飾りの天皇家・公卿を切り離す方向だったのです。
明治初期の政府組織については、2005年07/21「政体書と中央組織」前後で連載しました。
ちなみに内閣制度は明治憲法によってできたのではなく、その前の明治18年に創設されて伊藤博文が初代総理に選任されています。
明治憲法は22年ですから、約4年間先行して実績を積んでいた内閣制度を憲法に取り込んでいったことになります。
言わば幕府の実務機関である「幕閣」を内閣(幕閣の閣「老」を「大臣」と王朝風に)と変えた上で、朝廷と場所的に合体したようなものでした。
武家が朝廷の影響を避けるために鎌倉に政府を開いた時には幕府が何かするには幕府が京へ使者を立てる必要があったのに対して、徳川体制では十分強くなっていたので・・朝廷が何かしようとすると幕府の同意・許可を取る必要があった・・幕府が京へ参内するのでなく朝廷の方が江戸に下向する(これが忠臣蔵の背景です)必要のある社会体制でした。
薩長藩閥政府も今後の国策として開国しかないとすれば、新政府を京に置くわけにはいきません。
実務政府を江戸に置くしかないとなれば、王政復古を唱えた手前、全て天皇の名において発令するには日常的緊密な連携が必要です。
その都度・・京都まで行って参内する手間を省くために朝廷に江戸へ引っ越してもらった・・実務政府幕府→内閣が朝廷を内部に引きこんで、天皇の名において機動的に実務を行えるようにしたことになります。
ところで、明智光秀謀反の黒幕に絡んで
「信長が(恐れ多くも?)安土城内に朝廷・ 御座所を取りこむ構想を持っていた」ことが前の関白を中心にしてクーデターの陰謀が成立したなどという着想が時々小説などに出てきますが、このような視点でこれを眺めると、幕末小御所会議のクーデター以降、事実上天皇・錦旗を擁した薩長勢力が、天皇の神輿を担いで(安土城への移転に代わって)そのまま江戸に移動した格好です。
10月26日に憲法を紹介して少し書いた天皇権力の本質を示す連署に戻りますと、我が国では古くから重要文書には連署する習わしがあります。
王朝時代にどうであったかの記録は今のところ私には分かりません。
連署制は北条泰時が始めたと言われますが、少なくとも江戸時代には幕府正式文書には老中が連署する習慣になっていたようです。
三田市の資料では以下の通りです
http://www.city.sanda.lg.jp/gakushuu/sisi/documents/siryo2.pdf

「三田市史」の史料 その2
『三田市史』第4巻近世資料(166頁63号)
江戸幕府老中連署奉書
(年未詳)三田市所蔵九鬼文書
御状令披見候、公方様益御機嫌能被成御座恐悦旨得其意候、将又今度首尾好御暇日光山御宮御堂参詣有之而去五日在所到着難有被存之由
尤之事候、依之為御礼被差越使者御肴一種進上之候、
右之趣遂披露候処一段之仕合候、
恐々謹言
板倉内膳正重矩(花押)
六月十九日
土屋但馬守数直(花押)
久世大和守広之(花押)
稲葉美濃守正則(花押)
(隆昌)
九鬼長門守殿

幕府老中は月番制度と言われていますが、重要事項に関しては臨時に合議していた他に公文書発給には連署していたようです。
この習慣が各大名家に広まったからか、家老会議に加わるものの中で連署資格のあるものを加判の列に加わると表現されるようになります。
明治憲法下での国会召集詔書の写しは国立公文書館史料に出ています。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000014526には明治23年10月9日付け帝国議会招集の詔勅の写しが出ていますが、これには明治天皇の「睦仁」の署名の他に次ページに山縣有朋以下の閣僚の署名があります。
※ 1年ほど前に、この原稿を書いた控えには、その写しが残っているのですが、今年8月頃にサーバーの不具合で過去の事前掲載用送信分が皆消えてしまったので、今コラムに再アップしようとすると何故かコピペできませんので、関心のある方は国立公文書館に入って確認してください。

天皇制変遷の歴史2(朝廷財源消滅1)

古代から朝廷=国家(個人事業創業時同様に財政と内廷費の分離がはっきりしないのが原則)ですから、天皇家=朝廷は納税する側にとってはいかにして国税納付をまぬがれるかに知恵を絞る対象であり、朝廷は恩賞を気前よく配る立場でした。
今でも納税者は法人税の減税をはじめとしていろんな分野で如何にしても減税を勝ち取るか、一方で如何にして補助金を多く勝ち取るかが、政治の大きなテーマです。
今から始まっていますが、消費増税をするとなれば自己業界を例外扱いしてもらうために、各業界はしのぎを削るのが普通です。
親子でいえば年金収入しかなくなっても親はいつまでたっても里帰りした子供らに手土産を持たせるかに気を配り子供世代はなにかもらって帰る習慣が抜けないのと同じです。
荘園の発達によって国庫収入・・収入源が細る一方→皆無になっていたのが安土桃山時代でした。
税を取れなくなって、恨まれないかもしれませんが、税のさじ加減の権限・影響力がなくなるしだけではなく、古代も今も経済影響力と権力は比例しますので、天皇権力に経済裏付けがなくなった上に、官僚やその他貴族にとっては事実上の決定権を持つ人に恩を感じても名目上の叙任権者である天皇に何の感謝もありません。
ついでに天皇・朝廷の権限縮小過程・・収入減少を見ていくと、荘園の発達に比例して国衙収入が減っていくので、藤原家の勢威が「望月の欠けたることのなき」栄華を誇る絶頂期になると、天皇家側で自前の資金源を持つ必要に迫られて「毒を以て毒を制する」挙に出たのが院政の始まりだったように思われます。
朝廷自身が荘園を持つのは国家体制と矛盾するので、早くに退位して身軽になった上皇が、院の荘園保有・・経営に乗り出して藤原氏との荘園の系列化争いを演じ始めたことになります。
朝廷には公式の左右の大将や近衛兵など青侍?しかいませんが、院の経営する荘園には藤原氏の荘園同様の武士団が発生します。
この中央武士団が北面の武士ということでしょう。
ところで、荘園の中央系列化の始まりは、地元豪族(いわゆる郡司さん)のものですが、もともと国衙の徴税を免れる(ゼロにして納めないというのではなく徴税のさじ加減を緩くしてもらうため)には中央権門に名目上寄進して交渉を有利に進める(今で言えば政治家に口利きしてもらう?)ために始まったものでしたから、さじ加減の権力の強い方に集中するのは当然の結果です。
このコラムで何回も紹介している千葉氏は元々平家でしたが、伊勢神宮の荘園である相馬御厨の管理権・今で言えば不動産会社がマンション管理する権利に似ています・・あるいはヤクザのショバ争いで、平家に頼んでいたが有利な結果にならず恨んでいたそこへ新興の源氏が食いついて世話になったので源氏に恩を感じるようになっていたという構図です。
老舗は客が多すぎて(双方に義理があって)どっちつかずになって、新興の勢力に負けて行くのは現在の世界の勢力争いでも同じです。
今のアメリカが、中東であちらてればこちら立たずで、一方的な応援できない・どうして良いかわからなくなっていたのと同じです。
古代豪族(のちの公卿)間の荘園系列化で、藤原氏の一人勝ち的(比叡山や興福寺その他寺社勢力も残っています)状態になっていた平安末期に院の庁が荘園経営に手を出すようになると、地方豪族は藤原氏に着くのが良いか院(上皇)に頼む方が良いか(荘園名義をどちらにするか)の選択が始まります。
院の方は新興勢力ですから、対立当事者に何の義理もない・・きた方に味方すれば良いだけである上に朝廷の実力者ですから、この争いに負け始めて藤原氏の影響力が足元から崩れ始め、この経済戦争の表面化が、保元平治の乱であったことになります。
もちろんこのような意見は、素人の私の妄想です。
この最盛期が八条院領を始めとして後白河周辺で荘園取り込みが活発化したことを17年12月31日の大晦日にちょこっと紹介しました。
この時点では、八条院庄園が、藤原氏の荘園経営を凌駕していたようですし、建武の中興後の観応の擾乱のテーマが、八条院領などの荘園経営者と武士層との年貢の取り合いであったことを見ると、鎌倉幕府成立後も八条院東野平安貴族層の荘園経営が続いていたことがわかります。
幕府成立〜武士の時代がきてどうなったかですが、有職故実の研究で知られている順徳帝の履歴を見ると、後鳥羽天皇(後の後鳥羽上皇)の寵愛を受けていた彼は、即位前から経済的バックを固めるために巨大な八条院領の相続人になっていることが出てきます。
天皇家の経済基盤が重視されていたことが分かります。
一般的歴史書では、藤原氏が代々天皇の外戚であったのに、保元平治の乱は藤原氏の娘の産まない皇子が天皇になったのでこういう乱が起きたかのような人脈だけを中心に説明されますが、(外戚支配の危機は何回もあったのですが、その都度藤原氏(長屋の王の事件や弓削道鏡事件が有名ですが、その他にも藤原氏の危機はいろいろありました)がその都度乗り切ってきたのですが、この時に限って危機を乗り切るに足る人材がいなかったということでしょう)そういう背景で天皇家は経済独立のために経済基盤の確立を図る動きが出てきてこれに藤原氏が対抗できなかったということです。
光明皇后が勢威を振るえたのは、紫微中台という役所を作って国家財政の過半を握っていたからという記述をどこかで、読んだ記憶がありますが、政治権力掌握・維持には、人脈も重要ですが経済基盤が絶対的に必要でしょう。
歴史年表的には、鎌倉時代に起きた承久の乱を習うと、源平時代がとっくの昔で、武士の時代になってからのこと思いますが、尼将軍政子の演説が有名なことからしても、その頃はまだ後白河時代の人脈や遺産につながっているのです。
その頃にもまだ後白河の頃に肥大した八条院の荘園がそのまま?残っていて大きな役割を果たしていたことがわかります。
鎌倉時代に問注所・訴訟部門・が発達していたことが知られますが、(室町幕府の所務沙汰)は そこの大きなテーマは所領(結局は武士の管理権?)争いや年貢の横領(管理人とオーナーとの分配)事件だったのでしょう。
大晦日にちょっと紹介した院近臣による荘園設定の場合、(国衙との共同経営的荘園が多かったので)国衙役人が荘園内の年貢徴収を荘園に委ねて一定率を、荘園が国衙におさめる方法でしたが、(このため荘園設定には国衙の同意書添付で中央に申請する仕組み・・・院近臣が各地国司になるとどんどん八条院の荘園が増加していった仕組みでした。
武士はこの荘園経営の現場部門が肥大化して独自性が出てきたものですから、貴族と国衙の年貢取り合いだった平安時代から、鎌倉時代に入ると朝廷の取り分がほぼ消滅していて、武士と公卿の取り合い・都の貴族や寺社にまともに上がりを納めない・収める量が少なすぎるなどの争いに変わっていったのです。
学校教育では合戦を歴史のエポックとして取り上げるので、合戦の結果幕府権力が出来上がったように見えますが、実は荘園経営の実利争いになると朝廷で議論してもラチがあかない・今でいうと「ヤクザ相手にするにはその道の格上・武家の棟梁相手に話をつける方が早い」となるのと同じです。
ヤクザの下っ端にとっては警察も怖いですが、その程度なら「月夜ばかりと思うなよ!」という捨て台詞が効きますが、兄貴分に「あいつには俺がギリがあるので手を出すなよ!」と言われる方が効き目があります。
荘園の用心棒である武士団が横領を始めると、貴族社会で「困ったものだ」と嘆いていてもラチがあかない・武士団の棟梁にけじめをつけさせるのが合理的です。
ヤクザの親分や幹部が内部けじめをつけられてこそ、幹部の地位を維持できて稼ぎの元にもなる訳ですが、武家の棟梁の始まりもこれの原始版でしょう。
千葉氏はもともと平氏一門でしたが、伊勢神宮所領の相馬御厨の管理権をめぐる争いで平家が力添えしてくれなかったので、折から利根川沿いに進出してきた後発の源氏の応援を頼んだことが、石橋山の旗揚げで敗れて安房(房総半島)に落ち延びてきた頼朝の応援につながったことを2004年に 09/19/04「源平争乱の意義4(貴種と立憲君主政治3)」」で千葉氏が源氏に乗り換えた経緯を書きましたが要は管理権・用心棒のシマ争いです。
後醍醐天皇の建武の新政がつまづいたのも、この裁定実務能力がなかったからです。
政治家に必要なのは利害調整能力ですが、革新系は理念先行実務能力に欠けているのが一般的です。

皇室典範は憲法か?4(天皇制変遷の歴史1)

18年1月7日まで書いていた元のテーマに戻ります。
現憲法制定によって、日本の「国体」が変わったのでしょうか?
GHQ背後の米国自身、天皇制の廃止または民意による存続を決めていたことを1月6日に紹介しました。
またマッカーサーは信長や家康同様に国民鎮撫するために天皇の威信を利用する統治方針であったことを18年1月10日のコラムでマッカーサーからアイゼンハワー宛書簡で紹介しました。
国体とは何か?私自身良くわかっていませんが、ここでは明治憲法下で実質的憲法であった皇室典範が、実質的憲法から外れたか否かがテーマですから、敗戦〜新憲法制定でどの程度天皇制の実質・天皇に対する国民意識が変わったのかがテーマになります。
天皇制について大雑把な歴史を素描すると、蘇我氏の朝廷支配(専横)〜天智天皇〜天武持統両朝〜藤原氏の権力浸透〜摂関政治が始まるまでの天皇権力と摂関政治〜院政期〜鎌倉幕府成立後明治維新までの期間、明治維新後敗戦までの期間と戦後に分けてみますと、鎌倉幕府成立までは藤原氏との一種の連立政権ですが、鎌倉以降で見ると天皇家を中心とする朝廷が政治に関与できたのは、後醍醐帝の建武中興のほんのちょっとの例外しかありません。
しかもその政治は拙劣すぎてすぐ頓挫しています。
ただし、次の足利政権でも観応の擾乱になったように当時は平安貴族.寺社の保有する荘園経営権と新興武士団とのせめぎ合いの最中で(承久の乱で一定の決着がついたかのようですがその揺り戻しが建武の中興の動乱でしょう)この最終決着は応仁の乱を経た戦国大名に入れ替わるまで誰がやっても無理があったことが分かります
鎌倉以前の天皇の裁可といっても摂関政治等を追認していただけですし、鎌倉幕府成立後は直接の政治は、幕府に移り天皇の裁可すら不要(これが幕末「大政奉還」の前提です)になっていました。
朝廷にはせいぜい形式的な叙任(〇〇の守)称号を与える権限程度しか残っていませんでしたが、これさえも、義経が頼朝の許可なく判官に叙任されたことを咎められたことが有名なように、武家の場合幕府の推薦が必須でしたし、家康の禁中並公家諸法度(1615年)以降は、朝廷に残っていた公卿や僧侶に対する叙任権さえも(幕府の同意が必要)取り上げられました。
これに違反した大事件がいわゆる紫衣事件でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6からの禁中並公家諸法度の引用です。

法条 主な内容 原文・現代語訳[5]
第1条 天皇の主務 一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
(天子が修めるべきものの第一は学問である。[6]以下略。)

上記の通り、不學則不明古道(いにしへの道学ばざればすなわち明らかならず)と宣言し、王道を学ぶために「貞觀政要」寛平遺誡(有職故実)を学び、光孝天皇以来の和歌の道を例に挙げ、「雖爲綺語(綺語ナスといえども)、我國習俗也。不可棄置」と奨励しています。
この時から最低でも和歌を嗜む義務が生じ以下連綿として王朝時代から続く新年歌会合わせなどの(幕府公認)文化行事が続いてきたし、今でも「今年のお題」としてニュースになっている所以です。
それまでは武士が、将軍家の推薦なしに一本釣りで叙任されれば武家政権内の処罰・冷遇でしかなく、源判官九郎義経のように叙任の効果は残っていましたが、幕府によって叙任そのものを取り消されたのですから一大事件でした。
面目を失った後水尾天皇が、やってられないとばかりに、当てつけに退任してしまったのがせめてもの抵抗ですが、以後抵抗すらありません。
末期の病人が高熱さえ出せなくなったような状態で幕末を迎えたのです。
幕府は後水尾天皇の退位程度の抗議では驚きませんから、以来朝廷の権威がその程度に下がったまま幕末になりました。
蘇我氏以来天皇家の権威・実力が徐々に下がっていた実態相応だったのです。
ちなみに現憲法においても、総理大臣の任命は国会の指名により、その他国務大臣等の任命や国会の召集等は天皇の名において行いますが、憲法の明文で内閣の助言と承認(連署)がないと憲法上無効です。
憲法

三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
○2 天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
4 以下省略
第七十四条 法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。

これを「象徴天皇制、君臨すれども統治せず」と習うのですが、以下紹介する禁中並公家諸法度以降の天皇制とほぼおなじです
明治憲法はどうでしょうか?
大日本帝国憲法

第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス

天皇家の衰微に戻しますと、荘園の発達租税収入の空洞化・・国衙収入の途絶えた朝廷にとっては叙任料は貴重な収入源でしたので、幕府は勝手な叙任を禁止する代わりに朝廷に対して1万石を「寄進?」して経済保障しています。
一見すると「わずか1万石では、公称800万石といわれる徳川家から見れば、末端の家来(企業で言えば課長クラス?)みたいな扱い・朝廷が可哀想!という方向に目が行きますが、現在の天皇家の内廷費と比べて見ればどうでしょうか?
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/yosan.htmlによれば以下の通りです。

天皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもので,法律により定額が定められ,平成30年度は,3億2,400万円です。
内廷費として支出されたものは,御手元金となり,宮内庁の経理する公金ではありません(皇室経済法第4条,皇室経済法施行法第7条)。

わずか3億円あまりでは、ちょっとした大手企業のサラリーマン社長給与と同様ですから大変です。
皇后皇太子妃等の女性が毎日のように予定されている各種行事出席に必要な衣装代にも足りないので、皇后陛下美智子さまの場合には、ご実家の正田家の負担になっていると世上言われていますし、皇太子妃の場合には実家が高級官僚・サラリーマンですから、この実家の支えがないために大変な状態と言われています。
天皇家自体に収入源がなくなったことこそが、権力凋落の原因です。

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