上皇の生活費を内廷費で賄う疑問1

当時藤原氏も天皇家の権力利用のメリットがあったので中宮を送り込む代わりに経済支援する蜜月関係が続いたのです。
藤原氏が衰微しても、いつの時代にも次の権力者・・経済力のある勢力が勃興するのですが、平安末期以降天皇家の外戚になるメリットが次第に薄れていき、次々と現れる実力者たちは、
外戚にならない→女御〜中宮実家による財政支援がなくなっていた完成期が、戦国時代末期の姿であったことになります。
秀忠が外戚になることを一時考えたのですが、後水尾天皇との確執でこれがご破算になり、家光の時に完全に天皇家無視の政策が確立してしまうのです。
今の大手企業オーナーにとっては外戚になるメリットが何もないのに、政治攻撃の対象になるデメリットの方が大きいので、現在の財界成功者で莫大な資金を垂れ流してまで外戚になりたい人は皆無になっていると言えるでしょう。
政財界実力者が外戚になりたく思わなくなった時代=天皇に政治権力がなくなったこと・象徴機能しかなくなる方向へ進み始め、完全消滅したのが戦国末期と言えるでしょうか?
禁中並公家諸法度で・・天皇の政治権力を公式に否定され、行事主催・象徴機能だけ認められて以降、外戚になりたい新興勢力が公式にもいなくなったことになります。
この完成期になっている現在・皇太子妃や皇后実家の経済力に頼るのは無理になっています。
それにもかかわらず、こういう時代遅れの習慣・結局は権力のないところに資金が寄り付くはずがないという冷厳な事実を無視しても意味がない・天皇家の井蛙kyかウヒ亜hかいのはてんそがしるdけすs、妻の実家による非合理な支えによるのではなく、堂々たる国家予算で賄うべき時代が来ています。
現在の皇室予算は、天皇とその子供世代の一体設計になっているようですが、生前退位すれば上皇一家と天皇一家とは別の経済体になるとすれば、戦後民間で一般化している2世代型家族関係・核家族化の外形がついに皇室に及んだ?という点で合理的変化です。
そこで生前退位によって皇室予算の仕組みが(まだ予算案ですが・・)どうなったかを見ると
「天皇の退位等に関する特例法」を見てもその辺の変化を書いていません。
昨日紹介した皇室関係次年度予算に関する宮内庁のネットで見ても、皇族費や内廷費がほぼ従前通りで上皇になったときの内廷費や皇族費が(ほぼ前年度予算通りで変化なく)どう変わるかが見当たりません。
内廷費の中で天皇一家と上皇の生活費は別に予算計上すべき・・核家族ではない上皇の生活は、内廷とは思えませんし、一般宮家よりも格式が高いので特別項目化するのが合理的ではないでしょうか?
簡単化すれば、現行内廷費と皇族費の2分類から上皇費を加えた3分類にすべきではないかの私見です。
5〜60台で死亡していく時代から人生100年時代になってくると、親子といっても幼児期の親子のようにいつまでも一体化した未分化集団ではなくなって行きます。
5〜60台の夫婦子供の家庭と8〜90台の老夫婦家庭とは、経済の一体性(価値観も変化している)がなくなっているのが普通・原則でしょう。
皇室も高齢化している点は変わりがない以上、2世代分の独立の皇室予算が必要だったのにその改革を長年怠っていた・今回改革のチャンスだったことがはっきりしたと思われますが、せっかくの機会を活かさずに今回は手付かずで終わったようです。
今国会提出の次年度予算案で、皇室費の分類が変わったかの検討です。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/pdf/yosangaiyo-h31.pdf
平成30年12月  宮 内 庁
平成31年度歳出予算 政府案の概要について

上記によれば、従来通りの区分け・内廷費と皇族費のほか宮廷費の3分類があるだけです。
しかもお手元金に関する内廷費は前年同様で皇族費が何故か減っています。
これでは天皇が退位して上皇になるとお金の面から何が変わるのかサッパリ不明です。
https://mainichi.jp/articles/20180307/k00/00m/010/054000c

毎日新聞2018年3月6日 18時58分
政府は6日、天皇陛下が退位される際に「退位の礼」を行うとする政令を閣議決定した。天皇、皇后両陛下が退位後に上皇と上皇后に就いた後の関連規定も整理した。
法的には皇室は、「天皇」とそれ以外の「皇族」に区分されてきたが、明治以降で初めてとなる上皇は、基本的に天皇と同等と位置付けた。
・・・上皇、上皇后は、天皇家と生計を同じくする「内廷皇族」とし、生活費は内廷費(年3億2400万円)から…

上記解説によると、上皇になっても内廷費総額を変えない.・・結局従来どおり内廷費にごっちゃにしたままにするようです。
従前の東宮御所の生活費を上皇御所生活費に入れ替えれば簡単という考えのようです。
次年度予算案が昨年と全く変わっていない所以です。
ただ旧式の家督(古くは「氏の長者」)観念で言えば、現天皇が隠居した以降は、家督権者による内廷費分配権は、(家督を継いだ)次期天皇に移ると見るべきでしょうか?
内廷費の分配は家庭内のことだから法が関与しないという政府の考えとすれば、それはそれでいいのですが、それは同一世帯・核家族を前提にした考え方であって、親世代と子世代が別居していれば一つの世帯と言わない・世帯が違えば家計主体も別というのが現在普通の考えではないでしょうか?

仙洞御所経費と核家族化1

秋篠宮様が批判する皇位継承関連予算案を見ておきましょう。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/pdf/yosangaiyo-h31.pdf

平成31年度歳出予算
政府案の概要について
平成30年12月
宮 内 庁
皇位継承における皇室費での儀式関係経費の概要について

を見ると(引用すると長すぎるので要約です・正確には上記に入って確認お願いします)

① 大嘗祭関連 前回規模(平成天皇即位)で行うと(・消費税率変更(3%→8%→10%(来年10月)・物価の上昇・人件費の著しい増加や材料費の高騰)で約25億円の出費になるので、参列者を1千人から700人へ減らしたり(招待すると宿泊費・パーテイ等の関連コストが巨大)して規模を縮小し、茅葺きから板葺きにする・参殿の屋根材を茅葺きにするなど資材のレベルダウンを図り、18億6000万に絞った
②大饗の儀 ・前回1000人→700人、回数3回→2回、等々で平成31年度231百万円→前回347百万円)
③ その他経費

等々が出ています。
上記の通り大嘗祭の経費は日経新聞報道時点では(平成天皇即位)前例通りに行うと30億円もかかる予定だったとしか外部には不明だったでしょうが、内部的にはコスト削減のために規模縮小や資材変更など細かく準備を積み上げていたことがわかります。
このあとで紹介する退位関連経費が増えた分が、平成になったとき(昭和天皇は先に崩御されているので退位後の住空間整備などが不要でした)とは違う・・増えたのでそれを合わせると35億くらいかかるようです。
退位後の上皇の御所の造営や公務員の増加など戦国時代の皇室の経済力・平成天皇天皇退位関連経費を見ておきましょう。
戦国時代にはそれほど豪華でなくとも、仙洞御所と内裏双方を維持(建築費だけではなく相応の侍従等の役人も必須で維持費がかかります。)するのは無理があったので、生前譲位が何代も行われていなかったらしいのです。
もはや院政(これまで紹介してきた八条院領の経済的バックによったのです)で睨みを利かすどころではありません。
戦国時代では天皇家の生活費すらままならない・儀式に必要な衣冠束帯の用意さえできない困窮状態で天皇家(内裏)と院の御所との二重経費負担に耐えられなかったのです。
正親町天皇天皇譲位問題では、信長が仙洞御所造営費用の出費に協力的でなかったので譲位できなかったと言われています。
正親町天皇に関するウイキペデイア引用です。

信長が譲位に反対したとする説
・・・前述のように当時は仙洞御所が無く、天皇・信長のどちらかが譲位を希望したとしても、「退位後の生活場所」という現実的な問題から何らかの形式で仙洞御所を用意できない限りは譲位は困難であった(後年の正親町天皇の譲位においては、それに先立って豊臣秀吉が仙洞御所を造営している)。
だが、譲位に関する諸儀式や退位後の上皇の御所の造営などにかかる莫大な経費を捻出できる唯一の権力者である信長が、譲位に同意しなかったからとするのが妥当とされている(戦国時代に在位した3代の天皇が全て譲位をすることなく崩御しているのは、譲位のための費用が朝廷になかったからである)。

仙洞御所を新規に造営すれば(その後のお付きの方々も必要になるし)大金がかかるのは容易に想像がつくでしょう。
古くは天皇が退位すると里内裏に引っ込みそこを仙洞御所といっていたようですが、中宮の実家(公卿)自体も荘園が消滅して経済力がなくなっていたからでしょう。
退位しても落ち着くべき里内裏のような屋敷もない以上、退位=新規造営費用が必要な時代が来たのです。
平成天皇が生前退位すると古代からの慣例によれば、美智子皇后のご実家が里内裏を提供することになるのですが、正田家もそこまでの財力がない(相続税がきつくて巨額資産承継は無理でしょう)あってもそういう時代ではないということでしょうか?
日清製粉をネット検索しても創業家の正田家が大株主として上位に出てきません。
仙洞御所造営→維持費(お側に仕えるものを含めて)を長期間を民間人が抱えるなど今の時代無理でしょう。
平安末期に院政が猛威を振るえたのは藤原氏の荘園収入に対抗できる八条院領などの独自荘園確保がなったからでないか?というのが独自根拠のない妄説です。
そういえば藤原氏の権勢を確かなものにした光明皇后のよっていた紫微中台の予算が、朝廷(娘の孝謙天皇)を凌駕していたとどこかで読んだ記憶です。
何事も経済的裏打ちが基礎になります。
平成天皇が生前退位すると退位後の別のお住まい・仙洞御所が必要・・現天皇退位後は当面一時的に旧高松宮邸を事前改造してそこへ移り、その間に今の東宮御所を改造してから仙洞御所としてお移りになる予定のようですが、その間の倉庫建築等々玉突き移転の工事費が以下の通り約17億円程度かかるようですし、崩御後の即位と違って退位後の御所付きの各種公務員の張り付きが必要です。
https://docs.google.com/document/d/1B_k-2lcstvNhZWWRqkWpEo0Evf1mJlU7NLjlDEZOEak/edit#

宮内庁によると、来年度(30年度)、天皇陛下の退位に向けた準備として必要な経費は35億6000万円で、内訳は、両陛下が仮住まいされる高輪皇族邸の改修工事や御所、東宮御所、秋篠宮邸の工事の設計など住まいの関係に17億3000万円、
今後の儀式に必要な装束や物品の調達などに16億5300万円、などとなっている。””
今年度は35億、来年度は19億円、生前退位に伴う費用が計上され、来年の5月の即位を迎えます。
・・・引退する上皇、上皇后のお世話をする「上皇職」に65人もの宮内庁の職員を配置することです。

天皇象徴性の定着と無答責3(連署制1)

そもそも古代からの詔書、院宣や綸旨には、天皇の署名がなくお聞きした内容を役目によって書き止める形式が主流です。
貴人のお顔や声を直接お聞きするなど「畏れ多い」・・・御前にまかり出る資格のある高位の公卿でも御簾で隔てられた拝謁が原則だったイメージの文書版です。
この結果証書であれ、綸言であれ署名がなく聞き取った関連部署長官(蔵人頭など)の署名で行う形式でした。
明治憲法から御名御璽が必須の制度になっていますが、世上言われてきた天皇神格化の正反対の方向です。
多分中国歴代王朝の形式を真似たのでしょう。
中国では、専制君主ですごいように思われますが、皇帝が何から何まで親裁・自分で威厳のある大きな印(玉で作った持ちにくい巨大な印)を押していたので終日押印作業に追われて肩がぱんぱんであったと言われますが、江戸時代中期以降に役立たずになっていた観念的儒者がこれを理想としていたからです。
(中国皇帝の場合事実上流れ作業的押印に追われるので皇帝お気に入りの高官処刑の決済文書が紛れ込むことがあったようです)
この結果、現天皇陛下の年間署名数は膨大です。
https://diamond.jp/articles/-/112777?page=4

2017.1.4
天皇陛下の1年、知られざる膨大な仕事量
週刊ダイヤモンド2016年9月17日号特集「日本人なら知っておきたい皇室」より
・・・・陛下は昨年、約1000件の上奏書類を決裁されたというが、注意すべきは、例えば1回のご執務で処理される、数百人分の功績調書を含んだ叙勲関係の書類が、まとめて「1件」とカウントされていたりすることだ。
しかも、決裁を翌日以降に遅らせると政治への介入(一例を挙げると、「法律の公布」を1日遅らせると、法律の発効に関する手続きを天皇の都合で1日ずらしたことになり、立法権への介入=憲法41条の国会単独立法の原則などに抵触)となるので、体調が悪くても、ご執務を簡単に休むわけにはいかない。
御用邸で静養中や地方訪問中であっても、火・金曜にぶつかると、内閣官房の職員が午後、新幹線や飛行機で書類を東京から持参し、御用邸やホテルの部屋で決裁していただいている。執務は週2回なので、年間約100回になる。

日本ではこんなバカなことを古代からやっていません。
詔書等に関するウイキペデイアの記事からです。

・・詔書は重要事項の宣告に用いられた。天皇は署名せず、草案に日付を書き(御画日)、成案に可の字を書いた(御画可)。また、公卿(大臣・大中納言・参議)全員の署名を要した。詔書は天皇と公卿全員の意見の一致が必要であり手続きが煩雑であるため、改元など儀式的な事項にのみ用いられるようになった。

ウイキペデイアによる宣旨についての記事です

天皇の命令・意向(勅旨)が太政官において太政官符・太政官牒などとして文書化される際、文書作成を行う弁官局の史が口頭で命令・意向を受ける。このとき、弁官史は、命令・意向の内容を忘れないために自らのメモを作成した。このメモが、当事者へ発給されるようになり、文書として様式化していき宣旨となった。文書には、弁官・史などの署名しか記されなかったが、天皇の意を反映した文書として認識され、取り扱われた。

足利時代の「観応の擾乱」の本を読むと施行状等の署名者が誰かが重視されたとあります。
施行状だったか?に誰が署名しているかでその信用力・・・この人が署名しているなら実効性が高いという信用で武士が動いたのです・・を有難がる実務があったということです。
日本社会では古代から、高貴なお方は自ら文書を発しない慣習があるようですし、高貴でなくとも今では知事、市長、社長、理事長等の名義で役人や文書係が代わって大量文書発行することが多いので、(生命保険証書などに社長の印が押されていますが、多分全部社長等が自分で署名や押印をしていないでしょう)公文書を発するには相応の順序(副署しないまでも内部的に稟議決裁文書を保管しておくなど)を踏むようになっているのもこの結果でしょうか?
一つには御璽であれ、市長公印であれ社長印であれ、各種公印は天皇や、市長、知事、社長がいつも携帯していない・保管者が別人である実態があります。
社長等の印の他に社長等が直筆署名すれば真実性担保できるようですが、膨大な文書発行が日常化している実務では、全件社長等が、署名するのは無理があります。
保管者が乱用しないように社長や市長印を押すには、相応の手続きを踏んだ形式(稟議書とそこへ至る各種会議議事録)を残すのが必須(いざとなれば印保管者による冒用か?の検証容易)であり合理的です。
江戸時代には将軍家に対面すること自体「畏れ多い」ほどの貴人ではないですが、それでも公式文書は老中奉書で布告していました。
江戸時代の老中奉書は 幕府文書で天皇家の詔勅や綸旨や院宣とは違いますが、以下の通りです。

老中奉書(ろうじゅうほうしょ)は、日本の文書形式。江戸時代において江戸幕府老中が将軍の命を奉じて発給する伝達文書で、奉書加判は老中の主要な職務であった。
老中が連名で発給する連署奉書と、単独で発給する奉書がある。前者の例としては大名や遠国奉行への命令伝達、後者の例としては将軍家への進物の受け取り確認等があげられる。寛文4年(1664年)4月1日に制度が改定され、小事については老中一判の奉書となった。

江戸期の老中制度になると明治憲法下の内閣とほぼ同様老中の合議であり、老中首座は同格者の筆頭でしかなかった点は明治憲法下の内閣同様ですが、閣議を経た文書は連署形式でした。
ちなみに現在幕閣とか、閣老、閣議というのは、後の内閣制度を老中に当てはめていっているようで当時から幕府とか閣老とかいう名称があったものではないようです。
秋篠宮様記者会見に戻ります。
自分の意見が通らない不満=自分の意見を重視すべきという論建ては、皇室が政治責任を負う体制への変革を主張することにつながり、天皇制維持には危険な主張です。
政治責任を負ってでも政治活動したいならば、皇籍離脱してから私人として行うべきでしょう。
こういう人が後嗣では(一世代約30年後に天皇になると?)皇室の永続性に疑問符がつきます。
この発言に呼応して早速市民団体?が12月中に(宗教行事への公費出費が違憲という)違憲訴訟提起すると発表したようです。
https://www.ootapaper.com/entry/2018/12/02/160930″

秋篠宮さまの誕生日と同じ30日に、市民団体が大嘗祭違憲訴訟を起こすと一斉に報道

あたかも事前に示し合わせたかのような発言とメデイア発表のタイミングに驚きます。
憲法上、予算案・・内廷費で賄うべきか内廷費としてどの程度の出費を認めるべきかは内閣の高度な判断に委ね最終的には国会議決・政治家総体の判断を経て実現する仕組みですから、秋篠宮様公式発言は高度な政治判断・・内閣の助言承認や国会審議に影響を与えようとしているように見えます。

応仁の乱以降の天皇家の窮迫1

八条院領がしぶとく生き残り、後醍醐天皇の経済基盤になっていたことを昨日書いたついでに、応仁の乱以降、古代からの荘園システムが壊滅状態になり荘園からの収入が皆無に近づいた戦国末期には天皇みづからがご宸筆等を売って生計を支える極貧状態となっていました。
命脈の尽きかけた朝廷を和睦交渉に利用できる限度で援助していた信長が、利用価値がなくなったと見て?明からさまに侮るようになった信長は、旧勢力(旧価値観)支持による(黒幕は誰かをいまだに歴史学者が説を唱えルコとすら出来ない?不思議な状態ですが・・)光秀に弑逆されました。
天皇家が売文で糊口をしのいでいた状態をどの本に書いてあったか忘れましたので、ネット検索すると以下の通り出ています。
ちょうど私の直感的意見通り応仁の乱以降収入源がなくなったことによるとも書いています。
https://bushoojapan.com/tomorrow/2013/10/26/8278

直筆の文書を売って生活するほどのド貧乏
このころの皇室は一言でいってド貧乏。後奈良天皇に至っては、直筆の文書を売って生活の足しにしていたほどの貧しさでした。
なぜそこまで生活費がなくなってしまったのかというと、応仁の乱以降に皇室や貴族の直轄領地が戦国大名などに奪われてしまっていたからです。
この頃の税は米がメインですから、米や作物を作っている領地が奪われれば当然収入がなくなってしまいます。
それでもたまに律義な大名もいたので、細々と食いつないでいくことはできました。
最も大切な即位の儀式や、崩御された天皇の葬儀を行うための資金がなかったのです。
どのくらい資金難かというと、亡くなって何十日もご遺体が御所に置かれたままだった方もいるほど。 この状態を何とか改善させようと、正親町天皇は勤皇家な大名や本願寺など、有力者との結びつきを強めていきます。
例えば即位の礼の資金を出してくれた毛利元就には正式な官位と菊・桐の紋を与え、同じく多額の献金を行った本願寺には門跡(皇族や貴族がトップになれる寺院)という特権を与えました。

正親町天皇に関するウイキペデイアにも同様の解説があります。

永正14年(1517年)5月29日、後奈良天皇の第一皇子として生まれる。
弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。
当時、天皇や公家達は貧窮しており、正親町天皇も即位後約2年もの間即位の礼を挙げられなかったが、永禄2年(1559年)春に安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用の献納を受けたことにより、永禄3年(1560年)1月27日に即位の礼を挙げることが出来た[1

現在平成天皇退位に関する諸儀式費用について、平成天皇即位時よりも簡素化して費用節減したらしいですが・・・秋篠宮様が大嘗祭は宗教儀式であるから公費支出はおかしいと発言して政治問題?になっています。
国事行為には即位、退位の礼が入っていますが、大嘗祭は宗教儀礼・内廷費から出すべきではないかという疑義です。
疑義は尤もとも言えますが、どの程度の儀式が宗教儀式に当たるかの高度政治判断に皇室が介入することの方に違和感を覚えた人が多いでしょう。
この決定は内閣の議を経て政府予算案となり、最終的には国会の議決により決せられる高度な政治行為です。
意見を言わないと国会で宮廷費から支出する予算案が議決されるのを阻止するための発言とすれば、国会議決に影響を及ぼそうとする政治行為そのものです。
政治の最高テーマである予算案の是非について皇室・・特に天皇退位後の次期皇嗣に事実上決まっている人が口出しすれば文字通り憲法上大問題です。
いまや経済大国なので正親町天皇の時代と違い実際にお金がない訳ではなく、その費用が国家経済にどの程の悪影響を与えるか?疑問の時代ですから、実利の問題ではなく政治的プロパガンダの類と言えるでしょう。
政教分離に関しては神社への玉串料等の奉納やちょっとした便宜供与は国家や市町村財政から見れば金額的には微々たるものですが、繰り返し憲法違反の訴訟が提起されてきたのも自分の利害に絡むからではなくオオカミ少年的?あるいは国民啓蒙目的でしょう。
国民啓蒙をいう人と自己顕示欲の発露との見極めが難しいものです。
予算案反対論が、そのお金支出によって特定産業や階層が圧迫されるなどの政治利害を背景にしているなら別です・・・民主主義政治とは、政治利害調整のためにあるのですから、特定政治利害に基づいて政治発言するのは(一般国民としては)合理的です。
利害がない場合、顕名欲?「皆の知らない正義を教えてやりたい」・・あるいは国の政治方向が間違った方向に行かないようにする公憤に駆られて行うのが普通ですが、天皇家の皇嗣になる予定のお方が特定利害代表して政治活動をしているとは思えないし、そうとすれば公憤発露?自己の政治的立場を宣伝したり、自己の見識を世間に知らしめる必要があるのでしょうか?
いずれにせよ今回の発言は政治影響力目的としか考えられません。
政治に影響力を行使したいならば、皇族の身分を離れて一私人として政治活動すべきように思われます。
秋篠宮が個人能力としてどれだけの政治見識があって、ちょっとした発言が大規模ニュースになったのか不明ですが、宮様の個人能力によって伝播力があるのではなく「皇嗣予定者がこういう公式発言をした」ということだけでニュースになっているとすれば、「皇嗣予定者・・皇室の地位利用の政治発言」と評価すべきではないでしょうか?
まして宮内庁長官が自分の意見を取り入れなかったことを名指しで批判していること自体、私人としての発言でないことが明らかです。
ところで、国事行為・特に儀式をどの程度やるかは幅の広い概念でその境界は微妙ですから、高度な政治決断・折々の国民がどの程度まで皇室儀式の盛大さを期待するかを読み込んで切り分けるしかない分野と思われます。
だからこそ憲法では、国民意識を敏感に感じ取るのに長けている内閣の助言行為になっているのでしょう。
戦国末期・信長台頭前の上杉や毛利が天皇家の儀式にどの程度出費援助するかは上杉や毛利など有力諸大名トップが高度な政治判断できめていたし、信長上洛後は信長の高度な政治判断によっていたのであり天皇家が自分で決めて割当ていたのではありません。
だからこそ国事行為の中に儀式を憲法で明記し、内閣の助言承認を憲法上の要件としているのです。
高度政治判断・・閣議決定まで経ている段階で、この決定に疑義を唱えて記者会見で発言する神経?が異常です。
一見皇室内の宗教儀式費用をを国民に負担させることに苦言を呈するようでいて、皇室が国事行為に口出ししたが、無視された不満を記者会見で公言したような印象です。
そもそも皇室の重要な人物が、高度な政治判断事項に口出していたことを自ら公開したことが驚きです。

社会変化=価値観・ルール変化1

社会の仕組みが変われば文化も変わります。
旧文化=価値観に染まったあるいは旧支配層から籠絡された清盛の息子重盛が清盛の新機軸に反発したものの夭逝した結果、旧支配層は内部浸透を諦めてカウンター勢力の源氏を盛り立てて再興させ平家打倒に成功しました。
源氏が勝って見ると旧勢力の期待した旧体制への復帰にならず却って武士の時代への流れが強まり、鎌倉幕府というはっきりした別組織まで出来上がってしまいました。
当時朝廷直属国軍皆無の時代でしたから、平家打倒には武士や僧兵の力が必須であったのですから、武士団や僧兵を朝廷の味方につける必要がありました。
後からかんがえると各地武士団の平家に対する不満は、武士代表であるべき平家一族が、貴族化・公達化してしまった・地下人の期待にそう行動をしなくなったことが反平家勢力盛り返しの基本であったと言われ、旧支配層から見れば平家一族の振る舞いが旧支配層のしきたり・文化を破り新秩序への移行をはらんでいることに対する危機感を基礎にして反平家機運を盛りたてていたのですから反平家の理由が相反していたことになります。
実力組織の一翼を担う僧兵は寺社権益代表ですから旧体制・公卿権益もさらに古層に位置する・・叡山の僧兵撃退に清盛の父忠盛が活躍して後白河院の覚えめでたくなっていく経緯があるように・・ものです。
宗教組織は、世俗の争いから一歩引いている・・直接当事者にならない関係で・・南都焼討や信長の叡山焼き討ちなどもあり、戦国末期には実力組織は完全消滅しましたが・・源平の争乱〜明治維新〜対米敗戦を経た今でも一定の教団を維持しています。
旧政治打倒に成功した場合の政権運営の特徴ですが、一般的には急進的改革を進めるの無理があるので一般的に新旧妥協政策が政権樹立後の運営方法になりますがせっかく革命的動乱に参加したものにとっては、これでは裏切り行為と思い不満です。
平家も「薩摩守忠度都落ち」で知られるように、旧支配層の文化秩序にも参加して和歌を詠み、旧文化に迎合しながらも、一歩一歩武士の地位向上に努力していたと見るべきでしょう。
政治というものは「言い分が100%通るものでないのが原則です」から、武士と貴族層は荘園支配の実利でずっと対立していたのですが、(この対立は実力でとったもの勝ち・中央の裁定ができなくなった戦国時代に入るまで続きます)対貴族の紛争裁定に不満な人はいつもいます。
不満な方・負けた方は貴族寄りだと不満を持つし、貴族の方も負けた時には武士に有利な裁定が多くなったという不満を持ちます。
これが武士層から見れば貴族におもねて貴族化した生活態度は鼻持ちならないとなるし、貴族からすれば「地下人の分際でけしからん」となるのでしょう。
特に八条院領が急速に広がった平安末期では、清盛でさえも後白河法皇の権勢には正面から歯向いにくかったので八条院関連では、武士層の主張が通り難くなっていた不満が蓄積していた可能性があります。
八条院に関するウイキペデイアの本日現在の記述です。

暲子内親王(しょうし/あきこないしんのう、保延3年4月8日(1137年4月29日) – 建暦元年6月26日(1211年8月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、八条院(はちじょういん)と号した[1]
・・・彼女自身には特別な政治力は無かったとする説もある[4]。その後も異母兄である後白河法皇の院政を影から支えており、平清盛でさえも彼女の動向を無視することは出来なかった。
八条院の政治閨閥?関係は以下の通りです。

後白河院の異腹の妹・八条院翮子(あきこ)内親王は、美福門院を母として鳥羽天皇の第五皇女として生まれた。彼女は夭折した近衛天皇の後継女帝にとも考えられたほど鳥羽法皇から寵愛され、両親亡き後は二人が残した広大な荘園と近臣の大半を相続し、時の政権から一定の距離を置きながらも、摂関家・源氏・平氏の何れもが無視できない独自の存在感を発揮した。

八条院の経済力は「八条院」に関するウイキペデイアによると以下の通りで、平安時代どころか、後醍醐天皇〜南北朝時代までの政治活動の屋台骨となっていたことがわかります。
政治といっても経済基盤がないと何も出来ません。
上記引用の続きです

・・所領は八条院→春華門院昇子内親王→順徳天皇→後高倉院→安嘉門院→亀山院→後宇多院→昭慶門院憙子内親王→後醍醐天皇に伝わり大覚寺統の主要な経済基盤となった。

源平合戦は革命直後で言えば、革命精神そのままの実現を求めて不満を持つ勢力と反革命・王党派の合体した革命政権打倒運動であり、今で言えば、左右両極支持による現政権打倒運動であったことになります。
新政権打倒に成功して具体的政治に踏み出すと元々の方向性が違うので、文字通り血を血で洗う抗争となる(クロムウエル独裁やジャコバン恐怖政治〜ロシア革命後の抗争など)のが普通です。
日本では新政権発足後の血なまぐさい抗争は起きませんが、それでも民主党政権は方向性の違う集団であったことが(野合と言われ)政権の寿命を縮めました。
朝廷は平家打倒を画策したものの鎌倉府成立により、朝廷権威は逆に低下しましたが、文化による影響力行使・・内部籠絡・・貴族社会価値観浸透を試みたのが、(平家を公達化して骨抜きにしたように)三代実朝の文化的籠絡・取り込みであり、これを拒絶したのが尼将軍政子の(我が子を殺してでもせっかく獲得した武家政権を守ろうとした)英断でしょう。
実朝暗殺は1219年ですから、鎌倉幕府成立後わずか20年あまりのことです。
内部浸透戦略に失敗した朝廷側は、そのわずか2年後の1221年外部から反鎌倉不平武士団を組織して「承久の変」を起こしますが、これは清盛政権を内部から切り崩す重盛籠絡作戦失敗後のカウンター勢力を煽る焼き直しだったことになります。
承久の変(1221年)では、カウンター勢力の棟梁(スター)がいないので二度目の反革命が失敗し、蒙古襲来後の三度目の正直では、(蒙古襲来で活躍した武士の広範な不満を背景にしていた結果騒乱が大きくなり)再び源氏の貴種足利氏担ぎ出しに成功したので、建武の新政となりましたが、政権が始まってみると不満武士に応えることができず、時代錯誤性・貴族有利裁定(広大な八条院領はなお存続していて後醍醐天皇の財政基盤になっていたなど)が命とりで、結局短期間で崩壊しました。
ちなみに「観応の擾乱」の主役・直義の政治も、どちらかというと武士に不利な裁定が多かった(教養が邪魔して?思想が古かったようです)ので短命に終わりました。
応仁の乱以降足利将軍家自体衰微すると、公卿経営荘園の管理料納付争いなど裁く機関すらなくなり、足腰になる公卿の収入源が途絶えると天皇家の収入もなくなります。

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