慰安婦像訴訟(スラップ訴訟と法原理3)

カリフォルニア州といえば、グレンデール市の慰安婦像設置→日系人の起こした訴訟がスラップ訴訟として排斥されたことが知られていますが、公園への設置許可と報道されていますから、文字通り市の権限・・「所有者としての機能」・私有財産管理権限行使という位置付けでしょうか?
この機会にグレンデール市の慰安婦像設置可否の議論を見直してみると、本日現在のウイキペデイアの記事によると人口は約20万人弱ですから、日本的レベルの自治権があるとすれば夕方ちょっと集まって議論するボランテイアで行える政治規模を超えています。
ウイキペデイアによれば以下の通りです。

政治
グレンデールの市議会は5名の議員からなり、5名全員が得票数順に選出される。議員の任期は4年である。市長は5名の議員が持ち回りで務める[4]。なお、グレンデールはシティー・マネージャー制を採っているため、市の行政を執行し、責任を負うのは市議会から選出されたシティー・マネージャーであり、市長は市議員としての通常の業務のほかには、市議会の議長や各種の儀礼的な職務を遂行するにとどまる。

上記シティマネージャー制については、17年10月13日に紹介した、「弱市長制」のことのように見えます。
慰安婦像設置の決定をした同市の市議会・市民集会がどのように運営されたか、どういう経緯で決まったか私には明らかではありませんが、「所有者としての機能」程度の権限・・「公園敷地利用許可」・・のテーマがあった場合、私の自宅付近にある町内会管理の小公園にブランコを設置するかどうかの議論みたいなものでしょうから、町内会の会議にいちいち近所の人は集まりません。
サイレントマジョリティー・多くの市民にとって、慰安婦像設置の可否かどうかすら気がつかないし、あまり関心のない人は公園内に銅像を一つ置くかどうかについて設置反対論を言うために出かけないことが想像できます・・。
日本の場合、自分が出かけて行って口角泡を飛ばして自己主張しなくとも、任せた役員が無茶なことをするわけがないという信頼があるので行かないのですが、アメリカの場合は違うでしょうが・・。
慰安婦像設置許可取り消し?訴訟では、市議会議論の実際・けんけんがくがくの議論をしたか、しないかの証拠調べに踏み込んだ判決かどうかしりませんが、結果が早すぎたのでそのような実態審理にまで入らなかった印象です。
そもそも司法権は、議会審議経過に立ち入らないのが我が国でも原則です。
法律の勉強で習った事例をウィキペデアで調べてみると以下のとおりです。

苫米地事件(とまべちじけん)とは、衆議院の解散により衆議院議員の職を失った原告・苫米地義三(とまべちぎぞう)が、任期満了までの職の確認と歳費の支給を訴えて争った事件[最高裁判所昭和35年6月8日大法廷判決は、衆議院解散に高度の政治性を認め、違法の審査は裁判所の権限の外にあるとする「統治行為論」(多数意見はこの用語を用いていない)を採用して違法性の判断を回避、上告を棄却した。」

町内会の議題でも、自宅付近のポストやバス停の移動は気になりますが、出来上がっている公園敷地内にどのような銅像が立つかについてあまり関心がないのが普通でしょう。
近くの公園に銅像を立てる予定について、賛否を聞きたいというテーマで開催通知が回ってくれば、多くの人はいくら金がかるのかの関心があっても、(建造費を含めて寄付となれば)どういう種類の銅像を建てるかについてまでの関心はないように思われます・・やりかけの仕事・職場を早引きしてまで急いで帰って参加しかないでしょう。
仮に慰安婦像設置の可否と書いてあっても、ほとんどの市民は関心がないので党派的設置運動をしてきたループの動員力次第になります。
日系人がボヤーっとしていて一旦決まってから、驚いて反対運動しても後の祭りです。
それが市長の裁量で行ったのであれば行政訴訟の対象として実態審理に入れたのでしょうが、議会の論争へて(実際に反対論があったかまで知りませんが、とも角民主的決議があって決着がついたということで)設置を決めたということであれば、訴訟になじまない・スラップ訴訟認定という不名誉な形で入り口で負けてしまったようです。
グレンデール市の裁判結果を聞くと日本人としては残念ですが、敗因を読むとムベなるかなという気がしない訳ではありません。
https://synodos.jp/international/13150によると以下のようです。

「カリフォルニア州の反SLAPP法が適用されるには、二つの段階がある。まず第一に、SLAPP認定を求める被告の側が、「公の問題について政治参加や言論の自由を行使した結果」訴えられたのだ、と証明する必要がある。」
実際の裁判において、「この問題について政治参加や言論の自由を行使した結果」訴えられたと証明するには、訴えの対象となった行為――この場合はグレンデール市による「慰安婦」像の設置――が次の四つの要素の最低一つに当てはまることを示す必要がある。
1)立法・行政・司法もしくはその他の法に基づく公式な会合における、口頭もしくは文書による意見表明。
2)立法・行政・司法もしくはその他の法に基づく公式な会合で議論されている件についての、口頭もしくは文書による意見表明。
3)公共の問題について、公共の空間で行われた、口頭もしくは文書による意見表明。
4)その他、公共
被告グレンデール市は、像の設置は議会の内外で議論され、市議会という公式な立法の場で議決されたことであるから1から3の要件を満たし、また、像の設置そのものは口頭や文書ではないものの市による言論の自由に基づく行為であるから4の要件にも該当する、と主張した。
裁判では、これが採用されたということです。」

アメリカで訴訟するには、当然アメリカの判例動向や法令を知っている弁護士に頼んだはずですが、実質審理にさえ入れないで完敗したのは、アメリカの裁判に対する不信感ではなく「訴訟提起する方の訴訟準備が拙劣すぎないか?」という意味で不思議です。
苫米地事件の判例を上記紹介した通り、若干の違いがあっても日本でも基本的には同様で、議会決議内容を司法は憲法違反以外にチェックできないので、訴訟テーマは議決無効と認定されるほどの手続き違背があったかどうか「だけ」ですから・・。
日本では革新系によって、政治で負けたことの蒸し返しのための訴訟提起の頻発・・司法が政治に介入しすぎないかの不満・イメージが増幅されてきました。
しかし、厳密に言えば、国会や市議会等で政治で決めたことの蒸し返しではなく、議会等で決めたルール違反を指摘する・司法はその有無を認定しているに過ぎないのであって左翼系に対する批判が当たりません。
(ネット等では司法・法律家の左傾化などを煽っていますが、非合理な感情的批判をあおっているにすぎないように見えます。)
例えば、原発の運転再開訴訟その他では多くが政治決定に不満な勢力中心に粗探し的に訴訟提起する印象ですので、結果からみると政治決定に司法が介入しているような印象ですが、訴訟テーマは政治で決めた運転基準に違反していないかのチェック訴訟です。
イラク派兵問題では国会で決まったことの蒸し返しではなく、特措法の適用範囲であったかどうか・・戦闘地域であったかどうか・現地実態はどうであったかの審議のための日誌の開示を国会で問題にしていたにすぎません。
沖縄基地の政府と県との訴訟は、埋め立て許可基準に合致しているかどうかの争いです。

アメリカの自治体8(草の根民主主義の妥当領域1)

http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.html引用の続きです。

岡部一明 (『東邦学誌』第30巻第1号、2001年6月)

アメリカの市議会のようす。壇上に少数の市議。会場は市民が詰め掛け、発言もできる。 (カリフォルニア州バークレー市)アメリカの自治体(Local Government)には通常の市や町以外に特別区がある。
有名なのは日本の教育委員会にあたる学校区だが、その他水道区、大気汚染監視区、潅漑区、高速地下鉄区、蚊駆除区、○○商店街街灯管理区、あらゆる種類の特別区がある。これらは必ずしも、市や町の下部組織ではなく、それらの連合した広域自治体という訳でもない。独自の自立した自治体であり、その首長が公選される場合も多い。区域が通常自治体とまったく無関係に線引きされている場合も珍しくない。
自治体は領域をもった全員加盟制のNPOである」という認識を、調査を進めるうち筆者はもつようになった。

日本で考えると土地区画整理組合や消防組合・水利組合やNPOあるいは町内会のようなものが自治体になっている印象です。
上記写真を見ると日本でよく知られたバークレイ市でさえもちょっとした公民館程度のホールで5人前後の市議が舞台のような演壇に机を置いて並んで座っています。
上記引用続きです
以下の写真は引用連載中の論文に掲載されているサンフランシスコ市の市議会風景です。

市議会は住民集会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「パブリック・コメントは多様な問題についての意見を聞くことができるので有用だ。」とトム・アミアノ市議の立法秘書ブラッドフォード・ベンソンが聞き取り調査に答えて言う。サンフランシス市で1ヶ月に1回行われる地域での市議会に参加した時のこと[27]。議長も兼ねるアミアノ市議は革新派で、市民運動の活動家たちといっしょに市議会にのぞむことが多い。会場には多くの市民が押しかけ、壇上の11人の市議に向かって次々に発言している。
「市の政治は、経済的に力のある人たち左右されがちだ。こうした形で一般市民が参加できることでカウンターバランスになる。」
とベンソン秘書。
こうした議会での市民の自由な発言を「パブリック・コメント」という。現在、日本でも行政の個々の施策に意見書を提出する「パブリック・コメント制度」がはじまっているが、その語の起源はこうしたアメリカの市議会などで行われている市民の自由な発言だ。
サンフランシスコ市議会は通常、毎月曜の午後、支庁舎内の会議場で開かれるが、月に一回は地域で出張市議会を行う。この時は、市民の集まれる夜に設定された。ケーブルTVの中継カメラがいくつかすえられ、講堂の中央に発言を求める市民が長い列をつくる。順番整理のためリストに名前を書き込むこともあるが、待ち列の一番後ろにつくだけでもいい。資格審査などは一切ない。サンフランシスコ住民でなくともよい。外国人でも発言できる。各議題に付き1人1回3分程度の発言が認められる。発言者が多い場合1分以内などと制限されることもある。
この日は地域での市議会だったが、市議会堂で行われる通常の議会も同様だ。通常5人程度の市議が壇上に座り、「客席」には多数の市民が詰めて次々に立って発言する。市議の重要な役割の一つは市民の発言をじっくり聞くことだ。最終的には市議の多数決がものごとを決定するが、それも公開の場で住民監視のもとで行われる。
議会は通常、市民が来れる夜開かれ、紛糾する問題があれば市民発言が真夜中まで続く。市民運動にとっては絶好の動員の場だ。同一団体のメンバーと思われる人たちが次々立って同じような主張を繰り返す。「エイズはビールスで起こるのではない」というよくわからない主張をする宗教グループの人も何人か居た。」

引用は明日も続きます。

アメリカの自治体7

日本のような自然発生的集落しか知らない立ち位置からではイメージしにくいですが、エベレスト等に登頂すると「エベレスト制服」と発表し、先住民を駆逐して?広大な無人の?原野に行った先で旗(行ったしるしの石碑)を立てて帰ってくるとそこまで先に支配がおよんだことにする西欧や中国的領土主張のあり方を前提に一応イメージしてみると以下のように想像できます。
広大な北アメリカの原野の隅から隅まで地図上の分割を済ませて各州の領域が決まったが、そのほとんどが誰も住んでいないし人跡未踏の空白地域で始まっている・・そこに人が住むようになって一定の集合体ができた場合、州(ステート・国家です)の作った一定の基準を満たせば町や村等のコミュニティーと認めようという制度設計のイメージです。
日本で言えば、民法の公益財団設立認可・・あるいは、今はやりの法人でいえば、NPO法人や社会福祉法人設立認可のように一定基準を満たせば地方公共団体が設立されていくのと似ています。
大和朝廷の始まりがはっきりしないのと同様に、日本の集落は自然発生的・・古代からあっていつでき上がったかも不明なほど古い集落が基本(古くは平家の落人部落伝説や新田開発や、明治維新時に北海道開拓に移住したりした場合など例外的場合しか知られていません)ですから、明治維新後幕藩体制を解体して中央集権化に適した郡県制に組織替えするに際しても、古代から存続している集落には手をつけずに、いくつかの集落を併合する形でその上に近代的市町村制を乗せたに過ぎません。
ですから、市町村合併で明治以降の市町村名が消えてもその下の集落名・・大字小字の仕組みになっています。
この辺は大宝律令制による班田収授法でも古代からの集落を無視できなかったので、結果的に古代的私有(集落有)制度に戻っていく・・中央任命の国司の権限が形骸していき、古代から地域に根を持つ地方有力者・郡司の実権を奪い切れず、地元勢力・逆に武士の台頭→幕府成立→戦国時代を経て古代集落の合議で地元のことは地元で決める法制度になった徳川時代にようやく落ち着いたのと似ています。
明治以降(大化の改新同様に)西洋法に倣って形式的地方自治体の権限を法で強制し(その逆張りとして古代から続く集落にに法人格を認めませんでしたが、中央政府が無理矢理強制した郡県制・市町村線引きは無理があり、次元の違う集落共同体の抵抗が、我々法律家の世界では有名な「入会権」の抵抗です。
最近顕著になってきた各地に根付く集落ごとの「お祭り」の復活が、押し込められていた地方精神面での反抗復活というべきでしょうか?
話題がそれましたが、ここでのテーマはアメリカの自治体権限と明治維新以降我が国が西洋法の移植で始めた自治権限とは歴史本質が違うということです。
アメリカの場合、一足飛びの社会ですので、日本や西欧諸国のような歴史経験・・原始的集団形成過程を追体験して行くしかないので、草の根民主主義から始まるのは当然です。
わが国で言えば、原始時代に遡るしかないほどアメリカの遅れた状態を単純に賛美している報告がわが国で普通に行われているのはおかしなものです。
原始時代からいつ始まったか不明なほど古くからの集合体があったのではなく、外部侵入・占領に始まる社会の作り方です。
まず州ができてそのあとであまり広域すぎるので、泥縄式にまず郡を作ってその領域内でミニサークルが出来上がっていくのを待つようなイメージです。
日常的に必須のサービスについて自分たちでプラス負担しても良いから・・ということでより良いサービスを求めて自治体結成するのですから、でき上がった自治体の役割・権限もその程度になるのが自然でしょう。
学校や道路などその部分だけ自分たちでプラス負担しても良いという程度の動機ですから自治を求めるのものその範囲のことです。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.html引用の続きです。

「アメリカでは自治体は市民がつくる。住民が住民投票で自治体をつくると決議してから初めて自治体ができる。決議しなければ自治体はない。だから、アメリカには自治体のない地域(非法人地域、Unincorporated Area)が面積の大半を占め、約1億人(総人口の38%)が自治体なしの生活をしている[ 1]。無自治体地域では、行政サービスは通常、州の下部機関である郡によって提供される。それでも最低のサービスは保証されるが、警察や消防が遠くの街(郡庁所在都市)から提供されるのは不安だし、地域の発展を直接自分たちでコントロールしたいということで、自治体をつくる運動が生まれ、住民投票などを経て自治体が設立される。」
「自治体結成について最も障害となるのが財政、税金の問題である。郡から大枠の行政サービスを受けるだけよりは地元で自治体をつくり身近な行政サービスを受けた方が好ましい。しかし、自治体をつくると税金負担が大きくなるマイナスがある。東パロアルトのような貧しい地域では域内ビジネスがあまりないので税収があまり期待できない、という問題もある。「独立」するよりは郡の庇護下に居たほうがいいという判断も出てくる(周辺の裕福な地域の税収で行政サービスを受けるということでもある)。それで東パロアルトの自治体設立にも根強い反対があり、1930年代以来、何度も自治体結成の話が出てはその度消えていった。」
「さらに結成した後も、自治体は極めて市民団体的である。例えば市長や市議は通常、ボランティアだ。カリフォルニア州の場合は州法で5万人以下の市なら月給400ドル以下、3万5000人以下なら月給300ドルなどの報酬額が定められている。このような名目賃金では生活できないから、市長や市議は通常、他の仕事をもっている。市議会や市行務の仕事は夜行なわれる。
市議の数も通常5人から10人程度で少ない。夜開かれる市議会は住民集会のようなもので、市民が自由に参加できるのはもちろん、だれでも1議題につき1回まで発言さえできる。連邦、州、自治体レベルにはりめぐらされている公開会議法(Open Meeting Laws)がこうした市民の発言を保証している」

この論文ではこのコラムで関心のある自治体権限の範囲について書いていませんが、(私は法律家なので法的権限に関心が行きますが、社会学者の場合?関心の一部でしかないでしょう)自治体結成の動機エネルギーから見ても、結成動機に権限が関係しますし、また「市」と言っても市議会議員の給与や定数まで州法で決めているくらいですから・・自主的にできることは、州政府の提供するサービス・・最低保障に自分たちで集めた税で上乗せサービス給付する程度しか想定できません。
このような観点から見れば、領域支配を前提とする日本人の自治体イメージから見れば、不思議に見える領域支配と関係ない特別区という自治体がいっぱいあることも「異」とするには足りません。
(昨日紹介した警察だけ自分たちで運営する自治体など)

政党の役割1(不要不急のインフラとは?)

昨年総選挙での希望の党の公約・「正規雇用を増やす」公約の意味を書いているうちに総選挙から1年以上たってしまいましたが、希望の党の公約に戻ります。
November 20, 2017「希望の党の公約等3(内部留保課税3)」の続きになります。
(この夏約1ヶ月間サーバーの不具合でこのブログが停止してしまって以来、新規意見書き込み意欲がまだ戻っていないので、過去の原稿先送り分の在庫整理がまだ続いています。)
希望の党公約に対する批判意見は公約が発表された総選挙真っ最中に基礎的原稿を書いていたのですが、総選挙最中に一方の党の批判を書くのはどうかな?と迷って、総選挙後に公表を始めたのですが、現在では希望の党が解体・分党してしまい、政治的影響力がなくなっているので今更批判する意味がなさそうに見えますが、希望の党の公約に限らず各種野党・もしかしたら日弁連などの批判勢力(憲法の原理や近代法の法理に反する」という抽象論で運動しているように見える?)一般に共通する問題ですから、古い原稿ですが連載残り分をここで発表しておくことにします。
次に
「家計に希望を・・・」の中に「不要不急のインフラ整備を徹底的に見直す」とありますが、こんな公約は公約のうちに入りません。
政府が不要なインフラ整備しないのは当たり前すぎることで、どの政党も無駄な公共工事をするとは言わないはずです。
何が不要で何を優先的に設備する必要があるかを決めるのが政治ですから、公約では、どの分野のインフラを優先整備すべきかの順位意見表明すべきでしょう。
何を優先して整備し何を後回しにするかを決めるのが政治ですから、公約で言うべきは優先順位です。
これのない公約は公約とは言えないでしょう。
韓国では政治思惑優先・経済音痴の文政権下で経済失速が鮮明ですが、11月1日の施政方針演説では「共に良い暮らしをしよう』という方向を示しただけで終わっているようです。
どうやって「良い暮らし」に持っていくかを示すべきが政治家の仕事です。
民主党政権時代に「コンクリから人へ」のフレーズで失敗した事業仕訳の焼き直しでしょうか?
議員定数削減による消費税増税反対と言い、

「満員電車ゼロ」実現など生活改革を進め、労働生産性を高める▽日本企業の事業再編を促すため、事業再編税制を強化▽電柱の地中化により、災害対策を強化するとともに、景観を改善

というのですが、これが「家計に希望を」の項目の中にごたごたとはいっていてゴチャゴチャです。
財政赤字対策・・・議員定数削減程度で巨大な財政赤字がどうなるものでもありません・民主党が政権を取る前にしきりに宣伝した埋蔵金論・・実際にはなくて事業仕分けに切り替えて目先をごまかしたことは周知の通りです・・の焼き直しです。
「ユリのミクス」による税収増を図ると言うのですが、肝心の百合ノミクスの内容がありません・希望・夢に委ねるという意味でしょうか?
こんなゆるい公約で実際の国家運営できるのでしょうか??
その他一々批判してもきりがないので紹介をこの辺で打ち切りますが、どうせ意味のあることを書けないが白紙提出というわけにいかないので、仕方なしに受験生が答案用紙に何か書いて出したような公約羅列の印象を受けますが、そもそも公約ってどこの政党でもそんな程度のものだったのでしょうか?
公約に関心を持ったきっかけは、」今回「排除の論理」がどうなっているのか気になって希望の党の公約をネット検索してみたのが初めてで、よその公約がどうなっているかまで見ていません。
抽象論ばかりで具体性がないと言う批判を意識したのか具体化するために?電線地中化・満員電車解消など書いていますが、こんな瑣末なことを書くのと具体化とは違います。
具体的に書く必要とは、数日前正規雇用化の意見で書いたように、企業が正規採用をいやがる法制度をどうするかの議論とセットで書くのが具体化です。
ユリノミクスで・・と意味不明な逃げ方をしないで、具体的な経済政策を書いてくださいというところです・・。
「希望」の党だから夢で良い・・具体性がなくて良いと言う開きなおりかもしれませんが、メデイアは小池フィーバーを煽るばかりで公約の矛盾・お粗末ぶりをなぜ批判しなかったのでしょうか?
党の公約などメデイアが報道しない限りほとんどの人が滅多に見ないのをいいことにしてメデイアはムードばかり煽っていたのですが、合流となると民進党員が党内多数になることが素人に直感できたことから、民進党の主張そのままの党になるのか?という素朴な疑問が湧き上がったところからその到達点で小池氏は「排除声明」を出さざるを得なくなった背景でしょう。
民進党や17年11月10〜11日に紹介した離党した都議の主張でも同じですが、透明性とか弱者への思いやりや女性の社会進出やlJGPT対応も必要ですが、分配中心の視点が目立つ・・国家をどうやって運営していくかという最も重要な主張(付け足し的に書いてありますが・・)がほとんどありません。
企業で言えば、新社長が従業員第一・経理の透明性というだけでは、新社長がどの分野で稼ごうとしているのか見えないのと同じです。
民主政治の前提として決定過程の透明化が必須ですし汚職をしないのも重要ですが、政党が政治過程を透明化し汚職摘発だけが主たる活動目的で本来の政治をどうするかの意見がないのでは困ります。
都民ファースト離党都議の主張を見ていて感じたのですが、都議の内一人二人くらいは都政トータルの議論には「私は当選したばかりでよくわかりませんので・・と言って一切関わらない代わりに、決定過程の透明性実現あるいは保育園問題だけに特化したり、電線地中化運動するのは一つの生き方ですが、党全体がそれしかないと言うのでは「政党」とは言えません。
電線地中化や保育所に特化して取り上げる個々の議員の発信は、一般に広く関心を持ってもらうための問題提起効果を狙う点で意味がありますが、政党として主張する以上は優先順位の主張であるべきです。
不良のいない社会や街路に花を絶やさないのも電線地中化も保育所が多くあるのも、高等教育無償化すべて結構なことですが、それらを全部実現するには、限られた予算や人材資源配分をどうするか・優先配分に行き着きます。
例えば、保育所問題は予算配分・資金ばかりではなく人材争奪・どこへ優先的に振り向けるべきかの優先順位の問題であることは明らかですが、電線地中化も資金の問題だけではなく新築ビル工事や道路工事などに振り向ける労働力が今逼迫していますが、これを電柱掘り起しなどに優先的に振りむけるのかなど多方面への目配りの結果の主張であるべきです。
一般常識からいえば、好景気でどんどん新規受注のある好況時には、保守点検部門の人材は維持管理に必要な程度にして利益に直結する前向き事業に人材をシフトする・・受注減の余力のあるときにこの種の保守的事業に人材をふり向けるのが合理的でしょう。今首都圏ではオリンピックに向けた諸工事が間に合わない建設労働者逼迫の緊急事態にあることは周知の通りです・・電線地中化に今人材を振り向けるには、この常識的セオリーをひっくり返すほどの合理性緊急性があるのかの説明が必須です。
4〜500人の代議士のうちで一人か二人の税理士出身者が都政がどうあるべきかよりも、会計のミスばかりに目を光らせるとか・・それでも良いのですが・・。
政治と役人の役割分業は、政治が基本方針を決めて役人はこれをミスなく実行することですが、細部の議論だけで基本方向を決められないのでは政治家はいりません。

労働力流動化(職業訓練必要性)1

ところで検索前から日弁連意見はなんとなく解雇4法理維持・固守論であろうと想定し検索してみると、想定通りに「反対論」が出てくるところに日弁連の硬直性がわかります。
意見を聞く前から答えがわかっているような組織になると、社会は日弁連意見を重視しなくなる・・軽く見られるようになるのが残念です。
昨今各種分野で日弁連意見を求められていますが、日弁連意見を採用するために聞いているのではなく、どうせ反対意見だろうが、せいぜい反対論根拠を念のために聞いておこうという程度の意見聴取になっている可能性があります。
日弁連は(旧社会党同様に?)自分たちは専門家集団だから黙ってついてくればいいというエリート意識の立場でしょうが、17年12月13日紹介の日弁連意見の前提事実としている日本の「労働者が窮乏を極めて」いるかの認識能力については日弁連は専門家集団ではありません。
社民党あるいはその他野党の弱点は、実態無視の傾向・・観念に走りすぎていて、社会実態に対する謙虚な認識能力欠如にあるのではないでしょうか?
前提事実の認識が間違っている・これを自覚しているから、却って検証を許さないような決めつけ的表現に終始しているのでしょうか?
しかし、都合の良い情報を鵜呑みしていると情勢判断を誤るのと同様で、実態と違うのを承知の上で解決策を組み立ても、現実性がありません。
メデイアを通じていくら宣伝しても・・・評論家はメデイアに干されるのが怖くて「よいしょ」意見しか言いませんが・・裸の王様同様で、実態無視で組み立てた論理は表向き通用しても、秘密投票制度下では選挙においてサイレントマジョリティの反乱に直面します。
今回の総選挙結果による支持率と事前世論調査とほぼ一致していたのはニコ動だけで、既存大手メデイアに事前世論調査結果とは大きく乖離していたことを11月5日に紹介しました。
整理解雇4条件の修正必要性に戻ります。
個人事業の場合は別として大手企業のリストラ=事業再構築の場合、個人的好き嫌いで選別するとは滅多に想定できません。
企業にとって重要なのは、新事業に適性・使い回しのきく人材かどうかでしょう。
借地法の正当事由の要件として周辺社会状況を入れるかの議論があったことを12月7日に「大阪市立大学法学部生熊長幸」の論文を紹介しましたが、解雇も個人的な事情・不正行為などなくとも客観的経済環境を判断事情に入れることが可能かどうかこそが重要です。
17年12月13日に紹介した弁護士意見のように万に一つの例外的場合を原則にした議論をするのではなく、個人的怨恨を紛れ込ませた場合には乱用で個別救済する・・制度設計を逆にすべきはないでしょうか?
中高年で多く人の技術が陳腐化するとした場合、中途解雇の受け皿・中高年者に対する教育訓練等の受け皿等の工夫が必要です。
こうした議論こそが重要であって、個人の救済・・マイナーな場面の議論は、こうした中途解約制度で積み残される人の救済をどうするかという別の場面の議論ではないでしょうか・・議論がかみ合っていません。
予防接種の有用性議論している時にはワクチンの有効性や事故率等が重要であって、一人でも事故が起きたらどうするのか!という神学論争しても始まりません。
個人企業の場合、事業主やその家族とと日々喧嘩しながら仕事を続けるのは無理があるので、自分からやめて行くのが普通で、もともと労働法の解雇規制に関係がありません。
制度が硬直しているとその制度利用者がいなくなる・・「特に借地において顕著で、借地権の新たな利用は、目にみえて減少していることが、ひとつの裏書きとなっている」・・と借地法改正の論文でも紹介しましたが、解雇規制の厳し過ぎが正規雇用が急速に減少して行った原因でしょう。
終身雇用を残したいならば、過ぎたる保護をしないことが肝要・・保護が過ぎれば却って継続を美徳とする雇用慣習が崩壊するでしょう。
たまに非合理な解雇があればそれは裁判で救済する道を残せば良いことで、滅多にない事例を全部に及ぼすのは間違いです。
借地借家法では定期契約制度が25年以上も前から運用されていますが、今では受け皿になるべき賃貸マンション等が充実しているので、不都合な現象が起きていると聞いたことがありません。
定期借地を非正規契約という人はいません。
雇用も同様で人材流動化に合わせて受け皿を整備すれば良いことであって、経済のことは経済の動きに委ねる・・政府は不都合を監視しインフラ整備するだけで良いのであって、流動化自体を禁止するの行き過ぎです。
労働法分野では特に(超保守の)左翼系の政治抵抗が激しいために、30年近くも柔軟な企業環境変化を阻害してきために業界の工夫で期間工やパートなどの雇用形態が増殖して来たのです。
実態に応じた変化対応が、超保守の運動家によって労働分野で遅れていたにすぎません。
技術の陳腐化が激しい上に今後70歳以上まで働くようになると、若いころに身につけた技術で一生食っていく・4〜50年前の技術を磨いてきた先輩の方が若い人よりも能力が高いなど言えない時代です。
特定技術は身につけたばかりよりも、10数年程度は実地訓練による技術の磨き上げが有効ですが、(プロを見ればわかりますが、プログラマーでも相撲でも競馬でも将棋でも皆一定期間経過で能力下降していきます)それ以上になると新たな技術についていけない弊害の方が強くなりそうです。
この一定期間が短くなる一方で、他方で長寿化により就労が長期化する逆の傾向になっています。
こうなるとこのギャップをどうするか・・年功で(能力が下がっていくのに)給与賃金が上がっていく正社員の年功制がもたない・不合理な制度をどうするかの議論を避けて通れません。
サービス産業化が進むと、1日の中でも時間による繁閑差があり、業種によっては(スキー場付近のホテル飲食店など)季節要因でも変わります。
こうした場合、時間給や数ヶ月単位の雇用が合理的です。
柔軟性のない、雇用条件の「正社員」しか認めない社会構造を前提とするのでは無理があります。
正社員化を進めるには正社員の概念を非正規に近づける努力・・今とは変えていく必要があります。
企業の稼ぎ頭・事業部門が10数年もすればほぼ入れ替わって行くくらいでないと現在のスピード社会では企業が生き残れないように、個々人の技能も途中で新技術の再補給をしていかないと有用な人材として生き残れない時代に入っているので、終身雇用の前提が崩れています。
労働者の人権も必要ですが・・社会変化にどう対応するか・新たな環境に合わせた保護策を考えるべきで、この工夫を怠って「古い時代に適合していた権利を守れ」というばかりで社会変化を敵視するのでは日本経済はジリ貧になります。

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