オーナーと管理者の分配1

今は管理組合とマンションオーナーとは経営が別組織ですが、これがゆくゆく、固定資産税や各種負担軽減化その他の総合管理業になって利益だけオーナーに送金するようになるとこの水増し・・コスト管理のごまかしがないかのチェックが重要になってきます。
班田収受法が戸籍も登記制度(測量の前提たる度量衡もはっきりしない?)もない時代にどうやって実施できたかの疑問を書きましたが、電話も郵便制度もない時代に遠隔地の収入管理を委ねた場合、どのようにその収益を貢納させられるかのインフラの問題です。
資本と経営の分離・株式会社組織になると帳簿管理が重要で、・・商法では昔から商人には帳簿作成義務が明記されていました。

商法(明治三十二年法律第四十八号)

第五章 商業帳簿
第十九条 商人の会計は、一般に公正妥当と認められる会計の慣行に従うものとする。
2 商人は、その営業のために使用する財産について、法務省令で定めるところにより、適時に、正確な商業帳簿(会計帳簿及び貸借対照表をいう。以下この条において同じ。)を作成しなければならない。
3 商人は、帳簿閉鎖の時から十年間、その商業帳簿及びその営業に関する重要な資料を保存しなければならない。

商法は累次改正されていますが、上記条文は私が弁護士になった昭和40年代から変わっていないと思われます。
そして商人のうちでも会社になるともっと厳格な番頭に当たると理締まり役の職務権限が整備され、その裏付けとしての帳簿整備義務が課されます。
15年ほど前まで商法600条台から会社設立から株式発行株主と運営担当の取締役それを監督する取締役会・・それがイエスマンばかりになると監査役の権限強化、さらにこれもイエスマン中心になると、独立監査法人制度・・独立性のある社外取り締まり役の要請など、屋上屋を重ねる繰り返しです。
取締役会や帳簿整備義務など記載され、その部分を会社法と講学上言われていましたが会社法(平成十七年法律第八十六号)という独立法ができてその部分が商法から削除されました。
商法から独立した新会社法は、1000条近くもある大きな法律ですが、それほど資本家と資本を預かる運営部門との関係が複雑精緻になっている・人類永遠のテーマということでしょう。
会社法の歴史を見ると株主個々人にチェック能力ないので監査役の強化〜監査法人等が発達し、さらには社外取締役制度の宣伝・・他方で消費者保護のために金融商品法との規制法が整備されてきたのは、この所産です。
いわば人権尊重と憲法に書いても個々人は弱いので弁護士が必要になったのと似た次元です。
消費者には個人中心の各種利殖投資には、監査法人が代わって法令違反がないかを調べてくれないので、各種消費者被害があとを絶ちませんので、金融商品取引法という一般的法令が充実してきましたが、それでも事件が起きてから法令違反を消費者系弁護団が追求する程度が限界です。
個々人で言えば、如何に能力のある人でも超高齢化すれば最後は誰かに資産管理を委ねるしかなくなります。
従来これを相続人に一任・・相続人家計との渾然運営を事実上黙認していたのですが、個人主義の風潮が高まると、子供が親の資産を自己経費に流用するのは老人虐待となってきたので、複雑になってきました。
親族後見で子供一人で唯一相続人の場合、子供としては親の資産を食いつぶすほどではなく、例えば、数億資産の場合そのうち50万や100万程度子供の家の修繕費あるいは自分の子供の大学入学金などに使ってもいいと思いたくなるのも人情です。
後見人による使い込み〜横領事件が増えているというのは、裁判所による預金残高の定期チェックで発覚することが多いのです。
流用したい時にはあらかじめ裁判所に相談して解決できるので、今ではこの種の使い込みが減っているでしょう。
今後の問題は貢献まで行かないある程度自分で判断できる生涯独身者の高齢化が進む場合の資産管理でしょう。
貯蓄不足で高齢者が路頭に迷うのも困りますが、せっかく老後資金を蓄えていても、これを狙う悪党がはびこるのは困ったものです。
在宅介護など発達すると一人住まい高齢者の家に出入りする他人は多種多様です。
法人決算のように事件があろうとなかろうと、帳簿開示による不正経理がないかを恒常的に事前チェックする仕組みはありません。
消費者被害は帳簿開示だけでは事前チェックが難しいのです。
リスクの大きい金融商品・利殖系被害と違いアパート投資は堅実投資と思われてきたのですが、スルガ銀行問題やレオパレス問題(不良工事の続出)でこれもリスキーなものとなってきました。
いわば荘園管理を他人に委ねているうちに荘園領主(本家)の手取り収入が徐々に蚕食されていくようになったことの再現です。
この種問題・・人任せ分野がなくならない限り避けられない・人類普遍のテーマとも言えますが、現在では法令が細かくなっているので、弁護士相談する程度の能力のある普通の人の場合、これを守っているか否かで一応訴訟解決可能ですが、それでもこの種の消費者被害が後を絶ちません。
身寄りもなく寝たきりで介護を受けている場合、預金等を勝手に払い戻されていることがわかっても、問い詰める気力もないので困ります。

保元〜平治の乱1

保元の乱の戦後処理に戻します。
氏長者の私有地を残すのは、当時の正義にあっているし文字通りしたたかな解決法でした。
保元の乱を仕切った信西は最高の権勢を手にした勢いで、その他の政策でやりすぎ・・周囲の恨みを買って数年で平治の乱の標的になり命を失いましたが、この程度の浅い読みは秀才の読みであってしたたかな人物とは言わないでしょう。
院政が始まって摂関政治自体が有名無実になってきたところで、それまで天皇家の代表決定に藤原氏が介入してきた報復のつもりか?藤原氏一門内の代表を決める内部問題・・氏長者の地位継承にまで後白河が逆介入を始めていたが分かります。
このような策略を企画する人材が北家に限らず幅広く揃っていた・・藤原一門はもともとしたたかな人材の集まりだったと思います。
本来近江朝廷系の藤原氏(素人の想像です)が壬申の乱以降したたかな動きで着々と持統朝に食い込み地歩を築いた経過は見事ですし、仲麻呂の乱以降度重なる一族の反乱等の危機があっても、その都度藤原一門の保険作用・4家並列システムにしたのが強靭にしたのかも?たくみに切り抜けてきたのも見事です。
ところが、兼家以来の北家独占どころか、北家内でもあまりにも道長流の体制が続きすぎて人材供給源が狭くなりすぎた結果、天下の難事(理屈で割り切れない)を裁く器でなくとも摂政関白になれる時代が続いた・・キングメーカー彰子が死亡すると摂関家の人材不足が露呈しました。
この策略家信西が藤原4家のうち何家に属するかをウイキで見ると曽祖父の藤原実範が南家流貞嗣の子孫のようです。
こういう(秀才的策略限定)超一流人材(江戸時代の新井白石ばり?)が、南家の傍流として学問の家柄に生まれたことにより、中級官僚という格式によって昇進の道が閉ざされていたことに対する不満を抱いていたこと・藤原一門内で昇進の範囲が硬直化していたことが藤原氏の弱点になっていたように見えます。
この不満を公言して出家して信西入道になったのですから、大変な鼻息というか野心家です。
この野心の強さが(白石はその点儒学の権化ですから清廉でした)恨みを買い身を滅ぼすのです
信西に関するウイキペデイアからの引用です。

通憲(信西)の家系は曽祖父・藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父の藤原季綱は大学頭であった。ところが、天永3年(1112年)に父・実兼が蔵人所で急死したため、7歳の通憲は縁戚であった高階経敏の養子となる。
・・・
散位となった通憲は、長承2年(1133年)頃から鳥羽上皇の北面に伺候するようになり、当世無双の宏才博覧と称された博識を武器に院殿上人、院判官代とその地位を上昇させていった。その後日向守に任命されるとともに、『法曹類林』の編纂も行っている。
通憲の願いは曽祖父・祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて、学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会の仕組みでは、高階氏の戸籍に入ってしまった通憲は、その時点で実範・季綱の後を継ぐ資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていた。また、実務官僚としてその才智を生かそうにも、院の政務の補佐は勧修寺流藤原氏が独占していた。
これに失望した通憲は、無力感から出家を考えるようになった。通憲の遁世の噂を耳にした藤原頼長は通憲に「その才を以って顕官に居らず、すでに以って遁世せんとす。才、世に余り、世、之を尊ばず。これ、天の我国を亡すなり」と書状を送った(『台記』康治2年8月5日(1143年9月15日)条)。数日後、通憲と頼長は対面して世の不条理を嘆き、通憲は「臣、運の拙きを以って一職を帯せず、すでに以って遁世せんとす。人、定めておもへらく、才の高きを以って、天、之を亡す。いよいよ学を廃す。願わくば殿下、廃することなかれ」と告げ、頼長は「ただ敢えて命を忘れず」と涙を流した(『台記』康治2年8月11日(1143年9月21日)条)。

保元の乱では天皇家〜藤原氏〜源平がそれぞれ分かれて戦っただけではなく、天下の秀才も双方に分かれた戦いでしたが、崇徳上皇側の秀才・頼長も彼の才能を惜しんでいたのが分かります。
以下信西に関するウイキペデイア続きです。

鳥羽上皇は出家を思い止まらせようと康治2年(1143年)に正五位下、翌天養元年(1144年)には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、更に息子・俊憲に文章博士・大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年7月22日(8月22日)に出家して信西と名乗った。
出家をしても信西は俗界から離れる気はなく、「ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ(出家して墨染めの衣に着替えても、それは名ばかりのことで心まで染めるつもりはない)」(『月詣和歌集』)とその心境を歌に詠んでいる。鳥羽法皇の政治顧問だった葉室顕頼が久安4年(1148年)に死去すると、顕頼の子が若年だったことからその地位を奪取することに成功し、『本朝世紀』編纂の下命を受けるなど、その信任を確固なものとしていった。
策士信西のシナリオに従って?保元の乱(保元元年(11567月)になだれ込み、彼の思う通りの戦後処理・身びいきが進んだので、戦後処理に対する不満・恨みが彼に集中します。
新井白石は旗本に取り立てられただけで公式役職皆無・無役のまま事実上の権力を握っていただけで(身内の引き立てや蓄財等私利私欲皆無)したが、信西の場合、後白河天皇に重用されるに連れて、官位も上がっていきこれに連れて財力もつけた外(没取された頼長所領の預所・荘園管理者となるなど)身内の引きたて・私利私欲が目立ちました。
白石は地位を追われただけでしたが、信西の場合野心の強さが文字通り命取りになります。

ホワイト国除外と国内世論1

イギリスではもう一度国民投票しても(米露の選挙介入が予想され)再びEU離脱になるリスクがあり、メイ首相が再度の国民投票に踏み切れず行き詰まりました。(この辺は私個人の憶測です)
実はロシアが対ロシア防衛のためと併せて戦後急台頭した米国覇権に対抗するには欧州の団結しかないという設立目的からして米露共にEU弱体化・分裂を期待しているのは常識の範囲でしょう。
米国は対ソ防衛の点では欧州の結束拡大が望ましいのでNATOに象徴されるように表向き友好関係でしたが、経済面ではドル支配に対抗目的の統一通貨ユーロ創設した結果、ドル一強を突き崩し、対中政策でも・AIIB・一帯一路政策に大挙して加盟するなど、国際力学的にはアメリカ支配を足元で崩す動きが目立ちました。
対ロ防衛だけアメリカに巨額負担させ応分の負担をしないEUに対しアメリカの不満が高まっている点は米国民全般の不満になっていてトランプ氏に限りません。
日本の場合、アメリカが日本を支配下に置くために前代未聞の自主防衛禁止・欧米の植民地支配は現地人に武装させない原則の結果ですから、日本に対しては正面から主張しにくいのですが、欧州の場合ぶおsかを禁止したのではないのに米国に費用負担させてきた図々しいだけのことです。
アメリカも世界支配のために世界各地に基地を保有したい思惑でそうして来たのでしょうが、経済力が落ちてくると大判振る舞いできない・応分負担をして欲しくなって来たという身勝手な部分もあります。
応分の分担と言うものの、一方でインド洋や太平洋の島などで中国が港湾使用権をえると(長期使用権設定?)大騒ぎで、フィリッピンでの米軍基地再開も始めようとしています。
この場合、基地利用料を払ってでも置かせてもらうのでしょう。
トランプ氏になってからはEU弱体化したい意欲が露骨ですので、国民投票になればアメリカも離脱派有利なサイバー攻勢・・選挙介入しない保証がありません。
今回メイ首相後継争いでも(合意なき)離脱すれば米英は特別な国になると言う誘導宣伝が盛んです。
https://www.afpbb.com/articles/-/3236652?page=2

英新首相にジョンソン氏、トランプ氏との「ブロマンス」は続くのか
2019年7月24日 15:4
英保守党の新党首に選ばれたジョンソン氏は、EUを離脱し、米国と緊密な関係を築くことを表明している。反グローバル化を掲げるトランプ氏はこれを全面的に支持している。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47869270X20C19A7MM0000/

EU離脱後にFTA交渉へ 米英首脳が電話会談
英EU離脱 ヨーロッパ
2019/7/27 8:35

英国はEU内にあったために米国に限らず世界中・・日本を含めどこの国とも個別のFTAがありません。
離脱の翌日から日英、米中韓豪印等の個別協定を成立させないとWTOの基本原則しかなく1日も円滑な貿易ができません。
いわば団体交渉の方が有利だからEUに入っていたのが、米中等々との個別交渉になれば内容が不利になるのが普通です。
だからこそ米国は多国間協定を次々と反古にして個別交渉を求めているのです。
要するに離脱後英国の国際立ち位置が有利になるかどうかではなく、米露にとってEU弱体化に効果があるかどうかが介入基準です。
(私の感想では離脱しても成算がない・アメリカは EU参加者を切り崩したいだけでその後は使い捨ての駒になるだけの予想)
英国は対欧州でも米国との特殊関係を盾に実力以上の発言権があったでしょうが、外に出れば裸の英国経済力相応の発言力しか無くなるでしょう。

民族の運営は自分で決める重要性・選挙権をどこの国でも国民に限定している所以ですが、外国人在住者に参政権を認めろという日本野党の主張は、国外の利害国にも決定権を認めろ?という主張の走りでしょう・先見性がある?ようです。
日本の対韓国ホワイト国除外に関するパブリックコメントの結果が発表されていますが、ネット送信者の氏名等特定不要ですから、外国勢力がいくらでも反対意見をネット投稿できる仕組みのようです。
ホームe-Govヘルプパブリックコメント意見提出方法をhttps://www.e-gov.go.jp/help/public_comment/form.html
で見ると画像コピーで一部引用不可能ですので、要点を書きますが、「差し支えなければ意見提出にあたっては住所氏名を記入ください(任意)」との説明です。

朝廷による氏長者決定1(将軍宣下)

氏長者を朝廷が命じる例としては以下に見えます。
綱吉に関するウイキペデイアからです。

官歴

延宝8年(1680年)
5月7日、将軍後継者となり、従二位権大納言。
8月21日、正二位内大臣兼右近衛大将。征夷大将軍・源氏長者宣下。

将軍宣旨に関するウイキペデイア

近世に入ると朝廷の権威が失墜して、代わりに禁中並公家諸法度などによって朝廷にすら支配権を及ぼして「公儀」の体制と「封建王」的な地位を獲得した徳川宗家でさえ、その支配の正統性は天皇による将軍宣下に依存しなければならなかった。
事実、徳川宗家当主が家督相続直後には単に「上様」と呼ばれ、将軍宣下によって初めて清和源氏という権門の長である資格を証明する源氏長者の地位を公認され、同時に国家的授権行為が行われる事によって「公方様」あるいは「将軍様」となりえた事が示している。
そして、実際には「封建王」的存在として朝廷すら支配していた徳川将軍でさえ、将軍宣下と上洛参内の時には天皇を「王」、将軍を「覇者」とする秩序に従っていたのである。
征夷大将軍の辞令(宣旨)の例(徳川家宣)(「月堂見聞集」)
權大納言源朝臣家宣
右中辨兼春宮大進藤原朝臣益光傳宣
權大納言藤原朝臣基勝宣
奉 勅件人宜爲征夷大將軍者
寳永六年四月二日 修理東大寺大佛長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘奉

(訓読文)
権大納言源朝臣家宣(徳川家宣、正二位)
右中弁兼春宮大進藤原朝臣益光(裏松益光、正五位上)伝へ宣(の)り
権大納言藤原朝臣基勝(園基勝、従二位)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
宝永6年(1709年)4月2日 修理東大寺大仏長官主殿頭兼左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、正五位上)奉(うけたまは)る、

吉宗のウイキペデイアには、宣旨をのり伝えた貴族の記録(日記?)が出ています

徳川吉宗 征夷大将軍の辞令(宣旨)(光栄卿記、享保将軍宣下宣旨奉譲)
權大納言源朝臣吉宗
左少辨藤原朝臣賴胤傳宣、權大納言藤原朝臣俊清宣
奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者
享保元年七月十八日
修理東大寺大佛長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘 奉
訓読文)
権大納言源朝臣吉宗(徳川吉宗)
左少弁藤原朝臣頼胤(葉室頼胤、正五位上・蔵人兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣俊清(坊城俊清、従二位)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
享保元年(1716年)7月18日
修理東大寺大仏長官主殿頭左大史小槻宿禰章弘(壬生章弘、従四位下)奉(うけたまは)る、

※同日、内大臣に転任し、右近衛大将を兼ね、源氏長者、淳和奨学両院別当、右馬寮御監、牛車乗車宮中出入許可及び随身の各宣旨を賜う。

ただし、ここでいう源氏長者は、武家の棟梁という意味でもなく源氏(皇族から臣籍降下した・・・武家に限らず嵯峨源氏〇〇源氏という貴族を含めた)全体の代表的名誉職みたいなもので、藤原氏の氏長者・私的総資産継承する実利権とは意味が違います。
・・・源氏長者が伝統的(例外がありますが)に「淳和奨学両院別当、右馬寮御監」に任ぜられてきた役職併記がその意味でしょう。
念のため。

  社会変化→秀才の限界 1

新井白石に関するウイキペデイアの記事からです。

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
引退後
致仕後、白石が幼少の家継の将軍権威を向上すべく改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によってことごとく覆された。また、白石が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にされたり、幕府に献上した著書なども破棄されたりしたという。
江戸城中の御用控の部屋、神田小川町(千代田区)の屋敷も没収され、一旦、深川一色町(江東区福住1-9)の屋敷に移るが、享保2年(1717年)に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲した。渋谷区千駄ヶ谷6-1-1に渋谷区が設置した記念案内板がある。当時は現在のような都会ではなく、一面に麦畑が広がるような土地だったと伝わる。
晩年は不遇の中でも著作活動に勤しんだ。『采覧異言』の終訂(自己添削)が完了した5、6日後の享保10年(1725年)5月19日、死去した。享年69(満68歳没)。墓所は中野区の高徳寺にある。

外様大名や反間部詮房/新井の幕閣内の支持を受けて屁理屈先行社会の限界を根底から覆したのが想定外の野育ちの将軍吉宗の登場だったことになります。
吉宗は儒学を否定したのではありません。
吉宗も当時主流だった朱子学を学んで育っていますので、儒学者も重用されていることが紹介されています。
http://www.ne.jp/asahi/chihiro/love/ooedo/ooedo71.htmlでは以下の通り紹介されています。

同時に林信篤、室鳩巣も吉宗に重用された儒学者でした。
その室鳩巣が、吉宗の教養について「御文盲に御座なされ候」といい、6代家宣の正室天英院の父・近衛基煕も「和歌については尤も無骨なり。わらふべし〃」と酷評しています。
どうやら吉宗は、当時武家社会において教養とされた儒学や和歌については、あまり得意ではなかったようです。
しかし、先に述べたように薬学に明るかったり、また神田駿河台(後に佐久間町に移転)に天文台を作るなど、実用的な学問には非常に興味を示したものでした。
文系ではなく理数系の人であったのでしょう。

私の(思いつき)意見は上記紹介意見と違い、理系か文系かではなく現実主義政治家であったということではないでしょうか?
青木昆陽の献策を受けて馬加村・マクワリ・現在の千葉市幕張でサツマイモの実験農場を作らせて見たり、同じく房総半島で白牛を育成させてチーズを作らせるなど何かと進取の気性というか好奇心が強かったように見えます。
青木昆陽の献策はもともと目安箱に投じられた意見によると言われますが、今風に民主主義思想によるというよりは、自分のしらない意見を知りたかったのではないでしょうか?
天文方自体は渋川春海の研究業績によって、本邦初の国産歴である貞享暦がおこなわれるようになったことが知られているように、貞享年間頃からあるものです。
天文台の設置自体が、単なる移転?であったとしても、相応の出費(今でいう予算)を要することですから、この方面への好奇心や理解があったということでしょう。
個人趣味のように発達していた和算を実務で応用する体制が天文台という国立?機関設置によって活躍の場というか、研究家・レベルの高い人が集い意見交換の場ができたことによってより一層の発展ができたものと思われます。
これによって国立機関の充実によって、天文→もともと発展期にあった我が国発の和算・・数学の発達に寄与したことが後世伊能忠敬がそこに籍を置いて天文方公式職務として日本地図作成・・全国測量して歩けたことなどで分かります。
正確な地図測量には三角法の数学基礎知識が(当時プロの世界では常識?)前提ですが、(実際伊能忠敬は、岬の突端などまでの距離を三角法で測量しています。)それまでの天文学=占星学と違い、科学的に事実を知る・・数学素養が基本です。
伊能忠敬の地図作成申請目的が、子午線の距離をより正確に知るには底辺距離長い方が仰角差正確に計算できるので蝦夷地での測量が必要となったことによると言われています。
最新考古資料発掘は地元好事家の発見によることが多いのですが、そのためには基礎学力の普及が必要です。
25年ほど前に千葉県に国立の歴博ができたことによって、(正式には「独立行政法人〇〇共同研究機構」というようですが、特定大学の研究所ではなく全国研究者に開かれた機構にすることによって、歴史研研究の場が開かれるようになったことがおおきなインフラになっているのと同じでしょう。
16〜7年ほど前に岐阜県山中のプラズマ発生装置?の修習生を連れて行き見学をしたことがありますがそこは歴博同様の〇〇共同研究機構と銘打っていて日本中の研究機関が事前申し込みによって巨大装置を使った実験をできて見学時にもどこかの大学の実験中でした。
このように開放的インフラ整備は長期的には重要な役割を果たすものです。
その後の日本での数学発展(世界的に見て日本の数学水準が高いのはこの時からの基礎(インフラ整備)によると(個人思いつきですが)おもわれます。
私の理解によれば、吉宗は幼児期からの教育主流に従って従来の朱子学者を重用しながらも並行して蘭学その他実学を取り入れて、前政権の白石流儀の隅々まで朱子学に反しないか目を光らせる小うるさい政治をやめたように見えます。

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